2011年12月29日木曜日

NHKテキスト投稿から

今朝も寒い。

最近遅い起床が続いた。昨日から少し早く起きる。スペイン語の放送を聞こうとする。だが、テキストは1月号に…。昨日早速1月号を購入。

身支度を整え、スペイン語放送を聞く。なんとなくテキストの後を見る。「Queridos amigos(親愛なる友へ)」の頁に先日投稿した文が掲載されている。嬉しかった!

この年末年始、思うところがあってブログ投稿をその期間、止そうとした。だが今朝は嬉しさに負けて気持を新たに投稿する。

今年は本当にいろいろなことがあった。今年始めアサちゃんを亡くし、我が人生最大の不幸と思った。ところが日々改まるにつれ、いろいろな人のおかげもあって楽しい毎日を過ごす。有難い!

今年をざっと見渡してみても6月、「ワインの夕べ」で知人からスペイン行きを誘われる。またひょんなきっかけで信奉する人とブログを通して知り合い励ましてもらう。また8月には気落ちしているモノを励ましてくれたフルートの知人とスペインへ…。フルートの先生には4月からフルートのレッスンを再開してもらう。フルートの仲間たちにも励まされる。さらに身近にいる姉妹とその身内。さらにまたスイミングの先生を始めとする皆さん。さらにさらにこれまで行った海外旅行で知り合った人たち。そして遊ぶことばかり考えているモノに付き合ってもらう人たち等。親切にしてもらった。非常感謝!

年末近くになって、再度これまでのことを振り返る。

2,3年前、気づいたことがあった。それは10年毎、新たな行動をしている、と。その10年に来年はあたる。9月、スペインから帰る途中、スペイン語を習おうと決意。これがその10年毎のことだと直感する。

昨年まで、その10年は「アサちゃんが亡くなる…」と不吉な予感をしていた。だが、それは9年目であった。10年毎は、エレクトーン、中国語、フルート、社会人大学入学と主に学ぶ方面のことだった。それに気づいたときそれがいつしかジンクスに思えるようになる。それが来年である。これらほとんどは今でも続いていることばかり。

アサちゃんがいなくなり、来年になるのを楽しみにするようになった。その時スペイン語に行き当たる。私の中の10年目のジンクスはスペイン語。来年が楽しみだ!

こうして年初の不幸はすべて帳消しになり、年末まで楽しいことばかり続く。それは来年にかけても…。

そしてNHKテキストへの掲載である。

NHK『まいにちスペイン語』2012年1月号に掲載された文、記念のためにここに改めて書こう。

「スペイン演奏旅行

8月末から2週間、地元の音大の先生方と合唱団の演奏旅行に入ってスペインへ行ってきました。初めて見る国スペイン。見るもの、聞くものすべて初めてで、サグラダ・ファミリアの横にあるレストランでは彫刻家の外尾悦郎氏に偶然お会いし、同行者一同楽しいひとときを過ごしました。また、サンティアゴでは、聖堂での演奏の模様が地元紙に紹介されるなどということもありました。
それでも残念なことがあります。それは訪れた先の国の言葉を話せないということです。日本に帰国する機内で、『スペイン語を習おう!』と決心。すぐにラジオのスペイン語講座『まいにちスペイン語』10月号を購入し、次の日から学び始めました。NHK語学講座のHPから放送されたラジオ講座が聞け、時代の移り変わりを実感します。いい時代になりました。(広島県 〇〇〇〇さん)」

そのコメントは「サンティアゴの聖堂での演奏はいかがでしたか?ぜひスペインを再訪して、会話も楽しんできてください。(編集部)」とある。

もちろん再度スペインへ行く予定。その時はスペイン語を話せるようになっているだろう。

掲載の記念としてオリジナルグッズが贈られるという。まだ届いていない。それを目にしてスペイン語を学ぶ励みとしよう!このスペイン語、NHKの放送以外にも、来春には修了して3年になる大学に再度通って学ぶ予定。新春になるとその受験手続きが待っている。

夕方から市内のホテルにバイト時代の人と投宿し、今年最後の遊び収めをする。食べながら、飲みながら楽しいひと時を過ごしたい!そして来年も元気で楽しく毎日を過ごせるよう期待して…。

年末年始、しばらくブログは休みます!よいお年をお迎えください!

ブログを書き終えるとメールが入る。東京に住む姪からである。今からネパールに行くという。すぐにTELすると飛行機に乗る直前だった。初めて姪を海外に連れ出したのは伯母である私。大学時代、オーストラリアへ行くという姪を中国に変更させて連れて行った。その時中国語を話す私をみて中国に関心を抱かせるきっかけをつくる。その後、姪は大学を卒業し、学校へ勤務した。それにもかかわらず、そこをやめて東京の中国語の専門学校に3年通う。それにも満足せず天津の師範大学に留学する。その間、アサちゃんは中国にいる孫にエアメールを送り続ける。時には国際電話をかけたりしたこともあった。そのすべての手紙をアサちゃんは保存していた。

幸い姪は得意の中国語を生かした仕事についている。

余計なことを書いてしまった。ネパールはまだ行ったことがない。発展した国より、途上国のほうが旅は楽しい!いろんな国を見てきていつもそう思う。まだまだ姪は若い!いろんな国へ出かけて行き、そしていろんな人に出会って欲しい!

〇〇ちゃんへ
帰国後の話、楽しみにしています!そしてまた一緒に海外に行こう!旅費は任せて…!

2011年12月27日火曜日

泳ぎおさめ

今朝も寒い朝であった。2日前から朝4時半ごろエアコンのタイマーをして寝ている。アサちゃんがいた頃はこの季節になると24時間エアコンを稼動していた。その癖が抜けそうにない。

この寒さ、市内の北部に住む姉の家は大変らしい。朝、電話してくるなり「雪はどう、元気?」という。雪は降ってないと話すと、姉の住むところは粉雪が降り続き、積もりそうだという。昨日も市内中心部に出ると雪はなく、着込んで出たので恥ずかしかったと笑って話す。

確かにこの年末は例年より寒い気がする。それでも今年が最後となるプールに出かける。幸い寒いながらも日が差している。プールの更衣室に入ると泳ぎ終えた人が2人いた。話をすると、寒いのでかなり勇気を出して泳ぎに来るという。

その気持、よくわかる。今朝も泳ぎにいくかどうかためらった。それでもプールに入ると気持がいい。

今日も1キロ泳ぐ。子供たちも休みに入ったのか何人か泳いでいる。泳いで方向転換する途中、隣のコースで歩いている男の人から「こんにちは!」と声をかけられる。泳ぎながら「誰?」と考える。考えても思いつかない。しばらくするともう一人の男性から何往復したか聞かれる。20往復と答える。

その人はさらに「上手に泳ぐんじゃけえ、ここで歩きんさい」という。「歩いたことがない」と話すと「歩いてみんさいや」という。それで「足が到(た)うかね」と聞く。「プールの底を上げたけえ、足はたう」とその人はいう。そこまでいわれるならと思い、初めてプールで歩いてみる。

ところがプールの中ではなかなか思うように足が進まない。するとその人は「若いんじゃけえ、さっさと歩きんさい」と促す。「若くはないよ」、「泳ぐより難しいよ」と話すとそんなことはないという。結局2往復プールの中を歩いて、今日は終えた。

「若いんじゃけん」云々は着ている水着のせいかもしれない。水着はFILAで派手に見えるらしい。以前水泳の先生もその水着をみて「なんと派手な水着じゃねえ」といわれたこともあった。

先週はプールで歩く人から指図され、いい感じがしなかった。今日の2人は先週の人と全く違って親切だ。

それにしても…と思う。歩く人は泳ぐものの観察をしているのかと。泳ぐものは顔を水に浸けて泳ぐ。ところが歩く人はプール全体を見渡しながら歩くことが可能だ。そのため暇暇に泳ぐものの動きを観察しているのだろうか。

今日は1キロ泳ぎ、水の中を100メートル歩いた。歩いたからかプールから出た後、いつもと比べて体が寒くない。その点はよかった。

今年はじめ、アサちゃんの介護の疲れか、相当体重が減少していた。もうこのままかと思っていた。ところが、最近よく寝る人間がさらによく寝る。そのためかやっと高校時代の体重にまで回復した。これをキープして来年も元気に過ごそう。ともあれ今日の泳ぎで今年も暮れる。新春は5日から始まる。泳ぎ始めはさてさて…。

2011年12月26日月曜日

『道づれは好奇心』

夕飯後、BSの「長江 天と地の大紀行 第一回チベット大峡谷と理想郷」を看る。それを看ていて「やっぱり中国が好きなんだ」と気づかされる。というか中国の大地や民族が好きなのかも知れない。旅心に誘われる。

旅といえば先日、お礼のメールをしてただ一人返事が来なかった人からも夕方返事をもらう。全員、携帯番号にショートメールで送信した。そのうち何人かは携帯のメールアドレスを知らせてもらう。今日の人もそうだった。その人からのメールには「人の気持を大切にされる方ですね」とある。メールをもらったモノよりもそう書いて送ってくれたヒトのほうがよほどそうである。ありがとう!

旅といえばなんといっても「好奇心」。それにふさわしい本があった。『道づれは好奇心』(澤地久枝 講談社、2002年)である。

以前、筆者の澤地が琉球大学やアメリカの大学に通う姿をTVでみたことがあった。そのとき私は会社に勤めていた。若者に混じって楽しそうに学ぶ筆者のその姿を看たとき、とても感動し、「いつか私も…」と思ったことがあった。そのときのことなどがこの本に書いてある。筆者が大学で学んだのは1999年頃。4年後、私のその夢は叶う。今さらながら何事も「思いを抱き続けばそれは実現する」を実感する。

なんといってもこの人は素晴らしい!こういう人の本を読むと「今から…」と思うし、勇気をもらう。今ブログに投稿しながら改めて読んでいるともうこれは我がバイブルとしか思えない。よいも悪いも「好奇心」はある。これからも筆者のように「好奇心」を持ち続けよう!

筆者は本のタイトルどおり、「好奇心」と言うキーワードを頻繁に使用している。そのキーワード、全部を拾い集めた。すべてをブログに投稿するには長くなるので一部は割愛した。以下がその引用である。

「…行けないはずの場所へ行ったということにわたしは興奮した。たっぷりと満たされるものがあった。なにが満たされたのか?それはわたしの好奇心。封じ込められていたものがこのいっときに解放され、喜んでとびはねているようだった。わたしは子供のときから好奇心の強い人間だった。…やりたいことはかならずやるという厄介な習性。その中心に位置しているのが『好奇心さま』なのだ。これは生まれつきのものか、自分で育てたものかわからない。物心ついたらそうだった。」(11p)

「もしもなんに対しても興味をもてなくなったら、時間があり、経済にゆとりがあっても、わたしはひょいと気軽に旅に出るだろうか。カタクリの開花を見たいという思いだけで出てゆく一人旅。旅のさきにはかならず未知の世界が待っている。そういうわたしの道連れは、好奇心。貪欲な好奇心がわたしの心を揺さぶり、ひょいと身軽に腰をあげさせる。七十歳をこえればそれだけの衰えは確実にやってきている。それでも、好奇心を道づれに遠くまで歩いてきた。好奇心によって生かされた今日までの人生。わたしが特別な人間であるわけがない。」(17p)

「『教えることはしない』人生をえらんだが、いまではなにをしても許される境遇に身をおき、すべては自分でえらぶのだ。伝えたいことがないわけではない。初めての経験への好奇心と冒険心がわたしを揺り動かした。という次第で一九九九年度前期の半年、『非常勤講師』として週に一日、九十分の講座をもつことになった。」(20p)

「いつも好奇心を道づれの人生を歩いてきて、『沖縄』の原風景というべきものが心にある。それはなんなのか。じっくり自分と向き合うことになった。…好奇心のかたまりのわたしが記憶する事柄は、まことに自己中心身勝手なものだった思う。」(39p)

「これが現実なのだと思った。『だからダメだ』と思うことはするまいと考えた。この状態から前向きの知的好奇心が生まれることに希望をもとうと。…この日をさかいに、わたしの文章はすこしは変化したはずである。通じない日本語は、さしあたって端を書けるときの障害になる。」(101-102p)

「学ぶことと伝えることとは、わたしにとっては切り離せない一つのものだった。自信をもって伝えるためには十分に学び直す必要があった。スタンフォードの一学期間と、琉球大学の二年間、わたしは学ぶ生活に徹したことになる。それを実現できたのは、自分がそんなにものを知らないかという自覚と、未知のことにほんのすこしでも近づきたいという意欲、いや好奇心のたまものだった。学生たちがわたしの好奇心に感染してくれるといいのだけれど。『知りたい』『知ろう』という気持ちがなくては、積極的な行動は生まれない。この気持の底にひそんでいるのが好奇心なのだ。関心と言ってもいいし、知識欲と言うこともできる。わたしの人生では、『好奇心』とよぶのがいちばん適切であるようだ。」(104-105p)

「どんな心の持ち方で生きるか、きまりもない禁止の法律などもない。一人ひとりがえらぶことだ。好奇心人間のわたしの人生は、与えられた条件をいつもはみだし、生きたいように存分に生きてきた。その傾向はまだ失われていない。わたしが『外国人以下の日本人』と自称する理由は、数年前まで金閣寺、銀閣寺、龍安寺の石庭などなど、日本人なら当然一度は訪ねている場所へ一度も行っていないせいだった。『いつか、好きな異性と二人きりで』というかわいい夢をかなえられなかったせいもある。」(114p)

「この国の政治の動きに対して、たとえ孤立し、罵詈讒謗を浴びせられても、機会をみつけて変わらぬ志を述べる生きかたをかえないでいようと心を決めた。…そういう仕打ちが大手をふってまかり通りそうな世相が近づこうとしている。好奇心人間のわたしといえども、そんな不幸な世の中など見たくはない。…心は剛直に、生き方は柔軟に(できれば優雅にというのは高望みだが)生きてゆく。そのときも、わたしの有力な道づれは貪欲この上ないわが『好奇心』ということになろう。」(115-117p)

「だれも認めてくれなくてもいい。わたしはいつも、精いっぱい生きてきた。これがわたしの人生といえるほどの成果などなくても、一所懸命に生きた自分を認めてやろう。後悔はない。…ここまで生き、仕事もつづけてきて、なしうることのささやかさを思い知り、それがふつうの人生なのだとわたしは静かに肯定する。大きなことなどできなくていい、できない方が人間的だと思う。他人に強いる気はないけれど、わたしは自足できる答えに達した。」(172-173p)

「若い人にまじって大学で聴講をつづけていて、昨日よりは今日と変わってゆこうとしている自分に気づく。ささやかでありながら内容豊かな人生を生きるとはどういうことか、答えを今も求めつづけ、命を実感するわたしがいる。」(173-174p)

「『もうすぐ七十歳になるのよ』と言うべきだっただろうか。メディテーションはいざ知らず、好奇心と意志を支柱として、わたしは小さな旗をかかげて生きてゆく。『矩』は結局のところ、わたしの判断。それを踰えそうだ。ヴィザなしでアルジェリア国境の無人地帯へ三歩入る冒険をやってのけたように。」(190p)

「未知の世界に心躍らせる好奇心を押しつぶし、人とはチョッピリ違った行為をする冒険心をさげすみ、ひたすら老いることを嫌い、『ぼけ』をおそれる日々を送っていたら、人は老い、ぼけることをまぬがれない。」(193p)

「『好奇心がつよい』などと言わない方がいいと思う。『知りたい』」欲求よりも、こわいものから逃げようという本能の力がはるかにつよいのだから――。ヤモリはその一例で、そのほかにもきっとある。」(243p)

「好奇心が道づれの人生の恩沢を書いたが、わたしは節度と志のブレーキは保ってきたと思っている。そういう志を欠き、その上お金がらみになったら、パパラッチの同族になろう。パパラッチになるのは好奇心人間ではなく、『かくされたもの』を知りたいという人間の俗な好奇心につけいり、金銭の代償(成功報酬?)として他人のプライヴァシーをあばくことを仕事とする人たちだ。」(244-245p)

「感動はあとに自問自答をひき起こす。感動が呼びおこした『わたしも…』という新鮮な意欲。それがわたしのささえ。『好奇心』を道づれに、もうすこし、精一杯生きてゆこう。」(249p)

(あとがきから)「『道づれは好奇心』とタイトルをつけたこの本のあと、プランはあるが、当分書く気はない。わたしは一つの時代に区切りの線を引き、のこされた時代へのあたらしい出発を用意することになりそう。区切りのためにかつての旅や仕事の資料をまとめていて、わたしは“好奇心”というパートナーとともに生きてきたと思った。なんとも貪欲でこわいもの知らずの生き方をしてきた。『遠っ走りのチャー坊』だった幼児の日から今日まで、わたしが好奇心を養い育てたのか、生来の好奇心がわたしの人生を決めたのか、区別はつかない。よき人との出会いに恵まれて、倖せな人生であることの一端は、この本の挿画にのぞいている。すべての思いに感謝のおもいでいっぱいです。」(252p)

2011年12月25日日曜日

中国映画から

この1週間、毎朝起きるのが遅い。このままこの起床時間に落ち着くのかと思うと恐ろしい気がする。

遅い朝食をとろうとすると短大時代の同級生からTELがかかる。許可を得て食べながら話す。行儀が悪いことこの上ない。申し訳ない。

お昼からは市の映像ライブラリーへ中国映画を見に行く。ここは10年振りか20年ぶりに出かける。日中友好協会や日中親善協会で中国語を学んでいた頃、中国映画に関心があった。そしてその情報も耳にしていた。

今では中国映画の情報はほとんどはいってこない。ところが先日、市の公共施設で中国映画特集のチラシを手にする。その上映は20日から今日までの6日間。映画は昨日のブログに書いたように余り好きでない。

それでも寒い中、思い切って街中にある映像ライブラリーに行った。今日の映画は「図雅的婚事」(トゥヤーの結婚)。

2006年の映画でベルリン国際映画祭金熊賞受賞作品とか。舞台は内モンゴルだろう。広い草原と羊の群が画面に溢れる。見ていて頭が何か錯覚を起こしそうになる。余りにも自分の置かれている状況と違いすぎるからである。いい映画だった!

内モンゴルはずいぶん前のGWに行ったことがある。パオの中で目を醒ましたとき、外は雪が降っていた。1日で夏も冬もやってくる厳しい土地。一番の思い出は星が綺麗だったことと、食事の不味さ。いろんな国へ行ったけど、この内モンゴルと中国桂林の食事の不味さは他と比べようがない。「何でも食べてみよう!」の私でもこの不味さには閉口する。そのため、外モンゴル(モンゴル共和国)は行きたいけど、ちょっと考えてしまう。

旅の話題ついでに、先日から海外脱出組みがお正月を海外で…と繰り出している。もう少し早く気持に余裕ができていたなら、それも…と思ったりする。働いていた頃は、盆も正月もGWも海外に繰り出していた。父が亡くなってからはアサちゃんを一人にさせるのは…と思い、お正月は海外に行かないようにした。落ち着いたら来年からそれも視野に入れよう。

それでも29日には市内の某高層ホテルにバイト時代の女性と宿泊し、今年の遊びおさめをする予定。

やっぱり家でじっとするのは似合わない。映画の話題から気持が旅行にそれてしまった。ぐっと元気が沸いてくる。

今年夏、9年ぶりの海外旅行をした。来年からは以前の感覚を取り戻し、もっと、もっと羽ばたきたい!今はそれがささやかな来年に向けての希望である。

2011年12月24日土曜日

趣味etc.

今日はクリスマス・イヴ。クリスマスといえば昨夜、知人が出演するメサイアを聴きに行く予定だった。ところが寒さに負けて行くのを断念。本当に申し訳ない!

今朝は、年内、後2日しか開館しない図書館に出かける。新聞を読んでいると、趣味のアンケート結果が出ていた。読書、旅行、スポーツをする、音楽を聴く、パソコン、映画や劇の観賞、写真と続いて音楽を演奏するは12位となっている。上位に入るもののうち、映画や劇の観賞はほとんど当てはまらない。特に、映画は余り好きでない。

それ以外は当てはまる気がする。だがそれも趣味といえるかどうか疑わしい。「読書」は最近は時によく読む。ブログにすべて公開していない。だけど、相当読んでいると思う。「スポーツをする」は水泳のみ。「音楽を聴く」は一日中FMやCD、YOU TUBEで音を流している。「パソコン」はブログ投稿などでもう必需品。これも趣味といえるのだろうか。「写真」と「旅行」は対になっている気がする。「音楽を演奏する」はフルートである。

毎日関わるモノは読書、音楽を聴く、パソコン、音楽を演奏するが当てはまる。

この音楽。今日広島交響楽団から「重要なお知らせ」と封筒に印刷された書類が送られて来た。来年度からの会員制度についてのお知らせとお願いである。

現在、年10回定期演奏会が開催されている。その個人正会員になっている。それが来年度から定演に加えて「平和の夕べコンサート」も同料金で聴けるという。さらにディスカバリー、名曲コンサートの会員もそれぞれ募っている。

ともあれ、暇人としては開催される演奏会はなるべく聴きに行こうと思う。広島以外にも倉敷からもたびたび案内が来る。以前出かけていた名残だろう。遠くは名古屋まで行ったこともあった…。

さらに趣味といえば夕食後、先日知りあった人からTELがかかる。フルートの話をすると音楽の趣味がないと話される。これは好き嫌いの問題。他に趣味があればどういうこともない気がする。泳げなかった頃、スポーツは苦手と思っていたように…。

また、その人に先日ブログをしていると話した。電話で早速、ブログを見たとも言われた。何の取り得もないブログだけど、読んでもらうと少しは励みになる。ありがとう!

またブログに投稿して悪意のある人がいるのでは…と心配してくださる。大丈夫!と話す。これまで、そういうことは全くない。メールなども変なモノは来たことがない。ご安心を!

こうしてブログに投稿して今日1日も無事終わる…。

2011年12月23日金曜日

ドラッグストア開店

年の瀬も押し詰まった今朝、我が家のとおりを隔てた斜め前にドラッグストアが開店した。人通りは多い。だが、その前の道半分は交通規制をして道路の修理をしている。

ドラッグストアといえば、今年始めまで買い物に行く時間も儘ならなかった。アサちゃんの尿取りパッドやとろみをつけるトロメイクはネットで購入していたことを思い出す。この2つは毎日の生活に欠かせず、カートンで購入していた。アサちゃんがいなくなったときそれらは大量に残ってしまった。幸い、施設入所の人に全部持って帰ってもらったこともある。

今では逆にドラッグストアに行くほどの用がない。大概はスーパーで間に合う。そのスーパー内の薬局は今月末で閉店するという。

昼過ぎ、シクラメンを買って帰る途中、近所の人に出くわす。買っている品がちがう、とその人は笑っていう。

夕方、宅急便が届く。その人もドラッグストアの開店の話をする。

隣の従妹は電話で「もう行った?」と私に聞く。

すべての買い物はJRの線路を渡らないと手に入らない。個人的にはドラッグストアよりも他の店舗のほうが…と思ったりする。開店しても当分買いに行くことはなさそう…。

2011年12月22日木曜日

琵琶を聴く

今日も寒い朝であった。

お昼前、広島経済大学に出かける。といっても初めて行く大学だ。大学近くにあるJRの駅も初めて降りる。大学までの無料のバスに乗ろうとするが、その停留所がわからない。駅前で学生らしき若者に聞くと大体のところを教えてくれた。近くまで歩いてさらに人に尋ねると、やっとバスが見えた。

バスは大学のある山のほうに向かって動き出す。すぐに大学に着いた。到着しても目指す講演会場はさっぱりわからない。

建物内に入るとどこにエレベーターがあるのかわからない。それでも目に付いたエレベータに乗ろうとするとそれは違うという。さらに奥に行ったところのエレベータで会場に着いた。

すぐに講演は始まった。半円形のひな壇形式の会場だ。学生300人に混じって社会人が話を聞く。指定された席はどう見ても年齢は高い。我が年齢よりもずいぶん高く見える。ふと思った。

若い頃、1歳上の人でも話が合わないと感じたことがあった。それなのに今ではどんなところへも平気で出かけ、若者に混じって学んだりする。当の若い学生はこの状況をどう感じているのだろうと。そう思うと申し訳ない気がしてくる。

ましてこの大学は最寄のJRの駅と大学までをバス会社のバスを何台か貸切って3,4分間隔で一日中ピストン輸送している。思わずこの費用は…と思ってしまった。

大学内も今日見た限りカフェテリアなどもすばらしい。これもすべて学生確保の手段なのだろうかと穿った見方をしてしまう。

余計なことを書いてしまった。今日聞いた話、というか語りは『厳島を愛した平清盛と平家一門の運命』と題した琵琶の弾き語りとその解説。弾き語り奏者は荒尾努氏。まだ30過ぎと若い。本職は某重工業に勤務する人とか。休暇を利用してメディアや講演に出ていると聞く。

来春NHKの大河ドラマが平清盛らしく、広島へも来年また演奏に来ると話していた。

琵琶法師というだけあってお坊さんの恰好で琵琶を弾く。なんとさびしげな音よと思いながら聞く。もらったプリントを見ながら何を語っているのか聞く。内容は始めは「祇園精舎」。これはよく知っている。さらに厳島神社を作った物語などの「大塔建立」。それに「那須与一」。これはなぜ平家と琵琶がつながっているのかや、宮島としゃもじとの関係等の話を聞く。

そういえば宮島へ初詣に行くとかならずしゃもじを買って帰る。そして高校野球の広島代表は必ずしゃもじを持って応援する。「敵をめし(飯と召し取るがかけてある)とる」は知っていた。

それを今日詳しく聞く。聞いた話を書くよりネットで検索すると詳細なHPがあった。それを引用する。(http://park1.wakwak.com/~vine/mati/tokusyuu/syakusi.htmlより引用)

「宮島の杓文字は、江戸時代(寛政年間1800年頃)厳島の光明院というお寺に誓真というお坊さんがいて、宮島の貧しい人々をみて宮島の木で弁天様の琵琶にちなんで杓文字を作ってお土産にしようと島の人々に教え広まっていきました。また、ほかの杓文字よりも使い勝手がよく、寛政の改革では、宮島の杓文字は高級品として指定を受け贅沢とされていました。滝沢馬琴の日記には、『宮島の杓文字は使い勝手がよくってお櫃のごはんが一粒残らずきれいにとれる』と書いています。
日清・日露戦争の頃には、広島の宇品港から大陸に出兵し、また帰ってきたのですが、『ご飯』」を『めし』ということから『敵をメシトル』にかけて、縁起をかつぎ、無事に帰ってくればそれを持って故郷へ帰りました。そうして、全国へ広まっていきました…」

最後に、「先帝後入水」。それによると『平家物語』は平家一門の魂を慰めるためにその物語はできたという。そしてその物語を通してその効果を3点話された。
1 日本語が美しい
2 歴史、文化がよくわかる
3 想像力を豊かにしてくれる

来春大河ドラマが放映されるという。学生たちに『平家物語』を読むようにとも…。

今回の公開講座は「特別客員教授による特別講義」と銘打ってあるだけあって、その内容はいずれも素晴らしい。特に5回目の話に関心がある。せいぜい期待して年明けを待つことにしよう!

2011年12月21日水曜日

ショートメールから

今日も寒い朝であった。この気温、平年よりも低いとか。

午前中、昨夜知人から教えてもらった人たちにショートメールを送信する。スペインへ行った知人の合唱団の人たちへのお礼のメールである。知人の所属する合唱団のうち、10数名が旅行に参加している。そのほとんどの人から写真やCD、菓子などをいただく。携帯電話番号に1人づつショートメールを送る。

送信しながらも早い人からはすぐに返信が来る。ほとんどの人からすぐに返事をもらう。そのうち同じ町に住む人からは何度もメールをもらう。その最後には「これでメル友だね。〇〇」と猫好きの人らしい絵文字が入ったメールが届く。こちらも「ありがとう。うれしいです。」と送信する。

また修了した大学の近くに住む人からは家に立ち寄るようにとのメールを受け取る。来年4月から再度通う予定と連絡する。

メールの返事が来ない人は、知人によると体調を崩されているとか。早く回復されるといいのだが…。その人はスペインで「悩み」のことを話されていた。悩みがあるかと聞かれ、「全く悩みがない!」と答えたことを思い出す。その時、そういう私に対してうらやましがられたこともあった。

「悩みがない!」は今でもそうである。アサちゃんをなくした今年、それ以上の不幸はないと思っている。それも少しは落ち着き、今は「悩む暇さえない」のが本音である。悩む暇があればそれに浸らず動き回ると思う。きっとそうする。

お礼のメールをし終えると幼馴染と約束どおり、隣町まで回転寿司を食べに行く。お昼なので店内は客で一杯。それも終えると幼馴染の家に上がりこむ。そこで夕方まで遊ぶ。

年の瀬も押し詰まった感がある。明日はまだ行ったことがない大学へ講義を聴きに出かける予定。この大学は来月一杯毎週出かける。そのうち1回は有名な人が来広される。

こうして動き回ることが今の私の「元気のもと」だと思っている。来年もそうする。今年よりも…。きっと…。

2011年12月20日火曜日

万歩計&ヘルスメーター

今年最後のフルートのレッスンに行く。

先日、先生から郵送してもらった楽譜でレッスンする。元の楽譜より1度音をあげているとか。レッスン曲は短調とばかり思っていた。聞くところによると短調と長調が入り混じっているらしい。いずれにせよきれいな曲である。

今日はフルートの仲間に誕生日が同じ人がいる。1人は先生でもう1人は知人だ。この2人、何歳になっても互いに互いを忘れないだろう。

先生と話していると旦那さんから万歩計をプレゼントされたという。もちろん先生は太ってはいない。万歩計といってもこれまで見たことがあるモノとは違っていた。パソコンに万歩計のデータがすぐ入るとか。

いいモノが出回っていると改めて知る。体重云々については全く気にしたことがない。ほぼ同じ体重で何十年も生きている。

飽食の時代だ。メタボが気になる人が多いらしい。先生の旦那さんも少し注意をしただけで半年位で自然に数キロ痩せられたとか。反対にいくら食べても太らない人もいる。フルートの発表会で伴奏してもらうピアノの先生がそうらしい。もって生まれた何かがあるのだろうか。

今日知人にメタボの話をすると、ヘルスメーターをいいものに替えたという。話を聞くとそれで図ると体重計の表示が実年齢よりも相当若く出るという。気をよくして図ったら、また同じ表示だった、と。そして他の人が図っても同じく若く表示されるという。「自分だけ若い…」は違っていたと笑って話す。面白いモノが出回る時代になったものである。

2011年12月19日月曜日

プールで

月曜日のお昼はプールに行くようにしている。それも今年は来週を残すのみとなった。

今日も寒い朝であった。だが、朝の日差しは暖かい。その間を利用してプールに行く。プールの中にはいつもと違って少しだけ人が多い。歩いている人たちだ。

泳ぐコースには5人くらいの人がいる。泳いでいてぶつかるのが怖い。なるべく泳ぐ距離を開けて泳ぐ。しばらく泳いでいると歩いている男の人が近寄ってくる。何を言われるのかと思うと、いなくなったコースで泳げと命令する。

どうも他のコースで泳ぐ人がいなくなったのでそこで泳げということらしい。すぐにコースを変更して泳ぐ。

先週は、泳いでいるのに、何かプールに落ちているといって騒動する女の人がいた。係りに何事?と聞くと天井の錆がプールに落ちるらしい。それがその女性にとっては気になって歩けないという。

それも落ち着くと、泳ぎもせず、歩くコースでしきりになじみの人としゃべるばかり。

最近、プールで歩く人はしゃべっている人が多い。泳ぎながらはしゃべれない。その点、歩きながらは話ができる。だからといって泳いでいるモノに干渉して欲しくない。

それでも今日も1キロ泳ぐ。言われたことも気にせず無視して泳ぐ。

返り際、受付の職員の女性から「お疲れ様でした!」と声をかけられる。その言葉、今日は嬉しかった!

まさか、その若い女性は先日の「鍋」のときにいた人ではないと思うけど…。

2011年12月18日日曜日

墓参りに…

今朝はこの冬一番の冷え込みだったのでは…。明け方寒くて目が覚める。手元においているエアコンのリモコンを入れてまた寝る。

今日はアサちゃんがいなくなって丸10ヶ月。朝、アサちゃんの長女に墓参りに行くかどうかTELすると、行くという。

起きたときは冷たい朝だった。それでも3人で車で墓参りをするときはぽかぽか陽気になる。空を見上げても快晴で気持ちよい。アサちゃんの長女夫妻は墓の掃除道具を持参し、その周りを綺麗にする。

いったん家に戻り、ティータイム。その後、3人で食事に出かける。車の中で「古希」の話になった。アサちゃんの長女の夫のことである。今月が誕生日なのでそれまでに、2年もある。自分の娘にしてあげるようTELしたらしい。すると、「まだだいぶ先の話…」といわれたと笑っていう。

そう話したのは、アサちゃんが一番かわいがっていた孫だ。その孫に、午後、家から電話でデパートに贈り物を依頼する。アサちゃんがいなくなったので身内には誰にも贈らないつもりでいた。だが、アサちゃんのこの孫だけはやはり思い入れがあり、贈ることにした。

アサちゃんの長女である姉と話していると、来年は四国遍路に行くという。「2人で?」と聞くと、姉の夫の元の職場の何家族かの「妻」のグループで行くらしい。「夫」のほうはなぜ行かないのかと尋ねると信心深くないという。判る気がする。いくらアサちゃんがいなくなっても今はそこまでの気持ちは沸いてこない。

それでも姉夫妻に「サンティアゴ巡礼はしたけどね…」といって今日は分かれた。

2011年12月17日土曜日

サグラダ・ファミリア

昨日の昼前、スーパーの外に出ると先月、ベルギー、オランダに行った近くの知り合いと出会う。自転車を押して歩きながら話をする。旅行先の温度は0度から5度だったという。

着ている服を見ると頭にはフードを被っている。その恰好で旅行した、と。

その頃、広島で始めて雪が舞う。東の方の山は見る見るうちに白くなる。自転車を押すのをやめて、乗って家路に急ぐ。

夕飯後、フルートの先生から送られた新しい楽譜で「愛の小径」の練習をする。曲は短調なので憂いを含む。綺麗な曲だと思いながらフルートを吹く。家の外に音が漏れたらなんと物悲しい…と思われるかもしれない。

その後お風呂に入る。そのときちょうど電話がなる。先日、知人はBSで「サグラダ・ファミリア」を放映すると話していた。それを教えてくれる電話だった。始まるまでは5分しかない。

BSは最近見られるようにした。といってもほとんどTVを見ない。TVの番組欄も当然見ない。知らせてくれてありがとう!

ゆっくりその番組を見る。先日のスペインを思い出しながら見る。放送内容は当然知らないことばかり。ガウディが亡くなった100年後の2026年にそれは完成する。

放送はサグラダ・ファミリアの天井のデザインの謂われを説明していた。長方形の筒をねじると真ん中がへこんだスツールのようになる。その先端を切り取った形が天井のデザインになっているという。

サグラダ・ファミリア(2011年9月)
幸いその天井の写真を撮っていた。

サグラダ・ファミリアの天井のデザイン(2011年9月)

教会の円錐状の柱も高さを1にすると、横幅は2分の1、途中の高さは3分の2に設計されているという。

それも今ではコンピュータ・グラフィックスでやっている。

完成後の2026年はまだ遠い先だ。行ける日を楽しみにして元気で毎日を過ごそう!

今朝は短大時代の人からピアニストの横山幸雄の演奏会と打ち上げにいった話を電話で聞く。彼女は長いことピアノを教えていた。短大卒業後、ギターを習っていた同級生とその人からピアノを教えてもらったこともある。今では横山幸雄のファンで、熊本在住のその人の知り合いもわざわざ広島まで聴きに来たという。韓流だけでなくクラシックにも追っかけはいる…!?

2011年12月16日金曜日

音楽便り

今日は天気予報の予想通り寒い一日だ。それでもお昼過ぎまで日差しは暖かく感じた。

先日、フルートの先生から「愛の小径」の変調した新たな楽譜が送られて来た。先生によるとその楽譜をパソコンに取り込むと変調のソフト変換がすぐに可能とか。それを聞いて技術の素晴らしさにただ驚くばかり。♯が2ヶと♭が1つに変調されていた。

郵便受けには他にもハガキが入っていた。広島交響楽団からのクリスマスカードである。広島交響楽団の演奏を聴く個人会員に、今年、再入会した。その間、9年のブランクがある。9年前までは1度もそういう便りは届かなかった。それなのに今年は「メリークリスマス♪いつも応援ありがとうございます」と手書きで書かれたカードが届く。裏面は楽団員全員が写っている。

書いた人はヴァイオリン奏者でその人のサインも記されている。

先ほど先月のプログラムの演奏者名簿で確認してやっとサインが読み取れた。

個人会員は相当数いると思う。それを楽団員が手分けして書き、各人に送っているのだろう。

時代の変化をここでも感じる。先日「広響」から届いた郵便物にも初めての「ファン感謝デーコンサート」の誘いが寄せられた。聴く人がいて初めて音楽も成り立つ。ファンを大事にする気持ちがよくあらわれている。

来年度の広島交響楽団の個人会員も今の座席の予約方法を改め、座席指定になるという。何でもいいことに変化するのは素晴らしい。また一つ新しい年が来るのが楽しみに…。その前にフルートの練習が待っている…。

2011年12月15日木曜日

冬眠!?

一昨日寝るのが遅かった。昨夜はいつもの時間に眠る。それなのに今朝は起床時間9時前。よく眠る。眠たいときはアラームをしない。余計よく寝てしまう。

もう少し早く起きる癖をつけないとすぐにお昼になる。午前中があっという間に過ぎてゆく。

午後、予約の本を取りに図書館に行く。その後、スーパーで買い物をする。レジに並んでいると先客に声をかけられる。全く見覚えのない顔の人だ。しばし考えていると、「〇〇さんの妹さんでしょ?」とその人は話す。姉と同級の人であった。

姉とは4歳離れている。そういわれても全くわからない。話しているといつもスーパーで見かけると「妹さん」だと思ったという。「小さい頃と顔が変わらないね」ともいわれる。そういわれてもしっかり年齢は重ねていると話す。

「小さい頃と顔が変わらない」とはよく人からいわれる。体重が高校時代からほとんど変化がない。だからそう思われるのかもしれない。その人の弟さんのことも話される。全く見当がつかない。弟さんは1歳上だった。

先ほど姉にTELしてその人のことを話す。よく知っていた。その人の家も知っているという。

その後、YOU TUBEでフルートのレッスン曲、プーランクの「愛の小径」を聴く。聴くたび綺麗な曲だと思う。楽譜のその曲の説明によると「F・プーランクは、パリで生まれ、パリになくなった生粋のパリジャンらしく、軽妙洒脱と抒情性を使い分け、その作品は、常にフランスの粋なエスプリに満ち満ちている。数多い彼の歌曲の中で、この『愛の小径』は、いわゆるメロディ(フランス芸術歌曲)の範疇には入らない軽いものだが、Valse Chanteeの副題を持ち、まるでよき時代のパリで品のいいシャンソンを聴いているような味わいのある作品である。」と書いてある。

あまりにも聴き応えのある曲なので夕食後、吹いてみた。曲自体は吹きやすい。ざっと通して吹いてみる。やはり綺麗な曲だ。

明日の朝から寒くなるという。最高気温も7度とか。寒いといって今から冬眠していては…。明日は早く起きよう!

2011年12月14日水曜日

フルートetc.

昨日のフルートのレッスンは忘年会のためいつもより早い時間にはじまった。

今回のレッスン曲「スペインのセレナーデ」は早く仕上がる。レッスン前、先生から先日行われた発表会のCD、DVDそれに写真を収めたCDを受け取る。先生はいつも熱心にそれらを作成してくださる。それを見ると頭が下がる。

来週からのレッスン曲は今朝、先生にTELしてPoulenc(プーランク)の「Les Chemins de l'Amor」 (愛の小径)になる。先ほどYOU TUBEで探すと持っている楽譜と同じ『フルート アンコールピース22選』からフルートで演奏していた。

全く同じ楽譜の演奏だ。この曲は♭が5ヶと♯が4ヶが途中、何度も変調している。先生はそれを半音下げるか上げるかする楽譜を作成して送付してくださるという。

まだ練習していない。YOU TUBEで聞くと素敵な曲だった。フルート以外でソプラノ歌手が歌っている。その歌詞に圧倒される。綺麗に吹けるよう、気合を入れて頑張ろう!

レッスン後、忘年会の開始時間まで教室にフルートをおいて近くにある中央図書館に出かけた。途中、そごうデパート、NTT基町クレド、リーガロイヤルホテル、ひろしま美術館を通り抜ける。会社リストラ後、何度も通った中央図書館。昨夜は、そこに到着するまでクリスマスのイルミネーションを見ながら歩く。

ゆっくりイルミネーションを見るのも久しぶりだった。

時間になって教室に戻る。最後のレッスンの人も終わり、4人で会場まで歩く。

紙屋町から流川に向かう道は不景気はどこへ…。サラリーマンの姿で溢れている。

会場に着くと人も揃ってきた。どの人も見慣れた顔の人たち。1人を除いて皆、習っている年数は10年、20年と長い。以前よく食事をしていた4人が列を作る。思わず「4人でバブルを生きてきた、よく遊んだ」といってしまった。皆も笑っている。もちろん先生も!4人でよくレッスンが終わると遅い時間にもかかわらず街へ繰り出した。毎週がまるで忘年会だった。

2次会は先生を含めた5人でカラオケに行く。カラオケには近くに住んでいる人とよく行っていた。最近は行かない。

それでも街中にあるカラオケは久しぶり。時間も遅いので長くはいられない。2,3曲ずつ歌う。皆、音楽が好きなので楽しそう!あっという間に時間は過ぎる。

皆で電停に行くと電車は走っていた。だが遅い時間なのでタクシーで帰る。

会社勤めの頃はタクシーも捕まえられなかった。それが今はタクシーが列を連ねて並んでいる。世の中の様変わりを思いながら家に帰る。

そのフルートのレッスンも今年はあと1回を残すのみ。月日が経つのは早い。

一夜明けた今朝、スペインへ行った若いテノール歌手の人からお詫びのメールが入る。

帰国後、名前を検索していたらその人のブログに行き着いた。すぐメールを送った。だが返事は来なかった。なぜ?と思った。ところが今朝その人からパソコンのエラーでメールの返信が遅れたとの返事が来た。気に障ることを書いたかなと思っていた。そうでなくてホッとする。

午後は幼馴染の家で遊ぶ。今日も1日過ぎてゆく。今年も押し迫ってきた感じがする。

ブログを投稿して忘れていたことに気づく。

昨夜、忘年会の席で知人からスペインへ行った合唱団の人からの預かり物を受け取る。お菓子だった。知人の所属する合唱団のいろいろな人から写真や優しい言葉など受け取る。しかし、その人たちと直接会うことがない。すべて知人を通してお礼をいってもらう。昨夜、知人は合唱団の人の電話番号を教えてくれるという。大概の人は携帯を持っていると思う。教えてもらったなら、お礼のメールをショートメールで送ると知人に話す。ありがとう!と。

2011年12月13日火曜日

年賀状の欠礼ハガキから

昨日、年賀状欠礼のハガキを受け取る。エレクトーンを一緒に習っていた人からである。

昨日のブログで楽器のことを書いたばかり。そのタイミングのよさに驚く。夜、お悔やみのTELをする。何年ぶりかで話す。互いに声は変わってないね…といって。

知人の実母と思って話していたら、旦那さんのお母さんだという。話は悔やみから他のコトになった。エレクトーンを習っていた当時は、その全盛時代だった。グループレッスンで、5,6人だった思う。そのうち今でも4人で仲良くしている。最近はそれぞれ忙しくしていて年賀状だけである。

昨日の彼女は、エレクトーンをやめた後、リコーダを習っている。ところが、今はリコーダの人に誘われてドイツ・リート音楽に所属して歌っているという。

音楽の話になると世間の狭さを感じる。また、何かをやってる人はずっと何かをやり続けていると感じる。エレクトーンを習っていたもう一人も、原爆資料館で英語のボランティアガイドをやっている。彼女はずいぶん前、NHKの教育TVの福祉の時間にメインで登場したことがあった。すぐにTVを見たと電話して喜んでもらったことがある。

考えてみると、人から「~ちゃん」と呼ばれるのは、エレクトーンの人と会社の同僚からだけである。それはどちらも姓のほうで呼ばれるのだが。同級生からも呼ばれないのに…。それだけ皆仲が良かったのかもしれない。また、こちらも他の人を今でも「ちゃん」づけで呼んでいる。

昨日TELした人には我が家の不幸も知らせる。年賀状の欠礼のハガキは出さず寒中見舞いを出すと話した。すると、何年か前にも寒中見舞いを受け取ったという。父のときかもしれない。自分ではそのことをすっかり忘れている。

新年に寒中見舞いを出すとき、4人で会おうと連絡を書くといって電話を切った。4人の年齢は6~9歳の開きがある。うち1人は10代の学生時代から知っている。私を含めて他の3人も20代と若かった…。レッスン後の皆との遊びが楽しかったことを思い出す。

昨夜の話で面白いコトがあった。ボランティアガイドをしている人は今でも自分のことを「〇〇子はね、」といってるのかと私に聞く。50代になってるのでどうだろうと話した。今度会ったとき聞いてみよう。

自分を含めた4人は長い付き合いになる。今度会うときは10年ぶりくらいだろうか。きっと以前と同じようににぎやかなことだろう。

今日は午後、いつもより早めにフルートのレッスンがある。レッスン後、忘年会が待っている。今からフルートを練習して、忘年会に行こう!

それにしても外はまばゆいばかりの日差しが射している。気持ちいい朝だ!

2011年12月12日月曜日

楽器

昨日の演奏会のチケットは琴奏者の関係者からもらったと知人はいっていた。その琴だが、高校時代3年間、同好会に入っていたことがある。

とはいっても家が貧しかったので琴はない。今、手元にあるのは琴の爪と教則本だけである。

楽器は小さい頃から習いたいと思っていた。高校に入学したとき、音楽部に入部しようと思った。当時はマンドリンクラブがにぎわっていた。ところが入ってみるとマンドリンが盛んな中学出身の生徒がいる。初心者は無理だと入部をあきらめた経緯があった。

その反動がクラブでなく同好会の琴だった。

働くようになったら楽器を買う、これが夢だった。卒業後、初めて買ったのがギターだった。それを持って短大時代の友人と仕事帰り、街中にあるYMCAに通う。ガットギターだ。それもいつしか冷め、ヤマハでエレクトーンを習い始める。これは10年以上と長く続いた。ところが習うに従って、音楽の基礎ができてないことに気づく。

そしてフルートに行き着く。今も習っているフルートはクラシックであり、音楽の基礎から学べた。年が明けると習いはじめて20年になる。途中何度かレッスンを中断するということもあった。フルートは上手く吹けないけど、自分に合う楽器のような気がしている。

楽器といえば、チェロも習いたいと思ったことがある。先日、米子に行った際、米子の友人はチェロを習いたいと話していた。習うようすすめたのだが…。今度合った時、聞いてみよう。

今日も明け方は寒かった。昼前、家のチャイムがなる。出てみると家の真向かいに建設中のドラッグストア開店の挨拶だった。23日に開店するという。

その話を聞き終えるとプールに行く。出かけた時刻が正午である。今日も1キロ泳ぐ。プールの中にいるのは泳ぐ人、歩く人合わせても5,6人くらい。入ったときは温かく感じるが、出たときは寒い。シャワーを浴びても寒い。すぐに服を着る。やっと落ち着く。

泳いだだけなのに一仕事したような気持ちになる。それはなぜ?

2011年12月11日日曜日

コンサートに…

今日も寒い朝であった。起床時間は8時半。昨夜、ふと思いつき、夜10時半頃電話をした。勤めていた頃の人である。

彼女とは1年に1回くらい電話で話す。仕事を離れて9年が過ぎた。その人は一回りも若い。仕事を離れてから、彼女は関連企業に勤めている。互いに良き時代を生きてきた、と笑いあって話す。話していると勤めていた頃の気持ちが蘇る。明日からまた仕事に行くような気持ちになる。不思議だ。電話を切った時刻はなんと真夜中に…。早寝が取り得も昨夜は違った。当然起きるのが遅い。

なかなか会えないけど以前と同じように話せる人がいるのはやはり嬉しい!楽しかった!

今日は午後、我が家の近くのホールで開催されたコンサートに出かける。知人からチケットを2枚もらっていた。隣町に住む幼馴染を誘って聴きに行く。幼馴染はクラシックは初めてだとか。息子さんが友人の結婚式に出席するので里帰りしているという。

長く引き止めるのは悪いかなと思って聞くと大丈夫だという。眠くなるかも知れないといって幼馴染と後の席に座った。ところが演奏が始まると感動したようで前に座ればよかったと話す。

今日のコンサートのタイトルは「心に残る情景」。演奏者は地元で活躍している人たち。演奏曲目は歌い継がれる日本の名曲、心に残る名曲、心に咲く希望の花束、と銘打ったよく知っている曲だった。

日本の名曲は琴と西洋楽器とのコラボ。地元で活躍している人といっても見ていて「華」がある人がいる。ソプラノの女性はオペラで活躍しているだけあって見ごたえがある。それにピアニスト。その人は今回全曲アレンジしたとか。そしてフルートの人。この人もピアノ曲の「ラ・カンパネラ」の速い曲を見事に上手く吹いていた。

フィナーレは「ふるさと」を全員で合唱する。この歌、コンサートのたびよく歌う。やはり淋しさが増す。3番は歌えなくなってしまった。幼馴染もそうだったという。

初めてクラシックを聞いた幼馴染は相当感激していた。チケットをくれた知人に感謝、ともいってくれて…。

ふと思う。今は暇もあるし、元気だ。それに遊んでいてもどうにか生きていける、と。今が一番いい時期かもしれない、と思う。ちょっぴりある淋しさを除いては…。幼馴染もせいぜい遊ぼう、といってくれるし…。これもアサちゃんを介護したお蔭?これからもずっと見守っていて…。

2011年12月10日土曜日

寒くなってきた!

昨夜は、J.ブラームス“最晩年の音楽1891-1896”VOL.1を聴きに出かける。広島駅に近いホールなのでJRに乗っていく。ちょうど時間帯が退社後のためか、久しぶり働いていた頃のラッシュアワーを思い出す。

演奏曲目は「クラリネット三重奏曲イ短調作品114」と「クラリネット五重奏曲ロ短調作品115」であった。

ブログに投稿するので改めてプログラムを見る。第一ヴァイオリン奏者に目が留まる。多分、この人は社会人大学生のとき大学で中国語を教えていた先生のお嬢さんだと思う。

その先生は中国系のシンガポール人で、奥さんは日本人。既に日本に帰化されている。講義のときよく家族のことを話されていた。バイオリニストの出身大学と先生の話されていた大学が同じであり、名前も一般的な日本の名字でない。顔の作りもすべてのパーツが大きくそれも先生に似ている。

関係ないことだ。それなのに、その先生に今も中国語を習っているウクライナ人と結婚した人に先ほどメールをした。間違ってたら悪いけど…。多分合ってると思う。

プログラムを開けると、なんと聞きなれた名前の合唱団のチラシが入っていた。チケットをくれた知人によるとクラリネット奏者の関係者が知人の属する合唱団の人とか。その関係からかもしれない。来年の定期演奏会を知らせるチラシであった。この感想は、約束どおり忘年会で話すことにしよう!

今日は朝方、とても寒かった。ところが次第に日差しも出てきて午前中は自転車で外に出ても暖かく感じた。ところが午後は日もかげって冬を感じる。それでも予約の本を取りに図書館に出かけた。

これからますます寒くなる。ふとさっき思った。家にいる時間が長くなると…。

中国語を習っている人ではないが、習っていないと中国語を忘れてしまいそう。そうならないためにも、ラジオの中国語ニュースやNHKのワールドニュースの中国語版をネットで見ている。遊んでばかりいないで、せめて家にいる時は中国語の本を今より多く訳そう。

明日はまた演奏会に出かける。どんなに寒くても、それでもやはり家にいるより外に出ている方がいい!?

2011年12月9日金曜日

物騒なことが…

昨日の「拉致」ではないが、我が家も3歳違いの妹が誘拐されかけたことがある。

その光景を今でもはっきりと覚えている。

妹がヨチヨチ歩きの頃だ。家の外へ出ると2人の女性に手を引かれて遠くの角を曲がるのを目撃した。すぐに家に帰り、「人攫いだ!」と告げた。

アサちゃんは家を出ると「それはうちの子です!」と叫び続ける。やっと追いかけて手を離してもらった。大きくなるまで「〇〇ちゃんを〇子が助けた!」とアサちゃんは話していたことを思い出す。

小さい頃、妹は「お月さん!」と人からいわれるほど、愛嬌あるかわいい顔をしていた。そのため外に1人でいたところを連れて行かれたのだろう。

今朝の地元紙を見ると、見出しに「中2男子、傘で顔を突かれる」と載っている。余りTVのニュースを見ないので新聞でそれを知る。もうびっくり!なんと住んでいる町の話だ。

最近、拉致や誘拐の話は余り聞かない。だが先日のナイフで人を刺す事件が起きて以来、真似をするのだろうか。殺傷事件は多い気がする。

ヨソの話と思っていた。なんと似たようなことがわが町で起こるとは…。

お昼のニュースでは、中学校は日が落ちる前に授業を30分切り上げて下校させるという。小学校も父兄が見守っているとか。我が家は小学校の横にある。

学校といえば、昼過ぎ銀行のATMのところで高校時代の同級生の女性に声をかけられる。ずっと地元に住んでいるので学校時代の同級生は多い。それでも今日会った同級生は久しぶりである。

明日、明後日、獣医として牧場を経営している同級生に皆で会いに行くという。高校時代、地元の大学には獣医になる学科はなかった。そのため鳥取大学で学んで獣医になっている。当時の担任も参加するとか。欠席者が出たら声をかけるという。

声をかけられても急な話なので参加しない。今日会った同級生は旦那さんを昨年亡くしている。短時間、話しただけなのに同級生のなかにも亡くなった人が何人かいるという。

どうしている?と聞かれ遊んでいると返事する。その人はまだ働いているという。携帯電話番号を知らせあって同級生と別れた。

嫌なことが起きる世の中だ。余りあくせくせず、適当に楽しく生きていくのもいいのでは…と思ったりする。

そんな今日だけど、今から知人からもらったチケットを持って演奏会に出かける。

傘で顔を突かれないようにしなくては…。物騒な世の中になったものである。

2011年12月8日木曜日

『拉致と人生 夢うばわれても』

明け方は雨。それも次第に晴れる。昼過ぎ自転車で外にでる。帰宅すると、スペインへ行った写真を整理。いろんな人から写真をもらうので、相当な枚数になる。全部を日付順に並べられない。しばらくどこで写ったのか考えてしまったり…。

幸い知人からもらった写真には日付が入っている。着ている服で日付を確認して自分で撮った写真を合わせていく。他の人からのものはバラバラなので別にまとめることにした。かなり時間がかかる。

夕飯を食べて蓮池徹著『拉致と人生 夢うばわれても』(PHP研究所、2011年)を一気に読む。

長く生きてきて涙を流しながら本を読むということはなかった。ところがこの本は120頁という短い本(文字も大きい)なのに38頁付近から本の最終頁まで涙がとまらない。

「拉致」という誰もしなくていいコトを経験する。その思いが同じ筆者の『半島へ、ふたたび』よりももっと本音で語っている、と感じた。

筆者はたびたび北朝鮮で引越しをしたことから「ちょっとした会話からでも、相手の真意を必要以上に探ろうとします。…この出来事の背後に何があるのかを、考えざるを得ない。…これは何だろうと詮索することが、習慣になっています。…拉致という、本当に苦しく、絶望的な体験を生き抜くための知恵として、ごく自然に身についたのだと思います。」という(38-39p)。

拉致されて以後、一生懸命に「帰せ」と訴えたという。それも次第に無駄なことだと知り脱力感と虚無感が襲う。そのことを筆者は「私が拉致によって閉ざされたのは、夢と希望です。」そして北朝鮮の人から「勉強しろ」といわれる。

そこで「『じゃ、やろう!』そうすれば、何かがわかるかもしれないと。私には生きるための情報が必要だったんです。そのためには言葉が必要で、根底にはとにかく生きよう、という強い意志があったのです。」と述べている。(55p)

筆者が外国語を学ぶ動機は暇人がスペイン語を学ぼうという気持ちとは比べようもない。生きていく手段として外国語を学ぶ、切実さが痛いほど伝わってくる。

それをもとめて書いている。「孤独でしたが、死ぬことまでは考えませんでした。それよりも自分は生きなきゃと。生きるためには、言葉を知らなきゃ。知るためには、言葉を勉強しなきゃ、みたいな感じでした。」(56p)

拉致されて筆者は「夢」を断たれる。その夢について「夢というのは結局、自分で考えて、自分で選択して、その実現のために努力する過程です。私の考え方では、…」とのべて北朝鮮にはそれは皆無だという。「夢なんていうのは、自分で封殺しました。最後には。」といっている(59p)。

ネイティブに話せない北朝鮮の言葉を子供たちには在日朝鮮人として日本で生まれ育って、北朝鮮に帰国したと信じ込ませる(61p)。そこには日本人としての悔しさ、腹立たしさを押し殺したという。

そんな絶望の状況でも「非常に厳しい状況でしたが、たまには日本の料理を作って、食べることができたというのは、ある意味、力づけられました。自分で努力すれば、こんなこともできると、自分の意識を高めていたんです。」という(67p)。

北朝鮮に拉致されていた頃、キム・ヨンジャが訪れ、「イムジン河」が放送されるのをTVで見る。その河に自由に行ける鳥になりたいと思う。(83p)。

また他の海を見てもそう思ったという。だがそれも「いやいや、こんな思いを持っちゃだめだな」と必死にその気持ち押さえつけたという。(84p)「そこをぐっと抑える。抑えて、抑えて、暮らす。」と。(86p)

筆者は拉致の経験から政府に対して「解決するならば、絆を全部つなげられる解決法を追求してください。」とお願いする(95p)。

帰国した筆者は翻訳の仕事に挑戦し始める。その底辺には「何か自分の中に持っているもので道を切り拓いて生きたい、という考えがあってのことでした、」(101p)。

翻訳家として生きようとした筆者には友人に翻訳家がおり、エージェントを紹介してもらう。(104p)

初めて翻訳した『孤将』は反日的かと思ったという。だが「孤独な人間の強さや弱さ、愛や憎しみ、苦悩これは誰にも通じるところがあるんじゃないか。また歴史上、相手側は日本をどう見ているかを知りたい人もいるんじゃないか…」と思ったという(106p)。

筆者は自由のある日本で暮らせることを「夢を持ち、夢を追い、努力する、という楽しい過程は、取り戻せたと思います。」といい、思っていたような生活ができつつあるという。(111p)  

さらに筆者は「“生きる”ために大切なものは、絆と夢」の二つだという。その二つを回復させるためにみんなに応援をお願いしたいという。(113-119p)

最後に筆者は互いに違うところを知り、理解しあって日本と朝鮮半島の関係を見ようという。そのために筆者は自分なりの視点でその違いを知らせていく。それは翻訳であったり本を書くことで果たしたいという。(121p)

この本のタイトルである「夢うばわれても」について書くのを忘れている。

筆者は翻訳を通して「拉致によって閉ざされた自分の夢、遮断された夢」をつないでいきたいという。それは拉致されるまで学んでいた「司法試験を目指す」気持ちは薄れていった。だが「何をやるかは問題ではなくて、どうやって夢を追うかが大事なことなのです。」と。(101-102p)

皮肉にも筆者は拉致されていた国の言葉を、再起の礎にしなければならない。だが言葉には罪はないとする。(102p)

拉致に関しては何も手助けできない。だが何とかならないのだろうか…。

2011年12月6日火曜日

専属カメラマン!?

4時過ぎ、フルートのレッスンに出かける。教室に着くといつもより大きな音でフルートの音色が聴こえる。それも余り聴きなれない音で…。しばらくロビーで様子をみる。時間になったので部屋に入ると先生が吹いておられた。生徒のレッスンの音と違う意味がそのとき分かる。

今日は新しい曲をレッスンする。8分の6拍子の曲。またしても16分音符に手こずりそう。

レッスン後、知人とロビーで会う。今日も知人の所属する合唱団の3人から預かったというスペイン旅行の写真をもらう。さらに知人からも写真をもらう。知人の開口一番、「専属カメラマン!」と笑っていう。もらった50枚位の写真はいわれるとおり私の「専属カメラマン」。ありがとうございます!

その中の2枚を知人は笑って取り出す。そしてその2枚が「フルムーン!」とさらに冗談を言う。2人して大笑い。モンセラット山の観光ポイントまで行く途中、スペイン人が撮ってくれた写真だ。少々遮がかかった写真だった。その写真を見るたびよく歩き、楽しかったことを思い出す。

そのスペイン人のグループは観光ポイント到着時も何枚か写真を撮ってくれた。だが撮ってくれたスペイン人の写真がない。それが少々残念!

知人が合唱団の1人からあずかったという写真の中には、
「〇〇様、〇〇様 
旅行中は、たいへんお世話様になりました。
ありがとうございました。
お二人が ほのぼのとした
雰囲気を かもし出して 下さいました。
また お会いできる日を楽しみに
しています。
〇〇」
と書かれたメモが入っていた。メモは薔薇の花の周りに2匹の蝶々が舞っている一筆箋である。

異端者がひとりツアーに入り込んだと思っていた。そういう風に思われただけでもう大感激!

先ほど知人にそのことをTELすると書かれていたことは知らないという。知人に「〇〇さんによろしく伝えて下さい」と伝言する。改めて皆、いい人だったと思う。

知人からは他にも2箇所の演奏会のチケットをもらう。知人曰く、その演奏会の感想を来週のフルートの忘年会で聞くという。

こちらも負けずに、ブログを読んでくれている?と聞く。すると読んでいないという。来週、ブログについてテストをするので読むように、と話す。

お互い宿題を抱えて、フルートの忘年会で会おう、といって…。知人はレッスン室に入っていった。

2011年12月5日月曜日

気分よく…

今日は朝からまばゆいばかりに太陽が輝いている。昼前、気分よくしてプールに行った。

先日の豆乳鍋のとき先生は月曜日はプールへ行かないと話された。先日傘を借りた。プールに行く途中、先生宅の玄関に傘とお礼を置いてきた。

ところが、泳ごうとすると「〇〇さん!」と声がする。先生だった。水泳教室が終わった後のようだった。

プールを見ると誰も泳いでいない。そこにいるのは職員数名と先生と私。広いプールで一人で泳ぐ…と思っていると人が入ってきた。しばらく先生と立ち話をする。木曜日の夜、泳ぎに来るようにといわれる。鍋に来ていたあの若い青年たちと泳ぐことは到底無理。春になったら金曜日に…といって先生と別れた。

少しの間、立って話しただけなのに、体は冷える。再度シャワーを浴びて泳ぎ始めた。

今日も1キロ泳ぐ。

今年もだんだんと残り少なくなっていく。いくら寒くなっても、プールの中は温かい。また泳いだ後は気分がよい。たが泳いだ後しばらく鼻水がとまらない。それが辛い…。

2011年12月4日日曜日

豆乳鍋は終わった!

今日は昨日までの騒々しさとは打って変わって静かな日曜日である。また外は暖かい!

昨夜は水泳の先生宅で「豆乳鍋」が行われた。参加人員は小学生、中学生、高校生、大学生、社会人の男性12人、それに女性は若いプール監視員1人と我々の6人の総勢19名であった。

先生宅に伺う前、事故があってJRは遅れ、一駅なのに30分以上かかる。到着すると、すでに準備万端で後は人の到着を待つのみだった。何も手伝わないが果物を持参する。各自それぞれ色々なものを上手く使い分けて持参していた。

男性軍は10代から20代がほとんどで、3、4人が社会人であった。

「宴」がはじまった。昨日のメニューは豆乳鍋、おでん、むすび、サラダなど。飲み物は日本酒、ビール、お茶など。車の人と子供がいるのでアルコールはそれほど飲んでいないようだった。だが、その場の雰囲気はクラブの「合宿」という感じ。にぎやかなことこの上ない。横にいた28歳の若者は、「先生が好きなんじゃ!」といって笑わせる。先生は人気があるようで昨日も3人は先生宅に宿泊するといっていた。

今朝の世話人の女性のメールにも「〇〇先生は、若い男性等が好きと話されてましたが、今迄の積み重ねですね・・・」と書いている。これだけ慕われることは男性の先生もコーチ冥利に尽きると思う。

女性は1人を除いて年齢は高く、自分の孫の名を中学生に言ってはその孫を知っているかと話かける。地元の人らしくローカルな話で盛り上がる。

途中、皆涙を流して笑う場面があった。となりの28歳の男性に誰かが「彼女は何歳か」と聴いたとき、「70?年…」の生まれといってるのに聴くほうは「20何歳…」と全く話がかみ合わない。まるで漫才だった。

楽しい様子は今朝の世話人の女性のメールを引用させてもらうと「昨夜は、爆笑の夕べとなり、皆楽しい一時を過ごされたかと思います。私も腹の皮がヨジレましたよ!(^^)!」と送られて来た。

茶髪にしてる子はおらず、皆感じがいい!会社の飲み会に参加しないという今頃の若者の雰囲気は全くない。どの男の子も、スポーツマンらしく感じがいい。この日を楽しみしていたともいっていた。

これほどの料理を誰が食べる?と思った。だがそれも心配無用。デザートも皆ぺろりと食べる。早めに来て用意した人は大変だったと思う。また後片付けも…。

JRで帰るので9時前には先生宅を後にする。今朝メールを見ると深夜12時位まで皆いたようだった。

こういうメンバーと食事会をすることはめったにない。木曜日のクラブに加えて金曜日が増えた意味がよくわかった。参加するにしても木曜日の若者たちとは一緒に泳げそうにない。金曜日になりそう…。

寒くなるので春になったら夜スイミングに参加すると皆に言うと、先生から4月からクラブに入るようにといわれる。

昨夜、その先生にお礼のメールを送るとすぐに「またプールに来てください」と返信がきた。

暖かくなるまではお昼にプールに行って泳ごう!

2011年12月3日土曜日

皆にお世話になって…

明け方まで降っていた雨も昼前には止んだ。今朝早くアサちゃんの長女の夫からTELがかかる。これから我が家に来るという。

しばらくしてアサちゃんの長女夫妻は菊の花と大根をもってやってきた。先日、塀の工事をした。今日はそれを見に来たようだった。いつもその夫には家のことでお世話になる。

ひとりで暮らしていると誰にでも工事を依頼できない。ところがアサちゃんの長女の夫は親身になってやってくれ、家のことは安心して任せられる。

アサちゃんがいたときも何かあればお世話になっていた。

今朝もその夫にお礼を渡すと受け取らないという。だが、アサちゃんの長女は受け取るようにという。間を取って半分ほど、お礼をした。アサちゃんがその様子を見ていたらきっと全額渡すようにといっただろう。

アサちゃんの長女夫妻は綺麗になった塀を見た後、自分の孫のところに犬を連れて出かけていった。

我が家は静かになったけれども、家の周りは相変わらず騒々しい。ドラッグストアの完成を急ぐのか道の両端はその業者の車が並んでいる。そして店の外の舗装をするので何日間も機械の音が鳴り響く。

昼前、買い物に出る。帰ってみるとTELがかかっていた。知人からである。

音楽会のチケットをくれるという。それも2箇所も…。〇〇さん、いつもチケット、ありがとうございます。楽しんで聴きに行きます。

今夜は「豆乳鍋」を食べに水泳の先生宅に出かける。世話人の女性によると、小学生、中学生に大学生、それにスポーツセンターの職員、そして我々のような人たち総勢21名とか。

世話人はメールで「今夜は大いに盛り上がり、爆笑の夕べにしましょう!(^^)!」という。

きっと楽しい「鍋」になるだろう。その分、せっせと泳ぎに行かなくては…。

2011年12月2日金曜日

暇!?

木枯しが吹く季節になった。2、3日前までのあの暖かさはどこにいったのだろう、と思えるほど今日は寒い。久しぶり家で大人しくしている。だがほとんどTVはみない。

以前、TVは時間的制約があってみられないと思っていた。ところが何の制約がなくても余りみない。最近はニュースもみなくなってしまった。

そんな中、先日知人とBSの話をした。当然我が家はそれはみられない。知人はBSで中国近代や外国の話題があるという。それを聞いて、BSをみられるようにしようと思った。

一昨日BSをお願いしに電気店に出かけた。今朝、その業者がやってきて1時間足らずで工事が終わった。

それが終わってもTVでなく、ラジオ、雑誌、本、パソコンなどのマス・メディアに気が向く。夜になればこれまでと違ってBSをみるようになるかもしれないが…。

メディアといえば、先日新聞に松江の講演会の記事が掲載された。だが、山陰に位置する松江に通えるかどうか気になった。その講演会は年6回あり、行けないことはない。

米子に行った際、友人にその話をすると、距離的には米子も松江も同じくらいだという。先ほどそこのHPを検索すると詳細が書いてあった。すぐTELしてその情報を聞く。近いうち、詳細な情報を知らせてくれるという。

忙しそうにしていても以前に比べれば暇である。先日岩国の友人が言っていたように「石橋をたたく暇はない」ではないが、別の意味で「暇」はある。「暇」はないほうがやはりいい…!?

2011年12月1日木曜日

「哀しみにも終わりがある」

12月になった。今年を振り返るにはまだ早い?我が家は新年早々大きな出来事があった。それも何とかクリアし、新たな年を元気で迎えられそうだ。

午後、デパートに出かけ、アサちゃんがお世話になった人たちにお歳暮を贈る。先日、米子でお世話になった友人にも宿を借りたお礼を込めて…。

以前、伊集院静の本のなかに書いてある「哀しみにも終わりがある」というメールをある人からもらったことがあった。

伊集院の本はこれまで読んだことがない。ところがそのメールでどの本にその言葉が書いてあるのか気になった。すぐに図書館でそれらしき本を2冊予約した。その1冊目の『大人の流儀』(伊集院静 講談社、2011年)にこのことが書いてあった。

この本を予約したのは7月。やっと今、読むことができる。

この言葉は本の最後に書いてある。妻である夏目雅子のことを書いている最後に「親しい方を亡くされて戸惑っている方は多いでしょう。私の経験では、時間が解決してくれます。だから生き続ける。そうすれば亡くなった人の笑顔を見る時が必ずきます。最期に、数年前に観た映画でのチェチェンの老婆のせりふを紹介します。『あなたはまだわかいから知らないでしょうが、哀しみにも終わりがあるのよ』。」(189p)

7月といえば、今ほど気持ちも落ち着いていなかった。その辺りをブログを読んで「哀しみにも終わりがある」と教えてくださったのだろう。

また、この本の中におもしろいことが載っている。それは「まったり」と言う言葉。この言葉は広島ではあまり使用しない。筆者は広島の隣の県の山口県の人。だからこの言葉を使用していないのだろう。というのは同じ本の中の「料理店と職人に一言申す」から「名文家と評判の文筆家でも、こと食に関しての文は、そこに卑しさを感じる。ましてや文章を話言葉と同程度に考えている輩が食に書いたものについて書いたものは酷い。“まったりとした味わいだ”――まったりとは何だ?相撲の技か。あれはとったりか。どういう意味だ。“ソースと食材がハーモニーを奏でてる”――ソースは楽器か?…」(116p)と書いている。

この文章は読みながら笑ってしまった。確かに「まったりとは何だ」である。

先日の米子の友人に話すと教育TVの番組でその言葉をよく使用しているので知っているという。

日本は狭いようで広い!?何年も生きてきて知らない言葉が多すぎる。外国語の前にまず日本語を学ばねば…、そう思ったり…。

2011年11月30日水曜日

小瀬川ダム湖畔へ

昨日は岩国在住の人と半年振りで会った。合流場所は岩国駅の一つ手前のJR和木駅。初めてその駅に降り立つ。

友人はブログを読んでもらってるようで、米子に続いて出かけるが疲れないか、とメールで心配してもらう。大丈夫、と電話で告げて予定通り昨日会った。

たった4ヶ月、県庁でバイトしただけなのにいつも親切にしていただく。その人の車で小瀬川ダム湖畔に行った。

その人は旦那さんがいない日を見計らってこの日に会うことを予定された。そのため時間を気にせず山道をどこまでも進んでいく。ここ3,4日、絶好の行楽日和。車窓から見る小瀬川渓流の景色は紅葉真っ盛り。山に入って行くと目的地に着いた。ところがそこは定休日。

しばらくその辺りをうろついていると、店主がやってきた。店内を見せてもらう。街中では決して見られない光景だ。友人はよく旦那さんと来ていたと嬉しそうに話す。

仕方なく次の場所へ車で移動。山道を車はさらに走る。しばらく行くと小瀬川渓流温泉についた。山小屋風のレストランが数件建っている。めぼしをつけたところも定休日。その近くにあるレストランに入る。

入ったお店は思いがけず、なかなか感じがいい。そこでランチをする。

友人は旦那さんとの馴れ初めなど嬉しそうに話してくれる。旦那さんとは先日、自宅に伺ったとき会っている。だが優しそうな人だったことは覚えているが、顔は覚えていない。申し訳ない。

友人の話は聴いていて説得力がある。またびしびしと我が身にこたえる。その辺りが多分ここまで長く続いている所以かもしれない。なんとなく波長が合っている。

先日の海外旅行でも、喪が明けるまで待ってから出かけるようにといった人もいた。ところがその人は待ってる暇はないといって背中を押してくれた。有難かった。昨日も石橋をたたいて渡るモノを「石橋をたたく暇はない!」と諭す。この言葉、昨日の話の中で一番のハイライト。思わず噴出してしまった!「よく言ってくれました」。有難い!

「ひらめき」で行動していると思っていた。ところが友人にはそうは見えないようだ。改めて気づかされた日となった。月日はあっという間に過ぎていく、と友人はいう。やりたいコト、したいコトをせずにいては後悔ばかりが残るというのだろう。

今日の友人の言葉を忘れないように…。

〇〇さん、昨日もまたご馳走になりました。ありがとうございました。次に会うときはさてさてどんな話がでるのでしょう。楽しみしています!

2011年11月28日月曜日

米子へ

3日間、米子へ行ってきた。宿泊場所は21年前旅行で知りあった友人女性宅。彼女は妹さんと2人で生活している。すべての日程は友人に任せた。

土曜日、広島バスセンター10時5分発、米子行きの高速バスに乗る。乗客は10数人くらい。バスは途中、庄原の七塚原のサービスエリアで10分間の休憩。13時35分定刻どおり米子駅着。そこまでの道のりは見渡す限り山、山、山。田舎に来た感じがする。

米子駅到着寸前、バスの車窓からは雪をいただいた伯耆富士大山(ほうきふじだいせん)が見えた。



米子駅で友人と合流。その際、大山が見えたと話すと2度目の冠雪だという。空は真っ青。はっきりと大山が見えた。ちょっと感激!

昼食は「蕎麦」。蕎麦は広島ではほとんど食べない。ところが米子は出雲に近いためか蕎麦どころだという。温かい蕎麦と、ミニ・アナゴどんぶりを食べた。友人は冷たい蕎麦で。このメニューもすべて友人任せ。

昼食を終えると、車で「米子水鳥公園」へ移動。そこで珍しい鳥を見た。鳥の名は「クロツラヘラサギ」。案内板によると「極東に生息し、世界で2000羽しかいないといわれている。米子水鳥公園には毎年数羽が飛来する」と書いてあった。

米子水鳥公園
公園内には水鳥を観察する建物があった。そこに入るとずらっと望遠鏡が並べてある。その真ん中に陣取って鳥を観察する。そこには大きな倍率の望遠鏡が置かれている。遠くにいる鳥もはっきり見えた。久しぶり童心に返って、鳥を見る。

わいわい言いながら見ていると、職員らしき人が2人、そばに来る。そして先ほどの「クロツラヘラサギ」がいると教えてくれた。望遠鏡もその位置に設定してくれて…。

だが、名前どおりの「黒いヘラ」が見えない。見えるのは真っ白い鳥の姿のみ。じっと観察していると瞬時に向きを変える。そのとき真っ黒い「ヘラ」状のくちばしがみえた。よくもこういう名前をつけたものである。

係りの1人は大きな望遠レンズのついたカメラを持っていた。そして仕事用に写真を撮っているという。話をしていると持参したデジカメでも設置してある望遠レンズにデジカメを据付けると「アップ」の写真が撮れるという。「じゃあ、やってみて!」というとすぐにデジカメを望遠鏡のレンズ付近に据付け、その鳥の「アップ」の写真を撮ってくれた。
黒いヘラは隠れて見えないけどクロツラヘラサギ
職員に話しかける人は余りいないようで、係りの2人はいろいろ鳥について教えてくれる。季節的にも今の時期がいいらしい。望遠鏡で見ている前には、雪山をいただいた大山が真正面に見える。冠雪した大山もいつも見えるとは限らないとか。観察した日はクロツラヘラサギも冠雪した大山も見ることができラッキーだった。
 水鳥公園から見る冠雪した大山
その後は荒島神社、八百姫宮、米子城跡を歩く。すっかり太陽も沈み、友人宅へ車で帰宅。

友人宅に帰ると、すぐに夕食かと思った。ところが、ところが…。所変われば…。郷に入っては郷に従えのことわざがある。そのとおりにした。

なんと友人は夕飯前にお茶をするという。抹茶茶碗を用意し、抹茶を立てる。そばには饅頭も。これでは夕飯が…と思いながらも友人の立ててくれたお茶を飲み、お菓子を食べる。

その後、帰宅した妹さんも合流して夕飯に出かける。ところが時間はもう午後9時前。予定していた2箇所は貸切と閉店で入れず。3件目の「バロンジャヤ」は「おいしさはバリの風に乗せて。」とパンフに書いてあるとおり無国籍風ながらちょっと贅沢な感じのレストランだった。

従業員はコック風のスタイルで、すべて男性。パンフには「リラクゼーション&エスニックテイスト」とあり、食事も美味。レジの人を見るとコック風スタイルだが、年齢は高かった。

我が家ならば食事後のこの時間にはもう寝ている。ところが夕飯を食べて帰宅してもまだ寝る態勢ではない。しばし話をする。お風呂に入る頃は午後11時すぎ。姉妹の就寝時刻はなんと友人の姉は2,3時頃。妹さんは1時頃とか。もう到底真似のできる時間ではない。皆寝るのが遅いんだ…。

翌日も11月末なのに天気はよくて暖かい。この日は終日3人で車で出かける。妹さんは1ヶ月前、足を骨折したとか。やっと松葉杖がとれたといっていた。だが歩く姿は痛々しい。

翌朝、友人宅で「皇帝ダリア」を見る。はじめて知った名前の花だった。友人宅の屋根まで延びたその木のてっぺんに見事な花をつけていた。気品ある花だ。
知人宅の皇帝ダリア

今日は100キロ離れた鳥取市まで行くという。運転は友人。

朝食は「大山恵の里」で「卵かけご飯」を食べる。何十年ぶりかで食べる味であった。小さい頃、父親がよく作ってくれていた。いつもはアサちゃんのことしか思い出さない。その日は父親のことを思った。子供の頃、朝起きたとき枕元に「めざまし」を置いてくれていた父のことを…。グリコのおまけつきのキャラメルが多かった。人の好すぎる父親だった。その父に性格は似ていると思う。

鳥取に行く途中、倉吉に寄る。昔風の白壁群の町並みを散策。旅行者は多い。その後、倉吉未来中心、鳥取二十世紀梨記念館に行く。未来中心では催し物の絵画を見る。同じ建物内にある梨記念館で鳥取の梨がなぜこのように全国展開していったのかを映像と劇で見る。昭和11年、黒斑病を克服した鳥取が梨娘を動員して日本一を目指して全国展開を成功させたという。その日は「王秋」という一コ300円の大きな梨を買った。

足を怪我している妹さんは友人に車椅子を押してもらって見学。梨館で果物の被り物があった。それを被って写真を撮りたいと思った。だが躊躇する。やはりあきらめきれず、またそこに戻る。それを被って写真に写った。妹さんはその写真を見て大笑いする。

梨はほとんど口にしない。今年はその梨を食べた。美味しかった!

昼食は「ねばりっ娘」でとろろ汁ご飯を食べた。鳥取砂丘でできる長いもを使用した料理である。店の名がねばりっ娘の意味がそれからも分かる。これも美味。

午後は年5日間この日だけに公開される「樗谿(おおちだに)の名庭『啐啄園(そったくえん)』」を見学。その後、隣接する鳥取市歴史博物館(やまびこ館)に入る。ここはこの2日間「関西文化の日」のイベントのため入館料は無料。国宝や重要文化財の梵鐘を見た。

啐啄園
怪我をしている妹さんは車椅子での見学となった。次に国指定重要文化財の「仁風閣」見学。その後ティータイム。その喫茶店で友人の妹さんは人の椅子の横においてある松葉杖に気づく。後で聞くと同じような人がいるんだと思って笑みがでたといっていた。

その日の夕食は「かに汁」を予定していたようだった。ところがお目当てのところは今はしていないという。友人はどうしても私に食べさせてあげるといって、自宅で作ってくれた。これも美味しい。

ところがその日も夕飯の前にお茶タイム。またまた夕飯が遅く10時頃になる。当然寝るのも遅い。

3日目になった。この日も暖かい。朝食は姉妹宅で食べる。その後、足を痛めている妹さんは車を運転して仕事に…。2人でお昼近くまで友人宅で談笑。

旅の話になった。なんとこれまで70回海外に出かけたという。ところが4年前に母親を亡くされてからは海外へ出かけてないとか。友人はブータンへ先に行っている。そのブータンのタクツアン僧院へは歩いて登ったという。そのことがその後の海外トレッキングに行く自信になったといっていた。

友人より遅れてブータンへ行った。そのときタクツアン僧院へはラバで登った。ラバは誰でもすぐに乗ることができる。徒歩とラバでは相当の開きがある。それでなくても軽い高山病になるブータン。徒歩でのそれは大変だったと想像してしまった。

その日の昼食は「蕎麦がき」を食べに連れて行ってもらった。この名の蕎麦料理は、はじめて聞いた。蕎麦を粉にして粘り気を出してもちのようにしたものだった。それを雑煮にいれる餅の代わりに蕎麦で作ったそれを入れる。これも美味。はじめて食べるものなのでデジカメで写真を…と思っているうち、いつの間にかそれは口の中に…。

どこへ行くにも遠くまで車を走らせる。3日間、かなりの距離を車で移動。移動するたび客を気遣ってくれる。逆にこちらは友人の方がくたびれたのではないかと思った。

3日間、お天気に恵まれた。あっという間に3日間は過ぎた。楽しかった!午後3時、広島行きのバスは広島へ向け出発。乗客は10人足らず。行きと同じところで10分休憩。帰りは3時間50分かかった。我が家に着いたときはもうすっかり夜。

留守の間、短大時代の2人の同級生から何度か電話がかかっていた。TELすると「どこかへ飛んで行っていない!」と2人で笑って話したという。「米子へ…」と話した。3人で新春に会おうといって電話をして…。

3日間も米子でお世話になってしまった。感謝しています!次は広島で会いましょう!

2011年11月25日金曜日

再び喪中ハガキについて

今朝図書館に行った。いつもは予約確保のメールが届いたときだけ図書館に本を借りに行く。ところが3,4日図書館に行けないので出かけることにした。久しぶり書架を見る。目に入ったのは『死なない病気』(渡辺淳一 新潮社、2011年)。

中をめくると「喪中ハガキを考える」があった。昨日思ったばかりのこと。まさか手に取った本に同じようなことが書いてあるとは…。驚くばかり。

その中に書いてあることを引用する。

「年齢をとると、喪中ハガキが増えてくるのは仕方がないが、それにしてもいささか気が滅入る」(64p)。

筆者はいろいろとこの件に触れた後、「ここまで書いてきて、改めて気がつくことは、喪中ハガキが形式的になりすぎていることである。…とにかく、年内に身内の誰かが死んだら喪中ハガキを出すというのは、あまりに形式にとらわれすぎているのではないか。…ただ、みんながやってるから、自分もやる、というだけのこと。そんな形式的なものより、たまには変わった年賀状を出してみたら、どうだろう。『あけまして、おめでとうございます。昨年二月、母が亡くなりましたが、それにもめげず、本年も明るく頑張りますので、よろしくお願いします。』お年玉付きのそんなハガキがきたら、もらったほうも明るくなり、やる気が出てくるだろう。」(66-67p)。こう書いた後、筆者は年賀状と喪中ハガキを分ける手間が省けるだろうと述べている(67p)。

ここまでしようという気持ちはもっていない。だが、筆者のいうように喪中ハガキをもらっていい気持ちになるだろうか。誰も嫌な気持ちになるはず、と思う。

この件に関してはもうこれで終わり。自分流を通すことにしよう。

今日は夕方から広島交響楽団の第314回定期演奏会に出かける。今日の演奏曲目は「巨匠の熱情と俊英 ~オーストリア音楽の神髄」と銘打ち、
モーツアルト;歌劇「魔笛」序曲K.620
ベートーベン;ピアノ協奏曲第5番変ホ長調Op.073「皇帝」
シューベルト;交響曲第5番変ロ長調D.485

の3曲。

指揮者はロッセン・ゲルゴフ、ピアノにイエルク・デームスを迎えるという。

演奏会後は帰りも遅くなる。また明日からは米子へ…。しばらくブログ投稿はお休み。10年ぶり(?)米子の空気を吸ってきます…。

2011年11月24日木曜日

年賀状の欠礼葉書きに思う

年賀状の欠礼の葉書が届く季節になった。先日も1通届いた。

今月30日、108歳になる母親をもつ知人がいる。その母親は市内某区の最高齢者である。

その知人とはいつもメールなどで連絡を取り合っている。ところがお盆過ぎからメールを出しても返事が来なくなった。「何か変?」と思い、意識して連絡をせずにいた。

2日前、年賀状の欠礼の挨拶状が届いた。108歳の母親と彼女他の連名の葉書だった。裏をみると彼女のお姉さんの訃報だった。108歳の74歳の娘さんである。

長いこと話していなかったのですぐにTELした。メールを送ったことも話した。彼女はメールどころではなかったようで、TELしたときやっと気づいたようだった。

108歳は長寿の祝いの「茶寿」だと検索で知った。

祝いと不幸の折り合いをどうすればよいかわからず、彼女に電話でざっくばらんにたずねた。それに対して直接お姉さんを知ってはいないから…という。お祝いを優先する旨伝えて、一昨日彼女のお母さんのお祝いを送った。

108歳といえばアサちゃんの一回り上になる。

本来ならば我が家も年賀状の欠礼の葉書を出すことになる。だが、毎年この季節に届くその葉書きをみて決していい気持ちにならなかった。数年前、それにかえて正月明けに寒中見舞いをもらったことがあった。

それを受け取ったとき、こういうやり方もあるんだと知った。受け取ったとき嫌な気持ちにならなかった。

それ以来、それを見習って我が家も何かあれば寒中見舞いにしようと決めていた。

やはりお正月は年賀状が嬉しい!年賀状の来ないお正月は淋しさも増すような気がする。いけないこと…!?

2011年11月23日水曜日

旅行女朋友

先週、米子の友人から京都のウオーキングに誘われる。だが行かれない。昨夜、折角誘ってもらったので、こちらから今週末2日間、米子に行くとTEL。

すると今朝、1日のばして土曜、日曜、月曜日の3日間に…とTELが入る。宿を予約して欲しいというと友人は自宅に、という。

友人とは海外旅行で知りあう。4年位前、母親を亡くされ、姉妹で米子に住んでいる。妹さんももちろん何度か会ってよく知っている。それでも宿まで借りるのはどうかと思った。遠慮要らないと…。お願いすることにする。

宿を借りる上に、スケジュールもすべて先方で調整するという。ここまでしてもらっていいのかと思いながら、今日バスセンターに行って米子行きの往復チケットを購入。

午後は、中国語で知りあった人とそごうデパート内にある「Madam XENLON」という中華料理店で食事をする。上海ガニはピークを過ぎている。他の中華にした。

本格的な中華といえば以前はグランビア・ホテル内の東天紅が多かった。それも広島から撤退してしまった。

長くデパート内の中華レストランへ行っていない。久しぶりに入ると店は様変わりしている。中華は香港系の飲茶が多い。

今日会った彼女は、三原の大学に勤務している。昨夜の忘年会の後、職場近くでは泊まらず広島まで出て来て宿に泊まったという。車通勤のため飲み会のあとは運転できず、必ず広島まで来て宿を取るとか。

そういえば、4,5年前、もう遠くへ旅行にいけなくなったアサちゃんに旅行気分を味あわせてあげようと思ったことがある。車椅子のアサちゃんを介護タクシーに乗せてリーガロイヤル・ホテルとANAクラウンプラザに泊まりに行った。ANAに泊まったときは今日の友も同じホテルに泊まり、夕食後アサちゃんを寝かせると彼女と最上階のラウンジに行って飲んだこともあった。

彼女とは若い頃、中国語で知り合う。中国、ブータン、イタリアなど海外に何度か一緒に旅行した。それ以外にもスペイン大好きとのこと、今年からはスペインでも共通項ができた。

ブータンといえば一昨日、ブータン国王夫妻は日本を発った。一昨日、今日会う話で電話してきた彼女は開口一番「レセプションはどうだった?」と冗談をいう。「よかった!」と勝手に答えて…。

彼女は男性の民族衣装「ゴ」をブータンで買った。当時留学生として学んでいた「タシさん」を大学近くにある自宅に呼んでその衣服を着たこともあったという。そのため彼女のご両親は、ブータンという報道に素早く反応され、家でブータンが話題になったと話していた。

ゾンカ語を教えてくれた「タシさん」はきっとブータンで偉い人になっているだろうと2人で話して…。

それからもう20年近くが過ぎようとしている。きっと来年はブータンに旅行する人も多いだろう。

今日は5ヶ月ぶり、いろんなことを話した。以前中国語を習った後、遅い時間にもかかわらずよく飲み、よく食べていた頃と同じような気持ちになって…。楽しかった!

「Xiao Chi小姐」、今日は楽しかったね。また、シンガポールのお土産ありがとう!

明日スペインのお土産、郵送します。「Yu Tian」より。

2011年11月22日火曜日

スペイン旅行の余波

塀の作業は今日で終わった。とはいっても、取り付けたフェンスは間違いだったといって今日はすべて取り外し再度作業をしていた。幸いアサちゃんの長女の夫が来てくれていたので話を聞いてもらう。

夕方、フルートのレッスンに出かけなくてはいけない。あとはアサちゃんの長女夫妻に家を任せて外出した。帰ってから長女夫妻にお礼のTELをすると6時半までかかったという。本当にありがとう!

フルートの練習曲が次回から「スペインのセレナーデ」になった。“Chaminade”の作曲とか。よく知らない人だ。後でいつものようにyou Tubeで聴くことにしよう。

スペインといえば今日知人から旅行に参加した人からの預かり物を受け取った。2人の人からの写真、教会での演奏の模様のCD、その模様が現地の新聞に掲載された新聞のコピーである。他の人から写真も言付かったが車に忘れたといっていた。

しばし、レッスンの合間を利用して教室のロビーで話をする。地元紙のスペイン語のコピーはサグラダ・ファミリアが完成する2025年までには読めるようになっているから…と笑って話す。そのときは再度スペインへ行こう、と。14年後だ。だいぶ年も重ねているはず。

だがアサちゃんが75歳から青春だったと話すと、他の意味も含めて知人は「まだ青春前だ!」と何度もいって笑わせる。この言葉、今日のブログに書くからね、と話して…。〇〇さん、ちゃんと書きましたよ!

もらったCDを見ると、「よくもここまで」というほど中の冊子もすばらしい!まだ聴いてはいないけどゆっくり後で聴こう。楽しかったスペインを思い出して…。

もらった写真もたくさんだ。特にS先生からの写真は全体写真と知人と写ったもの。それも行きの新幹線乗車時から帰りの新幹線の中での疲れた表情のアップの写真など。見ていてその表情に我ながら思わず笑いがこみ上げる。

全体写真はいくら思い出そうとしても全く記憶にない人もいたりする。それも仕方ない。途中帰国組みもいたりして…。

〇〇さん、スペインから帰ってからも、いつもお世話になっています。感謝しています!S先生はじめ合唱団の皆様によろしくお伝えください!

14年後のスペインへ行く日までお互い元気でいましょう!

2011年11月21日月曜日

作業も終わりに…

今日も朝早くから作業が始まった。雨で予定が狂ったと思ったら、基礎の工事の人とフェンスの人が同時に作業を開始する。今日も一日篭城するのかと思った。それも辛いので、10時のおやつを出すと、いつもより遠いスーパーへ逃避した。途中、本屋にも立ち寄り、スペイン語のラジオテキストを購入。しばらく本屋をぶらつく。

昼過ぎ帰宅すると、作業する人も食事に出かけていた。

ホッと一息していると午後の作業が始まる。どうにか基礎の工事は5時半ごろ終わった。フェンスは難しいところを除いてほとんど終わったようだった。明日、午後来るとか。明日でやっと解放される。

先日工事をするとアサちゃんの3女にTELした。工事は家にいるものが気分的にくたびれる。アサちゃんが元気な頃、家の手直しで何度か大変だったと思うと3女に話した。3女はアサちゃんは元気だったとしきりにいう。

3女が出産したときアサちゃんは大阪まで手伝いにいった。その年齢は3女の年齢を遥かに超えているという。3女は東京にいる孫の手伝いに行く元気がない、と。

だからアサちゃんは元気だった、と。

アサちゃんの青春はアサちゃんの夫が亡くなってはじまった。75歳から足を骨折する87歳までがそうだった。家事などもすべてアサちゃんがやってくれた。その間、皆と同じようにどこへでも出かけた。杖もつかずに…。すべては持病がなかったことにもある。

3女は到底アサちゃんのように95歳までは生きられそうにないと笑っていう。

その後、3女の夫の話になった。酸素がとれて元気だという。聞くところによると担当医もこれまでの患者で途中酸素が要らなくなった人の経験がないとか。酸素を必要とする人は死ぬまで離せないと。それが必要としなくなった。その理由がわからないとか。いいことなので理由はわからなくてもいいのだが…。

ともあれ、何とか明日で作業は終わりそう。一安心!

またいつものペースでさあ行動開始!やっぱり家の中より外がいい。

2011年11月20日日曜日

「国際交流・協力の日」に思う

今日は「『国際交流・協力の日』一緒に世界へ踏み出そう!」という事業に参加した。会場は平和公園内にある国際会議場。多種多彩な催しの中から、広島市立大学国際学部の公開講座「多様な中東・イスラム世界を学び・感じ・つなぐ」を聞いた。

イスラムに関しては中国を除いたどの国よりもその世界に興味がある。その底辺にはものめずらしさがあると思う。この言い方は問題があるかもしれないが…。

3人の先生が講演された。そのうちの2人の話を聞いた。はじめの先生オマール・ファルーク氏は使用言語が99%英語で日本語はほとんど話されない。テーマは「イスラム世界を横断する:ナイジェリアからマレーシアへ」。英語はネイティブでなく速度は遅い。おりおりイスラムの国名が出る。聞いている人は年齢的には高く、学生など若い人もいた。男女比は断然男性が多い。

イスラムの中心はアラブに限らず世界中にムスリムはいる。その教えは生き方のことであり、さまざまな民族的・文化的背景を持つという。ムスリム世界のさまざまな国や地域に見られる多様性を非ムスリムの人たちとの共生について話す。宗教や習慣が違っても同じ人間として交流し協力する可能性を考えよう、と。

レジュメは英文のみ。そのもらったレジュメを見ていると次々出る国名から内容すべてはわからなくても少しは何を言ってるか理解できた。

次の話は日本人の女性の湯浅正恵国際学部教授。テーマは「私にとってのパレスチナ」。

パレスチナとイスラエルの問題は難しい。今日の話は先生自ら経験された話でよくわかった。この話の中心人物はミトリ・ラヘブというドイツ人の牧師さん。現在パレスチナのベツレヘムでクリスチャンとして活動されている。この牧師さんは2005年、日本全国を行脚していた。その年の8月6日の前日、広島で宿泊場所がなかった。原爆の日を前に全国から人が集まる広島で当然ホテルは満杯。そのとき同じキリスト教徒の今日の講師が自宅に宿泊させた。これがきっかけで講師はパレスチナに関心を抱くようになる。

講師は9歳のとき親に連れて行かれた原爆資料館での記憶に、夾竹桃、アウシュビッツ、原爆というキーワードが頭にあるという。それが成長するまで拭い去れなかった、と。

牧師と出会った翌年の2006年以降毎年パレスチナに出かけている。そのベツレヘムにベツレヘム国際センターが建っている。それはその牧師の活動でミレニアムにできたという。

そこには“Salaam”“Shalom”があった。前者は英語の“Peace”で日本語で「こんにちは」。そこには正義があり弱者を救済し、その秩序から平和になるという。その底辺は「広島の平和」だというのである。

後者は憎しみに屈しないこととか。ジオサイドの反対語でスペーシオサイド(社会的空間の抹殺)で先の牧師は「死ぬ前までを生きる天国を作る」ことをパレスチナの人に教えているという。パレスチナの現状からいつ死ぬかもしれない若者を案じての策らしい。

講師は自身の希望は中国電力の上関の祝島の原発反対と戦っていくことだという。それは福島の原発にも通じるという。平和と“Salaam”の戦いだと。弱者の立場から考える平和(サラーム)を求めるという。それには広島の平和を世界へ発進できると…。

パレスチナについて少しは理解できた。それでも平和問題に深く頭を突っ込む気持ちは持っていない。ただ単にイスラムに関心があるだけ。今日の話で少しはそういうことに関心をもてばいいのかもしれない。あまりにも難し過ぎて…。

2011年11月19日土曜日

『中国「反日」の源流』

『中国「反日」の源流』(岡本隆司 講談社、2011年)を読んだ。筆者の岡本は京都府立大学文学部准教授である。

筆者は愛国が反日を意味するようになった事実上の出発点を1905年とした(227p)。それはくしくも中国各地で起こった反日デモからちょうど100年目にあたる(2p)。それを解き明かすために現代までつづく日中関係を論じている。

個人的に中国近代は関心がある。その意味でも、いつもとは違って、さらに丁寧に関心あるところを記したい。

本の構成は下記のようであった。

プロローグ
第一部「近世」の日本と中国
 第1章 東アジアの十八世紀
 第2章 統治のしくみ
 第3章 明から清へ
 第4章 マクロな動向
第二部「近代」の幕開け
 第5章 十九世紀をむかえて
 第6章 西洋近代との邂逅
 第7章 開港と開国
 第8章 動乱の時代 
第三部 近代日中の相剋
 第9章 近代日清関係の始動
 第10章 日清対立の深化
 第11章 「洋務」の時代
 第12章 愛国反日の出発
エピローグ

一般的に反日の要因を「口をそろえて指摘する長期的な要因は、江沢民総書記時代から愛国主義の鼓舞と反日教育の徹底である。」と筆者はいう(5p)。それには1989年の天安門事件のあと、国内の引き締めと同時に、政権への求心力を高めようと、愛国を煽り、その手段として反日を強調した。そしてその教育自体は今尚再生産されているという(5p)。

この辺りは先日の渡辺利夫氏の話しと変わりない。

筆者は、反日はそれが原因ではないという。「反日は潜在的に存在し、もっと根が深いものだ」とした(6p)。それゆえ、これまで書かれていない、「反日」の原風景を描写しつつ、その深層構造をさぐること、「反日」をひきおこし、容易には終息させないメカニズムはどこに由来するのか、その起源を明らかにすることを本書の目的とした(7-8p)。それは日中の全体史を描き出すことになるという(8p)。

筆者は中国を称して「中国はわからない。」という(16p)。

確かに中国に足を踏み入れれば踏み入れるほどよりいっそうわからなくなってくる。

そのことを筆者は「端的にいってしまうと、権力のありよう・パフォーマンスが、日本とは違うということである」。「全く異質だ」という(17p)。

筆者のいう異質は、先日講演で聞いた渡辺氏のそれとは違っている。渡辺氏は民族の多様性を日本と比べて異質とした。

筆者はその異質性を先のギョーザ事件を例にあげてその異様な権力のありようを異質とする。

「反日」を理解するには中国を理解する必要があるとした。それには17世紀から見直すのが捷径だろう(18p)。

17世紀として日本では1600年の関が原の戦いがある。18世紀の終わりから19世紀の初めにかけてが、近世から近代への転換期とした。日本は江戸幕府であり、中国に君臨していたのは清朝である(23p)。

軍事面では日本は農業社会から自生した武力組織で清朝は狩猟・遊牧的な武力組織である(24p)。

孫文の時代、中国の人民は「家族主義」と「宗族主義」はあっても「国族主義」(ナショナリズム)がなかったと筆者はいう(33p)。日本人では内藤湖南の言葉を引用して、孫文と内藤の2人が「反日」と「嫌日」を代表していたという(34p)。当時の中国の政治統治を「刑名」と「銭穀」とし、「人の命と財産を、強制的にかつ、合法的に奪いうる、という権力らしい根幹の部分しか、統治が存在しえていなかった」(35p)。

すなわち、清代の「帝政中国」は「治者と統治者」とが「一つの法的・政治的共同体」をなさない遊離耕造だった(37p)。

日本は為政者が民衆の生業・生活に関知することはほとんどなく、民生のケアや統制は「家族」「郷団」、地域社会まかせの「小さな国家」だと内藤湖南はいう(37p)。

筆者はこのような日本と中国の権力統治のあり方の違いを明朝の体制から論じている(38p)。

明朝政府を社会と国家は遊離した経済と政治の乖離をあげる。それには日本との貿易の「倭寇」を典型とした(50p)。「倭寇」という現象で日本との経済的関係を不正な密輸にしたて、騒乱を生み出した最も根本的な原因とした(50p)。この社会と国家の遊離構造が「反日」の思考と不可分だとする(50p)。

19世
紀になると社会構造は「鎖国」があり、それは「西洋の衝撃」に対する日中の姿勢は対蹠的だった。それは以後の日中関係、「反日」を形成する動因理解になっていく(102―103p)。

日本の「鎖国」は経済面からいうと埋蔵貴金属の涸渇によって、中国からその特産品を輸入しえなくなったことを意味する。その経済過程は「脱亜」と表現されることもある(103p)。

アヘン戦争についてはアヘン戦争を以って中国近代を唱えることに筆者は異を唱える(119p)。そのアヘン戦争がなぜ中国で起きて、日本で起こらなかったのか。それは日清ともに、麻薬のアヘンは禁制品だったにもかかわらず、中国ではアヘンが蔓延し、それが戦争の原因になった。日本では禁制品が禁制品であり続けたその違いにあった(120p)。

西洋の資本主義がアヘンを売りつけるという世界市場形成の意義と構造が問われる。さらに中国では禁制品が禁制品たらしめないしくみもあった。広州域内にいる中国人ブローカー「窯口」と湖南省、江西省の密輸武装集団で死をも恐れない「会党」の集団がおり、政府権力の把握しきれない非合法的な中間団体がネットワークを張り巡らせてアヘンを密売した(122p)。

この事態を重くみた道光帝は1838年林則徐を起用してイギリス人からアヘンを没収して焼き尽くし、アヘン戦争につながった(124p)。アヘン戦争の敗戦により中国はイギリスと南京条約を結ぶ(125p)。これは「西洋の衝撃」でできた近代的な新体制だった(125p)。

これに対し日本の「西洋の衝撃」は徳川体制を終焉させて明治維新をもたらす。その衝撃の反応が中国は部分的な改変だったが、日本では全面的な変革に帰結した(131p)。そこには流動性と凝集製の差異がある。

清代中国を間隔領域の大きい、流動性に富む柔構造とすれば、徳川日本は凝集的な、間隔の少ない構造である剛構造であった。そのため「西洋の衝撃」を受けとめるだけの構造を作るため日本は一新する必要があった(133p)。

それは日本史では「開国」であり、中国史では「開港」であった。この違いは漢字の違いだけではなく歴史過程の違いにも当てはまる。こうした国(全体)と港(一部)のギャップが、やがては日中の対立を深め、「反日」をもたらす(133-134p)。

日本の「明治維新」は中国でも当時の年号をとって「同治中興」と呼ぶ。前者は体制の変革であり後者を内乱の平定としている(135p)。

清朝に敵対する洪秀全の太平天国の乱、曾国藩の湘軍は共に湖南省の有力な武装中間団体をリクルートした軍事勢力であった。湘軍が太平天国を滅ぼすまで10年かかり多数の死者を出しても社会変革は起きなかった。こうした中から勝利者として淮軍が残り李鴻章が清末最大の実力者に上り詰めた(143p)。

李鴻章をはじめとする「督撫重権」(清朝の制度である地方大官の総督・巡撫の現象を称す)で、従来よりも地方大官の裁量・発言権が大きくなった(149p)。筆者はこの「督撫重権」の時期を清末とした。

清末中国と明治日本のギャップの違いを一身に体現して「反日」の態勢を目に見える形で作った人こそ李鴻章だった(152p)。

清朝の日本観について筆者は「日本とはすなわち『倭寇』だというイメージが先行し、まずこれを軍事的な脅威としてみる、という思考様式があった」という。これが「反日」思考の原型とする(163p)。中国側の対日意識は伏流と存在し続け、日中双方は19世紀半ば「西洋の衝撃」を迎える(164p)。

李鴻章は明治政府と日清修好条規を調印4ヵ月後、台湾出兵を行う。清朝に「属」する台湾の武力侵攻により日清の対立は深まった。1874年、日本政府は大久保利通を北京に派遣して和平交渉をした。イギリス公使ウエードの調停で清朝側が妥協した形で交渉は妥結した(178p)。

1860年代から1894年の日清戦争までを中国史で「洋務運動」時代という。「中国語で中国近代史の史実・事件を『運動』とよぶ場合、しばしば成果を十分におさめることのできなかった歴史事象をさす。」という(195p)。

この「運動」について「成果を十分におさめることのできなかった歴史事象をさす」とは知らなかった。「太平天国運動」「変法運動」「義和団運動」などある…。こんなことここに書いていいのだろうか!?

さらに「洋務」が「夷務」の言い換えだとか。西洋人が「夷」の文字を嫌ったために「洋」を用いることになったとは知らなかった(196p)。

そのうちの最も重要なものとして、軍備の近代化、軍需工業およびそれと関連事業の創設推進などがあり、そのスローガンは「自強」であった。この「自強」を目的とする「洋務」運動の展開は李鴻章の公的生涯と軌を一にする(196p)。

日清修好条規の1874年の台湾出兵、1879年の「琉球処分」で李鴻章は「中国永遠の大患だ」と断じた。李鴻章は日本を仮想敵国として北洋海軍の建設をはじめた(198-199p)。

「洋務」を支持する人士は旧習墨守の打破、西洋文明の導入を正当化するため、国の伝統文明が本であって、西洋の近代文明は応に過ぎない。その導入した西洋の事物で自強を達成してこそ、伝統を守ることができると主張(201p)。これが「中体西洋」論である。

李鴻章が目指したものを獲得するには「官民懸隔」の構造を「君民一体」につくりかえなければならなかった。それは梁啓超らの「変法」を唱える人も同じであったがそれをする能力も意志もなかった(212p)。

李鴻章は西洋化を脅威的なペースですすめる日本を脅威と見なした(212p)。

筆者は清末中国の内外の安定は、「督撫重権」と「海防」が支えており、そこには李鴻章の役割と事業が重要であったという(220p)。日清戦争の敗北は、北洋海軍の潰滅と李鴻章の失脚であった(220p)。

その後清朝は秘密結社の義和団と結びつき、1900年列強に宣戦布告して義和団事件となった。その義和団は日露戦争の導火線となる(222-223p)。

日本が「満州」はじめ、中国の利権に固執し、勢力を扶植しようとすればするほど、日本に対する中国人の反感が増幅する構図は1905年にはじまっていると筆者はいう(225p)。1905年は日露戦争のときである。

1928年の山東出兵と済南事件が虐な那をらしめる、「暴支膺懲」の声になった(227p)。

その後の1931年の満州事変、翌年の「満州国」建国から15年にわたる「抗日戦争」が勃発した。そこに日本こそが中国の「主権」の侵奪者、民族主義の主敵と化した。その結果、愛国が反日を意味するようになったと筆者は述べ、その反日の源流は1905年であるとする(227p)。

エピローグとして筆者は李鴻章と同い年である勝海舟の「支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る」と言い放った言葉を取り上げる。そしていま現在の日本人・中国人も勝海舟ほど「支那を知る」洞察力をもった人はいないという。

筆者は現在日中の間に存在する「反日問題」は歴史問題よりももっと深刻な問題だという(233p)。歴史認識は「一方が他方を一方的に『正しく』認識するのではない。互いが互いのありのままをみつめなおし、その姿を尊重する。」、それには皆で努力するしかないと警鐘をならす(235p)。

2日連続で雨が降った。塀の工事も延びた。特別の予定もなく家でこの本と格闘。引用ばかりのブログになってしまった。それにしても中国はまだまだわからないことばかり…。

2011年11月18日金曜日

幼馴染と…

昨日新米をもらった幼馴染から朝早くTELがかかる。今朝は白菜をあげるという。もらうのはいい。だが食べる量には限度がある。食べられないので自分の家で保存するように話して電話を切った。

電話を切っても何か忘れ物をしたような気分で落ち着かない。カレンダーを見ても何の予定も書いていない。しばらくパソコンで遊んでいた。その途中、大きな忘れ物に気づいた。

今日はアサちゃんがいなくなって9ヶ月目になる。それに気づくとすぐ、さっき電話をくれた幼馴染にTELした。

今朝は雨。作業する人は雨だと来ないといっていた。一日フリーだ。アサちゃんの墓参りをした後、会おうというと、一緒に墓参りに行くという。互いの墓地は同じところにある。

持参する花は今年初めて咲いた菊の花にした。幼馴染と我が家で合流し雨の中、墓に参った。

道中、久しぶりに通る道を2人してキョロキョロしながら歩く。世代も変わってどの家も様変わりしている。まさか、墓参りを幼馴染とする…など考えてもいなかった。山の下のほうにあるアサちゃんの墓に着いてそう幼馴染に話す。共にずいぶん年齢を重ねたように思えた。

1人で墓参りするときはいつも涙が溢れる。今日は2人。さすがに涙は出てこない。

幼馴染は昨年お父さんを、10年前に同級生の旦那さんを若くして亡くしている。話しをすると、親の死よりも旦那さんの方がさみしさは大きいという。その点に関しては全く想像がつかない。

その話を聞くまで親を喪うことが一番哀しいことだと思っていた。

そのため10年経ても旦那さんの骨は家においているという。

墓参りを終えるとどこか食べに行くことにした。隣町に住む幼馴染は候補店をあげる。隣町まで歩く途中、中華に決めた。

店に着くと11時過ぎなのに開店していた。初めて入るお店だった。広くてとても綺麗。店に入るとき以前外から見たときは階段でスロープはないと思っていた。今日店内に入るとき階段の奥にスロープがあった。

ちょっと驚いた。アサちゃんを車椅子に乗せていたとき、歩いていけるお店は連れて行ってあげようと思っていた。いつもめずらしい所へ連れて行ってあげようと思っていた。

今日のお店は階段のため連れて行ってあげれないとばかり…。それなのにスロープがあったとは…。

そう思ってブログに投稿しているうち、久しぶり涙がとまらなく…。すべてはもう遅い…。

2011年11月17日木曜日

『早大院生と考えた文章がうまくなる13の秘訣』

今朝の塀の作業は午前7時45分開始。相変わらず早い。先ほど作業する3人におやつを出した。あとはゆっくり本を読む。

最近よく読む近藤勝重の本についてブログに投稿。なぜこの人のエッセイを読むようになったのかは覚えていない。

近藤勝重のエッセイは文章に人柄が出ている。そのため読むのかもしれない。

今回は『早大院生と考えた文章がうまくなる13の秘訣』(幻冬舎、2010年)を読んだ。

またいつものように気になるところをここにメモしたい。

「文章は『はじめに言葉ありき』ではありません。『はじめに体験ありき』です。体験化が言語化を迫るのです。」(44p)。

筆者は同じことを体験しても人が違えば体験もみな違うという。

「いい文章とは、さんざん考えましたが、結局は自分にしか書けないことを、どんな人でも読めるように書く。これに尽きるんですね。」と井上ひさしの文章を引用して述べている(47p)。

「日記であれ、手紙であれ、人間は文章を書くことをとおして自分を見つめ、考えを深めていくものです。」(59p)。

「『〇〇へ行った』というその〇〇に応じて五感(視、聴、嗅、触、味)の一つひとつ、つまり見たこと、聞いたこと、嗅いだこと、ふれたこと、味わったことをたずねてみるわけです。」、と親が子供に尋ねるそのやり取りで子供は答えを口にするという。この時の親子の言葉の流れが、文章を書くときにもいえると筆者はいう。すなわち「書きたいそのことどう思うかより、そのことを五感がどう受けとめていたかを探ってみる。五感の反応を思い出すことに努めるわけです。」と(84-85p)。

「文章を書くということは脳の長期記憶に蓄えられているおびただしい数の体験情報をどう引き出すか、そのことにおいてはありえない作業のようです。脳科学者はその関係性を『ひらめき』という言葉で説明しています。」(89p)。

ひらめきと文章を書くことがどうかかわっているかを脳科学者の茂木健一郎の言葉「創造性は『体験×意欲』で生まれ、そこには日々の小さなひらめきがかかわっていると話していました。」と引用している(89-90p)。

そのひらめきは外からの働きかけでもたらされるとかで筆者はそのはたらきを
1 エッセイや対談集を手に取る
2 街をぶらぶら歩く
3 誰かと談笑する

この3点挙げて試みるらしい(90p)。

「ひらめき」について深く考えたことはなかった。ただ常に思いつくまま、ひらめくままに行動している。これからもそのように…。

五感を刺激することとして「軽いミーハーになって街を歩けって。」(94p)。

その点は大丈夫。充分ミーハーになれる。ただ好奇心あるのみ。良いも悪いもただそれだけが取柄、と思っている。

「人も歩けば題材に当たる。ひらめきも得られる。そしてそれが文章になる。」ともいう(94p)。

書く文章について「情報伝達型」と「自己伝達型」があるという。後者について「現在ー過去ー未来で書いていってもいいのですが、僕は起・承・転・結で書くことをおすすめします。もとは漢詩から生まれた文章構成ですが、自己表現型の文章には『自分にしか書けないことを、誰が読んでもわかるように書くこと』の『自分にし書けないこと』が不可欠です。それにはやはり『転』で意表をつくことができるこのスタイルがいい。…」と(113p)。

比喩について「直喩」と「暗喩」があるという。この2つの比喩について知らなかった。「直喩とは一つの事物を他の事物にたとえること」で、「・・・・のようだ」、「・・・・に似ている」などの言葉を使う。「暗喩」は「隠喩」ともいわれ、「沈黙は金、雄弁は銀」のように直喩の「・・・・のようだ」の言葉は使わない修辞法だという。これらの比喩は類似のイメージで物事の本質を素早く理解させてくれるという(148-149p)。

筆者は文才ある人といわれる谷崎潤一郎など多くの先人の文章を例に挙げて上手に文章が書けるコツを述べている。

少しはそれを見習って…。

2011年11月16日水曜日

窮屈な日々だけど…

今日で塀の工事2日目。昨日は午前7時20分に作業が始まった。今日は8時過ぎからだろうと思ってゆっくり起きた。新聞を取りに玄関を出ると3人と目が会う。その時刻、7時半。今朝も早くからの作業だ。

すぐにブロックを壊し始める。先日作業する人から工事前、ブロックを壊すとき大きな音がすると聞いていた。外から聞こえてくる音はそれほどでもない。外に出てしばらくその様子を見ていた。小さな電器の道具をもち、まるでガラスを切るような感覚でブロックを切っていく。

大きなハンマーのようなものでたたいて壊すと思っていた。そうではなかった。

作業する人たちは30代でまだ若い。道具を操作しない人は、すばやくゴミとなったブロックを次々と片付けトラックに入れている。昼前にはすべてのブロックは撤去された。

その頃、アサちゃんの長女夫妻がやってきた。

トラックはゴミとなったものを捨て、新たなブロックを積んで午後2時過ぎに戻ってくるという。

その間を利用してアサちゃんの長女夫妻は墓参りをした。それを終えると皆で昼食。その後、アサちゃんの孫、ひ孫も我が家に集合する。

その前に自転車に乗って買い物に出かけた。

毎日気儘に過ごしている。今日のように人の出入りが多いと飛び跳ねることができない。窮屈だ!

明日、明後日には基礎のブロックも出来上がり、月曜日にはフェンスもつくという。どうにか工事の見通しもわかってきた。

だが、頼みのアサちゃんの長女夫妻は、元の職場の同僚4家族と1泊旅行だという。また月曜日も用事があって来れないらしい。遊べるうちが花と思えばそれも仕方ない。

次に我が家にやって来るときは塀もきれいになっているだろう。

不自由な日々が続く。その間は家で篭城して本を読むしかない!?

2011年11月15日火曜日

こうして一日が過ぎ…

今朝起きてまだ間もない頃、チャイムがなる。なんともう塀の工事の人が来ている。その時刻、午前7時20分。

今日から工事が始まると知っていた。それがこれほど早いとは…。今日の午前中でブロックの上の撤去を終えると聞く。外に出てみると3人の人がもう作業をしている。今日出たゴミを午前中に竹原まで運ぶので急ぐらしい。

ゴミと聞いてもう10年以上も使っていない石油1缶と物干し棹など一緒に持って帰ってもらう。

ブロックの上のものを撤去してもらうと台所はこれまでと全く違ってとても明るい。気温もどんどん上がる。今朝はこの秋一番の寒さだ。はじめてエアコンをつけた。それなのに何もつけない台所は27度もある。

いつもいる部屋は17度。なんとその差は同じ家なのに10度もある。

午前9時ごろ作業は終わった。

ゆっくりしようと思っているとまたチャイムがなる。今度は先日陥没した道の舗装だという。先日の業者はそれに1日かかるといっていた。ところが今朝の業者は1時間で終わるという。

結局終わるまでは2時間経っている。

今日は火曜日。だが今日のフルートのレッスンは先の発表会の振り替えで休み。そのため午後は暇だ。今日の工事の予定が午前中早めに終わったので、隣町に住んでいる幼馴染にTELした。遊びに来るようにという。午後その家に出かけた。しばらく話していて近くの河川敷を歩く。夕方なのに大勢の人が犬を連れて散歩したり、歩いたりしている。幼馴染もよく散歩するという。

その人と別れて家に着くと5時過ぎなのにもうあたりは暗い。

夕飯の用意を…と思っているとTELがなる。米子に住んでいる人だ。この女性とはアサちゃんの夫が亡くなった年の夏に行ったパキスタンで知りあった。もう21年前に。ツアーは成田からの出発でたった7人。添乗員はハンガリー人。うち女性は彼女と2人だった。

旅の目的地は桃源郷フンザ。毎日雪山をいただくナンガバルバットを皆で寝転がって眺めて…。今思い出してもすばらしい景色だ!

そのときの添乗員の言葉を思い出す。米子の女性とは6歳の年齢差がある。男性添乗員は「早く結婚して下さいね」とさとすようにいったことを。今もって2人とも独身だが…。

知り合って長いその人と定期的に会っている。というよりも「横浜」を応援するために野球観戦で広島にきたときに会うのだが…。ところが今回は違っていた。

京都で開催されるウオーキングに参加しようという。20キロの歩行とか。

その人は奈良などの関西方面のウオーキングによく出かけている。ネパールのトレッキングにも…。本格的に歩く人だ。

久しぶり関西にも…と思った。だが前泊しないといけない。日程的に塀の工事と重なって…。残念!

会社リストラ後、その人と大山近郊を歩いたことがあった。その日は2人ともペンションに泊まって…。

ところが歩きくたびれてペンションで飲んだビールでひどく酔いが回って…。2人して部屋の中で足を高く上げて…。もう足がだるくて…。くたびれたあとで飲むアルコールは厳禁とよくわかった夜だった。

今年中に一度会おうといって電話を切った。久しぶり米子に…と思ったりする。

2011年11月14日月曜日

『嫌われ者の流儀』

堀江貴文 茂木健一郎『嫌われ者の流儀』(小学館、2011年)を読んだ。

最近の本の題名として『〇〇力』などがよく使われる。ところがこの本のようにこれからは『…の流儀』が流行るのだろうか。

本のタイトルどおり、表紙に写る著者の2人はどう贔屓目に見てもいい人に思えない。多分、著者自らそれを見て一番人相の悪い写真と思うのではないだろうか。この本のタイトルにふさわしい写真をわざと選んだとしか思えない。

だが本を読んでいくうち、堀江はそれほど悪事を働いた人に見えなくなるのはなぜだろう。ふとそう思いながら本を読んだ。

プロローグ~空の星を見上げては、茂木がコメントを寄せ、エピローグは堀江がこの本を締めくくっている。

茂木はこの本で世間でいわれる「嫌われ者」を擁護する。その底辺には「決して体制側に無反省には立たない」、「自分の感覚を信じる」ことにある(1p)。

本書は対談形式である。茂木は対談相手の堀江を「インターネットとともにやってきた新しい経済の文法の下では、少数派、異端者こそが次の大きな波を創り出す」と述べる(4p)。

それには「既得権益者や、既成の秩序の側に立つ者から見れば、嫌われ者ぐらいのほうがいい。いや、嫌われ者でなければ、新しいことなどできやしない。だからこそ、若者は、『嫌われ者の流儀』を学ぶべきだ。そして、嫌われても、嫌われても、根拠のない自信と、新しい時代への確信と、無限に尽きることのない愛をもって、どんどん頑張って欲しい。」という(4p)。

その例として堀江がいるという。その堀江に対して「日本の社会には、もう少し辛抱強く、堀江貴文さんの存在を温かく見守って欲しかった。そうしたら、放送と通信の融合など、さまざまなことの展開が、違っていたかもしれない。」という(5p)。そのために「一見『敵』に見える人が、その懐に飛び込んでみれば実は恵の泉だったといういうことは、しばしばあるのである。歴史的な再評価は、どうしても必要だろう。」と(5p)。

そして「塀の向こう」に行く堀江に対してオスカー・ワイルドの『獄中記』を読むことをすすめる(6p)。

茂木は対談の中で自身の一生の課題を「クオリア」の問題とする(17p)。それを「今の脳科学の世界や常識的なやり方について、ものすごく反発しているんです。そこで自分のやり方を通したい。」と(17p)。そのためには勝ち続ける必要があるという。本の注によると「クオリアとは、感覚的、主観的な経験に基づく独特の質感。」とある(15p)。

堀江は勝ち続けるために、新しいことをやり続けていったほうがいい、と。それをすすめると世間は厳しくなる、と(18p)。それを茂木は「新しいことをすると叩かれる」と述べている(20p)。

それは世間からの嫌われ者になるというのだろう。

対談の中で茂木は堀江のいい面を「すごくイヤな人に会っても、『この人は僕にとって悪いやつだけれど、絶対にいいところもあるはずだから、そこを探して褒めよう』って。」話すのを「なんだ…ホリエモン、すごくいい人じゃん」と述べる(42p)。

堀江は昨年夏(注、この対談時点)の選挙特番を見て池上彰を気骨のある人だったからこそNHKを退社せざるを得なかった…という(90p)。それは「要するに嫌われ者がその流儀を通せるような社会じゃなきゃいけないってことなんだよな。」と嫌われ者の流儀を述べる(91p)。

その流儀を通している人として、坂本竜馬、益川敏英、フリージャーナリストの上杉隆などを堀江はあげる(92p)。

堀江は勝ち続けることについて「みんながルールに精通するまでは、僕は当然勝ち続けますよね。みんなが詳しくなって、僕も負けるようになると次のゲームを考えて流行らせてまた勝つ!」という。そのやり方を堀江自ら「ずるい」といわれたという(131p)。

今回の逮捕劇も彼流のやり方が通らなかった。そのことを世間は認めなかったということだろう。

堀江はその上を行く人物を村上ファンドの村上世彰にたとえる。「あの人はすごい。世の中、なんでも自分が勝てるゲームのルールに変えちゃうもん。」と(131p)。

茂木は対談も佳境に入ると堀江をニーチェのいう「超人」にたとえる。「堀江さんが、うらやましいと思った人に勝つために正面から努力するっていうところは、僕は本当に人間としてそれが正しいとよくわかるもの。」だと(133p)。

その底辺を茂木は「僕が尊敬する人、好きな人って、詳しく調べてみるとみんな嫌われ者なんだよ。」とその例としてニーチェをあげて述べている(133p)。

堀江は国家が幻想を与えすぎたことを「安定することなんて不可能なのに、安定しているという幻想のもと、変わることを拒む。新しいことにチャレンジしない。チャレンジする人や成功した人を引き摺り下ろそうとする。そこで安定しているという偽りの安心感を得ている。それが今の日本だと考えて仕方ないんですよ。」と(154p)。

それを打破するために堀江は大きな成功体験を見せつけることが契機になるという。その方法として「民間のロケット打ち上げ事業を成功させることによって実現させたいんです。」と(156p)。

3・11後のテーマのひとつとして堀江は「人間がいかに自意識過剰で、自分の物差しでしか物事を判断できないかという事実を、ひとりでも多くの人に自覚してもらおうっていうのがあるんです。」としてツイッターをあげている(184p)。

堀江が茂木に興味を持ったのはテレビでなくツイッターの書き込みにあるという(188p)。

堀江は震災後の日本を「260年続いた徳川幕府が黒船によってガラガラと崩壊していった幕末と本当に似ている…」という(202p)。だからこそ日本は頑張ろうと…。

茂木は時代の寵児からさらし者になって獄中に送られる境遇の堀江の人生に対する考え方を聞いている。堀江は「ライブドアという会社の社長としての責任は、社員に対しても株主に対しても果たしたと思うので、それらに対しての責務や義務感、オブリゲーションからは解放される。うん、もっと自由に生きられるとは思います。」という(223p)。

世の中を変えるものとして堀江は政治ではなくテクノロジーをあげる(224p)。そしてその理想をグーグルに求める。「俺も就職したい!」と思ったほどだとか(232p)。

それは「グーグル・マーズの火星探地図を映した媒体があって、それがぐるぐる回っていたりする」とか。グーグルの本社には会社の受付から遊び心いっぱいの仕掛けがあって、これは楽しい職場だな…」と(232p)。

堀江は夢としてグーグルみたいな研究機関と会社が一緒になっている戦前の理化学研究所を作りたいという(235p)。そして日本を変えていきたいと…。

エピローグで堀江は茂木に対して「2009年夏、私のブログのコメント欄に『堀江もツイッターくらいやってないのか、終わったな』と書く者がいて、私は“そんなことねーよ。それくらい勿論チェックしてるぞ”と速攻で登録を済ませた。そしたら瞬く間に数千人のフォロワーがついた。現時点で70万人近いフォロワーを抱えることになったが、そのタイムラインの上に茂木健一郎が現われたのだ。」という(252p)。

その茂木との対談について“天下のNHK”の仕事をしている者と刑事被告人との立場の違いを考えた。だが嫌われないことを最優先して空気を読む者が多いのに茂木は違っていたという(251p)。

そして収監を前にした堀江は「この本のタイトルにもある『嫌われ者』というのは、いわゆる本音でズバズバとモノを言うために、時には相手の痛いところを図星で突いて、“嫌なやつ”だと思わせてしまう人間のことである。」とする(252p)。

本音で語って場の空気を乱すことを「ディベート」だとした上でそれが「嫌われ者」になるという。「空気を読まずディベートをガンガンやるような人間はマスメディアが率先して『嫌われ者』のレッテルを貼り、社会からスポイルしてしまう。」と自らを語る(253p)。

最後に読者の皆さんもそう人になっていかないと日本は崩壊してしまう可能性が高いと…(254p)。

何かコトを成し遂げようとする者は人に好かれようとするのでなく、あくまで人と違う「嫌われ者」でなくてはいけないのかもしれない。そして「嫌われ者」こそが社会を変革していく人なのかもしれない。凡人には到底真似のできないことだけれども…。

朝からこのブログを投稿してるともうお昼近くになってしまった。今からプールに行こうと思っている。帰ってからの昼食は2時になりそう。

2011年11月13日日曜日

忙しそう!?

昨夜、しばらく会っていない友人に電話をした。上海蟹の季節…と。彼女とは長く中国語を一緒に習い、中国へも何度か行ったことがある。

中国語の人たちと、この時期、恒例行事として上海蟹を食べていた。ところがそれもアサちゃんの介護で儘ならない年が長く続いた。今年は久しぶり…と思って電話をした。

ところが朋友はブログを読んでるようで「忙しそうなので…」という。どうも声をかけにくいという意味らしい。

ブログを読んでもらう人から忙しそう…といわれることがある。とはいってもアサちゃんの介護をしていた時と比べるとそれほどでもない…。

以前行っていた中華料理店は広島から撤退した。2人して「行かなくなったからね~」という。そのお店は中国語の人たちと会う時、必ず利用した。店長も顔なじみで紹興酒を差し入れてもらったりして…。

それが次第に行かれなくなり店もなくなった。今、そこはホテル直営の飲茶の店になっている。当然、蟹はない。

話していると中国も富んできて上海蟹の需要が増えているという。互いにネットで調べて後日会うことにした…。

今日は区民文化センター界隈で区民まつりが行われた。午前中、先日からメールでやり取りしているスイミングクラブの女性とバザー会場で会った。その女性のグループはボランティアで出店している。そこでケーキ類を買おうとすると、先に用意してくれたケーキをもらってしまった。これでは本末転倒。並んでいるケーキを2箱と手作りの巾着袋を買い、しばらくそこで立ち話をする。

挨拶代わりにメールで何度も聞かれた年齢を告げて…。そして久しぶりに復帰するスイミングクラブの話を聞く。そしてブログのことも…。

アメリカにいるその人のお兄さんにもその人のことを書いたブログを知らせたとも話していた。

この人も「忙しくしてるね…」という。むしろ彼女のほうが仕事とボランティアで精力的に動いている。

次に会うときは豆乳鍋で…。

2011年11月12日土曜日

「秋の調べ」から…

地元の中国新聞社と京都新聞社主催の「秋の調べ」、「広島学+京都学」のパネルディスカッションを聴きに行った。といっても第2部に予定されていた「広島学+京都学」は聞かずに帰ってしまったけれども…。

平和公園に隣接する会場の新聞社のホールは秋晴れの土曜日というのに満員であった。

第1部の「秋の調べ」は京都在住のフルーティストである園城三花、ヴァイオリニスト、チェリストの3名のアンサンブル。メインの園城は緋絣の着物で演奏する。袖は小袖で帯は半幅帯だとか。

これまで色々なフルーティストの演奏を聴いてきた。着物姿で演奏する人は今回が初めてだった。そういえば先日、呉で行われた古澤巌と東儀秀樹も途中、和装で演奏していたが…。

他の2名のヴァイオリニスト、チェリストはドレスだった。だがその2人も着物の生地でできているドレスだという。

いずれにしてもクラッシック音楽のわりにはマイクを使用していたし、演奏曲目も聴き応えのあるものではなかった。

やはり「無料」のものは偏見があるのかもしれない。そういう目で見てしまう。

それにがっかりして第2部の始まる前、会場の外に出た。

気を取り直して平和公園の中を歩いて本通りまで行く。途中の原爆ドーム周辺はさすがに行楽の秋。観光客でにぎわっていた。公園から入る本通り入り口付近は以前には見られなかった観光客目当てのお好み焼きの店や付け麺の店が軒を並べている。

さらに本通りを行くとここも以前とは違っている。場違いなところに来たような感じがしてくる。様変わり…を感じる。そこを抜けて八丁堀まで歩く。ここまで来るとやっと気分も落ち着いてきた。

街の空洞化が叫ばれている。買い物客の商圏が市の中心部から外れて周辺の大型商業施設に流れているという。

今日少し街中を歩いただけでそれは「当然なことだ!」と思った。落ち着いて買い物ができる雰囲気とは程遠いような気がして…。

2011年11月11日金曜日

狭い庭に…

今朝早くから塀の業者2人がやってきた。その業者は来週から始める塀の工事の道具など置いて帰る。何といっても我が家の庭は狭い。置いて帰るモノをどこにおくか考えていたが何とかそれもクリアして…。

その庭に今年、初めて、一つだけレモンが実をつけた。

業者も帰ったので部屋でゆっくりしていると、1枚の葉書が届いた。来春、退職される恩師の研究会と懇親会の案内である。それには3月下旬と決まっていた。

9月にこの案内をもらったとき、まだ相当日数があると思っていた。そのため先生への「思い出の記」も全く考えていなかった。

今朝、正式に日程が決まったこともあり、午前中はパソコンに向かってそれを入力する。

入力するといっても若い学生ではなく社会人として修了した。そのため何を…としばし考える。それでもどうにかいい案が浮かんできた。一気に書き上げる。

その提出先は学部時代の恩師である。その恩師から学部の卒業パーティは出席するよういわれていた。それにもかかわらず出席しなかった。出席できなかったというほうが正しいかもしれない。それが今回退職される恩師のときの修了パーティは短時間ながら出席した。

気持ちの上で何か今回の世話人である先生に対して後ろめたさが残っている。

それもその時の我が家の状況でそうなってしまったことなのだが…。

いずれにせよ、退職される先生も、世話人の先生たち3人も所属する研究会のメンバーである。

この研究会も修了後1度だけ参加し、あとはご無沙汰している。来春、久しぶりに参加する。

「思い出の記」を今日、学部時代の恩師に送信した。卒業パーティーに参加しなかったこともあり、会ったときゆっくりお話ししたい旨、一筆書いて…。

さてさてどんな人たちが集まるのやら…。まだ先のことだけど楽しみだ!

2011年11月10日木曜日

「広島学」から

今朝の地元紙の経済面に「広島学」の著者、岩中祥史の記事が掲載された。それには先に開催された地元紙の交流会での講演の要旨が書いてある。

それによると広島の県民性の特徴として3つ述べている。

その1つは「外へ」。明治から戦前にかけてハワイなどへの海外移民が盛んだったことをあげている。情報網が盛んでなかったその当時、ゼロから外へ飛び込んでいったという。

2つ目は「前へ」。常に明るい未来をみて、試行錯誤を繰り返すという。

そして3つ目は「初めてが大好き」。挑戦をいとわない歴史があるという。国産の万年筆、ヨーグルトは広島から生み出したと。

そういえば新商品を売り出すとき試験的に広島から発売する、と聞いたことがある。広島でヒットすれば全国展開できるということだろう。

この岩中氏の講演を明後日、聞きに行く。講演会のタイトルは広島・京都文化フォーラム2011「京都学+広島学」。その2部に氏はパネルディスカッションのひとりとして参加している。

この講演会を申し込んだきっかけはその1部に行われる「秋の調べ」でフルーティストの園城三花ほか2名のコンサートを聞くことだった。

だが今朝、新聞に掲載されたこの記事を見て2部も参加しようかと思ってきた。

まだ「広島学」を読んではいないけど…。

2011年11月9日水曜日

頑張っている!?

昼前、女性の知人から電話がかかってきた。

その知人と話したのは梅雨時、岩国の自宅に伺ったとき以来である。その時はお昼をご馳走になり、吉香公園の菖蒲を見に連れて行ってもらった。

電話で話していると、最近フルートの演奏を聴き、その音色に惹かれたという。

フルートといえば途中、中断したこともあるけど今でも続けて習っている。

知人は来月も、旦那さんと少し関係あるフルーティストの演奏を聴きに行くとか。そのフルーティストはプロではないという。

話の中で「頑張ってるね!」といって励ましてもらう。だが「あんまり頑張らないように…」ともいって…。体を心配していただく。ブログを読んでもらっているようで頑張っているように思えるらしい。

その知人とは以前にたった4ヶ月、県でバイトした時に知りあった。県の元職員さんだ。それなのに今でもこうして声をかけてもらう。今月末にはまた岩国の自宅に遊びに来るようにと誘われた。

人からよく元気だといわれる。じっとしていないのでそう思われるのかもしれない。

黒柳徹子さんがよくTVなどで話している。それは楽しいことをしていると病気にならない、と。確かにそう思う。やることがストレスとなれば体も参ってしまうだろう。

〇〇さん、今月末、またお邪魔します。楽しみです!今日は電話ありがとうございました!

2011年11月8日火曜日

フルートの仲間と…

フルートのレッスンに行ってきた。先週からレッスンの順番が1番目から2番目に変更になる。そのため次のレッスンの人と話をすることがある。でもその人は以前から知ってる人ではなく先週知り合う。

その女性と話していると水泳のインストラクターをしていたことがあるという。当然、その人は競泳の自由形、平泳ぎ、バタフライ、背泳となんでもできる。なかでも「バタフライがいいよ」という。

プールで平常の昼間、バタフライで泳ぐ人は余りいない。それでも時々泳ぐ人を見かけることがある。そのときは、プールは水しぶきがあがり大きく波を打つ。しばし見とれてしまう。

「バタフライは泳げない」とその人に話すと習ったらいいという。クラブに復帰するので…と思ったが、やはり夜、クラブに行くのは辛い。もともと運動神経が鈍い。平泳ぎの「正しい足」もできない。当然平泳ぎは泳がず、泳ぐのはもっぱらクロールと背泳のみ。

これからは以前と違って時間もある。練習すればいいのかもしれない。それもさてさて…。

今日のフルートのレッスンで先生から「レ、ミの♭」の装飾音のミの♭の音について注意を受ける。右手の薬指が左横のキーに触れ、右手小指を押さえてもミの♭の音が綺麗に出ない。レッスン中、右手の高高指と薬指を開く訓練を教えてもらう。少しやっているといい音になる。今夜から入浴の際、その訓練が欠かせなくなった。

レッスンを終えて外に出ると次にレッスンを受けるフルートの仲間2人に出会った。4月からレッスンを再開した。だがその仲間たちとビルの下で会うことはなかった。時間帯が違っていて…。それが今夜は偶然出会った。

1人目はお母さんが入院され、大変な様子だ。その気持ちはアサちゃんを看ていたのでよくわかる。何もかも痛いほどよくわかる。「忘年会で会おう」と話していると、スペインへ一緒に行った知人を見つけた。しばし3人で立ち話。

「忘年会」の季節がやってくる。久しぶりの忘年会だ。もちろん出席する。気が置けない人たちとワイワイいうのが好き。特に今年はそう思う…。アサちゃんに悪い!?まあそれもあまり気にしないで…。楽しみにして…!

2011年11月7日月曜日

年齢!?

土曜、日曜と2日続けて雨が降った。秋の日の雨の割には気温は高い。

そんな雨の日、先週の豆乳鍋の話からスイミングクラブの人と頻繁にメールを交換する。きっかけはクラブの先生の新メールアドレスのことである。その人を通じてアドレス交換をお願いした。

その人はスイミングクラブの女性の中では一番ファイトがある。30代はじめに2児の子供を遺して旦那さんと死別された。それでも立派に子供さんを育てられ、来年3月の退職までずっと仕事を続けられている。

先日の里山ハイキングでその人の家辺りを歩いて降りた。はっきりした家はわからなかったけれど、そのことをメールで伝えると

「今日、〇〇山へ登られたとのブログを読ませて戴きました。本当に体力があるのですね!〇〇さんの心臓は丈夫なのですね!」と返事が返ってきた。そして

「日頃、自転車で動きつけてるとは言え、実年齢よりも体力年齢の方が若いですね。」といわれてしまった。

さらに「〇〇さんの年齢は『100年働いたから、もう働かない…』と言われて、今もって年齢不詳ですよね。」と。

メール交換のたび年齢について書いてある。

「100年働いたから、もう働かない…」の件は覚えてないけど、口癖のように「100」とかいう数字はいうことがあるので多分そう話したのだろう。

人から年齢を聞かれるたび積極的にはいわなかった。

スペインに行くときも誘ってくれた知人は年齢を知らなかったようだった。別に隠していたわけではないけれど…。やってることがどうも子供じみているので年齢云々について聞かれるのかもしれない。

それよりも前のメールでは「昨日は、皆で『〇〇さんを呼ぼうや』と決定しました。」と豆乳鍋の参加を呼びかけてもらった。有難い!きっとその時は皆から年齢についていわれるだろう。

その人は7つのボランティアをしているとか。昨夜は地元の社会福祉協議会の理事もしてるようでスペイン語の教室の事務方の手伝いもするとメールに書いてあった。近くならば習いに行くのだけど遠すぎる。

次の日曜日は我が家の近くで区民まつりが開催される。その人もボランティアでバザーに出品するという。

そのとき少しは話ができるかもしれない。さてその話は…。

2011年11月6日日曜日

4年半ぶりの再会

昨年、ウクライナの留学生と結婚した社会人大学生時代の友人とランチを共にした。といってもまだ若いその友人にご馳走になったのだけれど…。

食事場所は街中にある「キヨ コラージュ」という名の小さなフランス料理店。店内はお客で一杯。それでも予約していたそうでゆっくり食事が出来た。 

ランチのお店キヨ・コラージュ
その友人とは4年半ぶりの再会。

県立美術館で開催されているウクライナの至宝展を見たとき、急にその人のことを思い出す。すぐにメールをすると今日会うことが決まった。

友人の旦那さんは現在、博士課程後期在学でありながら地元の音楽大学の講師をされている。音楽大学といえば今回スペインへ旅行した際の引率者がその大学の先生だった。また、スペインといえば市内某教会の神父様がいる。なんと友人はその神父様の前で昨年結婚式を挙げていた。

この話を聞いてその偶然に2人して驚くばかり!

昨年その人の結婚報告のあとスペインへ新婚旅行に行く話をと聞いている。今回スペインへ行ったこともあり、会ったときすぐその話になった。話の中で神父様のこともわかってきた。友人の旦那様はカトリックの信者で、その神父様とも顔なじみらしい。そして友人のご両親もカトリックの信者だという。

結婚式の写真も見せてもらった。クラシック・バレーをしていただけあってどの写真もグラビア写真のように綺麗。友人曰く「〇〇%の修正が入っている」と。実際はもちろんそうではない。

スペイン語を習う予定だと話すとその人もウクライナ語を習い始めたという。ウクライナ語の文字がキリル文字のため、それを覚えるのが大変だとか。でも大丈夫。中国語も今でも忘れないように習っているというし…。

その人とは親子ほどの年齢差がある。それでも全くその差を感じさせないほど話が盛り上がってしまった!あっという間に時間は過ぎる。

そういえばスペインへ2週間の新婚旅行中、旦那様は4キロ太ったという。全くお酒は口にしないとか。それでも料理の量が日本と違うから太るのもわかる気がする。

今日のランチは2人してワインで乾杯。

また見せてもらった写真には旦那様のイラストと文字が書いてある。大きな体にとてもかわいい絵と文字。絵の方を本職に…と思わずいってしまうほど上手く描けている。友人もそう思うと…。

一番強く感じたのは旦那様の専攻が日本の歴史だけあって戦国武将が好きらしい。毎週日曜日夜8時は「江」を看ているという。

今度会うのはいつだろう。また話を聞けるのを楽しみにして…。今日はご馳走様でした!

2011年11月5日土曜日

『ライフプランと生涯学習』

昨日の「小夏日和」と打って変わって今日は一日雨。そんな中、先日いただいた本のうちの1冊を読んだ。それは舛井一仁著『ライフプランと生涯学習』(敬文社、1997年)である。

筆者は現在、弁護士、大学教授、著者として活躍されている。

この本は筆者自らの人生が浮き彫りにされており、文面から書く側の迫力が読む側にも伝わってくる。

またいつものように気になる箇所をここに記したい。

本の構成は大まかに分類すると「ライフプラン」と「生涯学習について」から成り立っている。

「ライフプラン」については、我が状況にも当てはまる。会社側からの合理化である。筆者はそれについて何も恐れることはないという。「仕事がないから合理化すると会社はいう。私に言わせれば、仕事がなければ仕事を作ればよいのである。人のいやがるところには仕事はたくさんある。汚いところ。きついところ。他人を快適にする環境は、不快な環境で働く人がいるから成り立っているのだと思うと、何だか元気にならないか。」と(34p)。

この「他人を快適にする環境は、不快な環境で働く人がいるから成り立っている…」は当たり前のことなのに言われてみて初めてそのことに気づかされる。

「異文化から学ぶこと」について、そのアプローチの方法を「好きな人は好き」という気持ちで付き合うという(71p)。このキーワードも「異文化」も「自文化」もすべてこう表現すれば当てはまること間違いない気がする。

どうあっても「好きなものは好き」だし、「好きな人は好き」だ。すべてモノ・コトは「好き」からはじまるように思う。

筆者は異文化から学ぶためにネットワークをひろげることをあげている。それには「ギブアンドテイクの良好な関係が続けられるように、常に自分の目標や能力を高め怠らないことである。」と述べる(80p)。

その能力を身につける方法の一つに自らが情報発信基地になればよい、と。そしてその情報に価値があれば十分な効果をもたらすという(89p)。

ささやかながら我が情報発信はこのブログという手段である。それがきっかけで筆者と知り合うことができ、いろいろと教えを請うことができる。そう思えば、筆者のいうようにこれも「メリハリのある人生を演出」となるのかもしれない(90p)。

次に「生涯学習」については社会人になってからの勉強を述べている。自分自身を振り返っても「生涯学習」といえると思う社会人大学入学がある。学んだ6年間は筆者のいうように「自分の生活、人生を豊かにする」ことになった。それについて筆者は「教養を高め、知的刺激を自分自身の脳に与え続けることが前向きな人生にとり不可欠であるからである。」という(99p)。

確かにそう思う。「前向きな人生」になれると思う。我が社会人大学生として学んだ経験は不思議と何でもやれば出来るという気になってきた。それはどんなモノ、コトに対しても気後れしなくなることにもあらわれる。

さらに筆者は社会人としての勉強の大いなるメリットの一つを「気分転換」にあげている(104p)。

社会人大学生になる前まで広島国際センター(財)主催の「ひろしまアジア塾」で学んでいた。自宅に帰る道とは反対にあるその会場に仕事が終わって週に一度通っていた。その講師は地元の国立大学の教師である。通ってくるいわゆる生徒(塾生)もさまざまな職種の人であり、年齢も、性別も違っていた。会社ではお目にかかれないような地位の人もいた。だが学ぶときは全く同一条件。刺激を受けた。見知らぬ世界にはじめて入った気持ちになった。そこでの人とのふれあいが後の社会人大学生へとなっていったと思えば貴重な体験だったと思う。仕事帰りの疲れは全くなく、むしろ鳩が小屋から飛び立つように、勤務時間が終わるとその会場に勇んで通った。8年間は決して長くはなかった。

筆者が述べているように、会社とのオン、オフははっきりさせていた。ほとんど残業はしないようにして…。

さらに筆者は「それぞれの目的、立場で集うのが社会人講座の特徴である。そしてそこには思いもよらない全く新しい異脳の集まり=空間が出来上がることになる。これが本書の最大のテーマの一つである『ライフププランにおける予期せぬネットワーク』のベースとなるものである。学びつつ、そこで見知らぬ一郡と出会い、刺激を受け、新たなネットワークを作る。肩書きや地位や収入や所属団体の評価が全く役に立たない場が出来上がる。その個人の実力だけがネットワーク維持の命綱となる世界なのである。」と社会人のアフターファイブの勉強の効果について述べている(124p)。

それには残業のために「5時以降は絶対に仕事のために自分の時間を供しないことである。迷うな!宣言して実行あるのみである。」と(198p)。5時以降云々は職種によって異なると思うけど、それくらいの覚悟で臨めということだろう。

それほど社会は非情であり、中高年の合理化という悲哀もあるではないかと…。全く同感!悲哀を味わった!だが、それが社会人大学生として学ぶ動機付けになったことも確かである。

筆者はこれからの人生は問題意識を持つことで勉強も可能になると述べる。意識を持続させることが可能なエネルギーはいつまでも待っていてはくれないと…そういって筆者は文を締めくくる(202p)。

本の大半は筆者の母校である早稲田大学のエクステンションセンターなどを例に挙げて専門的な勉強面について書かれている。だがここでは、自分に当てはまる箇所(いわゆる生涯学習)の面について書いた。

読後感は何かしら元気が出てくる。頑張らねば…と思えてくる。さらに我が人生もこれから…と思う。どんなことが未来に起こるかわからないけど一生学び続けたい、と思っている。

舛井一仁様
貴重な本、本当にありがとうございました!
大事にします!

2011年11月4日金曜日

里山ハイキング

明日予定していた里山ハイキングを急遽変更して今日行ってきた。目指す山は我が家から歩いていける。だがこれまで登ったことはなかった。その山は一緒に登る知人に聞くと市の広報誌に掲載されていたという。

最寄の駅まで知人を出迎え、そこから出発点まで行った。山の出発点のお寺に着くと、住職が出てこられた。住職は最近この山への登山客が増えたと話される。知人はそれを聞くと、リュックから持参した市の広報誌を見せると住職はそれを見て納得した様子だった。

寺の住職が市の広報誌に掲載されたことを知らないのも無理はない。寺のある町はかたくなに市に合併せず単独で町制を維持している。

話しが弾んだところで住職に出発点である寺の前で写真を撮って貰った。ブログに載せるので住職の写真も…というと拒否された。人のよさそうな住職だったが…。聞くところによるとその寺は3年後、新たな寺に建替えられるという。

寺の裏手を通って山道を歩く。山道といっても石段の道だ。けっこうきつい。そう思っていると、子供の声がする。近くにある幼稚園の園児が先生に連れられてその石段の道を登っている。多分年少組みだろう。

近づくとかわいい女の子が両手を握ってきた。手を放そうとしない。手をつないで歩いていると知人は前のほうにいる。園児が手を離すと子供たちよりも先を歩いて登った。

少し行くと年長組みらしい園児がいた。かなり上まで来ている。どんぐりを拾いながら…。

それにしても、園児たちもえらいけど先生たちもよくここまで…と思ってしまった。この子供たちはきっと元気な大人になるだろう。

頂上に行く途中で一人で登っている人に出会った。よく一人で色々な山を登られているようだ。

頂上付近に近づいてきた。2箇所いくらもがいても登れないとこがあった。大きな岩が立ちふさがっている。足の長さが短いため岩に足を置くところがない。知人に両手を引っ張ってもらってやっと登った。

どうにか頂上に着いた。ネットで調べると頂上からの下界の眺めは360度のパノラマだとか。そういわれるだけあって360度見渡せた。近場なのにすばらしい景色だ!だが少々ガスがかかり、はっきり見えるとはいいがたい。頂上では蝶々がたくさん乱舞していた。

あとから登ってきた人にあの険しい岩山を…と聞くと回り道があるという。道理で…と思った。

その人は山に詳しいらしく山で出会った5人はその人の話を聞いた。知人も下山の参考にと聞いていた。その人の格言「人は山に登れば(歩けば)長生きできる」。2人してその言葉をブログに投稿するため忘れないように…といいながら。おかげで今日は少し寿命が延びたと笑って…。

その頃時間も正午頃になった。お弁当を食べる。知人は缶ビールを2缶もってきていた。1缶もらって飲んだ。山で飲むビールは美味しい!ところがそのビールをふとした弾みで転がして…。残念!

しばらく休憩して下山になった。来た道とは違うルートで下山した。下山した駅からJRに乗らず、登り始めた駅まで河川敷を歩いた。河川敷を流れる川には鯉が泳いでいる。他にも鴨が…。さらに行くと川の中で海老を取っている人もいた。海老で鯛を釣る!?とか、鯵も。これ本当の話。

今日の行程時間5時間半。それにしてもよく歩いた。また大変暑かった!なんと今日の最高気温25度。52年ぶりの気温だと天気予報でいっている。

休憩するたび頭から汗びっしょり!知人はそれを見て風呂上りの顔だと笑う。それも仕方ない。別に塗りたくっているわけではないのでいいのだけど…。それにしても暑かった!タオルハンカチを2枚持参したけど、次回からはタオルを持参しよう!

さてさて明日の足は…。水泳で全身動かしてるから大丈夫と思うけど…。家に帰るとすぐにシャワーを浴びた。今日もよく眠れそう!

2011年11月3日木曜日

小春日和の日に…

このまま寒くなるのかと思ったらそうでもないようだ。小春日和の陽気に誘われ自転車で外に出た。この小春日和、天気予報によると気温が25度になると沖縄では小夏日和というらしい。はじめて知った言葉だった。

スーパーで買い物を済ませ自転車に乗ろうとすると、先日県北へコスモスを見に行った幼馴染と出くわした。しばらく立ち話をする。お昼もとっくに過ぎている。隣接する区民文化センターのレストランに入った。

そこでランチを食べながら話しをする。最近幼馴染は太ってきたという。そのため自転車に乗らず、歩いているとか。みた所太っているようにはみえない。ところが本人にいわせると太り気味なので何もしたくないという。悪循環では…と話すとじっとしていないモノをうらやましがる。

外に出るのが億劫になっているヒトにいくら外出しようといっても話しは平行線。また会おうといってその場を離れた。

家に着くと、先日の陥没の箇所付近にあるマンホールをさわった跡が伺えた。何か工事を…と思って家の中に入った。

しばらくすると、外でマンホール付近をアスファルトで固めている。チャイムが鳴って出てみると工事の説明をする。

今は緊急用の工事で後日、マンホールを高くして地面も少し上げるという。

我が家の塀の工事を道の舗装が終わったあとで…と思っていた。それなのに…。

我が家の家の周りはドラッグ・ストアの建設や公共道路の工事の音で当分静かになりそうにない…。それも街がよくなるのならば仕方ないことかも…。

2011年11月2日水曜日

本のプレゼント

 本を2冊プレゼントされた。ただ人から本をいただくことはよくあること。ところが今回はそうではない。まだ会社に勤めていた頃『ビジネス知恵セミナー』(日本実業出版社、1993年)を読んだ。その本は10数名の執筆者によって書かれている。その本の中の1人の執筆者の文章に特に心ひかれ、その箇所をコピーし手帳に挟んで20年近く持っていた。

 そのことをブログ開設後の次の日に投稿した。それは「人に元気を与えるためには」と題され、それについて10か条書かれていた。今日いただいた本はその本の著者ご本人からである。送ってくださることは事前に知らせてもらっていた。それでもいただいた本を見て、もうびっくり!

 それは『ライフプランと生涯学習』(舛井一仁 敬文堂、1997年)と『知の現場』(舛井一仁 他20名 東洋経済新報社、2010年)である。ブログにその人の文章を投稿したことがきっかけで、著者の眼に留まった。そしてメールの交換もさせてもらっている。それにしても大変有難い!まだ読んでいないけどしっかり読ませていただきます。

 モットーとする舛井一仁氏の言葉を再度ここに…。

<人に元気を与えるポイント>

1 声を大きく、よく話しをする
2 健康である
3 手紙でも、ファックスでも、思い立ったらすぐ出す
4 悩んでいる人に気を使わせないようにする
5 人脈を豊富にし,質を高く保つ
6 不条理を感じるものがあれば常に怒りを忘れない
7 自分なりのネットワーク・ルートを完成しておく
8 金銭的に少し余裕を持っておく
9 機会があれば旅のかおりを届けられるようにしておく
10 自分の目標を持って突き進む

2011年11月1日火曜日

今日からフルートのレッスン開始時刻が1時間余り遅くなった。それでもいつもと同じように家を出て、広島駅前にあるデパートに立ち寄った。その目的はハイキング用の靴である。

そのデパートの9階はスポーツ用品売り場。靴売り場に直行すると店員がいた。店員に目的の靴を話すと2種類色違いのものを教えてくれた。いわれるままその靴を買おうとすると、売り場の奥に入っていく。だが、そのサイズの靴はないという。店員がいいといったから買う予定だった。それなのに在庫がないとは…。少々呆れてしまった。

ずっと以前、市内のハイキングクラブに誘われて入っていたことがある。運動は得意でないが歩くことは嫌ではなかった。ときどきそのクラブの行事に参加していたこともあった。それが次第に他の事に関心が移り山へ行くことも少なくなっていく。

ところが最近、知人から山行きに誘われた。話しを聞いていると知人も同じクラブに入っていたことがあるという。これを聞いてその偶然に驚くばかり。

今日買ったのは最初に店員が教えてくれたもう一つの色のほうである。

これから秋も深まり紅葉シーズンとなってくる。靴が淋しがって泣かないようせっせと履かなくては…。

2011年10月31日月曜日

プールで…

今朝プールに出かけようとして表に出た。すると家の玄関前の道の真ん中に大きな陥没があるのに気づく。その2時間前に塀の業者が我が家に打ち合わせで来たときは穴は開いていなかった。

辺りを見渡すと、いつも閉門になっている小学校の裏門にペンキを塗っている業者3人がいる。道に穴が開いていると話し、区役所に連絡すると告げて家に入った。区役所に知らせて外に出てみるとその業者は開いた穴に大きなダンボールを置いてその真ん中に人に危険を知らせるポールを立ててくれている。

平常開くこともない学校の裏門。それが今朝に限って業者がいてくれた。もしもいなかったら陥没した穴に落ちて怪我人が出たかもしれない。

プールから帰ると、ブルドーザーが道をふさいで陥没したところを掘っていた。どこまで穴が開いているかわからないので掘っているという。工事は夕方までかかると…。

今朝我が家にやってきた塀の業者は、工事は11月中旬頃になるという。アサちゃんの長女の夫にそう告げると、道の工事が終わった後なのでちょうどいいという。もうあとは業者に任せよう。

今日、プールで1キロ泳いできた。午前中は水泳の先生に会うのだが…と思いながら泳ぎに行った。少し時間をずらせて…。それでもプールに入ると先生の声がする。

指導されている先生のところで挨拶すると、開口一番「なんと派手な水着じゃね」。「貧乏してるんで、安いのを買った…」と返事。

もともと派手な人間には見られない。水着くらい…と思って買ったのだが…。

クラブの練習が終わったとホッとして泳いでいると、一人先生は残っている。先生は泳いでいるコースの前に来て「ここまで泳いで…」と合図する。泳いで近づくとこれでいいから自信を持って泳ぐようにと励まされる。

さらに話していると12月はじめにクラブの有志で豆乳鍋をするので家に来るようにと…。そういってくださるのは有難い。だが先生の主宰するクラブを脱退しているし…というと関係ないという。招待すると…。来ても何にもしなくてもいい、お客さんだと…。さらに付け加えて木曜日の夜以外に、金曜日の夜もクラブの練習をしているという。金曜日に来るようにと。そこまでいわれるとクラブに復帰するしかない。とっさに「練習にいけるかどうかわからないけどクラブに入ります」と先生にいってしまった。

水泳の先生の本職は豆腐屋さん。先生をはじめクラブの人はほとんど地元に住んでいる。一駅であってもJRに乗って泳ぎに行くモノはすこし抵抗がある。これから寒くなるし、ましてや夜にプールに行く…。それも慣れればいいのかもしれないが…。

アサちゃんに手がかかり長くご無沙汰している人もいる。それなのに、これまでどおり、こうして声をかけてもらう。有難い。誰からも相手にされないコトが一番不幸な人だと何かで読んだことがある。そう思えば声をかけて励ましてもらえる人がいることは幸せなコトかもしれない。感謝!

2011年10月30日日曜日

『あなたに褒められたくて』

今月初めから始まったドラッグストア建設工事も日曜日とあって今日は休み。それでも雨は一日中降り続く。家の外も中も静かな日曜日だ。

昨日、高倉健の本を読んでブログに投稿。特別その人が気に入ってるわけではない。だが、ずいぶん前、その人の『あなたに褒められたくて』(新潮社、2001年第11版)を読んだことを思い出し、先ほど図書館でその本を借りてくる。

「あなたに褒められたくて」のエッセイはその本の最後に書いてある。大体の内容は覚えていた。そこの箇所を再度読み返してみる。やはり何か感じるモノがある。

女性が母親を思う気持ちと男性のそれとは相当開きがあるかもしれない。だが、書かれている部分は全く同感する。

筆者は小学校に上がる前、肺浸潤に冒され1年間、安静にしていたという。「この間、母は毎日毎日鰻を食べさせた。…肺病の息子に、鰻を食べさせて何とか滋養を付けさせたい、という母の気持ちは子供心にもわかりましたが、毎日の鰻はつらかった。それで僕は鰻は一番苦手なんです。」(195-196p)

「鰻」といって思い出すことがある。同じく覚えていないほど幼い頃、あまり元気でなかったと母から聞かされた。小さい頃、運動しなかったのはその意味もある。だが、そんな頃、母は他の娘たちには食べさせず弱い娘にだけ「八目鰻」を食べさせたと話していた。おかげで今は姉妹の中で一番元気。

高倉健の母は、任侠映画のポスターの肉絆創膏の貼ってあるのを見て、「『アッ、あの子、まだあかぎれ切らして、絆創膏貼っとるばい』って。見つけたのは、おふくろだけでした。全身のポスターで、誰も気がつかない。『あんたがね~可哀想』」といったという(198p)。

さらに「“帰って誰もあなたを迎える人がいない。それを思うと不憫だ”って、毎回書いてありましたよ。『お母さん、あなたが思っているより、僕はずーっともててるんだよ。教えてやりたいよ。本当に。』『バカ』って言ってました。頑固で、優しくて、そして有難い母だったんです。自分が頑張って駆け続けてこられたのは、あの母(ひと)に褒められたい一心だった思います。」とも書いている(200-201p)。

またさらに「お母さん、僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがってた背中に刺青を入れて、返り血を浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』の夕張炭鉱、雪の『八甲田山』。北極、南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年、駆け続けてこれました。別れって哀しいですね。いつも――。どんな別れでも――。」と述べている(203-204p)。

筆者の映画は「幸福の黄色いハンカチ」しかみていない。だが、筆者ほどではないにせよ、この気持ちはよくわかる。

社会人大学生として学ぶように…と始めにいったのは母だった。NHKのラジオで放送大学の募集案内を聞いた母が入学することをすすめてくれた。結果的には放送大学でなく地元の大学で学んだ。筆者のいうようにその底辺には「母に褒められたくて…」があったかもしれない。頑張らなくては…と。

筆者は文の終わりに「あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね。」といって締めくくる(205p)。

全くそう思う…。一番の理解者を…。

2011年10月29日土曜日

『旅の途中で』

メールを送信しているとチャイムがなる。まだ10時前というのに…と思って出ると、地元の信用組合の支店長だった。

金融関係の人に来てもらうほど我が家は金持ちではない。ましてや働いていない。給料やボーナスは当然入らない。何かの間違いでは…と思いながら話を聞く。手には紙袋を持って…。

紙袋から本とチラシを取り出し、その信用組合の健全性をアピールする。取り出した本は『財界』11月1日号。その本の中にその信用組合の記事が掲載されており、安全性をさらにPRする。

帰り際、支店長は持っていた袋の中の菓子折りとその本とチラシを置いて…。土曜日というのに支店長自ら歩くとはご苦労なこと。

菓子といえば3日間、続けてもらう。一昨日は京都の菓子1箱、昨日は近くの人が市内で並ばないと手に入らないというバターケーキ1箱、そして今朝である。

頂き物はありがたいことなのかもしれない。でも一人なのでそんなに食べられない。

今朝はアサちゃんの長女夫妻が塀の工事の打ち合わせでやってくる。そのときもらったものを渡そう。いつも口に入れるのはアサちゃんのひ孫たちである。

メールの送信といえば、途中来客があっていい具合に送信できたかどうか疑わしい。

今朝のメールの送信先は信奉している本の著者で弁護士さんへの返信である。その本の記事を20年弱手帳に挟んでいた。

最近、毎日新聞記者の近藤勝重の本を読む。その人の本の中に時に高倉健の話が出てくる。それに影響され高倉健の本を読んだ。『旅の途中で』(新潮社、2003年)。その本の中で高倉健も同じようなコトをしている。

「僕は撮影の合間や待ち時間に、よく本を読んだりしています。…大勢のジャーナリストの方に、背筋がピンとなるようなお言葉をいただいて、それをみんなコピーをとって台本の中にはさんで――実は今でも手帳にはさんでいるのですが――読んでいました。そうやって、一生懸命自分の心に鞭を打ってるんだと思うんです。自分の心を癒すのではなく、間違いなく鞭だと思います。…」(133-134p)

これほど名を上げた人でも謙虚な姿勢なんだ…と感動してしまった!

他にも読んだ本に赤で傍線を引っ張っていると述べている。それは木村久邇典『男としての人生 山本周五郎のヒーローたち』の中から引用した次の言葉である。

「『苦しみつつなお働け。安住を求めるな。人生は巡礼である。』すさまじい言葉だと思います。『人間の真価は棺を覆うた時、彼が何をなしたかではなくて、何をなそうとしたかで決まるのだ』…当時迷っていた自分が、こうした言葉に励まされ、勇気を貰っていたんだと思います。何をなしたかではなくて、何をなそうとしたか。」(157p)

いつも思う。名誉や地位を得た人でもそれにおぼれることなく長く皆から愛されている人はやはりどこか違う、と。自分を奮いたたせているんだ…と。

凡人はさらに見倣わなくては…。

2011年10月28日金曜日

スペイン演奏旅行記

今日の午前中は昨夜、知人との話からスペイン演奏旅行の写真をブログに追加することと格闘する。後でわかったことは「ブログの編集」からそのブログをコピーすれば簡単だった。それをウエブ上のブログから貼り付けようとして、てこずってしまった。午後、ついに「ブログの編集」から写真を追加するといい具合にできた。嬉しい!

次回からはもう大丈夫!とりあえず写真を追加したスペイン演奏旅行を投稿しよう。

スペイン演奏旅行記(2011年8月25日-9月6日)

スペイン演奏旅行と銘打った一行38名(中途で帰国組みを含め、最終日には32名となる)の13日間の旅は以下のようであった。まず始めにこれを催してくださった皆様に感謝するとともに、この旅に誘ってくれた知人に感謝したい!そして楽しい旅に参加できた報告をこの場を借りて伝えたい!

8月25日(1日目、木曜日)

午前3時半、前日から用意した携帯電話、電波時計、目覚まし時計のアラーム3個が一斉に鳴り響く。すぐに起床。すばやく身支度を終えると軽く食事をする。

午前5時10分、仏壇のアサちゃんに旅の安全を願う。前日にお願いしていたタクシーに乗車して広島駅新幹線口に到着。これでスペインへ行けると実感。

午前5時25分、広島駅新幹線口に到着。だが建物のシャッターは空いていない。空くのを見届け2階の新幹線改札口に向かう。その間スーツケースを持つ人を見ると同行者?と思いながら歩く。まだ改札口は閉まっている。

午前5時45分、新幹線改札口に集合。誘ってくれた知人以外は皆知らない人ばかり。少々不安を抱えながらも知人と会話している人の話に加わる。

午前6時、広島始発の新幹線のぞみ108号で新大阪経由はるかに乗り換え、8時54分、関西空港到着。スーツケースを預け、パスポートを仕舞おうとしたとき「気をつけて行ってきてください」というメールをもらう。すぐにこれから機内に入る旨、返信。

午前10時55分、フィンランド航空AYO78便に搭乗。機内で隣席になった知人に先ほどメールをくれた人について説明。20年位前からその人の文章をモットーにしていると話し、ブログを通じて知り合った経緯を告げる。知人からブログのタイトルを聞かれ知らせる。

午前12時過ぎ、赤ワインなどの飲み物が出る。

午後1時過ぎ、マッシュポテト、お肉、ビール、コーヒーなど…の機内食が出る。フィンランドのコーヒー消費量は世界一とか?美味。機内は霜が降り、まるで冷蔵庫の中にいるよう。知人曰く、フィンランドは寒い国だから機内もそうだと…。これ本当のこと!?

午後3時10分、ヘルシンキ到着。日本との時差6時間。

午後5時、ヘルシンキでマドリッド行きAY3183便に乗り継ぐ。搭乗前、日本人の親子4人に出会う。聞くところによるとスペインに住んでいるとか。小さい男の子は日本語も英語もスペイン語もできると得意気に話す。この機内ではY姉妹の隣席になる。Yの妹さんから、知人が私をスペイン行きに誘ってくれた話を聞かされる。またいろいろと話をしていると本当に楽しい優しい姉妹だとわかる。Y姉妹とは一番初めに親しくさせてもらった。感謝している。おかげで他の人とも気軽に話せる雰囲気となった。機内食は軽食。

午後8時25分、マドリッド到着。日本との時差7時間。

午後10時30分、マドリッドのホテル着。ホテルはグランヴィア(大通りという意味)に位置し街中にある。広島でいえば八丁堀から紙屋町界隈か。ホテルに着くまでのバスの車窓から沢山の自転車によるデモンストレーションを眺める。夕食のためホテルを出ると街中には娼婦が一定間隔を置いて立っている。この現象は同行したバレンシア生まれで広島在住の神父様によると最近のことらしい。

午後10時45分、レストラン外のカフェレストランで食事。レストランの中よりも外のほうが金額的に高いそうだ。マドリッドではすべてカフェレストランで食事。ビール、生ハム、ツナのサンドで食事。日本では考えられないような遅い夕食。そのメンバーは神父様、教会の信者のEさん(いつも神父様のそばにいる秘書みたいな人)、知人、私の4人。外の風に吹かれながらの食事は心地よい。湿気の多い日本では考えられない外での食事。この日から毎晩遅い夕食が始まる…。マドリッドのカフェレストランでの食事は常にビールを注文。マドリッド以外の都市ではワインが主流。夜半というのにマドリッドの夜はまるで夕暮れ時のようだ。夜9時まで明るい。そのためか真夜中を過ぎても人、人、人の波。まるで皆徘徊しているように街中を歩いている。

気がつくと広島を経ってからマドリッド到着までなんと丸一昼夜もかかっていたと気づく。この日から睡眠時間は毎晩4,5時間あればいいほうだ。どこでもいつでも本当によく歩いた。

マドリッドのホテルは3泊。グランヴィアに位置しているため夜半の2時過ぎまで騒々しい。そのにぎやかさは半端ではない。ピーポー、ピーポーとサイレンの音をけたたましくさせて通るパトカーのうるさいこと。寝られない。外側に面していない部屋の人はそれも気づかなかったらしい。うらやましい限りだ。

スペインのホテルで日本と違うモノ・コトがあった。エレベーターである。エレベーターのドアの外にさらに手動で開閉する木製のドアがあった。またホテルに連泊すると大体のホテルは部屋の清掃やシーツ交換、バスタオルなどの交換がない。他にもヘルシンキに入国した際に入国審査が済んでいたためかマドリッド到着後はそれはなし。EU圏内だからその都度入国審査がないのかも…。

8月26日(2日目、金曜日)

マドリッドの朝は快晴。

午前7時30分、朝食。

8時45分、ホテル出発。今日からバルセロナまでの長い、長い道のりのバスの旅が始まる。そのバスを運転するスペイン人の運転手さんは45歳。バスには必ず運転手の奥様も同乗。日本では考えられない光景だ。

スペイン滞在中、観光案内をしてくださるのは広島市内の某教会のスペイン人の神父様。日本在住49年。広島に着いた初めの頃、江田島に行った際、神父様は毎朝「甲板掃除!」という言葉を耳にする。それはてっきり「おはよう!」という意味だと勘違いする。毎朝バスが発車する際、神父様は笑って「甲板掃除!」と挨拶される。それを聞いて皆ドッと笑う。

バスの車窓から見る景色は一面麦畑。時にスペインらしく牛の看板が立ててある。同行の合唱団の指揮者で音楽大学のS先生は広い麦畑、トウモロコシ畑、ひまわり畑を見てそれにやる水を面白可笑しく話される。スペインの人はそれぞれ2リットル(20リットルかも…。まあ冗談だからどちらでもいいことに…)の水をもって畑に行って水遣りをすると…。畑に人の気配はなく時にスプリンクラーが水を撒き散らす光景を目にする。

午前10時、トレド到着。

午後2時までトレド市内見学。ゴシック風のカテドラル(大聖堂)に至る道のりから眼下を見下ろす。その光景は真っ青な空にオレンジがかった建物の屋根。「これがスペインだ!」と思う。大聖堂の主祭壇の上の白いマリア様の彫刻を見る。聖堂の大きさは日本で目にするものと違ってとても大きい、これもスペイン!?とまた感激。サント・トメ教会、エル・グレコの家見学。大聖堂の広場で休んでいるスペイン人の中に入って早速一緒に記念写真。

白いマリア様

午後2時半 本場のパエリアで昼食。昼食時、先日広島の平和記念聖堂で行われた知人の所属する合唱団の服装の話で盛り上がる。その演奏会では指揮者しか姿が見えなかったと同行した人たちに話すと合唱する人たちは皆浴衣姿で歌ったといって笑わせる。その姿を想像するだけで可笑しい!実際はもちろん正装で歌っていたのだが…。
パエリア
 
午後3時、バスは出発して午後5時過ぎ、ホテル着。

午後5時半、明日のミサで演奏する人としない人とに分散して行動。演奏しない人は自由行動。皆でデパートなど繁華街を散策。大通りでは大道芸人のパフォーマンスであちこちに人だかりができている。鎖で体を縛り付けた人、赤ちゃんの恰好をして乳母車で泣く大人の男、体中を黄金色に塗った背広姿の不動の芸人。不動の芸人は我々日本人に関心をもち、体を動かして握手などする。

午後6時過ぎ、皆と分かれ知人とアイスクリームを食べながらデパートなどを散策。

午後8時夕食。神父様、信者のEさん、Kさん、Tさん、知人、私の5人でBAR (バル)で食事。広場では若者による政治的なデモンストレーションが行われていた。このとき神父様はスペインの街の光景が「綺麗でしょ?」と話される。電線などが日本のように張り巡らされておらず、地中に埋めてある。すっきりした街並み。さらに街灯も日本で見るような光線の色でなく温かみを帯びたオレンジ系統の明かりだった。

午後9時20分、ホテルの部屋でいろいろと旅の片付けや洗濯をする。同室のIさんは用意周到に洗濯物を干すロープを持参している。2人で部屋の真ん中にロープをつるし、洗ったものを干す。乾燥しているスペインなのに洗濯物は乾かない。なぜ?

午後10時、フラメンコを見るため皆で歩いてホテルを出る。フラメンコの開始は午後11時前、もう眠たくてたまらない。女性のダンサーに続き男性のダンサーがフラメンコを踊る。その音とスピード感は本当に迫力がある。上手い下手はその迫力の違いにあるのかと思うほどに。初めて見るフラメンコなのに眠いこと、眠いこと。注文した赤ワインはおいしいけど眠たさには勝てない。ほとんど飲まず。

午前0時前、会場を後にして数人で歩いてホテルに帰る。

午前0時半就寝。

 8月27日(3日目、土曜日)

スペインの空は毎日真っ青。今朝の空は飛行機雲が…。49年前のこの日、神父様は日本に到着されたとか。バスの中、皆で拍手をして神父様を祝う。

午前7時半、朝食。

午前9時、バスで国立プラド美術館へ。知人と日本語で書かれた「美術館ガイド夏2011」を携えて3時間美術を鑑賞。美術館は地下1階を含む4階建て。0階が日本での1階にあたる。この階の表示の違いはホテル、デパートなどでもこんがらがってばかり。折角プラドに来たのだからとスペイン絵画は特に意識してみる。パンフによると「プラド美術館では十二世紀のロマネスク時代の壁画から十九世紀にかけてのゴヤの作品まで年代順位展示しています。一階では中世、そしてルネサンス時代の絵画を、そしてメイン階ではエル・グレコ、リベラ、ムリリョ、ヴェラスケスなどの黄金世紀の画家の作品群を展示。黄金世紀は、一階、二階、三階に分散されているゴヤの作品で頂点を迎える」と書いてある。この中のムリリョについては知らなかった。大半は宗教画である。美術館に行くとミュージアムショップに行くのが楽しみだ。そこでプラド美術館をあらわしたコースターと手鏡を購入。知人は来年のカレンダーなどを買っていた。

午後1時半、ホテル着。午後2時から自由時間。神父様を含む10数人はマイヨール広場にあるカフェレストランで昼食。食事後、皆と別れ、地図の読める知人とグランヴィアを通り抜けて王立劇場、王宮そしてその終点のスペイン広場まで行く。さらにプエルタ広場なども散策。スペイン広場の真ん中にはセルバンテスとドン・キホーテの像が立っていた。その像の下をかがんで入って横に立ち写真を撮る。

その後デパートに移動。思ったより涼しいスペインなので知人はデパートでカーディガンを購入。そのとき店員は「付加価値税10%OFF」のカードがあると安くなるという。そのカードをもらうためカウンターを探す。教えてもらった階が日本のフロアと違うことを知る。探し当ててカードを受け取り、商品をやっとゲット。その後、アイスクリームを食べ終えて地下のトイレに行く。鍵が掛かっていた。トイレに入るには入り口付近にある暗証番号を押す必要があった。教えてもらった暗証番号は1111。アイスクリームは毎日のように食べる。乾燥しているスペインの大地で食べるアイスクリームは必需品!?

午後7時半、ミサに行く。そこで御聖体を受ける。それは信者だけのことであると知り、以後のミサでは受けないことに。この御聖体というキーワード。初めて知る。無理もない。初めてミサというものに参加したのだから。

今回の旅の目的は作曲家ビクトリア没後400年のこの日、この場所で、このミサで演奏することに意義があるという。そのため旅の計画は何年も前からこの日にあわせて予定されていたと聞く。

ミサを終えるとマドリッドに3泊しただけで仕事の都合などで翌日、日本に帰国する人たちが3人いた。少々勿体無いような気もする。それでも帰国組みの人たちは演奏できたこと、あるいは参加したことだけで幸せなときを過ごされたのかもしれない。

午後10時30分、ミサ終わる。

午後11時、マイヨール広場のカフェレストランで10名くらいの夕食。

午後12時半、就寝。

8月28日(4日目、日曜日)

今日も青空。昨日同行者の一人がパスポートを紛失したと聞く。以後、パスポートだけはなくしてはいけないと思い常にバッグに手を置いて歩くようにする。

午前7時、朝食。

午前8時、スーツケースを出す。

午前8時半、3日間滞在したマドリッドとも今日でお別れ。マドリッドから120キロ離れたアビラまでバスで移動。バスから見える山に立つ十字架はマヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線とフランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍が内乱を起こしその両者が祀られているという。勝利したフランコ将軍は1975年に亡くなる。

その頃の様子をこの旅行の実質的な団長であり、合唱団の指揮者でもある広島の音楽大学のS先生にバスの中で伺う。その先生は若い頃バルセロナに留学されている。もちろんスペインへもたびたび行かれている。やはり今のスペインがいいとか。同行の神父様もそういわれる。神父様は今秋スペインで行われるトップの選挙について憂慮される。その選挙でスペインの社会党は(期待を込めて)敗退すると…。やはり自由は尊い!

S先生はスペインに留学中、偶然有名な堀田善衛と知り合いバルセロナの家にも招待されたという。堀田は当時バルセロナで書いた作品を日本へあててFAXで送っている。その生活はお手伝いつきで優雅そのものだったとか。堀田が当時滞在したスペインで書いた『スペイン430日』を早速読んでブログに投稿した。

バスで移動中、目にするものは太陽光パネル、風車、草原にいる牛ばかりで人の気配なし。それを見て知人はしきりに「人がいない!」という。

そして知人の格言「スペインへ行けば(皆)元気になる!」。

確かにそう思う。スペインの国土は日本の国土の1.5倍もあり、人口も3分の1とあっては一人当たりの面積は日本の4.5倍にもなる。それだけあれば日本人のようにあくせくしなくてもゆったりと生活できる。皆元気になれる!

しばらくしてアビラに到着。アビラ大聖堂を見学中、日本語の書籍『創立史』を目にする。ネットで検索すると聖テレジアという人が書いたものを日本語訳したものとか。興味を覚えたのでネットで購入しようとしたが絶版だった。残念!図書館で借りることにしよう。

大聖堂で今回の旅のハイライトである日曜日ミサに参加。S先生の指揮でビクトリアの作曲による作品を演奏。聖堂内に響き渡る歌声は人の気持ちを何故か不思議にさせる。それを表現するには…。どう書いていいかわからない。

アビラ聖堂を見学後、偶然自転車によるツーリングに出くわす。それを見て知人曰く「ツール・ド・スペイン」と。その場所が終着点であったため最後まで見物。すがすがしい青空の下でのレース競技は快適そのもの。

午後2時、アビラ出発。

午後3時15分、パーキングエリアにあるレストランで昼食。美味だが何といっても大量。日本人の食事量の3倍くらいある。スペイン人と日本人の体の大きさの違いはそこらへんにある?

午後4時20分、バスは出発し560キロメートル先のサンティアゴへ。

午後10時半、サンティアゴに到着。遅い到着にもかかわらずレジデンスの人に温かく迎えられる。

午後11時、夕食。メニューはヌードスープ、肉料理など。この辺りから料理にはジャガイモがつく。これがまた美味。レザートは桃とりんごを掛け合わせたようなネクタリン。これも以後毎日食べる。ちょっとすっぱい。だが味が濃くてとても美味。マドリッドよりもサンティアゴ以降の都市の食事が日本人に合う気がする。この都市辺りからカフェレストランでなく屋内での食事に。

午後0時半、就寝。

サンティアゴ到着までに3回トイレ休憩あり。3度目のトイレ休憩は前の2度と違って長い30分間。それはどうもスペインの運転手に対する労務管理だとか。さらに翌日からの48時間は運転してはいけない規則になっているとも。その割には食事のたびに運転手はアルコールを口にする。皆その様子をみて怪訝に。日本では考えられないことだ。ワインは水代わり!?

8月29日(5日目、月曜日)

今日もスペインの空は快晴。サンティアゴの宿泊先は学校の宿舎。TVはなく、シャワーのみ。

午前6時、起床。マドリッドのホテルでは毎日寝不足気味。その原因はホテルの外の騒々しさだけでなく枕にもあると気づく。日本でも枕はなくてよい。昨夜は枕の代わりにバスタオルをたたんだものにする。やっとよく眠れた。以後、毎日枕はバスタオルで…。それでも日本にいるときの8,9時間の睡眠時間を考えると睡眠不足は免れない。

枕といえばスペインで泊まったホテルではどの枕もベッドの幅ほどの長さがあった。日本でもベッドの幅ほど2個枕が置かれているが…。それが日本と違い1個で長いモノ。

午前7時、同室の人が早朝ミサに参列するという。ミサ出席。ミサは同行の神父様が司祭に。参加人員は少ない。教会は学校の宿舎にある。音響効果は抜群によく、神父様の声は聞こえにくい。

午前8時、朝食。フランスパン、ミルクコーヒー、ネクタリンなど。美味。毎日昼食までの時間が長い。しっかり食べないと…と思いつつ食事。旅行中食事と食事の間隔が長いので常に空腹を感じる。かといって1回の食事量を増やそうとしてもそれも無理なこと。おかげで体が軽く調子は良い。

午前9時15分、ここで以前広島の音楽大学に非常勤講師で勤めていた日本人女性のタケベ先生と合流。その先生は30代の年齢でサンティアゴの大学のスペイン人の学長(40代なのに学長)と結婚されスペインに在住。サンティアゴ滞在中はこの先生に音楽堂など案内してもらい散策。サンティアゴでの食事の手配もすべてこの先生による。

午前9時半、宿を出発。演奏組みは練習。その他の人はサンティアゴで自由時間。知人と午前10時40分というのに朝からビールを。ワイン、水、パンは毎食、食卓に出る。ところがビールは出ない。時に乾燥しているスペインでは冷たいビールが…。

サンティアゴはサンティアゴ巡礼の終着点。道の中央には10余センチくらいの大きさの黄金色の帆立貝のレプリカが一定間隔を置いて埋められている。巡礼する目印とか。同行の信者の人に帆立貝とカトリックの関係を聞くが知らないという。先ほどネットで検索してその意味を知る。

ホタテ貝のレプリカが埋められている

「サンティアゴ巡礼の道標のように、行く先々で我々に方向を示してくれるホタテ貝のマークを見かけます。また、巡礼路を歩いている人々がホタテ貝のペンダントをぶら下げている光景にも度々遭遇します。何故でしょうか?昔はこのホタテ貝をお皿代わりに、食べ物を恵んでもらったことから、この必需品・ホタテ貝が巡礼者のシンボルになったと言われています。」(http://www.eurasia.co.jp/nittei/s_europe/qsv5/camino/index.htmlより引用)

サンティアゴ巡礼の道についてスペイン観光局の「ガリシア」のパンフによると「サンティアゴ巡礼の道は、本当の自分に出会うための自分自身への巡礼の旅である。」と女優シャーリー・マクレーンの言葉を引用して書いてある。さらにドイツの哲学者ゲーテの言葉を引用して「サンティアゴへの巡礼によってヨーロッパは作られた」という。「欧州理事会はサンティアゴ巡礼の道を『初のヨーロッパ文化の道』として制定し、ユネスコは『世界遺産』に登録しました」と書いてある。

さらに付け加えて「今、興りつつある三つの価値観に、自己啓発、精神性、そしてロマンティシズムがあります。サンティアゴ巡礼の道を歩けば、新世紀に頒布すると考えられているこれらの価値観を、追求することができるのです」とも書いてある。

私たち一行のスペイン演奏旅行は徒歩での巡礼でなくバスであった。それは徒歩に比べてた易いことである。それでもサンティアゴに行ったのだから気持ちのうえで巡礼だったと思いたい!

同行者は皆この自由時間を利用してお土産を買う。帆立貝のペンダント・トップなど売られている。色もエメラルド・グリーンとコバルト・ブルーを合わせたようなものがとても綺麗。装飾品に余り関心がないのでただ見るばかり。日本では見られないものだが…。お土産にはいいかもしれない。金額的にもそれほど高くない。その後知人と大聖堂の中に入るとミサが行われていた。

午後1時、皆集合。タケベ先生の案内で市場に同行。休みのところもあったが、チーズなど真空にしてもらって購入する人もいた。知人とチーズでなく植物の種を購入。種の名前は“Acaricida”だった。その和名はさてさて…。花が咲いてからのお楽しみ!?

午後3時、レストラン内で昼食。サンティアゴについてからはワイン、パン、水は必ず食卓に出るがビールはない。食事はガリシア料理に。ししとうの揚げたもの、タコの揚げたガリシア風料理、イカスミライスなど。いずれも美味。

食事中合唱団の世話をしている女性のKさんが「いい人を旅行に連れてきてもらった」と知人に話しているのを聞く。その意味は途中帰国組みがいたので、旅行中、宿泊メンバーが入れ替わるところをずっと同じ人とでいい…と話したことにあるようだった。旅行中は皆に迷惑だけはかけないようにしようと思っていた。それを聞いて少しホッとする。

昼食も佳境に入る頃、かわいいスペイン人の坊やを連れた家族に出くわす。ギター奏者のKさんはその子が気に入ったよう。いつもまるで十字架を背負っているかのようにギターを背にして歩くKさん。レストラン内で得意のギターを演奏。皆笑いころげてレストラン内のにぎやかなこと。日西友好親善のレセプションといった感じで大いに盛り上がる。旅行中、スペインは昼食が夕食よりも正餐?と感じることが多かった。本当はどっちが正餐!?

昼食後、皆と買い物などで散策。途中、買い物から外れて知人とアイスクリームを食べる。その後、知人とIさんと3人で新市街を歩く。そこにあるお店でグレイのラメ入りのワンピースを目にする。知人はそれが似合うから秋に行われるフルートの発表会で着るようにという。そしてさらに「それを買ってあげる」とまでいう。もうびっくり!さらにそこで試着するようにと同行の2人はいう。そういわれても…。気持ちだけありがたく頂戴してワンピースを購入。帰国後、試着すると体にぴったりだった。発表会に本当に着る!?

さらに3人で歩いているとスーパーがあった。そこに入ると知人は日本のキリンビールを目にする。ホテルではもっぱらワインが食卓に出る。知人は皆に飲ませてあげようと日本の缶ビールを買う。ついでにホテルには冷蔵庫がないからナイロン袋に入った氷も購入。そこには日本のしょうゆも売られていた。缶ビール、しょうゆの他に水、嗜好品など買ってホテルに…。水だけでも1.5リットルが2本。重いものはすべて知人が持ってくれる。気の毒なのでバッグに入るだけ缶ビールを持つことにした。

買い物を一緒にしたIさんは偶然にも同じ町内に住んでいる人だった。これからもばったり会うことがあるかもしれない。

午後7時前、ホテル着。

午後8時半、いつもより早めの夕食。

午後11時、これもいつもとは早めの就寝。

8月30日(6日目、火曜日)

サンティアゴの朝は小雨。
 

昨夜は就寝時刻も早く久しぶり8時までよく眠った。ところが朝ホテルの部屋でトイレを済ませると扉が開かない。べつに鍵をかけて入ったわけではない。幸い同室の人がいたので声をかけると必死で開けてくれた。もし一人だったらと思うと恐ろしくなる。

午後0時から午後1時半までサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂でミサ。昨日知人とちょっとだけ入った教会だ。早めに教会に入り椅子に座ってミサの始まるまでオルガンの音色を聴きながら待つ。その雰囲気に圧倒され、これまでのさまざまなことが頭を過る。ミサが始まるとそれも頂点に達し涙が止まらなく…。ちなみにサンティアゴとは聖ヤコブのスペイン名とか。その司祭には同行のカトレット神父も加わる。


サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂

この大聖堂のハイライトは何といっても大香炉振り(ボタフメイロ)であり、ミサでこれに遭遇できたことは幸せだった。JTBのパンフレットによると「サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂内において行われる信者や巡礼者の魂を清め、堂内を清浄にする儀式。ロープに吊り下げられた巨大な香炉が振り子のように往来します。」とある。それも佳境に入る頃には香炉の煙で教会内は真っ白に…。

午後2時半、大聖堂近くで昼食。このとき同行者の一人のIさんが誕生日を迎え、皆でケーキや歌などで祝う。

午後4時、昼食を終えた後、少々雨が降っていたが10数人で散策。新市街にある昨日も行ったスーパーに行く。今夜は規定の夕食はなく食事フリー。皆は夕食などを買い込む。ところが知人に聞くと買わないという。ただ水や嗜好品を買うのみ。

午後6時、ホテルに着くが部屋に入れない。知人も私も合鍵は同室のヒトが持って出ていた…。仕方なく私はTさんとIさんの部屋に居候させてもらう。知人はロビーに一人いるという。居候させてもらった部屋で、女性3人で色々と話をする。自然と話題は旅に来たきっかけと知人との関係に…。その話や母の介護の話などし終えるとTさんも息子さんのことを話される。大変な様子が伺える。皆いい人たちだと改めて知る。

午後7時15分、歩いて教会へ行く。サンティアゴではホテルと教会のあるところまで何往復したかわからないほどよく歩いた。おかげで一番その光景をリアルに思い出す。とはいっても地図が読めない女は知人について歩くのみ。このことを実感した旅だった。

午後8時、イエズス会の聖アウグスチン教会でコンサート。この模様は地元紙3社に掲載され、録音もされてCDになるという。この件に関しては地元在住のタケベ先生の応援にあるらしい。現地でその掲載された新聞を見ると写真入りだった。このコンサートはミサ曲だけでなくKさんのギター伴奏つきでウイーンで活動されている若い男性のOさんの独奏も披露された。独奏は「竹田の子守唄」などの日本の歌だった。スペインで聞く日本の歌もなかなかいい感じ。終了後、知人は地元の人から「ハポン?」と聞かれ、日本の広島からと答える。広島は世界に出ると知名度はある。その点はいいことかも…。

演奏会が終わると夕食のことが心配になってくる。何しろ日本から飴一袋しか持ってきていない。ホテルに帰る途中、心配になって同行の人に話すとカップ麺をくれるという。今夜は飴とカップ麺と水で寝ようと覚悟する。それにしても知人はどうするのだろう…と思いながらホテルまでの 道のりを歩く。

その日、宿泊するホテルを利用するには部屋ごとの鍵以外にホテルの出入り口の鍵とホテルの敷地に入る鍵の3つが必要だった。この3つの鍵は全員にいきわたらず、参加した人をグループに分けてそのリーダーが持つことになった。知人は所属する合唱組みのリーダーとなり鍵を持つことになる。午後10時過ぎ、グループがホテルに着くと敷地の鍵を開け、ホテルの玄関の鍵を開けて各自部屋に入る。

それを終えてしばらくして食料を持ってない知人と外に出てレストランを探す。その前に知人はカップ麺を同行の人からもらっていた。私もIさんがカップ麺をくれるというので部屋番号を聞いていた。それなのにIさんのところへは行かず知人と外に出て食事をした。その夜、Iさんはいつ来るかもしれない私を待って部屋の鍵を開けて寝たという。人の好意を無にしてしまった夜だった。ただ謝るしかない!

知人と遅い夕食を食べに街中へ繰り出す。街灯だけの明るさで人気のない道。ホテルから10分ぐらい歩いたところに差し掛かると大通りに出た。感じの良いレストラン“Meson-Parrillada ARGENTINA”が開いていた。そこを今夜の夕食場所と決めパスタ、パン、ビールなど注文して分け合って食べる。美味であった。一番心配していた食事にありつけた夜となった。

午後11時半、ホテル着。部屋で寝ていると演奏会に出た同室の人は打ち上げに出席して上機嫌で帰ってきた。演奏者たちのその様子を同行のTさんのブログから勝手に引用させてもらう。「総勢600人のお客さんが来ていたそうです!暖かいお客様で、最後はスタンディング・オベイション!そりゃあ、色々ミスはありましたが、きっと良い演奏だったと思います!なぜなら、最後のアンコールでS先生が身悶えしてましたからね♪あんな聖堂で歌えるって、素晴らしい!」と述べている。

それにしても宿泊したホテルと聖堂までを何往復したことだろう。本当によく歩いた。途中には毎朝アルコールを飲んでベンチでたむろする浮浪者5,6人の姿も目にした。彼らは会うたびに知人に「ハポン?」と声をかける。知人もスペイン語で彼らに応対する。時に雨が降ると彼らは近くの屋根のある場所に移動していたりして…。

8月31日(7日目、水曜日)

サンティアゴは曇りのち晴れ。

午前7時前、スーツケースを出す。

午前7時、ミサに出席。

午前8時、朝食。

午前8時45分、3泊したサンティアゴを出発。レオンまでの道のり360キロをバスは行く。
旅行の中日にあたるこの日、神父様は終日ご機嫌である。車内で大きな声で歌を歌われたりして…。バスの車内のTVからはバルセロナオリンピックの歌やスペインの歌が…。

午後1時45分、レオン着。大聖堂の付近の建物はどの窓にも綺麗な花が植えられている。大聖堂での休憩時間は先にトイレに行き、その後アイスクリームを食べる。だがその間にシェスタ(お昼寝タイム)になり聖堂の中の綺麗なステンドグラスを見られず残念!シェスタは午後1時半から4時までだった。ほとんどの同行者は見られなかったようだ。

午後2時15分、バスは出発。バスから見る風景は見渡す限り一面平原。

午後3時半、昼食。このときの食事は良く覚えている。一人ひとりの食事の量がとても多かった。例えば生ハムにメロンの前菜では大きなお皿には皿から出そうなハミウリのようなメロンが2切れと生ハムが…。もうこれだけでお腹がいっぱいになりそう!そしてメインは同じく大きな皿一杯に骨付きの牛肉を焼いたものが…。半分も食べられそうにない。それもそのはず。のどの渇きを潤すためまずはビールを飲む。それだけでお腹はいっぱいに…。乾燥したスペインの大地で飲むビールはやはり必需品!?

出される料理は各自同じでなく、違うものをとって分け合って食べることも。それにデザートが加わる。もう見ただけで食べられそうにない。美味しいと思っても一度に食べる量には限界が…。いつもこうして残す。そのたびスペイン人は出されたものを全部食べるのかと思いながら彼らの太る原因を勝手に想像。

午後6時、ロヨラから180キロ離れたブルゴス到着。気温17.2度。寒い。カテドラル大聖堂に着くと半端でない大雨に。すぐに同行者は皆、駆け足で聖堂の中に入る。聖堂は世界遺産に登録されている。

午後7時半、バスで大聖堂出発。

午後11時過ぎ、道に迷いながらもやっとバスは190キロ離れたロヨラに到着。ロヨラのホテルは新しい。

午後11時過ぎから12時まで相変わらず遅い夕食。スペイン滞在中、食事と食事の間隔が長いためいつも空腹感…。食事後シャワーを浴びてすぐに寝る生活は日本では考えられないコト。

バルセロナのホテルとロヨラのホテルのみバスタブがあった。そのスペインのホテルで気づいたことがあった。部屋に換気扇、扇風機、エアコンはない。日本だったらシャワーを浴びると部屋中が湿気で一杯になる。だがスペインの気候、風土なのかそういった類のものは見られない。

9月1日(8日目、木曜日)

昨夜は午前1時半から7時半までぐっすり眠る。ロヨラの朝は曇り空。ロヨラはイグナチオ・ロヨラの生誕地。
 

午前8時、バイキング形式の朝食。美味。

午前9時、ホテル近くにある城と聖堂見学。ロヨラに関わる生活道具、絵画などが展示されている。そこには日本から当時やってきた3人の姿もあった。

ロヨラの聖堂
午前10時、微笑みのキリスト像のある小聖堂で同行のカトレット神父様を司祭にミサ。このミサでは神父の日本語がはっきり聞き取れた。ワインは大地の恵、水・パンは生命の恵であり、モノよりヒトを大事にしなければならない…。食卓にワイン、水、パンが並ぶ理由をやっと知る。

イエズス会はここロヨラの聖イグナチオ教会から世界へと出かけている。イギリス映画「ミッション」はその辺を画いているらしい。見たことはない…。

午前11時、次の目的地まで210キロ離れたザビエルへ向けバスは出発。移動するバスからはこれまでの風景とは違い日本の山を思わせる。

午後0時半、バスはロクローニョの駅でパスポートを紛失したヒトを下車。そこからパスポートの交付を受けるためバルセロナに向け出発するという。不幸中の幸いながら紛失者は以前スペインへ留学経験ある人。そのため、言葉もスペインの状況もよく察知されている。もし何もわからないモノだったら…。

午後2時半、昼食。昼食のメニューを各テーブルで神父様が説明してくださる。そのとき若い音大の女性のWさんは神父様が一番嫌いだと説明した食べ物を注文。神父様はそれを聞いて彼女が一番好きだといって皆を笑わせる。出てきたものはやはり美味しくなかったようだ。その様子を察知したバスの運転手さんも彼女がかわいいといって写真をとる。実際にかわいい女性であった。その食べ物とはArroz Con Lolme(ミルク入り稲米)。

午後3時半、バスが出発するとき車内で若い男子音大生のT君は先ほどパスポート申請でいなくなった人の物まねをはじめる。もう本当に可笑しい!よく似ている。皆バスの中で笑い転げる。そのときだったのかもしれない。こういうことがあった。

若い人たちは偽の入れ歯を歯に刺してドラキュラのような顔をして写真に撮っている。これを見たときも本当に笑った。それまで今頃の若い音大生は「おとなしい!」というイメージを持っていた。それがそれをみて一気にそのイメージは崩れた。やはり若いということはすばらしい!楽しい人たちであった。一人、旅の主を失ったバス一行はザビエルに向かって出発。

午後4時、ロヨラから200キロ離れたザビエル到着。廃墟のようなザビエル城には真っ青な空が…。この光景はシルクロードの建造物を思わせる。こういうひなびた風景こそ旅するモノの心を和らげてくれる。大好きな風景だ!ザビエル城は山口にあるザビエル教会とも姉妹都市として関わりがあるらしい。

午後5時、210キロ離れたフランスのルルドまでバスは出発。出発したバスの車窓からは長くて大きいダムが見える。しばらくバスが行くと長い国境を抜けてフランスに入る。気温23度。ピレネー山脈を越えてバスはくねくねした山道をどんどん進む。知人は「林道」だという。道の両脇は深く険しい岩壁の山々。さすがピレネー山脈だ。さらに進むと放牧された牛がいる。一面トウモロコシ畑。


午後8時過ぎ、バスは迷い道をしながらくねくねと林道を進んでやっとルルド到着。バスから降りるとき少々酔ったような感じがした。ほとんどのヒトがそうだったようだ。ルルドはスペインとフランスの国境になっているピレネー山脈のふもとにある小さな街。聖母マリアの出現と軌跡の水“ルルドの泉”で有名らしくカトリック教会の巡礼地となって世界各国から観光客が訪れる。

午後9時、マリア様のローソク行列にお店で買った紙の灯篭とローソクを手に持って参加。その日は風が強く吹いていた。そのため同行の人3人にローソクを点火してもらうがそのたびもらった人のローソクを消してしまう。この行列にはマリア様を先頭にして長い列ができ、歌声に合わせてローソクを手の上にあげたり下ろしたりして歩く。その光景を写真に撮りたいのだが、撮っていると真っ暗いので知人からはぐれてしまう。はぐれるとホテルに帰る道が全くわからない…。この行事は毎日行われるという。

そこで歌われていた曲は次のような歌詞だった。

AVE MARIA DE LOURDES
LOUANGE A  NOTORE-DAME  DE LOURDES
SA LVE REGINA

小さい紙の灯篭に書いてある文字から以上の3曲だったと知る。曲は何度も聴いていると覚えられそうだった。

ローソク行列

午後10時過ぎ、ローソク行列も終わるともう一つの合唱団の世話人のKさんたち3人とTさん、K さん、知人、私の7人はカフェレストランで夕食。ここのレストランのスパゲティは不味かった。知人や同席の人のピザをもらって食べるとそれは美味だった。多分各国から集まるローソク行列の参加者のためのレストランと思われるので、ファストフード風の店かもしれない。レストランまでの道は人、人、人、人…で街は溢れかえっている。ホテルに帰る途中、皆で買い物。チーズ、チョコレート、水など買う。
午後11時半、ホテル着。

午前1時半、就寝。

知人と同室のYさんはこの日は別居!?途中下車した人の部屋が開いているため別々の部屋になったとか。ホテルの部屋の寝室には2つのシングルベッドが置いてある部屋と二段ベッドが置いてある部屋があった。キッチンもついており家族で泊まるコテージ的感覚。バスルームに換気扇があると思ってつけると温風ヒーターだった。新しいホテルだったが寒さ対策はあっても暑さ対策は必要ない!?

9月2日(9日目、金曜日)
 

午前7時半、朝食。

午前8時半、荷物を出す。

午前10時、ルルドの聖母のマリア様が現れた洞窟の祭壇の前で同行のカトレット神父の司祭によるミサに参列。ヒトは一人ではなく亡くなった人も天国で一緒になると聞く。またサビエルの洞窟から聖母マリアが予言して湧き出た泉は治癒効果があると信じられているとか。その水を求めて春から秋にかけて世界中から多くの巡礼者が訪れるという。
ルルドの水をくむ観光客の列
 

 
 
ミサの後、その水を汲んで日本まで持ち帰る。持ち帰る容器はお店で売っている。購入した容器はマリア様の形をしていた。ペットボトルで持ち帰った人もいる。“奇跡の水”を求める人の中には車椅子の人が多くいた。神父様もこの日歩き疲れて足が痛いためか車椅子を押してもらっていた。

ピレネー山脈を越えて

午後0時、ピレネー山脈を越えて岩肌の見える山々を眺めてバスはルルドから440キロ先のバルセロナへ。バスで移動するときトイレ休憩がある。レストランやパーキングエリアのトイレにはこれまで行ったどこにも便座がない。これにはびっくり!皆どうやってトイレを済ませたのだろう。

午後3時、昼食。昼食といっても予約無しで入ったレストランのためツナサンド等の軽食に。レストランの中は急遽入ったため皆が座れる椅子がない。関西から合流した女性の先生が外のテーブルをゲット。中よりも外の方が気持ちいいので外の椅子に座って缶ビールを飲みながら皆で食べる。

午後8時、バルセロナのホテル着く。ここで紛失したパスポートの交付を受けた人と合流。近くにいた人はバスの中で学生がその人の物まねをしたと報告する。そこでまた笑いが起きる。ホテルは帰国する5日まで3連泊。

午後8時半、夕食。バルセロナはこれまでの他都市と違って日本のように蒸し暑い。この日は昼食も余り食べてないためか早い夕食。換気扇、扇風機、エアコンなどはなく、夕飯は汗をかきながら食べる。

午後11時、就寝。部屋のベッドの配置は二つのベッドが縦に並べてある。背が高い人同士ならば足と足があたるだろう…。

バルセロナについたあたりからひどく咳き込む人が出てくるようになる。同室の人もそうだった。
 

 

9月3日(10日目、土曜日)

バルセロナの朝は晴れ。この日早朝、同行者のうち3人は早めに日本に帰国。日本では台風が近づいていると誰彼となく聞く。 

午前7時前、起床。

午前8時、食事。

午前9時、モンセラット山までバスで移動。モンとは山、セラットは切り取られたという意味。

午前10時、モンセラット山に到着。

午前11時、モンセラット修道院見学。ここにおいてあった日本語のパンフには「拝みましょう 聖母マリアを」と書いてある。さらに「聖母マリアはここから参拝にみえる方すべてを暖かく見守ります。今日モンセラットを巡礼する人への言葉。ようこそ」とも書いてある。この聖堂の中の「上昇とエスコラの扉」の前の横向きになっているエスコラ(少年聖歌隊員)の一少年の像をみて感動。「エスコラの木製の彫刻は、モンセラットの少年聖歌隊の一員となることを望み、一日だけその望みがかなった、病気の子供の肖像です。少年の死後、彼らの両親は、このような形で少年の望みを不死身の形に残しました。」とか。その少年の顔はまるで生きているかのように人を惹きつける。
モンセラット修道院の掲示板


エスコラの木製の彫刻
この修道院は教会付属のモンセラット少年合唱団が7月とクリスマスシーズンを除いて毎日、ミサの後、歌声を披露するという。このベネディクト修道会には80人のベネディクト派修道士がいる。またカタルーニャ地方で最初の印刷所がここモンセラットで創業されたからかどうか、お土産店ではどこの観光地よりも書物が沢山売られていた。

午前11時過ぎ、修道者たちが捧げる総合ミサに参列。ここでのミサはこれまでのミサの聖歌と違い、カタルーニャ語のグレゴリオ聖歌。色々なミサに参列したけどサンティアゴのミサと並んでここモンセラット修道会のミサもひどく感動する。

ミサが終わると皆でケーブルカーに乗ってモンセラット山を目指す。乗っている間、スペイン人の2組の親子のグループと話す。何といっても文化人類学に関心があるので出かけた先の国々の人とは仲良くしたい。そこでの母親との会話は慣れない英語での会話であったが何とか意志が通じた。「何日間のスペイン旅行か」「スペインのどこに行くのか」「どこから日本に帰るのか」などと。本当に楽しい瞬間であった。一緒に写真もとった。やはりそのときの顔は我ながら楽しそうに写っていると実感。

ケーブルカーを降りたところから見下ろすバルセロナ市内は本当に広い。山はモンセラットがのこぎり山といわれるだけあって奇怪な丸みを帯びた岩山の峰が四方を連ねる。ケーブルカーを降りると知人と山の上にある観光ポイントを目指して砂利道を歩く。ケーブルカーまで同行した人の中には砂利道を歩くのにふさわしくない靴の人もいた。大変だろうなと察する。幸いスニーカーをはいていたので砂利道も難なく歩けた。途中行きかう人に日本人はいない。知人はよく外国の人から声をかけられる。すれ違う人の話し声からどこの人…と教えてもらう。

しばらく歩くと観光ポイントに着いた。そこで写真を撮っていると来る途中で知り合った外国人が知人と2人だけの写真を撮ってあげるという。他の人も一緒に写ってしまうとかで写す場所を色々指定されて写真におさまる。そこだけでも数枚写真を撮ってもらっていた。写真を撮ってくれた人と話しているとその人たちはスペイン人であり、日本にも来たことがあるという。そして日本は桜が綺麗だともいう。知人はドイツ語も習っているだけあって外国語に強い。移動のバスの中でもスペイン語をしきりに覚えたりしていた。ここで出会ったスペイン人とも結構話を交わす。旅の楽しさはこの辺りにもある。

砂利道をもと来た道に引き返していると、指揮者のS先生やギタリストのKさんたちがギターを背負ってこちらに歩いてくる光景と出くわす。これから観光ポイントを目指すとか。次第に天気も下り坂になっている。雨の降らないうちに下山されるといいのだが…と思いつつ知人と砂利道を下って歩く。

ケーブルで降りるとモンセラットの土産店に寄る。ここまで余りお土産らしきものを買っていなかった。もうバルセロナの観光しか残っていないと思ってお土産にチョコレートを買う。買い物を済ませると昼食を食べにレストランに入る。そこでは同行者の人も沢山いた。調理したところに並んで好きなものを注文する。日本のファストフード店のようなものばかりが目に付く。トマト味のスパゲッティーを注文。やはり山盛りだ。知人はビールのつまみになるようなものを注文している。知人がビールを注文するとそこで店の人はいなくなってしまった。いくら待っていても店員が帰ってこないので仕方なくビールの代わりにスプライトを注文。スプライトとスパゲッティーの組み合わせはまったく不味い。スパゲッティーも山盛りなので半分くらいだけ食べる。山の上のレストランだ。美味しさを求めるほうが無理というもの!?

この後、マンレサ洞窟訪問。同行の神父様は日本に来られる49年前、ここで8日間、黙想されたという。この洞窟の小聖堂の天上を見ると高山右近大名の絵が描かれていた。

午後5時15分、ホテル着。

午後8時まで自由行動。皆でメトロに乗って街中に繰り出す。指揮者のS先生からメトロの乗り方を習いながらメトロに乗り込む。メトロは大阪の地下鉄に似ている。だがホームをまたぐことができないため上り、下りを確認しないとメトロに乗れなくなる。デパートや大通りなどを散策。同行者でスーツケースが壊れた人、或いはお土産が多すぎて新たにスーツケースを購入する人もいる。ここでもアイスクリームを食べながら歩く。中の一人はアイスクリームの「ナタ」を注文。よくスペインのアイスクリームの名を知っているなあと思っているとその人は「ナタ」はどういう意味かS先生に尋ねる。先生曰く、ナタデココのナタとか。聞いた人もそれを知って少々びっくり。その人はアイスクリームが美味しいといって食べ終わるとさらにもう一つ違うものを注文。

アイスクリームは本当に良く食べた。日本ではほとんど食べないといっていいほど冷たいものを口にしない。まあビールは例外だけど…。ところがスペインは乾燥しているためかやたらとアイスクリームが食べたくなる。アイスクリーム・ツアー…と笑ったりするほど良く食べた。

午後8時半、ホテルのレストランで夕食。もうこのときは部屋が暑くて…。扇風機、エアコン、換気扇類は全くなし。顔を扇子で扇ぎながら食事をする。隣席の人も顔をハンカチでぬぐって…。2人して暑い、暑いと…。それに加えてワインを飲む。余計体も顔ももう火が出るほど暑い!日本でエアコン無しで食べるようなもの。あの暑さはスペインの思い出?…。

いつになく早い夕飯を終えると部屋に戻り、相部屋の人とこの旅ではじめてゆっくり話す。旅に誘ってくれた知人のことを聞かれる。知人の職業は?既婚者か?など。いくら聞かれても他人のコト。いえる立場にない。すべて「本人に聞いてください!」といって押し通す。既婚云々について私は既婚者ならば誘われても行かない…と話す。

知人は別の機会に他の同行者から「仕事は?」と聞かれたときスペインでよく見かける「芝刈りです!」と笑って答える。それを聞いて私は「農夫よね」といい、さらに「漁夫もね」という。太田川(広島市内で一番大きい)で鮎をとっていると冗談を交わして…。

相部屋のヒトは話しながらもスペインで風邪を引いて喉が痛いといって薬を飲む。話しているうち時刻はもう午前1時に…。就寝。

9月4日(11日目、日曜日)

バルセロナの朝は今日も蒸し暑い!

午前7時、起床。
午前9時15分、ホテル出発。バスから見える車窓には虹が出ていた。バルセロナ市内にある世界遺産に登録されている音楽堂訪問。そのホールは2146名収容可能。1905年から3年間で建設され、30年前は雨漏りのため使用できなかったという。この音楽堂の運営母体は合唱団。音楽堂について説明を聞いた後、ホールでパイプオルガンを聴く。
バルセロナの音楽堂外観


バルセロナ市内


午後2時、サクラダ・ファミリア横のレストランで昼食。ほとんど皆昼食を終えた頃、バルセロナのガイドのサントさんが「外尾さんだ!」というのを聞く。もうそれを聞いてびっくり!奥に入られるから待つようにという知人の制止を振り切って足はもう前に…。外尾氏のところに行って写真を撮ってもらう。その後も誰彼となく写真を撮ってもらっていた。

サクラダ・ファミリア訪問。入るだけでそこは人、人、人。外観の説明を神父様より聞く。もう見上げるようにして話を聞く。中に入るとこれまたとても広い。指揮者のS 先生は若い頃スペインに留学され、その卒業演奏会を地下のホールで演奏させてもらったことがあると話される。先生にとっては本当にすばらしい思い出だろう。
サクラダファミリア


サクラダファミリア内部の天井


サクラダ・ファミリアをエレベーターで上がっている間に、エレベーターで上らない他のグループの人は外尾氏から一般には入ることのできない礼拝堂や地下のガウディの墓など特別に案内してもらったという。部屋に帰って相部屋の人からそう聞いたときはとてもショックだった。相部屋の人からそのとき外尾氏から聞いた言葉を教えてもらう。「芸術とは作る側だけでなく見る側があって始めて成り立つものだ」と。どうも聞くところによるとサクラダ・ファミリアの誕生の門の未完成部分についての話らしい。
サクラダ・ファミリアをエレベータで上がってから眺める下界


エレベーターで上がって降りてきた受難の門のところで栃木県から来たという若い小野田さんと根岸さんの男女に会う。「新婚旅行?」と知人が聞くとそうではないという。13日間の旅行とか。その日数は私たちと同じだが…。

午後5時半、希望者のみグエル公園見学。サクラダ・ファミリアを後にしてグエル公園に行く。途中のバスの中で知人に「完成後のサクラダ・ファミリアを見ることができるかね」と話すと「見に来られる!」という。完成後のサクラダ・ファミリアを見たいものだ。

グエル公園に一度行ったことのある知人はこの公園は行くようにとすすめてくれる。グエル公園の丘に上がって皆で写真に写っているとき、ガイドのサントさんは偶然幼馴染の女性と30年ぶりの再会。
 

バルセロナには4大世界遺産があるという。音楽堂、病院、サクラダ・ファミリア、グエル公園。病院だけは休みのため中に入れなかった。

グエル公園から見るスペインの青い空 

グエル公園見学後、自由行動となる。グエル公園を見学した一行はバスでカタルーニャ広場まで行く。そこでバスを降りたKさん、Tさん、知人と私の4人はカタルーニャ広場からバルセロナの目抜き通りを歩いて港にあるコロンブスの塔まで歩く。目抜き通りを歩く途中、両側にある土産物店やマドリッドのグランヴィアで見たような路上パフォーマンスなどを見物。1時間弱くらい?歩くと、コロンブスの塔に着いた。コロンブスの塔の内部にはエレベーターがあり、上にある展望室からはバルセロナ市内と港を一望できた。

ここのエレベーターガールはとても若くて愛嬌があった。エレベーターの勤務を終えるとそこにある売店の売り場にいる。そこでも愛嬌たっぷりなしぐさでまるで私たちとの別れを惜しむかのようにおどけて振舞う。

コロンブスの塔を見物後はまた来た道を歩いて帰る。来たときと同じように両側のみやげ物店を物色し、途中レストランで4人は夕食。この夕食は大きな器に入ったバルセロナの名物らしきものと単品をとって4人で分け合って食べた。飲み物はビールなど飲んだがそのグラスはとても大きい。

まだ午後11時になっていなかったと思う。4人でメトロに乗って帰った。ホテルに近い駅で降りると他の同行者も同じメトロだった。ホテルに入ろうとする頃、S先生に出会う。今から夕飯に行くとのコト。相変わらずスペイン時間に合わせた遅い夕食のように思えた。明日はいよいよスペインともお別れ。宿に入ると荷物の整理をする。

9月5日(12日目、月曜日)

今日でバルセロナともお別れ。

午前7時、荷物を出す。外はまだ暗い。お天気はあまりよくない。

午前8時半、ホテル出発。朝食は昨夜夕飯で残ったパンを非常食に持ち歩く。朝ホテルを出るときそれを少しかじる。飲み物は水だけ。何かお腹が物足りない。バルセロナ空港ではしきりに小雨が降り続く。

午前10時、スペインのバルセロナ空港よりヘルシンキへ。バルセロナからヘルシンキまでの機内でやっと機内食のパンを半分食べる。やっと空腹が収まる。よく考えてみると昨夜から12時間も経ってやっと食に有りつけた勘定だ。余り食べないので旅行中は体の調子はすこぶる良好。この機内で神父様の秘書的係りのEさんと隣席となる。Eさんは昨年から放送大学で学ばれているという。その費用を聞くと1年で20万くらいとか。結構放送大学も費用が掛かることを知る。そのEさんは放送大学でスペイン語を学んだと聞く。その話に刺激され私もスペイン語を習おうと機内で決心。それは2年半前に修了した大学で…。

その機内ではYさん姉妹の妹さんから心温まるメモを渡される。その返事を書いているとき、その優しさに感動し涙が…。

午後5時20分、ヘルシンキから関西空港へ。ヘルシンキの空港でフィンランドがムーミンの国と知り、それに関係あるお土産を買う。旅の最後の機内は若いT君の隣に。彼は機内食もほとんど手をつけずに寝ている。そして長い飛行時間、彼がいつトイレに行ったのか知らない。私も彼同様その機内でぐっすりと寝ていたのだろうか、わからない。それにしても行きも帰りもフィンランド航空の機内は寒かった!寒すぎて寝られなかったようにも思うけど…。

9月6日(13日目、火曜日)

午前8時55分、無事関西空港到着。見るからに日本は暑そう!
荷物を受け取り「はるか」に乗る前、広島まで帰る人たちは「うどん」を食べる。いくらスペインの食事が美味しいといってもそこはやはり日本人!旅に出るといつも日本に着いたならうどんを…と思う。知人とうどんを食べながら朝からビールを飲んでいると、後からやってきた知人と同室だったYさんは笑って同じくビールを注文。家に帰るまでが「旅」と思えば、これもまた楽しい!

本当にいい旅だった!始めにもらった旅のしおりに書いてあるほとんどの人たちと打ち解けて旅をした。旅が非日常を求めるならその目的は達成された。日本では考えられないような毎日だった。本当に楽しい旅を企画してくださった神父様やS先生、同行の皆さま、そして楽しい旅に誘ってくれた知人に心から「ありがとうございました!」。そして¡Hasta la vista!(また会いましょう、さようなら)