2011年5月31日火曜日

『メガチャイナ』

読売新聞中国取材団著による『メガチャイナ 翻弄される世界、内なる矛盾』(中央公論新社、2011年)を読んだ。

何やかやいっても図書館で新刊の棚から本を探すときどうしても目に付くのは「中国」の二文字だ。その「中国」に対して最近頓に嫌気を覚える。中国語を習い始めた頃の「中国」に対するイメージを忘れるかのように…。

その心情は我のみにあらず日本人全体にあるのではないか。そう思ってこの本を読んだ。

この本は「はじめに」と「おわりに」を読めば中身を読まなくてもいいほど端的に「中国異質論」が描かれている。

「はじめに」では1804年のアヘン戦争以来1世紀に渡って列強支配に苦しめられた歴史を持つ中国の「民族的トラウマ」を精神的バネとし、それに経済力、軍事力を物質的なバネとして「中国民族の偉大な復興」を目指している。それは中国の13億強の民が欲望を満たすために大量生産と大量消費の循環に身をおき、民族の自尊心とナショナリズムを燃え上がらせる。その中国の一挙手一投足はあらゆる面で国際社会に影響を及ぼし「メガチャイナ」となって出現する。

ところがそのように巨大となった中国が国際社会に対して、国力に見合った責任を負い、協調的で理性的なパートナーである「責任大国」ならば問題はない。残念ながら2000年代以降の中国の動向は、内政対外関係における振る舞いが国際社会の信頼を得ていない。むしろ、内政における民主改革や人権改善の遅れ、対外関係においては不透明な軍事増強、高圧的外交などの「中国脅威論」「中国異質論」をあおっている。

2010年の事件を見てもノーベル平和賞問題、米グーグルの中国撤退を招いたインターネットの検閲、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件で見せた対日威圧事外交、レアアースの輸出規制、核開発を続ける北朝鮮への融和姿勢などの「中国異質論」がある。

中国のこうした異論は封殺され国策には決して反映されない。そこには中国の人々の民意はなく独善性にとんだ政治が異質論を拡大再生産させる。

このような中国の虚像に振り回されあやふやなイメージや好き嫌いの感情で中国を眺めるのを避ける。それには我々が歴史的な勃興の道を歩みつつある中国の等身大の実情を知り、その強さともろさを観察していかに付き合うかを真剣に考えることが求められている。

その結果を「おわりに」では読者へのメッセージとして2つあげている。その1つは中国を見る場合の多面性と複雑性である。中国のどこに座標軸をおいてみるかによって目に写る中国像は変わってくる。2つ目は「中国について考える」ことは「日本、ひいてはアジア、世界について考える」ことにつながる。それには「親中」「反中」「嫌中」といった短絡的なアプローチではなくグローバルな視野から中国を捉えることが中国に関心を寄せる人々に求められると述べている。

確かにそれが一番と思う。けれども人の心の中、なかなか難しい面もある。それも乗り越え互いを理解することからモノコトははじまるのだろう。それにしても中国を理解しようとすればするほどわからない国と思えてくるのはなぜなのだろう…。

2011年5月29日日曜日

多忙な毎日

先週は火・木・金・土と外出が続いた。今日は梅雨と台風の影響で雨も降り続いている。そのため外出せず家の中で大学と図書館で借りてきた本を読んでおとなしくしている。

火曜日はフルートのレッスン、木曜日は友人2人と会った後チャリティーのコンサートへ出かけ、金曜日は定期演奏会と忙しく過ごした。

なんと定演は10年近いブランクがある。以前の演奏会の雰囲気とそれほどちがっていると思わない。だが、今回入った個人会員は座席が決まった場所でないため受付に並んで座席を確保する必要がある。

会場に着くと公演開始1時間半前から座席券の交換が始まるとかで長蛇の列である。とりあえず座席を確保してから時間までを隣の図書館で過ごすことにした。

図書館は普段使用する図書館と違い1年中ほとんど開いている。これから定演のたびに座席券の交換をした後、開始までの時間図書館で過ごそうと思っている。

定演は309回目とか。「巨匠の夕べ~秋山・徳永・ベートーヴェン」と題された演奏会はそれだけみても豪華に思える。演奏曲目はベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲二長調Op.61」と「交響曲第6番へ長調Op.68『田園』」だ。いずれも45分くらいあり聴き応えがあった。

演奏会の2日間は夜家に着くのが遅くなり食事時間もずれ込む。それは土曜日も続いた。

土曜日の大学の講義は午前中に家を出なければ午後1時の講義に間に合わない。昼食は大学の図書館内のカフェでランチを食べた。ランチといっても照り焼きチキンのサンドイッチとコーヒーで計430円也。コーヒーは泡立ててあり美味であった。来週もまた飲みたいと思うほど美味しかった。

3回目となる大学の講義も雨の影響かだんだん聴講生が少なくなる。それでも講師はチベットに関して精力的に活動しているようで講義前にまず皆にチラシを2枚づつ配布する。その後、広島でのチベット僧を維持するため高野山から譲り受けた広島にある真言宗の寺の援助を請う話をする。さらに広島でのチベット僧と学者の講演会の参加お願いの話もした。

何であれ、チベットは宗教や政治が絡むのか大学にお願いしてもいろいろ困難を極めるらしい。

どんな宗教でも関わりを持てば「お布施」なるモノが要るという意味かと思いつつ話を聞いていた。

そのため肝腎の講義が30分も遅れてしまった。講師はそれくらいの遅れはなんとも思わないのかどんどん時間が延長しても講義を続ける。そのうち講座生は1人、2人と席を立ってかってに講義を聞かずに部屋を出る。講師はそれに気づきやっと講義は終了した。

このチベットの講座はあと2回ある。さてさて講座生は来週も来るのだろうか。心配になってくる。今までさまざまな講座を受講してきた。それでも半分に人数が減ったことはない。すべては10年近い歳月がモノコトの変化を表しているのだろうか。皆やり始めたからには続ければと思うけど…。

2011年5月26日木曜日

チャリティーコンサート

今日はバイト時代の知人と3人で会った。なんと25年か30年ぶりの再会である。

街中のデパートで待ち合わせた。長年のブランクをまったく感じさせず、すぐに2人とわかった。そのうちの1人は貫禄のついた体である。彼女は会うとすぐ一番肥えていたときの写真を差し出した。それを見てもうびっくり。まるでその表情からは使用前、使用後のモデルの雰囲気である。どうしたらそのように肥えることができるだろう。何が悲しゅうてそれほど肥えないといけないのだろう。そう聴きたいほどの肥え方である。最高のときは3桁の体重だったとか。

30kgくらい体重が減ったと言ってたけど、それでもまだまだ我が体重の2倍くらいある。森公美子に負けてはいないみたいに。

体重はともかく3人での話は笑いがたえない。本当に楽しいひとときであった。

2人と別れるとチャリティーコンサートに出かけた。そのタイトルは「音楽の力~ヒロシマからおくる応援歌」。先の震災を受けて広島交響楽団が行ったコンサートである。会場に着くと開演1時間半前なのに長い列ができている。その行列に並ぶのは避け、時間まで隣の図書館で本を読むことにした。

ゲストは徳永二男。明日の広響定演のゲストでもある。

演奏曲目はどれもすばらし!特に徳永が加わって弾くサン=サーンス「伴奏とロンド・カプリチオーソ」、サラサーテ「ツイゴネルワイゼン」は本当にきれいな曲だった。ドヴォルザークの「スラヴ舞曲第10番ホ短調」の後の岡野禎一の「ふるさと」を聴きながら会場の皆で合唱したときは思わず涙があふれた。

その曲はアサちゃんがもう危ないと判ってから病院に見舞うたび、耳元で小さな声で歌ってあげていた。「母さんの歌」も歌ってあげてたことを思い出させる。

今日のこのコンサートはそういう意味でも胸にずしりと響いた曲目だった。

明日は広響の定期演奏会。再度徳永の演奏も聴ける。

なぜ、音楽は人の心に響くのだろう。タイトルのように音楽のもつ力があるからだろう。改めて定演を聴く個人会員になってよかった。そういう意味でもフルートを頑張らなくては…。

2011年5月23日月曜日

『超思考』

北野武の『超思考』(幻冬舎、2011年)を読んだ。

本をめくるといきなり大きな文字で「本文中の極端な意見、過激な言説は、あくまで読者の大脳皮質を刺激し、論理的思考力及び倫理的判断力を高めることを目的とする意図的な暴言であり、北野武の個人的思想及び政治的見解と必ずしも一致するものではありません。暴言の裏が読みとれない、冗談の意味がわからない、無性に腹が立つなどの症状のあるときは、ただちに読書を中止することをお勧めします」と書いてある。

こんな体裁の本はこれまで一度も見たことがない。多分奇をてらってのことであろう。暴言どころか「もっと言え!」といえるほど読んでいて気持ちいい。書いてある内容は「確かに…」と思えることである。といっても一つ気になることがある。それは強がりを言っても所詮武は「母あっての子」だと。

どの項(この本では考?)においても必ずといっていいほど「母」を話題にして文をなしている。

そういう意味ではとても同感する部分が多かった。以下にその部分と気になるところを記したい。

第五考「暗闇の老後をどう走り抜けるか」において「人生というものは、四季のようにはっきり季節が分かれていない。相撲取りで四十歳なら年寄りだし、政治家は五十歳でも若造呼ばわりされる。いくつになったら老人、という具合には割り切れない。自分の老いは自分で見極めなきゃいけない」と述べる。その状況判断能力が武の最大の能力だとか(49-50P)。

その能力があるから彼は「漫才で売れてから後は、いつも今の自分が一番好きだ。昔は良かったなんて、一度も思ったことがない。いつも人生で今が一番最高の時期だと思っている。老いるのがちっとも苦にならないのだ。そういう意味では、ものごとに執着しない質だから上手くいっているのだと思う。漫才に執着していたら、あんなに簡単にやめられなかった。あそこでやめていなかったら、今の自分がなかったことだけは確かだ」と言い切る(50-51p)。

「いつも人生で今が一番最高の時期だ」のフレーズは全くそのとおりである。若い頃がよかったと思ったことがない。ましてやその時代にかえりたいなどとはゆめゆめ思わない。今が一番好きだ。

現代の老人問題に対して「老人の世話を金で解決しようとしているがゆえの問題であるとも言える。…大家族で、みんなが貧乏で、人と人が肩を寄せ合わなければ生きられない時代には、若い者が年寄りの世話をするのが当たり前だった。…年寄りも、若い者も、その覚悟が全くできていないということが、現代の老人問題の本質なのだと思う。人生を浮かれて生きるのもいいけれど、人は老いて、死ぬものだということから目を逸らしたら、いつか大きなしっぺ返しを受けるに決まっている。俺はといえば、おそらく死ぬ瞬間まで今の自分が最高だと思いながら生きるだろう。何と言っても、最後の最後に、最大の楽しみが待っている。死んだらどうなるか。魂はあるのかないのか。神はいるのかいないのか。死ねば人生最大の疑問の答えが出るのだ。もちろん単に肉体と精神が分子レベルでバラバラに分解して、無に帰るのに過ぎないかもしれない。そうなったら、、疑問の答えどころではないけれど、それでも死の直前までワクワクしながら生きられるわけだ。そういう心境でいられることは、やっぱり母親に感謝しなければいけないのかなと思う」と述べる(55-56P)。

第九考では「いくら金を積んだって、いい医者に診てもらったって、最後は死ななきゃならないのだ。大事なのは覚悟だろう。その覚悟が、発達した医療技術だかなんだかのおかげでできなくなっているのが現代の不幸の原因なんじゃないか。自分の力で病気に勝てなければそれで終わりと諦めて死んでいくのと、体中を機械でつながれて死んでいくのと、どっちが幸せなんかなんて、誰にもわかりはしないのに。…贅沢を言うなと言いたい訳じゃない。けれど、今の自分たちがどんなに幸せな時代に生きてるかってことは、わかっていた方がいい。…こんな時代は普通じゃないってことがわかっていれば、これから先、世の中がどんなに不景気になろうと、慌てふためくことはない」と今の世の中が幸せな時代だともらす(91-92P)。

第十四孝では「襤褸は着てても心は錦、という歌の文句があったけれど、今の世の中は正反対。錦は着てても心は襤褸というわけだ。昔の貧乏人は、貧乏人であることを恥じなかった。それは着ているものが貧乏でも、心の中までは貧乏じゃないというプライドがあった。…ウチの母親は貧乏でさんざん苦労した人だ。…一円の金だって欲しかったはずだけれど、どれだけ安くても『もってけ泥棒!』みたいな商売をする店では絶対に買わなかった。行列に並んで飯を食うなんて浅ましい真似を、俺たちにも許さなかった。金がないのは金がないというそれだけの話だ。胸を張って堂々と生きていけばいい。そういうことを俺の母親は教えてくれた。…」と世間の人の心の貧乏臭さを説いている(140)。

貧乏臭さは人のみにあらずTV番組にも現れているという。また群を成して流行のバッグを持つなどの行為もそうである。その貧乏臭さを抜け出すには「みんなが右へ動いたら、何がってもその方向にだけは行かないようにする」のがいいという。そして「モノゴトを自分の目で見て、自分が感じたことにどこまでも正直になる」ことだと(145-146p)。

第十六孝では「俺の絵は売らない」というテーマだ。そこには「芸人になったそもそもの最初から、俺はずっとある意味でやせ我慢をしてきたのだ。つまり売れないがゆえに、何かに迎合したことは一度もない。それは俺というよりも、お袋のおかげだ。人に媚を売るくらいなら、死んだほうがましという教育が染み込んでいる」と母親の教えを述べている。それは「金のために客に媚びるようなことだけはしなかった。いや、しなかったというより、生理的にできなかった。それがつまり、母親の長年にわたる教育の結果だ。品のないことは
できないカラダなのだ」(166-167P)。

第十八孝は「目に見えないこと」として人の死について述べている。「自分にとって本当に大切な人を失ったときに、そのこととどう折り合いをつけるか。誰よりも大切な人の死を、自分にどうやって受け入れさせるか。あるいはその喪失感をいかにして乗り越えるか。…自分の経験から言えば、やっぱりそこにはクッションが必要だった。人は死んだら無に帰るという考え方だけでは、乗り越えられなかった。俺が毎朝毎晩、仏壇に手を合わせるようになったのは、お袋がなくなってからのことだ」。「母ちゃん、ありがとう。今日はちょっと酒を呑みすぎました。ごめんなさい。…」。「一日の報告というか、反省をするわけだ。…俺は彼らと一緒に生きている。…世界は目に見えるものだけでできているわけではない。自分という存在がここにあるのも、気の遠くなるような過去から長々と続く生と死の連鎖の結果なのだ。…俺は仏壇に手を合わせる。一日のうちのほんの僅かな時間ではあるけれど、少なくともその瞬間は彼らのことを思い出す。それは俺にとって大切な時間だ」(187-189P)。

アサちゃん亡き後、武のようには手を合わせていない。ただ、仏壇は空けずとも、前においてある床几にアサちゃんの遺影を立て、それに向かって生きているときと同じように一日に何度も声をかける。また、その周りには花を絶やさないように活け、お供えを置く。

当然死者からの返事はない。それでも「ダライ・ラマ…」の講座で講師は人が亡くなると肉体は亡びるが心は継続していると聞いた。そう思うと気持ちも落ち着く。何事も規則通りでなくとも我がやり方で表現すればそれでいい。

2011年5月21日土曜日

部屋の片付け

ここ2、3日食器棚などの片付けをしている。

昨日TVで「徹子の部屋」を見ているといしだあゆみがゲストで出ていた。4年前に1軒家から1LDKのマンションに移ったという。そのとき部屋の荷物を10分の1くらいに処分したとか。驚いたことに皿とカップはいずれも1個ずつしかないという。

徹子さんがお客が来たときどうするのかとたずねるといしだは「誰も来ません!」ときっぱり言い切る。だから食器棚にはぞうりなどを入れているというのである。

確かに1人で住んでいると毎日の食器も限られたもののみ使用する。だから1個ずつで間に合わないこともない。とはいっても、食器棚にほとんど食器がないのも寂しすぎる。

さてさて我が家の食器棚であるが、これを片付けるとなると本当に大変な仕事になる。それでも毎日食器棚から食器を出し、保存するか処分するかを思案しながら片付ける。

本当は大部分を処分すればモノゴトは簡単だがその決心もつかない。

もともと部屋の片付けは梅雨に入る前の対策として本などの虫干しのニュースをみたことに始まる。

今日は片付けを中断し、先日から受講している大学の講義の「ダライ・ラマ…」を聴きに行った。前回はコンサートを聴きに行ったので欠席。今回で2度目となる。

大学に行くからにはその大学の構内をしっかり見てみたい。まずは授業開始までの45分間、昼食を食べに食堂に向かった。向かうといっても前回と同様さっぱり学内がわからない。2人の人に聞いてやっと食堂にたどり着けた。

冷し中華の和定食¥400を注文した。食べ終えたはいいがどこに食器を返すのかわからない。食堂は土曜日とあってほとんど人気はない。教えてもらいながら食器を返却した。

そこを後にしてすぐに図書館に向かった。図書館内を散策しているとカフェがあった。次回からはカフェで軽食にしよう。そのほうがあちこち移動しなくてもよくなる。

受講後、席を立とうとすると隣の人がどっかで見たことがあるという。相手を見るとめがねをかけていた。それをとるとこちらもすぐに誰かわかった。「〇〇さんでしょ?」と思わず言ってしまった。アルバイト時代の職場の人であった。もう30数年位前に知り合った人である。

今日は大学に行くのも帰るのも同じルートにした。そのほうが前回より帰りも苦にならなかった。

家に帰ると 部屋の中はもう真夏の暑さだ。それでも気がつけば部屋の片づけが待っている。食器棚以外にもいらないものが多すぎる。これからの暑さにそなえて家の中の風通しをよくしたい。そのためにも少しずつ片付けるしかない。掃除が一番好きでない。それなのに…。

2011年5月20日金曜日

さくらんぼ

近くに住む人は昨日ザルに入れてさくらんぼを持ってきてくれた。家で沢山実ったという

その人は幼馴染である。姉、弟が近くに一緒に住んでいる。特に弟さんはアサちゃんが動けなくなったとき3度も呼び出しをかけるとすぐに駆けつけてくれ、助けてもらったことがある。

昨日さくらんぼを持って我が家に来た姉のほうは1歳上だが小さいときよく互いの家を行き来したことがある。その人がやってきた。

暑い中、前日も来てくれたとか。留守だったという。すぐに家に入ってもらいティータイムと相成った。互いに近くにいながらゆっくりと話すことはこれまでなかった。これからは「遠くの親戚より近くの他人」といわれるように近隣の人と仲良くしたい。

夕飯を終えしばらくすると他の人がTELしてきた。我が家の近くに来ているという。すぐに家に入ってもらい再度ティータイムとなった。紅茶を出そうとするのだが、最近、2日続けて家の中を片付けすぎて少々ボケがきたのかどこにしまったかわからない。仕方なく市販のコーヒーゼリーを出しての話となった。

その人も同じく町内に住んでいる。

アサちゃん亡き後、1人でいるので近くに知った人が住んでいると思うと何かと心強い。

梅雨前の閑を利用して何十年来の家の片づけが待っている。その合間の人との他愛ない話題は気持ちが落ち着く。

やっぱり自分の性分として忙しくしているのが一番似合うように感じる。そのまにまに戴いたさくらんぼをたべよう!季節を感じながら…。

2011年5月19日木曜日

『人はひとりで死ぬ 「無縁社会」を生きるために』

島田裕巳の『人はひとりで死ぬ 「無縁社会」を生きるために』(NHK出版、2011年)を読んだ。この本はアサちゃんが亡くなる前頃「人が死ぬ…」ということに関心をもち予約リクエストしたものである。

この本の根底にはタイトルにあるようにNHKで放送された「無縁社会」がある。

島田は今話題となっている「無縁社会」の到来をどうとらえ、その上でどういった生き方を模索するか。それによるその解決が求められているとした。そこには生とともに死の問題がかかわっている。それを宗教学者の島田が彼なりに本書で答えを出している(4P)。

島田は生者に依存しない死のあり方について2つあげている。1つは無縁死に陥らないように結婚して家族を作ることで孤独に死なないよう努力すること。2つ目は孤独に死ぬことをあらかじめ覚悟する。たとえ家族がいても崩れ去る危険性がある。だから「いかなる状況になろうと、他人に依存せず、ひとりで生き、ひとりで死んでゆく。決してそれは、他人が思うほど寂しいことでも、孤独なことでもない。そこには無縁ゆえの自由がある。無縁死を覚悟したときに見えてくる、人の生き方もあるのだ」と(179-180P)。

島田は釈迦の教えを例に挙げて人の死をどのような形で迎えるか、は重要ではないとする。それは「人は死ねば、もう戻ってはこない。蘇ってくることなどあり得ない。そして、その死は誰にも守られない孤独なものだ。だからといってそれを嘆く必要はない。なぜなら、死は避けがたいもので、人間は死を打ち負かすことなどできないからだ」と述べる(189P)。

良寛は「死ぬ時期には死ぬがよく候」と述べ、人は死ぬ存在なのだからこそ、自覚してよく生きることの重要性を説いている。それは「死は誰にでも必ず訪れる。それを嘆いたり、恐れたりしても意味がない。重要なのは、今どう生きるかである」と(192P)。

死はいつ訪れるかは誰にもわからない。だから死に対する備えをしてもその準備が役立つとは思えないといっている(193P)。

そうならば、先々の死を取り越し苦労するよりもむしろ死を考えず今を大事に生きるほうが楽しいと思う。

毎日を楽しく生きれば「十分に生きた」と感じることができ、無縁死も、無縁社会も、恐れるべきものでない、と知ることができる(208P)。

島田は「おわりに」として「宗教という、人間が生み出したひとつの知恵の体系が教えてくれるのは、人は必ず死ぬという事実であり、その死は本質的に孤独なものだ」とする(214P)。

だからこそ「私たちは死ぬまで生きればいい」という(214P)。

当然といえば当然のこと。そうであればこそ無縁社会がどうのこうのと恐れるに及ばないものとか。逆の発想をすれば「無縁社会は豊かな可能性を帯びた社会」に見えるという(214P)。

ということは、家族があろうとなかろうと人の死は個々の人の生き方にすべて関わってくることになる。何もひとりで生きることを怖がることもないということか…。それならば、先のことなど考えず今をせいぜい楽しく生きていくに限る!

2011年5月18日水曜日

墓参り

アサちゃんが亡くなって早くも今日で丸3ヶ月となる。先月までは7日毎墓参りに出かけていた。今月は月1回の割りである。

アサちゃんの長女夫妻は今朝早く墓参りのため我が家にやってきた。手には庭に咲いているという真っ赤なグラジオラスの大束を抱え、片方には犬を連れての訪問である。

墓に着くと先日石屋にお願いしたアサちゃんの戒名が墓碑に彫られていた。また墓石のほうにも新たに黒い文字が入っている。他にもアサちゃんの夫の墓碑銘も再び色が施され、さらに花を飾る容器も新たになっていた。

石屋さんはアサちゃんの墓碑を記入する時、気がつくところを直してくれたようである。

新たな花入れは以前よりもさらに大きく、もってきたグラジオラスも切らずにそのまま活けられる。おかげで墓も前よりよく見えてくる。

アサちゃんの長女は花を活け終わると、アサちゃんに向かって「亡くなってから、よう墓に来るようになったと思うでしょ?」、「〇〇子も…」といって笑わせる。

言われてみれば確かに3人とも定期的に墓参りをしている。アサちゃんが亡くなるまではあまり墓参りはしていなかった。それが亡くなると家の仏壇よりも墓参りのほうがなんとなくアサちゃんに会えるように思えるから不思議だ。そのため墓参りに行くのかもしれない。

墓参りに行かない日は家の仏壇に花とお供えを絶やさないようにしている。だが、決して手を合わせることはしない。ただアサちゃんが健在であったときと同じように大きな声を出して話しかける。他人が見れば気でも狂ったのではないかと思えるように大きな声で…。そうするとまだ一緒に住んでいるように思えるから不思議だ。

墓参りを済ませるとすぐに石屋さんに墓碑の記入と新たな花入れのお礼のTELをした。

墓碑銘も入ってアサちゃんの一連の行事はこれで終わりになる。

来月の墓参りには先日植えた菊の花が活けられるだろうか。狭い庭だけど苗を買っては植えている。そのうち花いっぱいの庭になるといいのだが…。

2011年5月15日日曜日

ヴァイオリン・コンサート

昨日は待ちに待った天満敦子のヴァイオリン・コンサートに出かけた。

このコンサートの収益金はアフガニスタンの「女子教育支援」とこのたびの震災の義捐金として全額寄付されるとか。天満とこのコンサートの結びつきは彼女の伯母が元津田塾大学学長であり、その支援に津田塾大学が関係しているからである。

そのため来場者は津田塾の関係者が多数を占めていたように思われる。ただ単に「望郷のバラード」が聴きたいために行ったものはどれくらいいたのだろう。

ともあれ、コンサート自体はいつもどおりすばらしく満足したものだった。

演奏後、たまに発せられる天満の声はその動作も含めて愛らしく彼女の人柄がよく出ていた。それは演奏にもあらわれ、まるで何かに取り付かれたようにヴァイオリンを弾くその姿は聴くものを夢中にさせる。

そしてその姿はヴァイオリンを相手に踊っているように感じられる。なんとも不思議な印象だ。きっと曲自体に体が自然となじむからそのように感じられるのだろう。

楽器を習っているものにとっていつになったらあのようになるのだろうとついつい思ってしまう。

楽器といえば今月から広島交響楽団の演奏会にも聴きに出かける予定だ。

よくよく考えてみれば我がこれまでやってきたものの中でなんといっても楽器関係が一番多い。琴、ギター、エレクトーン、フルートなどと。

小学生の頃、音楽の時間が一番好きだった。そのとき先生は音感を聴く耳がよいとほめてくれたことがあった。先生の弾くピアノの和音をすぐ言い当てることができたからである。

だからといって今習っているフルートが上手に吹けるかというと少々疑問がある。それでもフルートをいろんな事情で中断しながらも今まで長く続けてきたことはやはり「音楽が好き」からだろう。

何事も「好きこそ物の上手なれ」というように長く続けることは生きる上でも張り合いになってくる。

これからもせいぜいフルートを吹き続けて楽しく人生を送りたい。

2011年5月14日土曜日

「中村屋のカリー」から

昨日は一日中google側の事情によりブログを書くことができなかった。そのため今朝のブログの内容は一昨日のコトになる。

一昨日は2度目のシャンソンのレッスン日。初回のレッスン後はいきなり皆と打ち解けた飲み会だった。今回もレッスン後、飲み会と相成った。平常付き合いのない人との飲み会だがそれはそれで楽しい!

前回のシャンソンのレッスンは「パリの空の下」と「時は過ぎてゆく」であった。今回はそれに「枯葉によせて」が加わった。

「パリの…」は有名な曲。もちろん聴いたことがある。ところが他の2曲は聴いたことがない。それでも先生の伴奏に合わせるとどうにか歌うことができた。だが、家に帰って何の伴奏もなく歌うと全く歌えない。

そんなときにお世話になるのがユーチューブである。

ユーチューブはクラシックであれ、シャンソンであれ何でも検索可能だ。曲の感じは検索さえすればすぐにつかむことが可能となる。まさに現代文明の優れものといえるだろう。

いつも感じることがある。それは家でいくら何事かをしても気分転換は図れない。ところが、ひとたびフルート、シャンソンなど何でも家を一歩出て行うコトは相当の気分転換となると。

そういう意味でも家にじっとしていることは体によくないと改めて知った。

シャンソンのレッスン前にそごうの地下食品売り場で中村屋のカリーをやっと見つけた。先日来からスーパーに行くと必ず探していた。ところが全くどこにあるかわからない。それがデパートの地下売り場にあると知ったときは嬉しかった。近いうち味わいたい!

パッケージがどんなものかわかると近くのスーパーでも売られているのが目に付く。

中村屋のカリーは『中村屋のボース』の内容どおりパッケージにも「恋と革命のカリー」と書いてあった。

中村屋のカリーを本で知ったように、モノやコトは自分でアンテナを張り巡らさないと目に入ってはこない。

そう思うとただ好奇心旺盛だけが取り柄のモノとして家でゆっくりしておれない。せいぜい外に出て行くコトが求められる。

今日は午後から天満敦子のヴァイオリンのコンサートに出かける。さてさて今日はどんなコトに我が関心は向くのやら。楽しみだ。

2011年5月11日水曜日

「誰かがサズを弾いていた」

午前中は昨日からの大雨警報にもかかわらず図書館に行った。読売新聞を読んでいると日通旅行の海外旅行の宣伝が目に入った。

先日パスポートの交付を受けたが気分はまだその気になれない。ところが、この宣伝記事を見て少しだが行く気になった。昼ごはんを食べに家に帰るとすぐに旅行社にTELしてパンフの請求をした。

その後昼食を食べ何気なく見ていたTVからエキゾチックな曲が流れてきた。あまりにもその曲が気に入ったので早速ユーチューブで聴いてみた。以下がその歌詞である。

「誰かがサズを弾いていた」
歌  ヤドランカ
作詞 友利歩未
作曲 ヤドランカ
編曲 渡辺俊幸

まあるい月を 乗せた船が
静かに川を 西へ行く
月はどこへ帰るのか
眠れぬ夜を 見つめながら
誰かがサズを弾いていた
眠れ 眠れ 子羊たちよ
眠れ 眠れ 瞳を閉じて
旅から旅の物語
夢の中で 聴かせてあげる
心を指で たどってゆけば
囁くように 風が歌う

絹の道行くキャラバン
駱駝の背には 宝物
ルビー サファイヤ トルコ石
時に 素敵な歌までも
遥か砂漠の オアシスで
砂に咲いてる 君を見た
とてもかわいい 白い花
摘んで行こうか 行くまいか

花は小さく 首を振る
遠くへ連れて 行かないで
せめて今夜は 愛の歌
あなたのために 歌いましょう
東の空に 朝が見えた
光の馬車で 翔けて来る
町の祈りの声 響く
明けてく夜を 惜しむように
誰かがサズを 弾いていた…

この中に出て来る歌詞のキャラバン、オアシス、子羊、駱駝、砂漠などはすべてイスラム圏の国を髣髴させる。今まで行ったシルクロードの国々を…。

これを聞いていると次第に海外旅行に行く気になってきた。この歌詞からは夕日の中、広々とした砂漠(海外ではよく土漠という)を駱駝の背に荷物を乗せたキャラバンの一行の姿が目に浮かんでくる。

さっきから何度この曲を聴いただろう。だいぶメロディーは覚えた。それにしてもどんな人がこの曲を作り歌っているのだろう。TV画面を通してでも見てみたいものだと思う。

2011年5月10日火曜日

『ツァラトゥストラ』

先月NHKの教育TVで放映された『100分で名著 ツァラトゥストラ』(西研、2011年)のテキストを読んだ。

『ツァラトゥストラ』はニーチェの著作であり、2010年発行の中央公論新社、手塚富雄訳も同時に購入して読んでいる。この方はなかなか簡単に読むことができず時間がかかりそうだ。それでもテキストの方はわかりやすく解説してあり大変面白かった。以下に気づいたところを記したい。

テキストのサブ・タイトルは「弱いワタシこそ、強く生きる!」、「”世界”がどうあるべきかではない、”自分”がどう生きるかだ―」となっている。このサブ・タイトルこそまさに我が関心あるところ。

世間では先の震災でボランティア活動の報告がメディアをにぎわしている。これはこれで立派なこと。だが、それを他者に強制し、自己のうぬぼれのためにするのならば問題がある。すべては自主性を重んじられたい!その面で言えばニーチェの考えはすばらしい!

テキストによれば「人間には、『実存派』と『社会派』の二つのタイプがある」という。『実存派』とは「自分自身の苦悩と生き方にとことんこだわり、あまり社会のことに関心をもたないタイプの人」であり、『社会派』の人は「個々人の苦悩は大事だけれど、社会をよくするのが先ではないかと考えるタイプの人」だという(17P) 。

『実存派』にはこの本の著作のニーチェやショウーペンハウアーがおり、『社会派』にはヘーゲルの思想だという(17P)。

このテキストの著者である西は「実存のほうが第一のものだ」としたうえで「自分という人間が、自分の抱える苦悩に直面しながらどう生きていくのかが、最初の思想の課題。その次に、自分だけでなくてみんなが幸せに生きるための社会的な条件をどうつくるかということが来る。ですから、思想の順番としては実存から社会に向かう」のだと述べている(17P)。

いまだ自己が確立していないものにとって「実存」以外は考えられない。

ニーチェの有名な言葉に「ルサンチマン」がある。これはフランス語で「ねたみ」や「うらみ」の意味とか。この気持ちを抱え込む人は自分自身を駄目にするとか。これはまた、現代の社会に当てはまるとも。それは「ニヒリズム」となってあらわれる。それを打破するには「固定的な真理や価値はいらない。君自身が価値を創造していかなくちゃいけない」と。そのために「人間は”創造的”に生きよ」と提案する(4~7P)。

『ツァラトゥストラ』という書は西に言わせると「今までのヨーロッパすべてを清算して新しい文化(新たな価値基準と生き方)の礎をつくる」というニーチェの壮大な自負がこもっているとか(10P)。

そして『ツァラトゥストラ』の主要なテーマは「超人」と「永遠回帰」であるという(10P)。

また『ツァラトゥストラ』の核心部分は「キリスト教の正体を暴いて、新たな人類の価値と方向を示そうという点にある。(35P)

このようにいろいろ羅列しているがやはり哲学は難しい!

西はニーチェの思想を通して「『いま』という生きるさいの『柱』となるものだ」と説く。そして西は「戸惑ったときはいつでも『自分の心に立ち戻る』ことだという。この生き方を教えてくれた人こそがニーチェだというのである。一般的に「迷ったときは原点に返れ」というのを聞く。まさにそのことだろう。

ニーチェの時代は「キリスト教もなく、マルクス主義も、高度経済成長もなく、何にも頼るものがない時代」であった。そのときニーチェは「絶望することは何にもないよ。なぜなら、このような状況でどのような絵を描くかは君自身が決めればいいことなのだから」と教えてくれ、勇気づけられると西はいう(84~90P)。

ニーチェは「『文化』というものの本質は互いに高め合うことにある」とした。すなわち「自他の価値観を照らし合わせながら、ほんとうに納得のいく価値観をともにつくりあげていこうとすること」だと…(93~94P)。

このテキストの締めくくりとして西は「個別化がきわまったようにみえる日本社会のなかで、どうやってこの『表現のゲーム』を育てていけるか」が課題となるという。そのためには「ニーチェの超人を『自分一人で創造性をもって生きていく』と考えることからもう一歩踏み出して、コール・アンド・レスポンス的な空間を育てながら、その関係性のなかで互いに創造力を発揮していければいい」とする。そうすればニーチェが伝えたかった「悦びと創造性の精神」がこの社会に蘇るというのである(106P)。

これこそが最初に記した「実存」から「社会」に向かう思想に含まれる。とはいっても哲学はわかっているようでわからない。ほんとうに難しい学問だとこのテキストを読んで改めて感じた。

2011年5月9日月曜日

行楽

昨日近くに住む女性の車に乗って呉方面に出かけた。目的地は呉市立美術館で開催されている「ベルギー絵本作家展」だ。ところが出発時刻が昼過ぎとなり、呉市内に着くや否やまずは腹ごしらえとなった。

目的とする食事場所は既に廃業に追い込まれ、急遽音戸の瀬戸に出かけた。「汐音」で食事となったが、オープン直後とかでホールは人であふれている。とりあえず食事の予約を入れて公園を散策した。眼下には音戸の瀬戸が見渡されロケーションは申し分ない。先日までの黄砂はどこへやら…という感じである。

食事後、そこを後にして呉市立美術館で開催中のベルギーの絵本をみる。絵本は世界中どこでも子供を対象としているようでその国の子供に対する関心が伺える。

日本の絵本とはまるでちがう。本の中に描かれた人物の顔がまず違う。動物を擬人化した方法で描かれたものが大半のように思った。中でも我が目で見てわかりやすい、いわゆる日本的な手法で描かれた絵本は日本の出版社で発売されていた。彩りもあまりぱっとしない繊細な筆使いの絵は大人であるものが見るとわかるが子供たちには向かないのだろう。日本での出版はないように感じた。

絵本ひとつをとってもお国柄があらわれている。

そこを後にして車に乗って帰路に向かった。車の中はGWを境として本当に暑い。平常自転車を乗り回し、車を利用しないものにとってはこれから先の暑さが思いやられる。暑いさ中は音楽三昧としゃれようか…。今月は3回コンサートが待っている。と、その前に明日はフルートのレッスンだ。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調第一楽章が待っている。この曲は7月の広島交響楽団が呉で演奏する。ぜひとも聴きにいきたいものだ。

2011年5月7日土曜日

シティカレッジ

今日は修道大学のエクステンション講座「死を超越する文化を知る~ダライ・ラマとチベット仏教~」を受講した。

修道大学ははじめて行くところ。あらかじめネットで交通アクセスを検索しての行動であった。ところが、交通の便は至極悪い。横川からのバスは1時間に1本。帰りも同様である。

大学のバス停につくといきなり階段だらけの道。もうどこへ向かっていけばよいのかさっぱりわからない。それでもパンフに載っていた地図を手に持ち、教室にはいるまでに4人に場所を聞いてやっと到着。

教室を確認したが、開講時間までは40分近くもある。地図を頼りに図書館に向かうと受講する予定の人に出会った。そこで図書館のカードを作り教室に戻る。

次回からは開講時間まで図書館にいるつもりだ。

2年前まで在籍した大学も辺鄙なところに位置していたが、この大学もそれに負けてはいない。ただ、市内にあるというだけで通った市外の大学よりも不便では勝っている。

受講生は定員20名とか。時間までにはその人数も揃っていった。講師はまるでチベット人を彷彿させたが、本人曰く「実家は浄土真宗…」というあたりはやはり日本人なのだろう。

この講座を受講するきっかけはアサちゃんを亡くしたことが大きい。まるで我がためにあるような講座と感じて受講した。講座受講の男女の内訳は4人が女性であとは男性多数。

久しぶりに受けた大学の講義である。黒板の字は講師の体格と比例せずとても小さい。書かれた字はあまり見えないので聞くことのみに徹した。

初日の講義の主題は「書き換えられた二つのブッダの伝記」である。ブッダの伝記は「仏伝」であり、成仏の過程を示しているという。またブッダとは「目覚めた人」という意味だとか。

ともあれ初日の講義は終わった。帰路バス停に向かうとバスは出たばかりで1時間後までこの山の中で…と思っていると前に人が見えた。その人の後を追いかけると同じ受講生とか。共にアストラムラインで帰ることにした。

このやり方は何度も乗り換えなくてはならない。次回からは講義が終わると図書館か学生食堂で時間をつぶして次のバスまで待とうと思った。ただこのような不便極まりないところでも、校内にいたるまでの道は両側に大きな樹木が林立し、まるで山の中の散策といった風情がある。この光景は本当に気持ちよい。

その昔「♪知らない街を~旅してみたい~♪」という歌があったが、昨日はまるで小さな「旅」を味合わせてもらったような気がした。

来週は天満敦子のヴァイオリン・コンサートで講義は欠席予定。再来週までお預けだ。と、その前にフルートの練習もしなくては…。

2011年5月6日金曜日

『中村屋のボース』

先日感動メールをもらった中島氏とはどんな人なのか。その素朴な疑問を解くために読んだのが中島岳志の『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社、2005)である。

この本の基礎となっているのは中島が大阪外国語大学の卒業論文に書いた「ラーシュ・ビハーリ・ボースと近代日本」である。中島は20代の人生をこの本の執筆に費やした。その後、中島はこれを博士論文としてまとめ「第三回アジア太平洋研究賞」を受賞した。

中島は本書のテーマとして「インドと中村屋をつなぐ数奇なドラマがある。そして、それは日本の一食品メーカーとの経営戦略を超えた、近代アジア史の壮大なドラマである。日本とインドの近代史にとって非常に重大な問題が、中村屋の『インドカリー』には隠されているのである」と述べている(はじめに)。

本書の主人公である「ラース・ビハーリ・ボース」は中村屋に「インドカリー」を伝えたインド人であり、1910年代のインドを代表する過激な独立運動の指導者である(はじめに)。

インド独立運動はガンディーの名がよく知られているが、それより以前に「ハーディング総督爆破未遂事件」を起こしたボースがいた(はじめに)。

この事件をきっかけとしてイギリス側から徹底的に追われたボースは日露戦争に勝利し、国力を高めつつあった日本への逃亡を企画する。偽名を使っての日本逃亡だった(はじめに)。

「この絶体絶命の窮地を救ってくれたのは頭山満を筆頭とする玄洋社・国龍会のアジア主義者たちであった」(はじめに)という。頭山を紹介したのは当時日本に来ていた孫文である(78P)。

違法な手段で日本に来たボースには国外退去命令が出され、それは新聞記事として伝えられた。だが、多くの日本国民はそうした政府のやり方に義憤を高める。そのような人々の中に新宿中村屋の店主・相馬愛蔵とその妻・黒光がいた(88P)。

その夫妻はボースを支援し、その後自分の娘・俊子と結婚させて「中村屋のボース」となった(98P)。「この二人の結婚に際しては頭山が親元となり、後藤新平と犬養毅が保証人となった」(142P)。

イギリス政府の国外退去命令は1919年にパリ講和会議が開催されると「ドイツの諜報活動と通じている」としてボースを追跡していた大義名分が失われてくる。1920年長男・正秀が誕生し、1922年には長女・哲子が誕生すると、1923年にボースは日本に帰化した(144P)。

日本人となったボースは「本格的なインドカリー」を日本人の間に広めることで、「イギリス人によって植民地化されたインドの食文化を自らの手に取り戻そうとする反植民地闘争」をした(150P)。

1926年全亜細亜民族会議が長崎で開催された。この会議は1924年に設立された全亜細亜協会が企画し、アジア諸国の代表者が一同に会して、西洋列強の帝国主義の打破とアジアの復興について協議するものであった(178P)。

この1回目の会議でボースは「いくつかの妥協と譲歩を行い、自己主張を圧し留め、会議全体の成功のための調停役として奮闘」し大活躍をした(192P)。それ以降、ボースはこれまで見られた厳しい日本批判を公の場では控える(194P)。

ボースは日本支援によってインドを独立に導きたいという政治的意図と、日本帝国主義に対する不信感との間で引き裂かれ、苦悩する日々が続いていく(219p)。

そのとき親しくしていた東京在住の朝鮮人実業家・秦学文と心を通わせ抱き合って泣いている。共に祖国を帝国主義によって奪われ、故郷に帰ることも儘ならないもの同士であったからである(220P)。

ボースは「日本帝国主義に対する警戒心と苦悩を抱きつつ、日本政府を拠り所としてインド独立運動に邁進しなければならないというアポリアを抱え込まざるをえなかった」(220P)。

ちなみにアポリアは論理的難点とか。

当時20代の中島は自身の課題としてボースの伝記、すなわちその人の生涯を書かねばならないと強く決意した。そこでボースの娘・哲子のもとへ出かけ多くのボースに関する史料を借り受けている(330P)。

中島はさまざまなところのボースに関する史料を前にして彼の思想と行動を解き明かす作業を開始する(330P)。ボースの思想に共鳴しながらも「彼が最終的に日本の膨張主義に看過し、その軍事力を利用してインド独立を成し遂げようとした点」にこだわった。だが中島には「日本に亡命し帰化した彼には、そのような道しか選択の余地が残されていなかったのだろうかという問い」があった(331p)。

中島はボースの生涯に限定された課題だと思ったことを「近代を超克し東洋的精神を敷衍させるためには、近代的手法を用いて世界を席巻する西洋的近代を打破しなければならないというアポリアこそが、二〇世紀前半のアジアの思想家たちにとっての最大の課題であり、苦悩だったのである」(332P)と述べている。

そしてボースの叫び声は「新宿の真ん中で、日本各地のスーパーやコンビニエンスストアの棚の中」で発せ続けられているという(335P)。それこそが中島は「今日の日本人に対して向けられた『アジアという課題に目をつぶるな!』という叫び声であるように思えてならない」とこの本で締めくくっている(335P)。

中村屋のインドカリーはいまだ食べたことがない。先日会った友人は我が家の近くのスーパーで売られているという。また先日入ったインド人経営のカレー店でも店主は中村屋について知っていた。けれどもそれがインド人と関わっていたとは知らないようであった。

この本はサブタイトルどおり「近代日本」が絡んでいる。「近代」に興味を持つものにとって非常に面白い論文だと思った。

とりあえずこの興奮の冷め遣らぬうちに中村屋のカリー(中村屋は「カレー」といわず「カリー」という)を食べたい。そして中島の他の書を早く読みたいとも思う。

2011年5月5日木曜日

野呂山

昨日は近くに住む人の車に乗って野呂山に出かけた。

GWというのに外界は黄砂のためすっきりと見えない。車に乗っていても近くの山々は黄砂の影響ではっきりしない。それでもリュックに帽子、手袋、ウインドブレーカー、ドリンクなど入れてのドライブとしゃれ込んだ。

高速に乗って呉の街に着くとその人の知り合いの車に乗り変えて3人で野呂山に向かった。山の中に入っても黄砂は同じこと。付近はすべてかすんで見える。

しばらくすると野呂高原ロッジに到着した。そこで新たに1人加わって女4人での山歩きとなった。最後に加わった人は山頂付近に住んでおり、野呂山はまるで我が家の庭と思えるほど知り尽くしている。

と、その前にまずは腹ごしらえとなった。高原ロッジにはお昼時とあって人、人、人…。食事の順番を待つ間、お土産コーナーを覘いてみた。レストランのフロント中央には美味しそうな焼き立てパンがおいてある。パンはすぐに売切れるとか。おやつ代わりにパンを5個買った。その光景はまるで街中のホテルのレストランの様相だ。

パン以外にも運転してくれる2人とアサちゃんにお土産を買った。お土産をよく見ると野呂山で作られたものでなく、県内の山間の地で作られたモノだった。

ロッジでの食事は4人ともじゃこ飯定食を注文した。素朴な味であったが平常食べるものと違いあっさりとして美味だった。

食事を終えると山歩きである。山頂付近に住む人の案内で遊歩道を歩いて展望台、弘法寺、氷池などをめぐってゆっくり歩を進めた。

野呂山山歩きを終えると呉の人の車に乗り変え一路広島に向かった。相変わらず街は黄砂で覆われている。

知りあい人の用事を済ませると行きつけのインドカレーの店に行った。店の名は「ダーラ・ヴィラス」。店の名はインド人オーナーの名をとった思われた。オーナーの名はラーダクリシュナン。

最近読んだ本に『中村屋のボース』がある。著者の中島氏の新聞寄稿を読んでからというものインドに見せられている。その矢先のインド料理である。

この本についてはいずれブログに書こうと思っている。

オーナーとインドについて話していると、20年近く前に行ったインドのことを思い出した。アグラ、ジャイプール、デリー、スリナガルなどの光景である。特にスリナガルはパキスタンとの国境に位置し、紛争が今でもたえない。その当時もスリナガルでの観光は困難を極め急遽、登山となったことを思い出す。スリナガルはイギリス植民地時代の避暑地である。

紛争の続く今ではその観光もないだろう。行けるときにいってよかった。

入ったインド料理は本当に美味しかった。何といっても本場のカレー味である。出来上がったばかりの温かい「ナン」をカレーにつけて食べる。その一口の美味しいこと。

当分我が関心はインドからはなれないそうにない。それもいいこと。何でも興味の赴くままに歩を進めればいい。楽しければ…。

2011年5月3日火曜日

散策

世の中はGWとか。ところが我が生活は毎日GW。

そのGWの合間を縫って一昨日は長らく会っていなかった知人が我が家にやってきた。

その知人とはバイト時代に知り合った。昨年末頃、アサちゃんに食事をさせようとした時、ふとある電話番号が頭を掠めた。すぐさまその番号にTELすると聞き覚えのある声が聞こえてくる。その声の主が今回我が家を訪問したという次第。

知人は家に入るとすぐにアサちゃんにお供えし、お参りまでしてくれる。ありがたかった。

その後はまた知人が購入した野菜サラダ、サンドイッチ、巻寿司、味噌汁などで昼食を共にした。どの品も趣向を凝らしたものばかりで本当に美味しい。

何年ぶりかで会ったというのにその年月を感じさせずに話ははずんだ。

知人を最寄の駅に送っていくと旅に関するパンフが置いてあり、その中の「JRふれあいウオークガイド」を手に取った。

パンフを見ると最寄の駅付近のガイドが掲載されているではないか。

長く生きているけど隣町の名所旧跡を散策したことはなかった。

昨日、早速パンフに載っていた熊野神社へ出かけた。我が家からとても近いところにあるのに行ったことはない。神社の境内に自転車を置き、そこからは徒歩での散策となった。石段を上がっていくと近くに住むという人に出あった。神社の真裏に住んでいるとか。出前の皿を返すために近道として神社を利用しているという。

しばらくするとさっきの人とまた出くわした。ちょうどそこから黄金色に輝く観音様が見える。その人にその話をすると「ひまわり観音」だという。歩いて行けるかどうかたずねると行けるという。

教えられたとおり歩くと観音様のところにたどり着いた。何のためなのかその周りではモーターの音がうるさいこと。すぐに隣にある薬師寺に入った。

我が家から本当に近いのに、神社や寺に入ると相当遠くにまで来た感じがしてくる。今では見られなくなっている小さな水路も流れていた。山の中の光景である。

帰り際、観光客らしき人に出会う。ほんのつかの間の散策であった。これから気候もよくなってくる。家の中にいるのは勿体無い。近場であってもいい。いろんなところへ出かけよう…。

2011年5月2日月曜日

オリーブの木

自転車に乗って隣町のホームセンターに出かけた。そこで念願のオリーブの木を購入した。

オリーブの木を植木鉢の中心に植えることは先日でかけた植物公園での植え方に拠っている。植物公園の入り口付近には大きな鉢の真ん中にオリーブの木、その周りに春らしい草花が彩りよく植えられていた。その印象を目に焼き付けて家に帰った。

備中国分寺のレンゲ祭りで買ってきた草花を玄関脇の大きな鉢に植えた。その中心にオリーブの木を植えたという次第。またとその鉢の隙間には我が家に生えているアイビーを植えた。

オリーブの木はまだ低木で木というにはかわいそう。ネットで検索して木の特徴を調べて植えたのだがさてさて成長は如何なものか…。植えてまだ3日目。それでも閑さえあれば外に出てその様子を眺め、ささやかな幸せを味わう。

ガーデニングというほどではないが、それでも近所の家の庭や図書館で借りた本を参考にして我流のガーデニングを楽しんでいる。庭いっぱいに花を咲かせるのが夢だけど…。