2011年10月31日月曜日

プールで…

今朝プールに出かけようとして表に出た。すると家の玄関前の道の真ん中に大きな陥没があるのに気づく。その2時間前に塀の業者が我が家に打ち合わせで来たときは穴は開いていなかった。

辺りを見渡すと、いつも閉門になっている小学校の裏門にペンキを塗っている業者3人がいる。道に穴が開いていると話し、区役所に連絡すると告げて家に入った。区役所に知らせて外に出てみるとその業者は開いた穴に大きなダンボールを置いてその真ん中に人に危険を知らせるポールを立ててくれている。

平常開くこともない学校の裏門。それが今朝に限って業者がいてくれた。もしもいなかったら陥没した穴に落ちて怪我人が出たかもしれない。

プールから帰ると、ブルドーザーが道をふさいで陥没したところを掘っていた。どこまで穴が開いているかわからないので掘っているという。工事は夕方までかかると…。

今朝我が家にやってきた塀の業者は、工事は11月中旬頃になるという。アサちゃんの長女の夫にそう告げると、道の工事が終わった後なのでちょうどいいという。もうあとは業者に任せよう。

今日、プールで1キロ泳いできた。午前中は水泳の先生に会うのだが…と思いながら泳ぎに行った。少し時間をずらせて…。それでもプールに入ると先生の声がする。

指導されている先生のところで挨拶すると、開口一番「なんと派手な水着じゃね」。「貧乏してるんで、安いのを買った…」と返事。

もともと派手な人間には見られない。水着くらい…と思って買ったのだが…。

クラブの練習が終わったとホッとして泳いでいると、一人先生は残っている。先生は泳いでいるコースの前に来て「ここまで泳いで…」と合図する。泳いで近づくとこれでいいから自信を持って泳ぐようにと励まされる。

さらに話していると12月はじめにクラブの有志で豆乳鍋をするので家に来るようにと…。そういってくださるのは有難い。だが先生の主宰するクラブを脱退しているし…というと関係ないという。招待すると…。来ても何にもしなくてもいい、お客さんだと…。さらに付け加えて木曜日の夜以外に、金曜日の夜もクラブの練習をしているという。金曜日に来るようにと。そこまでいわれるとクラブに復帰するしかない。とっさに「練習にいけるかどうかわからないけどクラブに入ります」と先生にいってしまった。

水泳の先生の本職は豆腐屋さん。先生をはじめクラブの人はほとんど地元に住んでいる。一駅であってもJRに乗って泳ぎに行くモノはすこし抵抗がある。これから寒くなるし、ましてや夜にプールに行く…。それも慣れればいいのかもしれないが…。

アサちゃんに手がかかり長くご無沙汰している人もいる。それなのに、これまでどおり、こうして声をかけてもらう。有難い。誰からも相手にされないコトが一番不幸な人だと何かで読んだことがある。そう思えば声をかけて励ましてもらえる人がいることは幸せなコトかもしれない。感謝!

2011年10月30日日曜日

『あなたに褒められたくて』

今月初めから始まったドラッグストア建設工事も日曜日とあって今日は休み。それでも雨は一日中降り続く。家の外も中も静かな日曜日だ。

昨日、高倉健の本を読んでブログに投稿。特別その人が気に入ってるわけではない。だが、ずいぶん前、その人の『あなたに褒められたくて』(新潮社、2001年第11版)を読んだことを思い出し、先ほど図書館でその本を借りてくる。

「あなたに褒められたくて」のエッセイはその本の最後に書いてある。大体の内容は覚えていた。そこの箇所を再度読み返してみる。やはり何か感じるモノがある。

女性が母親を思う気持ちと男性のそれとは相当開きがあるかもしれない。だが、書かれている部分は全く同感する。

筆者は小学校に上がる前、肺浸潤に冒され1年間、安静にしていたという。「この間、母は毎日毎日鰻を食べさせた。…肺病の息子に、鰻を食べさせて何とか滋養を付けさせたい、という母の気持ちは子供心にもわかりましたが、毎日の鰻はつらかった。それで僕は鰻は一番苦手なんです。」(195-196p)

「鰻」といって思い出すことがある。同じく覚えていないほど幼い頃、あまり元気でなかったと母から聞かされた。小さい頃、運動しなかったのはその意味もある。だが、そんな頃、母は他の娘たちには食べさせず弱い娘にだけ「八目鰻」を食べさせたと話していた。おかげで今は姉妹の中で一番元気。

高倉健の母は、任侠映画のポスターの肉絆創膏の貼ってあるのを見て、「『アッ、あの子、まだあかぎれ切らして、絆創膏貼っとるばい』って。見つけたのは、おふくろだけでした。全身のポスターで、誰も気がつかない。『あんたがね~可哀想』」といったという(198p)。

さらに「“帰って誰もあなたを迎える人がいない。それを思うと不憫だ”って、毎回書いてありましたよ。『お母さん、あなたが思っているより、僕はずーっともててるんだよ。教えてやりたいよ。本当に。』『バカ』って言ってました。頑固で、優しくて、そして有難い母だったんです。自分が頑張って駆け続けてこられたのは、あの母(ひと)に褒められたい一心だった思います。」とも書いている(200-201p)。

またさらに「お母さん、僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがってた背中に刺青を入れて、返り血を浴びて、さいはての『網走番外地』、『幸福の黄色いハンカチ』の夕張炭鉱、雪の『八甲田山』。北極、南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年、駆け続けてこれました。別れって哀しいですね。いつも――。どんな別れでも――。」と述べている(203-204p)。

筆者の映画は「幸福の黄色いハンカチ」しかみていない。だが、筆者ほどではないにせよ、この気持ちはよくわかる。

社会人大学生として学ぶように…と始めにいったのは母だった。NHKのラジオで放送大学の募集案内を聞いた母が入学することをすすめてくれた。結果的には放送大学でなく地元の大学で学んだ。筆者のいうようにその底辺には「母に褒められたくて…」があったかもしれない。頑張らなくては…と。

筆者は文の終わりに「あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね。」といって締めくくる(205p)。

全くそう思う…。一番の理解者を…。

2011年10月29日土曜日

『旅の途中で』

メールを送信しているとチャイムがなる。まだ10時前というのに…と思って出ると、地元の信用組合の支店長だった。

金融関係の人に来てもらうほど我が家は金持ちではない。ましてや働いていない。給料やボーナスは当然入らない。何かの間違いでは…と思いながら話を聞く。手には紙袋を持って…。

紙袋から本とチラシを取り出し、その信用組合の健全性をアピールする。取り出した本は『財界』11月1日号。その本の中にその信用組合の記事が掲載されており、安全性をさらにPRする。

帰り際、支店長は持っていた袋の中の菓子折りとその本とチラシを置いて…。土曜日というのに支店長自ら歩くとはご苦労なこと。

菓子といえば3日間、続けてもらう。一昨日は京都の菓子1箱、昨日は近くの人が市内で並ばないと手に入らないというバターケーキ1箱、そして今朝である。

頂き物はありがたいことなのかもしれない。でも一人なのでそんなに食べられない。

今朝はアサちゃんの長女夫妻が塀の工事の打ち合わせでやってくる。そのときもらったものを渡そう。いつも口に入れるのはアサちゃんのひ孫たちである。

メールの送信といえば、途中来客があっていい具合に送信できたかどうか疑わしい。

今朝のメールの送信先は信奉している本の著者で弁護士さんへの返信である。その本の記事を20年弱手帳に挟んでいた。

最近、毎日新聞記者の近藤勝重の本を読む。その人の本の中に時に高倉健の話が出てくる。それに影響され高倉健の本を読んだ。『旅の途中で』(新潮社、2003年)。その本の中で高倉健も同じようなコトをしている。

「僕は撮影の合間や待ち時間に、よく本を読んだりしています。…大勢のジャーナリストの方に、背筋がピンとなるようなお言葉をいただいて、それをみんなコピーをとって台本の中にはさんで――実は今でも手帳にはさんでいるのですが――読んでいました。そうやって、一生懸命自分の心に鞭を打ってるんだと思うんです。自分の心を癒すのではなく、間違いなく鞭だと思います。…」(133-134p)

これほど名を上げた人でも謙虚な姿勢なんだ…と感動してしまった!

他にも読んだ本に赤で傍線を引っ張っていると述べている。それは木村久邇典『男としての人生 山本周五郎のヒーローたち』の中から引用した次の言葉である。

「『苦しみつつなお働け。安住を求めるな。人生は巡礼である。』すさまじい言葉だと思います。『人間の真価は棺を覆うた時、彼が何をなしたかではなくて、何をなそうとしたかで決まるのだ』…当時迷っていた自分が、こうした言葉に励まされ、勇気を貰っていたんだと思います。何をなしたかではなくて、何をなそうとしたか。」(157p)

いつも思う。名誉や地位を得た人でもそれにおぼれることなく長く皆から愛されている人はやはりどこか違う、と。自分を奮いたたせているんだ…と。

凡人はさらに見倣わなくては…。

2011年10月28日金曜日

スペイン演奏旅行記

今日の午前中は昨夜、知人との話からスペイン演奏旅行の写真をブログに追加することと格闘する。後でわかったことは「ブログの編集」からそのブログをコピーすれば簡単だった。それをウエブ上のブログから貼り付けようとして、てこずってしまった。午後、ついに「ブログの編集」から写真を追加するといい具合にできた。嬉しい!

次回からはもう大丈夫!とりあえず写真を追加したスペイン演奏旅行を投稿しよう。

スペイン演奏旅行記(2011年8月25日-9月6日)

スペイン演奏旅行と銘打った一行38名(中途で帰国組みを含め、最終日には32名となる)の13日間の旅は以下のようであった。まず始めにこれを催してくださった皆様に感謝するとともに、この旅に誘ってくれた知人に感謝したい!そして楽しい旅に参加できた報告をこの場を借りて伝えたい!

8月25日(1日目、木曜日)

午前3時半、前日から用意した携帯電話、電波時計、目覚まし時計のアラーム3個が一斉に鳴り響く。すぐに起床。すばやく身支度を終えると軽く食事をする。

午前5時10分、仏壇のアサちゃんに旅の安全を願う。前日にお願いしていたタクシーに乗車して広島駅新幹線口に到着。これでスペインへ行けると実感。

午前5時25分、広島駅新幹線口に到着。だが建物のシャッターは空いていない。空くのを見届け2階の新幹線改札口に向かう。その間スーツケースを持つ人を見ると同行者?と思いながら歩く。まだ改札口は閉まっている。

午前5時45分、新幹線改札口に集合。誘ってくれた知人以外は皆知らない人ばかり。少々不安を抱えながらも知人と会話している人の話に加わる。

午前6時、広島始発の新幹線のぞみ108号で新大阪経由はるかに乗り換え、8時54分、関西空港到着。スーツケースを預け、パスポートを仕舞おうとしたとき「気をつけて行ってきてください」というメールをもらう。すぐにこれから機内に入る旨、返信。

午前10時55分、フィンランド航空AYO78便に搭乗。機内で隣席になった知人に先ほどメールをくれた人について説明。20年位前からその人の文章をモットーにしていると話し、ブログを通じて知り合った経緯を告げる。知人からブログのタイトルを聞かれ知らせる。

午前12時過ぎ、赤ワインなどの飲み物が出る。

午後1時過ぎ、マッシュポテト、お肉、ビール、コーヒーなど…の機内食が出る。フィンランドのコーヒー消費量は世界一とか?美味。機内は霜が降り、まるで冷蔵庫の中にいるよう。知人曰く、フィンランドは寒い国だから機内もそうだと…。これ本当のこと!?

午後3時10分、ヘルシンキ到着。日本との時差6時間。

午後5時、ヘルシンキでマドリッド行きAY3183便に乗り継ぐ。搭乗前、日本人の親子4人に出会う。聞くところによるとスペインに住んでいるとか。小さい男の子は日本語も英語もスペイン語もできると得意気に話す。この機内ではY姉妹の隣席になる。Yの妹さんから、知人が私をスペイン行きに誘ってくれた話を聞かされる。またいろいろと話をしていると本当に楽しい優しい姉妹だとわかる。Y姉妹とは一番初めに親しくさせてもらった。感謝している。おかげで他の人とも気軽に話せる雰囲気となった。機内食は軽食。

午後8時25分、マドリッド到着。日本との時差7時間。

午後10時30分、マドリッドのホテル着。ホテルはグランヴィア(大通りという意味)に位置し街中にある。広島でいえば八丁堀から紙屋町界隈か。ホテルに着くまでのバスの車窓から沢山の自転車によるデモンストレーションを眺める。夕食のためホテルを出ると街中には娼婦が一定間隔を置いて立っている。この現象は同行したバレンシア生まれで広島在住の神父様によると最近のことらしい。

午後10時45分、レストラン外のカフェレストランで食事。レストランの中よりも外のほうが金額的に高いそうだ。マドリッドではすべてカフェレストランで食事。ビール、生ハム、ツナのサンドで食事。日本では考えられないような遅い夕食。そのメンバーは神父様、教会の信者のEさん(いつも神父様のそばにいる秘書みたいな人)、知人、私の4人。外の風に吹かれながらの食事は心地よい。湿気の多い日本では考えられない外での食事。この日から毎晩遅い夕食が始まる…。マドリッドのカフェレストランでの食事は常にビールを注文。マドリッド以外の都市ではワインが主流。夜半というのにマドリッドの夜はまるで夕暮れ時のようだ。夜9時まで明るい。そのためか真夜中を過ぎても人、人、人の波。まるで皆徘徊しているように街中を歩いている。

気がつくと広島を経ってからマドリッド到着までなんと丸一昼夜もかかっていたと気づく。この日から睡眠時間は毎晩4,5時間あればいいほうだ。どこでもいつでも本当によく歩いた。

マドリッドのホテルは3泊。グランヴィアに位置しているため夜半の2時過ぎまで騒々しい。そのにぎやかさは半端ではない。ピーポー、ピーポーとサイレンの音をけたたましくさせて通るパトカーのうるさいこと。寝られない。外側に面していない部屋の人はそれも気づかなかったらしい。うらやましい限りだ。

スペインのホテルで日本と違うモノ・コトがあった。エレベーターである。エレベーターのドアの外にさらに手動で開閉する木製のドアがあった。またホテルに連泊すると大体のホテルは部屋の清掃やシーツ交換、バスタオルなどの交換がない。他にもヘルシンキに入国した際に入国審査が済んでいたためかマドリッド到着後はそれはなし。EU圏内だからその都度入国審査がないのかも…。

8月26日(2日目、金曜日)

マドリッドの朝は快晴。

午前7時30分、朝食。

8時45分、ホテル出発。今日からバルセロナまでの長い、長い道のりのバスの旅が始まる。そのバスを運転するスペイン人の運転手さんは45歳。バスには必ず運転手の奥様も同乗。日本では考えられない光景だ。

スペイン滞在中、観光案内をしてくださるのは広島市内の某教会のスペイン人の神父様。日本在住49年。広島に着いた初めの頃、江田島に行った際、神父様は毎朝「甲板掃除!」という言葉を耳にする。それはてっきり「おはよう!」という意味だと勘違いする。毎朝バスが発車する際、神父様は笑って「甲板掃除!」と挨拶される。それを聞いて皆ドッと笑う。

バスの車窓から見る景色は一面麦畑。時にスペインらしく牛の看板が立ててある。同行の合唱団の指揮者で音楽大学のS先生は広い麦畑、トウモロコシ畑、ひまわり畑を見てそれにやる水を面白可笑しく話される。スペインの人はそれぞれ2リットル(20リットルかも…。まあ冗談だからどちらでもいいことに…)の水をもって畑に行って水遣りをすると…。畑に人の気配はなく時にスプリンクラーが水を撒き散らす光景を目にする。

午前10時、トレド到着。

午後2時までトレド市内見学。ゴシック風のカテドラル(大聖堂)に至る道のりから眼下を見下ろす。その光景は真っ青な空にオレンジがかった建物の屋根。「これがスペインだ!」と思う。大聖堂の主祭壇の上の白いマリア様の彫刻を見る。聖堂の大きさは日本で目にするものと違ってとても大きい、これもスペイン!?とまた感激。サント・トメ教会、エル・グレコの家見学。大聖堂の広場で休んでいるスペイン人の中に入って早速一緒に記念写真。

白いマリア様

午後2時半 本場のパエリアで昼食。昼食時、先日広島の平和記念聖堂で行われた知人の所属する合唱団の服装の話で盛り上がる。その演奏会では指揮者しか姿が見えなかったと同行した人たちに話すと合唱する人たちは皆浴衣姿で歌ったといって笑わせる。その姿を想像するだけで可笑しい!実際はもちろん正装で歌っていたのだが…。
パエリア
 
午後3時、バスは出発して午後5時過ぎ、ホテル着。

午後5時半、明日のミサで演奏する人としない人とに分散して行動。演奏しない人は自由行動。皆でデパートなど繁華街を散策。大通りでは大道芸人のパフォーマンスであちこちに人だかりができている。鎖で体を縛り付けた人、赤ちゃんの恰好をして乳母車で泣く大人の男、体中を黄金色に塗った背広姿の不動の芸人。不動の芸人は我々日本人に関心をもち、体を動かして握手などする。

午後6時過ぎ、皆と分かれ知人とアイスクリームを食べながらデパートなどを散策。

午後8時夕食。神父様、信者のEさん、Kさん、Tさん、知人、私の5人でBAR (バル)で食事。広場では若者による政治的なデモンストレーションが行われていた。このとき神父様はスペインの街の光景が「綺麗でしょ?」と話される。電線などが日本のように張り巡らされておらず、地中に埋めてある。すっきりした街並み。さらに街灯も日本で見るような光線の色でなく温かみを帯びたオレンジ系統の明かりだった。

午後9時20分、ホテルの部屋でいろいろと旅の片付けや洗濯をする。同室のIさんは用意周到に洗濯物を干すロープを持参している。2人で部屋の真ん中にロープをつるし、洗ったものを干す。乾燥しているスペインなのに洗濯物は乾かない。なぜ?

午後10時、フラメンコを見るため皆で歩いてホテルを出る。フラメンコの開始は午後11時前、もう眠たくてたまらない。女性のダンサーに続き男性のダンサーがフラメンコを踊る。その音とスピード感は本当に迫力がある。上手い下手はその迫力の違いにあるのかと思うほどに。初めて見るフラメンコなのに眠いこと、眠いこと。注文した赤ワインはおいしいけど眠たさには勝てない。ほとんど飲まず。

午前0時前、会場を後にして数人で歩いてホテルに帰る。

午前0時半就寝。

 8月27日(3日目、土曜日)

スペインの空は毎日真っ青。今朝の空は飛行機雲が…。49年前のこの日、神父様は日本に到着されたとか。バスの中、皆で拍手をして神父様を祝う。

午前7時半、朝食。

午前9時、バスで国立プラド美術館へ。知人と日本語で書かれた「美術館ガイド夏2011」を携えて3時間美術を鑑賞。美術館は地下1階を含む4階建て。0階が日本での1階にあたる。この階の表示の違いはホテル、デパートなどでもこんがらがってばかり。折角プラドに来たのだからとスペイン絵画は特に意識してみる。パンフによると「プラド美術館では十二世紀のロマネスク時代の壁画から十九世紀にかけてのゴヤの作品まで年代順位展示しています。一階では中世、そしてルネサンス時代の絵画を、そしてメイン階ではエル・グレコ、リベラ、ムリリョ、ヴェラスケスなどの黄金世紀の画家の作品群を展示。黄金世紀は、一階、二階、三階に分散されているゴヤの作品で頂点を迎える」と書いてある。この中のムリリョについては知らなかった。大半は宗教画である。美術館に行くとミュージアムショップに行くのが楽しみだ。そこでプラド美術館をあらわしたコースターと手鏡を購入。知人は来年のカレンダーなどを買っていた。

午後1時半、ホテル着。午後2時から自由時間。神父様を含む10数人はマイヨール広場にあるカフェレストランで昼食。食事後、皆と別れ、地図の読める知人とグランヴィアを通り抜けて王立劇場、王宮そしてその終点のスペイン広場まで行く。さらにプエルタ広場なども散策。スペイン広場の真ん中にはセルバンテスとドン・キホーテの像が立っていた。その像の下をかがんで入って横に立ち写真を撮る。

その後デパートに移動。思ったより涼しいスペインなので知人はデパートでカーディガンを購入。そのとき店員は「付加価値税10%OFF」のカードがあると安くなるという。そのカードをもらうためカウンターを探す。教えてもらった階が日本のフロアと違うことを知る。探し当ててカードを受け取り、商品をやっとゲット。その後、アイスクリームを食べ終えて地下のトイレに行く。鍵が掛かっていた。トイレに入るには入り口付近にある暗証番号を押す必要があった。教えてもらった暗証番号は1111。アイスクリームは毎日のように食べる。乾燥しているスペインの大地で食べるアイスクリームは必需品!?

午後7時半、ミサに行く。そこで御聖体を受ける。それは信者だけのことであると知り、以後のミサでは受けないことに。この御聖体というキーワード。初めて知る。無理もない。初めてミサというものに参加したのだから。

今回の旅の目的は作曲家ビクトリア没後400年のこの日、この場所で、このミサで演奏することに意義があるという。そのため旅の計画は何年も前からこの日にあわせて予定されていたと聞く。

ミサを終えるとマドリッドに3泊しただけで仕事の都合などで翌日、日本に帰国する人たちが3人いた。少々勿体無いような気もする。それでも帰国組みの人たちは演奏できたこと、あるいは参加したことだけで幸せなときを過ごされたのかもしれない。

午後10時30分、ミサ終わる。

午後11時、マイヨール広場のカフェレストランで10名くらいの夕食。

午後12時半、就寝。

8月28日(4日目、日曜日)

今日も青空。昨日同行者の一人がパスポートを紛失したと聞く。以後、パスポートだけはなくしてはいけないと思い常にバッグに手を置いて歩くようにする。

午前7時、朝食。

午前8時、スーツケースを出す。

午前8時半、3日間滞在したマドリッドとも今日でお別れ。マドリッドから120キロ離れたアビラまでバスで移動。バスから見える山に立つ十字架はマヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線とフランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍が内乱を起こしその両者が祀られているという。勝利したフランコ将軍は1975年に亡くなる。

その頃の様子をこの旅行の実質的な団長であり、合唱団の指揮者でもある広島の音楽大学のS先生にバスの中で伺う。その先生は若い頃バルセロナに留学されている。もちろんスペインへもたびたび行かれている。やはり今のスペインがいいとか。同行の神父様もそういわれる。神父様は今秋スペインで行われるトップの選挙について憂慮される。その選挙でスペインの社会党は(期待を込めて)敗退すると…。やはり自由は尊い!

S先生はスペインに留学中、偶然有名な堀田善衛と知り合いバルセロナの家にも招待されたという。堀田は当時バルセロナで書いた作品を日本へあててFAXで送っている。その生活はお手伝いつきで優雅そのものだったとか。堀田が当時滞在したスペインで書いた『スペイン430日』を早速読んでブログに投稿した。

バスで移動中、目にするものは太陽光パネル、風車、草原にいる牛ばかりで人の気配なし。それを見て知人はしきりに「人がいない!」という。

そして知人の格言「スペインへ行けば(皆)元気になる!」。

確かにそう思う。スペインの国土は日本の国土の1.5倍もあり、人口も3分の1とあっては一人当たりの面積は日本の4.5倍にもなる。それだけあれば日本人のようにあくせくしなくてもゆったりと生活できる。皆元気になれる!

しばらくしてアビラに到着。アビラ大聖堂を見学中、日本語の書籍『創立史』を目にする。ネットで検索すると聖テレジアという人が書いたものを日本語訳したものとか。興味を覚えたのでネットで購入しようとしたが絶版だった。残念!図書館で借りることにしよう。

大聖堂で今回の旅のハイライトである日曜日ミサに参加。S先生の指揮でビクトリアの作曲による作品を演奏。聖堂内に響き渡る歌声は人の気持ちを何故か不思議にさせる。それを表現するには…。どう書いていいかわからない。

アビラ聖堂を見学後、偶然自転車によるツーリングに出くわす。それを見て知人曰く「ツール・ド・スペイン」と。その場所が終着点であったため最後まで見物。すがすがしい青空の下でのレース競技は快適そのもの。

午後2時、アビラ出発。

午後3時15分、パーキングエリアにあるレストランで昼食。美味だが何といっても大量。日本人の食事量の3倍くらいある。スペイン人と日本人の体の大きさの違いはそこらへんにある?

午後4時20分、バスは出発し560キロメートル先のサンティアゴへ。

午後10時半、サンティアゴに到着。遅い到着にもかかわらずレジデンスの人に温かく迎えられる。

午後11時、夕食。メニューはヌードスープ、肉料理など。この辺りから料理にはジャガイモがつく。これがまた美味。レザートは桃とりんごを掛け合わせたようなネクタリン。これも以後毎日食べる。ちょっとすっぱい。だが味が濃くてとても美味。マドリッドよりもサンティアゴ以降の都市の食事が日本人に合う気がする。この都市辺りからカフェレストランでなく屋内での食事に。

午後0時半、就寝。

サンティアゴ到着までに3回トイレ休憩あり。3度目のトイレ休憩は前の2度と違って長い30分間。それはどうもスペインの運転手に対する労務管理だとか。さらに翌日からの48時間は運転してはいけない規則になっているとも。その割には食事のたびに運転手はアルコールを口にする。皆その様子をみて怪訝に。日本では考えられないことだ。ワインは水代わり!?

8月29日(5日目、月曜日)

今日もスペインの空は快晴。サンティアゴの宿泊先は学校の宿舎。TVはなく、シャワーのみ。

午前6時、起床。マドリッドのホテルでは毎日寝不足気味。その原因はホテルの外の騒々しさだけでなく枕にもあると気づく。日本でも枕はなくてよい。昨夜は枕の代わりにバスタオルをたたんだものにする。やっとよく眠れた。以後、毎日枕はバスタオルで…。それでも日本にいるときの8,9時間の睡眠時間を考えると睡眠不足は免れない。

枕といえばスペインで泊まったホテルではどの枕もベッドの幅ほどの長さがあった。日本でもベッドの幅ほど2個枕が置かれているが…。それが日本と違い1個で長いモノ。

午前7時、同室の人が早朝ミサに参列するという。ミサ出席。ミサは同行の神父様が司祭に。参加人員は少ない。教会は学校の宿舎にある。音響効果は抜群によく、神父様の声は聞こえにくい。

午前8時、朝食。フランスパン、ミルクコーヒー、ネクタリンなど。美味。毎日昼食までの時間が長い。しっかり食べないと…と思いつつ食事。旅行中食事と食事の間隔が長いので常に空腹を感じる。かといって1回の食事量を増やそうとしてもそれも無理なこと。おかげで体が軽く調子は良い。

午前9時15分、ここで以前広島の音楽大学に非常勤講師で勤めていた日本人女性のタケベ先生と合流。その先生は30代の年齢でサンティアゴの大学のスペイン人の学長(40代なのに学長)と結婚されスペインに在住。サンティアゴ滞在中はこの先生に音楽堂など案内してもらい散策。サンティアゴでの食事の手配もすべてこの先生による。

午前9時半、宿を出発。演奏組みは練習。その他の人はサンティアゴで自由時間。知人と午前10時40分というのに朝からビールを。ワイン、水、パンは毎食、食卓に出る。ところがビールは出ない。時に乾燥しているスペインでは冷たいビールが…。

サンティアゴはサンティアゴ巡礼の終着点。道の中央には10余センチくらいの大きさの黄金色の帆立貝のレプリカが一定間隔を置いて埋められている。巡礼する目印とか。同行の信者の人に帆立貝とカトリックの関係を聞くが知らないという。先ほどネットで検索してその意味を知る。

ホタテ貝のレプリカが埋められている

「サンティアゴ巡礼の道標のように、行く先々で我々に方向を示してくれるホタテ貝のマークを見かけます。また、巡礼路を歩いている人々がホタテ貝のペンダントをぶら下げている光景にも度々遭遇します。何故でしょうか?昔はこのホタテ貝をお皿代わりに、食べ物を恵んでもらったことから、この必需品・ホタテ貝が巡礼者のシンボルになったと言われています。」(http://www.eurasia.co.jp/nittei/s_europe/qsv5/camino/index.htmlより引用)

サンティアゴ巡礼の道についてスペイン観光局の「ガリシア」のパンフによると「サンティアゴ巡礼の道は、本当の自分に出会うための自分自身への巡礼の旅である。」と女優シャーリー・マクレーンの言葉を引用して書いてある。さらにドイツの哲学者ゲーテの言葉を引用して「サンティアゴへの巡礼によってヨーロッパは作られた」という。「欧州理事会はサンティアゴ巡礼の道を『初のヨーロッパ文化の道』として制定し、ユネスコは『世界遺産』に登録しました」と書いてある。

さらに付け加えて「今、興りつつある三つの価値観に、自己啓発、精神性、そしてロマンティシズムがあります。サンティアゴ巡礼の道を歩けば、新世紀に頒布すると考えられているこれらの価値観を、追求することができるのです」とも書いてある。

私たち一行のスペイン演奏旅行は徒歩での巡礼でなくバスであった。それは徒歩に比べてた易いことである。それでもサンティアゴに行ったのだから気持ちのうえで巡礼だったと思いたい!

同行者は皆この自由時間を利用してお土産を買う。帆立貝のペンダント・トップなど売られている。色もエメラルド・グリーンとコバルト・ブルーを合わせたようなものがとても綺麗。装飾品に余り関心がないのでただ見るばかり。日本では見られないものだが…。お土産にはいいかもしれない。金額的にもそれほど高くない。その後知人と大聖堂の中に入るとミサが行われていた。

午後1時、皆集合。タケベ先生の案内で市場に同行。休みのところもあったが、チーズなど真空にしてもらって購入する人もいた。知人とチーズでなく植物の種を購入。種の名前は“Acaricida”だった。その和名はさてさて…。花が咲いてからのお楽しみ!?

午後3時、レストラン内で昼食。サンティアゴについてからはワイン、パン、水は必ず食卓に出るがビールはない。食事はガリシア料理に。ししとうの揚げたもの、タコの揚げたガリシア風料理、イカスミライスなど。いずれも美味。

食事中合唱団の世話をしている女性のKさんが「いい人を旅行に連れてきてもらった」と知人に話しているのを聞く。その意味は途中帰国組みがいたので、旅行中、宿泊メンバーが入れ替わるところをずっと同じ人とでいい…と話したことにあるようだった。旅行中は皆に迷惑だけはかけないようにしようと思っていた。それを聞いて少しホッとする。

昼食も佳境に入る頃、かわいいスペイン人の坊やを連れた家族に出くわす。ギター奏者のKさんはその子が気に入ったよう。いつもまるで十字架を背負っているかのようにギターを背にして歩くKさん。レストラン内で得意のギターを演奏。皆笑いころげてレストラン内のにぎやかなこと。日西友好親善のレセプションといった感じで大いに盛り上がる。旅行中、スペインは昼食が夕食よりも正餐?と感じることが多かった。本当はどっちが正餐!?

昼食後、皆と買い物などで散策。途中、買い物から外れて知人とアイスクリームを食べる。その後、知人とIさんと3人で新市街を歩く。そこにあるお店でグレイのラメ入りのワンピースを目にする。知人はそれが似合うから秋に行われるフルートの発表会で着るようにという。そしてさらに「それを買ってあげる」とまでいう。もうびっくり!さらにそこで試着するようにと同行の2人はいう。そういわれても…。気持ちだけありがたく頂戴してワンピースを購入。帰国後、試着すると体にぴったりだった。発表会に本当に着る!?

さらに3人で歩いているとスーパーがあった。そこに入ると知人は日本のキリンビールを目にする。ホテルではもっぱらワインが食卓に出る。知人は皆に飲ませてあげようと日本の缶ビールを買う。ついでにホテルには冷蔵庫がないからナイロン袋に入った氷も購入。そこには日本のしょうゆも売られていた。缶ビール、しょうゆの他に水、嗜好品など買ってホテルに…。水だけでも1.5リットルが2本。重いものはすべて知人が持ってくれる。気の毒なのでバッグに入るだけ缶ビールを持つことにした。

買い物を一緒にしたIさんは偶然にも同じ町内に住んでいる人だった。これからもばったり会うことがあるかもしれない。

午後7時前、ホテル着。

午後8時半、いつもより早めの夕食。

午後11時、これもいつもとは早めの就寝。

8月30日(6日目、火曜日)

サンティアゴの朝は小雨。
 

昨夜は就寝時刻も早く久しぶり8時までよく眠った。ところが朝ホテルの部屋でトイレを済ませると扉が開かない。べつに鍵をかけて入ったわけではない。幸い同室の人がいたので声をかけると必死で開けてくれた。もし一人だったらと思うと恐ろしくなる。

午後0時から午後1時半までサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂でミサ。昨日知人とちょっとだけ入った教会だ。早めに教会に入り椅子に座ってミサの始まるまでオルガンの音色を聴きながら待つ。その雰囲気に圧倒され、これまでのさまざまなことが頭を過る。ミサが始まるとそれも頂点に達し涙が止まらなく…。ちなみにサンティアゴとは聖ヤコブのスペイン名とか。その司祭には同行のカトレット神父も加わる。


サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂

この大聖堂のハイライトは何といっても大香炉振り(ボタフメイロ)であり、ミサでこれに遭遇できたことは幸せだった。JTBのパンフレットによると「サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂内において行われる信者や巡礼者の魂を清め、堂内を清浄にする儀式。ロープに吊り下げられた巨大な香炉が振り子のように往来します。」とある。それも佳境に入る頃には香炉の煙で教会内は真っ白に…。

午後2時半、大聖堂近くで昼食。このとき同行者の一人のIさんが誕生日を迎え、皆でケーキや歌などで祝う。

午後4時、昼食を終えた後、少々雨が降っていたが10数人で散策。新市街にある昨日も行ったスーパーに行く。今夜は規定の夕食はなく食事フリー。皆は夕食などを買い込む。ところが知人に聞くと買わないという。ただ水や嗜好品を買うのみ。

午後6時、ホテルに着くが部屋に入れない。知人も私も合鍵は同室のヒトが持って出ていた…。仕方なく私はTさんとIさんの部屋に居候させてもらう。知人はロビーに一人いるという。居候させてもらった部屋で、女性3人で色々と話をする。自然と話題は旅に来たきっかけと知人との関係に…。その話や母の介護の話などし終えるとTさんも息子さんのことを話される。大変な様子が伺える。皆いい人たちだと改めて知る。

午後7時15分、歩いて教会へ行く。サンティアゴではホテルと教会のあるところまで何往復したかわからないほどよく歩いた。おかげで一番その光景をリアルに思い出す。とはいっても地図が読めない女は知人について歩くのみ。このことを実感した旅だった。

午後8時、イエズス会の聖アウグスチン教会でコンサート。この模様は地元紙3社に掲載され、録音もされてCDになるという。この件に関しては地元在住のタケベ先生の応援にあるらしい。現地でその掲載された新聞を見ると写真入りだった。このコンサートはミサ曲だけでなくKさんのギター伴奏つきでウイーンで活動されている若い男性のOさんの独奏も披露された。独奏は「竹田の子守唄」などの日本の歌だった。スペインで聞く日本の歌もなかなかいい感じ。終了後、知人は地元の人から「ハポン?」と聞かれ、日本の広島からと答える。広島は世界に出ると知名度はある。その点はいいことかも…。

演奏会が終わると夕食のことが心配になってくる。何しろ日本から飴一袋しか持ってきていない。ホテルに帰る途中、心配になって同行の人に話すとカップ麺をくれるという。今夜は飴とカップ麺と水で寝ようと覚悟する。それにしても知人はどうするのだろう…と思いながらホテルまでの 道のりを歩く。

その日、宿泊するホテルを利用するには部屋ごとの鍵以外にホテルの出入り口の鍵とホテルの敷地に入る鍵の3つが必要だった。この3つの鍵は全員にいきわたらず、参加した人をグループに分けてそのリーダーが持つことになった。知人は所属する合唱組みのリーダーとなり鍵を持つことになる。午後10時過ぎ、グループがホテルに着くと敷地の鍵を開け、ホテルの玄関の鍵を開けて各自部屋に入る。

それを終えてしばらくして食料を持ってない知人と外に出てレストランを探す。その前に知人はカップ麺を同行の人からもらっていた。私もIさんがカップ麺をくれるというので部屋番号を聞いていた。それなのにIさんのところへは行かず知人と外に出て食事をした。その夜、Iさんはいつ来るかもしれない私を待って部屋の鍵を開けて寝たという。人の好意を無にしてしまった夜だった。ただ謝るしかない!

知人と遅い夕食を食べに街中へ繰り出す。街灯だけの明るさで人気のない道。ホテルから10分ぐらい歩いたところに差し掛かると大通りに出た。感じの良いレストラン“Meson-Parrillada ARGENTINA”が開いていた。そこを今夜の夕食場所と決めパスタ、パン、ビールなど注文して分け合って食べる。美味であった。一番心配していた食事にありつけた夜となった。

午後11時半、ホテル着。部屋で寝ていると演奏会に出た同室の人は打ち上げに出席して上機嫌で帰ってきた。演奏者たちのその様子を同行のTさんのブログから勝手に引用させてもらう。「総勢600人のお客さんが来ていたそうです!暖かいお客様で、最後はスタンディング・オベイション!そりゃあ、色々ミスはありましたが、きっと良い演奏だったと思います!なぜなら、最後のアンコールでS先生が身悶えしてましたからね♪あんな聖堂で歌えるって、素晴らしい!」と述べている。

それにしても宿泊したホテルと聖堂までを何往復したことだろう。本当によく歩いた。途中には毎朝アルコールを飲んでベンチでたむろする浮浪者5,6人の姿も目にした。彼らは会うたびに知人に「ハポン?」と声をかける。知人もスペイン語で彼らに応対する。時に雨が降ると彼らは近くの屋根のある場所に移動していたりして…。

8月31日(7日目、水曜日)

サンティアゴは曇りのち晴れ。

午前7時前、スーツケースを出す。

午前7時、ミサに出席。

午前8時、朝食。

午前8時45分、3泊したサンティアゴを出発。レオンまでの道のり360キロをバスは行く。
旅行の中日にあたるこの日、神父様は終日ご機嫌である。車内で大きな声で歌を歌われたりして…。バスの車内のTVからはバルセロナオリンピックの歌やスペインの歌が…。

午後1時45分、レオン着。大聖堂の付近の建物はどの窓にも綺麗な花が植えられている。大聖堂での休憩時間は先にトイレに行き、その後アイスクリームを食べる。だがその間にシェスタ(お昼寝タイム)になり聖堂の中の綺麗なステンドグラスを見られず残念!シェスタは午後1時半から4時までだった。ほとんどの同行者は見られなかったようだ。

午後2時15分、バスは出発。バスから見る風景は見渡す限り一面平原。

午後3時半、昼食。このときの食事は良く覚えている。一人ひとりの食事の量がとても多かった。例えば生ハムにメロンの前菜では大きなお皿には皿から出そうなハミウリのようなメロンが2切れと生ハムが…。もうこれだけでお腹がいっぱいになりそう!そしてメインは同じく大きな皿一杯に骨付きの牛肉を焼いたものが…。半分も食べられそうにない。それもそのはず。のどの渇きを潤すためまずはビールを飲む。それだけでお腹はいっぱいに…。乾燥したスペインの大地で飲むビールはやはり必需品!?

出される料理は各自同じでなく、違うものをとって分け合って食べることも。それにデザートが加わる。もう見ただけで食べられそうにない。美味しいと思っても一度に食べる量には限界が…。いつもこうして残す。そのたびスペイン人は出されたものを全部食べるのかと思いながら彼らの太る原因を勝手に想像。

午後6時、ロヨラから180キロ離れたブルゴス到着。気温17.2度。寒い。カテドラル大聖堂に着くと半端でない大雨に。すぐに同行者は皆、駆け足で聖堂の中に入る。聖堂は世界遺産に登録されている。

午後7時半、バスで大聖堂出発。

午後11時過ぎ、道に迷いながらもやっとバスは190キロ離れたロヨラに到着。ロヨラのホテルは新しい。

午後11時過ぎから12時まで相変わらず遅い夕食。スペイン滞在中、食事と食事の間隔が長いためいつも空腹感…。食事後シャワーを浴びてすぐに寝る生活は日本では考えられないコト。

バルセロナのホテルとロヨラのホテルのみバスタブがあった。そのスペインのホテルで気づいたことがあった。部屋に換気扇、扇風機、エアコンはない。日本だったらシャワーを浴びると部屋中が湿気で一杯になる。だがスペインの気候、風土なのかそういった類のものは見られない。

9月1日(8日目、木曜日)

昨夜は午前1時半から7時半までぐっすり眠る。ロヨラの朝は曇り空。ロヨラはイグナチオ・ロヨラの生誕地。
 

午前8時、バイキング形式の朝食。美味。

午前9時、ホテル近くにある城と聖堂見学。ロヨラに関わる生活道具、絵画などが展示されている。そこには日本から当時やってきた3人の姿もあった。

ロヨラの聖堂
午前10時、微笑みのキリスト像のある小聖堂で同行のカトレット神父様を司祭にミサ。このミサでは神父の日本語がはっきり聞き取れた。ワインは大地の恵、水・パンは生命の恵であり、モノよりヒトを大事にしなければならない…。食卓にワイン、水、パンが並ぶ理由をやっと知る。

イエズス会はここロヨラの聖イグナチオ教会から世界へと出かけている。イギリス映画「ミッション」はその辺を画いているらしい。見たことはない…。

午前11時、次の目的地まで210キロ離れたザビエルへ向けバスは出発。移動するバスからはこれまでの風景とは違い日本の山を思わせる。

午後0時半、バスはロクローニョの駅でパスポートを紛失したヒトを下車。そこからパスポートの交付を受けるためバルセロナに向け出発するという。不幸中の幸いながら紛失者は以前スペインへ留学経験ある人。そのため、言葉もスペインの状況もよく察知されている。もし何もわからないモノだったら…。

午後2時半、昼食。昼食のメニューを各テーブルで神父様が説明してくださる。そのとき若い音大の女性のWさんは神父様が一番嫌いだと説明した食べ物を注文。神父様はそれを聞いて彼女が一番好きだといって皆を笑わせる。出てきたものはやはり美味しくなかったようだ。その様子を察知したバスの運転手さんも彼女がかわいいといって写真をとる。実際にかわいい女性であった。その食べ物とはArroz Con Lolme(ミルク入り稲米)。

午後3時半、バスが出発するとき車内で若い男子音大生のT君は先ほどパスポート申請でいなくなった人の物まねをはじめる。もう本当に可笑しい!よく似ている。皆バスの中で笑い転げる。そのときだったのかもしれない。こういうことがあった。

若い人たちは偽の入れ歯を歯に刺してドラキュラのような顔をして写真に撮っている。これを見たときも本当に笑った。それまで今頃の若い音大生は「おとなしい!」というイメージを持っていた。それがそれをみて一気にそのイメージは崩れた。やはり若いということはすばらしい!楽しい人たちであった。一人、旅の主を失ったバス一行はザビエルに向かって出発。

午後4時、ロヨラから200キロ離れたザビエル到着。廃墟のようなザビエル城には真っ青な空が…。この光景はシルクロードの建造物を思わせる。こういうひなびた風景こそ旅するモノの心を和らげてくれる。大好きな風景だ!ザビエル城は山口にあるザビエル教会とも姉妹都市として関わりがあるらしい。

午後5時、210キロ離れたフランスのルルドまでバスは出発。出発したバスの車窓からは長くて大きいダムが見える。しばらくバスが行くと長い国境を抜けてフランスに入る。気温23度。ピレネー山脈を越えてバスはくねくねした山道をどんどん進む。知人は「林道」だという。道の両脇は深く険しい岩壁の山々。さすがピレネー山脈だ。さらに進むと放牧された牛がいる。一面トウモロコシ畑。


午後8時過ぎ、バスは迷い道をしながらくねくねと林道を進んでやっとルルド到着。バスから降りるとき少々酔ったような感じがした。ほとんどのヒトがそうだったようだ。ルルドはスペインとフランスの国境になっているピレネー山脈のふもとにある小さな街。聖母マリアの出現と軌跡の水“ルルドの泉”で有名らしくカトリック教会の巡礼地となって世界各国から観光客が訪れる。

午後9時、マリア様のローソク行列にお店で買った紙の灯篭とローソクを手に持って参加。その日は風が強く吹いていた。そのため同行の人3人にローソクを点火してもらうがそのたびもらった人のローソクを消してしまう。この行列にはマリア様を先頭にして長い列ができ、歌声に合わせてローソクを手の上にあげたり下ろしたりして歩く。その光景を写真に撮りたいのだが、撮っていると真っ暗いので知人からはぐれてしまう。はぐれるとホテルに帰る道が全くわからない…。この行事は毎日行われるという。

そこで歌われていた曲は次のような歌詞だった。

AVE MARIA DE LOURDES
LOUANGE A  NOTORE-DAME  DE LOURDES
SA LVE REGINA

小さい紙の灯篭に書いてある文字から以上の3曲だったと知る。曲は何度も聴いていると覚えられそうだった。

ローソク行列

午後10時過ぎ、ローソク行列も終わるともう一つの合唱団の世話人のKさんたち3人とTさん、K さん、知人、私の7人はカフェレストランで夕食。ここのレストランのスパゲティは不味かった。知人や同席の人のピザをもらって食べるとそれは美味だった。多分各国から集まるローソク行列の参加者のためのレストランと思われるので、ファストフード風の店かもしれない。レストランまでの道は人、人、人、人…で街は溢れかえっている。ホテルに帰る途中、皆で買い物。チーズ、チョコレート、水など買う。
午後11時半、ホテル着。

午前1時半、就寝。

知人と同室のYさんはこの日は別居!?途中下車した人の部屋が開いているため別々の部屋になったとか。ホテルの部屋の寝室には2つのシングルベッドが置いてある部屋と二段ベッドが置いてある部屋があった。キッチンもついており家族で泊まるコテージ的感覚。バスルームに換気扇があると思ってつけると温風ヒーターだった。新しいホテルだったが寒さ対策はあっても暑さ対策は必要ない!?

9月2日(9日目、金曜日)
 

午前7時半、朝食。

午前8時半、荷物を出す。

午前10時、ルルドの聖母のマリア様が現れた洞窟の祭壇の前で同行のカトレット神父の司祭によるミサに参列。ヒトは一人ではなく亡くなった人も天国で一緒になると聞く。またサビエルの洞窟から聖母マリアが予言して湧き出た泉は治癒効果があると信じられているとか。その水を求めて春から秋にかけて世界中から多くの巡礼者が訪れるという。
ルルドの水をくむ観光客の列
 

 
 
ミサの後、その水を汲んで日本まで持ち帰る。持ち帰る容器はお店で売っている。購入した容器はマリア様の形をしていた。ペットボトルで持ち帰った人もいる。“奇跡の水”を求める人の中には車椅子の人が多くいた。神父様もこの日歩き疲れて足が痛いためか車椅子を押してもらっていた。

ピレネー山脈を越えて

午後0時、ピレネー山脈を越えて岩肌の見える山々を眺めてバスはルルドから440キロ先のバルセロナへ。バスで移動するときトイレ休憩がある。レストランやパーキングエリアのトイレにはこれまで行ったどこにも便座がない。これにはびっくり!皆どうやってトイレを済ませたのだろう。

午後3時、昼食。昼食といっても予約無しで入ったレストランのためツナサンド等の軽食に。レストランの中は急遽入ったため皆が座れる椅子がない。関西から合流した女性の先生が外のテーブルをゲット。中よりも外の方が気持ちいいので外の椅子に座って缶ビールを飲みながら皆で食べる。

午後8時、バルセロナのホテル着く。ここで紛失したパスポートの交付を受けた人と合流。近くにいた人はバスの中で学生がその人の物まねをしたと報告する。そこでまた笑いが起きる。ホテルは帰国する5日まで3連泊。

午後8時半、夕食。バルセロナはこれまでの他都市と違って日本のように蒸し暑い。この日は昼食も余り食べてないためか早い夕食。換気扇、扇風機、エアコンなどはなく、夕飯は汗をかきながら食べる。

午後11時、就寝。部屋のベッドの配置は二つのベッドが縦に並べてある。背が高い人同士ならば足と足があたるだろう…。

バルセロナについたあたりからひどく咳き込む人が出てくるようになる。同室の人もそうだった。
 

 

9月3日(10日目、土曜日)

バルセロナの朝は晴れ。この日早朝、同行者のうち3人は早めに日本に帰国。日本では台風が近づいていると誰彼となく聞く。 

午前7時前、起床。

午前8時、食事。

午前9時、モンセラット山までバスで移動。モンとは山、セラットは切り取られたという意味。

午前10時、モンセラット山に到着。

午前11時、モンセラット修道院見学。ここにおいてあった日本語のパンフには「拝みましょう 聖母マリアを」と書いてある。さらに「聖母マリアはここから参拝にみえる方すべてを暖かく見守ります。今日モンセラットを巡礼する人への言葉。ようこそ」とも書いてある。この聖堂の中の「上昇とエスコラの扉」の前の横向きになっているエスコラ(少年聖歌隊員)の一少年の像をみて感動。「エスコラの木製の彫刻は、モンセラットの少年聖歌隊の一員となることを望み、一日だけその望みがかなった、病気の子供の肖像です。少年の死後、彼らの両親は、このような形で少年の望みを不死身の形に残しました。」とか。その少年の顔はまるで生きているかのように人を惹きつける。
モンセラット修道院の掲示板


エスコラの木製の彫刻
この修道院は教会付属のモンセラット少年合唱団が7月とクリスマスシーズンを除いて毎日、ミサの後、歌声を披露するという。このベネディクト修道会には80人のベネディクト派修道士がいる。またカタルーニャ地方で最初の印刷所がここモンセラットで創業されたからかどうか、お土産店ではどこの観光地よりも書物が沢山売られていた。

午前11時過ぎ、修道者たちが捧げる総合ミサに参列。ここでのミサはこれまでのミサの聖歌と違い、カタルーニャ語のグレゴリオ聖歌。色々なミサに参列したけどサンティアゴのミサと並んでここモンセラット修道会のミサもひどく感動する。

ミサが終わると皆でケーブルカーに乗ってモンセラット山を目指す。乗っている間、スペイン人の2組の親子のグループと話す。何といっても文化人類学に関心があるので出かけた先の国々の人とは仲良くしたい。そこでの母親との会話は慣れない英語での会話であったが何とか意志が通じた。「何日間のスペイン旅行か」「スペインのどこに行くのか」「どこから日本に帰るのか」などと。本当に楽しい瞬間であった。一緒に写真もとった。やはりそのときの顔は我ながら楽しそうに写っていると実感。

ケーブルカーを降りたところから見下ろすバルセロナ市内は本当に広い。山はモンセラットがのこぎり山といわれるだけあって奇怪な丸みを帯びた岩山の峰が四方を連ねる。ケーブルカーを降りると知人と山の上にある観光ポイントを目指して砂利道を歩く。ケーブルカーまで同行した人の中には砂利道を歩くのにふさわしくない靴の人もいた。大変だろうなと察する。幸いスニーカーをはいていたので砂利道も難なく歩けた。途中行きかう人に日本人はいない。知人はよく外国の人から声をかけられる。すれ違う人の話し声からどこの人…と教えてもらう。

しばらく歩くと観光ポイントに着いた。そこで写真を撮っていると来る途中で知り合った外国人が知人と2人だけの写真を撮ってあげるという。他の人も一緒に写ってしまうとかで写す場所を色々指定されて写真におさまる。そこだけでも数枚写真を撮ってもらっていた。写真を撮ってくれた人と話しているとその人たちはスペイン人であり、日本にも来たことがあるという。そして日本は桜が綺麗だともいう。知人はドイツ語も習っているだけあって外国語に強い。移動のバスの中でもスペイン語をしきりに覚えたりしていた。ここで出会ったスペイン人とも結構話を交わす。旅の楽しさはこの辺りにもある。

砂利道をもと来た道に引き返していると、指揮者のS先生やギタリストのKさんたちがギターを背負ってこちらに歩いてくる光景と出くわす。これから観光ポイントを目指すとか。次第に天気も下り坂になっている。雨の降らないうちに下山されるといいのだが…と思いつつ知人と砂利道を下って歩く。

ケーブルで降りるとモンセラットの土産店に寄る。ここまで余りお土産らしきものを買っていなかった。もうバルセロナの観光しか残っていないと思ってお土産にチョコレートを買う。買い物を済ませると昼食を食べにレストランに入る。そこでは同行者の人も沢山いた。調理したところに並んで好きなものを注文する。日本のファストフード店のようなものばかりが目に付く。トマト味のスパゲッティーを注文。やはり山盛りだ。知人はビールのつまみになるようなものを注文している。知人がビールを注文するとそこで店の人はいなくなってしまった。いくら待っていても店員が帰ってこないので仕方なくビールの代わりにスプライトを注文。スプライトとスパゲッティーの組み合わせはまったく不味い。スパゲッティーも山盛りなので半分くらいだけ食べる。山の上のレストランだ。美味しさを求めるほうが無理というもの!?

この後、マンレサ洞窟訪問。同行の神父様は日本に来られる49年前、ここで8日間、黙想されたという。この洞窟の小聖堂の天上を見ると高山右近大名の絵が描かれていた。

午後5時15分、ホテル着。

午後8時まで自由行動。皆でメトロに乗って街中に繰り出す。指揮者のS先生からメトロの乗り方を習いながらメトロに乗り込む。メトロは大阪の地下鉄に似ている。だがホームをまたぐことができないため上り、下りを確認しないとメトロに乗れなくなる。デパートや大通りなどを散策。同行者でスーツケースが壊れた人、或いはお土産が多すぎて新たにスーツケースを購入する人もいる。ここでもアイスクリームを食べながら歩く。中の一人はアイスクリームの「ナタ」を注文。よくスペインのアイスクリームの名を知っているなあと思っているとその人は「ナタ」はどういう意味かS先生に尋ねる。先生曰く、ナタデココのナタとか。聞いた人もそれを知って少々びっくり。その人はアイスクリームが美味しいといって食べ終わるとさらにもう一つ違うものを注文。

アイスクリームは本当に良く食べた。日本ではほとんど食べないといっていいほど冷たいものを口にしない。まあビールは例外だけど…。ところがスペインは乾燥しているためかやたらとアイスクリームが食べたくなる。アイスクリーム・ツアー…と笑ったりするほど良く食べた。

午後8時半、ホテルのレストランで夕食。もうこのときは部屋が暑くて…。扇風機、エアコン、換気扇類は全くなし。顔を扇子で扇ぎながら食事をする。隣席の人も顔をハンカチでぬぐって…。2人して暑い、暑いと…。それに加えてワインを飲む。余計体も顔ももう火が出るほど暑い!日本でエアコン無しで食べるようなもの。あの暑さはスペインの思い出?…。

いつになく早い夕飯を終えると部屋に戻り、相部屋の人とこの旅ではじめてゆっくり話す。旅に誘ってくれた知人のことを聞かれる。知人の職業は?既婚者か?など。いくら聞かれても他人のコト。いえる立場にない。すべて「本人に聞いてください!」といって押し通す。既婚云々について私は既婚者ならば誘われても行かない…と話す。

知人は別の機会に他の同行者から「仕事は?」と聞かれたときスペインでよく見かける「芝刈りです!」と笑って答える。それを聞いて私は「農夫よね」といい、さらに「漁夫もね」という。太田川(広島市内で一番大きい)で鮎をとっていると冗談を交わして…。

相部屋のヒトは話しながらもスペインで風邪を引いて喉が痛いといって薬を飲む。話しているうち時刻はもう午前1時に…。就寝。

9月4日(11日目、日曜日)

バルセロナの朝は今日も蒸し暑い!

午前7時、起床。
午前9時15分、ホテル出発。バスから見える車窓には虹が出ていた。バルセロナ市内にある世界遺産に登録されている音楽堂訪問。そのホールは2146名収容可能。1905年から3年間で建設され、30年前は雨漏りのため使用できなかったという。この音楽堂の運営母体は合唱団。音楽堂について説明を聞いた後、ホールでパイプオルガンを聴く。
バルセロナの音楽堂外観


バルセロナ市内


午後2時、サクラダ・ファミリア横のレストランで昼食。ほとんど皆昼食を終えた頃、バルセロナのガイドのサントさんが「外尾さんだ!」というのを聞く。もうそれを聞いてびっくり!奥に入られるから待つようにという知人の制止を振り切って足はもう前に…。外尾氏のところに行って写真を撮ってもらう。その後も誰彼となく写真を撮ってもらっていた。

サクラダ・ファミリア訪問。入るだけでそこは人、人、人。外観の説明を神父様より聞く。もう見上げるようにして話を聞く。中に入るとこれまたとても広い。指揮者のS 先生は若い頃スペインに留学され、その卒業演奏会を地下のホールで演奏させてもらったことがあると話される。先生にとっては本当にすばらしい思い出だろう。
サクラダファミリア


サクラダファミリア内部の天井


サクラダ・ファミリアをエレベーターで上がっている間に、エレベーターで上らない他のグループの人は外尾氏から一般には入ることのできない礼拝堂や地下のガウディの墓など特別に案内してもらったという。部屋に帰って相部屋の人からそう聞いたときはとてもショックだった。相部屋の人からそのとき外尾氏から聞いた言葉を教えてもらう。「芸術とは作る側だけでなく見る側があって始めて成り立つものだ」と。どうも聞くところによるとサクラダ・ファミリアの誕生の門の未完成部分についての話らしい。
サクラダ・ファミリアをエレベータで上がってから眺める下界


エレベーターで上がって降りてきた受難の門のところで栃木県から来たという若い小野田さんと根岸さんの男女に会う。「新婚旅行?」と知人が聞くとそうではないという。13日間の旅行とか。その日数は私たちと同じだが…。

午後5時半、希望者のみグエル公園見学。サクラダ・ファミリアを後にしてグエル公園に行く。途中のバスの中で知人に「完成後のサクラダ・ファミリアを見ることができるかね」と話すと「見に来られる!」という。完成後のサクラダ・ファミリアを見たいものだ。

グエル公園に一度行ったことのある知人はこの公園は行くようにとすすめてくれる。グエル公園の丘に上がって皆で写真に写っているとき、ガイドのサントさんは偶然幼馴染の女性と30年ぶりの再会。
 

バルセロナには4大世界遺産があるという。音楽堂、病院、サクラダ・ファミリア、グエル公園。病院だけは休みのため中に入れなかった。

グエル公園から見るスペインの青い空 

グエル公園見学後、自由行動となる。グエル公園を見学した一行はバスでカタルーニャ広場まで行く。そこでバスを降りたKさん、Tさん、知人と私の4人はカタルーニャ広場からバルセロナの目抜き通りを歩いて港にあるコロンブスの塔まで歩く。目抜き通りを歩く途中、両側にある土産物店やマドリッドのグランヴィアで見たような路上パフォーマンスなどを見物。1時間弱くらい?歩くと、コロンブスの塔に着いた。コロンブスの塔の内部にはエレベーターがあり、上にある展望室からはバルセロナ市内と港を一望できた。

ここのエレベーターガールはとても若くて愛嬌があった。エレベーターの勤務を終えるとそこにある売店の売り場にいる。そこでも愛嬌たっぷりなしぐさでまるで私たちとの別れを惜しむかのようにおどけて振舞う。

コロンブスの塔を見物後はまた来た道を歩いて帰る。来たときと同じように両側のみやげ物店を物色し、途中レストランで4人は夕食。この夕食は大きな器に入ったバルセロナの名物らしきものと単品をとって4人で分け合って食べた。飲み物はビールなど飲んだがそのグラスはとても大きい。

まだ午後11時になっていなかったと思う。4人でメトロに乗って帰った。ホテルに近い駅で降りると他の同行者も同じメトロだった。ホテルに入ろうとする頃、S先生に出会う。今から夕飯に行くとのコト。相変わらずスペイン時間に合わせた遅い夕食のように思えた。明日はいよいよスペインともお別れ。宿に入ると荷物の整理をする。

9月5日(12日目、月曜日)

今日でバルセロナともお別れ。

午前7時、荷物を出す。外はまだ暗い。お天気はあまりよくない。

午前8時半、ホテル出発。朝食は昨夜夕飯で残ったパンを非常食に持ち歩く。朝ホテルを出るときそれを少しかじる。飲み物は水だけ。何かお腹が物足りない。バルセロナ空港ではしきりに小雨が降り続く。

午前10時、スペインのバルセロナ空港よりヘルシンキへ。バルセロナからヘルシンキまでの機内でやっと機内食のパンを半分食べる。やっと空腹が収まる。よく考えてみると昨夜から12時間も経ってやっと食に有りつけた勘定だ。余り食べないので旅行中は体の調子はすこぶる良好。この機内で神父様の秘書的係りのEさんと隣席となる。Eさんは昨年から放送大学で学ばれているという。その費用を聞くと1年で20万くらいとか。結構放送大学も費用が掛かることを知る。そのEさんは放送大学でスペイン語を学んだと聞く。その話に刺激され私もスペイン語を習おうと機内で決心。それは2年半前に修了した大学で…。

その機内ではYさん姉妹の妹さんから心温まるメモを渡される。その返事を書いているとき、その優しさに感動し涙が…。

午後5時20分、ヘルシンキから関西空港へ。ヘルシンキの空港でフィンランドがムーミンの国と知り、それに関係あるお土産を買う。旅の最後の機内は若いT君の隣に。彼は機内食もほとんど手をつけずに寝ている。そして長い飛行時間、彼がいつトイレに行ったのか知らない。私も彼同様その機内でぐっすりと寝ていたのだろうか、わからない。それにしても行きも帰りもフィンランド航空の機内は寒かった!寒すぎて寝られなかったようにも思うけど…。

9月6日(13日目、火曜日)

午前8時55分、無事関西空港到着。見るからに日本は暑そう!
荷物を受け取り「はるか」に乗る前、広島まで帰る人たちは「うどん」を食べる。いくらスペインの食事が美味しいといってもそこはやはり日本人!旅に出るといつも日本に着いたならうどんを…と思う。知人とうどんを食べながら朝からビールを飲んでいると、後からやってきた知人と同室だったYさんは笑って同じくビールを注文。家に帰るまでが「旅」と思えば、これもまた楽しい!

本当にいい旅だった!始めにもらった旅のしおりに書いてあるほとんどの人たちと打ち解けて旅をした。旅が非日常を求めるならその目的は達成された。日本では考えられないような毎日だった。本当に楽しい旅を企画してくださった神父様やS先生、同行の皆さま、そして楽しい旅に誘ってくれた知人に心から「ありがとうございました!」。そして¡Hasta la vista!(また会いましょう、さようなら)

2011年10月27日木曜日

歳暮のカタログから

今朝、三越の歳暮のカタログが届いた。

昨年まではアサちゃんの娘たち、孫たち、お世話になった人びとにお中元とお歳暮を贈っていた。それも今年からやめている。

だが、今年のお歳暮はアサちゃんにかわって贈ろう。初盆でお供えをもらったアサちゃんの姪や甥に感謝の意味を込めて…。

昨年までは忙しくしていてデパートまで出かけられなかった。贈り物などは三越のカタログをみてFAXで注文した。今年の歳暮もカタログをみてFAXでお願いしよう。

お歳暮と聞けば一年も終わりだ…とせかされる気がする。今年は悲しいこともあった。だが、そんな時、新聞記事を読んで感動した北海道大学の中島先生にメールを送り、心温まる返信メールをもらったこともあった。その先生の記事が今日、図書館で読んだ朝日新聞に掲載されていた。新聞に写っている先生はまだ36歳と若い。

その記事は中島氏の専門分野以外で書かれた『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)の紹介である。新聞によると「僕自身が、自分の中に加藤被告の一部があると思っているので、そこに読者を巻き込めるような形で書きたかった」とノンフィクションという形式で書いた理由を話している。そして、その形式をとったもう一つの理由を「普通の人が読めるものでありたいということ、ある一定の読者にとってしかなじみのない言語体系ではなく、ノンフィクションの形にすれば世代が違う人にも手にとってもらえるのではないかと思ったのです。」と述べている。

中島氏の本はメールを戴いた後、『中村屋のボース』など2冊読んだ。今日掲載の本も読もうと思う。事件が事件なのでさてさて…。

2011年10月26日水曜日

いただきもの

ウクライナの人と結婚した知人から再度メールの返事が来た。来月初旬に4年半ぶりに会うことになった。今から楽しみだ。

昨日の地元紙にそのウクライナ人の取材が掲載された。知人に新聞記事についてメールで知らせた。すぐに職場で新聞を見たようで今朝その報告がメールで入る。

新聞記事のタイトルは「留学生と巡る『ウクライナの至宝』展」。

メールで知らせるときその記事の人がその人の旦那さんかどうかわからなかった。多分その人に間違いないと思い、以前もらった結婚を知らせる葉書で名前を確認した。やはりその人だった。

その友人もメールで知るまで記事になったことを知らず、家で本人に確認して取材を受けたと聞いたらしい。「かわいらしい記事ですが、5回の連載らしいです。」ともらったメールに書かれていた。

その友人夫妻は昨年、新婚旅行でスペインに行っている。この夏スペインへ行ったことをメールで知らせた。

今回会うときは大学の話、ウクライナ人の旦那さんの話、スペインの話と盛り上がることだろう。

昼前、先日コスモスを見に行った幼馴染がTELしてきた。京都のお菓子をくれるという。聞くところによると、もらったお菓子は以前は買うための行列ができたらしい。それくらい美味しいお菓子だそうだ。

和菓子でなく洋菓子であった。

一箱もらった。あまり甘いものは食べないので近くの人に半分あげた。

いただきものといえば柿がある。通りを隔てた家の人から柿をもらった。柿の木のある家はどこも鈴なりに柿がなっている。今秋は柿が豊作なのだろう。それにしても秋の果物の柿は食べても梨は食べない。アサちゃんは梨を食べると「百年瘤ができる」といって…。今年もとうとう口にしなかった…。

2011年10月25日火曜日

『文章力 かくチカラ』

外山滋比古『文章力 かくチカラ』(展望社、2010年)を読んだ。著者の外山は英文学者でエッセイストでもある。

以前読んだ著者のエッセイで気に入ったコトがあった。何の本であったかは覚えてない。その中で筆者は年老いた現在でも散歩のために定期券を買って散歩コースまで出かけ、毎朝一定距離を歩いているという。散歩の後はティータイムをしたり…。

この中の「定期券」に同感した。リストラ後、毎日定期券を使って街中の図書館に出かけていた。同じようなヒトがいるのだと思った。それ以降、筆者に親近感を抱きエッセイを読んでいる。

この本は文章を書くことについて述べている。「文章は料理のように、おいしく、つまり、おもしろくなくては話にならない」(10p)という。

筆者のいう「おもしろさ」とは「相手の関心をひくもの、といったほどの意味。読まずにはいられない、放ってはおれないという気持を読む人に与えるもの――それがおもしろさである。興味深いもの、知的な狭い刺戟を感じさせるものは、すべて、おもしろいものになる。どんなに固い学術論文でも、こういう意味ではきわめておもしろい。興味津々の文章でありうる。」(10p)と。

それには「毎日、朝、食事の前に、すこしずつでも文章の練習をすれば、必ず上達する」という(24p)。

そういっても朝食前から文章は書けそうにない。たとえどんな文章であってもそれは今のところブログの投稿になる。

その文章の主題としてあるイギリスの学者の言葉を引用して「ひとつのセンテンス(文)で表現できるものでなくてはならない」といい、「この主題、テーマが書きたいこと」だという(26p)。それには「一口で言えてはじめて、テーマができたとなる」と述べる(27p)。

この「一口で言う」で思い出すことがある。修論の最終試験で5人の審査官からはじめに質問された言葉がこれだった。書いたことに対する何件かの注意を受けたあとの言葉であった。その質問に文章にして2行くらいで回答した。すると「今質問したとき一言で…といいましたね。今のは一言ではありません。一言でいってください」と再度きつい調子でいわれた。

審査する教官の「一言」はキーワードで答えよという意味らしかった。修論の言いたいことを…。直前に審査を受けた現役の若い男子学生は就職が決まっていた。だがその審査で「ダメだ…」とがっかりしていた様子を思い出す。泣き出すヒトもいるという。そうかもしれない。厳しい質問を浴びせられるのだから…。

それでも一人1時間くらいの最終試験の終わり頃はいくらか和んだ雰囲気になった。主の指導教官は気の毒に思われたのかその最後にねぎらいの言葉をかけて下さった。その言葉をきくと、すぐ、論文を書いた疲れで顔の半分がはれている旨、正直に告げた。その場はさらに和んだ。

話がそれた。筆者はフランスの文豪バルザックの「熟したテーマは向こうからやってくる」を引用し、「そういう主題があれば、書くのはむしろ楽しみとなる」という(28p)。

文章を書く勉強方法として筆者は「自分の感心した文章があったら、一度だけでやめないで、何度も何度も読んでみる。こういう文章が書きたいと思いながら読んでみる。こういう文章が書きたいと思いながら、読む。何度も読んでいれば、意味などどうでもよくなってくる。気にしなくても、なんとなくわかったという気がする。まさに『読書百遍、意自ら通ず』である。…一人、二人の文章家の文章を集中的に読み込んで、その骨法を学ぶ。これが文章上達の遠いようでいちばんの近道のように思われる。」という(36-37p)。

文の終わりとして「文の終わりが『た』とか『る』とかで終わらないように気をつけるだけでも文章は目立って読みやすくなる。ところがそこに注意している人は案外少ない。」と述べている。繰り返し使う言葉も「そのままの形にはしないで似たような言葉で言い換える工夫をする。」のがよく、バリエイションを大事にせよという(46-47p)。

文と文つなぎについて「が」で結ぶのはなるべく避け、接続詞を使わないで短文にせよという(48p)。

センテンスを短くは知ってた。それには「が」抜きにすればよいとは…。参考になった。

さらに「形容詞や副詞を乱用しない。これが文章の心得で、飾りたくなるのは幼いのだと思ってよい」(56p)。「飾りをすくなくすることは、言葉の生地の美しさを見せることにもなる」という(57p)。

「である」調、「ですます」調について述べている。

我がブログは「である」調である。「きりりと締めるにはよい」らしい。とはいっても「これからはいよいよ『ですます』調の文章が多くなるに違いない」と。それには「である」調、「ですます」調のどちらでも書けるようにする必要があるともいう(71p)。

「方胆文」について筆者は述べている。このキーワード、はじめて聞いた。それは宋の謝枋得(一二二六-一二八九)が編纂した『文章軌範』の中で文章道の作法を説いている(82p)。

第七巻からなるその第一巻と第二巻に「方胆文」がある。筆者はそれは「妙に技巧的になったりしないで、存分に思っていることを書く、方胆文は文章を書こうとする人のまず目標とすべきものであろう。」という。「とにかく書いてみよ」と(85-86p)。

もう一つ知らない言葉が出てきた。「擬古文」である。「文章を書くときに、もし新しい流行のことばと古くからの耳なれたことばのどちらかを使おうかということがあったら、迷うことなく、古いほうのことばを使うようにすべきであろう」と(94p)。

ごく短い文章で表現する場合について「“話は中途から”というのも、その円をどこから描き始めるかということでしかない。ただ、これが思いのほか大きく効果に影響するからバカにならない。」らしい(100p)。

結論から書くことは聞くけど中途から…は参考になった。あとで試してみたい。

さらに知らないキーワードが出てきた。「絶句」である。東洋にある文章の構造について、漢詩の五言絶句、七言絶句の作法にいう起承転結があるという。この「絶句」とは四行詞のことらしい。その各行に起承転結をあてるという。(101p)

文章を確認する作業に「声を出す読み返しをしていて、もし、ひっかかるところ、読み違えするようなところがあれば、それは文章に何か欠点のあるしるしであるという。二度、三度読んでみて、おかしいところを発見し、書きなおさなくてはいけない。自分の書いた文章がなだらかに読めないようでは、他人が読んでわかりやすいわけがない」という(109p)。

「他人が読んでわかる文章を書きなさい」、この言葉、なんど指導教官からいわれたことだろう。厳しく注意された。特に中国近代の文語文には…。それを日本語に置き換えるとき日本語の文章として成り立つか指導された。文語文は、「、」も「。」もほとんどなく、段落もない。まして書物もマイクロフィルムからの複製本で持ち出し禁止。印刷不鮮明とあって解読にはくたびれ果てた。それがなんと17年間分もあり、一生翻訳し続けても仕切れない…とため息も出て…。さらにその字は繁体字であり、今の口語文の文字ではない。また、どこまでが一つの文章かまるでわからない。ただ漢字が連ねられているだけ。思い出しても仕方のないコトかもしれない。それなのに思い出してしまった…。でもそれも懐かしく、楽しい思い出だ!

欧陽修は「文章の着想を得るのに最もよい場所は三上だというのである。三上とは鞍上、枕上、厠上。」だと(119p)。いわれてみれば寝ているときなどいいアイデアが浮かんでくる…。

「書くのはすぐ書く。読み返すのは、なるべく時間が経ってから――これが文章の心得。」らしい(125p)。

さらにもう一つ「ピグマリオン効果」も知らなかった。願えばかなうという意味だとか。(158p)

筆者の結論として「文章に上達するには、平凡なようだが、とにかく書いてみる。そして上手になりたいと願いながら、努力を続けることである。そうすればいつのまにかうまくなっている。ピグマリオン効果は単なる空頼みではない。」という(160-161p)。

筆者のいうようにこれからもせっせとブログに投稿しよう。文章上達をピグマリオン効果に託して…。

それにしても入力に長く時間がかかってしまった。先週遅刻したので今日は何が何でも時間までに行かなくては・・・。フルートのレッスンが待っている…。

2011年10月24日月曜日

旅行の写真

昨日はじめてブログに写真を追加した。ちょっと嬉しかった。これからは以前の林家パー子モードを取り戻し、デジカメを持参しよう。撮った写真はブログに載せよう…。

今朝は運動を兼ねて自転車で隣町まで行った。目的はコスモス。ところが最寄の駅においてあったチラシは町内に住んでいればわかるのかもしれない。だが、そうでないモノはあまりにアバウトでわかりにくい。歩いている人に目的地を聞いても誰もわからない。

住んでる町は元々は隣町と同じ郡内だった。ところがわが町は3、40年前市内に合併して以降、隣の町なのに情報がなく、次第にその町の様子がわからなくなっている。

仕方なくその町内をぐるっと回って家に着くと出てから1時間も経っている。

午後は近くの友人宅に出かける。出かける前、スペイン旅行の写真を焼き増しした。これまでスペインに行った2人から写真をもらっている。

2週間の旅だったが、個人名をどうにか覚えていた。渡す袋にその人たちの名前を記入する。書くたび、参加した人たちのコトを思い出す。明日それを知人にことづけよう。

昨日出かけた教会の信者さんの写真はほとんどなかった。それでも知人から教えてもらったその人の携帯番号にショートメールを送信した。すると今朝、携帯とパソコンのメールアドレスが送られて来た。

目的はバルセロナのガイドのサントさんのことを知りたかった。だが、それは大学に任せることにしたので他のコトでメールした。するとその人から神父様が書かれた本をあげるという。それについては知人に任せることにしよう。

その信者さんは帰りの飛行機で隣同士になった。話しているとどっちかに進む際、必ず困難なほうを選ぶという。それはとても立派なことだ。

そこまではっきりと行き先を選択したことはない。なんとなく気の向くまま、ひらめくままに行動してきた。

今ではそれでよかった…と思っている。またこれからも多分「ひらめき」を大事にするだろう。それほどモノ・コトを考えずに…。

焼き増しした写真を眺めながら飛行機の中での会話を思い出す。その人はスペイン語を習うきっかけを作ってくれた…。

2011年10月23日日曜日

ワインを持って…。

今日は昨日までの雨模様と打って変わって気持ちよい秋晴れの日であった。

今朝は知人の希望するスペインのワインを…と思い、デパートの開店時刻に合わせて買いに出かける。ところが老舗のデパートなのに売り場においてあるスペインのワインは2銘柄のみ。知人の話す価格のものがない。知人に携帯ですぐに問い合わせると1本のところを2本にしようという。

2本に決めたワインともう1本同じものを知人に試飲用に買って包装してもらった。知人が迎えに来る時間まで少し時間があると思っていると、携帯がなる。もうデパートの前に来ているという。すぐに地下から1階に出て知人の車に乗った。

聞くところによると家からではなくもう他のコトをしていて近くにいたらしい。道理で早く着いたと思った。

そのワインを持参してスペインの神父様の教会に出かける。

教会は市内の西方面にあり、知人の住んでいるテリトリーに近いという。その辺は我が家とは広島駅を挟んで逆方向であり、出かけることはほとんどない。

しばらくすると目指す教会に着いた。着いたのはよいが車を置くところがない。隣接する大型ショッピングセンターの駐車場まで行き、そこに車を止めて教会に入った。

教会は幼稚園も併設しており、中に入るとかなりの人でお祭り騒ぎのようだった。日本の少子高齢化がまるでウソのようにそこにいるのは赤ちゃんを連れた若夫婦に幼児の姿が…。これほどの人出を見たことがないほどの人、人、人。大半は子供である。

教会の中はバザーが行われていた。

お目当ての神父様はテントの中で「パエリア」を楽しそうに作っておられる。その横には出来たパエリアを1人分ずつパックにしている人がいる。その人はスペインで知り合った信者の人である。他にもスペインで知り合った人と出会った。

神父様に出会った後、そのパエリアを食べた。食べるときのテーブルと椅子は付属する幼稚園の園児用のものである。それに座って食べているとき同じテーブルに赤ちゃんをおんぶして子供を連れた夫婦が子供たちをその椅子に座らせた。なんと7人もである。知人に「兄弟?」と聞くと、前の2人は顔が違うという。それにしても5人兄弟である。おそろいの服を着せてもらっていた。少子高齢化はやはり見られない…。

その辺りは新興団地があるから余計子供の数が多いのかもしれない。

知人はパエリアだけで足りず、カレーとむすびを買ってきた。それにお持ち帰り用のカレーをもってきて、家で食べるようにという。ありがたくもらって帰った。そして結びももらってそこで食べた。美味しかった!

食後はバザー会場を見て回った。かなりの数の出店だった。50店くらいあったのでは…と思う。もしかするともっとあったかもしれない。

教会の中も見た。綺麗で広い教会は座敷で、そこに椅子がおいてある。座敷だから机と思った。足が悪い人は大変だというと、知人は机でなくて椅子だという。いわれてみればそうかもしれない。日本人の感覚として座敷といえばテーブルと思うのがおかしいのかもしれない。

ドイツから購入したという立派なパイプオルガンも備えてある。

教会の見学も終えると再度神父様のいるところへ移動した。新たなパエリアを大きな鍋で作られている。じっとその様子をみているとおおよその作り方がわかってきた。先に具になる野菜や魚介類を入れ、ある程度になったら鍋に生米の状態のままで直接入れるという。これにはびっくり!蓋もせずに炒めるのに米は軟らかくなる。だがその手数は相当大変な様子で、鍋にこげつかさないように2人の男の人がかき混ぜる。また中にいれるスパイスをみているとさまざまなものを小気味よくいれている。神父様はそれを「楽しいよ」と。そうかもしれない。リズミカルな動作でスパイスが入れられて…。

神父様のパエリアを見た後、再度バザーを見て回る。知人は神父様の影響を受けたのか、エプロンを買うという。家で料理をする気になった…!?デニムの生地で出来たエプロンがいいのでは…というと知人はそれを買った。

別のところでは他の神父様がカンボジアやアフリカの援助をされているという。カンボジアも南アも以前行ったことがあり、写真が展示されているのを見てその国を思い出す。来年のカレンダーをそこで買う。アフリカで写されたものであった。他にも色々見て回って買って帰った。

今日は再度スペインへ行った気分を味合わせてもらった一日だった。

教会を離れるとティータイム。そこで知人と話していると、ブログの話になった。ブログで空の青さを描写をするとする。そのときいくら文で表現してもその青さは難しいところもある。それならばブログに写真を入れたらというアドバイスである。

確かに知人のいうとおり。

早速家に帰って2時間余り、ブログに写真が入るようPCにインストールする。さらにデジカメの写真もパソコンに取り込んだ。さてさて実験を・・・。いい具合になればいいけど…。

それにしても今日も何から何まですべて知人のお世話になってしまった。このお礼はいつか出世したときに…と思うけど…。無理な話かもね…。ありがとう!

2011年9月グエル公園から見渡すスペインの青い空

2011年10月22日土曜日

いろんな人と・・・

今週はじめ最寄の駅で会った人から帰り際、レモン大の「かぼちゃ」をもらった。なぜかぼちゃをと思ったがそのままにしておいた。

昨日我が家に来た人にそのかぼちゃを見せるとホンモノだという。もらったときは作り物と思っていた。

今朝その疑問を解くためにもらった人にTELして確認するとホンモノだという。わざわざそういう風に小さいものを作っていると。1年位すればカチカチのそのかぼちゃも柔らかくなるとか。

聞くところによるとそのかぼちゃは酒どころ西条の「酒まつり」で数個買ったという。ハロウィンと関係あるようなこともいっていた。

先日ウクライナの人と結婚した人からメールの返事が来た。元気なようであった。「ウクライナの至宝展」にその夫妻もその講演会に行ったり、ご両親とも行ったりと何度か行ったと書いてあった。さらにその人は仕事を続けているようでメールの来た日も勤務後、中国語の勉強会に行ったとある。

その人とは彼女が院生時代に知り合った。就活と修論で忙しくしていたその人は指導教官がドイツ人であった。修論は外国語の文献から書くのでゼミの始まる前にいつもその人は中国語の文献を読んでいた。

中国語の文献で修論を日本語で書きそれをドイツ人の教官が指導する。面白いと思った。それもその指導教官の専門が関われば当然のことなのだろう。

最後に会ったのは4年位前のその人の修了のお祝いをしたときだった。今回のメールでそのお返しなのか、修了の祝いをしてくれるという。親子以上も年齢の離れている人にそういってもらうだけで充分嬉しい!そういってメールを送り、その人の予定に合わせる旨書き添えた。

4年前と今では互いの立場も逆転し、自由になっているモノがその人に合わせて会おう。

ブログを書いていると知人からTELがかかる。その知人は明日スペインの神父様に会いに行こうという。美味しいスペインのワインを買って一緒に行こう…。

2011年10月21日金曜日

ドジョウ総理!?

今日は午後から雨になった。先日アサちゃんの長女夫妻はアサちゃんの墓参りができなかった。今日午後、雨が本格的に降る前に直接墓参りをして長女夫妻はやってきた。その手には大きな米袋を持っている。

米は新米で来る前に精米したという。近所の人から米を買っているらしく、よく米を持ってくる。

来月から塀をやりかえる。アサちゃんの長女の夫はブロック3段の上にする目隠しのサッシの色や高さを聞くけどよくわからない。ブロックは家の外壁の色に合わせ、サッシはゴールドにしてもらうよう。高さは長女の夫に任せて…。塀以外も直すので来月になると忙しくなりそうだ。

アサちゃんの長女夫妻はその話を終えると新米を娘に渡すのだといって早々と帰っていった。

しばらくすると近くで書道を習っている人が終わり次第、我が家にくるという。いつもその人にお世話になるので先ほどもらった新米を半分あげた。

昨夜は広島交響楽団の定期演奏会を聞きに行く。開演まで時間があるので会場横の情報プラザに寄って本を見た。今月号の『文藝春秋』を見ると、巻頭に立花隆の文章が掲載されていた。その題は「ドジョウ総理の未来」。このドジョウ総理は多分今の野田総理と思いながら文を読んだ。もちろんこのキーワード、このときはじめて目にする。

2週間スペインに行ってた間に日本の総理は変わった。その間の新聞は全く読んでいない。

今日来た人にドジョウ総理の話をするとその意味を教えてくれたので大体の意味はわかってきた。

立花はその本の中で「ドジョウ総理の未来もこれから波乱万丈だろう。…国家を代表して乾坤一擲、相手の喉笛を噛み切るか噛み切られるかの大勝負に出なければならない日もくるはず。そのときドジョウ総理、カワウソ総理に化けることができるかどうか――。」と書いている。

それにしてもたった2週間日本にいなかっただけなのに、知らない言葉が出てくるとは…。もっと日本を離れていればますますわからないキーワードは増えるだろう。ちょっと油断していると世の中はどんどん変わっていく・・・。

2011年10月20日木曜日

第313回広響定演から

今日はアサちゃんの誕生日。元気であれば96歳になる。そして例年ならば東京にいるアサちゃんの孫から宅急便で花束が送られてくる…。

花束は年に3回送られて来た。「ばば(母)の日」、「敬老の日」、「アサちゃんの誕生日」である。そして恒例行事として贈られた花束を箱から出すとアサちゃんを椅子に座らせる。そしてアサちゃんに花束をもたせて記念写真をとっていた。花束には「いつまでも贈られるといいね!」というようなメッセージが添えられて・・・。

それも今年からは贈られてこない。アサちゃんに代わって長い間送ってくれたその姪にお礼をいいたい!〇〇ちゃん!ありがとう!広島に帰ってきたらなんでもおごるよ!また外国にも一緒に行こうね!

昨年の敬老の日は「におい桜」の鉢植えが贈られてきた。その「におい桜」の満開の日、アサちゃんはいなくなった。今でも「におい桜」は大事にしている。

夕方からは広島交響楽団の定演を聴きに行く。今日のプログラムは「音の情景描写~心に響くイマジネーション~」と銘打ち、常任指揮者の秋山和慶、ソプラノに半田美和子を迎えて次の2曲が演奏された。

ドビュッシー:夜想曲
ヴォーン=ウイリアムズ:交響曲第7番「南極交響曲」

「南極交響曲」でゲストのソプラノ歌手、半田の歌唱をはじめて聴いた。広いホールにマイク無しで歌うのだが、そのほとんどは舞台の袖で歌っていた。それは南極探検家のスコット隊の全5名の隊員が南極からの帰途、遭難して死亡する。その悲劇の映画音楽であるため、静かに歌われたのだろう。

それについてプログラムを引用すると「スコットに絶筆となった日記から『私は後悔しない』のくだりが添えられている。それは『この旅を悔いてはいない。我々は冒険したのだ。だが事態は裏目に出た。もちろん不満はない。』というものである。」とある。

さすがに映画音楽だけあって、舞台に映像はないものの音でそれをよく表現していた。楽器編成も見たことも聞いたこともない楽器が使用されていた。それをプログラムでみるとスネアドラム、グロッケンシュピール、タムタム、ウインド・マシーン、チェレスタなどである。

演奏を聴いて家に着くと知人からTELが入っていた。すぐにかけ直す。広響の定演を聴きに行ったと話すと音楽好きの知人からその演奏について聞かれる。また我がブログを見てくれてるようでスペインに行った時の気候と今の日本の気候が同じようだと知人もいう。TELの用件はもちろんブログとは関係ないことだが…。

2011年10月19日水曜日

美術館へ!

今朝も起きたときは8時を過ぎていた。毎日8時過ぎでは癖になりそうなので明日から7時に起きるようアラームをセットしよう。

先月末からNHKラジオで「まいにちスペイン語」を聞き始めた。昨年度の再放送だが、今年の10月からのテキストが売られている。実際の放送は昨年の4月の放送なので初心者でもわかる。その開始時刻は午前8時。8時に起きていてはそれに間に合わない。再放送もあるがやはり朝のほうがいい。

とはいってもNHKのHPからPCで1年分の大事なフレーズだけはいつでも聞けるようになっている。その点はいい。

今日の午後は先日雨で行きそびれた「ウクライナの至宝 スキタイ黄金美術の煌き」を見に県立美術館へ行った。ウクライナはソ連から独立して今年で20年になるという。その独立20周年記念事業としての開催である。「黄金」と銘打ってあるだけあって展示品の大半は「金」であった。

今回の展示品のハイライトは「胸飾り」である。この展示品はレプリカである。国外持ち出し禁止となっているとかで精巧な複製品として出品されている。

「胸飾り」は女性の装飾品であり、また女性の「衣服は身体を隠すが心をあらわにする」という。そのためか女性は身体を装飾品で飾るのだろう。その「胸飾り」からスキタイの宇宙観をみるという。またスキタイの男性は皆「戦士」であり、そのためには馬が必要である。その馬の飾りが多数展示されていた。

「胸飾り」から宇宙観をみるというだけあってスキタイの「生と死は常に隣接しており生存というひと繋がりの輪の中にある」という。この言葉、筆記用具を持ってなかったのでメールに打ち込んで帰った。多分、そういう言葉だったと思う。

もらったコピーによると「胸飾りは1971年に発掘され、世紀の大発見といわれました。スキタイ人の死生観が凝縮しているのでは?という説が発表され、世界中から注目を集めたのです。」と書いてある。

これからも「胸飾り」がこの展示品の中で唯一複製という意味もわかってくる。

久しぶり美術館に出かけた。美術館といえば今月初めに京都市美術館のフェルメールを見に行きたかった。フェルメールはいつも広島は素通りする。予定を立てて京都市美術館と国立民族学博物館に行こうと思っているうち行きそびれてしまった。これからは行きたいところは早めに予定を立てよう!行けなくて残念!

ウクライナの至宝展を見た後は、隣接する縮景園に入った。美術館の半券があると100円で入園できた。

平日とあって美術館も縮景園もヒトはまばら。それでも縮景園は外国人の観光客が何人かいた。秋らしい花が咲いているかと思って入ったが何の花も咲いていない。また前に見た亀も園内にいない。それもそうかもしれない。亀の甲羅干しは何時の季節だろうか。以前アサちゃんと行ったときは園内の歩道のいたるところに大きな亀がいてびっくりしたほどだったが…。

またウクライナといえば友人の女性がウクライナのヒトと昨年6月に結婚している。その人は学部時代ゼミが一緒でそのヒトは院生だった。彼女が院を修了するのと学部を卒業するときが同じだった。卒業式の会場までの臨時バスに乗るとき、ウクライナ人の男性とはかま姿の彼女の姿を目にした。

結婚すると知らせれてくれた時、もしかして…そのときの・・・と思いメールで確認するとやはりその人だった。

広い大学の校内で黒ずくめの服を着て颯爽と歩く姿はまるで貴公子のように思えた。とても目立つヒトだった。友人の女性もクラシック・バレーを取るか大学に進むかで悩んだだけあって美人である。送られてきた結婚式の写真を見ても素敵なカップルに思えた。だが、その彼は留学生の身分を一時中断して仕事を探していると書いてある。

今日、ウクライナ・・・と思ってその人にメールを出したのだが・・・。

それにしても今日はスペインを思わせる真っ青な空。気候も全くスペインにいたときと同じようにすがすがしい!日本の10月中旬がスペインの8月下旬にあたるのだろう。このいい気候も明後日から崩れるらしい…。

2011年10月18日火曜日

いろいろなことが…

今朝は最低気温が10度くらいで寒い朝であった。そのせいかどうか目が覚めたときは8時を過ぎていた。今からこんなに眠っていては冬が思いやられる。

今日はアサちゃんがいなくなって8ヶ月になる。

先月からアサちゃんの長女の夫は退職した会社から依頼され、月に何日か手伝いに行くようになった。アサちゃんの長女夫妻は「つがい」なのでどこに行くのも一緒だ。アサちゃんはいつも2人のことを「つがいじゃね」と笑っていっていた。「つがい」は1人で行動できない。当然アサちゃんの長女はやってこない。

墓参りに行く前、メールをチェックする。我が信奉する本の著者であり弁護士のM氏のメールがあった。

いつも我がブログを訪問して下さるからか次のように書いてあった。

「潔さと寂しさと強さとはかなさと、なんだかいろいろ混じって、目頭が熱くなってしまった…」

この文面を読んでびっくりした。何気なくブログに書いてることが他人様にはそのように思えるのだと・・・。

だからといって「そういうコトではありません!」といえるほど我が心理がわかっているわけではない。そういわれて「そうかもしれない!」と思った。もしかして相当無理して生きてるのか…とも思った。

墓参りをすませ、家に近づいた辺りで休憩している人に出会った。アサちゃんが最後に墓参りに行ったときに我が家の墓のそばで3人で話しをした人だ。88歳になるという。その人と話しをしていると「よく看てあげたね!」といわれ、思わず涙が噴出してしまった。こういわれるコトが一番響く言葉なので人からそういわれる度、辛いモノがある。

その人は今ひとりで暮らしているとかでアサちゃんが我が娘に最期まで看てもらったコトがうらやましいらしい。その人にも子供が3人いるというのに…。

お昼ごはんをすませて、買い物に行く。買い物から帰るとすぐチャイムがなる。来月から始める塀を工事する業者がブロックの見本を持ってきた。聞かれても何もわからない。アサちゃんの長女の夫に・・・といって見本を置いて帰ってもらった。

その後はフルートのレッスンが待っている。時間までだいぶあると思って本を読んでいた。気づいたときはもうレッスン時刻に間に合わない。すぐに先生に20分遅れると電話した。

何か夢中になると時間を忘れることがある。急いでレッスン会場に向けて家を出た。

今のレッスン曲はアリアをフルートで吹く。とてもきれいな曲なのでいい音が出るように吹く。先週気づいた吹き方で吹いた。どうにか少しはいい音が出た。

来週からのレッスン曲はチャイコフスキーの「MELODY」になった。

この曲は音程が高くトリルも続けてある。難しそうな曲に思えるが…。練習しよう!

もう一つ書くことがあった。先生のフルートの先生が亡くなられたという。その亡くなられた先生にはもちろん習ったこともある。その亡くなられた先生の終わり頃の生き様を聞いてまた今日びっくりした。個人のコトなのでここでは書けない。

どんなヒトにもいろいろあるんだ…と思った日であった!その点我が人生は…。

2011年10月17日月曜日

人からの影響!?

午後はJRでやってきた人と最寄のJRの駅で合流し夕方まで遊んだ。

その人と話しているとどこか気になるところがあると片付けるのが好きだという。それを聞いて家でじっとしてるのが嫌いなモノとしては立派だと思った。

暇さえあればどこかへ行こう…とばかり考え、家の中を片付けるのが嫌い。料理を作ったりするのは好きだけど…。

夕方その人と別れ、家に着くと早速アサちゃんがみかん箱に入れていた大皿20枚くらいを全部「燃えないゴミ」に出すように外に置いた。その横からはデパートの大きな紙袋に入れたアルバム類が沢山出てきた。中を見ると、アサちゃん夫婦の生まれてからこれまでの写真、その娘たちの結婚式などの写真、孫たちの写真、それに大半は旅行に行ったときのものである。

しばしそれを見ていたが、今の心境ではそれらを障る気さえ起きない。ましてや見るのさえ忍びない。当分写真類は後回しになり。

写真といえば、やっとスペインで撮った写真を現像した。今はデジカメだから現像は…と思ったけど、とりあえず写真にした。これまで旅行に行った写真は相当数ある。それでも9年前まで出かけていた写真の最後頃は現像せず、PCに取り込んだり、CDーROMにしたままである。

今回は一人で参加した旅行でないのでとりあえずすべて現像した。

それにしても参加した人たちは写真を撮り合っていたが、皆それを現像するのだろうか。とりあえず今は知人に渡すモノだけ焼き増しし、他の人たちのはどうするか聞いてからにしよう。

これからは今まで家でくすんでいた分を取り戻す意味から外に出かける機会もますます増えるだろう。これまで撮った写真もかなりの量あるのに2度とお目にかかることはない。

それでも楽しかったモノだけは別にすぐ見られるように保存している。

先日我が家にやってきた人にそのファイルを見せるといくら過去は振り返らないと思っていても懐かしかった。

これからも全部を保存しなくても気に入ったものだけをファイルに収めよう…。

そして心境も落ち着いてきたらアサちゃんの写真類も整理しよう!それは当分先のコトになりそうだが…。

2011年10月16日日曜日

秋祭りは終わった…

午前中は都市ガスの人が来ると連絡がある。待っていると10時に点検にやってきた。すぐにそれも終わると買い物に出かけた。

家を一歩出ると秋祭りも本番とあって祭りの号砲が打ち上げられたり、神輿、獅子、鬼が集会所周辺に集まりにぎやかだ。当然大人も子供も集まってくる。

その横を通って自転車で外に出た。

お昼からは近くの人が鬼を見にやってきた。ところが鬼は午後になると神社で舞う獅子の奉納についていく。そのため全くその姿を現さない。結局その人は鬼を見ることが出来なかった。

祭りといえばその人の住む地区では同じ町内でも御幣をさげないという。この御幣、集会所にいた人にその名を教えてもらってはじめて知った。

縄に挟んだ御幣は町内会から各家に配られ家の周りを囲む。我が家もそれをしないといけないがこの何年かは全くやっていない。これも多分魔よけの神事であると思うのだが…。

その人の住む町内会は御幣のかわりに奉納と書かれた旗をあちこちに立てていた。その人によると、それを世話する人がいないからではないかという。その人もお世話が出来ないから町内会を脱退したといっていた。

我が家も3月まで町内会の当番だった。1年間といっても親を介護しながら町内会の世話は大変だ。脱退したい気持ちもよくわかる。

祭りも終わってその人と一緒にパソコンを見ているとメールが入っていた。先日ブータンに関するメールを送った人からである。

大学に勤務するその人によるとブータンの国王の結婚式の報道は新聞全紙に載ったという。また国王后は庶民からといわれているがそうではなくかなりの家らしい。またその模様は大フィーヴァーだとか。

国王の日本訪問についてその人のメールを勝手に引用させてもらう。

「王様は当初5月に来日の予定でしたが、震災のために延期になってました。ひとりで来るはずだったのが、新婚旅行になったわけで大歓迎、素敵ですね。しかも来月??急な話なので、われわれが出席できるようなレセプションはできるのかな。…」

いずれにしてもブータンの国王夫妻が来日すればその情報も入るだろう。

久しぶり今夜は静かな夜になりそうだ。

2011年10月15日土曜日

秋祭り

今日と明日は地元の秋祭り。土曜日というのに朝早くから子供たちの声がにぎやかだ。

我が家の前には町内の2つの地区の集会所と小学校がある。行事がある日は朝からにぎやかだ。特に今朝は秋祭りとあって子供神輿と獅子と鬼を追っかける子供たちの声がする。

獅子は最終日地元の神社で舞を舞う。そのため祭りの1ヶ月前から夜毎練習を繰り広げる。

祭り本番前の今日、獅子は地区の家を一軒ずつ舞って歩く。昔からの家は座敷に上がって舞ってもらう。その獅子のうしろのすそを持つ子供たちや笛やシンバルを鳴らす大人も共に歩く。今、午後8時過ぎ。我が家の前をとおって獅子舞はよその家に行った。遅い時間まで各家を舞って歩く。小さい子供たちもほんとにご苦労さんだ。

誰もが獅子のうしろを持つことはできない。いくら遅くなってもそれが出来ることは子供にとって喜ばしいことかもしれない。

ともあれ、朝から家の周辺はにぎやかだ。

午後、近くの人が逃避しに来るようにとTELしてくれた。祭りの喧騒から逃れるように夕方まで友人宅にいた。

それなのにまだ獅子はやってこない。獅子が我が家の玄関前で舞い終わるまで家の中でじっと我慢の子だ。いつ来るかとお金を用意して待っている。

ブログを書いていると家の外が静かになった。出てみると雨が降っている。今夜は獅子は来そうにない。

それにしても田舎だなあと思う。近くの人の地区は同じ町内でも祭りらしさは何もない。明日はその鬼を見に我が家に来るとその人はいってたが…。

2011年10月14日金曜日

ブログから…

今日は一日雨。それでも午前中は小雨だったので自転車で買い物に行く。午後は歩いて予約していた本を借りに図書館に出かける。雨なので本を借りるとすぐに家に帰った。

今日の予定は晴れていたら県立美術館の「ウクライナの至宝展」に行くつもりだった。雨なのでそれは後日に行くことにして、家で本を読んだり、フルートの練習をして大人しく過ごした。だが、時間をもてあます。そういう時はパソコンで遊ぶ。そして人のブログを読ませてもらったりする。

先ほど先日聴きにいった古澤巌のブログを拝見していると「呉公演」と題してたった3行書いてあった。ここに勝手に一部を引用させてもらうと、

「贅沢に全ての壁が木で被われている、とても音響の良いホール。

この度のツアーでは二度目の広島。明るく、凄く盛り上がる。楽しいコンサートを、いつもありがとう。」

と書いてある。

呉市文化ホールに行った人はよく音響効果が良いという。公演の始めに演奏者2人も言っていた。ブログにも書いてるくらいだから本当に音響が良いのだろう。広島では廿日市市の「さくらぴあ」も良い。その点、市内のホールは…。

ブログといえば、便利な機能も多い。我がブログの気に入ってる機能はタイトルのほかにカテゴリーを表示できる。そのカテゴリーをクリックすると瞬時に項目ごとにジャンル分けできる。それは本当にすばらしい。無料で投稿させてもらってさらに書いた項目の分類もできて…。

その中でも我が「本」のカテゴリーは読んだ本がすぐわかる。そのためわざわざ読書ノートのようなモノを作らなくてもその機能で充分だ。

だが、読書に関しては読んだ本すべてをブログに投稿すると、全人格が出るようで怖い。そこで今日気づいたことがあった。

これまで本のカテゴリーでブログに載せたくないものはワードに書いて保存していた。それを今日からはブログの「下書き」にしておくとブログに反映されないことがわかった。

いつも思うのだけど利用しているブログのGoogleはどうやって利益を得ているのだろう。世界一の検索機能のGoogleだが…。広告収入だろうと思うけど、我がブログは何にもそのような効果はない…。

まあ、あんまり考えずGoogleのお世話になればよいのかも…。

2011年10月13日木曜日

ブータン国王の結婚

NHKの午後7時と9時のニュースでブータンの第5代国王の結婚式の模様が放映された。

ブータンといえばすぐに思い出す人がいる。その人に早速その報告を兼ねてメールを送った。メールを送る際、メールアドレスがわからなくなっていたので、今年戴いた年賀状を見た。メールアドレスの書いてある下に、手書きで「今秋ブータン国王(もちろん第5代)が来日される情報が入りました」と書いてある。

7時のニュースで来月国王夫妻は新婚旅行を兼ねて来日されると放送していた。

さすがにそう年賀状で知らせてくれた人は青年海外協力隊でブータンにいっただけあって来日の情報も早い!

9時のニュースではブータンの現在の様子が放映された。

ブータンに行ったのは1993年。その映像を見るとだいぶ以前と様子が違っている。それでもキラなどの民族衣装は今でも着用されている。

国民の幸福を追いけるブータンもニュースではその「幸福度」を図るものさしの難しさを伝えていた。経済優先がブータンにも押し寄せているのかもしれない。18年前に行ったとき、ブータンに入国できる外国人の数も年間3000人くらいだったと思う。それが今は10万人に増やそうとしているという。宿泊料金もシンガポール資本で建設されたホテルは外国の富裕層をターゲットにして1泊900ドルという。日本円に換算すると7万円前後になる。

ひろしまアジア大会でブータンを応援したときのメンバーの娘さんはブータンの人と結婚し、ブータンの観光事業で成功していると聞いたことがある。

最近はそのお母さんと連絡を取っていないのでその後の事情はよくわからない…。

メディアは小国ブータンを取り上げた。今日一日だけは日本人の関心もブータンに向いたかもしれない。

今日家に遊びに来た友人が先ほどニュースでブータンをやってるよとTELしてきた。友人も見ていたようだ。

ともあれ国王の結婚はおめでたい!

2011年10月12日水曜日

『日本の活路』

渡辺利夫、三浦朱門『日本の活路』(海竜社、2009年)を読んだ。これは先日広島で開催された拓殖大学のオープンカレッジでもらったものである。読んでみると先日の渡辺氏の講演内容が更によく理解できた。

『日本の活路』と題されている本だが、その頭には「どうする気鋭対論どうなる」がついている。さらに本の帯の「活路」の周りには「政治力、軍事力、外交力、経済力、教育力」が書いてある。その「五つの国力」から日本の進むべき路とは何かを三浦朱門と渡辺利夫が解き明かし、論じたのが本書である。

まず日本の政治力については三浦の奥さんである曽野綾子は前ペルー大統領フジモリ氏を日本でかくまったことから話し始める。そのときフジモリについて相談した人が渡辺氏という。だが結果的にフジモリは日本を離れペルーに住む。彼は日本人ではなくペルー人だと…。「家」よりも「国」が大事な日本人だというのである。

三浦は渡辺にフジモリについて相談した理由を「日本では外国語を勉強する人は、外交官からはじまって、往々にしてその国のファンになってしまいます。…中国語をやると中国が一番いい国となってしまう。しかし、渡辺先生だけは、国際関係論を学んでも、いつでも基軸が日本にある。朝鮮半島でも中国大陸でも、日本という基軸でものを考えることができる。」という(14-15p)。

30年近く前、初めて中国語を学んだ。三浦のいうように当時は相当中国にのめりこんだ。短波のラジオを買って北京放送を聞いたり、便りを出したり…。その果ては初めての海外である中国旅行から続けて4度も中国ばかり行った。それくらい中国にのぼせていた。だが今では中国を知れば知るほど…。

渡辺は日本の歴史を特徴付ける用語法として「多様性」をあげている(24p)。それは「地方分権的で、多様な、あるいは『多中心的な』社会であったがゆえに、日本の力は非常に強く、しなやかなものになった」と考え、「日本はヨーロッパにも対抗できるような力になり得た」という(25p)。それには明治維新と廃藩置県があった。その辺りは韓国の「ソウルへの一極集中」と違うという。

だが日本が多様な存在から成り立っているという見方も表向きであって、「日本全体を他国と比較してみた場合の決定的に重要な特徴は、それが『同類社会』であったこと」という(36p)。

戦後アメリカが持ち込んだとする日本の民主主義についてそうではないと両者はいう。渡辺は幕末の「公儀輿論」が民主主義の出発点であり、五箇条のご誓文の「万機公論に決すべし」につながるという。この「『万機公論に決すべし』というのは、民主主義、立憲政治の根本ですし、それがさらに枢密院や貴族院の廃止に伴う普通選挙へ、という流れになって日本の近現代史を貫いていきます」(41-42p)と述べ、こうして日本が民主主義化していくプロセスのベースは既に江戸時代にあったという。

冷戦が崩壊後、世界各地で他を抹殺して自分のみが生き延びようという姿がある。旧ユーゴスラビアの7つの国への分裂などがあり、中国も同じく分裂の可能性は大だという(49-50p)。

今の大きさにまで中国の版図を築いたのは大清帝国であり、それをそのまま中華人民共和国が引き継ぎ国家(nation)の観念を導入した(51p)。

その中国は世界の屋根といわれるチベット高原を人民解放軍は完全に制圧しようとするがそれは容易ではないという。すなわち「帝国維持コスト」が掛かりすぎ、それに中国は耐えられなくなるというのである(52p)。

台湾についても「小なりといえども、あれほどの成熟した国、技術力を持った国を同質化しようとする場合のエネルギーには、膨大なものがあります。」と述べている(53p)。だから、中国の分裂という厄介な問題が日本の周辺にはあるという(53p)。

軍事力については今の中国の取っている覇権的行動が政治でいう「フィンランド化」現象であり、東南アジアで起こり始めているという(88p)。

この現象についてはよく知らないので後で調べよう。

その東南アジアは1600年代、世界の物産が行き交う世界的物流の海洋であった。それを上手く表現する言葉として「物を作るのはイギリスと日本、作ったものを売りさばくのはアラビア商人と中国商人」がある(119p)。

その東南アジアを日本は戦後賠償をODAや留学生受け入れで援助した。だから東南アジアの対日好感度は高いらしい(121p)。

そんな日本は政策と思想が貧弱となりポピュリズム(大衆迎合主義)に陥った。そして安全保障という学界は人気がなく、あらまほしき秩序を描きたいという国際関係論とか国際政治学や国際経済学は「東アジア共同体」を中国と一緒にやろうと秀才たちが呼びかけることに警告を促す。それよりもむしろ安全保障の問題を論じて日本は東アジア共同体に飲み込まれるなと警告する(130-131p)。

さらに渡辺は「ポストモダニズム」に対してもその幻想から脱却せよと呼びかける。「アジアの国々に対する日本人の理解を妨げているのは、じつはそういうポストモダニズムの感覚です。アジアというと何となく親近感を覚える。お互いに理解し尊重し合えば日本とアジアの関係はうまくいくと、はなからそう思ってしまう。これこそ異文化理解を妨げる最大の要素です。」と(140p)。

それを表現して渡辺は「『アジアは一つ』(岡倉天心)に対して、『アジアは一つひとつ』、あるいは『アジアは一つずつ』」だと氏の造語で述べている(141p)。

経済力からは中国人のもつものの考え方に対して「権威に対して従順であろうとする傾向がある」という(148p)。それを三浦は何でも他の国のモノをコピーする加工貿易の国だと(149p)。だから渡辺は中国経済脅威論に根拠はないとする(146p)。

教育力からは教育について渡辺は「文章の磨き方」という講座を学部開設以来持っているという。それには「すべての学問は、数学であれ、物理であれ、その元にあるのは表現したり読み取ったりする言語能力だろうと思います。」と言語能力に対する危機意識をもっている(195p)。

渡辺氏は言語能力云々がいえるだろうと思う。これまでも著作物に対していろいろと受賞している人だ。

教育については学界・官界に今も根を張るマルクス主義を非難する(201p)。それについては『新脱亜論』(文藝春秋)で書いたようで早速読みたいと思っている。マルクス主義の発信源は東大らしく、文科省に対しても地方を監督・指導する強い権限を与えよという(208p)。

この本を読んで日本のことを知っていないと改めてよくわかった。それも仕方がない。何といっても体育に次いで歴史が嫌いだったから…。嫌いな歴史でも興味がある時代は近代である。歴史を理解するにはその辺りから読んでいくしかないのかも…と思う。それにしても遅まきながら嫌いだった運動と歴史に目覚め、水泳と中国近代について張り切っている。そう考えるとこれからどんなことに関心が向いていくのかヒトゴトのようにワガコトが楽しみだ。

2011年10月11日火曜日

フルートの音色

午後、フルートのレッスンに出かけた。

出かけようとすると来月オランダ、ベルギーへ旅行するという人が我が家にやってきた。レッスンに出かけようとしていたのでしばらく外で立ち話をする。

後1ヶ月足らずで海外に出かけようとしているその人は、少々体の調子が悪いという。我が家に来る前、気になるので内科で血液検査をしてもらったとか。

それを聞いて旅に行けば元気になるよと話すと、そうかもしれないといって少しは安心して…。

いつも会うもう一人も同じ頃電話をかけてきた。企業の病院から公の病院へ正式に替わると…。

2人とも我が年齢よりも若い。一人で頑張っているモノが若い人たちを励ましている!なんだかとても変!皆早く元気を取り戻して…思わずいいたい。

気持ちを変えてフルートのレッスンに出かける。先週から新たな曲である。吹くにはそれほど難しい曲ではない。だが、簡単そうに見えてもどの曲も専門からみればそうではない。どの曲もいかに綺麗な音を出すかが求められる。

今日はその音を出すことで先生の忠告から気づいたことがあった。これは多分いいアイデアだと我ながら思っている。

中国語の発音では有気音と無気音の区別が難しい。「pu」と「bu」のように。例えば「不是(bu shi)いいえ」の「bu」は無気音で「プ」ではなく「ブ」の感じで唇を閉じて力をいれず「プ」と発音する。先生に音出しで注意されてるとき、ふと無気音の発音の要領でフルートの出だしの音を吹くといい感じの音が出ると思った。

レッスン中、それに気づき先生にそう話した。そしてそういう風に吹くとやはりいい音が出た。先生もその感じで…といわれる。

今日からこのやり方で少しでもいい音が出るよう練習しようと思う。

何年も習っているフルートだが思うようにいい音がでない。いくら曲をさらってもいい音が出ないと上達も難しい。いまさら…とも思うが同じ習うならやはりいい音が出るように吹きたい。この1年の課題として、いい音が出せるよう頑張らなくては…。

2011年10月10日月曜日

生姜から…

先週はフルートの発表会をはじめなんとなく忙しく過ごした。そのため世間では3連休だが、昨日は家で大人しく過ごす。

いつも家に来るようにと声をかけてくれる近くの人が昨日我が家にやってきた。2人で話しているとあっという間に外は暗くなる。

一昨日講演会に出かけた帰り、三越の各地の銘菓コーナーによった。新入荷として宮城県の「生姜餅」があった。高知県の生姜と宮城の米を材料に作っている。知人にそれを食べてもらうと美味だという。

「生姜」は毎日といっていいほど口にする。炒め物でも何でも必ず生姜をみじん切りにして入れる。いつ頃から生姜を口にするようになったのかは覚えていない。だが、料理をするときは栄養を考える。その癖が生姜にでるのかもしれない。

栄養というキーワードは6月に会った陶芸家の知人が死語だと笑っていっていた。

誰も皆ダイエットを考え、栄養は考えないというのである。

それもそうかもしれない。だが、年寄りを抱えていたとき「栄養」抜きには生活できなかった。今でもその癖は抜けない。一人だから…と適当に食べるコトだけはしない。

そのおかげで元気だ。昨日我が家に来た人に一般検診の血液検査の結果を見せると驚く。すべては基準値内だ。その人はコレステロール値や血圧などが異常を来たす人が多いというのである。

今日は午後その人宅に出かける。その人は体調を崩している。他人に料理を作って食べてもらうことはほとんどないが、今日は何かを作って持っていこう。さてさて何を…。

2011年10月9日日曜日

オープンカレッジ

昨日は午後から市内のホテルであった拓殖大学のオープンカレッジ「迷走つづく日本外交-近現代史の視点から」を聞きに行った。講師は拓殖大学学長の渡辺利夫氏。

百メートル道路に面したホテルの会場に到着するとすぐに渡辺氏の講演が始まった。渡辺氏を知ったのは1995年からひろしまアジア塾で8年間学んでいた時である。当時の塾長が氏と懇意なことからたびたびゲストとして講演されている。それ以来久しぶりに話を聞いた。

氏は以前は東京工業大学の教授であったが、現在は拓殖大学の学長である。

少子高齢化で学生を確保する目的もあるのか、もらったその大学案内はすばらしいものだ。さらに氏の書かれた著作も配られたりして…。講演開始までに入った人は各テーブルに水とコーヒーも配られていた。大学側の気の使い方は相当なものだと知る。

氏はアジア経済、特に中国経済を専門とする。パンフで講演を知ったときはもう見逃せない…と思ったほど楽しみにしていた。

期待通りすばらしい内容の講演だった。

氏は今の民主党政権のふがいなさを1902年に結ばれた日英同盟と現在の日米安全保障条約と結びつけて議論している。

日英同盟の頃日本は膨張主義に走った。それは中国を除くほとんどの大国がそうであったように。ところが、中国はまさに今、その膨張主義に走っているという。

中国は共産主義の国である。7000万人ともいわれる党員をまとめるトップは他を排除して内をまとめねば異質な社会、中国を纏め上げることは出来ない。日本はほぼ同質社会でありまとまりやすい。異質国家中国はそのための手段として反日、嫌日という手段にでて国民の眼をそらし内をまとめようとする。

尖閣諸島の問題でも日本政府の取った態度は異様だと批判。それは政府のみならずジャーナリズムもそうだと。何も考えず行動する民主党は大衆社会に迎合し、緩慢であり、その日暮らしの政策で迅速性に欠けると…。

反中、嫌中ばかりいわず、もっと中国を理解しなければならないという。氏は決して反中、嫌中をとらず、むしろ親中であり、中国の文化など理解しようとしている。

日英同盟の廃棄で日本が悪い方向へ向かった轍を踏まず、日米安全保障条約を守り確固たる日米同盟を…と呼びかける。

日英同盟が結ばれていた日本は膨張主義に進んだ。だが、その当時の日本は「パワフルで調和の取れたふくよかな時代」「大正デモクラシーが花開いた時代」だという。いい時代だと。

今の中国は「後れてやってきた帝国主義国家」と考えれば古い自画像を見ているようだというのである。

その今こそ日本の指導者の資質を問うという。今こそ日英同盟で有利な役割を果たした日清戦争時代外務大臣を務めた陸奥宗光を手本にして行くべきだと…。歴史に学べと…。

もらったレジュメは下記のようであった。

Ⅰ 異様なる日本の外交 
ミュンヘン会談としての尖閣諸島中国漁船衝突事件

Ⅱ 後れてやって来た帝国主義国家としての中国
「理不尽」なはずはない 反日愛国主義 ひるむな日本

Ⅲ 堅固なる日米同盟をー日英同盟廃棄の轍を踏むなかれ
日米同盟 日露戦争と日英同盟 「坂の上の雲」よ

Ⅳ 指導者の資質を問うー陸奥宗光よ再び

陸奥宗光の本は読んだことはない。そして司馬遼太郎の『坂の上の雲』も。2人の『坂の上の雲』、『蹇蹇(けんけん)録』を読もう!

2011年10月8日土曜日

「午後の汀」

昨夜は「午後の汀」と題された東儀秀樹と古澤巌のTOUR 2011を聴きに呉市文化ホールに出かけた。

チケットを購入していなかったので早めに家を出る。呉線に乗るのは久しぶり。呉駅に降りるのも久しぶり。以前知人と行った大和ミュージアム以来だ。それでも呉駅のミュージアム側は新たな建物も増えにぎやかさを増していた。

コンサート会場は呉駅から歩いて10分くらい。広島市内であるコンサートに比べても時間的には同じようなもの。とはいっても夜のにぎやかさは広島市内とは比べものにならない…。

6時半にコンサートは始まった。そのはじまりのにぎやかなこと。何か違う…と。大音響と華やかなスポットライト。舞台にはピアノ、キーボード、ドラム、ベースの演奏者に主役の2人。

まだクラシックに興味がなく、ニューミュージック全盛時、そのコンサートによく出かけた。まるでその感覚である。久々の…。

もともと古澤のヴァイオリンを聴くのが目的だった。

会場正面の上では落ち葉を4枚広げた一番大きな葉に映像が映し出される。

はじめは何か違うと思っていた。それがいつの間にかその雰囲気に吸い込まれ…。同年齢という主役の2人は3年前から全国ツアーを開始。古澤も10数年前からPOPなコンサートを演奏しているという。

POPなだけあって演奏の合間にはおしゃべりが入る。それもまたおもしろい。古澤の演奏スタイルもまるでタンゴを踊っているかのように軽やかに…。東儀の篳篥はアンプを通しているためサックスとトランペットを合わせたような音色に聴こえる。時にはオーボエとトランペットのようにも。

タンゴといえばピアソラが好きだ。ピアソラのタンゴはヴァイオリンで演奏されることが多い。昨夜はピアソラの演奏はなかった。だが、ほとんどタンゴかジャズを思わせる演奏だ。

2人の衣装もそれに合わせた感じであり、古澤の頭には帽子やバンダナが…。

前半の演奏曲目は今年6月にリリースした曲が演奏されていた。何しろプログラムがない。演奏曲目ははじめにもらった宣伝のチラシに頼るのみ。1曲が短いので演奏曲目は相当数になると思う。

休憩を挟んで東儀が狩衣(貴族の装束)をまとって客席の通路の端から篳篥を吹きながら登場。遅れて数分、古澤も同じ格好をして舞台から登場し、ヴァイオリンを弾く。その姿を見て会場はドッと沸く。

その後は衣装も今風の若者のPOPスタイルになった。

演奏曲目も後半に入ると東北の震災に絡む淋しい曲になった。そこで篳篥だけの「ふるさと」が演奏された。この曲は聴くのがつらい時もある。アサちゃんの最期を思い出させる。昨夜もそうだった。

後半は主役の2人がそれぞれの曲をソロで演奏した。そのときは古澤もクラシック音楽を演奏した。

だがまた2人が揃って演奏に入った頃には手拍子も大きくなり、ほとんど全員総立ちに…。

もう何十年ぶりかで盛り上がって…。2時間半の演奏は終わった。

いつもクラシック音楽ばかり聴いていた。たまにはセミ・クラシックのような昨夜の音楽もいいものだと思う。

これからも機会をみては演奏会場に足を運ぼう。

2011年10月7日金曜日

「人生の旬は50歳から」

昨日午後は近くに住む友人宅に行って夕方まで遊んだ。
話のなかで友人はNHKで放送されている松下幸之助の言葉に感動したという。

最近、その人は検査の結果、体の異常が見つかった。そのため先日来から手術をするかどうかの決断を迫られていた。すぐにセカンド・オピニオンの助けを求め、公の病院で相談すると経過観察…になったと喜んで話す。

そのTVの中の幸之助の話で「それもよかろう」みたいなコトがあったという。

どうもその人の今置かれている状況とそのコトとが合致して感動を覚えたようだ。

健康については今朝のNHK「あさイチ」で、ゲストとして五木寛之が出演していた。五木は「養生訓」など書いてるようでそのことを話題に取り上げる。

何事においても世間でいわれていることでなく自分でコトの良し悪しを判断することが求められると話す。

さらに「人は生きてるだけでいい」とも。これについては先日読んだ本に同じようなことが書いてあった。それは近藤勝重の「亡くして今、ただ在ることのありがたさをつくづく思う。」である。

今朝の五木はいう。たとえ体が不自由で寝た状態であっても体のさまざまな器官や細胞は活動していると…。だから生きてるだけでいいのだと。 

つくづくそう思う。

また五木は50歳のとき龍谷大学で聴講生として2年間仏教を学んだという。この50歳はそういう時期だと。

50歳は遥か昔になりつつある。だが似たような時期、大学で学んだモノとしてはそのよさを実感する。だから五木はこの番組で「人生の旬は50歳から」だと…。

人生の旬は過ぎつつあるけど、今のところ体のどこにも異常はない。何でもやろうと思えばできる状態にある。今を大事にして生きたい。やりたいことをしよう…。

今日も夕方から呉市文化ホールで開催される「午後の汀」と題された古澤巌と東儀秀樹のツアー2011を聴きに行く。古澤巌のヴァイオリンはCDを聴いてからいつか聴きに行きたいと思っていた。思ったより早くそれが実現する。

楽しんで聴きたい!

2011年10月6日木曜日

コスモスを見に・・・

昨日は隣町に住む幼馴染と小雨の中、コスモスを見に行った。出かけた場所は国営備北丘陵公園。

県北に位置するため広島からは遠い。往きはJRで、帰りは高速バスにした。広島駅から芸備線に乗り三次駅で備後落合行きに乗り換え備後庄原で降りた。

さすがローカル線。ゆっくりしている。車窓からの眺めは稲穂の実った田んぼ、その脇には彼岸花が咲いている。

芸備線に乗ったのは何年ぶりだろう。

三次駅からの1両しかない車両に乗客は3,4人。採算は取れない。備後庄原駅に着くと駅員に公園まで歩く道順を聞く。すると駅員は駅舎外の案内地図まで連れて行き、そこまで歩くのかと聞く。持っていたチラシは徒歩20分とある。歩くつもりだというと駅員はあっけに取られた様子だ。

徒歩をあきらめ駅前のタクシーに乗ろうとすると運転手さんは昼食中。それでもすぐに公園まで運転してくれた。その間10分。乗ってみてはじめて田舎の道を歩くには無理だと知る。

公園に着くと人の気配はない。入場券を買うため声をかけるとやっと係りの人が出てきた。思わず貸切!といってしまった。他の係りの人も近くから出てきて出迎えてくれた。

もらったパンフを手に歩く。以前ここへは2度ほど車で来たことがあった。だがその記憶はほとんどない。年々手を加えられるのか建物も新しい。

コスモスの咲いている「花の広場」に行こうとするとシルバーカートが目に付いた。雨も降ってる。乗ってもいいかと係りに聞くとOKの返事。雨よけもされている。5,6人乗りのそのカートに乗って目的地まで行った。

広い公園なのに人の気配は管理員のみ。しばらくすると10人くらいの団体に出会った。それにしても人はいない。

カートで目的地に着くとまずは湖畔のレストハウスで食事をした。県北の山の中で小雨も降っている。寒い!温かいものを食べた。その後、コスモスを見て歩いた。

もらったチラシには「ココロ、カラダ、ヨロコブ。秋の行楽、おでかけ日和。」とある。決してお出かけ日和の1日ではなかったけれども、これもまた楽しい!

雨に打たれ首をかしげているコスモスをみる。我が姿だと笑って幼馴染にいうと「昔のね、〇〇さん」という。いわれてみれば今はあんまりうなだれて考えることもない…。

コスモスは150万本とか。花の咲いてる数をよく100万本とか…表現する。実際に数えた人はいないと思うけどそれくらい多いという意味か。この公園のコスモスは色、形、大きさなどさまざまに咲いている。大きさに関しては子供の手のひらくらいの花もあった。

コスモス畑を歩いて一周した。その後は「ひばの里」に行く。そこは農家の生活を再現していた。ここの光景は以前来たときと余り変わっていない。

帰りは広島駅まで直通の高速バスに乗ることにした。平日なので午後2時44分があるのみ。往きは2時間15分くらいJRに乗り、帰りはバスでやはり同じ時間かかる。

バスの出る時間まで「中の茶屋」に入り、ティータイム。その後は売店に入る。幼馴染はオリーブの木を買った。我が家のオリーブの木は春に買って植えたものが1メートルくらいになっている。オリーブを買わずゴールデン・ピラミッドという柳葉姫ひまわりを購入した。黄色の花が咲いている。

最寄の駅に帰り着くと一緒に行った幼馴染と女2人ビールで乾杯!話が弾んでしまった!次回は瀬戸内の島へサイクリングを約束して…。

今朝は気持ちを引きしめてフルートの新たな曲の練習が待っている。曲目はサン・サーンスの「あなたの声に心は開く 歌劇『サムソンとデリラ』より」である。これまでこの曲を聞いたことがない。1昨日のフルートのレッスンで1回さらってもらった。フラットが5つもついたスローな曲である。曲の終わりは音が高い…。

ユーチューブで聞くとエレクトーンで弾いていた。家にエレクトーンはあるけれどほこりが…。

エレクトーンでなくフルートで今日から頑張ってさあ練習!

2011年10月4日火曜日

情報あれこれ

毎週月曜日にプールに行って泳ごうと決めていた。ところが昨日はフルートの発表会の翌日でもあり泳ぐことを断念!そのかわり友人と会ってしゃべっていると時間はあっという間に過ぎてしまった。

その夜、メールをチェックするとフルートの先生から今日のフルートのレッスンが行われるとの確認メールが入っていた。もちろん今日あることは知っている。だが先生は皆、気が抜けて来週から…と思ってはいないかとの配慮から送信されていた。

今日はそのフルートのレッスンに午後から出かける。

その前に午前中、図書館に出かけた。新聞を読んでいると誰かが声をかけてきた。隣町に住むフルートの友人だった。読んでいた新聞にはブータンの国王が結婚するという記事が掲載されていた。

「ブータン」というキーワードにひかれ読んでいくと国王の后は一般の人だという。

ブータンといってすぐ思いつく人がいる。青年海外協力隊でブータンに行き、そのことを本にされた東京の火である。ブータンに関する本を書いている人はそれほど沢山いない。ブータンが好きな人ならばその人を知っている。

その人を知ったのは我が町がひろしまアジア大会でブータンを応援したときだった。すぐにその人の本を読み、本を書いた人もブータンにも関心を抱いた。その人には大会後からずっとブータンの情報を知らせてもらっている。2、3年くらい前にはブータンに関する図書目録を作成され、それを送ってもらったこともある。

その人から毎年戴く年賀状はたびたびブータンに行って撮られる写真年賀状。

今日は朝から新聞でブータンの記事を読み、その人のことを思い出した。

情報といえば暇があるとパソコンで遊ぶことがある。先日いつも検索するGOOGLE でなくYAHOO を検索していると山本モナが中西モナとしてブログを始めたとあった。その人に関してはTVもほとんど見たことはない。だが興味半分でブログを見ると思ったよりもよさそうな人に感じた。特に昨日のブログの投稿でそう感じた。その人のブログを勝手に引用させてもらうと、以下のように書いてある。


「気に入った作家さんのものは、立て続けにかたっぱしから読みます。

今までだと栗本薫さん、井上靖さん、谷崎潤一郎さんとか。

あと、一冊本を読んで、その中に出てきたキーワードの本を読むって事もよくあります。

坂の上の雲を読んだあとは、日露戦争関連の本を読み漁りました(笑)」


この中の「井上靖」、「日露戦争関連の本」は特にそう感じた。その2つのキーワードは常に関心をもっているコトなのでそう思うのかもしれない。

有名人という人のブログをほとんど読んだことはない。それでもブログを読んでその人らしさが出てると親しみが沸いてくる。そこら辺りがまたブログのよさなのかもしれない。

そう思いながら今日も我がブログに投稿する…。

2011年10月3日月曜日

次回をめざして!

昨夜フルートの発表会を無事終えた。「無事」には疑問符がつくかもしれない。だが、ともかく発表会は終わった。

昨日午後からは発表会のリハーサルなどもあり、予定時刻までに会場に行く。最寄の駅を降りて歩いていると50メートル先に人が歩いている。持っているバッグから発表会に出る人では…と思いながら会場に着く。

到着後、その人らしき人の横に座るとやはりそうであった。

順番にソロ、アンサンブル、全体合奏、ゲストのリハーサルを終えると本番になった。

大人のフルート発表会である。出演する人、ピアノ伴奏の人、司会者、カメラマン、ビデオ係、会場の手配など毎年のことでいつも同じ人のお世話になる。今回はなんと22回目とか。フルートの先生との付き合いは古い人で22年にもなる。今回の出演者もその回に相当する人がいたかもしれない。

まず全体合奏から始まった。続いて先生の演奏だ。演奏では伴奏として旦那様のギターがついた。夫婦揃って仲良くバッハ作曲の「主よ人の望みの喜びを」を演奏された。見ていてほほえましい!先生の旦那様はヤマハの全国大会のポプコンで入賞されたことがある。またアコースティックギターのアマチュア・バンドでギターやボーカルで定期的に演奏活動もされている。本職はある企業の社長さんだが…。

演奏の最後はゲストの人たち。昨夜はピアノ伴奏の先生にもう一人ゲストのピアニストが加わってバーバーの「スーヴェニール 『バレエ組曲』作品28」より4曲演奏された。これも聴き応えのあるすばらしいものであった。

演奏は作曲家の生まれた順に始まった。私の吹くソロは休憩を挟んで始めにあった。ソロを吹き終えると最後にあるアンサンブルのときは気持ちが抜けてしまった。ちょっとまずかったと反省。

フルートを習いだして19年半。本来なら19回は出てるはずだけど、その半分は忙しい日々を過ごしたため、中断を迫られた。ともあれ、これほど長く続くとは思ってもいなかった。肺活量が少ないからフルートに向かないのでは…と。

中学生になるまでほとんど運動をしなかった。そのため肺活量は人より少ない。高校時代計ったとき、2000mlなかった。それがフルートを習って以降、水泳をはじめたり自転車を乗り回すようになると肺活量も500ml位増えた。それでやっと人並みである。今はもう少し増えているかもしれないが…。

時々フルートを習いはじめた頃のことを思い出す。先生はフルートが吹けないと、いつも「人と比較していけない!」と話された。まだその頃20代はじめの先生にそういわれるたび「偉い人だ!」と思った。

というのも中学校まで学校の成績一覧は全員、校舎の廊下に張り出され、競争原理の中で成長した。当時の先生たちが常にいわれたことは「君たちの一生は競争だ!」。今と違い「ゆとり教育」の時代ではなかった。そのためつい人と比較する癖がついて育った。

ところが若いフルートの先生はそれが全くない。きっとそのことがこれほど長く人をひきつけている所以だろう。

「比較」については社会人大学生で入った頃、一番初めに感じたことにもあった。「多様性」である。人でも、国でも何でも「多様性」があると…。人それぞれであると…。それはフルートの先生の話される「人と比べない」ことにも通じるように思う。

多分人と比べていたら上手い人と差がつきすぎて習うのが嫌になったかもしれない。

発表する大半はこれまでのメンバーの人だったが、新しい人もいた。そのため、習う人の年齢も高くなるが、吹く曲のレベルも高い。人の吹く曲を聴きながらその曲を吹いてみたい…と思う。これも刺戟になる。発表会のよさはそこら辺にあるのかも…。

大人の発表会は会場のほとんどは発表する人かその家族である。ところが開演前、入ってきた男性はよそでフルートを習っており、その会場の情報で発表会を知り聴きに来たという。最後までその人たちは熱心に聴いていた。

また昨夜は発表会で着る服をスペインで買ったワンピースにしなかった。知人に会った時、すぐ着てこなかった断りをいった。顔が服のかわいさに負けると…。知人はそういえば服が違うという。

帰りに他の人からなぜ着なかったのか問われ、また着なかったことは買うようにいってくれた知人に対しても悪いという。そういわれて初めてそうかも知れないと気づく。1日前までは着ようと思った。だが、どう見ても顔が服のかわいさに負けてしまう…。着るのを断念した!

またその人はフルートがこれほど長く続くのは先生をはじめ皆仲が良い仲間だからだという。本当にそう思う。

ともあれ発表会は終わった!明日からはまた新たな曲をレッスンする。新たな気持ちで次回を目指して…。

2011年10月1日土曜日

10月になった!

昨日に続いて設備の業者が朝早く我が家にやってきた。その業者には5年前に風呂を作ってもらったことがある。

顔なじみなので話しやすかったが、塀と家との間の排水で考え込んでいる様子だった。そういう難しいことはわからないので黙って聞く。どうも今回の工事は面倒なことのように思えた。もう業者に任せるしか仕様がない。

今朝はまた、道を隔てた斜め前の大型店舗の工事が始まった。アスファルトを掘り起こすブルドーザーの音のうるさいこと。これが年内続くと思うと嫌になる。それも町の発展のためにはいいことなのだろう。

気を取り直して2日振りに開館した図書館に行き、その後スーパに行く。

昼食を食べ終えフルートの練習をしていると、近くに住む人からTELがかかる。市内で有名な和菓子を買ったから我が家にもって来るという。来てもいいけど騒音がひどいと話すと来ないという。結局、その人の家にこちらから出向くことにした。

フルートの練習をしないといけないのにまたもや友人宅で話していると6時を過ぎている。もう外は暗い。あっという間に一日はこうして過ぎていく。今日から10月だというのに…。

ますます気候もよくなる。遊ぶには申し分ないのだが…。それにしても気ぜわしい秋だ…。