『この国のかたち』(六)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年第14刷)を読んだ。これでこのシリーズを読み終え、いまは『歴史の中の日本』を読んでいる。若いころと違って年老いてゆくにつれ、歴史好きになっている。というか、老いるにつれて本好きがますます昂じていく。目はよくないがいくら小さくても本が読める。これだけは神仏があるとすればありがたいことに思える。
何かの本で人生最期の趣味は?とあった。今となっては好きだった自転車と水泳ができなくなり、残るはフルートを吹くことと本を読むことが残った。最期まで、となれば本が残るかもしれない。とはいいつつ、最期までとはいかなくても旅をして人生を終えたい気がする。それには体力!?昨日も体操教室で3時間頑張った!
以下は『この国のかたち』(六)から気になる箇所をメモしたもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★平安初期、天皇家の財政が困窮し、多くの皇子たちを養ってゆけなくなった。……そういうことから、「源(げん)」という姓が創設された。弘仁五年(八一四年)のときで、多くの皇子皇女に「源」姓を持たせて臣籍に下した。……「源」は、訓読してミナモトともいう。……雑談ふうにのべる。まず「源」が、中国ふうの一字姓だということである。中国では、二字姓は前記禿髪(とくはつ)の例でもわかるように異民族出身である場合が多く、貴とばれない。ついでながら国名ですら中国内地の王朝は一字である。……源姓が創設された八一四年は、まだ遣唐使の時代である。遣唐大使は、巨勢(こせ)、土師(はじ)、吉備、阿倍、藤原、大伴、長岑といったように、二字の姓で、かれらのすべてがそう思わなかったかもしれないが、長安の社交場で自分の姓を田舎くさいと感じるむきもあったのではないか。源姓が創始される十年前の八〇四年に出発した大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)の場合、公文書での自分の姓名を「藤賀能(とうがのう)」とあらためたりした。……源の成立から十一年後の八二五年、桓武天皇は葛原(かつらばら)親王の子を臣籍に下し、はじめて「平(へい)]という姓をおこさせた。初代は平高棟(たいらのたかむね)である。……二字の漢字をならべて、漢字としても意味をもたせつつ、わざわざ訓読みするというこの命名法は、こんにちにいたるまで生きつづけているのである。その後、源・平は、ふんだんに創られた。(源と平の成立の影響 200p-203p)