『この国のかたち』(五)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年15刷)を読んだ。以下、気になる箇所をメモしよう。
★結局、会津藩が、慶喜の形代にされた。以後、戊辰戦争のなかで会津藩は鶴ヶ城を拠点としてよく戦い、籠城戦の末、降伏した。そのあと、藩ぐるみ下北半島の荒蕪の地に移された。日本史上、これほど大規模な流刑はなかった。明治後も、会津人や会津地方は割りを食うことが多かった。会津若松が県下最大のまちでありながら、福島県庁が置かれることはなく、また偶然かどうか国公立の高等教育機関も設けられなかった。(100会津 82p-83p)
先日、某会の人と電話で話した際、所属していた合唱団の代表が先月亡くなられたとの訃報を聞いた。この人は青森県の人だ。10年前、青森のねぶた祭りを見に行った際、この人の家に1週間も泊まらせていただいた。その時の旅で聞いた話を思い出す。青森出身の代表は元は青森の人ではなかった。ここにあるように「藩ぐるみ下北半島の荒蕪の地に移された」、その子孫にあたる。その時はこういうことを全く知らずに話を聞いた。改めて本を読んでこれを知るともっと話を聞いておけばよかったと思えてくる。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!