2011年11月19日土曜日

『中国「反日」の源流』

『中国「反日」の源流』(岡本隆司 講談社、2011年)を読んだ。筆者の岡本は京都府立大学文学部准教授である。

筆者は愛国が反日を意味するようになった事実上の出発点を1905年とした(227p)。それはくしくも中国各地で起こった反日デモからちょうど100年目にあたる(2p)。それを解き明かすために現代までつづく日中関係を論じている。

個人的に中国近代は関心がある。その意味でも、いつもとは違って、さらに丁寧に関心あるところを記したい。

本の構成は下記のようであった。

プロローグ
第一部「近世」の日本と中国
 第1章 東アジアの十八世紀
 第2章 統治のしくみ
 第3章 明から清へ
 第4章 マクロな動向
第二部「近代」の幕開け
 第5章 十九世紀をむかえて
 第6章 西洋近代との邂逅
 第7章 開港と開国
 第8章 動乱の時代 
第三部 近代日中の相剋
 第9章 近代日清関係の始動
 第10章 日清対立の深化
 第11章 「洋務」の時代
 第12章 愛国反日の出発
エピローグ

一般的に反日の要因を「口をそろえて指摘する長期的な要因は、江沢民総書記時代から愛国主義の鼓舞と反日教育の徹底である。」と筆者はいう(5p)。それには1989年の天安門事件のあと、国内の引き締めと同時に、政権への求心力を高めようと、愛国を煽り、その手段として反日を強調した。そしてその教育自体は今尚再生産されているという(5p)。

この辺りは先日の渡辺利夫氏の話しと変わりない。

筆者は、反日はそれが原因ではないという。「反日は潜在的に存在し、もっと根が深いものだ」とした(6p)。それゆえ、これまで書かれていない、「反日」の原風景を描写しつつ、その深層構造をさぐること、「反日」をひきおこし、容易には終息させないメカニズムはどこに由来するのか、その起源を明らかにすることを本書の目的とした(7-8p)。それは日中の全体史を描き出すことになるという(8p)。

筆者は中国を称して「中国はわからない。」という(16p)。

確かに中国に足を踏み入れれば踏み入れるほどよりいっそうわからなくなってくる。

そのことを筆者は「端的にいってしまうと、権力のありよう・パフォーマンスが、日本とは違うということである」。「全く異質だ」という(17p)。

筆者のいう異質は、先日講演で聞いた渡辺氏のそれとは違っている。渡辺氏は民族の多様性を日本と比べて異質とした。

筆者はその異質性を先のギョーザ事件を例にあげてその異様な権力のありようを異質とする。

「反日」を理解するには中国を理解する必要があるとした。それには17世紀から見直すのが捷径だろう(18p)。

17世紀として日本では1600年の関が原の戦いがある。18世紀の終わりから19世紀の初めにかけてが、近世から近代への転換期とした。日本は江戸幕府であり、中国に君臨していたのは清朝である(23p)。

軍事面では日本は農業社会から自生した武力組織で清朝は狩猟・遊牧的な武力組織である(24p)。

孫文の時代、中国の人民は「家族主義」と「宗族主義」はあっても「国族主義」(ナショナリズム)がなかったと筆者はいう(33p)。日本人では内藤湖南の言葉を引用して、孫文と内藤の2人が「反日」と「嫌日」を代表していたという(34p)。当時の中国の政治統治を「刑名」と「銭穀」とし、「人の命と財産を、強制的にかつ、合法的に奪いうる、という権力らしい根幹の部分しか、統治が存在しえていなかった」(35p)。

すなわち、清代の「帝政中国」は「治者と統治者」とが「一つの法的・政治的共同体」をなさない遊離耕造だった(37p)。

日本は為政者が民衆の生業・生活に関知することはほとんどなく、民生のケアや統制は「家族」「郷団」、地域社会まかせの「小さな国家」だと内藤湖南はいう(37p)。

筆者はこのような日本と中国の権力統治のあり方の違いを明朝の体制から論じている(38p)。

明朝政府を社会と国家は遊離した経済と政治の乖離をあげる。それには日本との貿易の「倭寇」を典型とした(50p)。「倭寇」という現象で日本との経済的関係を不正な密輸にしたて、騒乱を生み出した最も根本的な原因とした(50p)。この社会と国家の遊離構造が「反日」の思考と不可分だとする(50p)。

19世
紀になると社会構造は「鎖国」があり、それは「西洋の衝撃」に対する日中の姿勢は対蹠的だった。それは以後の日中関係、「反日」を形成する動因理解になっていく(102―103p)。

日本の「鎖国」は経済面からいうと埋蔵貴金属の涸渇によって、中国からその特産品を輸入しえなくなったことを意味する。その経済過程は「脱亜」と表現されることもある(103p)。

アヘン戦争についてはアヘン戦争を以って中国近代を唱えることに筆者は異を唱える(119p)。そのアヘン戦争がなぜ中国で起きて、日本で起こらなかったのか。それは日清ともに、麻薬のアヘンは禁制品だったにもかかわらず、中国ではアヘンが蔓延し、それが戦争の原因になった。日本では禁制品が禁制品であり続けたその違いにあった(120p)。

西洋の資本主義がアヘンを売りつけるという世界市場形成の意義と構造が問われる。さらに中国では禁制品が禁制品たらしめないしくみもあった。広州域内にいる中国人ブローカー「窯口」と湖南省、江西省の密輸武装集団で死をも恐れない「会党」の集団がおり、政府権力の把握しきれない非合法的な中間団体がネットワークを張り巡らせてアヘンを密売した(122p)。

この事態を重くみた道光帝は1838年林則徐を起用してイギリス人からアヘンを没収して焼き尽くし、アヘン戦争につながった(124p)。アヘン戦争の敗戦により中国はイギリスと南京条約を結ぶ(125p)。これは「西洋の衝撃」でできた近代的な新体制だった(125p)。

これに対し日本の「西洋の衝撃」は徳川体制を終焉させて明治維新をもたらす。その衝撃の反応が中国は部分的な改変だったが、日本では全面的な変革に帰結した(131p)。そこには流動性と凝集製の差異がある。

清代中国を間隔領域の大きい、流動性に富む柔構造とすれば、徳川日本は凝集的な、間隔の少ない構造である剛構造であった。そのため「西洋の衝撃」を受けとめるだけの構造を作るため日本は一新する必要があった(133p)。

それは日本史では「開国」であり、中国史では「開港」であった。この違いは漢字の違いだけではなく歴史過程の違いにも当てはまる。こうした国(全体)と港(一部)のギャップが、やがては日中の対立を深め、「反日」をもたらす(133-134p)。

日本の「明治維新」は中国でも当時の年号をとって「同治中興」と呼ぶ。前者は体制の変革であり後者を内乱の平定としている(135p)。

清朝に敵対する洪秀全の太平天国の乱、曾国藩の湘軍は共に湖南省の有力な武装中間団体をリクルートした軍事勢力であった。湘軍が太平天国を滅ぼすまで10年かかり多数の死者を出しても社会変革は起きなかった。こうした中から勝利者として淮軍が残り李鴻章が清末最大の実力者に上り詰めた(143p)。

李鴻章をはじめとする「督撫重権」(清朝の制度である地方大官の総督・巡撫の現象を称す)で、従来よりも地方大官の裁量・発言権が大きくなった(149p)。筆者はこの「督撫重権」の時期を清末とした。

清末中国と明治日本のギャップの違いを一身に体現して「反日」の態勢を目に見える形で作った人こそ李鴻章だった(152p)。

清朝の日本観について筆者は「日本とはすなわち『倭寇』だというイメージが先行し、まずこれを軍事的な脅威としてみる、という思考様式があった」という。これが「反日」思考の原型とする(163p)。中国側の対日意識は伏流と存在し続け、日中双方は19世紀半ば「西洋の衝撃」を迎える(164p)。

李鴻章は明治政府と日清修好条規を調印4ヵ月後、台湾出兵を行う。清朝に「属」する台湾の武力侵攻により日清の対立は深まった。1874年、日本政府は大久保利通を北京に派遣して和平交渉をした。イギリス公使ウエードの調停で清朝側が妥協した形で交渉は妥結した(178p)。

1860年代から1894年の日清戦争までを中国史で「洋務運動」時代という。「中国語で中国近代史の史実・事件を『運動』とよぶ場合、しばしば成果を十分におさめることのできなかった歴史事象をさす。」という(195p)。

この「運動」について「成果を十分におさめることのできなかった歴史事象をさす」とは知らなかった。「太平天国運動」「変法運動」「義和団運動」などある…。こんなことここに書いていいのだろうか!?

さらに「洋務」が「夷務」の言い換えだとか。西洋人が「夷」の文字を嫌ったために「洋」を用いることになったとは知らなかった(196p)。

そのうちの最も重要なものとして、軍備の近代化、軍需工業およびそれと関連事業の創設推進などがあり、そのスローガンは「自強」であった。この「自強」を目的とする「洋務」運動の展開は李鴻章の公的生涯と軌を一にする(196p)。

日清修好条規の1874年の台湾出兵、1879年の「琉球処分」で李鴻章は「中国永遠の大患だ」と断じた。李鴻章は日本を仮想敵国として北洋海軍の建設をはじめた(198-199p)。

「洋務」を支持する人士は旧習墨守の打破、西洋文明の導入を正当化するため、国の伝統文明が本であって、西洋の近代文明は応に過ぎない。その導入した西洋の事物で自強を達成してこそ、伝統を守ることができると主張(201p)。これが「中体西洋」論である。

李鴻章が目指したものを獲得するには「官民懸隔」の構造を「君民一体」につくりかえなければならなかった。それは梁啓超らの「変法」を唱える人も同じであったがそれをする能力も意志もなかった(212p)。

李鴻章は西洋化を脅威的なペースですすめる日本を脅威と見なした(212p)。

筆者は清末中国の内外の安定は、「督撫重権」と「海防」が支えており、そこには李鴻章の役割と事業が重要であったという(220p)。日清戦争の敗北は、北洋海軍の潰滅と李鴻章の失脚であった(220p)。

その後清朝は秘密結社の義和団と結びつき、1900年列強に宣戦布告して義和団事件となった。その義和団は日露戦争の導火線となる(222-223p)。

日本が「満州」はじめ、中国の利権に固執し、勢力を扶植しようとすればするほど、日本に対する中国人の反感が増幅する構図は1905年にはじまっていると筆者はいう(225p)。1905年は日露戦争のときである。

1928年の山東出兵と済南事件が虐な那をらしめる、「暴支膺懲」の声になった(227p)。

その後の1931年の満州事変、翌年の「満州国」建国から15年にわたる「抗日戦争」が勃発した。そこに日本こそが中国の「主権」の侵奪者、民族主義の主敵と化した。その結果、愛国が反日を意味するようになったと筆者は述べ、その反日の源流は1905年であるとする(227p)。

エピローグとして筆者は李鴻章と同い年である勝海舟の「支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る」と言い放った言葉を取り上げる。そしていま現在の日本人・中国人も勝海舟ほど「支那を知る」洞察力をもった人はいないという。

筆者は現在日中の間に存在する「反日問題」は歴史問題よりももっと深刻な問題だという(233p)。歴史認識は「一方が他方を一方的に『正しく』認識するのではない。互いが互いのありのままをみつめなおし、その姿を尊重する。」、それには皆で努力するしかないと警鐘をならす(235p)。

2日連続で雨が降った。塀の工事も延びた。特別の予定もなく家でこの本と格闘。引用ばかりのブログになってしまった。それにしても中国はまだまだわからないことばかり…。

2 件のコメント:

  1. mだよん~(女)2011年11月20日 10:56

    いつも長文に感心してます。忙しく楽しい毎日が想像できますよ!涙したり笑ったり伝わってきます(*^_^*)

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  2. mだよん~(女)さんへ

    いつも訪問してもらってありがとう。一人で泣いて笑ってまるでピエロ、だと思ってます。忘年会しようね!

    午後は国際会議場に行って、イスラムを学んできます。

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