2011年11月30日水曜日

小瀬川ダム湖畔へ

昨日は岩国在住の人と半年振りで会った。合流場所は岩国駅の一つ手前のJR和木駅。初めてその駅に降り立つ。

友人はブログを読んでもらってるようで、米子に続いて出かけるが疲れないか、とメールで心配してもらう。大丈夫、と電話で告げて予定通り昨日会った。

たった4ヶ月、県庁でバイトしただけなのにいつも親切にしていただく。その人の車で小瀬川ダム湖畔に行った。

その人は旦那さんがいない日を見計らってこの日に会うことを予定された。そのため時間を気にせず山道をどこまでも進んでいく。ここ3,4日、絶好の行楽日和。車窓から見る小瀬川渓流の景色は紅葉真っ盛り。山に入って行くと目的地に着いた。ところがそこは定休日。

しばらくその辺りをうろついていると、店主がやってきた。店内を見せてもらう。街中では決して見られない光景だ。友人はよく旦那さんと来ていたと嬉しそうに話す。

仕方なく次の場所へ車で移動。山道を車はさらに走る。しばらく行くと小瀬川渓流温泉についた。山小屋風のレストランが数件建っている。めぼしをつけたところも定休日。その近くにあるレストランに入る。

入ったお店は思いがけず、なかなか感じがいい。そこでランチをする。

友人は旦那さんとの馴れ初めなど嬉しそうに話してくれる。旦那さんとは先日、自宅に伺ったとき会っている。だが優しそうな人だったことは覚えているが、顔は覚えていない。申し訳ない。

友人の話は聴いていて説得力がある。またびしびしと我が身にこたえる。その辺りが多分ここまで長く続いている所以かもしれない。なんとなく波長が合っている。

先日の海外旅行でも、喪が明けるまで待ってから出かけるようにといった人もいた。ところがその人は待ってる暇はないといって背中を押してくれた。有難かった。昨日も石橋をたたいて渡るモノを「石橋をたたく暇はない!」と諭す。この言葉、昨日の話の中で一番のハイライト。思わず噴出してしまった!「よく言ってくれました」。有難い!

「ひらめき」で行動していると思っていた。ところが友人にはそうは見えないようだ。改めて気づかされた日となった。月日はあっという間に過ぎていく、と友人はいう。やりたいコト、したいコトをせずにいては後悔ばかりが残るというのだろう。

今日の友人の言葉を忘れないように…。

〇〇さん、昨日もまたご馳走になりました。ありがとうございました。次に会うときはさてさてどんな話がでるのでしょう。楽しみしています!

2011年11月28日月曜日

米子へ

3日間、米子へ行ってきた。宿泊場所は21年前旅行で知りあった友人女性宅。彼女は妹さんと2人で生活している。すべての日程は友人に任せた。

土曜日、広島バスセンター10時5分発、米子行きの高速バスに乗る。乗客は10数人くらい。バスは途中、庄原の七塚原のサービスエリアで10分間の休憩。13時35分定刻どおり米子駅着。そこまでの道のりは見渡す限り山、山、山。田舎に来た感じがする。

米子駅到着寸前、バスの車窓からは雪をいただいた伯耆富士大山(ほうきふじだいせん)が見えた。



米子駅で友人と合流。その際、大山が見えたと話すと2度目の冠雪だという。空は真っ青。はっきりと大山が見えた。ちょっと感激!

昼食は「蕎麦」。蕎麦は広島ではほとんど食べない。ところが米子は出雲に近いためか蕎麦どころだという。温かい蕎麦と、ミニ・アナゴどんぶりを食べた。友人は冷たい蕎麦で。このメニューもすべて友人任せ。

昼食を終えると、車で「米子水鳥公園」へ移動。そこで珍しい鳥を見た。鳥の名は「クロツラヘラサギ」。案内板によると「極東に生息し、世界で2000羽しかいないといわれている。米子水鳥公園には毎年数羽が飛来する」と書いてあった。

米子水鳥公園
公園内には水鳥を観察する建物があった。そこに入るとずらっと望遠鏡が並べてある。その真ん中に陣取って鳥を観察する。そこには大きな倍率の望遠鏡が置かれている。遠くにいる鳥もはっきり見えた。久しぶり童心に返って、鳥を見る。

わいわい言いながら見ていると、職員らしき人が2人、そばに来る。そして先ほどの「クロツラヘラサギ」がいると教えてくれた。望遠鏡もその位置に設定してくれて…。

だが、名前どおりの「黒いヘラ」が見えない。見えるのは真っ白い鳥の姿のみ。じっと観察していると瞬時に向きを変える。そのとき真っ黒い「ヘラ」状のくちばしがみえた。よくもこういう名前をつけたものである。

係りの1人は大きな望遠レンズのついたカメラを持っていた。そして仕事用に写真を撮っているという。話をしていると持参したデジカメでも設置してある望遠レンズにデジカメを据付けると「アップ」の写真が撮れるという。「じゃあ、やってみて!」というとすぐにデジカメを望遠鏡のレンズ付近に据付け、その鳥の「アップ」の写真を撮ってくれた。
黒いヘラは隠れて見えないけどクロツラヘラサギ
職員に話しかける人は余りいないようで、係りの2人はいろいろ鳥について教えてくれる。季節的にも今の時期がいいらしい。望遠鏡で見ている前には、雪山をいただいた大山が真正面に見える。冠雪した大山もいつも見えるとは限らないとか。観察した日はクロツラヘラサギも冠雪した大山も見ることができラッキーだった。
 水鳥公園から見る冠雪した大山
その後は荒島神社、八百姫宮、米子城跡を歩く。すっかり太陽も沈み、友人宅へ車で帰宅。

友人宅に帰ると、すぐに夕食かと思った。ところが、ところが…。所変われば…。郷に入っては郷に従えのことわざがある。そのとおりにした。

なんと友人は夕飯前にお茶をするという。抹茶茶碗を用意し、抹茶を立てる。そばには饅頭も。これでは夕飯が…と思いながらも友人の立ててくれたお茶を飲み、お菓子を食べる。

その後、帰宅した妹さんも合流して夕飯に出かける。ところが時間はもう午後9時前。予定していた2箇所は貸切と閉店で入れず。3件目の「バロンジャヤ」は「おいしさはバリの風に乗せて。」とパンフに書いてあるとおり無国籍風ながらちょっと贅沢な感じのレストランだった。

従業員はコック風のスタイルで、すべて男性。パンフには「リラクゼーション&エスニックテイスト」とあり、食事も美味。レジの人を見るとコック風スタイルだが、年齢は高かった。

我が家ならば食事後のこの時間にはもう寝ている。ところが夕飯を食べて帰宅してもまだ寝る態勢ではない。しばし話をする。お風呂に入る頃は午後11時すぎ。姉妹の就寝時刻はなんと友人の姉は2,3時頃。妹さんは1時頃とか。もう到底真似のできる時間ではない。皆寝るのが遅いんだ…。

翌日も11月末なのに天気はよくて暖かい。この日は終日3人で車で出かける。妹さんは1ヶ月前、足を骨折したとか。やっと松葉杖がとれたといっていた。だが歩く姿は痛々しい。

翌朝、友人宅で「皇帝ダリア」を見る。はじめて知った名前の花だった。友人宅の屋根まで延びたその木のてっぺんに見事な花をつけていた。気品ある花だ。
知人宅の皇帝ダリア

今日は100キロ離れた鳥取市まで行くという。運転は友人。

朝食は「大山恵の里」で「卵かけご飯」を食べる。何十年ぶりかで食べる味であった。小さい頃、父親がよく作ってくれていた。いつもはアサちゃんのことしか思い出さない。その日は父親のことを思った。子供の頃、朝起きたとき枕元に「めざまし」を置いてくれていた父のことを…。グリコのおまけつきのキャラメルが多かった。人の好すぎる父親だった。その父に性格は似ていると思う。

鳥取に行く途中、倉吉に寄る。昔風の白壁群の町並みを散策。旅行者は多い。その後、倉吉未来中心、鳥取二十世紀梨記念館に行く。未来中心では催し物の絵画を見る。同じ建物内にある梨記念館で鳥取の梨がなぜこのように全国展開していったのかを映像と劇で見る。昭和11年、黒斑病を克服した鳥取が梨娘を動員して日本一を目指して全国展開を成功させたという。その日は「王秋」という一コ300円の大きな梨を買った。

足を怪我している妹さんは友人に車椅子を押してもらって見学。梨館で果物の被り物があった。それを被って写真を撮りたいと思った。だが躊躇する。やはりあきらめきれず、またそこに戻る。それを被って写真に写った。妹さんはその写真を見て大笑いする。

梨はほとんど口にしない。今年はその梨を食べた。美味しかった!

昼食は「ねばりっ娘」でとろろ汁ご飯を食べた。鳥取砂丘でできる長いもを使用した料理である。店の名がねばりっ娘の意味がそれからも分かる。これも美味。

午後は年5日間この日だけに公開される「樗谿(おおちだに)の名庭『啐啄園(そったくえん)』」を見学。その後、隣接する鳥取市歴史博物館(やまびこ館)に入る。ここはこの2日間「関西文化の日」のイベントのため入館料は無料。国宝や重要文化財の梵鐘を見た。

啐啄園
怪我をしている妹さんは車椅子での見学となった。次に国指定重要文化財の「仁風閣」見学。その後ティータイム。その喫茶店で友人の妹さんは人の椅子の横においてある松葉杖に気づく。後で聞くと同じような人がいるんだと思って笑みがでたといっていた。

その日の夕食は「かに汁」を予定していたようだった。ところがお目当てのところは今はしていないという。友人はどうしても私に食べさせてあげるといって、自宅で作ってくれた。これも美味しい。

ところがその日も夕飯の前にお茶タイム。またまた夕飯が遅く10時頃になる。当然寝るのも遅い。

3日目になった。この日も暖かい。朝食は姉妹宅で食べる。その後、足を痛めている妹さんは車を運転して仕事に…。2人でお昼近くまで友人宅で談笑。

旅の話になった。なんとこれまで70回海外に出かけたという。ところが4年前に母親を亡くされてからは海外へ出かけてないとか。友人はブータンへ先に行っている。そのブータンのタクツアン僧院へは歩いて登ったという。そのことがその後の海外トレッキングに行く自信になったといっていた。

友人より遅れてブータンへ行った。そのときタクツアン僧院へはラバで登った。ラバは誰でもすぐに乗ることができる。徒歩とラバでは相当の開きがある。それでなくても軽い高山病になるブータン。徒歩でのそれは大変だったと想像してしまった。

その日の昼食は「蕎麦がき」を食べに連れて行ってもらった。この名の蕎麦料理は、はじめて聞いた。蕎麦を粉にして粘り気を出してもちのようにしたものだった。それを雑煮にいれる餅の代わりに蕎麦で作ったそれを入れる。これも美味。はじめて食べるものなのでデジカメで写真を…と思っているうち、いつの間にかそれは口の中に…。

どこへ行くにも遠くまで車を走らせる。3日間、かなりの距離を車で移動。移動するたび客を気遣ってくれる。逆にこちらは友人の方がくたびれたのではないかと思った。

3日間、お天気に恵まれた。あっという間に3日間は過ぎた。楽しかった!午後3時、広島行きのバスは広島へ向け出発。乗客は10人足らず。行きと同じところで10分休憩。帰りは3時間50分かかった。我が家に着いたときはもうすっかり夜。

留守の間、短大時代の2人の同級生から何度か電話がかかっていた。TELすると「どこかへ飛んで行っていない!」と2人で笑って話したという。「米子へ…」と話した。3人で新春に会おうといって電話をして…。

3日間も米子でお世話になってしまった。感謝しています!次は広島で会いましょう!

2011年11月25日金曜日

再び喪中ハガキについて

今朝図書館に行った。いつもは予約確保のメールが届いたときだけ図書館に本を借りに行く。ところが3,4日図書館に行けないので出かけることにした。久しぶり書架を見る。目に入ったのは『死なない病気』(渡辺淳一 新潮社、2011年)。

中をめくると「喪中ハガキを考える」があった。昨日思ったばかりのこと。まさか手に取った本に同じようなことが書いてあるとは…。驚くばかり。

その中に書いてあることを引用する。

「年齢をとると、喪中ハガキが増えてくるのは仕方がないが、それにしてもいささか気が滅入る」(64p)。

筆者はいろいろとこの件に触れた後、「ここまで書いてきて、改めて気がつくことは、喪中ハガキが形式的になりすぎていることである。…とにかく、年内に身内の誰かが死んだら喪中ハガキを出すというのは、あまりに形式にとらわれすぎているのではないか。…ただ、みんながやってるから、自分もやる、というだけのこと。そんな形式的なものより、たまには変わった年賀状を出してみたら、どうだろう。『あけまして、おめでとうございます。昨年二月、母が亡くなりましたが、それにもめげず、本年も明るく頑張りますので、よろしくお願いします。』お年玉付きのそんなハガキがきたら、もらったほうも明るくなり、やる気が出てくるだろう。」(66-67p)。こう書いた後、筆者は年賀状と喪中ハガキを分ける手間が省けるだろうと述べている(67p)。

ここまでしようという気持ちはもっていない。だが、筆者のいうように喪中ハガキをもらっていい気持ちになるだろうか。誰も嫌な気持ちになるはず、と思う。

この件に関してはもうこれで終わり。自分流を通すことにしよう。

今日は夕方から広島交響楽団の第314回定期演奏会に出かける。今日の演奏曲目は「巨匠の熱情と俊英 ~オーストリア音楽の神髄」と銘打ち、
モーツアルト;歌劇「魔笛」序曲K.620
ベートーベン;ピアノ協奏曲第5番変ホ長調Op.073「皇帝」
シューベルト;交響曲第5番変ロ長調D.485

の3曲。

指揮者はロッセン・ゲルゴフ、ピアノにイエルク・デームスを迎えるという。

演奏会後は帰りも遅くなる。また明日からは米子へ…。しばらくブログ投稿はお休み。10年ぶり(?)米子の空気を吸ってきます…。

2011年11月24日木曜日

年賀状の欠礼葉書きに思う

年賀状の欠礼の葉書が届く季節になった。先日も1通届いた。

今月30日、108歳になる母親をもつ知人がいる。その母親は市内某区の最高齢者である。

その知人とはいつもメールなどで連絡を取り合っている。ところがお盆過ぎからメールを出しても返事が来なくなった。「何か変?」と思い、意識して連絡をせずにいた。

2日前、年賀状の欠礼の挨拶状が届いた。108歳の母親と彼女他の連名の葉書だった。裏をみると彼女のお姉さんの訃報だった。108歳の74歳の娘さんである。

長いこと話していなかったのですぐにTELした。メールを送ったことも話した。彼女はメールどころではなかったようで、TELしたときやっと気づいたようだった。

108歳は長寿の祝いの「茶寿」だと検索で知った。

祝いと不幸の折り合いをどうすればよいかわからず、彼女に電話でざっくばらんにたずねた。それに対して直接お姉さんを知ってはいないから…という。お祝いを優先する旨伝えて、一昨日彼女のお母さんのお祝いを送った。

108歳といえばアサちゃんの一回り上になる。

本来ならば我が家も年賀状の欠礼の葉書を出すことになる。だが、毎年この季節に届くその葉書きをみて決していい気持ちにならなかった。数年前、それにかえて正月明けに寒中見舞いをもらったことがあった。

それを受け取ったとき、こういうやり方もあるんだと知った。受け取ったとき嫌な気持ちにならなかった。

それ以来、それを見習って我が家も何かあれば寒中見舞いにしようと決めていた。

やはりお正月は年賀状が嬉しい!年賀状の来ないお正月は淋しさも増すような気がする。いけないこと…!?

2011年11月23日水曜日

旅行女朋友

先週、米子の友人から京都のウオーキングに誘われる。だが行かれない。昨夜、折角誘ってもらったので、こちらから今週末2日間、米子に行くとTEL。

すると今朝、1日のばして土曜、日曜、月曜日の3日間に…とTELが入る。宿を予約して欲しいというと友人は自宅に、という。

友人とは海外旅行で知りあう。4年位前、母親を亡くされ、姉妹で米子に住んでいる。妹さんももちろん何度か会ってよく知っている。それでも宿まで借りるのはどうかと思った。遠慮要らないと…。お願いすることにする。

宿を借りる上に、スケジュールもすべて先方で調整するという。ここまでしてもらっていいのかと思いながら、今日バスセンターに行って米子行きの往復チケットを購入。

午後は、中国語で知りあった人とそごうデパート内にある「Madam XENLON」という中華料理店で食事をする。上海ガニはピークを過ぎている。他の中華にした。

本格的な中華といえば以前はグランビア・ホテル内の東天紅が多かった。それも広島から撤退してしまった。

長くデパート内の中華レストランへ行っていない。久しぶりに入ると店は様変わりしている。中華は香港系の飲茶が多い。

今日会った彼女は、三原の大学に勤務している。昨夜の忘年会の後、職場近くでは泊まらず広島まで出て来て宿に泊まったという。車通勤のため飲み会のあとは運転できず、必ず広島まで来て宿を取るとか。

そういえば、4,5年前、もう遠くへ旅行にいけなくなったアサちゃんに旅行気分を味あわせてあげようと思ったことがある。車椅子のアサちゃんを介護タクシーに乗せてリーガロイヤル・ホテルとANAクラウンプラザに泊まりに行った。ANAに泊まったときは今日の友も同じホテルに泊まり、夕食後アサちゃんを寝かせると彼女と最上階のラウンジに行って飲んだこともあった。

彼女とは若い頃、中国語で知り合う。中国、ブータン、イタリアなど海外に何度か一緒に旅行した。それ以外にもスペイン大好きとのこと、今年からはスペインでも共通項ができた。

ブータンといえば一昨日、ブータン国王夫妻は日本を発った。一昨日、今日会う話で電話してきた彼女は開口一番「レセプションはどうだった?」と冗談をいう。「よかった!」と勝手に答えて…。

彼女は男性の民族衣装「ゴ」をブータンで買った。当時留学生として学んでいた「タシさん」を大学近くにある自宅に呼んでその衣服を着たこともあったという。そのため彼女のご両親は、ブータンという報道に素早く反応され、家でブータンが話題になったと話していた。

ゾンカ語を教えてくれた「タシさん」はきっとブータンで偉い人になっているだろうと2人で話して…。

それからもう20年近くが過ぎようとしている。きっと来年はブータンに旅行する人も多いだろう。

今日は5ヶ月ぶり、いろんなことを話した。以前中国語を習った後、遅い時間にもかかわらずよく飲み、よく食べていた頃と同じような気持ちになって…。楽しかった!

「Xiao Chi小姐」、今日は楽しかったね。また、シンガポールのお土産ありがとう!

明日スペインのお土産、郵送します。「Yu Tian」より。

2011年11月22日火曜日

スペイン旅行の余波

塀の作業は今日で終わった。とはいっても、取り付けたフェンスは間違いだったといって今日はすべて取り外し再度作業をしていた。幸いアサちゃんの長女の夫が来てくれていたので話を聞いてもらう。

夕方、フルートのレッスンに出かけなくてはいけない。あとはアサちゃんの長女夫妻に家を任せて外出した。帰ってから長女夫妻にお礼のTELをすると6時半までかかったという。本当にありがとう!

フルートの練習曲が次回から「スペインのセレナーデ」になった。“Chaminade”の作曲とか。よく知らない人だ。後でいつものようにyou Tubeで聴くことにしよう。

スペインといえば今日知人から旅行に参加した人からの預かり物を受け取った。2人の人からの写真、教会での演奏の模様のCD、その模様が現地の新聞に掲載された新聞のコピーである。他の人から写真も言付かったが車に忘れたといっていた。

しばし、レッスンの合間を利用して教室のロビーで話をする。地元紙のスペイン語のコピーはサグラダ・ファミリアが完成する2025年までには読めるようになっているから…と笑って話す。そのときは再度スペインへ行こう、と。14年後だ。だいぶ年も重ねているはず。

だがアサちゃんが75歳から青春だったと話すと、他の意味も含めて知人は「まだ青春前だ!」と何度もいって笑わせる。この言葉、今日のブログに書くからね、と話して…。〇〇さん、ちゃんと書きましたよ!

もらったCDを見ると、「よくもここまで」というほど中の冊子もすばらしい!まだ聴いてはいないけどゆっくり後で聴こう。楽しかったスペインを思い出して…。

もらった写真もたくさんだ。特にS先生からの写真は全体写真と知人と写ったもの。それも行きの新幹線乗車時から帰りの新幹線の中での疲れた表情のアップの写真など。見ていてその表情に我ながら思わず笑いがこみ上げる。

全体写真はいくら思い出そうとしても全く記憶にない人もいたりする。それも仕方ない。途中帰国組みもいたりして…。

〇〇さん、スペインから帰ってからも、いつもお世話になっています。感謝しています!S先生はじめ合唱団の皆様によろしくお伝えください!

14年後のスペインへ行く日までお互い元気でいましょう!

2011年11月21日月曜日

作業も終わりに…

今日も朝早くから作業が始まった。雨で予定が狂ったと思ったら、基礎の工事の人とフェンスの人が同時に作業を開始する。今日も一日篭城するのかと思った。それも辛いので、10時のおやつを出すと、いつもより遠いスーパーへ逃避した。途中、本屋にも立ち寄り、スペイン語のラジオテキストを購入。しばらく本屋をぶらつく。

昼過ぎ帰宅すると、作業する人も食事に出かけていた。

ホッと一息していると午後の作業が始まる。どうにか基礎の工事は5時半ごろ終わった。フェンスは難しいところを除いてほとんど終わったようだった。明日、午後来るとか。明日でやっと解放される。

先日工事をするとアサちゃんの3女にTELした。工事は家にいるものが気分的にくたびれる。アサちゃんが元気な頃、家の手直しで何度か大変だったと思うと3女に話した。3女はアサちゃんは元気だったとしきりにいう。

3女が出産したときアサちゃんは大阪まで手伝いにいった。その年齢は3女の年齢を遥かに超えているという。3女は東京にいる孫の手伝いに行く元気がない、と。

だからアサちゃんは元気だった、と。

アサちゃんの青春はアサちゃんの夫が亡くなってはじまった。75歳から足を骨折する87歳までがそうだった。家事などもすべてアサちゃんがやってくれた。その間、皆と同じようにどこへでも出かけた。杖もつかずに…。すべては持病がなかったことにもある。

3女は到底アサちゃんのように95歳までは生きられそうにないと笑っていう。

その後、3女の夫の話になった。酸素がとれて元気だという。聞くところによると担当医もこれまでの患者で途中酸素が要らなくなった人の経験がないとか。酸素を必要とする人は死ぬまで離せないと。それが必要としなくなった。その理由がわからないとか。いいことなので理由はわからなくてもいいのだが…。

ともあれ、何とか明日で作業は終わりそう。一安心!

またいつものペースでさあ行動開始!やっぱり家の中より外がいい。

2011年11月20日日曜日

「国際交流・協力の日」に思う

今日は「『国際交流・協力の日』一緒に世界へ踏み出そう!」という事業に参加した。会場は平和公園内にある国際会議場。多種多彩な催しの中から、広島市立大学国際学部の公開講座「多様な中東・イスラム世界を学び・感じ・つなぐ」を聞いた。

イスラムに関しては中国を除いたどの国よりもその世界に興味がある。その底辺にはものめずらしさがあると思う。この言い方は問題があるかもしれないが…。

3人の先生が講演された。そのうちの2人の話を聞いた。はじめの先生オマール・ファルーク氏は使用言語が99%英語で日本語はほとんど話されない。テーマは「イスラム世界を横断する:ナイジェリアからマレーシアへ」。英語はネイティブでなく速度は遅い。おりおりイスラムの国名が出る。聞いている人は年齢的には高く、学生など若い人もいた。男女比は断然男性が多い。

イスラムの中心はアラブに限らず世界中にムスリムはいる。その教えは生き方のことであり、さまざまな民族的・文化的背景を持つという。ムスリム世界のさまざまな国や地域に見られる多様性を非ムスリムの人たちとの共生について話す。宗教や習慣が違っても同じ人間として交流し協力する可能性を考えよう、と。

レジュメは英文のみ。そのもらったレジュメを見ていると次々出る国名から内容すべてはわからなくても少しは何を言ってるか理解できた。

次の話は日本人の女性の湯浅正恵国際学部教授。テーマは「私にとってのパレスチナ」。

パレスチナとイスラエルの問題は難しい。今日の話は先生自ら経験された話でよくわかった。この話の中心人物はミトリ・ラヘブというドイツ人の牧師さん。現在パレスチナのベツレヘムでクリスチャンとして活動されている。この牧師さんは2005年、日本全国を行脚していた。その年の8月6日の前日、広島で宿泊場所がなかった。原爆の日を前に全国から人が集まる広島で当然ホテルは満杯。そのとき同じキリスト教徒の今日の講師が自宅に宿泊させた。これがきっかけで講師はパレスチナに関心を抱くようになる。

講師は9歳のとき親に連れて行かれた原爆資料館での記憶に、夾竹桃、アウシュビッツ、原爆というキーワードが頭にあるという。それが成長するまで拭い去れなかった、と。

牧師と出会った翌年の2006年以降毎年パレスチナに出かけている。そのベツレヘムにベツレヘム国際センターが建っている。それはその牧師の活動でミレニアムにできたという。

そこには“Salaam”“Shalom”があった。前者は英語の“Peace”で日本語で「こんにちは」。そこには正義があり弱者を救済し、その秩序から平和になるという。その底辺は「広島の平和」だというのである。

後者は憎しみに屈しないこととか。ジオサイドの反対語でスペーシオサイド(社会的空間の抹殺)で先の牧師は「死ぬ前までを生きる天国を作る」ことをパレスチナの人に教えているという。パレスチナの現状からいつ死ぬかもしれない若者を案じての策らしい。

講師は自身の希望は中国電力の上関の祝島の原発反対と戦っていくことだという。それは福島の原発にも通じるという。平和と“Salaam”の戦いだと。弱者の立場から考える平和(サラーム)を求めるという。それには広島の平和を世界へ発進できると…。

パレスチナについて少しは理解できた。それでも平和問題に深く頭を突っ込む気持ちは持っていない。ただ単にイスラムに関心があるだけ。今日の話で少しはそういうことに関心をもてばいいのかもしれない。あまりにも難し過ぎて…。

2011年11月19日土曜日

『中国「反日」の源流』

『中国「反日」の源流』(岡本隆司 講談社、2011年)を読んだ。筆者の岡本は京都府立大学文学部准教授である。

筆者は愛国が反日を意味するようになった事実上の出発点を1905年とした(227p)。それはくしくも中国各地で起こった反日デモからちょうど100年目にあたる(2p)。それを解き明かすために現代までつづく日中関係を論じている。

個人的に中国近代は関心がある。その意味でも、いつもとは違って、さらに丁寧に関心あるところを記したい。

本の構成は下記のようであった。

プロローグ
第一部「近世」の日本と中国
 第1章 東アジアの十八世紀
 第2章 統治のしくみ
 第3章 明から清へ
 第4章 マクロな動向
第二部「近代」の幕開け
 第5章 十九世紀をむかえて
 第6章 西洋近代との邂逅
 第7章 開港と開国
 第8章 動乱の時代 
第三部 近代日中の相剋
 第9章 近代日清関係の始動
 第10章 日清対立の深化
 第11章 「洋務」の時代
 第12章 愛国反日の出発
エピローグ

一般的に反日の要因を「口をそろえて指摘する長期的な要因は、江沢民総書記時代から愛国主義の鼓舞と反日教育の徹底である。」と筆者はいう(5p)。それには1989年の天安門事件のあと、国内の引き締めと同時に、政権への求心力を高めようと、愛国を煽り、その手段として反日を強調した。そしてその教育自体は今尚再生産されているという(5p)。

この辺りは先日の渡辺利夫氏の話しと変わりない。

筆者は、反日はそれが原因ではないという。「反日は潜在的に存在し、もっと根が深いものだ」とした(6p)。それゆえ、これまで書かれていない、「反日」の原風景を描写しつつ、その深層構造をさぐること、「反日」をひきおこし、容易には終息させないメカニズムはどこに由来するのか、その起源を明らかにすることを本書の目的とした(7-8p)。それは日中の全体史を描き出すことになるという(8p)。

筆者は中国を称して「中国はわからない。」という(16p)。

確かに中国に足を踏み入れれば踏み入れるほどよりいっそうわからなくなってくる。

そのことを筆者は「端的にいってしまうと、権力のありよう・パフォーマンスが、日本とは違うということである」。「全く異質だ」という(17p)。

筆者のいう異質は、先日講演で聞いた渡辺氏のそれとは違っている。渡辺氏は民族の多様性を日本と比べて異質とした。

筆者はその異質性を先のギョーザ事件を例にあげてその異様な権力のありようを異質とする。

「反日」を理解するには中国を理解する必要があるとした。それには17世紀から見直すのが捷径だろう(18p)。

17世紀として日本では1600年の関が原の戦いがある。18世紀の終わりから19世紀の初めにかけてが、近世から近代への転換期とした。日本は江戸幕府であり、中国に君臨していたのは清朝である(23p)。

軍事面では日本は農業社会から自生した武力組織で清朝は狩猟・遊牧的な武力組織である(24p)。

孫文の時代、中国の人民は「家族主義」と「宗族主義」はあっても「国族主義」(ナショナリズム)がなかったと筆者はいう(33p)。日本人では内藤湖南の言葉を引用して、孫文と内藤の2人が「反日」と「嫌日」を代表していたという(34p)。当時の中国の政治統治を「刑名」と「銭穀」とし、「人の命と財産を、強制的にかつ、合法的に奪いうる、という権力らしい根幹の部分しか、統治が存在しえていなかった」(35p)。

すなわち、清代の「帝政中国」は「治者と統治者」とが「一つの法的・政治的共同体」をなさない遊離耕造だった(37p)。

日本は為政者が民衆の生業・生活に関知することはほとんどなく、民生のケアや統制は「家族」「郷団」、地域社会まかせの「小さな国家」だと内藤湖南はいう(37p)。

筆者はこのような日本と中国の権力統治のあり方の違いを明朝の体制から論じている(38p)。

明朝政府を社会と国家は遊離した経済と政治の乖離をあげる。それには日本との貿易の「倭寇」を典型とした(50p)。「倭寇」という現象で日本との経済的関係を不正な密輸にしたて、騒乱を生み出した最も根本的な原因とした(50p)。この社会と国家の遊離構造が「反日」の思考と不可分だとする(50p)。

19世
紀になると社会構造は「鎖国」があり、それは「西洋の衝撃」に対する日中の姿勢は対蹠的だった。それは以後の日中関係、「反日」を形成する動因理解になっていく(102―103p)。

日本の「鎖国」は経済面からいうと埋蔵貴金属の涸渇によって、中国からその特産品を輸入しえなくなったことを意味する。その経済過程は「脱亜」と表現されることもある(103p)。

アヘン戦争についてはアヘン戦争を以って中国近代を唱えることに筆者は異を唱える(119p)。そのアヘン戦争がなぜ中国で起きて、日本で起こらなかったのか。それは日清ともに、麻薬のアヘンは禁制品だったにもかかわらず、中国ではアヘンが蔓延し、それが戦争の原因になった。日本では禁制品が禁制品であり続けたその違いにあった(120p)。

西洋の資本主義がアヘンを売りつけるという世界市場形成の意義と構造が問われる。さらに中国では禁制品が禁制品たらしめないしくみもあった。広州域内にいる中国人ブローカー「窯口」と湖南省、江西省の密輸武装集団で死をも恐れない「会党」の集団がおり、政府権力の把握しきれない非合法的な中間団体がネットワークを張り巡らせてアヘンを密売した(122p)。

この事態を重くみた道光帝は1838年林則徐を起用してイギリス人からアヘンを没収して焼き尽くし、アヘン戦争につながった(124p)。アヘン戦争の敗戦により中国はイギリスと南京条約を結ぶ(125p)。これは「西洋の衝撃」でできた近代的な新体制だった(125p)。

これに対し日本の「西洋の衝撃」は徳川体制を終焉させて明治維新をもたらす。その衝撃の反応が中国は部分的な改変だったが、日本では全面的な変革に帰結した(131p)。そこには流動性と凝集製の差異がある。

清代中国を間隔領域の大きい、流動性に富む柔構造とすれば、徳川日本は凝集的な、間隔の少ない構造である剛構造であった。そのため「西洋の衝撃」を受けとめるだけの構造を作るため日本は一新する必要があった(133p)。

それは日本史では「開国」であり、中国史では「開港」であった。この違いは漢字の違いだけではなく歴史過程の違いにも当てはまる。こうした国(全体)と港(一部)のギャップが、やがては日中の対立を深め、「反日」をもたらす(133-134p)。

日本の「明治維新」は中国でも当時の年号をとって「同治中興」と呼ぶ。前者は体制の変革であり後者を内乱の平定としている(135p)。

清朝に敵対する洪秀全の太平天国の乱、曾国藩の湘軍は共に湖南省の有力な武装中間団体をリクルートした軍事勢力であった。湘軍が太平天国を滅ぼすまで10年かかり多数の死者を出しても社会変革は起きなかった。こうした中から勝利者として淮軍が残り李鴻章が清末最大の実力者に上り詰めた(143p)。

李鴻章をはじめとする「督撫重権」(清朝の制度である地方大官の総督・巡撫の現象を称す)で、従来よりも地方大官の裁量・発言権が大きくなった(149p)。筆者はこの「督撫重権」の時期を清末とした。

清末中国と明治日本のギャップの違いを一身に体現して「反日」の態勢を目に見える形で作った人こそ李鴻章だった(152p)。

清朝の日本観について筆者は「日本とはすなわち『倭寇』だというイメージが先行し、まずこれを軍事的な脅威としてみる、という思考様式があった」という。これが「反日」思考の原型とする(163p)。中国側の対日意識は伏流と存在し続け、日中双方は19世紀半ば「西洋の衝撃」を迎える(164p)。

李鴻章は明治政府と日清修好条規を調印4ヵ月後、台湾出兵を行う。清朝に「属」する台湾の武力侵攻により日清の対立は深まった。1874年、日本政府は大久保利通を北京に派遣して和平交渉をした。イギリス公使ウエードの調停で清朝側が妥協した形で交渉は妥結した(178p)。

1860年代から1894年の日清戦争までを中国史で「洋務運動」時代という。「中国語で中国近代史の史実・事件を『運動』とよぶ場合、しばしば成果を十分におさめることのできなかった歴史事象をさす。」という(195p)。

この「運動」について「成果を十分におさめることのできなかった歴史事象をさす」とは知らなかった。「太平天国運動」「変法運動」「義和団運動」などある…。こんなことここに書いていいのだろうか!?

さらに「洋務」が「夷務」の言い換えだとか。西洋人が「夷」の文字を嫌ったために「洋」を用いることになったとは知らなかった(196p)。

そのうちの最も重要なものとして、軍備の近代化、軍需工業およびそれと関連事業の創設推進などがあり、そのスローガンは「自強」であった。この「自強」を目的とする「洋務」運動の展開は李鴻章の公的生涯と軌を一にする(196p)。

日清修好条規の1874年の台湾出兵、1879年の「琉球処分」で李鴻章は「中国永遠の大患だ」と断じた。李鴻章は日本を仮想敵国として北洋海軍の建設をはじめた(198-199p)。

「洋務」を支持する人士は旧習墨守の打破、西洋文明の導入を正当化するため、国の伝統文明が本であって、西洋の近代文明は応に過ぎない。その導入した西洋の事物で自強を達成してこそ、伝統を守ることができると主張(201p)。これが「中体西洋」論である。

李鴻章が目指したものを獲得するには「官民懸隔」の構造を「君民一体」につくりかえなければならなかった。それは梁啓超らの「変法」を唱える人も同じであったがそれをする能力も意志もなかった(212p)。

李鴻章は西洋化を脅威的なペースですすめる日本を脅威と見なした(212p)。

筆者は清末中国の内外の安定は、「督撫重権」と「海防」が支えており、そこには李鴻章の役割と事業が重要であったという(220p)。日清戦争の敗北は、北洋海軍の潰滅と李鴻章の失脚であった(220p)。

その後清朝は秘密結社の義和団と結びつき、1900年列強に宣戦布告して義和団事件となった。その義和団は日露戦争の導火線となる(222-223p)。

日本が「満州」はじめ、中国の利権に固執し、勢力を扶植しようとすればするほど、日本に対する中国人の反感が増幅する構図は1905年にはじまっていると筆者はいう(225p)。1905年は日露戦争のときである。

1928年の山東出兵と済南事件が虐な那をらしめる、「暴支膺懲」の声になった(227p)。

その後の1931年の満州事変、翌年の「満州国」建国から15年にわたる「抗日戦争」が勃発した。そこに日本こそが中国の「主権」の侵奪者、民族主義の主敵と化した。その結果、愛国が反日を意味するようになったと筆者は述べ、その反日の源流は1905年であるとする(227p)。

エピローグとして筆者は李鴻章と同い年である勝海舟の「支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る」と言い放った言葉を取り上げる。そしていま現在の日本人・中国人も勝海舟ほど「支那を知る」洞察力をもった人はいないという。

筆者は現在日中の間に存在する「反日問題」は歴史問題よりももっと深刻な問題だという(233p)。歴史認識は「一方が他方を一方的に『正しく』認識するのではない。互いが互いのありのままをみつめなおし、その姿を尊重する。」、それには皆で努力するしかないと警鐘をならす(235p)。

2日連続で雨が降った。塀の工事も延びた。特別の予定もなく家でこの本と格闘。引用ばかりのブログになってしまった。それにしても中国はまだまだわからないことばかり…。

2011年11月18日金曜日

幼馴染と…

昨日新米をもらった幼馴染から朝早くTELがかかる。今朝は白菜をあげるという。もらうのはいい。だが食べる量には限度がある。食べられないので自分の家で保存するように話して電話を切った。

電話を切っても何か忘れ物をしたような気分で落ち着かない。カレンダーを見ても何の予定も書いていない。しばらくパソコンで遊んでいた。その途中、大きな忘れ物に気づいた。

今日はアサちゃんがいなくなって9ヶ月目になる。それに気づくとすぐ、さっき電話をくれた幼馴染にTELした。

今朝は雨。作業する人は雨だと来ないといっていた。一日フリーだ。アサちゃんの墓参りをした後、会おうというと、一緒に墓参りに行くという。互いの墓地は同じところにある。

持参する花は今年初めて咲いた菊の花にした。幼馴染と我が家で合流し雨の中、墓に参った。

道中、久しぶりに通る道を2人してキョロキョロしながら歩く。世代も変わってどの家も様変わりしている。まさか、墓参りを幼馴染とする…など考えてもいなかった。山の下のほうにあるアサちゃんの墓に着いてそう幼馴染に話す。共にずいぶん年齢を重ねたように思えた。

1人で墓参りするときはいつも涙が溢れる。今日は2人。さすがに涙は出てこない。

幼馴染は昨年お父さんを、10年前に同級生の旦那さんを若くして亡くしている。話しをすると、親の死よりも旦那さんの方がさみしさは大きいという。その点に関しては全く想像がつかない。

その話を聞くまで親を喪うことが一番哀しいことだと思っていた。

そのため10年経ても旦那さんの骨は家においているという。

墓参りを終えるとどこか食べに行くことにした。隣町に住む幼馴染は候補店をあげる。隣町まで歩く途中、中華に決めた。

店に着くと11時過ぎなのに開店していた。初めて入るお店だった。広くてとても綺麗。店に入るとき以前外から見たときは階段でスロープはないと思っていた。今日店内に入るとき階段の奥にスロープがあった。

ちょっと驚いた。アサちゃんを車椅子に乗せていたとき、歩いていけるお店は連れて行ってあげようと思っていた。いつもめずらしい所へ連れて行ってあげようと思っていた。

今日のお店は階段のため連れて行ってあげれないとばかり…。それなのにスロープがあったとは…。

そう思ってブログに投稿しているうち、久しぶり涙がとまらなく…。すべてはもう遅い…。

2011年11月17日木曜日

『早大院生と考えた文章がうまくなる13の秘訣』

今朝の塀の作業は午前7時45分開始。相変わらず早い。先ほど作業する3人におやつを出した。あとはゆっくり本を読む。

最近よく読む近藤勝重の本についてブログに投稿。なぜこの人のエッセイを読むようになったのかは覚えていない。

近藤勝重のエッセイは文章に人柄が出ている。そのため読むのかもしれない。

今回は『早大院生と考えた文章がうまくなる13の秘訣』(幻冬舎、2010年)を読んだ。

またいつものように気になるところをここにメモしたい。

「文章は『はじめに言葉ありき』ではありません。『はじめに体験ありき』です。体験化が言語化を迫るのです。」(44p)。

筆者は同じことを体験しても人が違えば体験もみな違うという。

「いい文章とは、さんざん考えましたが、結局は自分にしか書けないことを、どんな人でも読めるように書く。これに尽きるんですね。」と井上ひさしの文章を引用して述べている(47p)。

「日記であれ、手紙であれ、人間は文章を書くことをとおして自分を見つめ、考えを深めていくものです。」(59p)。

「『〇〇へ行った』というその〇〇に応じて五感(視、聴、嗅、触、味)の一つひとつ、つまり見たこと、聞いたこと、嗅いだこと、ふれたこと、味わったことをたずねてみるわけです。」、と親が子供に尋ねるそのやり取りで子供は答えを口にするという。この時の親子の言葉の流れが、文章を書くときにもいえると筆者はいう。すなわち「書きたいそのことどう思うかより、そのことを五感がどう受けとめていたかを探ってみる。五感の反応を思い出すことに努めるわけです。」と(84-85p)。

「文章を書くということは脳の長期記憶に蓄えられているおびただしい数の体験情報をどう引き出すか、そのことにおいてはありえない作業のようです。脳科学者はその関係性を『ひらめき』という言葉で説明しています。」(89p)。

ひらめきと文章を書くことがどうかかわっているかを脳科学者の茂木健一郎の言葉「創造性は『体験×意欲』で生まれ、そこには日々の小さなひらめきがかかわっていると話していました。」と引用している(89-90p)。

そのひらめきは外からの働きかけでもたらされるとかで筆者はそのはたらきを
1 エッセイや対談集を手に取る
2 街をぶらぶら歩く
3 誰かと談笑する

この3点挙げて試みるらしい(90p)。

「ひらめき」について深く考えたことはなかった。ただ常に思いつくまま、ひらめくままに行動している。これからもそのように…。

五感を刺激することとして「軽いミーハーになって街を歩けって。」(94p)。

その点は大丈夫。充分ミーハーになれる。ただ好奇心あるのみ。良いも悪いもただそれだけが取柄、と思っている。

「人も歩けば題材に当たる。ひらめきも得られる。そしてそれが文章になる。」ともいう(94p)。

書く文章について「情報伝達型」と「自己伝達型」があるという。後者について「現在ー過去ー未来で書いていってもいいのですが、僕は起・承・転・結で書くことをおすすめします。もとは漢詩から生まれた文章構成ですが、自己表現型の文章には『自分にしか書けないことを、誰が読んでもわかるように書くこと』の『自分にし書けないこと』が不可欠です。それにはやはり『転』で意表をつくことができるこのスタイルがいい。…」と(113p)。

比喩について「直喩」と「暗喩」があるという。この2つの比喩について知らなかった。「直喩とは一つの事物を他の事物にたとえること」で、「・・・・のようだ」、「・・・・に似ている」などの言葉を使う。「暗喩」は「隠喩」ともいわれ、「沈黙は金、雄弁は銀」のように直喩の「・・・・のようだ」の言葉は使わない修辞法だという。これらの比喩は類似のイメージで物事の本質を素早く理解させてくれるという(148-149p)。

筆者は文才ある人といわれる谷崎潤一郎など多くの先人の文章を例に挙げて上手に文章が書けるコツを述べている。

少しはそれを見習って…。

2011年11月16日水曜日

窮屈な日々だけど…

今日で塀の工事2日目。昨日は午前7時20分に作業が始まった。今日は8時過ぎからだろうと思ってゆっくり起きた。新聞を取りに玄関を出ると3人と目が会う。その時刻、7時半。今朝も早くからの作業だ。

すぐにブロックを壊し始める。先日作業する人から工事前、ブロックを壊すとき大きな音がすると聞いていた。外から聞こえてくる音はそれほどでもない。外に出てしばらくその様子を見ていた。小さな電器の道具をもち、まるでガラスを切るような感覚でブロックを切っていく。

大きなハンマーのようなものでたたいて壊すと思っていた。そうではなかった。

作業する人たちは30代でまだ若い。道具を操作しない人は、すばやくゴミとなったブロックを次々と片付けトラックに入れている。昼前にはすべてのブロックは撤去された。

その頃、アサちゃんの長女夫妻がやってきた。

トラックはゴミとなったものを捨て、新たなブロックを積んで午後2時過ぎに戻ってくるという。

その間を利用してアサちゃんの長女夫妻は墓参りをした。それを終えると皆で昼食。その後、アサちゃんの孫、ひ孫も我が家に集合する。

その前に自転車に乗って買い物に出かけた。

毎日気儘に過ごしている。今日のように人の出入りが多いと飛び跳ねることができない。窮屈だ!

明日、明後日には基礎のブロックも出来上がり、月曜日にはフェンスもつくという。どうにか工事の見通しもわかってきた。

だが、頼みのアサちゃんの長女夫妻は、元の職場の同僚4家族と1泊旅行だという。また月曜日も用事があって来れないらしい。遊べるうちが花と思えばそれも仕方ない。

次に我が家にやって来るときは塀もきれいになっているだろう。

不自由な日々が続く。その間は家で篭城して本を読むしかない!?

2011年11月15日火曜日

こうして一日が過ぎ…

今朝起きてまだ間もない頃、チャイムがなる。なんともう塀の工事の人が来ている。その時刻、午前7時20分。

今日から工事が始まると知っていた。それがこれほど早いとは…。今日の午前中でブロックの上の撤去を終えると聞く。外に出てみると3人の人がもう作業をしている。今日出たゴミを午前中に竹原まで運ぶので急ぐらしい。

ゴミと聞いてもう10年以上も使っていない石油1缶と物干し棹など一緒に持って帰ってもらう。

ブロックの上のものを撤去してもらうと台所はこれまでと全く違ってとても明るい。気温もどんどん上がる。今朝はこの秋一番の寒さだ。はじめてエアコンをつけた。それなのに何もつけない台所は27度もある。

いつもいる部屋は17度。なんとその差は同じ家なのに10度もある。

午前9時ごろ作業は終わった。

ゆっくりしようと思っているとまたチャイムがなる。今度は先日陥没した道の舗装だという。先日の業者はそれに1日かかるといっていた。ところが今朝の業者は1時間で終わるという。

結局終わるまでは2時間経っている。

今日は火曜日。だが今日のフルートのレッスンは先の発表会の振り替えで休み。そのため午後は暇だ。今日の工事の予定が午前中早めに終わったので、隣町に住んでいる幼馴染にTELした。遊びに来るようにという。午後その家に出かけた。しばらく話していて近くの河川敷を歩く。夕方なのに大勢の人が犬を連れて散歩したり、歩いたりしている。幼馴染もよく散歩するという。

その人と別れて家に着くと5時過ぎなのにもうあたりは暗い。

夕飯の用意を…と思っているとTELがなる。米子に住んでいる人だ。この女性とはアサちゃんの夫が亡くなった年の夏に行ったパキスタンで知りあった。もう21年前に。ツアーは成田からの出発でたった7人。添乗員はハンガリー人。うち女性は彼女と2人だった。

旅の目的地は桃源郷フンザ。毎日雪山をいただくナンガバルバットを皆で寝転がって眺めて…。今思い出してもすばらしい景色だ!

そのときの添乗員の言葉を思い出す。米子の女性とは6歳の年齢差がある。男性添乗員は「早く結婚して下さいね」とさとすようにいったことを。今もって2人とも独身だが…。

知り合って長いその人と定期的に会っている。というよりも「横浜」を応援するために野球観戦で広島にきたときに会うのだが…。ところが今回は違っていた。

京都で開催されるウオーキングに参加しようという。20キロの歩行とか。

その人は奈良などの関西方面のウオーキングによく出かけている。ネパールのトレッキングにも…。本格的に歩く人だ。

久しぶり関西にも…と思った。だが前泊しないといけない。日程的に塀の工事と重なって…。残念!

会社リストラ後、その人と大山近郊を歩いたことがあった。その日は2人ともペンションに泊まって…。

ところが歩きくたびれてペンションで飲んだビールでひどく酔いが回って…。2人して部屋の中で足を高く上げて…。もう足がだるくて…。くたびれたあとで飲むアルコールは厳禁とよくわかった夜だった。

今年中に一度会おうといって電話を切った。久しぶり米子に…と思ったりする。

2011年11月14日月曜日

『嫌われ者の流儀』

堀江貴文 茂木健一郎『嫌われ者の流儀』(小学館、2011年)を読んだ。

最近の本の題名として『〇〇力』などがよく使われる。ところがこの本のようにこれからは『…の流儀』が流行るのだろうか。

本のタイトルどおり、表紙に写る著者の2人はどう贔屓目に見てもいい人に思えない。多分、著者自らそれを見て一番人相の悪い写真と思うのではないだろうか。この本のタイトルにふさわしい写真をわざと選んだとしか思えない。

だが本を読んでいくうち、堀江はそれほど悪事を働いた人に見えなくなるのはなぜだろう。ふとそう思いながら本を読んだ。

プロローグ~空の星を見上げては、茂木がコメントを寄せ、エピローグは堀江がこの本を締めくくっている。

茂木はこの本で世間でいわれる「嫌われ者」を擁護する。その底辺には「決して体制側に無反省には立たない」、「自分の感覚を信じる」ことにある(1p)。

本書は対談形式である。茂木は対談相手の堀江を「インターネットとともにやってきた新しい経済の文法の下では、少数派、異端者こそが次の大きな波を創り出す」と述べる(4p)。

それには「既得権益者や、既成の秩序の側に立つ者から見れば、嫌われ者ぐらいのほうがいい。いや、嫌われ者でなければ、新しいことなどできやしない。だからこそ、若者は、『嫌われ者の流儀』を学ぶべきだ。そして、嫌われても、嫌われても、根拠のない自信と、新しい時代への確信と、無限に尽きることのない愛をもって、どんどん頑張って欲しい。」という(4p)。

その例として堀江がいるという。その堀江に対して「日本の社会には、もう少し辛抱強く、堀江貴文さんの存在を温かく見守って欲しかった。そうしたら、放送と通信の融合など、さまざまなことの展開が、違っていたかもしれない。」という(5p)。そのために「一見『敵』に見える人が、その懐に飛び込んでみれば実は恵の泉だったといういうことは、しばしばあるのである。歴史的な再評価は、どうしても必要だろう。」と(5p)。

そして「塀の向こう」に行く堀江に対してオスカー・ワイルドの『獄中記』を読むことをすすめる(6p)。

茂木は対談の中で自身の一生の課題を「クオリア」の問題とする(17p)。それを「今の脳科学の世界や常識的なやり方について、ものすごく反発しているんです。そこで自分のやり方を通したい。」と(17p)。そのためには勝ち続ける必要があるという。本の注によると「クオリアとは、感覚的、主観的な経験に基づく独特の質感。」とある(15p)。

堀江は勝ち続けるために、新しいことをやり続けていったほうがいい、と。それをすすめると世間は厳しくなる、と(18p)。それを茂木は「新しいことをすると叩かれる」と述べている(20p)。

それは世間からの嫌われ者になるというのだろう。

対談の中で茂木は堀江のいい面を「すごくイヤな人に会っても、『この人は僕にとって悪いやつだけれど、絶対にいいところもあるはずだから、そこを探して褒めよう』って。」話すのを「なんだ…ホリエモン、すごくいい人じゃん」と述べる(42p)。

堀江は昨年夏(注、この対談時点)の選挙特番を見て池上彰を気骨のある人だったからこそNHKを退社せざるを得なかった…という(90p)。それは「要するに嫌われ者がその流儀を通せるような社会じゃなきゃいけないってことなんだよな。」と嫌われ者の流儀を述べる(91p)。

その流儀を通している人として、坂本竜馬、益川敏英、フリージャーナリストの上杉隆などを堀江はあげる(92p)。

堀江は勝ち続けることについて「みんながルールに精通するまでは、僕は当然勝ち続けますよね。みんなが詳しくなって、僕も負けるようになると次のゲームを考えて流行らせてまた勝つ!」という。そのやり方を堀江自ら「ずるい」といわれたという(131p)。

今回の逮捕劇も彼流のやり方が通らなかった。そのことを世間は認めなかったということだろう。

堀江はその上を行く人物を村上ファンドの村上世彰にたとえる。「あの人はすごい。世の中、なんでも自分が勝てるゲームのルールに変えちゃうもん。」と(131p)。

茂木は対談も佳境に入ると堀江をニーチェのいう「超人」にたとえる。「堀江さんが、うらやましいと思った人に勝つために正面から努力するっていうところは、僕は本当に人間としてそれが正しいとよくわかるもの。」だと(133p)。

その底辺を茂木は「僕が尊敬する人、好きな人って、詳しく調べてみるとみんな嫌われ者なんだよ。」とその例としてニーチェをあげて述べている(133p)。

堀江は国家が幻想を与えすぎたことを「安定することなんて不可能なのに、安定しているという幻想のもと、変わることを拒む。新しいことにチャレンジしない。チャレンジする人や成功した人を引き摺り下ろそうとする。そこで安定しているという偽りの安心感を得ている。それが今の日本だと考えて仕方ないんですよ。」と(154p)。

それを打破するために堀江は大きな成功体験を見せつけることが契機になるという。その方法として「民間のロケット打ち上げ事業を成功させることによって実現させたいんです。」と(156p)。

3・11後のテーマのひとつとして堀江は「人間がいかに自意識過剰で、自分の物差しでしか物事を判断できないかという事実を、ひとりでも多くの人に自覚してもらおうっていうのがあるんです。」としてツイッターをあげている(184p)。

堀江が茂木に興味を持ったのはテレビでなくツイッターの書き込みにあるという(188p)。

堀江は震災後の日本を「260年続いた徳川幕府が黒船によってガラガラと崩壊していった幕末と本当に似ている…」という(202p)。だからこそ日本は頑張ろうと…。

茂木は時代の寵児からさらし者になって獄中に送られる境遇の堀江の人生に対する考え方を聞いている。堀江は「ライブドアという会社の社長としての責任は、社員に対しても株主に対しても果たしたと思うので、それらに対しての責務や義務感、オブリゲーションからは解放される。うん、もっと自由に生きられるとは思います。」という(223p)。

世の中を変えるものとして堀江は政治ではなくテクノロジーをあげる(224p)。そしてその理想をグーグルに求める。「俺も就職したい!」と思ったほどだとか(232p)。

それは「グーグル・マーズの火星探地図を映した媒体があって、それがぐるぐる回っていたりする」とか。グーグルの本社には会社の受付から遊び心いっぱいの仕掛けがあって、これは楽しい職場だな…」と(232p)。

堀江は夢としてグーグルみたいな研究機関と会社が一緒になっている戦前の理化学研究所を作りたいという(235p)。そして日本を変えていきたいと…。

エピローグで堀江は茂木に対して「2009年夏、私のブログのコメント欄に『堀江もツイッターくらいやってないのか、終わったな』と書く者がいて、私は“そんなことねーよ。それくらい勿論チェックしてるぞ”と速攻で登録を済ませた。そしたら瞬く間に数千人のフォロワーがついた。現時点で70万人近いフォロワーを抱えることになったが、そのタイムラインの上に茂木健一郎が現われたのだ。」という(252p)。

その茂木との対談について“天下のNHK”の仕事をしている者と刑事被告人との立場の違いを考えた。だが嫌われないことを最優先して空気を読む者が多いのに茂木は違っていたという(251p)。

そして収監を前にした堀江は「この本のタイトルにもある『嫌われ者』というのは、いわゆる本音でズバズバとモノを言うために、時には相手の痛いところを図星で突いて、“嫌なやつ”だと思わせてしまう人間のことである。」とする(252p)。

本音で語って場の空気を乱すことを「ディベート」だとした上でそれが「嫌われ者」になるという。「空気を読まずディベートをガンガンやるような人間はマスメディアが率先して『嫌われ者』のレッテルを貼り、社会からスポイルしてしまう。」と自らを語る(253p)。

最後に読者の皆さんもそう人になっていかないと日本は崩壊してしまう可能性が高いと…(254p)。

何かコトを成し遂げようとする者は人に好かれようとするのでなく、あくまで人と違う「嫌われ者」でなくてはいけないのかもしれない。そして「嫌われ者」こそが社会を変革していく人なのかもしれない。凡人には到底真似のできないことだけれども…。

朝からこのブログを投稿してるともうお昼近くになってしまった。今からプールに行こうと思っている。帰ってからの昼食は2時になりそう。

2011年11月13日日曜日

忙しそう!?

昨夜、しばらく会っていない友人に電話をした。上海蟹の季節…と。彼女とは長く中国語を一緒に習い、中国へも何度か行ったことがある。

中国語の人たちと、この時期、恒例行事として上海蟹を食べていた。ところがそれもアサちゃんの介護で儘ならない年が長く続いた。今年は久しぶり…と思って電話をした。

ところが朋友はブログを読んでるようで「忙しそうなので…」という。どうも声をかけにくいという意味らしい。

ブログを読んでもらう人から忙しそう…といわれることがある。とはいってもアサちゃんの介護をしていた時と比べるとそれほどでもない…。

以前行っていた中華料理店は広島から撤退した。2人して「行かなくなったからね~」という。そのお店は中国語の人たちと会う時、必ず利用した。店長も顔なじみで紹興酒を差し入れてもらったりして…。

それが次第に行かれなくなり店もなくなった。今、そこはホテル直営の飲茶の店になっている。当然、蟹はない。

話していると中国も富んできて上海蟹の需要が増えているという。互いにネットで調べて後日会うことにした…。

今日は区民文化センター界隈で区民まつりが行われた。午前中、先日からメールでやり取りしているスイミングクラブの女性とバザー会場で会った。その女性のグループはボランティアで出店している。そこでケーキ類を買おうとすると、先に用意してくれたケーキをもらってしまった。これでは本末転倒。並んでいるケーキを2箱と手作りの巾着袋を買い、しばらくそこで立ち話をする。

挨拶代わりにメールで何度も聞かれた年齢を告げて…。そして久しぶりに復帰するスイミングクラブの話を聞く。そしてブログのことも…。

アメリカにいるその人のお兄さんにもその人のことを書いたブログを知らせたとも話していた。

この人も「忙しくしてるね…」という。むしろ彼女のほうが仕事とボランティアで精力的に動いている。

次に会うときは豆乳鍋で…。

2011年11月12日土曜日

「秋の調べ」から…

地元の中国新聞社と京都新聞社主催の「秋の調べ」、「広島学+京都学」のパネルディスカッションを聴きに行った。といっても第2部に予定されていた「広島学+京都学」は聞かずに帰ってしまったけれども…。

平和公園に隣接する会場の新聞社のホールは秋晴れの土曜日というのに満員であった。

第1部の「秋の調べ」は京都在住のフルーティストである園城三花、ヴァイオリニスト、チェリストの3名のアンサンブル。メインの園城は緋絣の着物で演奏する。袖は小袖で帯は半幅帯だとか。

これまで色々なフルーティストの演奏を聴いてきた。着物姿で演奏する人は今回が初めてだった。そういえば先日、呉で行われた古澤巌と東儀秀樹も途中、和装で演奏していたが…。

他の2名のヴァイオリニスト、チェリストはドレスだった。だがその2人も着物の生地でできているドレスだという。

いずれにしてもクラッシック音楽のわりにはマイクを使用していたし、演奏曲目も聴き応えのあるものではなかった。

やはり「無料」のものは偏見があるのかもしれない。そういう目で見てしまう。

それにがっかりして第2部の始まる前、会場の外に出た。

気を取り直して平和公園の中を歩いて本通りまで行く。途中の原爆ドーム周辺はさすがに行楽の秋。観光客でにぎわっていた。公園から入る本通り入り口付近は以前には見られなかった観光客目当てのお好み焼きの店や付け麺の店が軒を並べている。

さらに本通りを行くとここも以前とは違っている。場違いなところに来たような感じがしてくる。様変わり…を感じる。そこを抜けて八丁堀まで歩く。ここまで来るとやっと気分も落ち着いてきた。

街の空洞化が叫ばれている。買い物客の商圏が市の中心部から外れて周辺の大型商業施設に流れているという。

今日少し街中を歩いただけでそれは「当然なことだ!」と思った。落ち着いて買い物ができる雰囲気とは程遠いような気がして…。

2011年11月11日金曜日

狭い庭に…

今朝早くから塀の業者2人がやってきた。その業者は来週から始める塀の工事の道具など置いて帰る。何といっても我が家の庭は狭い。置いて帰るモノをどこにおくか考えていたが何とかそれもクリアして…。

その庭に今年、初めて、一つだけレモンが実をつけた。

業者も帰ったので部屋でゆっくりしていると、1枚の葉書が届いた。来春、退職される恩師の研究会と懇親会の案内である。それには3月下旬と決まっていた。

9月にこの案内をもらったとき、まだ相当日数があると思っていた。そのため先生への「思い出の記」も全く考えていなかった。

今朝、正式に日程が決まったこともあり、午前中はパソコンに向かってそれを入力する。

入力するといっても若い学生ではなく社会人として修了した。そのため何を…としばし考える。それでもどうにかいい案が浮かんできた。一気に書き上げる。

その提出先は学部時代の恩師である。その恩師から学部の卒業パーティは出席するよういわれていた。それにもかかわらず出席しなかった。出席できなかったというほうが正しいかもしれない。それが今回退職される恩師のときの修了パーティは短時間ながら出席した。

気持ちの上で何か今回の世話人である先生に対して後ろめたさが残っている。

それもその時の我が家の状況でそうなってしまったことなのだが…。

いずれにせよ、退職される先生も、世話人の先生たち3人も所属する研究会のメンバーである。

この研究会も修了後1度だけ参加し、あとはご無沙汰している。来春、久しぶりに参加する。

「思い出の記」を今日、学部時代の恩師に送信した。卒業パーティーに参加しなかったこともあり、会ったときゆっくりお話ししたい旨、一筆書いて…。

さてさてどんな人たちが集まるのやら…。まだ先のことだけど楽しみだ!

2011年11月10日木曜日

「広島学」から

今朝の地元紙の経済面に「広島学」の著者、岩中祥史の記事が掲載された。それには先に開催された地元紙の交流会での講演の要旨が書いてある。

それによると広島の県民性の特徴として3つ述べている。

その1つは「外へ」。明治から戦前にかけてハワイなどへの海外移民が盛んだったことをあげている。情報網が盛んでなかったその当時、ゼロから外へ飛び込んでいったという。

2つ目は「前へ」。常に明るい未来をみて、試行錯誤を繰り返すという。

そして3つ目は「初めてが大好き」。挑戦をいとわない歴史があるという。国産の万年筆、ヨーグルトは広島から生み出したと。

そういえば新商品を売り出すとき試験的に広島から発売する、と聞いたことがある。広島でヒットすれば全国展開できるということだろう。

この岩中氏の講演を明後日、聞きに行く。講演会のタイトルは広島・京都文化フォーラム2011「京都学+広島学」。その2部に氏はパネルディスカッションのひとりとして参加している。

この講演会を申し込んだきっかけはその1部に行われる「秋の調べ」でフルーティストの園城三花ほか2名のコンサートを聞くことだった。

だが今朝、新聞に掲載されたこの記事を見て2部も参加しようかと思ってきた。

まだ「広島学」を読んではいないけど…。

2011年11月9日水曜日

頑張っている!?

昼前、女性の知人から電話がかかってきた。

その知人と話したのは梅雨時、岩国の自宅に伺ったとき以来である。その時はお昼をご馳走になり、吉香公園の菖蒲を見に連れて行ってもらった。

電話で話していると、最近フルートの演奏を聴き、その音色に惹かれたという。

フルートといえば途中、中断したこともあるけど今でも続けて習っている。

知人は来月も、旦那さんと少し関係あるフルーティストの演奏を聴きに行くとか。そのフルーティストはプロではないという。

話の中で「頑張ってるね!」といって励ましてもらう。だが「あんまり頑張らないように…」ともいって…。体を心配していただく。ブログを読んでもらっているようで頑張っているように思えるらしい。

その知人とは以前にたった4ヶ月、県でバイトした時に知りあった。県の元職員さんだ。それなのに今でもこうして声をかけてもらう。今月末にはまた岩国の自宅に遊びに来るようにと誘われた。

人からよく元気だといわれる。じっとしていないのでそう思われるのかもしれない。

黒柳徹子さんがよくTVなどで話している。それは楽しいことをしていると病気にならない、と。確かにそう思う。やることがストレスとなれば体も参ってしまうだろう。

〇〇さん、今月末、またお邪魔します。楽しみです!今日は電話ありがとうございました!

2011年11月8日火曜日

フルートの仲間と…

フルートのレッスンに行ってきた。先週からレッスンの順番が1番目から2番目に変更になる。そのため次のレッスンの人と話をすることがある。でもその人は以前から知ってる人ではなく先週知り合う。

その女性と話していると水泳のインストラクターをしていたことがあるという。当然、その人は競泳の自由形、平泳ぎ、バタフライ、背泳となんでもできる。なかでも「バタフライがいいよ」という。

プールで平常の昼間、バタフライで泳ぐ人は余りいない。それでも時々泳ぐ人を見かけることがある。そのときは、プールは水しぶきがあがり大きく波を打つ。しばし見とれてしまう。

「バタフライは泳げない」とその人に話すと習ったらいいという。クラブに復帰するので…と思ったが、やはり夜、クラブに行くのは辛い。もともと運動神経が鈍い。平泳ぎの「正しい足」もできない。当然平泳ぎは泳がず、泳ぐのはもっぱらクロールと背泳のみ。

これからは以前と違って時間もある。練習すればいいのかもしれない。それもさてさて…。

今日のフルートのレッスンで先生から「レ、ミの♭」の装飾音のミの♭の音について注意を受ける。右手の薬指が左横のキーに触れ、右手小指を押さえてもミの♭の音が綺麗に出ない。レッスン中、右手の高高指と薬指を開く訓練を教えてもらう。少しやっているといい音になる。今夜から入浴の際、その訓練が欠かせなくなった。

レッスンを終えて外に出ると次にレッスンを受けるフルートの仲間2人に出会った。4月からレッスンを再開した。だがその仲間たちとビルの下で会うことはなかった。時間帯が違っていて…。それが今夜は偶然出会った。

1人目はお母さんが入院され、大変な様子だ。その気持ちはアサちゃんを看ていたのでよくわかる。何もかも痛いほどよくわかる。「忘年会で会おう」と話していると、スペインへ一緒に行った知人を見つけた。しばし3人で立ち話。

「忘年会」の季節がやってくる。久しぶりの忘年会だ。もちろん出席する。気が置けない人たちとワイワイいうのが好き。特に今年はそう思う…。アサちゃんに悪い!?まあそれもあまり気にしないで…。楽しみにして…!

2011年11月7日月曜日

年齢!?

土曜、日曜と2日続けて雨が降った。秋の日の雨の割には気温は高い。

そんな雨の日、先週の豆乳鍋の話からスイミングクラブの人と頻繁にメールを交換する。きっかけはクラブの先生の新メールアドレスのことである。その人を通じてアドレス交換をお願いした。

その人はスイミングクラブの女性の中では一番ファイトがある。30代はじめに2児の子供を遺して旦那さんと死別された。それでも立派に子供さんを育てられ、来年3月の退職までずっと仕事を続けられている。

先日の里山ハイキングでその人の家辺りを歩いて降りた。はっきりした家はわからなかったけれど、そのことをメールで伝えると

「今日、〇〇山へ登られたとのブログを読ませて戴きました。本当に体力があるのですね!〇〇さんの心臓は丈夫なのですね!」と返事が返ってきた。そして

「日頃、自転車で動きつけてるとは言え、実年齢よりも体力年齢の方が若いですね。」といわれてしまった。

さらに「〇〇さんの年齢は『100年働いたから、もう働かない…』と言われて、今もって年齢不詳ですよね。」と。

メール交換のたび年齢について書いてある。

「100年働いたから、もう働かない…」の件は覚えてないけど、口癖のように「100」とかいう数字はいうことがあるので多分そう話したのだろう。

人から年齢を聞かれるたび積極的にはいわなかった。

スペインに行くときも誘ってくれた知人は年齢を知らなかったようだった。別に隠していたわけではないけれど…。やってることがどうも子供じみているので年齢云々について聞かれるのかもしれない。

それよりも前のメールでは「昨日は、皆で『〇〇さんを呼ぼうや』と決定しました。」と豆乳鍋の参加を呼びかけてもらった。有難い!きっとその時は皆から年齢についていわれるだろう。

その人は7つのボランティアをしているとか。昨夜は地元の社会福祉協議会の理事もしてるようでスペイン語の教室の事務方の手伝いもするとメールに書いてあった。近くならば習いに行くのだけど遠すぎる。

次の日曜日は我が家の近くで区民まつりが開催される。その人もボランティアでバザーに出品するという。

そのとき少しは話ができるかもしれない。さてその話は…。

2011年11月6日日曜日

4年半ぶりの再会

昨年、ウクライナの留学生と結婚した社会人大学生時代の友人とランチを共にした。といってもまだ若いその友人にご馳走になったのだけれど…。

食事場所は街中にある「キヨ コラージュ」という名の小さなフランス料理店。店内はお客で一杯。それでも予約していたそうでゆっくり食事が出来た。 

ランチのお店キヨ・コラージュ
その友人とは4年半ぶりの再会。

県立美術館で開催されているウクライナの至宝展を見たとき、急にその人のことを思い出す。すぐにメールをすると今日会うことが決まった。

友人の旦那さんは現在、博士課程後期在学でありながら地元の音楽大学の講師をされている。音楽大学といえば今回スペインへ旅行した際の引率者がその大学の先生だった。また、スペインといえば市内某教会の神父様がいる。なんと友人はその神父様の前で昨年結婚式を挙げていた。

この話を聞いてその偶然に2人して驚くばかり!

昨年その人の結婚報告のあとスペインへ新婚旅行に行く話をと聞いている。今回スペインへ行ったこともあり、会ったときすぐその話になった。話の中で神父様のこともわかってきた。友人の旦那様はカトリックの信者で、その神父様とも顔なじみらしい。そして友人のご両親もカトリックの信者だという。

結婚式の写真も見せてもらった。クラシック・バレーをしていただけあってどの写真もグラビア写真のように綺麗。友人曰く「〇〇%の修正が入っている」と。実際はもちろんそうではない。

スペイン語を習う予定だと話すとその人もウクライナ語を習い始めたという。ウクライナ語の文字がキリル文字のため、それを覚えるのが大変だとか。でも大丈夫。中国語も今でも忘れないように習っているというし…。

その人とは親子ほどの年齢差がある。それでも全くその差を感じさせないほど話が盛り上がってしまった!あっという間に時間は過ぎる。

そういえばスペインへ2週間の新婚旅行中、旦那様は4キロ太ったという。全くお酒は口にしないとか。それでも料理の量が日本と違うから太るのもわかる気がする。

今日のランチは2人してワインで乾杯。

また見せてもらった写真には旦那様のイラストと文字が書いてある。大きな体にとてもかわいい絵と文字。絵の方を本職に…と思わずいってしまうほど上手く描けている。友人もそう思うと…。

一番強く感じたのは旦那様の専攻が日本の歴史だけあって戦国武将が好きらしい。毎週日曜日夜8時は「江」を看ているという。

今度会うのはいつだろう。また話を聞けるのを楽しみにして…。今日はご馳走様でした!

2011年11月5日土曜日

『ライフプランと生涯学習』

昨日の「小夏日和」と打って変わって今日は一日雨。そんな中、先日いただいた本のうちの1冊を読んだ。それは舛井一仁著『ライフプランと生涯学習』(敬文社、1997年)である。

筆者は現在、弁護士、大学教授、著者として活躍されている。

この本は筆者自らの人生が浮き彫りにされており、文面から書く側の迫力が読む側にも伝わってくる。

またいつものように気になる箇所をここに記したい。

本の構成は大まかに分類すると「ライフプラン」と「生涯学習について」から成り立っている。

「ライフプラン」については、我が状況にも当てはまる。会社側からの合理化である。筆者はそれについて何も恐れることはないという。「仕事がないから合理化すると会社はいう。私に言わせれば、仕事がなければ仕事を作ればよいのである。人のいやがるところには仕事はたくさんある。汚いところ。きついところ。他人を快適にする環境は、不快な環境で働く人がいるから成り立っているのだと思うと、何だか元気にならないか。」と(34p)。

この「他人を快適にする環境は、不快な環境で働く人がいるから成り立っている…」は当たり前のことなのに言われてみて初めてそのことに気づかされる。

「異文化から学ぶこと」について、そのアプローチの方法を「好きな人は好き」という気持ちで付き合うという(71p)。このキーワードも「異文化」も「自文化」もすべてこう表現すれば当てはまること間違いない気がする。

どうあっても「好きなものは好き」だし、「好きな人は好き」だ。すべてモノ・コトは「好き」からはじまるように思う。

筆者は異文化から学ぶためにネットワークをひろげることをあげている。それには「ギブアンドテイクの良好な関係が続けられるように、常に自分の目標や能力を高め怠らないことである。」と述べる(80p)。

その能力を身につける方法の一つに自らが情報発信基地になればよい、と。そしてその情報に価値があれば十分な効果をもたらすという(89p)。

ささやかながら我が情報発信はこのブログという手段である。それがきっかけで筆者と知り合うことができ、いろいろと教えを請うことができる。そう思えば、筆者のいうようにこれも「メリハリのある人生を演出」となるのかもしれない(90p)。

次に「生涯学習」については社会人になってからの勉強を述べている。自分自身を振り返っても「生涯学習」といえると思う社会人大学入学がある。学んだ6年間は筆者のいうように「自分の生活、人生を豊かにする」ことになった。それについて筆者は「教養を高め、知的刺激を自分自身の脳に与え続けることが前向きな人生にとり不可欠であるからである。」という(99p)。

確かにそう思う。「前向きな人生」になれると思う。我が社会人大学生として学んだ経験は不思議と何でもやれば出来るという気になってきた。それはどんなモノ、コトに対しても気後れしなくなることにもあらわれる。

さらに筆者は社会人としての勉強の大いなるメリットの一つを「気分転換」にあげている(104p)。

社会人大学生になる前まで広島国際センター(財)主催の「ひろしまアジア塾」で学んでいた。自宅に帰る道とは反対にあるその会場に仕事が終わって週に一度通っていた。その講師は地元の国立大学の教師である。通ってくるいわゆる生徒(塾生)もさまざまな職種の人であり、年齢も、性別も違っていた。会社ではお目にかかれないような地位の人もいた。だが学ぶときは全く同一条件。刺激を受けた。見知らぬ世界にはじめて入った気持ちになった。そこでの人とのふれあいが後の社会人大学生へとなっていったと思えば貴重な体験だったと思う。仕事帰りの疲れは全くなく、むしろ鳩が小屋から飛び立つように、勤務時間が終わるとその会場に勇んで通った。8年間は決して長くはなかった。

筆者が述べているように、会社とのオン、オフははっきりさせていた。ほとんど残業はしないようにして…。

さらに筆者は「それぞれの目的、立場で集うのが社会人講座の特徴である。そしてそこには思いもよらない全く新しい異脳の集まり=空間が出来上がることになる。これが本書の最大のテーマの一つである『ライフププランにおける予期せぬネットワーク』のベースとなるものである。学びつつ、そこで見知らぬ一郡と出会い、刺激を受け、新たなネットワークを作る。肩書きや地位や収入や所属団体の評価が全く役に立たない場が出来上がる。その個人の実力だけがネットワーク維持の命綱となる世界なのである。」と社会人のアフターファイブの勉強の効果について述べている(124p)。

それには残業のために「5時以降は絶対に仕事のために自分の時間を供しないことである。迷うな!宣言して実行あるのみである。」と(198p)。5時以降云々は職種によって異なると思うけど、それくらいの覚悟で臨めということだろう。

それほど社会は非情であり、中高年の合理化という悲哀もあるではないかと…。全く同感!悲哀を味わった!だが、それが社会人大学生として学ぶ動機付けになったことも確かである。

筆者はこれからの人生は問題意識を持つことで勉強も可能になると述べる。意識を持続させることが可能なエネルギーはいつまでも待っていてはくれないと…そういって筆者は文を締めくくる(202p)。

本の大半は筆者の母校である早稲田大学のエクステンションセンターなどを例に挙げて専門的な勉強面について書かれている。だがここでは、自分に当てはまる箇所(いわゆる生涯学習)の面について書いた。

読後感は何かしら元気が出てくる。頑張らねば…と思えてくる。さらに我が人生もこれから…と思う。どんなことが未来に起こるかわからないけど一生学び続けたい、と思っている。

舛井一仁様
貴重な本、本当にありがとうございました!
大事にします!

2011年11月4日金曜日

里山ハイキング

明日予定していた里山ハイキングを急遽変更して今日行ってきた。目指す山は我が家から歩いていける。だがこれまで登ったことはなかった。その山は一緒に登る知人に聞くと市の広報誌に掲載されていたという。

最寄の駅まで知人を出迎え、そこから出発点まで行った。山の出発点のお寺に着くと、住職が出てこられた。住職は最近この山への登山客が増えたと話される。知人はそれを聞くと、リュックから持参した市の広報誌を見せると住職はそれを見て納得した様子だった。

寺の住職が市の広報誌に掲載されたことを知らないのも無理はない。寺のある町はかたくなに市に合併せず単独で町制を維持している。

話しが弾んだところで住職に出発点である寺の前で写真を撮って貰った。ブログに載せるので住職の写真も…というと拒否された。人のよさそうな住職だったが…。聞くところによるとその寺は3年後、新たな寺に建替えられるという。

寺の裏手を通って山道を歩く。山道といっても石段の道だ。けっこうきつい。そう思っていると、子供の声がする。近くにある幼稚園の園児が先生に連れられてその石段の道を登っている。多分年少組みだろう。

近づくとかわいい女の子が両手を握ってきた。手を放そうとしない。手をつないで歩いていると知人は前のほうにいる。園児が手を離すと子供たちよりも先を歩いて登った。

少し行くと年長組みらしい園児がいた。かなり上まで来ている。どんぐりを拾いながら…。

それにしても、園児たちもえらいけど先生たちもよくここまで…と思ってしまった。この子供たちはきっと元気な大人になるだろう。

頂上に行く途中で一人で登っている人に出会った。よく一人で色々な山を登られているようだ。

頂上付近に近づいてきた。2箇所いくらもがいても登れないとこがあった。大きな岩が立ちふさがっている。足の長さが短いため岩に足を置くところがない。知人に両手を引っ張ってもらってやっと登った。

どうにか頂上に着いた。ネットで調べると頂上からの下界の眺めは360度のパノラマだとか。そういわれるだけあって360度見渡せた。近場なのにすばらしい景色だ!だが少々ガスがかかり、はっきり見えるとはいいがたい。頂上では蝶々がたくさん乱舞していた。

あとから登ってきた人にあの険しい岩山を…と聞くと回り道があるという。道理で…と思った。

その人は山に詳しいらしく山で出会った5人はその人の話を聞いた。知人も下山の参考にと聞いていた。その人の格言「人は山に登れば(歩けば)長生きできる」。2人してその言葉をブログに投稿するため忘れないように…といいながら。おかげで今日は少し寿命が延びたと笑って…。

その頃時間も正午頃になった。お弁当を食べる。知人は缶ビールを2缶もってきていた。1缶もらって飲んだ。山で飲むビールは美味しい!ところがそのビールをふとした弾みで転がして…。残念!

しばらく休憩して下山になった。来た道とは違うルートで下山した。下山した駅からJRに乗らず、登り始めた駅まで河川敷を歩いた。河川敷を流れる川には鯉が泳いでいる。他にも鴨が…。さらに行くと川の中で海老を取っている人もいた。海老で鯛を釣る!?とか、鯵も。これ本当の話。

今日の行程時間5時間半。それにしてもよく歩いた。また大変暑かった!なんと今日の最高気温25度。52年ぶりの気温だと天気予報でいっている。

休憩するたび頭から汗びっしょり!知人はそれを見て風呂上りの顔だと笑う。それも仕方ない。別に塗りたくっているわけではないのでいいのだけど…。それにしても暑かった!タオルハンカチを2枚持参したけど、次回からはタオルを持参しよう!

さてさて明日の足は…。水泳で全身動かしてるから大丈夫と思うけど…。家に帰るとすぐにシャワーを浴びた。今日もよく眠れそう!

2011年11月3日木曜日

小春日和の日に…

このまま寒くなるのかと思ったらそうでもないようだ。小春日和の陽気に誘われ自転車で外に出た。この小春日和、天気予報によると気温が25度になると沖縄では小夏日和というらしい。はじめて知った言葉だった。

スーパーで買い物を済ませ自転車に乗ろうとすると、先日県北へコスモスを見に行った幼馴染と出くわした。しばらく立ち話をする。お昼もとっくに過ぎている。隣接する区民文化センターのレストランに入った。

そこでランチを食べながら話しをする。最近幼馴染は太ってきたという。そのため自転車に乗らず、歩いているとか。みた所太っているようにはみえない。ところが本人にいわせると太り気味なので何もしたくないという。悪循環では…と話すとじっとしていないモノをうらやましがる。

外に出るのが億劫になっているヒトにいくら外出しようといっても話しは平行線。また会おうといってその場を離れた。

家に着くと、先日の陥没の箇所付近にあるマンホールをさわった跡が伺えた。何か工事を…と思って家の中に入った。

しばらくすると、外でマンホール付近をアスファルトで固めている。チャイムが鳴って出てみると工事の説明をする。

今は緊急用の工事で後日、マンホールを高くして地面も少し上げるという。

我が家の塀の工事を道の舗装が終わったあとで…と思っていた。それなのに…。

我が家の家の周りはドラッグ・ストアの建設や公共道路の工事の音で当分静かになりそうにない…。それも街がよくなるのならば仕方ないことかも…。

2011年11月2日水曜日

本のプレゼント

 本を2冊プレゼントされた。ただ人から本をいただくことはよくあること。ところが今回はそうではない。まだ会社に勤めていた頃『ビジネス知恵セミナー』(日本実業出版社、1993年)を読んだ。その本は10数名の執筆者によって書かれている。その本の中の1人の執筆者の文章に特に心ひかれ、その箇所をコピーし手帳に挟んで20年近く持っていた。

 そのことをブログ開設後の次の日に投稿した。それは「人に元気を与えるためには」と題され、それについて10か条書かれていた。今日いただいた本はその本の著者ご本人からである。送ってくださることは事前に知らせてもらっていた。それでもいただいた本を見て、もうびっくり!

 それは『ライフプランと生涯学習』(舛井一仁 敬文堂、1997年)と『知の現場』(舛井一仁 他20名 東洋経済新報社、2010年)である。ブログにその人の文章を投稿したことがきっかけで、著者の眼に留まった。そしてメールの交換もさせてもらっている。それにしても大変有難い!まだ読んでいないけどしっかり読ませていただきます。

 モットーとする舛井一仁氏の言葉を再度ここに…。

<人に元気を与えるポイント>

1 声を大きく、よく話しをする
2 健康である
3 手紙でも、ファックスでも、思い立ったらすぐ出す
4 悩んでいる人に気を使わせないようにする
5 人脈を豊富にし,質を高く保つ
6 不条理を感じるものがあれば常に怒りを忘れない
7 自分なりのネットワーク・ルートを完成しておく
8 金銭的に少し余裕を持っておく
9 機会があれば旅のかおりを届けられるようにしておく
10 自分の目標を持って突き進む

2011年11月1日火曜日

今日からフルートのレッスン開始時刻が1時間余り遅くなった。それでもいつもと同じように家を出て、広島駅前にあるデパートに立ち寄った。その目的はハイキング用の靴である。

そのデパートの9階はスポーツ用品売り場。靴売り場に直行すると店員がいた。店員に目的の靴を話すと2種類色違いのものを教えてくれた。いわれるままその靴を買おうとすると、売り場の奥に入っていく。だが、そのサイズの靴はないという。店員がいいといったから買う予定だった。それなのに在庫がないとは…。少々呆れてしまった。

ずっと以前、市内のハイキングクラブに誘われて入っていたことがある。運動は得意でないが歩くことは嫌ではなかった。ときどきそのクラブの行事に参加していたこともあった。それが次第に他の事に関心が移り山へ行くことも少なくなっていく。

ところが最近、知人から山行きに誘われた。話しを聞いていると知人も同じクラブに入っていたことがあるという。これを聞いてその偶然に驚くばかり。

今日買ったのは最初に店員が教えてくれたもう一つの色のほうである。

これから秋も深まり紅葉シーズンとなってくる。靴が淋しがって泣かないようせっせと履かなくては…。