2011年12月1日木曜日

「哀しみにも終わりがある」

12月になった。今年を振り返るにはまだ早い?我が家は新年早々大きな出来事があった。それも何とかクリアし、新たな年を元気で迎えられそうだ。

午後、デパートに出かけ、アサちゃんがお世話になった人たちにお歳暮を贈る。先日、米子でお世話になった友人にも宿を借りたお礼を込めて…。

以前、伊集院静の本のなかに書いてある「哀しみにも終わりがある」というメールをある人からもらったことがあった。

伊集院の本はこれまで読んだことがない。ところがそのメールでどの本にその言葉が書いてあるのか気になった。すぐに図書館でそれらしき本を2冊予約した。その1冊目の『大人の流儀』(伊集院静 講談社、2011年)にこのことが書いてあった。

この本を予約したのは7月。やっと今、読むことができる。

この言葉は本の最後に書いてある。妻である夏目雅子のことを書いている最後に「親しい方を亡くされて戸惑っている方は多いでしょう。私の経験では、時間が解決してくれます。だから生き続ける。そうすれば亡くなった人の笑顔を見る時が必ずきます。最期に、数年前に観た映画でのチェチェンの老婆のせりふを紹介します。『あなたはまだわかいから知らないでしょうが、哀しみにも終わりがあるのよ』。」(189p)

7月といえば、今ほど気持ちも落ち着いていなかった。その辺りをブログを読んで「哀しみにも終わりがある」と教えてくださったのだろう。

また、この本の中におもしろいことが載っている。それは「まったり」と言う言葉。この言葉は広島ではあまり使用しない。筆者は広島の隣の県の山口県の人。だからこの言葉を使用していないのだろう。というのは同じ本の中の「料理店と職人に一言申す」から「名文家と評判の文筆家でも、こと食に関しての文は、そこに卑しさを感じる。ましてや文章を話言葉と同程度に考えている輩が食に書いたものについて書いたものは酷い。“まったりとした味わいだ”――まったりとは何だ?相撲の技か。あれはとったりか。どういう意味だ。“ソースと食材がハーモニーを奏でてる”――ソースは楽器か?…」(116p)と書いている。

この文章は読みながら笑ってしまった。確かに「まったりとは何だ」である。

先日の米子の友人に話すと教育TVの番組でその言葉をよく使用しているので知っているという。

日本は狭いようで広い!?何年も生きてきて知らない言葉が多すぎる。外国語の前にまず日本語を学ばねば…、そう思ったり…。

0 件のコメント:

コメントを投稿