2015年4月30日木曜日

『111歳、いつでも今から』

『111歳、いつでも今から』(後藤はつの 河出書房新社、2015年)を読んだ。サブタイトルは「驚きの絵とエッセイ」。表紙には「73歳から画家デビュー、100歳超えてニューヨークへ… 笑顔のスーパーレディーの絵とエッセイ」とある。中身を読まなくても本の内容が分かりそう。ところが中を見ると色鮮やかな絵がずらりと並ぶ。子供のころを描写している。

新聞記事でこの本を見てすぐに図書館へ予約。2か月近くたって順番が回ってきた。早い順番もわかってくる。絵が多いため読むところは多くない。初めて新聞でお目にかかった時、111歳なのに真っ赤な衣装をまとっていたこと。これにはびっくり。その意味が読んでいてわかる。

★ぶつかり事故の大怪我から赤い服を身につけるように、赤い服は元気の源、自らを守る知恵でもあります。100p

★子どものときも、若いときも、100歳を超えた今も、女性であることを、めいっぱい楽しみたいです。105-106p

★「ボケないために」と始めた絵は、100歳を前にお休みしました。代わりに脳の活性化のためにと、百人一首を覚えました。114p

★2012年に東京スカイツリーが完成したときも、すぐに上まで上がりました。108歳の時のことです。116p

★106歳でニューヨークへ。世界の中心で展覧会を開きたい!体調不良で頓挫。でも挑戦には胸を張りたい。80p

★「103歳で米国・西海岸へ。16日間の大旅行!」 この旅を計画・実行した息子の昭さんには、一つの強い願いがありました。100歳でもう「描くことがなくなった」と絵から離れたはつのさんに、もう一度絵筆を握ってほしかったのです。77p

★他人目線でなく、自分の物差しで良し悪しを決めること。それが父から受け継いだ心根です。73p

★絵のテーマは故郷の妙高山と赤倉温泉の暮らし。幼いころの思い出をあふれるように描きました。36p

★73歳、一から始めた絵にいつしか夢中に。もう歳だから、もう遅い、そんなことはありません。12p

★「決して上手ではないの。心に浮かんだ光景を自由に描いているだけ」というはつのさんですが、96歳での作品「明治42年の遠足 苗名の滝」がついに、現代童画展、文部大臣奨励賞を受賞するに至りました。3-4p

何もやらなければ人の輪は広がりませんが、何か行動し始めると、新しいご縁と出会うものです。37p 

★「できるかできないかではなくて、やるかやらないかね」はつのさんはさらっとそう言います。4p

生家は赤倉温泉旅館と豆腐屋とか。それで芸大創立に貢献した第2代学長岡倉天心の別荘「岡倉山荘」に豆腐を届けている。「天心おじさん」と呼んで親しんでいたらしい。それにしても100号の大作を描いている。長生きする人は生き方も素晴らしい。話す言葉にも重みを感じる。見習うべき人はたくさんいらっしゃる。頑張らんといけん!太線部分は特に実感!そう、じっとしていてはダメなんです!!

2015年4月29日水曜日

♪Tchaikovsky 交響曲第6番第一楽章♪

Tchaikovskyの♪ロミオとジュリエット♪。何とか曲に仕上がる。次にさらうのは♪Tchaikovsky 交響曲第6番第一楽章♪。これは「悲愴」。その中からフルート用にアレンジしてある。大変だけど練習、練習。1,2年というかもっと長くチューニングの「ㇻ」を意識して練習していた。これが上手くできればきっとフルートもうまくなるはず、そう思って練習していた。最近その効果が出たのか、あることに気付く。先週、レッスン前に先生にそのことを話す。それこそが「喉を広くする」ことだった。何でも思ったことを口にする。しかし、気づいていてもうまく表現できずにいた。

20年以上も習ってやっと先生が話されていた意味を理解する。かなり気づくのが遅い。とはいっても、ひとたび気づけばかなり自分のものにするところはある。先生はこういうことがこれからも出てくる(わかってくる、壁に突き当たる)と話される。それもよくわかる。やっとフルートを吹く楽しみもわかってきた。根気だけは人並み(?)にある。頑張ろう!

レッスン後、面白いモノを見せていただく。先生は何か月前からか新たなことを習われているそうだ。その中で知ったオルガニータ。これを昨日見せていただく。予め入力した楽譜をオルガニータにはせて手で回すとオルゴールに似た音が出る。以前働き始めたころ、テレックスが出現。ファックスやコンピュータになる前の事務機器だった。伝送でテープが送付されてきてこれを伝票にしていく機械。オルガニータを見てこれを想像した。五線譜に代わるパンチの空いた穴。これがおたまじゃくしの代わりだろう。先生が手で回されると音が出る。しかし、これもどこへ置いても同じ音がでるとは限らない。音も場所を選ぶ。先生はフルートも吹き方でいい音が出ることを、これで教えてくださったのだろう。ちょっとした工夫がナニゴトにも関わっている。
オルガニータ
 レッスン後、歩いて広島駅に向かう。川岸に沿って歩いているとカープの外国人投手J夫妻とすれ違う。その夫人のブログを読んでいる。英文でもわかりやすい文章。投手と出かけた先々をブログに写真でアップしている。この道は観光客が通る道ではない。球場付近に住んでいるはず。球場は駅に近い。昨夜は出番でなく、束の間の午後の休日を散歩していたのだろう。それにしても派手なプリントのバミューダ姿。夫人はサングラス。背が高く、顔中ひげ面。すぐに気付く。
この道ですれ違う
 声を掛ければよかった、と思いながら川岸を歩いていると見知らぬ人から声を掛けられる。道に迷われたんですか、と。初めて通る道。車の通らない橋を通り抜けようかどうしようか迷っていた。考え事をして歩くと人から見れば不審者になる?
市内を走るカープ電車
3,4日前から姪のパスポートの件で気になっていた。昨夜、無事届いたとか。今朝、姪のメールによると遅れた理由が分かったらしい。何と先日までミャンマーはお正月だったそうだ。それで、パスポート申請も遅れた模様。姪は今回の旅行でかなりいろんなことに気を付けている。ただ旅行するだけでなく、いろいろとわかるのもいいこと。出発から帰国まで気を抜かずに、楽しんでくればいい。「〇子姉も暇つぶしに…」と言われてしまった。そう、暇つぶしにどんどん遊ぼう!

 


2015年4月28日火曜日

♪ダステイン・ホフマンにはなれなかったよ♪

 季節は一気に夏。最高気温も25度を超えた。布団も急きょ、薄い羽毛に替える。寒いより暑い方が好き。動きが活発になる。家の中も少しは片付けようという気にもなる。

 今朝のFMはピアニストの小曾根真。月に一度出かけるクラシック音楽の演奏会。長く続けているとゲストで演奏するソロの演奏家たちの名前もいつの間にか覚えている。今朝のピアニストもその一人。

 FMと言えば昨日のFM。つのだひろの夕方の番組で1970年代の曲が流れる。そのころは年齢的にも青春真っ最中のはず。しかし、今ほど動いていなかったためか、楽しい思い出はあまりない。ただ会社に勤めて、夜は習い物に明け暮れていた。まだ海外にも出かけておらず、自転車も水泳もできなかった。他にも中国語もフルートも日本画も何もかもやっていない。興味の向かう先が今とは全く異なっていた。そう思うと何でもやろうと思えば可能な「今」が自分にとってはやっぱり青春真っ只中!?というか今の方が毎日楽しい!

 番組で流れていた♪ダスティン・ホフマンになれなかったよ♪。この曲が流行っていた当時はあまり聞き覚えがない。ただ、ダスティン・ホフマンという名前は知っていた。動画で聞くと青春の歌。他にも♪若葉の季節♪なども流れる。歌は時代をあらわす。

 昔に浸っていても何もいいことにはならない。それよりも「今」。昨日は「おとなび」に挑戦。来月、いよいよ堀文子の個展を見に兵庫県立美術館に出かける。その切符を買うために「おとなび」を利用。何事も安くしようと思えば頭も使う。ネットでの予約販売のJR切符。なんとかネットで予約できた。性格が性急すぎるため、すぐに切符を手にしたい。夕方、最寄りJR駅へ自転車でGO~。

 予約番号のメールの携帯電話とクレジットなど持参。メールを見せるとクレジットだけでOKと係りは話す。行きは「おとなび」利用。帰りはJR株主優待券。ところが金額的には「おとなび」が安い。正規の金額の半額以下と安い。こりゃ、どういうこと?

 まあ、何でもいい。手に入りさえすれば。これが利用できるとかなりいろんなところへ安く行ける。ナニゴトも知らないといけない。情報を制する者は社会を制する、とまではいかなくても安く利用できる。


 これを教えてくれた人へ。さっそく利用しましたよ。謝謝!

2015年4月27日月曜日

米子へGO~

午前中、西条での美術講座を受講後、広島駅へ急ぐ。手っ取り早くお昼を済ませようと新幹線口にある「酔心」へ。ところが満席。となりの「むさし」に入る。その前にあるお好み焼きの「みっちゃん」はお昼とあって長い行列。どこでも味は同じと思うけど、ここは好みや人気の違い?ともあれ、ひさびさに「むさし」で食べる。

米子駅行きの高速バスに乗る。シェラトンホテル前まで行き、先ずは乗り場を確認。広島駅周辺は表も裏も駅構内も外もどこもかしこも工事だらけ。いつもの高速バス発着場は工事のためか、いろんなところから発着する。ともあれ高速バスは米子駅到着。ところが到着時刻が予定よりも18分も早い。降車場でじっとしていればいいものをタクシーのり場のロータリーに移動。集合場所を決めておらず、電話番号も控えていない。仕方なく、ロータリー付近で待つことしきり。

車で迎えに来てもらってまずは友だちのご自宅へ。そこでいただく抹茶と煎茶。それには茶菓子もつく。前回も夕飯と思える時刻に、まずはお抹茶…だった。今回も夕飯は9時過ぎ、と思っていた。おなかがすくと思って茶菓子を2個もいただく。ところが、夕食は大山の地ビールへ。前回よりも少し早い午後8時過ぎ。車で真っ暗い道を大山に向かって走る。出かけた場所は大山Gビール”ガンバリウス”。http://g-beer.jp/gambarius/

昨日お昼改めてそのあたりを通ると何とも素晴らしいところにある。大山は伯耆富士と言われ、米子市内のどこからでも眺めることができる。山の頂の雪はほとんどなく、これから新緑の山へと変わっていく。ふもとから眺めると一気に山へ登れそうな気持になる。ところがどっこい、山はそんなに優しくはない。

1日目は午後に広島を出て5時前に米子駅到着。実際にかかる時間は3時間。高速バスもかなり早くなった。高速道路が新たにできたおかげで山陽と山陰の距離はぐっと近づく。その日の夕食は地ビールで乾杯。全国チェーンの居酒屋やファストフードではなく、米子は地元の勢いが強い。スタバも日本では鳥取県だけなかったそうだ。今は鳥取駅にできている。食べ物に関しては広島とは比べられない。美味しいし、安い。おまけに土地が広いためかこの地ビールのお店もまるで外国にいるようかのように広い。ここで出来上がりのビールをいただく。大山の湧き水で作られるのか、ビールもおいしい。4,5種のビールを飲み比べられる。3種類飲んだ。フリードリンクでプラス1000円。料理も地元産の食材で作ってある。フリードリンクもフリータイムだそうだ。

2日目は鳥取砂丘へ。米子から100キロさきにある。広島だと福山あたり。朝食は友だち宅でいただく。砂丘横にある砂の像がある美術館へ。途中にはラッキョウ畑が広がる。父が亡くなって初めて母と出かけたところが鳥取砂丘あたり。宿に着くまで歩いた道の横にはラッキョウの花が咲いていた。季節は秋。今の季節はラッキョウは花ではなく実をつける。砂の美術館に入るとそこはまるで西安で見た兵馬俑の博物館!?兵馬俑は昔の人の作品。ところが砂丘の博物館は現代版。今年は「砂で旅行 ドイツ編 中世の面影とおとぎの国をたずねて」がメインテーマ。各国からの砂の彫刻家が物語を砂で彫る。

砂丘と言えば砂漠が思い浮かぶ。砂漠の研究をしている地元の鳥取大学。この研究施設にも連れて行ってもらう。大学の研究施設。訪問者はほとんどいない。これほどの施設。もったいない。「みんぱく」の小型版と思える閲覧箇所もある。長いこと民博ともご無沙汰。のぼせていた民博にも出かけたいもの。見学していてそう感じる。

帰り道、「かにっこ館」に立ち寄る。鳥取県は蟹の産地。さまざまな蟹が飼育されていた。食べたり飲んだりするところはもちろん費用は必要。ところが大概の施設の入館は無料。これにはびっくり。公の施設のなせる業?

人が住むにはうってつけの米子。何と言っても物価が安い。特に外食が安い。これは住んでいるご本人たちもそう話す。朝のモーニングも安い。広島だとコーヒー代がモーニング代になる。さらに何と言ってもこせこせしていない。車に乗っていても信号待ちがほとんどない。どこのお店も店内が広くゆったりした感じ。外を歩けば大山が顔をのぞかせる。

3日目の昨日は鳥取花回廊に出かける。以前バス旅で出かけたところ。その時は夜の観光だった。出かけたというだけでそのよさはわからずじまい。ところが、春のこの時期、花回廊はこれまた素晴らしいの一言。大山を眺めながら花をめでる。この大自然の中に佇とむほんとうに幸せな気持ちになる。やっぱり自然はいい!これからもどんどん外へ目を向けよう。

地元だからこそ知りえるいい場所に連れて行ってもらった。有難い!楽しい旅だった!

巷ではGWが始まる。姪もGWに外へ出るらしく、「パスポートが旅行社から戻ってこない!」とメールを寄こす。米子からの帰りの高速バスの中で知る。ネパールはもう行かないと言っていた。しかし今回はミャンマーへ行くそうだ。旅行社に確認するように電話で話したけど、さてさて。無事にでかけられますように祈るしかない!
砂の美術館

ドイツのノイスヴァンシュタイン城を模して

美術館入口


鳥取大学の研究施設。特別展だけ開館される?

鳥取大学乾燥地研究センター。無料で見学可能。まるで大阪の「みんぱく」小型版のよう

とっとり花回廊から見る大山

とっとり花回廊

花回廊から眺める大山

同上

花回廊内の道はどこまでも自然いっぱい!

雰囲気のある八郷の里 http://tabelog.com/tottori/A3103/A310301/31003845/

ふもとから眺める大山。ちょっぴり雪の冠

 

2015年4月23日木曜日

「ほんまに、どうかいの~」

昨日から鼻水と格闘する。そのため、プールに行くか行かざるべきかためらう。そのとき、メールが入る。先日、何十年ぶりかで会った同級生からのメール。「頑張っている様子を知り、嬉しかったです。…」とある。これを読んで泳ぎに行くことにする。先ほど1キロ泳いで帰宅。お昼の美味しいこと。そういえば同行した友だちも昨夜、その時の写真をメールで送ってくれた。

ちょっとした人のやさしさで俄然勇気が湧く。同級生なのにまるで親や先生からほめられたような感じになる。有難い!それでも鼻水は相変わらず止まらない。

暇つぶしにカープの選手のツイッターとブログを見る。試合に負けたら負けたで悔しさをにじませる。すべてを自分のせいにして…。これを読むと今度は目から涙が出る。鼻から目から「どうかいの~」というほど「水」が出る。これも年を取った証拠!?この水分補給は明日の大山ビール!?それにしても皆、優しい。米子の友だちも「ドライヤー、用意しとくけんね!」。「ほんまに、どうかいの~。親切じゃ!」。今思い出した。前回お邪魔した時、ドライヤーがなかった。それでドライヤーの話が出た!?

転倒、気絶、手術…100歳で奇跡の復活

「日本初の女性報道写真家で、昨年100歳を迎えた笹本恒子さん。オシャレが大好きで、昨年11月ベストドレッサーにも選ばれ華やかな壇上に立った。しかし受賞の翌日、ひとり暮らしの自宅で転倒し大腿骨を骨折。気絶する。奇跡的に発見され手術を受け、すっかり元気を取り戻した。そんな笹本さんを支えるものはワクワクする心。96歳の時に恋心を告白したと明かす。 」。番組紹介記事より。以下はそのURL。
http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann-tanosiiburogu/archives/51976038.html

昨日の徹子の部屋に出ていた笹本恒子.。以前にも見てびっくりしたけど、今回も驚く。一人暮らしで転倒して、誰に発見されて大事に至らなかったのか。そこのところのテレビを見ていない。気になって動画を検索。何時間も経過していないのに、すでに動画にアップされている。

昨年11月に100歳で大腿骨と左手首骨折。それでも来月初めには退院してホームに移るとか。画面で見る限り、笑顔もあり、応答もはっきりされている。ましてや、病院では飲めないワインもホームでは飲めると話す声も嬉しそう。さらには96歳のときのイギリス人とのワクワク感。聞いていてなんとさわやか。この人が母よりも1歳も多い人の言葉?と思って聞いてしまった。

母は大腿骨骨折をするまで自分自身のことも家のこともすべてしていた。ところがそれも骨折という出来事で親子の関係が一瞬にしてひっくり返る。救急車で運ばれて4か月ほど入院。それから7年後には…。4か月の入院もこちらからお願いして退院させた。この間、夜は病院で寝泊まり。ところがお昼は大学へ通っていたので母に付き添えない。ある日の病院でのこと。誰かに叱られて泣いていた、と看護師から聞かされる。それを聞いて母に確かめるとそうだという。忍耐強い人だった。その母が泣いていたとは…。姉妹で相談して退院を決める。その時、母を最期まで見ると覚悟を決めた。

そのこともあって病院というところが好きでない。なるべくなら行きたくない。それでも最後はお世話になるのも病院。その時までは何が何でも元気でいたい!母も元気なころいつも這ってでも家にいたいと言っていた。この元気、今朝は泳ぎに行くか行かざるべきか、ただいま考慮中。

2015年4月22日水曜日

ご縁

 さらっているチャイコフスキーの♪ロミオとジュリエット♪。音符を見ながら吹くとなんとか曲になる。しかし、いくら吹いてもメロディーは覚えず。ただ音符通りに吹いているだけ。ところが昨日、先生が吹かれると曲の感じがつかめてくる。同じ曲でもこれほど違う?と思わず横で聞いていて驚くばかり。何が違うのか。聞いているだけでわかる。歌い方一つで同じ歌とは思えないのと同じことだろう。なめらかに吹く練習をしよう。

 先日、同級生と再会した。昨日、さっそく、そこで知り合ったお坊様兼歯医者さんから写真が送付される。参加人数を写真で見ると10人。うち女性は4人。それにしても、お坊さんと知り合うことが多い。何故?信心深い方ではないので余計変な気がする。今回知り合ったお坊さんも柔和な人。お坊さんだから皆さん、柔和な顔になられるのだろうか。「お参りを重ね、ご供養をされて…」と写真と同封の手紙に書いてある。お寺での法要が好きでない。塔婆も法要後の翌日に受け取りに行っているほど。罪作りかもしれない。だが、そこまでの心境に至らない。ただ、供養と言えるかどうか知らないがお墓参りは毎月欠かさずに行く。というか、足が自然にお墓に向く。それにしても不思議なご縁がある。

 明後日から足の向く先は米子へ。新緑の季節。大山の地ビールにも連れて行ってくれるとか。これを飲むのも楽しみ!米子の友だちとも長い付き合いになった。ひょんなことで知り合う人たち。不思議なご縁を感じる!お坊さんをまねて合掌!

2015年4月21日火曜日

「今」

雨上がりのすがすがしい朝を迎える。太陽を見ると今日も元気で頑張れそう!

昨日のホリ〇モンの動画。「情報」が大事と話す。そして、「今」が大事と話す。情報発信の話も出る。それにはblogなど毎日続けて発信せよ、と。

blogに関してはこの6年間、旅行などを除いて毎日発信し続けている。ブログ発信は勝間和代の考え方と同じ。もともとブログをしようと思ったきっかけは勝間和代の本による。そして「今」を大事に。この大切さも年々増してくる。若い頃はそんなことは思わず、ただ未来に不安を抱いていた。これが良くなかった。そう気づいてからは、モノゴトにどん欲になる。

過去として真っ先に浮かぶのは年金。昨日もねんきんネットでメールが届く。勤め始めのころ、企業年金も厚生年金も支給開始年齢は55歳だった。ところが実際に受け取るようになったのは60歳。これも65歳に移行しつつある。年金ひとつを見ても未来は予測できていない。やっぱり過去や未来にとらわれず「今」を大切に。ホリ〇モンも話している。誰も今の情報機器の出現を予想した人はいないと。インターネットもWindows95が出現して20年。これからは予想さえしないことが起きる時代。「今」をしっかり生きていれば何も未来を恐れることはない!

さて昨日。合唱の練習日だった。新年度も始まった。会計報告を兼ねた室内でのお花見。ほとんどの人の顔はわかっても名前はわからない。名簿を見て覚えればいいものを、そうしようとしない。いろんなところに出没する機会も増えた。ますます人の名前が覚えられなくなりそう。

合唱後、街中へ出る。先日、水仙を見に出かけた際立ち寄った石正美術館。そこの学芸員が市内のデパートで個展開催中。学芸員の話を現地の美術館で聴いているので親近感もある。新聞で情報を知り、展覧会場へ。ご本人もいらっしゃる。まだ若い。取り巻きも多い。多分大学の同級生だろう。絵は日本画。始めにあるのは椿の絵。先日椿と苺を描いたばかりで関心を抱く。若くして院展にも入選。見るからに聡明さがにじみ出ている人だ。

お天気も良くなった。遊ぶには申し分ない季節。その前に夕方からはフルートのレッスンが待っている。

2015年4月20日月曜日

勝鯉!

今年の4月はまるで梅雨のように雨が降る。今朝も雨。昨年8月豪雨災害を受けた安佐南区は昨夜から避難勧告がでる始末。

暗い話は止めて明るい話題に切り替えよう。雨の中、カープは試合に勝利。広島市民の老若男女が応援するCarp。雨で鬱陶しい季節。カープが勝てばすがすがしい話題の提供となる。テレビも新聞も、さらに若鯉のツイッターも勝鯉の喜びにあふれる。一喜一憂とはまさにカープのこと!?ともあれ、勝った翌日は気分もいい!

ネットで久しぶりホリ〇モンとご対面。近畿大学卒業式での祝辞。いい話をしている。全部は見ていないので、ここに記録して後で見よう。以下はそのURL 。 .
https://www.youtube.com/watch?v=2DTyHAHaNMw
今日はこれから合唱へ。月曜日の朝は忙しい。そして今週は遊びで忙しい。

2015年4月19日日曜日

「やる気、本気、元気」

半世紀ぶり、いやもっと長い年月一度も会っていない同級生と再会する。この機会を作ってくれた友だちに感謝!小学校3,4年生のとき同じクラスだった神童。すっかり立派な紳士になっている。とあるJR駅に10名くらいが集合。早めに到着するともっと早いメンバーがいる。きっとその人、と思って話しかけると違っている。しかし、この人とも話していて繋がりがあった。びっくりの連続。そうこうしているうち後から到着した中にその人はいた。

昨日集まった人たちは学校の創立〇〇〇年に出席する人たち。東京から来広3日間の過密スケジュール。その合間を縫っての再会。これが初恋の人ならば物語になる。ところがそういった淡いお話とは無縁ながらも楽しいひと時を過ごす。そして何といっても、一緒に同行した見知らぬ皆様から何の違和感もなく親切に接していただく。ありがたい。究極は一緒に記念写真にもおさまる。本当に楽しい束の間のひととき、みなさんに感謝、感謝!

はじめに人を見間違えた失敗もあとで一番打ち解けることになる。その人はなんとお坊さん兼歯医者さんだった。関心ある人には結構、突っ込むところがある。旅などで知り合う人にも良く突っ込みが鋭い、と指摘される。先日は日本画の先生にそう言われた。これは自分にとって関心があるヒト、モノ、コトであり、そうでければ突っ込みもない。どこで線引きするのかわからない。だが、いつの間にか話に夢中になっている。

集まった人たちは5年前に亡くなられた恩師のお墓参りをされる。それに同行する。幸いお坊さんもおられる。ここはお坊さんの出番。何と日蓮宗。それもわが家のお寺と関係あるお坊さん。これも話の中で知ったこと。世間は狭い。

数十年ぶりで再会の同級生は東京在住。短い時間、墓地までの道を歩きながらこれまでのことを話し合う。エリートコースまっしぐらで人生を歩んでおられる。しかし、偉ぶったところが全くない。いただいた名刺には〇〇博士とある。今は講演などで日本の技術を若者に教えておられるそうだ。

話の中で驚く。小学校時代の話。お弁当紛失事件があったとか。私たちの小学校時代は戦後からそれほど経ってはいない。今は区役所などが立ち並び、発展した街になった。ここには当時、海外からの引揚者のバラックも建っていた。当時の話は自分自身の体が弱かったこともあり、あまり覚えていない。家のことでも姉と妹は何かあれば昔のエピソードを話す。しかし、これもあまり覚えていない。かなり過保護に育てられた!?

ある時、同級生のお弁当が盗まれる。犯人は同じクラスの人。先生によると盗んだ子の家では食べ物がなかったそうだ。この話をしてくれた同級生は町の教育長の息子。きっと貧乏を知らずに過ごしていたはず。というか世の中すべてが貧しかったから知らないことはないかもしれない。エリートコースまっしぐらの人から聞くこういったお話。

今は皆、裕福になった。どんな人も自分の夢を実現しようと思えば叶えられる時代。同級生の息子さんも夢を追っかけてフィレンツエ在住とか。絵描きをされているそうだ。

短時間の再会。次は地元の〇〇山で、との話も出る。なぜ、どの人もわが地元の山をご存知と思ったら、高校のとき同級生の提案でその山へハイキングしている。偉くなればなったで、いつまでも変わらぬ故郷への愛。故郷の山が懐かしくなるのだろう。20年も住む予定がなく荒れ果てた家。その家のことも気にされる。なんと先のお坊さんと同級生の家は子ども時代、隣同士だったとか、本当に不思議なご縁。

昨日出掛ける前、突如、姪がチビたち3人を連れてわが家を訪問。時間に追われていたので話もできない。ピアノの発表会が終わったばかりとか。そのあと、発表会用の服を着替えてダンスを習いに行くという、何もしてやれず、みなで美味しいモノでも、と食事代を渡すと喜んでくれる。その顔を見ると嬉しい。この話や再会の話をもう一人の東京の姪に電話する。

同級生と言っても足など不自由な人もおられる。すでに亡くなった人もいる。そう思えばこの年まで生きているだけでも幸せ。還暦を過ぎると今までのキャリアは関係なさそうだ。これからは健康が一番。姪はそういって励ましてくれる。確かにそう。

自分を卑下せず、かといって自慢もせず。これまでどおり、自分の体と向き合いながら健康であり続ける。「やる気、本気、元気」、NHK、お昼のふるさとラジオ80ちゃん号の合言葉ではないがこの3つは大事。

昨日の偉い人たちの経歴とは比べられない。それでも、まだまだ体力、気力と元気だけは大丈夫!?ラジオの番組同様に「やる気、本気、元気」で今日も頑張ろう!

2015年4月18日土曜日

広響第348回定演

鳥はさえずり、草木も生える春。今朝はまさにその季節。お墓参りに行く途中、他家の庭の花を根こそぎとっている人がいる。この家の主は先日引越されたばかり。大事に育てた植木は持ち運べないのか主のいない庭にほったらかしにされたままだ。通り過ぎる人はきれいに花をつけたフリージャを根こそぎ掘る。フリージャは黄色だけと思っていた。ところがピンクも赤も咲いている。この2色を見知らぬ人に掘ってもらって庭に植える。

掘った人は墓参りの前に家に戻って植えるように催促する。なぜわが家がわかるのか尋ねると名前を知っておられた。その人の名を聞くと聞いたことがある。近所ではあまり評判のいい人ではない。だが、人の評判もあてにならない。親切な人だ。

自分では知らない人でも相手は知っておられることもある。というか、知らないところで見られていることがある。昨夜もそうだった。広島交響楽団の定期演奏会に出かける。その前に、デパートで絵を見る。予想していたのとは違ってあまり好きな絵ではない。さっさと見終えると定演まで時間がある。早めに会場に出かけ、チケットと交換。開演までの時間、隣のホールにある情報プラザに立ち寄る。ここで本を読むつもりだった。ところが、カープが気になる。携帯のワンセグでカープの試合をチェック。窓際に向かうといい雰囲気。そう思って画面を見つめる。どういっても目が悪い。それを見ていた人がいる。声を掛けられてびっくりするとベトナムへ一緒に行った人だった。その人も広響の会員。一緒に聴こうと話すとダンスに行くという。「ダンス?」「何ダンス?」と尋ねるとダンスをするのでなく、見に行くらしい。この人もいろんな楽しみ方をされている。時に、新幹線で遠くまで出かけ、気に入った催しに参加されたりするそうだ。

さて昨夜の第348回定演。演奏テーマは「シーズン開幕~平和への序章~」。演奏曲目は以下の通り。

♪ベートーベン:序曲「レオノーレ」第3番OP.72b
♪ベートーベン:交響曲第4番 変ロ長調OP.60
♪プロコイエフ:歌劇「戦争と平和」OP. 91からの交響組曲

3曲目の最後のフィナーレは勝利の曲とか。勝利の喜びが大きすぎるのか怖い気さえした曲だった。

そういえば、先日、この楽団に寄付をする。最低の一口の寄付。昨夜出会った人に聞くと三口寄付したらしい。その人は三口でも不思議はない。天下りで第二の人生をスタート中。13年前に無職となった身とは比べようがない。そういって笑って別れる。

演奏を聞いていてもカープが気になる。休憩時間、ワンセグを見ると勝っている。見知らぬ隣の人とカープ談議。一緒に見ていると1点差で勝っている。試合は最後まで怪しいもの。だが、昨日はカープの勝ち。さて今日は如何に!?

2015年4月17日金曜日

箪笥 引き出し 外せない

起床後、顔も洗わずに箪笥と格闘。決着がついたのは8時40分。この間、どれくらいの時間が経っていた?30分以上の経過は間違いない。箪笥の閉まり具合が良くない。詰めすぎてタンスの奥に何か落ちているはず。そう思って箪笥の引き出しを外そうと試みる。だが、両脇に何かがあるため外せない。仕方なく、樋廻を持って取ろうとする。なんと、樋廻までタンスの中に…。次ははたきの出番。だがどうやっても手が入る間口ではない。途中でやめて業者に電話しようと思いつく。ふと、その前にネットの出番。検索すると同じ質問がある。

いろんな質問を3件読む。再度箪笥と格闘。ネットに書いてあるように「黒い」ものが見える。これを引っ張ると少し箪笥が動く。何とか片手が入る広さになる。樋廻をつかむと取り出せた。さらに手を伸ばすと服も取り出せた。ホッとする、と同時にまた偉くなった!と変に感心する。

ナニゴトも人に頼らず。これも大変。しかし、神様、仏様がおられるかどうか知らない。それでも、困ったことが起きるととっさの判断でなんとかなるもの。このときばかりはやっぱり見守ってくださっている!?

話は変わって『文藝春秋』2015年5月号から。久しぶり丁寧に読む。この中の感動した場面を記そう。

・男気じゃない、ただブレないだけです。広島に帰る決断について、「黒田は男気がある」と言われているのを聞くと恥ずかしい限りですが、もしかすると自分が「ブレない生き方」にこだわってきたことがみなさんにはそう映るのかもしれません。171p

・迷ったときは複雑に考えるよりも自分が正しいと思ったことに従って決断する。最終的には、シンプルに決断することを心がける。171p

・これまでの野球人生を振り返っていると、僕は遠い将来の理想像を頭に描くのではなく、とにかく目の前の課題や目標を懸命にクリアし続けてきたような気がします。175p

・プロ野球選手になってからの十九年間はそうした毎日の繰り返しでした。自分ではどれだけ高い山を登っているか分からず、ただひたすら目の前を見つめながら一歩、一歩歩いていき、気がついたら山頂近くまでたどりついていた…。そんな感覚でしょうか?

次は『婦人公論』最新号。萩本欽一、欽ちゃんの言葉から。

・「引かれた分、足すしかない」。忘れたことを悲しむんじゃなくて覚えることを喜べばいいわけよ。

どちらも頂点を極めた人の言葉。その人たちの言葉には強い説得力がある。素晴らしい。

「自分が正しいと思ったことに従って決断」、「目の前を見つめながら一歩、一歩歩…」。この2つはできそうでできない。

「引かれた分、足すしかない」。それを嘆くよりも再度学びなおす。欽ちゃん式の英語の覚え方も本になる予定とか。なんと一日10時間勉強していたとある。やっぱり並の人じゃない。73歳、頑張れ欽ちゃん。頑張るのは自分自身?昨日も頑張って1キロ泳いだ。さて今日は何を頑張る!?

2015年4月16日木曜日

ベトナム縦断6日間の旅

街に「漢字」があればそこはまるで中国。漢字文化圏の国、ベトナム。そのベトナムへ出かけた。2015年1月9日(金)から14日(水)までの6日間で旅の参加者は25名。朝早い広島空港に集合して旅は始まる。

手元に『漢字圏の近代 ことばと国家』(村田雄二郎、C・ラマール編 東京大学出版会、2005年)がある。この本によると、日本語、中国語、韓国語/北朝鮮語、ベトナム語は漢字圏。このうち韓国は「諺文」が「国文」になり、ベトナムは「コックグー(quoc ngu国語)」が漢字を廃してローマ字表記を規範化。こうして近代のいわゆる俗語革命(音声中心主義)が文字民族の「自立」化を導いていく。

今では「漢字」を使う国は日本と中国の2か国。しかし、漢字を廃したベトナムも漢字文化は7割、日本は6割ほどの影響を受けている。(『ベトナム語はじめの一歩まえ』富田健次 DHC、 2001年)。ということで日本よりもベトナムの方が漢字文化の影響は色濃く残る。空港に降り立った瞬間、文字さえローマ字でなく漢字で表記されていれば、そこは中国と見間違えるのもうなずける。

中国もベトナムも共産党一党支配の社会主義国。しかし、この2つの国の違いは大きい。何がどう違うのかは折りを見て調べてみよう。とはいっても、もっと調べたいことがある。それはべトナムはフランスに長く支配され、それから解放された後、アメリカと長い期間戦った。どちらにも勝利したものの、ベトナムのガイドの言葉によると独立後のベトナムは「自分」に負けてしまっているという。

2つの戦争に勝利しても現在のベトナムは遅れていると自嘲気味に話すガイドの言葉。今回の旅で引っかかるものを感じる。気になることはあっても楽しい旅だった。皆さん、旅が好き、人が好き、遊びが好き。この旅が終わっても、その後の遊ぶ(?)計画は旅の夜の反省会で決まっていく。

今回の旅の一番のキーワードは「ちょっと休もうか」。これは旅の紀行文のサブタイトルにしたいほど。そう、ちょっと休み、休み、旅の話をしていこう。それにしてもホテルも料理も観光も旅の参加者も、そしてベトナムという国も最高に素晴らしかった。そして、お天気にも恵まれた。旅の終わりのハノイでのこと。前日まで大雨だったとか。きっと参加者に晴れ男、晴れ女がいる!?もしかして前回の台湾の旅でも台風さえもよせつけなかった幹事のHさんの威力が今回も出た!?そうかもしれない。束の間の非日常。楽しい旅が始まった。

インドシナ半島に位置するベトナム。簡単な地図を用意しよう。
ベトナム社会主義共和国地図
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vietnam/より引用

第一日目 2015年1月9日(金)

7時半、広島空港国際線出発ロビーに集合。9時、中華航空C1113便は定刻通り離陸し、台北の桃園空港に無事到着。台北と日本との時差1時間。ここからは現地時間で表記。広島出発では真冬の服装。台北は気温18度と温かい。一枚づつ服を脱いでホーチミンの暑さ対策をする。

服を脱ぐといえば可笑しいことがあった。団長は楽しそうに笑顔で話される。参加者の一人にベトナム通の女性がおられた。その女性の台北の税関でのお話だろうか。上着を脱いだあとだろう。
税関「何か肉などの持ち出しものはありますか?」
女性「生肉ならあります」、「干し肉より生肉の方がいいでしょ?」

聞いたとき意味がつかめず、何度も聞く。やっとわかると、やはり可笑しい。この話題で旅は一段と和んでいく。台北でホーチミンまでのトランジット休憩。搭乗まで1時間半ある。台湾ドルはなくてもここはカードの出番。空港内のカフェを探すとそこには早くも先客組がビールで乾杯済み。珈琲は4米ドル。見渡すと中国人が大きな器で麺類を食べている。他の人も同じものを食べている。美味しいと話していたが、どんな味だったのだろう。

14時20分 中華航空C1783便ホーチミン行に乗る。ところが、機内は空席も目立ち、ゆったりした気持ちで座る。15時、機内食はヌードル他。美味。16時50分、無事、ホーチミンに着陸。気温30度。台湾とベトナムとの時差1時間。日本との時差は2時間遅れ。飛行機を降りる際、ダウンジャケットを小さく畳んでリュックにいれる。

ホーチミン市内をバスで移動中、円をベトナムの通貨、ドンに替える。ガイドの用意した1万円=170万ドンに両替。持てないほどのドンかと思いきや、紙幣はたったの数枚。一番大きな紙幣は50万ドン、ほかに20万ドン、10万ドン、2万ドン、1万ドン。500ドン、1000ドンはお金にあらずとか。その単位になるとおつりは飴玉になるらしい。

ベトナムの空気をはじめて吸ったホーチミン市内。バスの車内から眺める街並みは文字さえローマ字でなく漢字であればそこは間違いなく中国。一番に感じた光景だった。そしてバイクの洪水。若者の街という感じがする。18時 レストラン着。19時半までベトナムのビールを飲みながらのゆっくりとした夕食。食事後ホテルに移動。その後、ベトナムの紙幣を小銭に替える目的で近くのコンビニに皆で繰り出す。

外へ出るといっても信号もない。たとえあってもないのと同じ。ベトナムの人は交通規則を守らないらしい。交通違反で取り締まりを受けてもそこは賄賂がまかり通る世界とガイドは笑って話す。そのガイドに誘導されてぞろぞろとバイクの行列の隙間を縫って道を渡る。この「ゆっくりと渡る」のが大事とか。急いで渡るとバイクは急に止まれない!?ゆっくりがいいらしい。ナニゴトもお国の風習に従うのがよろしいようで…。

ファミリーマートに入ってミネラルウオーター1本4000ドン(25円)で購入。安い。だが安いのは現地の人が買うお店だけ。旅行者が買うのはお土産物店になってしまう。お水を買ってホテルに戻る。おつりで翌日の枕銭の用意をする。枕銭は3万ドンとか。ホテルロビーにおしゃれなお店がある。ウインドーのワンピースに目を輝かせている人もいる。ワンピースの試着はよく似合っている。お直ししてもらってこの服をゲットされた様子だった。

なんといっても宿泊先のホテルはどこも一流。中に入っているお店、そして食事も一流。この一流、幹事のHさんによるとスケジュール、宿泊先、食事、観光などかなり事前に配慮されている。本当にありがたい!21時半、ホテルの部屋に入る。寝ようとするとエアコンのファンだろうか、音がうるさすぎて寝付けず。翌日ほかの人に聞くと静かだったとか。どこか切るところがあったのかもしれない。

第二日目 2015年1月10日(土)

ホーチミンの朝は早い。モーニングコールは5時半。6時に朝食。ベトナムでは欠かせない食べ物のフォー。朝食でコックさんに作ってもらう。この人、中国語がわかるのか「很好漢!」とほめてあげると嬉しそうに笑ってくれた。フォー以外にもオムライスもその場で作ってくれる。ホテルが豪華だと食事まで豪華。朝から1時間かけてゆっくりといただく。食べ物といえば果物。パッションフルーツ、ドラゴンフルーツ、レイシなど南国の果物は美味しい。

ホテル内レストラン 朝食でフォーを作ってもらう
ベトナム料理 フォー

ホテルロビー 大きな生花がお出迎え
7時半、ミトー観光へバスで出発。車は右側通行。そのためか、ミトーに行く途中のフランスパンのお店は右側に集中。どうもお土産としてフランスパンを持参するみたい。左側は帰り道になるため、お土産屋はないらしい。ベトナムは移動手段がバイク!?ホンダのバイクは人気があるらしくホンダ=バイクの意味とか。

9時20分 メコン川クルーズに乗船。船から見る水は茶色く濁る。メコン川はベトナム語で”Sông Cửu Long”。乗船すると1人1個、ココナッツジュースをくれる。ココナッツの一か所を切ってストローをさして飲む。どう見ても清潔そうに見えない船。そこでいただくココナッツ。恐る恐る一口すする。味はよくわからない。水が飲めない国での果物やジュース。かなり慎重になってしまう。とはいっても、船以外の場所では美味しくいただく。
メコン川クルーズ船

船から見る風景
モーター付きのクルーズ船に乗って中洲にある島に向かう。島にはココナッツなどの果樹園やはちみつ農園がある。下船後、ココナッツの実からココナッツミルクを取り出して飴になる工程を見学。手作業を経てできあがった飴。これをもらって口に入れる。素朴な味がした。できたての飴はお土産として即売されている。

ココナッツミルクが出てくる

手作りのココナッツ飴


ココナッツの木

民芸品を売っているお店
ニシキヘビを首に巻いた男性
ココナッツミルクの飴だけでなく、ベトナムの民芸品、はちみつ、はちみつ入りの菓子なども販売。ほかにも生簀の魚(エレファント・フィッシュ)やニシキヘビ。このニシキヘビを男性が肩にかけて見せてくれる。その時、Mさんが蛇を触り、その感触がバッグなどの革製品に似ていると話される。私も勇気を出して男性の首あたりの蛇を触る。やはりその感じだった。

ここでしばしティータイム。はちみつや金柑の入ったティーをいただく。甘くて美味。ティーを入れてくれた若い娘さんからベトナム語で「ありがとう」と「おいしい」を教わる。「カ オン」と「ノン」だった。さらに歩くと果物で一休み。果樹園らしく南国の竜眼などいただく。これはレイシの一種で小さい果物。さすがにベトナム。この辺りは暑い!汗が出る。

10時45分 舟乗り場に移動して10時55分、小舟に乗って奥地へ。舟をこぐ人は1漕に2人。そこへ4人が乗船。ジャングルの中、小舟は進む。決して快適とはいえない。だが、こういう経験はここでしかできない。楽しかった!

手漕ぎの小舟に乗り換えて奥地へ進む
下船の風景

15分間ほど小舟に乗って束の間のジャングル体験。その後は、大きな船に乗り換えて10分でミトーの船着き場に到着。ここからバスに乗り換えて15分でレストラン到着。11時40分 お昼をいただく。昼食といっても豪華というかおしゃれな食べ物が次々とテーブルに出てくる。生春巻きはパイナップルに穴をあけて挿してある。これを抜いて各自2本いただく。

パイナップルに生春巻きが…

エレファントフィッシュ
大きなエレファント・フィッシュは鱗までカリカリに焼いてある。これを野菜に包んでいただく。まるで北京ダックをいただくように。エレファント・フィッシュ(淡水魚)のから揚げはベトナムのメコンデルタ地方の料理らしい。これも美味。


昼食の一部
揚げ餅。ベトナム語でXoi Chien Phong (ソイ・チン・フォン)
昼食の究極は揚げ餅。ベトナム語で”Xoi Chien Phong”(ソイ・チン・フォン)、メコンデルタの名物料理。もち米から作った餅を、大きく丸く揚げたもの。手品のように、小さい餅が大きく膨らんでいく。この丸く膨らんだものを弾かせて細かくしたものに魚醤をつけていただく。美味しい!
丸い揚げ餅をはじいて食べやすい大きさに切っていただく
このほかにフォーをいただく。フォーはベトナム滞在中、毎日、毎食、テーブルに出る。美味しい。飲み物はパッションフルーツのジュースを飲む。果物のジュースは暑い国でもさすがに氷は入っていない。水が飲めない国の氷は怖い。生暖かいジュースでも100%新鮮な果汁。美味しさはこのうえない。マンゴージュースもよく飲んだ。昼食後、ミト―から1時間15分のバス移動。再度、ホーチミン市内に到着。古い呼び名はサイゴン。

14時 戦争証跡博物館を見学。館内の左手入口にはベトナム戦争の枯葉剤による後遺症を、今、なお背負う子供たちがいる。まるで見世物のように。この光景、どう表現していいのだろうか、考えてしまう。館内の見学者はアジアよりもヨーロッパ人が多数を占める。今なお続く世界各地での紛争。皆さん、どんな気持で見学されるのか。見学しても日本語の説明書きは見当たらず、残念!

1時間15分、館の内外を見学。館外にはベトナム内紛時の処刑現場の跡もある。ダナンの空港に向かう途中、ガイドは「過去の戦争は問わない」、「アメリカを憎まない」、「若者たちの留学先はアメリカが一番多い」と話す。そして、日本が原爆を落としたアメリカを憎まないようにベトナムもそうだという。

17時35分 ベトナム航空でダナンへ移動。ホーチミン市内では真夏の暑さを体験。観光中も暑かった!19時 ダナンの空港着。ダナンは港町。日本のODAにより造られた橋を渡った後、レストランで夕食。豪華な食事だった。
戦争証跡博物館


ダナンの海鮮料理
ダナンの海鮮料理
ダナンの海鮮料理
ダナンのホテルはヴィンパール・ラグジュアリー・ダナン。ノンヌオック・ビーチ沿いに建つ、ビーチリゾートの立派なホテル。ホテルの前にはプライベートビーチに加えてプールやマリンアクティビティイも充実している。ホテルの部屋にはウエルカム・フルーツやチョコレートも置いてある。これを見て大感激。クローゼットには浜辺で着るリゾート着やビーチサンダルも用意されていた。

部屋は木目調の調度品で統一され、落ち着きがある。バスタブ、シャワー、トイレに加えて洗面台は2つある。ゆったりした部屋でぐっすり眠る。
ホテルの部屋にはウエルカムフルーツとスイーツがお出迎え
第三日目 2015年1月11日(日)

6時から朝食。毎朝必ずフォーをいただく。他にいただく食事も美味しい。朝食後、浜辺を散策。目の前に見える海は南シナ海。浜辺に立つと吹く風は強く、波も荒い。


ホテル前のプライベート・ビーチ
ホテルにある5つプーとガーデン
8時 バスはホテルを出発。ホテル近くには大理石の仏像などの彫刻店が軒を連ねる。その後、刺繍工場見学。蚕を飼って製品となるまでの工程を見学。このお店ではアオザイを誂えることもできる。数人がアオザイなど誂える。ここでティータイム。蓮茶をいただく。

ダナンから1時間後の9時半、約180年前の町並みが残るホイアンにバスは到着。かつてはアジアとヨーロッパの交易の中心地として栄え、16~17世紀には日本人街もあった。風情ある木造建築が立ち並ぶ。そのあたりをシクロ(人力三輪車)に一人1台15分間ほど乗って観光。一人6米ドルでチップ1ドルを払う。

日本橋(来遠橋)
日本橋(来遠橋)は1593年、ホイアンに住む日本人が建造したといわれる屋根付きの橋。ベトナム紙幣の2万ドン紙幣に印刷されているほどの名所だとか。生憎1万ドン紙幣しか持って帰らず、残念。シクロから降りるとホイアンの町並みを歩いて散策。ホイアンでの当時の日本人の暮らしぶりは海のシルクロード博物館(貿易陶磁博物館)の展示品からもうかがえる。貿易商人の憑興家(フンフンの家)なども見る。
シクロ(人力三輪車)乗車体験

海のシルクロード博物館(貿易陶磁博物館)
日本人街を抜けると中華人街に入る。香木のお店で蓮茶のティータイム。香木を利用したベトナムの線香や小物の飾り物など販売している。しばらく自由散策。竹を利用してできたバンブー店に入る。そこでバンブーのシャツを購入。ここでベトナム紙幣のドンを使いきって一安心。

日本とホイアンの関係は文禄時代にさかのぼる。茶屋新六が御朱印船の船長となり、長崎からホイアンに渡航したとされ、その絵巻が残っている。京都で貿易を営んでいた茶屋家が寄進した絵巻らしい。今でも日本とホイアンの文化交流を深めるホイアン夜祭が毎月、満月の日に催されている。そして今でも日本人がホイアンの町並み保存に協力しているそうだ。

ホイアンの名物料理のお昼をいただいた後、バスは世界遺産のミーソン遺跡観光へ。ホイアンからミーソンに向かうバスの車窓から新婚夫婦を2組見る。他の場所でもその光景を目にする。乾季のこの時期、結婚する人は多いらしい。

1時間後にミーソン遺跡に到着。ここでバスを降りて歩いて橋を渡る。だが、ここはバスの乗り入れ禁止。帰りはバスに乗車して渡った。これはなぜ?橋が古いためか重量オーバーか、いずれにしてもわからない。バスを降りて5分ほど歩くと遺跡群が見えてくる。遺跡群は四方を山に囲まれた聖山であり、盆地の中央にある。現存する遺跡は8世紀から13世紀末までに建てられたもので、70棟を超える遺構が草木に埋もれて残っている。大きな木を見上げるとアリの巣があった。

この残った遺跡は900年もの間、チャンパ王国の聖地であり続けた。私たち一行もこの遺跡群の中に佇んでミーソンの雰囲気を堪能。1999年、ミーソン遺跡群は世界遺産に登録される。



ここでバスを降りて歩いて橋を渡る
チャンパ王国時代の宗教寺院遺跡群

木の枝の上部の黒いものはアリの巣
ここでの気温26.5度、湿度は59%。1時間40分、ミーソン遺跡を観光後、朝、刺繍工場で誂えたアオザイなどの服を取りに立ち寄る。数人が誂えた様子。ぜひとも、アオザイを着てご披露願たい。ミーソン遺跡を歩きながら団長とFさんは今回の旅でも面白いことを話される。Fさん「それにつけても金の欲しさよ」。団長「月日はすぐに経っても足腰も立たんようになる」。これ可笑しい!そして幹事のHさんとお話しすると、いろいろとツアーの下準備をされて旅に参加されている。ありがたい!

ミーソン観光後、バスはベトナムの古都フエに移動。この間のバスのクラクションの音のうるさいこと。運転手は頻繁にクラクションを鳴らす。道の中央に左右の境界線が引いてある。しかし、バイクはその線に見向きもせずに走っていく。バスも左右のバイクに警笛を鳴らして真ん中を走る。危ない、危ない!16時 バスがフエに向かって出発すると車窓からリゾート地が見えてくる。浜辺は延々と続く。以前は別荘地も作られていた。だが、今はバブルもはじけ、売れない状態らしい。この海辺からベトナム戦争のあおりでボートピープルとなって外国へ出て行った人も多数いたと聞く。

『現代ベトナムを知るための60章』(今井昭夫ほか 明石書店、2012年第2刷)によると「ボートピープルとは1975年4月30日南ベトナム崩壊とともに中越関係の悪化や経済の社会主義化の影響を受けた中国系ベトナム人、就学就職差別や経済苦に苦しむベトナム人たちがボートピープルやランドピープルとして海外に脱出」とある。浜辺には丸いボートが見える。このボートでボートピープルとなってこの浜辺から出港した大半の人々は途中の海で死亡している。とはいっても、今、アメリカには300万人のベトナム人がいるとガイドは話す。

ベトナム戦争が終わって「北」による「南」の吸収としてベトナムはひとつのベトナムとして誕生した。統一後のベトナムは急激な社会主義的改造が行われ、大量のベトナム難民の流出が発生。1978年12月に勃発した「カンボジア紛争により、統一ベトナムは国際的孤立を招いた。こうした「戦争の後遺症」は、冷戦後の今日においても、「戦争の悲しみ」としてベトナム社会に深く刻み込まれている。(『現代ベトナムを知るための60章』)。このことがガイドの話したベトナム戦争でアメリカに勝利しても、ベトナムの発展が遅れた原因となっているのだろうか。

30分ほどバスが進むと目の前には大理石の山、仏教寺院のある五行山が見える。途中、大理石のお店でトイレ休憩。お土産店には螺鈿の入った手鏡もある。

延々とリゾート地は続く
17時30分 6.5キロの長いトンネルを抜ける。このトンネルは日本のODAによって開通。しばらく行くと雨が降り出す。トイレ休憩でバスを降りると外気温は18度。寒い!北に向かうにつれて次第に気温も低くなっていく。19時35分、ベトナム最後の王朝、グエン朝(1802ー1945)の都が置かれたフエのレストラン到着。この日は宮廷料理をいただく。さすがに宮廷料理。見た目も豪華であでやか。どのお皿にもニンジンなどで作った動物などの飾りが添えられる。ここに宮廷料理の写真を載せよう。これでもいただいた料理の全部でなくその一部。幸せな気持ちで美味しくいただく。どの料理も魚醤につけていただいた。

食事の最後に出たフィンガーボールにはお茶の葉とお湯が入っている。お茶のもつ消毒作用を利用するのかもしれない。
フエの宮廷料理


宮廷料理

宮廷料理

宮廷料理

宮廷料理

宮廷料理

宮廷料理

宮廷料理

宮廷料理


宮廷料理
フエのホテルはインペリアル・フエ。このホテルも高級ホテル。部屋も王宮をモチーフにしたゴージャスな内装でデラックス・ツインだった。ベトナムに来て初日を除いて毎夜の反省会。各部屋のグラスを持参して団長の部屋に集合。なぜか話題は梨の話。梨が実るころにはこの話題は遊びへと発展していく。

第四日目 2015年1月12日(月)

6時からの朝食を終えるとホテル近くのフォン川に架かる橋まで散策。この橋は如何にもベトナム、という橋とか。吹く風は強く曇り空。行きかうバイクは通勤ラッシュ。この光景を見るだけで朝からベトナムの活気を感じる。
フォン川にかかる橋
8時 バスはフエの市内観光に出発。まずは12代皇帝のカイディン帝廟見学。東洋風と西洋風のまざった廟で教会を思わせる。死後の世界が本当の世界だそうで、お墓も大きい。
カイディン帝廟
13代のグエン朝王宮(1802-1945)へは午門(王宮門)から入る。上に登ると眺望がすばらしく、山の上に建つ白い観音様が見える。午門から入って東門を抜けて外に出る。グエン王宮の太和殿は紫禁城を模して造られている。
グエン(阮朝)王宮

バスで移動して4代のトゥドゥク帝廟観光。どの廟の周りにもプルメリアの木が多くみられる。しかし、今は花の咲く時期でない。花の咲くころはさぞかしきれいだろう。さらに移動してティエンム寺院を見学。廟や寺院は2度にわたる戦争で文化財は破壊されたとか。11時40分 バスは出発してレストランへ。食事後、国内線にてフエからベトナムの首都ハノイへ移動する。フエの空港で搭乗前にお土産店を見ていると団長に出会う。団長は何を購入されるのかと思いきや、なんと夜の反省会のおつまみだった。

15時半 ベトナム航空VN1542便はフエを離陸してハノイ空港に定刻の16時40分着。到着したハノイの新空港は日本のODAにより昨年の大みそかに完成したばかり。これまでの空港は国内線として利用される。日本のODAといえば高速道路も橋もそうらしい。日本は他にもベトナムへの観光客の数が中国、韓国に続いて3番目に多い。ベトナムのガイドは例を挙げて日本とベトナムの友好関係をしきりに話す。17時 バスで移動してハノイ(河内)市内のホーチミン廟など徒歩で観光。


ホーチミン廟前の広場&ベトナム国旗
ガイドの車内の説明によるとベトナムの平均寿命は73歳、平均年齢は33歳。戦争による影響で若い年齢層が多い。他に日本語の「刺身」や「盆栽」がベトナム語になっている。そしてベトナムは90%がベトナム民族。残り10%が少数民族で53の民族からなりたっていた。

高層デパート、共産党本部のある国会議事堂、市役所などが見える。中でも黄色の建物は王様の色とか。車道には街路樹が植えてあり、その間隙を縫ってバスは通り過ぎる。大木から伸びた枝がバスに当たると車体はゴボゴボと音を立てる。モミの木の枝だった。また車窓からはお店の外で食事をしている人の姿を多く見かける。ガイドによると台所が狭いため、外食が多いらしい。

中華料理の夕食後、水上人形劇場に行く。途中の道はモザイクへの道。壁には延々とモザイク画が描かれている。19時45分 水上人形劇場到着。劇場は観光客でごった返す。この劇はフォン河北部で行われた収穫祭や儀式がその始まりとか。上演時間は1時間。写真撮影をする人はあらかじめ、金銭を支払う、しかし、席に着くと誰が支払ったかはチェックされず。水面をステージにして向かって左横の上部に楽団員が歌ったり演奏したりする。農家の日常やベトナムの伝承芸能を操り人形で演じる。

見ていて演じる人はどこにいるのか、なぜ水の中なのかが気になる。フィナーレになると水の中のステージに人が出てやっと納得。それにしても、人形劇が始まる前の音楽はベトナムの感じが出ていて素晴らしかった。
水上人形劇の楽団
水上人形劇
水上人形劇が終わるとバスでホテルへ移動。車中からは旧正月前のイルミネーションも見える。21時 日航ハノイのホテル着。ベトナム滞在中、どのホテルでもコンピュータによる部屋割りの宿泊名簿をいただく。こういうことはこれまで旅行して初めてのこと。すばやい部屋割りの対応だった。30分後、団長の部屋に集まって連夜の楽しい反省会。秋に遊ぶ話も決まっていく。ハノイのホテルは連泊なのでゆっくり過ごす。

第五日目 2015年1月13日(火)

モーニングコール5時半。6時朝食後、バスは7時45分と早い出発。本日のメインイベントのハロン湾クルーズ。ガイドはしきりに3・3・3と話す。この意味はハロン湾へ行くまでバスが3時間、クルーズが食事を含めて3時間、そしてハノイ市内帰着までにバスに3時間乗車ということだった。ホテルは日系の日航ホテル。部屋の調度品も日本にいるようで違和感がない。朝食後、ホテル内の売店はどの人も買い物で忙しい。女性好みのバッグなど買っていく人もいた。

15分ほどバスで移動するとタンロン遺跡に到着。もらったパンフによると千年の歴史をもつ首都ハノイの中心に位置し、11世紀から18世紀までの大越国家(ベトナム)諸王朝の都タンロン(昇竜)の最重要部分であるとか。遺跡群は2010年にユネスコの世界遺産に登録。博物館には遺跡で発掘したものを展示している。


タンロン遺跡
ここで余談。ベトナムの通貨ドン。これは銅から来ている。また、ベトナムのコーヒーはブラジルを抜いて世界一のコーヒー輸出国。他に、ハノイではイオンモールを建設中で、キャノンの工場もあり1万人の従業員がいるという。その後、ベトナムのコーヒーを味わうために民芸品店に向かう。ところがいただいたコーヒーは美味。だが、製造するまでの過程が他と違うらしく、かなりのお値段がする。コーヒーといえばコーヒー・フィルターも必要。このコーヒー・フィルターとして空港でバッチャン焼きのフィルターを見つける。帰国前の新しくできたハノイの国際空港。手荷物として一つ購入。

話はハノイの観光に戻って、11時、バスはハロン湾クルーズ船乗り場に向かう。1時間半後、船着き場に到着。船着き場も観光客でごった返す。クルーズ船といっても宮島航路の船よりも小さいくらい。決してきれいとはいえない船内。しかし、食事のセッティングや海鮮料理はフランス風でとても美味。

クルーズ船の横には果物などを行商する小舟がピタッとくっついてくる。そして観光客に向かって果物を売り始める。その時、台湾で初めて食べた釈迦頭を誰かが見つける。素早く投げ込まれ、皆でいただく。レイシもいただいた。美味しく食事をいただいた後は、真っ青に晴れ渡ったハロン湾を眺めに船上に出て観光。ハノイに来る前日まで大雨だったとか。それが、クルーズ船上は快晴。だれかれとなくここに晴れ男、晴れ女がいる話になる。

台湾旅行の際も前日まで予想された台風を退かせた幹事のHさん。きっと今回もその威力を発揮されたのでは…。Hさん、船上に出てお天気の良さを喜ばれる。もちろん、皆も一緒になって喜んで…。本当にお天気が良くて気持ちよかった!

クルーズ船に接近して果物を売る
ハロン湾クルーズ

船上に出ると、水上生活者の家も見える。


ハロン湾の水上生活者

クルーズ船は行く

ハロン湾

ハロン湾のシンボル的な闘鶏岩

ハロン湾のシンボル的な闘鶏岩を見てクルーズのハイライトを迎える。この岩、船の動く方向でくっついたり離れたりする。ちょうどくっついた頃合を見計らってシャッターチャンス。いい具合に撮れた。クルーズ船は帆掛け船を模した船が運航しており、ハロン湾に浮かぶ奇岩を眺めながら進む。ちなみにハロン湾のハロンとは「龍が降りる地」という意味とか。奇岩は2000もあるらしい。海にそそり立つ風光明媚な景観は幻想的。「海の桂林」と形容されている。
ハロン湾の奇岩の洞窟内部を探検する
ハロン湾に浮かぶ奇岩には洞窟が多数ある。この中の一つの洞窟に入って内部を探検。中には林立する巨大な鍾乳石もある。洞窟内はライトアップされており探検して歩く。観光客の大半は西洋人。その中をはぐれないようにしてペンライトをつけて歩く。15時半 洞窟探検後は再度、乗船して帰る。30分後、バスに移動。ここで何人かがガイドに付き添われてベトナム特有の傘を購入。傘とは丸い三角屋根になった帽子のようなもの。それぞれ家に帰ってベトナムを思い出しながら農作業(?)などで被られるのだろうか。

17時半 民芸品店に到着。先ほどは国営とか。今回は民営らしい。ここでお菓子などのお土産購入。ドンはとっくに使い切っって、すべてカードで購入。



洞窟探検後、船に乗って帰る

18時15分 バスは出発。目の前には見事な夕焼け。ベトナムでの最後の晩餐はべとナム式フランス料理。いつもどこでも料理は美味しくいただく。

第六日目 2015年1月13日(水

ベトナムの楽しい旅も最終日を迎える。ハノイの国際空港で離陸まで空港内のお店を見て歩く。完成したばかりの新空港。免税店には何もないかもしれない、と話していたガイド。お店はあった。しかし、ゲート近くのお店は開店しているものの、レジの故障で休業状態。他の店に移動してベトナム最後のお土産を購入。

梨の話で盛り上がったFさんとMさん。名前が面白いMMさんご夫妻。他にもご夫妻で参加されていた幸せな方たち。ただ笑ってばかりのKさん。野球に命のTさん。ベトナム通のNさん。おしゃれ心満載の女性陣の皆さん。カメラ自慢のUさんをはじめ男性陣の皆さん。いつも楽しい話題を提供されるT団長。今回の旅でも晴れ男間違いなしの幹事役のHさん。いつも笑顔満載の皆の良き秘書役のMさん。皆さん、ありがとうございました!

旅のお話も最後になりました。ベトナムに出かけて、自嘲気味に話していたガイドの言葉。2つの戦争に勝っても自国との戦いに負けている。この旅行記を書きながらいろいろと本を読みました。その中に、「ベトナム戦争は北ベトナム軍が南ベトナムを武力制圧する形で1975年4月30日に終結した。しかしあまりにも圧倒的な勝利をおさめたため、ハノイ指導部が戦後の経済復興政策の誤りを認識するまでには時間がかかった。また、戦争期は様々な愛国勢力が祖国解放に貢献したにもかかわらず、戦後の政府は共産党以外の政治勢力の存在を許さなかった。1970年代後半から80年代にかけて発生した新たな紛争と混乱はそれらの点に起因していたといえよう。」(『現代ベトナムを知るための60章』)とあります。

これだけが原因とはいえないでしょう。しかし、今回の旅で目の当たりにしたベトナムは活気があふれる国でした。ハノイの空港ロビーで広島空港まで一緒に行くと声をかけてきたベトナムの若者たち。彼らは習いたての日本語でこれから研修を受ける東広島や神戸のことに目を輝かせて嬉しそうに話してくれました。彼らのような若者にこれからのベトナムの発展を期待しましょう。

一緒に旅をした皆様、本当に楽しい旅をありがとうございました!