2011年9月30日金曜日

塀の業者

午前中、塀の工事をする業者2人が見積りに我が家にやってきた。その業者はアサちゃんの長女の夫の仕事関係の人である。もう10数年、その業者に家のことをお願いしている。

通りに面しているため道をなおすたび家の塀は傷んでいく。特に10数年前、川を歩道にする際はひどかった。ブルドーザーが川の上をアスファルトで覆うとき、震度3位の揺れが毎日あった。

最近は忙しくしていて家の塀に関心を寄せていなかった。春頃、その異変に気づき今回すべてやりかえることにした。

今日来た業者に聞くとかなり金額がかかるという。間に、アサちゃんの長女の夫に入ってもらってるのでその辺りは安心なのだが…。

今日来た人にアサちゃんが亡くなったと話すと驚いていた。昨年春、アサちゃんの寝ていた2部屋を二重窓にしたとき以来である。そのときは寝ているモノがいるので工事をためらったこともある。だが静かになったので二重窓にしてもらって良かったと思っている。

5年前にも工事をしてもらった。その時は風呂の新設であった。前からある風呂は小さくて段差があった。そのためシャワーキャリーに乗せてアサちゃんを入られない。新たに納戸のようにしていた3畳を洗面所と風呂にした。

この工事は正解だった。歩けなくなってもシャワーキャリーに乗せれば冷暖房つきなのでシャワーだけでアサちゃんを洗えた。最後まで家で介護できたのもこの風呂にある。

他にも同じ頃、シャワーキャリーですべての部屋を移動できるようバリアフリーにした。また部屋から車椅子で外に出られるよう玄関の内と外の段差をなくすこともした。

それらの工事のときはアサちゃんは怪我をした後なのにまだしっかりしていた。歩くことも出来た。

そんなアサちゃんだったが人の顔を見るとよくあだ名をつけた。そのときも大工にあだ名をつけた。「大工さんが来てるよ!」と教えると「…の大工が…」といって笑っていっていた。今、嬉しそうに話していたアサちゃんを思い出す。

工事はいつ始まるのかわからない。近いうち始まるだろう。忙しくなりそうだ…。

2011年9月29日木曜日

世代交代!?

「ご近隣の皆様へ」と書いてある印刷物が郵便受けに入っていた。それを見ると我が家の道を隔てた斜め前の駐車場に大型店舗が建つという。

その場所は100台以上の車を月極め駐車場にしている。聞くところによるとドラッグストアが建つとか。

最近、誰かなくなるとそこは更地になって土地が売りに出されるか一括借り上げの賃貸住宅が建つ。この賃貸住宅はすぐに建設され、その建物はどんどん増えている。

どれくらい増えればいいのか知らないが住む人がいることを思うと採算は取れるのだろう。

今回入っていた印刷物に書いてあった大型店舗も一括借り上げと同じ業者であった。

昔から住んでいるいわゆる地の人は土地を沢山所有している。そのため手っ取り早い方法として空き地は駐車場にする。それが大型店舗に変わろうとしている。

住む町は住宅地であり店舗はあまりない。それでも山陽本線と呉線が通る踏切を渡ると区役所などの公共施設や色々な店舗がある。遮断機は電車が通るたび降りている。その不便さを解消するため国、JR、市などが10数年計画で線路を高架橋にする準備をすすめている。そのためか線路沿いの家はすべて立ち退きになり新たに奥まって新築の家が立ち並ぶ。それは民家だけではない。元からあったビジネスホテルなどもすべて立ち退き、新たな場所で建築されている。

町が発展するのはいいことだと思う。でもその前に「世代交代」を痛切に感じる。その大型駐車場の持ち主もアサちゃんと同年齢の人だ。幸いまだお元気なようだが、その後のことを考えての店舗建設なのかもしれない。

隣近所を見渡しても60才前後の人が世帯主となっている。「世代交代」は確実に進んでいる。その年代が人数的にも一番多いのだから余計そう感じるのかもしれないが…。

2011年9月28日水曜日

眠る!

今日は家でおとなしくしてフルートの練習を…と思っていた。ところが…。

昼食を食べ終えると、気になっていた楽譜のコピーをとりにスーパーに行った。その帰り線路を渡ろうとすると遮断機が下りた。そこで近くに住む顔なじみの人とばったり出くわす。

JRの通り過ぎるまで立ち話をしていると11月中旬にベルギー、オランダに行くという。関空から行くらしいのだが前泊しようかどうか迷っている。話していると遮断機が上がった。どうも顔に「閑!」と書いてあるのか、その人の家で話をしようということになった。その誘惑に負け3時半までしゃべってしまった!

春頃、その人と出会ったとき台湾一周に行こうといわれたことがある。だが顔なじみといっても年齢も違うし…と思っていた。それが今回オランダ方面に行くという。

その人と話していると眠れないという。最近周りのほとんどの人は眠れないと話す。今日もそれを聞く。その話を聞くたび不思議でならない。どこでもよく眠るタイプなので寝られないということがわからない。どの人も数歳くらい年齢も若いのに…。とはいっても我が姉妹も眠れないといってたが…。

睡眠に関してはアサちゃんを介護していたときも介護する側が睡眠不足になるのを恐れて気をつけていた。特にアサちゃんの床ずれ防止のため2時間毎体位を交換していたときもすぐに眠れた。今思ってもよく2時間毎起きていたと思う。それくらい大変だったためか睡眠には人一倍気をつけた。

そのおかげかどうか今もよく眠る。もしろ夜遅くまで起きている方が翌朝きついので決まった時間になるとすぐ眠たくなる。まるで子供のように…。

子供といえばアサちゃんは「寝る子は育つ」といってはよく寝ていた。その通りかもしれない。よく眠るから元気なのかも知れない。

それにしても家でじっとしていないなあと我ながら呆れてしまう。少しはゆっくりすればいいものを…。

そう思っているとアサちゃんの長女の夫から塀の工事の人が近いうち見に来ると電話してきた。9月に工事をする予定だった。だがフルートの発表会やその他10月中旬まで色々予定を立てている。

一番気になるフルートの発表会が終わってからにしてもらわないと落ち着かない。それでなくても落ち着きがない。何やかやと忙しい日々は当分続きそうだ…。

2011年9月27日火曜日

ピアノ合わせのCD

フルートのレッスンに行ってきた。先生に会うとすぐ先日のピアノ合わせの時に録音してもらったCDを渡される。以前はカセットなどの録音だった。時代の変化を感じる。折角CDにしてくださったのに家で聞いてみると聞けたものではない。練習しなくては…。

パソコンでのCD作製はまだしたことがない。先生は本番のCDもずいぶん前から写真入りで作製されている。CDは出来ないというと大学で今時の情報教育を受けているからよく知ってるといってくださるのが…。怪しいものである。

今日はそれに加えて先日のピアノ合わせまでに発表会の会費を払うようになっていた。それも家に帰って再度楽譜を見たとき支払い期限が過ぎてることに気づく。すぐに当日支払う旨、ことわりのメールをした。フルートのレッスン料は来月から半年分支払って帰ったのに一番大事なことを忘れている。

今からこんなにボケッとしてたら本番はどうなるものやら…。恐ろしくなってくる。

先生はレッスン後、次はリハーサルで…といわれる。うなずいて帰ったけど…。今さらじたばたしても…。本当に困った。

もうそれほど日数もない。明日からは少し大人しくして練習するしかない!?それもあやしいモノだけどしないよりは…と思ってみたりする。さてさて本番は…。

2011年9月26日月曜日

茗荷の花

午前中、JRに乗って隣の駅にあるプールに行き泳いできた。40日ぶりに泳ぐので500メートル泳ぐことにした。プールに入ると、どこかで聞いた声がする。以前スイミング教室で習った先生であっる。今日は教室でなくクラブの指導をされていた。

先生に挨拶を終えるといつものように一人で泳ぐ。泳ぐのはいいのだが、先生に進歩がないと見られているようで思うように泳げない。クロールだけにして早めに引き上げた。

プールを出てJRに乗るため線路を渡ろうとすると線路脇に大きな白い花が目に付いた。見たときは菖蒲の花だと思った。ところがどう考えても菖蒲の花は梅雨時期のものである。よく見ると葉の形が茗荷である。茗荷は我が家の庭に小さな葉をつけている。でもそれに花が咲いたことはなかった。

家に帰ってPCで検索するとその花は茗荷の花だとわかった。初めて見る花であった。黄色を帯びた大きな綺麗な白い花である。2メートル四方に植えられている。

それを見ると隣の駅までJRに乗って帰った。駅前の花屋によるとコスモスの鉢植えが売られていた。ピンクと赤の花が咲いている。それを買って家に帰った。

午後は朝メールをもらった人と家の近くで会った。会ったときその人に、ブログのコメントについて話をすると書いたという。それまでその人がコメントを書いたとは全く思ってなかった。コメントは3通あり「mさんだよ」とその主は書いていた。昨夜もしかしてmがつく名前が今日会う人かも…と頭を掠めたので今日それをいうとやはりそうだった。

その人に会うまではコメントの主はいつもメールをもらう人だと勘違いしていた。

ところがコメントの主を知ってもうびっくり!先ほどよくメールをいただく人にお詫びのメールを送信した。

それにしてもなんと人に迷惑をかけ、そそっかしいことをしたことだろう。ただ反省するばかりである。これからは気をつけよう!

とんだ秋の一日だった!

2011年9月25日日曜日

『日記をつける』

先日岩波書店から『図書』9月号が送られて来た。そのなかに「秋のミニフェア」として荒川洋治の『日記をつける』(岩波書店、2002年)が紹介されている。てっきり新刊だと思って図書館に予約した。ところが手にしてみると2002年出版となっている。

「日記」は「ブログ」という手段でつけている。つけているというか投稿しているのだが…。またブログは日記というよりもエッセイかもしれないが…。

その辺りを著者は「ことばが回りはじめると、日記は動く。エッセイになる。」(132p)という。ブログ(日記)がエッセイになるのも「日記からいろんなものが生まれる。」(132p)所以ならばそれはそれでいいとしよう。

エッセイになるという流れを筆者は幸田文のエッセイから述べている。「幸田文のエッセイに感じることは、どんなものにも興味をもつということだろう。そしてときには『興味をもつ』ということはいったい何だろう、というような問いかけそのものにも興味をもつ。これはものごとがいったん<ことば>になるということである。『興味をもつ』といことそのものがひとつの<ことば>に変わるのだ。…<ことば>になることで文章は羽根をつける。…思考もひろいところへ出ていくのだ。読む人をうるおすものになるのだ。…」と日記がエッセイに変わる過程を述べる。(131p)

筆者は「日記からはじまる」として「日記は、日記では終わらない。そこからいろんなものが、生まれるからである。エッセイや詩になる。俳句にも、歌にもなる。小説になることもある。日記は、ときに作品へと向かう。自己表現への道に、つながっているのだ。つながるまでのプロセスも、おもしろい。」と述べ、まず日記をつけることを説く。(102p)

日記をつけるとき「人間は疲れると、文章のなかに『とても』とか『たいへん』とか『非常に』とか『いちばん』とか『ものすごく』などが多くなるのである。」と。(104p)

この指摘は全く意識していなかった。これからそういう文が多くなると我が心身の疲れた状態のめやすとなるだろう。

さらに筆者は「あの人は、どう思っているのか。何をしているのだろう。疑惑や不安をおぼえると、日記のことばは、ふえていく。」(111p)という。それについて「ひとつは、どんどん内向していくために、ことばがどんどんで出てくるのだ。からからになるまで、出てくる。もうひとつは、疑惑を疑惑たらしめるためには、相手が述べたことや状況をつぶさに書いていかなくてはならない。…その『引用』でまた、文章がふえるのである。…」と述べる。(113p)

ブログを書くということは内面をさらけ出すということになるのだろう。

日記をエッセイにすることについて「その日に見つけたもの、感じたことはたいていエッセイの種になる。」という。(128p)

日記をつけることで「記憶を記録に替えたい気持ちが生まれるのだ。日記をつける人は自分だけではない。人をたいせつにしたいと願う人なのかもしれない。」と筆者は述べる。(149-150p)

そう大それた気持ちでブログを書いているつもりはないが、いわれてみればそうかもしれないと思ったり・・・。

最後に筆者は日記をつけることについて「日記は、自分を笑うことでもある。『うれしい』なんて書いたりして、いいのかな、調子に乗りすぎてないのかななどと思いながら、筆はその『うれしい』ということばにつながろうとする。そして、自分の書いたことばに、にっこりする。『ばかだな』とも思う。自分の批評家がひとり生まれる。その批評家はときどき現れ、消えていく。日記をつけることは、自分のそばに、自分とは少しだけちがう自分がいることを感じることなのだ。…その分、世界は広くなる。一日も広くなる。新しくなる。」という。(164p)

そして筆者自身が日記をつけることについて「日記をつけていると、自分のなかの一日のほこりがとれ払われて、きれいになるように思う。一日が少しのことばになって、見えてくるのも心地よいものだ。ぼくはその気持ちのなかに入りたいために、日記をつけるのだと思う。…」と述べている。(164p)

ブログに投稿することについて筆者のようにその意味を分析したことはない。それでもブログを通して何か気持ちの上ですっきりするものがあるのも確かである。その意味では筆者のいう「自分のなかの一日のほこりがとれ払われて、きれいになるように思う。」と同じことかもしれない。

その意味でもできるだけブログに投稿するようにしよう…。

2011年9月24日土曜日

彼岸法要&墓参り

昨日の夕方、彼岸法要の塔婆を受け取りにお寺に行った。寺に着くと庭で用事をしている人に出会った。塔婆を取りに来たと告げると、まだ彼岸法要はすんでいないと話される。話をした人は寺の古いお上人の奥さんだった。

誰かと聞かれ今年亡くなったモノの子だと話すとそのことを知っておられない様子だった。話しているとその奥さんはアサちゃんのことをよく知っておられ、一緒に出かけた先のエピソードなどを話される。

お上人の奥さんは身延山に一緒に出かけた話をされるが、アサちゃんは寺の行事ではそこに出かけたことはない。アサちゃんが身延山に4回行ったすべては娘たちとである。日蓮宗の何かの行事で寺から福山に出かけたとアサちゃんから聞いたことがあった。多分奥さんはそのときの話をされたのだろう。

福山に出かけたときはアサちゃんの夫が亡くなって我が家が日蓮宗のその寺と関わりがあるようになっていた。

これまでその奥さんとゆっくり話をしたことはなかった。そのため奥さんの顔も良く知らなかった。ところが話し始めて奥さんだとわかり話しやすい人だと思った。

話していると彼岸法要は夜7時からだとか。すんだとばかり思って塔婆を取りに行ったので少々がっかり。それを見抜いた奥さんは7時に来るようにという。法要に参加するのが嫌だから来たのだともいえず、笑っていると、その娘さんが7時までついでにここで話をしていたら…という。

しばらくするとほかの人が寺に入って来た。それをチャンスに家に帰ることにした。奥さんは7時に寺に来なかったらタクシーで迎えに家に来るという。

「じゃあ、来ます!」といって一度家に帰った。

7時になって寺に行った。一番後ろの椅子が空いていたのでそこに座る。もう4人のお上人による法要は始まっていた。銅鑼や太鼓や読経やらでにぎやかなこと、にぎやかなこと。隣の席の人に何時まであるのかとたずねると8時半までという。これを聞いてもうがっくり!

アサちゃんに似てかどうか余り信心深くない。アサちゃんは年齢に似合わず、お寺参りに行くことを極力嫌った。今となってはその気持ちがよくわかる。楽しいところではない。

塔婆は法要が終わらないともらえない。だが塔婆をもらうために寺に来ている。罪作りと思うけどしぶしぶ椅子に座って法要を聞いていた。その間何度欠伸と格闘したことだろう。

塔婆のお布施は夕方行った時渡していた。法要が終わるとすぐに塔婆を受け取り家に帰った。

その塔婆2本を持って今朝は、アサちゃんが亡くなって初めて一人で墓に参った。いつものにぎやかな墓参りと違い、いろいろと思いが頭を過る墓参りとなった。やはり淋しいものがある。

年に3度、寺から塔婆を受け取るようになっている。法要に参加した人は皆、お上人の読経にあわせてお経を読み上げる。今のところ、そういうことに全く関心がない。これもいけないことかもしれないが…。正直な気持ちだ。

昨日は次の法要からは塔婆だけ受け取りに行こうと決めた日となった。

2011年9月23日金曜日

芸術の秋!?

芸術の秋!といわれる。だが美術に疎いモノにとっては音楽の秋の方がふさわしい。

昨夜は広島交響楽団第312回定期演奏会に出かけた。演奏曲目は「時代を超える2大シンフォニー~マーラー没後100周年~」と題され、指揮者に京都市交響楽団の常任指揮者広上淳一を迎えて

モーツアルト:交響曲第41番ハ長調k.551「ジュピター」
マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」

の2曲が演奏された。

この作曲家の2人は音楽の神々といわれる所以か、2000余人収容の会場は満員だった。特に学生の姿も目立つ。

前半のモーツアルトは少々眠気を感じたほどだったが、後半のマーラーの曲は壮大だった。特に管楽器の人の活躍が目立ったように思う。フルートは4人。時にピッコロにも持ち替えて…。カッコウの鳴き声が静かに聞こえるのはどうやっているのかよくわからなかった。後で、プログラムを見るとチェロの弦によってラの音を保持していたという。演奏中、ずっとそのことが気になっていたが、ここにきてやっとわかった。

第二楽章から突如激しい音になる。魂が揺さぶられる…という表現があるがそのとおりである。途中、フランス民謡で聞いたことがあるメロディもあり本当に聞き応えがある曲だった。

演奏が終わるとあちこちから「ブラボー!」の歓声が…。拍手も鳴り止むことなく続いた。前半の眠気はどこへやら。本当にすばらしい演奏だった。

音楽といえば今朝は先生宅でフルートの発表会のためのピアノ合わせがあった。ソロの曲のピアノ合わせだったが、やはり練習であっても緊張する。練習中、次の練習の人も聞いていたりして…。

何とか我がピアノとの練習も終えると、他の2人の吹く曲を聞いた。皆大作ですばらしい!

少々刺戟を受けて知人の車で途中まで送ってもらって先生宅を後にした。次に皆に会うときは本番だ!

さてさてどうなるものやら…。

さらに音楽といえば昨夜、開演までの時間、会場の隣の情報プラザに行くとヴァイオリニストの古澤巌のチラシがおいてあった。前に見たときは福山のチラシであったが遠方なので行かなかった。今回は呉市で開催される。呉ならば広島市内に出るのと同じくらいの距離だ。行くことにした。

古澤のCDはフルートの曲を練習中、まだYOU TUBE を利用しない頃買って聞いたことがある。そのCDに魅かれいつか古澤のヴァイオリンを聞きたいと思っていた。それが来月7日に実現する。東儀秀樹も古澤と演奏する。だが東儀の方は余り関心がない。それでも古澤のヴァイオリンを聞けるのでその方が楽しみだ。チケット代6000円。

その前に、フルートの発表会がある。まずはそれを優先し、それが終わったなら音楽やその他の秋を満喫したい!来週からは水泳も再開して…。忙しくなりそうだ。

またまたその前に今日はお彼岸の中日。アサちゃんの塔婆と先祖供養の塔婆をとりに寺へ行かなくてはいけない。そして墓参りにも…。墓参りはもう遅いので明日にしよう!

2011年9月21日水曜日

『スペイン430日  オリーブの樹の蔭に』

堀田善衛の『スペイン430日 オリーブの樹の蔭に』(筑摩書房、1989年)を読んだ。堀田善衛のスペイン紀行を読もうとしたきっかけはスペインへ同行したS先生の影響が大きい。

S先生は旅行中のバスの中で留学当時、スペインの堀田善衛の家に招かれた。S先生が招かれた理由は堀田の「外国生活の楽しみの一つは、年若い、新しい友人が出来ることである。日本の社会では新しい友人などはなかなか出来ない」(128p)にあるのかもしれない。さらにそれは「外国生活の楽しみの一つは、同胞の若い人々と友人になれることである。この年になって若い友人がなかなか出来ないからである」(371p)と同じようなことをこの本の始め頃と終わり頃に書いていることからもわかる。

堀田が430日もスペインで住んだ理由については『ゴヤ』四部作を書き終えたとき「身に非常な疲れと自分の生自体がひどく希薄になったと感じていた。」(388p)という。その頃、著者は60歳未満であり「人生の設計図が描けない」で「ヤケッパチという在り様」であった。(388p)

そこで思いをめぐらすうち「スペイン国へ」行く。底辺には幼少時代の著者の西洋教養が作用していた。(388p)

著者は1977年7月から1978年9月までの430日間、夫人とともにスペインに滞在したときのことをこの本に書いている。

スペインではチーズが機内食や食卓によく出る。ところが、食べた後味はあのモンゴルの食事を連想させる。羊のあの独特の味が…。なぜスペインは牛を多く飼っているのに羊の味がするのか?旅行中ずっと思っていた。それは灰白色の岩山の中腹で飼育する牛や羊を山が急峻なため乳に絞っても降ろせないということに関わっていた。「牛乳や山羊の乳を下に降ろせないので、双方の乳をまぜあわせてチーズをつくるのだ、と教えてくれる。それがあの猛烈強烈なチーズなのだ」。(42p)

機内食でもお腹がすいていたのでやっとパンにありつけると思ってガブッと食べる。だが、その後の口の中に広がる後味の悪いこと。もういくら辺境趣味といってもこの味だけは閉口してしまう。結局、チーズを除いて食べる。その点、ヨーグルトは日本のものよりも美味!

スペイン行きを誘ってくれた知人は彼の格言として「スペインへ行けば元気になる!」がある。堀田もこの本の中で知人の考えるようなことを書いている。「車を止めて、どこへ行くのか、と聞いてみると、馬の手綱をもつ五十代の家長らしい男が、『a bajo de montana山の下へ』と言う。山の下へ…?それは要するに、アッチへ、というほどの意味だろう。…アッチへ…?とても二十世紀に在りとも思われぬ在り様ではあるけれども、目的、目的地ばかり、あるいは目的、目的地だけしか持たぬ人生の有様よりも、それより豊かな暮らしざまであるかもしれぬ。…」。(56p)

さらに駐東京大使館の一等書記官S氏の話と、バネスト銀行のB氏の話として「ECへ入ったら、工業化計画はスロー・ダウンして、機械その他は先進国から買い、こっちは農業に精を出して環境を保全し、のんびり暮らせばいい、と言う。みながみな日本みたいになる必要はない、と」。(97p)

今の日本を見るとその指摘はあたっているかもしれない。

世界で最も美しいと著者がいうレオンの大聖堂をシェスタのため見ることができなかった。その大聖堂について「スペインで唯一の純フランス風ゴティック建築であり、そのステインド・グラスは、陽光の強さということもあって、私の考えでは世界で最も美しい絵瑠璃をもつ聖堂である。」と堀田は述べる。(75p)

本当にみたかったなあと思う。見られなくて残念!

フラメンコについて筆者は「元来、flamencoあるいはflamencaというのは、第一義的にはフランドル地方の、という意であり、転じては異国的なもの、異なるもの、ヘンなもの、という意味なのである。」という。(85p)

これからスペイン語を習おうとしている。堀田はそのスペイン語をDon Juanの言葉として「誰かが言ったように、ドイツ語が馬に話すための言葉だとしたら、フランス語は人間に話すためのものであり、スペイン語は神に、そしてイタリア語は、旋律的なシラブルと甘ったれた抑揚で、女に話しかけるためのことばだ。」と引用している。(106p)

ドイツ語が馬に話すために、スペイン語が神に話すためとは…。ドイツ語を習っている知人はこのことをご存知!?

30余年前にこの本を書いた堀田はこれからスペインが変わるだろうことを「私の方からは、このところ十年あるいは十五年ほどのあいだのこの国の変り方について話す。スプリンクラーを導入して地下水をくみ上げることによる緑地化。日本とよく似た高度成長と工業化。団地化。それに女性風俗の変化の甚だしさ等等。」。(132p)

これにはうなずいてしまう。実に妙を得ている。スプリンクラーは今回スペインで見た。女性風俗に関しては同行の神父様も規律の乱れを話されていた。

スペインの聖堂で世界へ向かっていった使者の話をよく聞いた。堀田は「天正の少年使節の派遣もまた、ローマ教皇の資金援助を得るためのデモンストレーションであった。連れ出されて途方もない苦労をさせられた少年たちが哀れである。」という。そこには「同じスペインを発した両者(スペインとポルトガルの宣教者)が一方は東に、他方は西に向い、地球を完全に一周して、発見事業の最後に到達したこの日本で一緒になる、この策は主の光栄のために最も望ましい姿である。」。(197p)

日本の青年が外国で生活することについて堀田は「日本の青年たちのあいだに、外国へ行って自分の可能性を試す、という言い方があることは小生も承知している。しかしそれは傲慢というものである。外国の人々そのものは、平凡な生活を平凡におくることに苦闘しているのであってみれば、そこへ入って来て、自分の可能性などというものを試されたりしたのではたまったものではない。」という。(210p)

この点に関してはちょっと疑問符を付けたくなる。そうだろうか。若さは何事にも勝る可能性を秘めていると思うけど…。

スペインの生活について弁護士カルロス夫人のフランス人カティの言葉として「フランスでの生活はなんにつけても法律と契約という二つのカミソリの刃のあいだを、…避け避けして行かねばならぬが、その点スペインはノンキでよろしい、と言う。法律も契約もアスタ・マニャーナ(明日にしよう)で抜けて通れる。それだけに弁護士は余り儲からぬ、と。」と書いている。(237p)

ヨーロッパの音楽家についてコンクールで貴族の子女が音楽家になっていないことを「芸術家というものは、ヨーロッパのタテの社会にあっては賎業従事者なのであろう。極端なことを言えば、音楽家は呼びつけて晩餐の伴奏をさせるもんであり、絵描きは壁を飾らせるものなのである。Artistということばを過大にも過小にも評価してはならない。」という。(252p)

この点に関しては日本の音楽家はスペインに同行していたヒトも含めて皆ヨーロッパ各地で西洋音楽を学んでいる。日本のイメージと西洋のそれとはだいぶ差があるのかも。

世界遺産などの廃墟について「廃墟はいい。廃墟に美などある筈がない。その廃墟に残った石にこびりついていると見える人間情念のようなものが、もっとも基本的、根本的なものを考えさせるから廃墟は人を惹きつけるのである。繰り返す。廃墟に美などある筈がない。」という。(277p)

筆者のいうように廃墟はいい。ザビエル城のあの廃墟は良かった。今でもあの真っ青な空に寂しくそびえるザビエル城を思い出す。

年号について「明治、大正、昭和などという年号区別は、それは短期的に便利かもしれないが、歴史をせいぜい何十年単位というほどの短いものにコマギレ化して、果たしていいものかどうか…。こんなコマギレのつづりあわせから果たして重厚な歴史感覚というものが人に成り立ちうるものかどうか…。」と述べて、堀田は西暦をとる。(303p)

これも全く同感である。会社勤めの頃は仕方なく使用していたが、今では考える上でも西暦のほうが便利。

フランコ時代についてカフェで知り合った青年の話として「ぼくの父はフランコと一緒に戦った陸軍の将校だ。父たちがああいう戦争(内戦)をやってそれに勝ったことを本当にぼくはうとましく思う。しかも戦後に、復讐として二十万のもの共和国の人を殺した」。今の君主制について「ノオ。あれは外国人だ。右も左も支持しない。この国の君主制は、大多数の非君主制をもった人々に支持された君主制だ。いかにもスペイン的だろう」と青年の言葉を書いている。(324-325p)

この本を読み終えて、なんとなく今回のスペイン旅行で感じたことと関係あるものをここに列挙した。堀田の眼を通してスペイン事情が少しはわかる。他にも堀田はスペインに関して書いている。徐々にそれも読んで行きたい。

2011年9月20日火曜日

アンサンブルのレッスン

台風の影響もあるのか毎日のように雨が降る。そんな中、午後から街中までフルートのレッスンに出かけた。出かける前、家の中で大人しくパソコンで遊んでいた。ふと気がつくとレッスン開始まで1時間を切っている。

今日はアンサンブルの練習をするため、いつもより早めにレッスンが始まる。そのメンバーも集まる予定になっている。急いでJRの駅まで行った。広島駅に着くとバスセンターに入るバスに飛び乗った。どうにかレッスン時間にぎりぎり間に合った。その間、40分。本当に慌しかった!

レッスン会場に入ると先生が先に来られていた。すぐにレッスンを受ける。フルートを吹く時、いつも高音部分がチューニング・メータよりも高く、低音部分は逆に低くなる。いつもチューニングにあわせるよういわれるのだが余り意識せずに吹いてしまう。だが先生はチューニング云々より前にすぐわかってしまう。

今日はその自戒もこめて我がチューニング・メータを持参した。それも家であわせ、いい音を出す訓練をしなくてはいけないのに…。

ソロの曲のレッスンが終わる頃、アンサンブルのメンバーが揃った。先生を含めて4人での演奏である。我がパートは2。パート1の人のそばで吹くのだが、皆で吹くと自分の音が聞こえない。本当は皆の音を聞きながら吹くのがいいのにそれどころではない。特にパート2なのでメロディのパート1にあわせて吹かないといけない。そういわれてどうにか人の吹く音も聞こえてきた。

4人でのアンサンブルの練習は本番当日のリハーサルの6分間を残すのみとか。これを聞いて本気で練習しなければ…とやっと思う。

まだまだソロも全体合奏もあるというのに…。今週の祝日は先生宅でピアノ合わせが待っている。本当に本番が近づいた感じがする。大丈夫?といい聞かせて…。

2011年9月19日月曜日

敬老の日の朝に

敬老の日の朝、目が覚めると久しぶりに太陽が輝いている。気持ちいい朝だ。朝食を済ませ新聞を読みながらTVをみていると一人の女性のヒューマンドキュメンタリーを映し出している。「画家ー堀文子93歳の決意」である。

敬老の日にふさわしく人々を勇気付けてくれる番組であった。

聞き手は作家の戸井十月。戸井はバイクで世界を駆け巡る人。その戸井が堀文子にインタヴューしている模様がTVから流れる。堀の一言一言語られる言葉がみるものを惹き付ける。なかでも「老年になっても甘えている暇はない」「知らないことがどんどん増えてくる」「ホンのぺんぺん草でいい」「美とは生き生きしていることであり生命力だ」「無駄なことはない」など…。そして放送の最後には「息の絶えるまで感動していたい!」といって締めくくる。TV画面に流れる最後のテロップは「群れない 慣れない 頼らない」とも。

また放送の途中で堀の夫が病気でなくなったあと、40過ぎの堀は一人となり外国へ3年放浪の旅に出る。その中でメキシコへ行った際のメキシコのマヤ文明について話をする。

メキシコへは行ったことがない。アメリカ大陸は10余年前ペルーに行ったときロスに立ち寄ったことがあるだけだ。この番組でメキシコに惹かれてしまった!

幸いスペイン語を学ぼうと決めているので少しは話せるようになったときメキシコへ行こう!

そして堀文子の書いた文章も読みたくなる。

最近、本をゆっくり読む暇がなかった。それでも一昨日と昨日は堀田善衛の『スペイン430日 オリーブの木の陰に』を読み終える。当分は堀田と堀文子の本を読んで読書の秋としよう!

秋!といえばコスモスも見に行きたい!それはフルートの発表会後、県北にある国立備北丘陵公園の100品種、150万本の日本最大級のコスモスを見に行こう…。

2011年9月18日日曜日

集う

アサちゃんがいなくなって今日で丸7ヶ月になる。久しぶりアサちゃんの娘三人が集う日となった。

朝早く、アサちゃんの長女夫妻、アサちゃんの一番大きい孫とその子供たち3人、それにアサちゃんの三女が我が家にやってきた。アサちゃんの三女は豊中市の新千里に住んでいる。新大阪から広島市の最寄の駅に着くと車で出迎えた。その足ですぐにアサちゃんの墓参りをする。三女は不幸があってからはじめての墓参りであった。

墓まで車で移動中、三女の家の朗報を聞く。2年半前、アサちゃんの三女の夫は退職を境に体調を崩していた。そのため2月の不幸のときもその夫はかろうじて日帰りで参列するという経緯があった。三女も夫の体調不良に加えてわが娘の出産が重なり、なかなか広島まで来られる状況になかった。

それがなんとその夫が今月の定期健診で「酸素」を必要としなくなるほどまでに体調が回復したという。三女一家にとっては本当に「朗報」である。車内でそれを聞いて皆で喜んだ!

酸素を持ち歩く生活は身障者に該当する。ところがそれもいらなくなった今はその手帳も返上とか。

アサちゃんの三女の夫はまだ還暦過ぎであり年老いてはいない。それが体調不良でもう何もできないと思っていたらしい。今回の朗報で何でも出来る状況になった。

早速、アサちゃんの三女は息子や娘そして孫たちの住んでいる東京に遊びに行くと張り切って話す。

スペインへ旅行中、フランスのルルドへ行った。ルルドは「奇跡の水」として知られるほど有名な場所であり、世界各国からその水を求めて巡礼者がやってくる。アサちゃんの三女が広島に来たならばその水を渡そうと思っていた。その夫の体調が治るならと思って…。ところがその水を飲まなくても体調が回復した。もしもその前に飲み、後で体調が回復したというならばその水は本当に「奇跡の水」になっていただろう。

ともあれ久しぶりの三姉妹の再会であった。来年春のアサちゃんの一周忌に三女夫妻は揃って広島に来られると喜んで話していた。

墓参りを終えると皆で食事に行った。アサちゃんの三女は夫の体調の回復により何か吹っ切れたように話をする。食事を終えるといったん我が家に戻ってまた色々とゆっくりと近況を語り合った。

同じ家で成長した三姉妹といえどもその後の生き方はそれぞれ違っている。1人を除いて2人の姉妹はそれぞれある年齢になると職場で知り合った人と結婚した。家族の有無とも関係あるのか他の2人に比べて何のストレスもなく生活しているモノにとっては全く体の不調は感じない。いいことか悪いことかアサちゃんの長女の夫はその状況をみて、まとめてみんなの面倒を見てもらおうと笑っていう。

本当にそうなるのも困りものだが…。

とりあえず今のところ皆元気になった!喜ばしいことだ…。

2011年9月16日金曜日

老いてますます…

敬老の日が近づいてきた。昨年のこのごろはアサちゃん宛てに広島市長名で敬老の祝いとしてデパートの商品券が送られて来た。今年はもうそれもない。

メディアは県内の呉市に住む111歳になる最高齢者の女性を取り上げる。家族とともに自宅で生活されている様子が映し出される。言葉は発せられないが人のいうことはわかり、さらに1日3食食べるという。

食べられさえすれば人間は何歳でも生きられる!アサちゃんをほとんど最期まで看たモノとしてそう実感する。

アサちゃんはいつもいっていた。「食い力」だと。食べられなくなったら人間は終わりだと…。そして毎夜、体を拭いてあげるとき「100まで生きようね!」というと「生きられないと思うよ!」と。言葉が発せられるまでそう話したコトを思い出す。

結果的にそうなってしまった…。

高齢化社会といわれて久しい!

昨日の地元紙を読むと「くらし欄」の下部の見出しに「四十代以上大学生全国で4000人超す 最高齢は80歳」とある。

80歳までにはまだだいぶ時間がある。この統計よりも前に社会人大学生であったモノとしては何歳になっても若者と同じく学べるようになったことはいい傾向だと思う。とはいっても社会人大学生として出た大学もその前年にシニアを受け入れたばかりであるが…。そういう意味ではいいときにリストラされたと我が逆境に感謝する!

その新聞報道によると最高齢学生は千葉大大学院生の80歳の男性で、女性は学習院大大学院の78歳の女性とか。東北を除く全国100の国立・私立大学と大学院で調査を実施し、41校から回答を得ている。40歳以上の学生数は4404人で最多は早稲田大学の823人だとか。

社会人大学生として学んだ時と同じ頃、脚本家の内館牧子は東北大学大学院で学んでいる。そのころ内館は週刊誌や月刊誌などに「養老院より大学院へ…」と書いている。確かにそう思う。同じ院でも養老院に入るより、大学院へ入って若者とともに学ぶほうがどれだけ健康で楽しいことか。

社会人入学時、まだ2年目とあって大学の入学センターから相当歓迎された。歓迎パーティーもあった。社会人入学といってもAO入試であり、若い人は歯学部などでもそれはみられた。理学部は除かれていたと思うけど…。今はどうなのだろう…。

時に思うことがある。人は還暦を境に元気なものとそうでないものとに分かれると。周りを見ても定年退職後、体の不調を訴える人が多い気がする。その点、先の調査のように元気な人は何歳になっても学び続けることができる。

べつに養老院でなくても病院でも同じことだ。そこにお金を支払うより大学などに行って元気に毎日過ごすほうが楽しいと思うけど…。

それにはアサちゃんがいつもいってたように「じっとしていてはいけない!」ということか。またアサちゃんはお金をもちすぎると「坊主が取るか医者が取るか!」だといって…。病気になると…。

本当にそう思う。世の中、すべて揃った人はいない…。

まだまだ元気だと思っている。やりたいことも沢山残っている。せいぜい体を動かして毎日楽しく…。老いてますます元気に…。

2011年9月15日木曜日

いろんなことが…

昨日学部時代の指導教官から大学のロゴが印刷されていない真白い封書が送られて来た。何事かと思って恐る恐る封筒を開けると所属する研究会の案内であった。そこには「〇〇先生退職記念行事」と銘打った研究会とパーティーの模様が書かれていた。

退職される先生は院生時代の主の指導教官である。他の学部から院に入ったモノに対して始めはどうなるものかと心配したと2年半前の修了パーティーで聞いたことがあった。学部卒業当時の院は前年にできたばかりだった。そこで前からある他の学部の院に入った。だがそこでは何もわからず右往左往する日々だった。その様子を先生は察知されたようである。

今回の世話役は学部時代の指導教官である。学部の卒業パーティーに出席するよういわれたにもかかわらず、アサちゃんに手がかかりそれを断念した経緯があった。それ以降も忙しくしていてご無沙汰していた。

同封の葉書に出欠を書く際、先生にそのお詫びを書き、またアサちゃんが亡くなって時間的な余裕も出来たので出席する旨の返事を出した。

それにはさらに退職される恩師の「思い出の記」の原稿募集もあった。それも記念になると思い応募した。

2年半前の修了パーティーはアサちゃんの3女にアサちゃんを看てもらって短時間出席した。そのとき大学の先生や若い院生は皆良く飲むという印象をもった。一升瓶を手に持ってお酒を注いでいた。そしてまだ修了できるかどうか不安でいたモノに対して先生はその後の修了試験の発表まで決してOKだとはいわれなかった。ただまだ何かを続けたいと告げたとき研究生で来るようにといってくださった事を思い出す。

だがそれも物理的に無理だとわかりあきらめた。ただ修了できたことだけで由とした。

それから2年半経った。これからは時間的にも自由であるため連絡あるものはなるべく出席しようと思っている。

昨日の夜はフルートの先生にお土産をことづけた人からメールや電話をもらった。電話の人は先週フルートを習った際、一緒にスペインに行った知人が先生たちに「完全復帰」したといっていたと教えてくれた。我が状況が元のように元気になったということらしい。

それを教えてくれた人は一緒に行った知人にそのお礼をするようにとTELで話す。電話を切るとすぐに一緒に行った知人にTELしてその話をした。

一緒に行った知人の格言は「スペインへ行けば(皆)元気になる!」。

スペインをバスで移動中、広い地平線が見える草原にはただ牛や羊がいるだけで人の姿は全くない。知人はしきりにそれをいう。それほど広い国であるスペインへ行けば何もあくせくして働くことはない。ゆったりと過ごせば誰も皆元気になれるというのである。確かにそうかもしれない。

おかげで元気になって帰ってきた!

そして誘ってくれた人を差し置いては悪いと思い同行者の誰ともアドレスなど交換していないというと大笑いする。知人よりも皆と親しくなったというのだろう。それもそうかもしれない。我が本領すべてが旅行中に出てしまったのだから…。

電話で話しているモノも笑い転げるが知人はその話を聞いてもっと可笑しそうに笑う。それもこれもすべて同じ人間の話なのだが…。

さらに旅行中に話したことがある。知人は「100歳まで生きて老人ホームで相手を探して…」というのである。それを再度電話でするとまだまだ人生は残っていると笑って励ましてくれる。「100歳で花を咲かせるから…」と笑ってというとまた大笑いする。

まあこの際何でもいい!人生楽しくをモットーに…。頑張りましょう!花の100歳を目指して…。

2011年9月14日水曜日

フルートのレッスン

昨日、1ヶ月余ぶりでフルートのレッスンを受けてきた。先生から「スペインはどうだった?」と聞かれる。「楽しかった!」とこたえ、しばらく旅の話をしてレッスンになった。

レッスン前、ピアノ合わせとリハーサルの時間のスケジュール表をもらう。先生はいつもこまめにパソコンでそれらを入力し、発表会のすべての手順を準備される。また本番では裏方にも回って発表する人たちの譜面台の高さやチューニングなどの準備までして下さる。

そんな先生だからこそこんなに長くフルートを続けて来られたのだろうと改めて感謝する。そしてフルートの発表会の近づいたことを実感する。

先日来から16音符にてこずりピアノ譜と合わないことがあった。だが、それもどうにか合うようになった。後は全体合奏とアンサンブルの練習がある。昨日はアンサンブルの人が揃わないので来週のレッスンにしようということでもちこされた。

全体合奏はそこにいる3人で行った。そろそろ本格的に練習を…と思っている。

このブログ投稿前、いつものように裏庭の植木に水をやっていた。すると、家の前にある小学校の植木の剪定をする業者が目の前に来てその植木の写真を撮っている。

その業者が話しかけてきた。優しそうな人だったので何をするのかと聞くと剪定だという。

我が家の木を切るといくら位要るかととっさに聞くとその人は木を切る業者ではないという。今春シルバーで切ってもらったというと、その人は暇があれば3000円でしてあげるという。たった3000円と聞いて驚いた。もちろん本気で話した分けではないが…。

学校の木は台風を前に剪定するのだろう。3階建ての建物の高さくらいまで木は伸びている。でもその木のおかげで道を歩いても涼しい。かといって剪定しないと木が倒れたなら我が家はつぶれてしまう。

年に2回ほど剪定するとか。

今日は午後から以前知り合った人と会う予定にしている。今日も最高気温は33度とか。しばらくは暑い日が続きそう…。

その前にフルートの練習をしなければ…。

2011年9月13日火曜日

とんでもない秋!

季節では秋!といっても毎日33度前後の最高気温である。今日も朝から暑い!

それでも狭い裏庭においている自転車に赤トンボが止まっている。赤トンボは3日前から見るようになった。だがたった1匹である。同じトンボか定かでないが秋を感じる!

秋といえば朝のTV番組でも秋刀魚を使った料理を特集していた。それに刺戟されたわけではないが、昼前スーパーに行くと秋刀魚の刺身があった。それを買って帰った。

お昼ごはんを済ませて片付けているとTELがなる。先ほど買い物に行った生協からである。生協のカードを利用するので誰が何を購入したかがすぐわかるらしい。

秋刀魚の刺身はアジではないかというのである。いくら主婦でないといってもアジと秋刀魚ぐらいの違いはわかる。その売り場には刺身用にしてあるパックと短冊の形のものとが置かれていた。

刺身用になっているものは目にしたとき秋刀魚にしては身が厚いと思った。だがそのときはアジとは思わなかった。なんとなく短冊のほうを買った。

電話してきた主はそのことをいってるようだった。短冊を買ったというと了解したらしく先方は謝って電話を切った。

それにしても生協の担当者はアジを購入した人を割り出すために心当たりの人すべてにTELするのだろうか。アジなのに秋刀魚のラベルを貼って間違って表示したといって…。

とんだ秋を経験した日となった。

気を取り直して今からフルートのレッスンに出かけよう!

2011年9月12日月曜日

聞いてみるものだ!

スペインからの帰国途中の機内で決心したことがあった。来年4月に大学の科目等履修生となってスペイン語を習おう…と。

帰国後3日目、2年半前に修了した大学のHPから入学案内を探し科目等履修生について検索した。

ところがいくらシラバスでスペイン語のネイティブの先生を探しても見つけることができない。仕方なく、入学手続きの手順なども知りたいと思い大学の事務局にメールを送る。

すると今朝、その返事が入ってきた。スペインで知り合ったガイドのサントさんは6年前から探してもこの大学には在籍せず他の大学ではないかという。だがフランス語の先生で似たような名前の人がいる。研究総覧を調べるようにとの事で探し出したが顔も目的の人と違っていた。

仕方なく大学にネイティブでなくてもいい旨連絡すると、今また返事がきた。来年度のスペイン語の詳細は決定していないが、ネイティブの先生の授業の可能性が有るとのこと。そのため大学から連絡するまでしばらく待つようにとの事だった。

それにしても最初の問い合わせに「意欲を持って問合せいただいたところに申し訳ないのですが…」と書かれ、一生懸命サントさんについて調べてくださったことがありがたかった。

ともあれ、来年度たとえネイティブの先生でなくともスペイン語の講座を受けようと思っている。

これを書いている途中、9年前の夏のことを思い出す。会社をリストラされた。最後まで勤めたかったがそれも仕方がない。会社を辞めてもJRの定期を買って毎日街中の図書館まで出かけていた。その2週間後、市の交流プラザで大学の入学案内のパンフレットを目にする。アンテナを張り巡らしていると自然に目に入るものだと知ったものだった。

パンフを持ち帰ったが入学できるような大学ではない。放送大学でもと思ったりしていた。ところがもしかして頑張れば…と思い、その大学で博士号をとった中国の留学生にすぐにメールして入学にそろえる書類の書き方の本を教えてもらった。また京都の大学で20代で博士号をとり広島の大学で助手をされていた若い先生にひろしまアジア塾でゼミを受け持ってもらったことがある。その後北海道大学に赴任したばかりのその若い先生に、これまたメールでどうすればよいか教えてもらった。

その若い男の先生はとても長い文のアドバイスをメールでくださり、大体の要領がわかってきた。今は大阪市立大学に転任されている。

この2人のアドバイスがなければ到底大学には入れなかっただろう。本当に感謝している。

北海道大学に赴任されたとき、広島からの塾生男女4人は札幌の先生を訪ねた。当時新婚の先生夫妻は車で北海道内を観光してくださった。ジンギスカンも食べた。北海道大学の先生の研究室にもお邪魔したこともあった。

もう一人の中国の女性の留学生とは中国語の先生と生徒として知り合った。今は〇〇大学の先生であり、その人とは九寨溝に行く時会おうと思っている。

ブログを書きながら、9年前のあのファイト一杯だった頃の気持ちが蘇ってきた。その頃から9歳も年齢を重ねてしまった。それでも気持ちだけは衰えてはいけないと常に言い聞かせて…。

すべては大学からの返事を待つことにしよう!

2011年9月11日日曜日

同行者のブログを読んで…。

暇を見つけてはワードにこの度のスペイン演奏旅行のことを入力している。

先ほど、それも飽きたので旅行に同行した人の名前をGoogleで適当に検索していると広島で活動している若い男性のブログにヒットした。

同行したほとんどの人とは親しく話をしたけど、その人とはあまり話をしていない。他の若者とはペアで写真も撮ってもらったのにその人は話しにくかった…。

それでもブログを読んでいると若者らしい視点で色々と書いている。特に宗教音楽に関しては素人にとってとてもそのブログは参考になる。

ただ単純にミサに出て演奏する人たちの音楽を聴くだけのモノとは違うことがはっきりわかった。彼らは見えないところでしっかりと練習していたことを知った。

多分これからは直接会うことはないと思うけど、広島で開催されるオペラなどに出演されると思うので聴く機会はあるだろう。楽しみだ。

ブログに投稿しているので、若い人はブログを書くものと勝手に想像していた。ところが案外そうでもない。

又後で、暇を見つけて他の人の名で検索してみよう。とはいっても我がブログのように何のとりえもないモノにとってはいくら固有名詞を入力してもそのブログにヒットすることは不可能だが…。ともあれ、今回旅行に参加した音大生やその卒業生は音楽を職業とする人たちに違いない。

そういう点からみれば、ブログを通して売り込むのも一つの方法だと思うけど・・・。

旅行中、長年日本を離れて海外で活動している人に、参加した合唱団の世話人の女性は日本の厳しい就職事情を現地で話す。聞いていた若者は安定した職業につけないだろうと予測しているともいってたが…。

話した人は自分から売り込まないとこの厳しさに勝てないという配慮から学校関係に自分から売り込むようにと助言する。

今、何の仕事にも就かず、世の中の厳しさを忘れたような生活をしているモノにとって他人事ながら確かに…と思う。

ともあれ、皆まだまだ若い!若い頃そういう夢を持たず、今になってやりたいことが山ほどあるモノと夢を持ち続けている今の若い人たちとを比べるコトはできない。だからこそ、なんでも可能性を秘めている若者にかげながらエールを送ってあげたい!頑張って!

2011年9月10日土曜日

残暑

スペインから帰ってきて日本は涼しくなったと思っていた。ところが1昨日から以前と同じようにまだまだ暑い!特に昨夜は暑く、窓を開けて寝る。

暑い暑いとばかり言っていても仕方がない。フルートの発表会も近づいている。昨日午後久しぶりにフルートをケースから出して吹いてみる。全くいい音が出ない。これは大変、と今朝も吹いてみる。少しはいい音が出るようになったが…。さてさて。

当分はフルートの練習が欠かせない。これまでは何やかやと言い訳して永く続けている割には進歩がない。今さらうまく吹けるようになれるとは思えないが、それでも少しは…と思うこともある。

アサちゃんが元気な頃、ラジオから流れるフルートの音色を聴いては吹く音色がまだまだ…といつも笑っていっていた。本当にプロの吹く音色はころころとした丸い音色で私が吹く音とは比較にならない。

フルートの発表会といえば当日着る服に少しは注意を払う。そんなにドレッシイーな服ではなくても…。

服といえばスペインで服を購入した。ワンピースである。これはひょんなことからそうなった。サンチャゴの街を知人と、偶然同じ町内に住んでいるとわかった人と3人で買い物中、上部がグレイのラメ入りでスカート部分が黒のワンピースが目に付いた。誘ってくれた知人はそれを見て似合うから買うようにとすすめる。フルートの発表会で着るようにと…。外国に行って余り服など買ったことがない。ましてや男性からすすめられて買ったこともない!躊躇していると買ってあげるという。これにはびっくり!

そうまでいってもらって買わないのは申し訳ない。気持ちだけありがたく頂戴して購入した。

家で着てみるとぴったりであった。ところがである。ここ9年間、全くスカートをはかずもっぱらパンツで通している。そういうおしゃれは全く関係ない生活を余儀なくされていた。

そのワンピースを見るとモロッコで製造されている。メーカーはあの有名なヴァイオリンのストラリヴァリウスをもじったのかstradivarius.comであった。何もかもいいのだけど一つ気になる部分がある。そのワンピースは欧州独特の香水のにおいがするのである。家にもって帰ってからはずっとハンガーにかけてにおいを消そうとしているのだが…。発表会までにそれは…。

フルートの練習とともに、ワードを利用してスペイン演奏旅行の紀行を書いている。これが結構大変な作業だ。すべて書き終えたなら、ブログに投稿する予定だが、時間がかかるような気がする。

暑い日はまだまだ続きそう。スペイン行きが覚めやらぬうちにブログに投稿できるといいのだけれども…。それにしてもやっぱりフルートの発表会が気になる。どうして?

2011年9月9日金曜日

呆れた!

昨日のシャンソンのレッスンでは呆れてしまった!音楽を習うのに先生は楽譜は要らないというのである。

レッスンはいつものように発声練習から始まった。それを終えると先生は「〇〇にしよう」という。その楽譜は持っていない。そういうと歌詞を書いてくださいという。隣の人のを写していると貸してくれる人が現れた。

それも終わると「〇〇にしよう」と又先生はいう。その楽譜も持っていない。今春から習いはじめたものに対して全く配慮がなく、以前の曲のレッスンばかりする。2度もこれが続いたので、再度楽譜がないことを知らせるとまた歌詞を写すようにという。

音楽を習うのに楽譜がないのはおかしい!先生に「音楽を習うのに楽譜がなくていいんですか」というとなくていいという。もう呆れてしまった!

この現象は習い始めたときからあった。毎回楽譜がない曲をレッスンするたび、後でコピーさせてもらうか借りて帰ったりしてコピーした。

さらに先生に対する不信感は頂点に達した。次は何をしようかとたずねるのである。モノを習うのに楽譜はなく、行き当たりばったりに習った曲を何度もするのならば習う価値がない。

これまで音楽に関しては歌こそ習ったことはなかったが楽器は色々と習ったものだった。どの楽器を習うときもまず先生がレッスンする曲の楽譜を教えて下さる。それがこの講座では全くない。

習う生徒が次はこれにしようというのだとか。これでは全く習う価値が認められない。歌声喫茶の様相である。

何事もそうだけど習う側と教える側の相性が悪くては進歩も発展も伺えない。この講座を見切った日となった。

2011年9月8日木曜日

スペイン旅行の後に…

昨日のブログの参加人員について漏れがあった。

その人たちとは地元で活躍されているギタリスト、関西から参加された某女子大学の合唱の先生、ウイーン在住7年でソロで活動されている若い男性、そして同じく欧州で学んでいる若い女性である。

毎日平凡に生活していると季節の変わり目の変化に気づかないことがある。ところが今秋は2週間日本にいない間にすっかり秋!を感じる。特に朝晩の涼しさは…。さらに日没が早まったことなども。

9年前までは海外旅行に出かけた翌日から仕事が待っていた。ところが今はそれも関係ない。とはいってもダラダラと毎日を過ごしていると体に悪い。その点に関してはアサちゃんに感謝している。

アサちゃんは何もせずにいることを嫌った。会社リストラ後も体に良くないから家にじっとしていてはいけないといって…。働いていたときと同じようにJRの定期を買って毎日家を出て街中の図書館に通っていた。結果的にそれが社会人大学に通うことにつながるのだが…。

今ポストを見ると、その大学から11月にあるホームカミングデーの案内が届いていた。社会人で修了したので母校という感慨はそれほど沸かない。それでも来春スペイン語を学ぼうと決めてからは、愛着も沸いてくる。

アサちゃんの年齢まで生きるならば相当何でもすることができる。それには健康が一番。まだまだ健康には自信がある。

今日も午後からはシャンソンが待っている!さあ、元気を出してスペイン旅行後の行動開始!

2011年9月7日水曜日

スペイン演奏旅行、まさか!?

昨日午前、約2週間のスペイン演奏旅行から関西空港に無事帰ってきた。

これまで何度か海外旅行に出かけている。ところが今回は一般のツアーでなく研修旅行のような社員旅行のような不思議な旅だった。本当に楽しい旅だった!誘ってくれた知人に改めて感謝!感謝!

旅の中で「まさか!?」が3度あった。

1度目は過去スペイン留学経験もある人のパスポート紛失。2度目はサンチャゴの教会で演奏の模様が地元紙に掲載されたこと。3度目はバルセロナのサクラダ・ファミリアで外尾氏に偶然で出会ったことなどである。

外尾氏はスペインへ行くと連絡したときスペイン大好きの女朋友がメールで「よろしく!」といったことから関心を抱いた。まさかその外尾氏とサクラダ・ファミリア横のレストランで会えるとは…。

昼食もほとんど終えた頃、レストランに外尾氏は入ってきた。誰かが外尾氏だというのを聞いたときはもうびっくり!まさかそこで…。誘ってくれた知人の制止を振り切りもう足は前に出ていた。すばやい動作でスペイン大好き人間の話をし終えると並んで写真を撮ってもらった。もう完全にミーハー…。

昨夜そのことをスペインが大好きな朋友に告げるとうらやましがられる。それでも30年近く前に行ったスペインの興奮が蘇ったともいった。

スペイン行きは偶然なことから始まった。誘ってくれた知人はフルートの仲間である。その知人は親をなくしたこととスペイン行きのタイミングの良さからだと聞かれた人には説明していた。確かにそうである。もともと話は6月の「ワインの夕べ」に始まる。ひょんなことからパスポートを取得したというとスペイン行きの話になった。これまでアサちゃんの介護で9年間、時間的な制約から自由な行動はできなかった。それが今では時間的にも自由に…。

誘ってくれた知人はただ知り合って20年近くになるフルートの仲間である。

宿泊先はずっと同じ女性と相部屋だった。その人とは同じ年齢で、また独身も同じだった。

誘ってくれた知人についていろいろ質問された。ある程度のことはわかっていても他人のコト。説明できる立場にない。すべて「本人に聞いてください!」と押し通した。

また、我がコトも聞かれた。何者かと。それは相部屋のヒトからだった。今回の世話人であり、合唱の指揮者で大学の教師である先生に聞いたらしい。先生は「知らない!」と答えられたという。あとでフルートの仲間だとその相部屋のヒトが先生に告げると「あっ、そう!」と返事されたとか。誘ってくれた知人にその話をするとフルートを習っているコトは先生はご存知だと…。

いろいろ聞かれたこともあった。だけど毎日は楽しかった!何といっても1日の長いこと。夕食がほとんど夜11時からであり、寝るのは毎日午前1時過ぎ。夜9時までスペインは明るい。楽しかった!夜半に食べに行ったこともあった!

ビールも飲んだ!ワインも飲んだ!飲めば自然と楽しさも増し、笑いもするし饒舌にもなる。何の違和感もなく皆と打ち解けた!楽しかった!だが指揮者の先生は飲めない!?

厳粛なミサにも毎日のように参加した。サンチャゴの教会ではこれまでの色々なことが頭を過り、不覚にも涙をこぼしてしまった。涙といえばヘルシンキから関空までの機内で優しい姉妹の妹さんからメモを渡されたときにも流してしまった。

「〇〇ちゃんへ
お知り合いになれてお蔭様で楽しい旅行ができた事感謝しております。又明日から私は家事、仕事、etc …頑張るつもり。〇〇ちゃんもお家では一人でちょっと淋しいでしょうが頑張ってネ!!いつかまたお会いする日を楽しみしております。姫より」。

本当に優しい人たちである。その返事をメモするとき又、涙が出てしまった!

「徘徊する」が当てはまるように皆よく夜半まで遊び歩いた。メトロに乗って街にも繰り出した!

バルセロナでは若者たちは夕飯後、メトロに乗って夜中まで浜辺で泳ぎ、部屋に帰ったのは午前2時だったとか。

旅の参加者は指揮者の先生が主宰する3合唱団、市内の教会の神父様とその信者たち数名、そして私のような同伴者の総勢30数名。男女比は圧倒的に女性多数。年齢的には音大生数名を除いて高い。

いろいろな環境のヒトたちであったがすぐに皆と打ち解け、あっという間に楽しい旅は終わった。

それにしてもいつもそばについているモノを優しくしてくれた知人に改めて「ありがとう!」といいたい。

スペイン行きの模様は後日ブログに投稿する予定だが…。さてさて…。

最後にスペインで決心したことがあった!それはバルセロナを案内してもらったスペインのガイドが広島の2つの大学でスペイン語を教えているという。2年前に修了した大学にも出かけているとか。来年4月、我が母校でその先生の講義を受けてスペイン語を習おう!科目履修生となって…。楽しみだ!