2011年4月29日金曜日

レンゲ祭り

備中国分寺付近で行われたレンゲ祭りに出かけた。久々の春の陽気に誘われ急に思いついての行動である。

PCで岡山の総社までの時刻を調べると鈍行でも日帰りが可能だった。すぐに行く準備をする。最寄の駅9時55分発に乗るにはほとんど時間がない。とりあえずの必需品である帽子と飲み物を持って駅に出かけた。駅に着くとGWの初日とあって切符売り場に人が並んでいるではないか。

通常の自販機では総社までの切符がかえない。駅員にその旨告げると、新幹線の切符を買う自販機に行き、切符を買う手配をしてくれた。2520円だった。

切符を手にするとすぐにホームに行って到着した列車に乗った。

倉敷までは2時間20分かかる。

アサちゃん亡き後、初めての遠出となる。それも1人での…。これからの人生、人に頼ってばかりでは何の楽しみも見つけられない。1人行動が大切だ。思いつくまま気の向くままの…。

総社駅に着くとまず観光案内所に入った。すでに先客がいてレンゲ祭りのパンフをもらっている。聞くところによると会場までは大型のバスが無料でピストン輸送するとか。総社のパンフをもらおうとすると案内係りはどこからきたか尋ねないと渡せないという。山梨からきたという一人旅の人もいた。

無料バスに乗り込むと15分でレンゲ祭りの会場に着いた。以前レンゲを見にきたときは知人とレンタサイクルを借りての観光であった。ところが今回は無料バスが運行され、その必要がない。

会場に着くと人人人…の姿。メイン会場は大音響のスピーカーが鳴り響く。まずはレンゲを見てから…と思い、そちらへ向かう。ところがそれらしきモノが見えない。乳母車の人に「レンゲはどこに…」と声をかけるとその辺の畑がそうだという。

よくよくみればまだまだ小さいレンゲのピンクのつぼみが見える。主役のレンゲは今春の異常な寒さで咲きそうにない。これでは満開時期は1週間か10日くらい先だろう。

レンゲよりもむしろタンポポが咲き乱れた草むらに腰掛けて弁当とサンドイッチをほおばった。美味しかった。

腹ごしらえを終えるとすぐ横に聳え立つ備中国分寺に出かけた。今日のみ開帳されるという五重の塔の初層を見学した。そこも人人人…。ボランティアガイドの説明も耳に入らない。

国分寺の参拝を終えると震災応援のバザーをしている会場があった。そこでは鉢植えの花7鉢とお餅を買った。

鉢植えは家に着くと早速鉢から取り出し玄関脇の大きな鉢に植え替えた。その真ん中にオリーブの木を植えるとさまになる気がする。さてさてオリーブの木はどこに…。

2011年4月28日木曜日

胡坐

図書館に出かけようとすると携帯がなった。アサちゃんの孫からである。近くまで来たので我が家によるという。出かける予定だと告げると来ないという。

しばらくしてアサちゃんに供えている菓子があるから食べに来るようにとの携帯電話をかけた。するとすぐ来るという。

4月になって習い事で街中に出かけるようになった。そのときはデパートの食品売り場で全国の銘菓をお供え用として買って帰る。もちろん最後は我が口に入るのだが…。

アサちゃんの孫は2人の子供を連れてやってきた。3歳の男の子を歯医者に連れて行ったらしい。ところが歯はどこも悪くなかったのだが、歯医者で転んだので怪我した口の中を診てもらったという。

2人の子供にお供えの菓子を渡すとすぐ口に入れた。子供も美味しいものがわかるのか2つ目もすぐに食べる。

大人でも一つでいい。子供と思ってはいけない。彼らは今からが人生だ。よく食べることはいいことだ。そのときその親である我が姪はまだ小さい男の子が胡坐で座っているよと話しかける。子供は親のその言葉も気にせずパクパク食べる。

その姿は本当にかわいい!思わず写真を撮ってしまった。

しばらくすると「大きいばあちゃんは?」と聞く。どうしていないのかともいう。どうもまだ亡くなったという現実がわかっていない。それでも仏壇の前にちょこんと座った2人は「チーン」と鐘を鳴らして手を合わせる。その姿もまたかわいい!

そんな小さな子供もすっと立ち上がるとヒップホップもどきで踊りまくる。その子も2人の姉にならっていずれピアノを習うらしい。さてさてどんな風に育つのやら。楽しみだ。その頃は胡坐もうまくなっているだろう。

2011年4月26日火曜日

パスポート取得

今日1年前に期限切れとなっていたパスポートを新たに取得した。

朋友にパスポートの交付を受けるというと、このGWに早速海外に行こうという。そういえば最後に海外旅行をしたのは会社リストラ直後の夏である。8月になれば丸9年前になる。行き先は中国黄山だった。。

朋友のGWの誘いにはなかなかその気になれなかった。それも無理はない。アサちゃんを亡くし、震災が起きて気分はまだまだ全開ではない。無理して出かけてもきっと楽しくないだろう。

海外旅行はこれまで何度も出かけたことがある。だが近場である韓国、台湾へは出かけたことがない。朋友にそれを告げると、とりあえず近場から出かけようという。その後、共通の友人のいる四川省の九寨溝へ行こうということになった。

4月になって行動は外へ外へと向いている。それでも家の近くではほとんど自転車で動き、街中へは公共交通機関である。歩くことをあまりしていない。

旅行となると歩くことが前提だ。そう思って昨日は急遽植物公園まで出かけることにした。

久しぶりの郊外への外出である。園内に入ると色とりどりに咲き誇ったポピーなどの花々。本当に奇麗。外も暑い日差しなのに大きな温室に入るとそこにもベゴニアなどの花々が咲き乱れていた。

公園からの交通機関は1時間に1本のバスのみ。それに乗りそびれると次の乗車まで1時間待たねばならない。それを気にしつつ園内を散策した。

もともと植物公園に行こうと思ったのは、アサちゃんの大好きだったゼラニュウムの特別展がきっかである。ところが到着してみるとそれは5日前に終了していた。それでもその余韻と思えるものが少し置いてあった。

ゼラニュウムといえば、何十年も我が家の庭に咲き乱れていたのに、今年の寒さで全滅してしまった。そこで10日位前にスーパーで売られていたものを購入し大事に育てている。

パスポートを受け取った後はフルートのレッスンだ。2日続けて外出すると、やはり非日常のためか夜になるとすぐに眠くなる。特にお風呂に入った後は睡魔に襲われる。これでは旅行に行っても寝てばかり…になってしまう。

アサちゃんの介護をしていたときは寸暇を惜しんで動き回っていた。それと比較するとどのように動いても今の運動不足は免れない。そう思うと介護は我が身体面でも健康を保ってくれたことになる。

何はともあれ、自分の人生。せいぜい体を動かして以前のように元気で海外に出かけ、楽しく生きたい!

本当はプールに行って泳ぐのが一番!と思う。だが、そこまで気持ちがついていかない。これではメンタル面で今一歩の状態だ。泳ぎを再開すれば我が気力は全開となるはず…。それまでは無理して動いても体によくない。時間を待つとしよう…。

2011年4月24日日曜日

彼は仏教徒だった!

先日、メールを送信した中島氏の著作『ガンディーからの〈問い〉 君は欲望を捨てられるか』(NHK出版、2009年)を読むと彼は仏教徒だった。

彼は「私は仏教徒なのですが、私は仏教の厚い信仰を持った家庭や共同体で育ったから、自然と仏教徒になったのではなくて、二十代の前半に仏教書を読み、意思的な選択をして仏教徒になりました。仏教徒といってもどこの教団にも属していませんし、日常的に特定の『行』を行っているわけでもありませんが、やはり人生の節目節目では、仏教の考え方から重要な指針を得て生きています。それに対して、私の祖母も熱心な仏教徒でしたが、その性質はかなり大きく異なるものです。祖母の場合、生まれた家庭や社会が当たり前のこととして、毎朝仏壇の前でお経を読み、祈りをささげていたために、生活習慣のひとつとして祖母は仏教徒になっていました」(21P)と述べている。

中島と祖母との間の信仰の形態の違いを「自らが思想的な問いをもって、人生のある一点から仏教徒になることを選択したというのではなく、特定の社会環境の中でごく自然に仏教徒になっていったわけで、これは私の信仰のあり方と大きく異なるということができます」(21P)と書いており、それはまたどちらの信仰の優劣でもない。

更に今読んでいる最中の『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社、2005年)の中で、あとがきに「最後に、激動の昭和を生き抜き、脱稿直後に浄土へと旅立っていった祖母・田面里子(一九二二-二〇〇五)に本書を捧げたい」と書いている。著者の祖母はアサちゃんと同時代の人だ。

そのため先の新聞記事のような文章が書けるのだと思った。それを知らないうちは、哲学を専攻した人かなと思った。哲学には宗教も含まれるから・・・。

だから送信した返信メールに若い人の文面とは思えないほどの言葉を書いて送ってくださったのだろう。

ともあれ、著者が世にでるきっかけとなった『中村屋のボース…』を読もう…。

このブログを投稿後、中島のHPを探した。するとそのプロフィールに「1999年はじめてインドへ。ヒンドゥー・ナショナリストとの共同生活を通じて宗教とナショナリズムの問題を追及する。インド独立運動の闘士を描く『中村屋のボース』で大佛次郎論壇賞」とあるように大学時代から宗教に関心を抱いている。それはまた中島の仕事と関係があった。

2011年4月23日土曜日

クラシック音楽

図書館で何気なく資料棚を見ていると広島交響楽団の小冊子が目に留まる。

会社をリストラされてからというもの行動範囲は街中に向いていなかった。今日手にしたパンフは久々に以前行動していた頃の気持ちにさせる。

広島交響楽団の定期会員であったころ、定期公演は年9回。それが今回パンフを見ると年10回となっている。

今日、早速そのパンフの中にはさんであった葉書で定期会員ではなく個人の正会員を申し込む。

アサちゃん亡き後、何といっても時間は十分にある。それを有効に使わない手はない。

このようにしてぼつぼつ以前やっていた行動を取り戻そう。本来ならば、夜に行われる行事はやめようと思っていた。だが、今出かけないとますます年老いてしまう。夜であっても行動しよう。

何といってもまだまだ元気だ。いろいろなことに関心をもち、そのためのアンテナも張り巡らしておきたい。

ともあれ、どんなことであっても気の向くままに行動しよう!それが一番の健康法と思うから…。

2011年4月21日木曜日

感動メール


先日の中島岳志氏の新聞掲載文にとても感動した。そこで昨夜はついに感動のメールを送信した。

中島岳志氏は北海道大学の准教授だが、年齢はまだ35歳と若い。大学のHPからメールアドレスを探し出し送信した。すると本日中島氏から返信メールをもらった。ここでまた感激してしまった。以下はそのやり取りである。


中島〇〇様

突然のメールにて失礼します。

昨日、広島の地元紙の中国新聞文化欄の「論考2011」を読みました。余りにも心強い記事に惹かれメールを書いています。

そのタイトルは「喪失から新たな出会いを」で副タイトルは「死者通じ自己を見つめる」です。

私はこのたびの震災に直接の関わりをもっていません。ところが「人の死」に関しては今春2月中旬、最愛の母を亡くしています。

私の母は95歳という年齢でこの世を去りました。決して若いとはいえません。が、先生のタイトルの「喪失から新たな出会いを」はよくもここまで・・・と思える内容で本当に心打たれました。

震災における「人の死」だけでなくどんな形のそれであっても先生の書かれた言葉は胸を打つものがあります。

本当に突然のメールで失礼しています。余りにも感動しましたので早速『インドの時代』を入手する手配をしています。

少々年老いていますが、私も先生の記事の最後の言葉「死者と一緒に、僕たちは生きているのだ」をもじって「母と生きてまいります」。

ありがとうございました。

〇〇〇〇



〇〇 様

北海道大学の中島です。
拙稿を読んでいただき、ありがとうございます。
また過分な言葉を頂戴し、恐縮しております。

ご尊母さまを亡くされたとのこと、
心の痛み、お察しいたします。
しかし、その心の痛みが続く限り、
ご尊母さまは死者として存在し続けるはずです。

これからもご尊母さまを大切になさってください。
私も死者となった大切な人とともに生きていこうと思います。

中島〇〇


中島〇〇様

早速の心温まるメール、ほんとうにありがとうございました。

感動しています。

〇〇〇〇

2011年4月19日火曜日

死者の力

 今朝の地元紙文化欄「論考2011」に北海道大学の中島岳志准教授が「喪失から新たな出会いを」と称して執筆している。その中に「亡くなった大切な人は、ここにいない。姿かたちは存在しない。しかし、その人は、生者から死者となって存在している。あなたの心の中に。脳裏に」と生者に対する死者の存在を述べている。これは中島が阪神大震災で経験したことから今回の震災で犠牲となった多数の人々と生きているものとの関係を述べたものである。震災とは直接かかわりを持たないが、死者と生者のかかわりから言えば誰でも当てはまることなので記しておきたい。

 中島は「死者の存在は透き通っている。だから自己の心の中を直視してくる。見通してくる。生きているときは不可能な透明な関係が、死者との間に突如生み出される。…生きている人間同士では不可能な関係が、生者と死者のあいだで結ばれる。これは新しい出会いだ。透明な死者の存在は、生者に対して自己と対峙することを要求する。自分の心の中を、死者のまなざしを通じて直視することを余儀なくされる。死者との出会いは、自己との出会いにつながる。…その出会いは、きっと人生を豊かなものに変革してくれるはずだ。自己と向き合わず、ごまかして生きるより、死者によって自己と対峙しながら生きる方が善き人生になるはずである。大切な人の死は、喪失であると同時に、新たな出会いでもある。死は決して絶望だけではない。死者とのコミュニケーションを通じて、人間は新しい人生を生きることができる。そんな姿を、死者は温かく見つめてくれるはずだ。死者と一緒に、僕たちは生きているのだ」と述べている。

 これを読み終え、心強い考えだと感心した。母を長年介護し、それから解き放された今、寂しくないといえばウソになる。それが中島の言葉を借りるとタイトルどおり「喪失から新たな出会い」が生まれるという。長年の介護をした報いから人から「いいことがあるよ」といわれることが多い。他人様からそういわれて舞い上がるような人間ではない。だが中島の言うように母と向き合いながらこれからを生きていけば「善き人生」になるような気がしてくるのも確かなことだ。

 今日は午後から注文したメガネを受け取りに行く。その後パスポートの申請に行き、フルートのレッスンがおわると美味しいものを買って帰ろうと思っている。4月の中旬なのに最高気温13度の予報。いつまでも寒い!さあ元気を出して今日の行動開始!

 と、その前にひどく感激した中島岳志はどんな人なのか興味がわいてきた。早速図書館にその人の著書を予約した。まだ35歳と若いのになんとすばらしい考えを持った人なのだろう。

 朝から気分よくしていたら、母を訪問看護していた看護師からTELがなった。今でもその人たちに対してこだわりを持っている。ほとんど話をせずにTELをきった。母が生きてるときにもっと親切にしてくれてもよかったのでは…と言い返したい!

2011年4月17日日曜日

集う

アサちゃんが亡くなって明日で早くも丸2ヶ月を迎える。

今朝アサちゃんの長女夫妻は剪定後の庭作りのために我が家にやってきた。20ℓ入りの土5袋、数本連なった丸いレンガ10個、庭つくりのための作業道具数点を車から降ろすと作業を開始した。

1,2時間経つ頃にはレンガで淵どられた庭が完成した。

庭に植える苗はアサちゃんの長女の出番だ。長女は4,5列に菊の苗を植えていく。さすがに家で野菜や花を作っているだけあってうまい具合に苗を植える。この苗はさてさてこれからどんな花を咲かせるのだろう。今から楽しみだ。花が咲いたなら一番にアサちゃんに見せてあげよう!

庭作りも終わるとアサちゃんの子供、孫の4人が加わった計7人の花見となった。お花見に行く途中、アサちゃんの墓参りをした。小さいアサちゃんのひ孫3人はもちろん「大きいばあちゃん」であるアサちゃんをよく知っている。だがその3人のひ孫はアサちゃんがお墓の中に入るという現実がどうも理解できないらしい。

無理もない。何といっても小さな子供だ。その子供が「人が亡くなる」=「骨」となると理解することは難し過ぎる。

それでも皆でアサちゃんの眠る墓にお参りして花見へと場所を移動した。

今日が今年の見納めとなる桜のように座っているござのあたりは桜吹雪が舞っていた。

先週の日曜日から今日までの1週間は本当に忙しい日々だった。今週中にはアサちゃんの墓碑銘も記帳される予定になっている。それが終わればますます我が本格的な行動開始である。

昨日は短大時代の知人3人での食事会をした。3人の生き方はそれぞれ違っているが、会えば昔のままの3人である。

会う前、自動でとる証明写真を撮った。パスポート用の写真である。帰宅後ネットでパスポート申請時に持参するものを検索した。

証明写真が揃えば家にあるものを持参すればよいことがわかった。戸籍謄本は相続登記に使用したものが返却されていたのでそれを当てる。

それらをもって近いうちにパスポートの申請に行こうと思っている。昨日はまたJTBの「関西旅物語」のパンフレットをネットで依頼した。

これで本格的な旅気分となるだろう。さてさてどこへ行くとしようか。楽しみになってきた…。

2011年4月15日金曜日

シャンソンを歌う

昨日生まれて初めてシャンソンを習った。

街中にあるその教室に出かけると新入生は1人であった。初めての教室だが何の気後れもなくスーッと入っていける。教室は大きな部屋である。そこにはすでに2年位前から習っている生徒4人と先生と思しき男性が1人いる。男性はしきりに電子ピアノを弾いていた。

しばらくすると生徒5人は椅子に座る。新人は一番端に座る。すぐに自己紹介をさせられた。

今春母は声が発せなくなり、食事も取れなくなって亡くなったこと。その際母が一番苦しんだ「口を動かす」ことをするために「シャンソン」を習う気になった旨話す。

2曲の譜面を手にして皆で「時は過ぎてゆく」と「パリの空の下」を習った。その前に発声練習となるのだが、何しろシャンソンは初めてのこと。先生は表情筋を動かして声を出すようにという。ピアノに合わせての発声練習となった。

1時間半のレッスンは終わった。教室を出たところで生徒の1人から「お茶を飲みに行こう」と誘われる。「いいですよ」というとこの教室の「お茶」は「ビール」だという。OKだというと他の人にその言葉を報告している。

どうみても年齢的には遜色ないように見える。主婦でないモノとしてはどう見てもちょっとだけ優雅げなその人たちを相手にするのは気が引ける。少々警戒しながらも言われるとおりついていく。

街中の地下街のイタリアン・レストランに入った。ともかく「ビール」の安いところを捜し歩いている風である。

まずビールと料理4品を注文。本当に久しぶりに飲むビールであった。

アサちゃんが亡くなってから、いろいろの人と食事に出かけることが多くなる。それでも大概は車の運転をする人と一緒のためアルコール類を口にすることはない。今回は久々のアルコールである。

グラスに注がれたビールを2杯飲むと結構酔いが回ってきた。

家に帰っても酔っているコトに気づく。お風呂にはいるのを後にしようとするが、さりとて何か口にする気も起こらない。するとTELがなった。話をしていると次第に酔いもさめてくる。それもそのはず、結構な時間話し続けていたのだから。

ともかくも1回目のシャンソンのレッスンは終わった。帰り際、グループの人たちは月1回のレッスンを2回にしようという。毎週この人たちと顔を合わせるのも…と思っていたので2回ならいいかとほっとする。

完全に主婦だけのグループに入った経験がない。

これまでエレクトーン、中国語、アジア塾、スイミング、社会人大学、フルートなどなどいろいろな習いものをしてきたけど今回はそれらとは趣を異にする。

これもまた人生。冷静な目でこの人たちと付き合っていこう!目的はシャンソンを習うことだから…。

2011年4月14日木曜日

『わが心の歌 望郷のバラード』

天満敦子の自伝『わが心の歌 望郷のバラード』(文藝春秋、2000年)を読んだ。

天満敦子のコンサートはこれまで2回聴きに行ったことがある。1度目はシンフォニア岩国、2度目は市内のフェニックスホールでのコンサートである。

どの曲にも『望郷のバラード』が演奏曲目として入っている。

『望郷のバラード』をどうして知ったかは覚えていない。たぶんTVの情報で知ったのだろう。そのときからとても奇麗なその曲に魅かれてしまった。来月14日にはまたまたその曲を聴きにアステールプラザに出かける予定だ。

この本は多分以前に一度読んだように思う。再度読んでみてこれほど回りの人に恵まれた人はいないのではないかと思われるほど著名な人々の名が次々と出てくる。登場人物は天満が「望郷のバラード」をヴァイオリンで弾くに至った経緯に関わる人々である。すなわち天満自身が世の中の脚光を浴びるに至った経緯といっていいのかもしれない。

それらの人々を列挙すると、音響メーカーのケンウッド会長中野雄(音楽プロデューサーでもある)、ストラディヴァリウス(別名サンライズ)を貸与した龍角散の藤井康男社長、ヴァイオリニストの佐藤陽子、作曲家の間宮芳生、音楽評論家の宇野功芳、作家の大野芳、ルーマニア全権特命大使古川清、ピアニストの深沢亮子、作曲家の佐藤真、ピアニストの本多昌子、外交官の岡田真樹(日経新聞1993・12・8に「望郷のバラード」が世に出るきっかけを書いた人)、CD発売元の藤井泰三社長、「徹子の部屋」の黒柳徹子、東京女子大出身で瀬戸内晴美と同級生の母、京都大学出身の父、兄の直美、父の妹で津田塾大学元学長の天満美智子、NHK教育TVの「ヴァイオリンのおけいこ」出演時のヴァイオリニストの江藤俊哉、芸大教授でヴァイオリニストの井上武雄(天満が15歳のときから酒を呑むことを薦めた先生)、芸大の海野義雄、芸大の兎束先生、ヴァイオリン製作者の本間立夫、芸大の岩崎洋三(特別銀賞受賞時のロン・ティボー国際コンクール審査員)、コーガン、1979年のデビユーリサイタル時のピアノ伴奏者岩崎淑、作家の井上光晴、井上の作家仲間の埴谷雄高・島尾敏雄・野間宏・橋川文三、文芸評論家の秋山駿、丸山真男(なくなったときバッハの『ジャコンヌ』を演奏)、「コンサートエージェンシームジカ」主宰の高澤弘道、芸大教授でピアノ伴奏者田村宏、ドイツの名室内演奏家ライナー・ホフマン、元アムステルダム(現ロイヤル)コンサート・マスターのヘルマン・クッレバース(天満自身、生涯の師と仰ぎ「一生モノ」の付き合いというヴァイオリンの指導者)、作曲家の小林亜星、作家高木のぶ子(天満をモデルとした『百年の予言』を書いた)、音楽評論家の中河原理、ピアニスト吉武雅子、などである。

そうそうたる人々に囲まれても舞い上がることなく生きている人はすばらしい!この一言に尽きる。

天満はこの本の「お酒のこと」で酒にまつわるエピソードを披露している。武勇伝である。特に「母は私がお腹の中にいる頃から、父への腹いせにお酒ばっかり飲んだというし、父は大酒のみ。やっぱり血は争えないわ。…」(200P)と述べている。

「”あとがき”に代えて」として天満は「この人生、ゆかいな両親に恵まれ、何度も言えることは師にも恵まれ、そして人に恵まれました。人との出会いという点では、私はすごく幸せもんです。人だけでなく、ストラディヴァリウス、私の生涯の曲《望郷のバラード》にも出会っちゃいました」(229P)と自分の生涯を振り返る。

そして将来の希望を聞かれると「今日が明日でありますように」(230P)と答えている。

ともあれ来月には天満の曲を聴きに行く。今から楽しみだ!

2011年4月12日火曜日

中国語会話

今日はフルートを再開して2回目のレッスン日である。ところが3月末のコンタクトレンズの取り出しでトラぶり、メガネをかけてのレッスンとなった。

もの心ついたときから視力がよくない。矯正レンズでもなかなか視力を回復できない。それでも強度のレンズで少しはそれもよくなる。

思い切ってフルートのレッスン前に三越のメガネ売り場に出かけた。

安売りのメガネ店に…とも思った。ところが相当の矯正が必要。そのためには安売りの量販店では駄目。多少高くついても信頼できる店がよいと思い三越を選んだ。

係りの人に事情を話した。検査をしてもらうがやはりメガネではなかなか視力が出ない。それでもコンタクトを断念したからにはメガネに希望を見出すしかない。係りは今の度数よりも1・5倍度を上げたレンズにするという。

仮のものでみると、今持っているメガネよりも少しはよく見えた。

レンズの厚さが厚くならない高価なレンズの購入となった。その上フレームも高い。

一般の人が購入するメガネの価格よりも何倍も高くつく。

ほとんどいわれるままにメガネを購入した。といってもすぐに手に入るわけではない。1週間後にメガネは完成する。来週受け取りに行く旨告げて店を後にした。

その後フルートのレッスンをすませて文化センターの受付に行った。次回からのレッスン曲のコピーをしてもらうためである。受付の人にコピーを依頼すると、どうも日本人とは思えない話しぶりだった。

コピーを受け取るとき中国語で話しかけると先方も中国語で返答する。やっぱりと思って「どうしてここで仕事をしているのか」と中国語で話した。すると家族で日本に住んでおり、大学卒業後ここで働いていると中国語で話す。そして中国語を習っているのかとも聞かれた。

とっさの中国語での会話であった。もちろん中国人を見るのも大学卒業以来だった。

今でも毎日中国語の原書を翻訳し、何でも興味を示す性格になったのも中国語を習ったおかげと思っている。

せっかく習った中国語だから何らかの形で関わっていきたい!

また今日は5月14日にアステールプラザで開催される天満敦子のコンサートチケットも手に入れた。

これで生活リズムも本格的な様相を帯びてきた。やっぱり外にでるのが性にあっている!動け!動け!

2011年4月11日月曜日

剪定

先日隣町のシルバー人材センターにお願いした庭木の剪定は無事終わった。

今朝8時過ぎにシルバーから3人が庭木の剪定にやって来た。てっきり先日見積もりにきた人だけだと思っていたら3人だった。それを知ったときは本当にびっくり!

庭師から今日は家にいる?と聞かれた。するとその中の1人が2時間で終わるという。その間は家にいる旨告げると作業に入る。

作業は1人とばかり思っていたのでおやつに出す菓子類も3人分用意していない。姉に相談するとお茶だけでも、という。しばらくすると作業は終わった。

お茶を出しますから、と告げ、すぐにコーヒーを3人分沸かした。それと共に先日冷凍にしていた草もちをレンジで温めて差し出す。すると3人の人たちは外で飲むといって立って飲む。

外の植木を見るとさすがにプロの人たちの仕事だ。見違えるようにすっきりとなっている。我が家の同じ庭と思えないほどだ。

彼岸花と八手は根こそぎとってもらった。狭い庭はその2つがなくなると広くなった。

一人は元々庭師を仕事にしていたらしい。それで、庭の周りに置くレンガのおき方、葉っぱだけの水仙の手入れの仕方、ブロック塀の近くの草花の植え方、レモンの木に施す肥料、もみじの名が「伊呂波もみじ」である、などいろいろ教えてもらう。

後日、奇麗になった庭に土をいれ草花を植えよう。そして花が咲いたら母に活けてあげよう。

花といえば昨日は近くの友人と桜を見に町内の山に登った。今が桜も満開の山には多くの人が花見の宴で真っ最中である。シートを広げてささやかな花見をした。帰路はべつの道をとおり、母の眠る墓の下の道を通って我が家に帰る。

今年に入ってから一連の行事は大半終わりを告げた。あとは墓碑名を入れるのみ。

カレンダーのスケジュールは4月になってから本格的な行動開始でうずまっていく。

来月にはヴァイオリニストの天満敦子のコンサートもある。明日フルートのレッスンで街中に出かける。早速チケットを購入しよう。

これからはフルートのレッスン、中国語の原書翻訳、シャンソンのレッスン、庭の手入れ、コンサートに行く、大学での講座受講と忙しくなりそう。これに水泳が加わると我が本来の姿になる。母は元気な様子をみてきっと喜んでくれているだろう。きっと…。

2011年4月8日金曜日

TEL

電話機をナンバーディスプレイにしているので何時、誰からかかってきたかすぐわかる。地方選挙を前にしたこの時期は表示される見覚えのない電話番号は選挙のお願い電話か、セールス電話。

見覚えのある電話番号は知り合いからが多い。とりわけアサちゃんを亡くしてからはそういった関連のものが多い。

今朝も学生時代の人から懐かしい声でTELがかかってきた。知り合いのピアノの演奏会の招待電話である。誘われた夜は先に決めていた用事のため行けない旨連絡した。だがなにしろひさしぶりのTEL。学生時代の他の人も誘って3人で後日会う約束をする。

しばらくするとフルートの知人からTELが入る。今夕開催されるフルートの先生のコンサートを聞きに行くかどうかの確認のTELであった。出席する旨伝える。

今月5日から本格的にフルートのレッスンを再開した。フルートのレッスンで多くの人と知り合った。途中、大学、介護などで中断していた時期もあった。それでもどうにか長く続けてきたフルートである。今回の不幸ではそういった人たちの言葉で本当に勇気付けられた。

そういう人たちと今夜コンサート会場で再会する。今から楽しみにしている。

それ以外でも一人になってからすべての家の内外のことをしなければならない。ブログを投稿している今も、TELがかかってくる。

先日庭の植木の剪定をお願いしたシルバー人材センターからである。4月11日の朝から剪定にとりかかってくれるとのTEL であった。

自分だけではさまざまなことは何もできない。これからはシルバー人材センターなどの公の機関や知り合いの協力を得て過ごしていくことになる。

いずれにしても人の力を必要とする。人は大事にしたいものである。

2011年4月7日木曜日

『人はなぜ学ばなければならないのか』

齋藤孝の『人はなぜ学ばなければならないのか』(実業之日本社、2011年)を読んだ。この本を書くにあたって(著者は「開講にあたって」と表現している)「学ぶ」ことは「文学や哲学、芸術、科学など、日常生活や仕事を離れた分野の本を読むこと」だと述べる。

「学ぶ」ことは「生きる呼吸を深く」し、それにより新しい知識など吸収して「自分が生まれ変わる」ともいう。

齋藤はいまの時代を生きるモノにとって「身近な他者」の存在がストレスの原因になることが多い、という。そのために「身近な他者」よりも「遠くの偉大な他者」を味方にする書を読んで充実した人生をもたらすきっかけになれば、との思いから本書を薦めている。

齋藤は「遠くの偉大な他者」としてニーチェ、ソクラテス、プラトンなどをあげ、その言葉を引用して本を書いた。

ニーチェでいえばその強烈な人間観、世界観を「学ぶ」と、彼らが「自分に内なる他者」として自分に中に住みつく。(038P)これこそが大きな意味をもたらすというのである。すなわち「多様で生命力にあふれた他者が住む『森』のようなものをつくる」ことこそが「学ぶ」という大きな意味を指すという(038P)。

齋藤はさらに「学び続けていると、その学びの対象とした人たちと自分がつながっているという『つながりマップ』のようなものができます。自分以外の者がすばらしいことによって、それとつながっている自分を肯定できるようになります。そんな回路が学びにはあります」と述べている(064P)。

この「学ぶ」ことがまだあると思っている人は輝いており、一流の人ほど「まだまだ学ぶことがある」という。そういう人は最後まで学び続けることでその人の一生は気分のよいものになるらしい。

齋藤は「学んだことで何をなすかは問題ではない」という。(078P)

このフレーズは社会人大学生として6年間学んでいるとき、よく人から「学んで何をするのか」と質問されたことを思い出す。お金に換算できないものは学ぶ必要なしという考えをもつ人から聞かれたように思う。

それに対する齋藤の考えは「前に向かって自分の可能性を切り開く生き方をして、学んで新しい意味を獲得した喜びを祝福する。学んだらそれ自体を祝えばいいのです」である。(078P)

全く同感である。何かをすれば自分自身「やったー!」という達成感が生まれる。その時の気持ちは本当に充実した瞬間であった。

会社をリストラされて以後、大学に通いながらアサちゃんの介護をした。それもすべて終わった今、すべての時間は自分の人生の残された時間だ。

齋藤はこのような「人生の残された時間を『学び』中心に変えていけば、自分がいま存在していることの充実感を得ることができるのです」という。

これに対して「ものの『消費』によって充実感を得る人」は「最終的な満足感を『消費』によって満たすこと」はできないと著者はいう。(082P)

4月からNHKの教育TVでニーチェの『ツァラトゥストラ』が始まる。齋藤もこのニーチェを学ぶことを例を挙げてすすめている。

昨夜は早速このNHKのテキストとニーチェの『ツァラトゥストラ』文庫本をネットで注文した。

人は生まれると必ず老いていき、やがて死に至る。まだ元気なためか死に対する不安感は全くない。齋藤はその不安感を解消していく方法として宗教ではなく、「学び続ける」ことをあげている。(222P)

すなわち「学ぶ」ことの本質の一つとして「希望」があるという。(222P)それは「学べばもっと知りたいという意欲がわきますし、『そうだったのか』『すごいな』『これとこれは、ここが違うんだ』などと自分にとって新しい意味が生まれることで、何かが点灯するような感じになるはずです。その明るさの中で最期の一日まで生きていこうと思えば、この世は結構何とかなるのではないでしょうか」という。(222P)

自分の人生も齋藤のいうように「最期の一日まで学び続ける」ことができたらそれはそれはすばらしい人生となるだろう。

齋藤はそのように最期まで学び続けていけば「学んでも尽きない世界がある」ことを知るという。そのような世界を味わうことができれば、「私たちは虚無感と無縁になることができる」のだとか。(268P)

すなわち「学び続ける」ことで「心の免疫力を高める」ことになり、ストレスにも対処できるとか。(269P)

この年齢まで生きているとどこかからだの不調を訴える人がいる。特に年齢のせいで「あれができないこれができない」という人には「何で?」という疑問が残る。そういう面では「シクラメンのかほり」ではないが「♪疲れを知らない子供のように~♪」である。

すべては齋藤のいうように「学び続ける」からこそアサちゃんを喪ってもそれがストレスとならず元気でいられるのだろう。それともアサちゃんが見守ってくれているからだろうか。

いずれにしても「最期まで学び続ける人生」を過ごしたい!

2011年4月5日火曜日

本格的な行動開始

今日4月5日はアサちゃんの夫が生まれた日である。亡くなった人の誕生日を思い出すのはおかしいことだろうか。いやいやそうではない。偉い人が亡くなると生誕何年というではないか。

そんな日である今日は新たな希望に向かって行動を開始する日ともなった。

午後1時、大学勤務の女朋友は大学の入学式の仕事を終えるとシェラトンホテル広島にやってきた。久しぶりに会うその人とオープン間もないホテルでの食事となった。見るもの聞くもの初めてのこと。まず6階にあるロビーへと向かった。

和洋中とあるかと思いきやそこには中華料理はなかった。さらに上の階に上がり和食となった。3段の丸い容器に入った料理は帽子をかぶったような恰好で運ばれてきた。奇をてらったその料理はどの段の器にも趣向を凝らしていた。「さすがにシェラトン!」という雰囲気であった。食事代金は飲み物をつけて@¥4300也。

食事を終えるとコーヒーを飲みに下の階へと向かった。喫茶部はさきほどのところと違った雰囲気であった。当然といえば当然だが…。@¥700也。

ホテルの6、7階から見下ろすロケーションはあまりよくない。というのも広島駅の屋上駐車場ばかりがやけに目に付き過ぎる。むしろホテルグランヴィア広島のほうがロケーション的には優れていると感じたほどだった。

朋友とそのホテルで別れ、タクシーに乗ってフルートのレッスン会場に向かう。フルートのレッスン開始時刻は3時50分。ほとんど時間がなかったため、車での移動となった。レッスン時刻に間に合ったのはよかったのだが一つよくないことがあった。楽譜をもってくるのを忘れたのである。

楽器を習うのに楽譜がないとは情けない。

それでも先生の暗譜でどうにかレッスンとなった。レッスン曲は1年のブランクが有ったが…。まずまずのレッスンは終わった。

今日はそれ以外にも市内の大学のエクステンションセンターの講座の受講手続きをメールで行う。2年前まで通っていた大学のHPからシティカレッジの案内メールも配信してもらっている。

パソコンを活用している身にとってこのような情報獲得は願ってもないこと。さまざまな情報を得て自分にあったモノ、コトをどんどんやっていこう!

2011年4月2日土曜日

パニック

今日は本当に大変な一日であった。それもどうにか無事終わろうとしている。

今日1時半にフルートの知人3人での食事会。その後3時15分から年1度のフルートの点検。それを終えると商品券を買って帰宅、の3点が予定として組まれていた。

街中に行くので久しぶりコンタクトレンズをして出かけた。メガネでなくコンタクトレンズをつけるとさすがに世の中がよく見える。そのせいもあって街中に着くとすぐデパートに入った。

まず頼まれていた商品券を買った。その後他のデパートに入るとアサちゃん用の花を活ける大きな花瓶を見て回った。花瓶売り場は特別にはなかった。けれども食器売り場のところどころに花瓶は置いてあった。何点か見ると「たち吉」のヒスイ色の大振りな花瓶が目についた。価格は12000円。少し高いかなと思ったけど花が好きだったアサちゃんにいつも活けてあげたいと思ってそれを買った。

同じデパートの下の階に行くと春らしいブラウスが目に入った。本当に驚くほどの速さでそれも購入。なんとブラウスなのに13800円。高いと思った。だが長いことアサちゃんの介護で明け暮れ我が身を省みなかったことを思えば「買おう!」という気になった。

花瓶とブラウスの2点をデパートのフロントに預け、知人3人での食事会となった。

アサちゃんの介護で長らくそういう場に行かれなかった。ところが3人の意見は「リッチに…」となった。すぐに1人の人が考えていたお店に入った。そこは落ち着きのある和風レストランで豪華さが伺われた。もちろん食事も美味しく楽しい食事会となった。

最近日本で起きている天災を考えるとその時々にできるコトをできる限りの範囲でやろう、というのがみなの一致した意見となった。

食事を終えるとバスに乗る時必要な「パスピー」を買いに皆で出かけた。皆がそれを買うのでなく、我一人が8年半の活動ブランクでそれさえも知らなかったので連れて行ってもらったというのが正直なところだ。

ところが購入したのはよかったのだが皆と別れて帰路に向かうバスに乗車時それをどうするのかわからない。前の席に座っていた子連れの人にどうするのか聞いた。その人は席を立って親切に教えてくれた。会社リストラ後の8年半のブランクはそういうことさえも困難を極める。

そういえば帰宅前にフルートの点検にも行った。するとそこにはなんと1千万円以上もする金、プラチナ製のフルートが2本置かれているではないか。もうそれを見てびっくり。そこにいた人々とその話で大いに盛り上がった。

家に着くと災難が待ち受けていた。なんとコンタクトレンズが外れないのである。以前もそういうことがあったがそれでもどうにかはずすことができた。ところが今回はどうやっても駄目。ついに2時間も経とうとする頃、眼科にTELするがなしのつぶて。仕方なく眼鏡屋にTELした。近所の眼鏡屋は街中ならOKだろうという。このままコンタクトレンズをつけたままで寝るわけには行かない。

仕方なく市内のど真ん中にある眼鏡屋に出かけることにした。そこに到着するとどうにか閉店時間までには30分以上あった。すぐに眼鏡屋に入るとすぐに先ほどTELしたものである旨告げた。係りの人は5階へと案内してくれた。事情を説明するとすぐにコンタクトレンズをはずしてくれた。本当にその人が神様のように思えた。ところがこのまま引き下がるにわけにはいかない。その親切に対して「双眼鏡を買います」といった。下の階に行き、そこで1万円くらいのニコンの双眼鏡を買った。

双眼鏡は先日オペラを見たとき買おうと思っていたので今回のアクシデントにとってはいいチャンスだった。

なんと家に着くともう8時半である。2度も街中に出かけたのだからそんな時間になるのも無理はない。それからの夕食となった。

今日の教訓。「もうコンタクトレンズをするのは止めよう」。

メガネだと稽古事で視力がコンタクトほど出ないので不便なことは不便。

それでも「目」が人よりも劣っているため大事にしないといけない。そうしないと後々大変なことが起きるかもしれない。そう思うとコンタクトをせずにメガネで過ごそうと思った。

以上のように今日は大変なパニックの日となった。アサちゃんは慌てふためく我が行いを見てどう思っているだろう。4月になって2日目の今日。4月から本格的に行動しようと思っていた矢先の今日のアクシデントである。さてさて明日からは…。