2017年10月31日火曜日

ブログetc.

 2,3日、ブログのフォロワーの表示が「502. That's an error」となった。これを検索すると何秒か後に再度試みるようにとの回答がある。この間、ブログの閲覧者が急に増えた。これと関係あるのか気にしながら日々を過ごす。今朝、ブログを表示すると元通りの画面になった。当然フォロワーの表示もある。これでホッとする。

 半分遊び感覚でのブログ更新。しかし年が明けると丸9年になる。ここまで続くと、遊びを通り越して半ば義務感が付きまとう。とはいってもこれも人からの強制でなく自分で始めたこと。生活する上でのルーティンであり、楽しみとなった。

 ブログを始めたきっかけは勝間和代の本を読んだことによる。その中に情報を得たければ自ら情報を発信せよ、みたいなことが書いてあった。ブログ開設当時は6年間の社会人大学生活を修了して暇人になった。しかし、暇人となっても母の介護を中心とした生活であり、その合間のブログ投稿だった。これは以前のブログのお話。
 
 このブログになってからは暇人そのもの。昨日も女子会打ち合わせのメールが来る度に即、返信する。そのため先方は暇人2人を暇人1号、2号の誕生と命名する。巧い表現で可笑しい。

 今朝はこの秋一番の冷え込み。昨夜からエアコンが欠かせない。そして電気ストーブも欠かせない。

2017年10月30日月曜日

1枚の写真

 部屋の窓の下あたりにシダが繁っている。防犯のために窓の外側に柵がある。なかから手を伸ばしてシダを抜く。だが、離れたところは手を伸ばしても届かない。雨の中、家の外に出てシダを眺める。家の周りはコンクリを張り巡らせても根性シダは湿気を好むのだろう。根を生やす。ゴミ用の大きなナイロン袋と樋廻をもって抜いたシダを袋に入れる。ついでに先日、ちょっとだけ切ったレモンの木も入れてゴミに出す。ナイロン袋一杯になった。家の裏側に行くのは年に何回もない。恐る恐るシダの生えている場所に行く。それほど奥まった家でもないのにシダが生えるとは…。

 10月はよく雨が降った。今朝は久々に太陽を眺める。天気予報によるとこれから当分は晴れらしい。やっぱり雨よりも晴れがいい。気持ちまで晴れ晴れとする。

 雨の日曜日、近いうち会う予定の人に写真を渡そうと思った。以前、出掛けた海外旅行の写真の焼き増し分を探す。数年前のことなのに渡せずにいた。それを眺めながら他のバラバラになった写真を整理する。渡そうとする写真の時期までは個人の写真も写していた。ところがそれも次第に気が失せてくる。この頃は旅に出てもせいぜい1枚か2枚、個人の写真を写すだけとなった。

 たった5年前の写真でも顔が若い!30年くらい前から気に入った写真をまとめてファイルしている。それを見るといくらブスであっても当時の写真はかわいい!今、そう思うということはそれだけ年を取ったということだろう。

 写真といえば今回の旅をご一緒した人のURLに1枚の写真が載っている。出かける前に記事を読んで微笑ましいというか羨ましくなった。時は1966年のお話。1966年といえば我が人生で一番ともいえるほど暗い時期を過ごしていた。ところが、正反対の人もいらっしゃる。ある研究の観察のためツェルトで野宿しているところへ後に奥様となる人がおやつを持って来られる。その時に写された写真をアップされている。あまりにもいいエピソードなので旅の初日にその件について伺う。本当に仲睦まじいご夫妻だ。

 このように一枚の写真を見て気分が和むこともある。昨日も久々に昔の写真を眺めてひとり悦に入る。

 ブログアップ後に思う。デジカメの普及で印画紙の写真にしなくなった。紙に置き換えるのは今はもっぱら日本画用に参考とするモノばかり。先日も、以前、デッサンした花や葉っぱを印画紙の写真にする。写真でなくても以前の旅で編集されたビデオテープ。これも今やDVDの時代。最早ビデオテープを見ようにも器具がない。そう思えば、紙の写真は破れたり変色したりしなければかなりの年数、保存がきく。デジタルもいいがアナログも時に軍配が上がりそうだ。

2017年10月29日日曜日

「秘境中国 謎の民 天頂に生きる~長江文明を築いた悲劇の民族」

 スーパープレミアム「秘境中国 謎の民 天頂に生きる~長江文明を築いた悲劇の民族」を見る。番組紹介によると「中国四川省の大涼山。山頂の秘境で、伝統の暮らしを続けてきた人々がいる。なぜ社会と隔絶された場所を選んだのか。謎をたどると、見えてきたのは中国の壮大な歴史だった」とある。さらに番組詳細を見ると「中国四川省、険しい山が連なる大涼山。その山頂の秘境で、涼山イ族の人々がシャーマンを中心とした不思議な暮らしを営んでいる。なぜこんな場所で暮らしているのか。最近の研究によって、人々は5千年前に、黄河文明と並ぶ長江文明を築いたある王国の末えいであることが分かってきた。その後、さまざまな苦難の歴史を経てここにたどり着いたのだという。イ族の伝統的な暮らしを見つめ、知られざる歴史の謎をひもとくミステリー紀行」とある。

 1986年、4000年前の三星堆が発見された。発見したのは大涼山に住むイ族の人たち。発見されたものは2.6mの実人像、1.3mの黄金仮面、高さ4mの神樹などである。三星堆からは高度な古代文明をもった人々が暮らしていたと判明する。これは世界の文明である黄河文明に次ぐ第5の文明の長江文明であった。

 三星堆の王国の名は古蜀国。この国の広さは3.5㎢で神殿の発掘によって100以上の黄金仮面も発見された。国王はシャーマン。だが、突然姿を消す。これがイ族!?この謎を解いていく。古蜀国の符号とイ族の経文から推理する。経文には3万文字が記されている。イ族に経文を読んでもらうと50点だけ符号と文字が一致した。これだけでは謎は解けない。

 なぜ大涼山「四季吉村」に住むイ族は肥沃な土地から奥地へと移り住んのか。『華陽国志』によると秦が古蜀国を討伐し南へと逃れたとある。その後も時の権力によって悉く追い打ちをかけられて南へと逃れる。その一部の民が大涼山にたどり着く。こうしてイ族は言語や文化を守った。

 1970年まではイ族の固い監視で村に入れなかった。そのイ族は蕎麦と羊で暮らしている。しかし、7,8年前からインターネットも通じるようになり、さらには天まで届くといわれる「天梯」という鉄の階段も作られた。イ族は助け合って暮らしている。弔いの儀式では死者の魂は「天にかえる」、「村を守る」、「戻るべき場所へかえる」とされる。戻るべき場所とは祖先のところ。それは古蜀国の馬牧河(ムンパク)。イ族は古蜀国の末裔とわかった。

 羊毛節が行われる。イ族の住む大涼山は楽山に近い。楽山は中国有数の観光地。イ族の子供たちも楽山に出て仕事をする。中国政府はイ族の住む大涼山を観光資源にしようとする。3万人が集う羊毛節。今では国を挙げてのお祭りとなった。

 まだまだ未開の地域が残る中国。ぜひとも行ってみたい。しかし3000mの高地に住むイ族。高山病になってダウンしそうで行かれない。それにしても興味ある番組だった。

2017年10月28日土曜日

第374回広響定期演奏会に出かける

 第374回広響定期演奏会に出かける。昨夜の演奏会のタイトルは「下野竜也音楽総監督就任記念シリーズ三人の会・シューマンに寄すⅡ」。演奏曲目は下記のようであった。

団伊玖磨 管弦楽幻想曲「飛天繚乱」
ベルク ヴァイオリン協奏曲~ある天使の思い出に
シューマン 交響曲第3番変ホ長調Op.97「ライン」

 指揮者は下野竜也、ヴァイオリンにセルゲ・ツインマーマンを迎える。もらったプログラムによると「飛天繚乱」は作曲した団がアジアで出会った様々な天女の思い出をつづった作品とある。さらに「タクラマカン砂漠の壁画、洛陽の龍門石窟、敦煌の莫高窟などに記された天女の像の中でも、とりわけ団が注目したのは東大寺の八角灯篭だった」という。はじめの3か所は出かけていても日本の東大寺の八角灯篭が何かを知らずにいる。後で調べよう。

 演奏中に弦楽器がすべてある個所で弓を使わず、指で弦をつま弾いていたのに驚く。そしてフルートも単に吹くのでなく、ここでは表現できないようなブルブルと口元を震わせるような吹き方の箇所があった。

 これはいわゆるクラッシック音楽でなく、クラッシックのジャンルを超えた感がある。こういった曲は耳に馴染まず、その良さがわからない。2曲目も初めて聞く作曲家であり、せっかくのヴァイオリン協奏曲であっても耳に馴染まない。3曲目のシューマンを聞いてやっと耳に馴染んでホッとする。尚、2曲目が終わった後のセルゲ・ツインマーマンのアンコール曲がソロで2曲演奏された。それは以下のようである。

 バッハ 無伴奏ソナタ第3番~ラルコ
 無伴奏パルティ―タ第2番~サラバンド

 昨夜の座席は前から2列目の真正面。ゲストの演奏がまじかに聞けるのは嬉しい。しかし指揮者の後ろ姿と弦楽器の手前の人しか姿が見えず、舞台を仰ぐ形で聞く始末。ましてや、となりはけばい2人で香水の匂いがプンプンする。聞く環境ではなく、こういう人が一番の苦手。前半終了後、空いている席を探して後半は後ろでゆったりと聞く。

 来年の平和の夕べコンサートのチケットは前から3列目を購入している。これも席が前過ぎて聞き苦しいかもしれない。ともあれ、定期演奏会と名がつき、指揮者も新たになった。演奏曲目もこれまでと一新して馴染めない曲ばかり。だれが曲を選ぶのだろうか。もっと馴染みのある曲を聞きたい。

 アンケートではいいことばかりが書いてある。みんな本当にわかって書くのだろうか。疑問が残る。書評は決して悪くは書くな!と教えられた。じゃ、絵は?絵の良し悪しは好き嫌いで決めていいらしい。音楽はどうなんだろう。これも好き嫌い!?というか馴染まないから嫌と言わず、馴染むように聞くのがベター!?

2017年10月27日金曜日

紳助の幸せな老後&胡楊の樹

 朝刊掲載の週刊文春の宣伝記事。興味ある記事がある。それは島田紳助氏。週刊誌でなく文春オンラインで記事を読む。「『今の僕は日本一忙しいニート』島田紳助氏が4時間語り尽くした!」との見出しで「僕は常々、老後に必要なのは『お金と仲間と筋肉』と言うてるんです。この三つがあれば幸せに生きられると思ってます」とある。

 この3点、大いに共感する。「お金と仲間と筋肉」。お金は「お金」。しかし、上野千鶴子に言わせると「金持ち」でなく「友持ち」が大事と何かに書いている、筋肉は「健康」と置き換えられる。「お金」は紳助の何万分の一も持ち合わせていない。しかし、生きてさえいれば何とか年金で生活できる。ということでこれは必要最小限でクリア。2つ目「仲間」。これは旅仲間、習っている稽古ごとの仲間など人との交流をいうのだろう。人の誘いに乗りやすいタイプで人の良し悪しを自分なりの基準で嗅ぎ分けている。ということで2つ目もクリア。3つ目の「筋肉」。これは「健康」と置き換えよう。週に一度一キロ泳いでいる。水泳は年齢を経て開始しても長く続けて泳いでいる。いたって健康なので3つ目もクリア。じゃ、幸せに生きている!?

 先日の旅で初めて会った人がいる。その人とは機内の座席が隣になり、いろいろと話をした。百名山を踏破しているとのことだった。運動は水泳をしていると話すとその人は平泳ぎを顔を出して泳ぐという。顔を水につけられないらしい。お風呂で顔をつけて「プワー」と息を出して練習すると顔はつけられると教えてあげる。得意になって水泳の話をしていたのだろう。その人にかなりの刺激を与えたらしい。水泳教室に入るとまで話される。どういっても体育は「1」。そう話すとその人は運動神経抜群のように思える体格であっても子どもの頃は「3」だったそうだ。小学校時代に運動が「1」であってもその後にやる気があれば何だってできる。その思いがあるので水泳も自分自身にとっては自信となっている。

 ということで紳助のいう老後に必要なモノ・ヒト・コトである「お金と仲間と筋肉」は幸せな老後と言えるかもしれない。

 話は変わって昨日のBS「シルクロード謎の民」を見る。以前に見たことがあると思いながら再度見る。自分のブログで検索すると別のタイトルの「聖域のモナリザ」でアップしていた。番組によると「秘境タクラマカン砂漠の中央に森があり『謎の民』が羊を追い暮らす。墓や埋葬方法からシルクロード、楼蘭とつながる?俳優・満島真之介が砂漠を歩き大胆な推理に挑む」とある。さらに詳細を見ると「中国の秘境タクラマカン砂漠、別名『死の砂漠』の過酷な地の奥に『謎の民』のオアシスがある。世界初のテレビ取材、黄金に色づく胡楊(こよう)の森に守られ羊を追う人々、シルクロード、楼蘭とつながる文化を守る。楼蘭の地で発掘された美女ミイラの墓と似た墓、埋葬方法。俳優・満島真之介が砂漠を歩き、ミイラと対面、4千年の歴史に大胆な推理で挑む。北京テレビとNHKの国際共同制作で砂漠とオアシスの絶景となぞに迫る」ともある。

 この中の胡楊の樹。ダリアブイに住む人々が亡くなると墓地に胡楊の樹を立てるという。この胡楊は亡くなった人の罪を減らして安らかな眠りにつくそうだ。これを見てわが家の地方では竹でできた盆灯籠をお墓の周りに立てる。また日蓮宗では木でできた長い塔婆を立てる。これは「謎の民」の立てる胡楊と同じ役目かもしれない。この胡楊の樹は森を守り、死者がミイラ化する作用もあるという。4千年前のミイラ発掘はこの胡楊に守られて眠っていた!?

 秘境タクラマカン砂漠、シルクロード、羊…、30年前に出かけた。楼蘭、この響きがいい。井上靖の小説を再度読みたくなった!それにしてもシルクロード、ロマンがある!?

2017年10月26日木曜日

パンフルートコンサートに出かける

今年のレモンから 重さ1個155gと大きい


 今年のわが家のレモンは大豊作。今朝、1個測ってみると何と155gある。昨日、急きょ女子会NO.4さんに誘われてパンフルートの演奏会に出かける。出かける前にまずはレモンを、と今年初めて3個、枝から切り取る。多分40個くらいは実っているはず。レモンが実ると自慢気に話をしている。少しずつでも会う人にあげよう。

 インドネシアの旅でレモンが実った人やすだちが500個実った人から話を聞く。どうやって保存を、と尋ねると果汁をペットボトルに入れて冷凍保存するといいらしい。それを必要に応じて冷蔵に切り替えるという。いいことを聞いたと思って先日早速100円ショップでレモン搾り器を購入。以前のものはガラス製だった。ところがこの頃のはプラスチックであっても100円なのに果汁がこぼれないようにふたまでついている。後でうまくできるか試してみよう。

 さてパンフルートの演奏会。いただいたチケットで演奏を聞く。聞いていてパンフルートの音色に魅せられる。演奏曲目はフルートで吹く曲に似ている。フルートとパンフルート。名前は似ていても全く別の楽器。フルートを習い始めた20数年前、日本のパンンフルート奏者である岩田英憲の演奏を聞いたことがある。ルーマニアで学ばれたと聞いた。昨夜の演奏者はそのルーマニアの本場のパンフルート奏者だった。以前聞いた奏者は高音部でなく中音部以下が主な演奏だったように思う。ところが昨夜の奏者は鳥がさえずるというか鳴くというか高音部がとても綺麗。究極はプログラムの最後になってヴァイオリンと鳥とが鳴き声を競うかのような演奏をされる。これも他では見たことがなく、微笑ましい光景だった。

 また、日本の唱歌の演奏もあった。会場と一体となって歌声も弾む。ルーマニアはジプシー音楽の国。あの古澤巌もルーマニアのジプシーについて演奏法を学んでいる。その中の♪ひばり♩も演奏された。他にもピアソラ作曲の♩リベルタンゴ♪もあった。演奏曲数はかなりある。

 演奏タイトルはパンフルートトリオコンサート。ヴァイオリンはクリスチャン・チュカ、ピアノにルトゥルミー谷口玲理、そしてパンンフルートはコーネル・パナ。

 演奏中も素晴らしい音色に聞き入ってしまった。もう興奮して感動しまくる。演奏後、友だちがチケットをもらった人と話をする。以前、通っていた大学でお昼になるとどこからともなくパンフルートの音色が聞こえてきた。そばに近づくと大学の先生がデモで吹かれていた。恐る恐るお話しすると練習場所のチラシをくださった。なかを見ると火曜日。火曜日はフルートを習っていてどうにも動きが取れない。何とかほかの手段でパンフルートを習いたいと思った。結果は曜日が合わず諦めた経緯がある。

 その時の先生のことを覚えていたのでチケットをくださった人に話すと、その人もご存じの人だった。今はウラジオストックの大学で物理を教えておられるという。チケットの人は市内の某学院で練習している、と仲間に入ることをすすめられる。やりたい気持ちもある。しかし、楽器は毎日練習しないと効果がない。ただ、坐って話を聞くだけならば習ってもいいけどそれは無理なお話。

 誘ってくれた人と興奮冷めやらぬうちにと会場近くのお店でビールで乾杯。久しぶりにお好み焼きを食べる。やっぱり広島はお好み焼きじゃ、と思う。美味!

 帰りのバスを待っていると遅い時刻に人だかり。何があった、とバスに乗る見知らぬ人に声をかける。松山千春のコンサートだった。皆さん満足そうなお顔をされている。JRに乗っても同じものを持つ人が多い。最寄り駅で声をかけるとやはりコンサートに出かけたとのこと。御年はかなりのご高齢。3時間のコンサートだったとか。松山千春のコンサート、いつかぜひとも聴いてみたい!それにしても女子会NO.4さん、いい演奏会をありがとう!楽しかった!次は女子会、楽しみ!よろしく!


 ブログ投稿後、パンフルートの動画を検索すると昨夜の演奏者の動画がある。ここにアップしよう。

2017年10月25日水曜日

BS1スペシャル「日中“密使外交”の全貌~佐藤栄作の極秘交渉~」

 昨夜のBS1スペシャル「日中“密使外交”の全貌~佐藤栄作の極秘交渉~」を見る。番組の内容はネットによると「45年前、実現した日中国交回復。実はその1年前、佐藤栄作総理が密使を送り極秘交渉を進めていた。香港、中国、アメリカ、日本で徹底取材。知られざる密使外交に迫る」とある。この詳細は「45年前、田中角栄政権の下、実現した日中国交回復。実はその1年前、佐藤栄作総理によって密使が香港に送り込まれ、極秘交渉が進んでいた。今回、当時の総理秘書官が、密使との連絡役を佐藤から命じられていたことを初めて証言、報告をメモに残していた。佐藤は、密使を介して周恩来に親書を送り、国交正常化へ向け北京を訪問したいと伝えていた。香港、中国、アメリカ、日本で徹底取材。知られざる“密使外交”の舞台裏に迫る」とある。

 当時の佐藤総理の秘書官とは西垣昭。この人のメモがナレーション代わりとなって番組が進められる。ニュースを挟んで2時間の番組。見ごたえ十分の番組だった。それにしてもよくここまで調べ上げていると感心する。これを書物にするとどれくらいの長さになるだろう。

 密使とは江口真彦。別名は真比古。取材班はこの人が何者かが理解できない。江口という姓を調べ上げると福島県にその人の親族がいた。戸籍などを持ち合わせていた親族から聞いた言葉は「江口章」が江口の本名とわかる。秘書の西垣は佐藤総理からこの密約は口外しないようにといわれていたとか。それではあまりにも佐藤総理が浮かばれない。そう思った西垣はもう口外してもいいだろうとの思いから公にする。

 密使である江口と秘書の西垣。この2人は秘密裏に事を進めるため佐藤の総理公邸の応接室に出入りする。ここは官邸であってもそのうちの一部が私的応接室に入れる仕組みになっていた。そのため、誰とあっても外に漏れることはなかった。

 当時の中国の首相は周。周と江口の接点は?といろんな角度から江口の行動を明らかにしていく。舞台は香港。萬𤋮という人がいた。この人と日本人との間に藤野という息子がいる。今でも健在でこの藤野にも話を聞く。他にも中国のトップに近い人物と江口がどうやって接触したのかの推理を解いていく。

 江口が様々な手段で構想した江口構想は9か月で幕を閉じる。1972年6月17日、佐藤総理は退陣。その3か月後の1972年9月29日、日中国交が正式に回復した。退陣から国交回復までの日本の政権のやり取りは見苦しいモノがある。いつの時代もそうかもしれない。これまで田中総理だけが日中国交回復をしたかのようにもてはやされた。しかし、その裏には知られざる事実が隠されていたとは…。そう思うと佐藤総理はかなりの人格者!?影の苦労を抱えながらも日を見ることがなかったとは…。その意味でも西垣氏がこのことを公にされたことは正しかった!

 話は変わって、昨日はプールに出かける。タイから帰った後は1か月くらい風邪気味でぐずぐずしていた。ところがインドネシアからの帰国後は元気そのものだ。さすがに1キロ泳ぐのは控える。それにしてもインドネシアの旅のお正月版の高いコト。今朝の地元紙にその募集がある。なんと398000円。他にも入国税や一人部屋追加料金50000円を加えると40数万円もかかる。

 まあ、インドネシアは南半球に位置している。遠いこともあるのか今回の旅も結構アジアにしては高かった。金額のことを言っていては何処へも行かれない。働いていた時はお盆、お正月、GWと高い時ばかりに出かけていた。そう思えば金額をとやかく言えない。ともあれ、行きたい、見たい、遊びたい、聞きたい、食べたい、飲みたい、着たい、会いたい…と何でもいいけど、やりたいモノ・コト・ヒトはすべてやった方がいい!その思いは年々強くなる。

 またもや話は変わって、昨日やっと作品展に出品した3点が我が家に戻って来た。自分の画を見てひとしお感慨にふける。来年はもっとうまく描けるといいけど…。

2017年10月24日火曜日

ブログの効用

 デジカメからパソコンに画像を取り込む。その際のアプリはカメラメーカーのもの。取り込もうとするとバージョンアップがある。カメラをパソコンにつなげてもうまくいかない。しばし考え、カメラをオフにすると取り込む準備となる。ここまでやるのに毎回手間取る。年に数回、パソコンに画像を取り込む。すばやく取り込めてもなぜか毎回手こずっている。

 インドネシアの旅の画像を取り込む。その後はフルートを吹く。吹きながら頭をかすめるのはこれまでさらった曲を一覧表にするということ。フルートの練習を中断して早速取り掛かる。幸い、ブログでタイトル以外にラベルとしてカテゴリーを決めている。その中のフルート、をクリックすると素早くそのブログが表示される。こういうところはブログの効果かもしれない。もっと工夫すればいろんなことが可能なブログ。素晴らしい機能だと感心する。

 早速、フルートのカテゴリーを表示する。わがブログながらも、再度、ざーっと目を通してフルートで吹いた曲を探す。とりあえずワードを起動させて曲名をコピーしていく。昨日は2年間分を集めた。今のブログを開設してから6年半余り。残りの4年余りを拾い上げればかなりの曲数となる。フルートを習い始めて以降のすべてはさらった楽譜を拾い集めるしかない。これは至難の業。ということでここ数年の曲を集める予定。

 これを思いついたのは新たな曲をさらってもこれまでさらった曲をすべて覚えていないためにダブることがある。再度さらうのもいかもしれない。それよりも同じさらうならばさらっていない曲をならいたい。その気持ちが昂じる。

 これはフルートの曲だけでなく、読んだ本なども一覧表にしたい。これもブログのカテゴリーでわかる。いつか作成しよう。他にも広響定演で聞いた曲も可能だ。習っている日本画は習い始めてまだ5年目と日が浅く、画集として入っている。

 もっと早くからブログを始めていればそれこそいろんな意味での自分史となりそうだ。とはいってもこれらのすべては自分自身の楽しみ!?

 お天気も良くなってきた。わが家の前は関所(?)のようで玄関を出れば誰かと顔が合う。昨日も家の前の道の段差に腰掛けていた女子中学生2人から「こんにちわ!」と声をかけられる。「今日は学校が早く終わった?」と尋ねると翌日の「やかつ」で早く授業が終わったらしい。「やかつ?」と聞くと野外活動の略した言葉らしく江田島へ行くと話す。江田島の海上自衛隊の海軍兵学校の話をする。

 以前は林間学校、臨海学校、遠足だったことが今では「やかつ」。時代は変わった。ともあれ、今どきの子供は?というけれど昨日の中学生たちはかわいい。そして可愛さは顔にも表れている。

2017年10月23日月曜日

フルート演奏会に出かける

 今年は夏が終わっていきなりの冬!?秋がない!大雨警報とやらが出ても、大雨はいつ降ったのだろう。ともあれ、台風の被害もなく通過すればそれでいい。今日はひさびさにお日様が拝めそうだ。

 海外の旅に出る前は必ずお墓に参る。亡き人に旅の無事をお願いする、これも何だか変な気もする。しかし、まもってくれる人はやはり両親。その思いはある。ところが無事帰ったとの報告は雨が降ったり、出歩くことが多くて参っていない。ましてや、今月20日は母が生きていれば102歳になる。「100歳まで生きよう!」と90歳を過ぎてからずっと励まし続けた。その度に「100歳までは生きられんじゃろうよ」と言っていた母。自分の寿命は自分でわかるのだろうか。

 いろんなことを想いながらシトシトと雨の降る中、フルートの演奏会に出かける。チケットは今回の旅の参加者からいただく。フルートだけの演奏会。長くフルートを習っていても「フルートだけ」の演奏会は少し抵抗がある。歌もそうだけど、歌だけよりも他の楽器が入るほうが曲に幅ができて聞きやすい。

 プログラムにはせてある演奏会のチラシ。10数枚はあった。ほとんどはフルートが主の演奏会。その中で1枚、上野星矢がスペシャルゲストのチラシがある。ぜひとも聴いてみたい人だ。新年の話だけどさてさて…。

2017年10月22日日曜日

「年を取ると美しく成長する」

 地元の氏神様の秋祭りというのに昨日から台風の影響で雨が降り続く。秋まつりの2日間、雨の日というのはこれまであったのだろうか。衆院選の投票日でもあるのに雨が降り続いて家の周りはいつもより静かだ。

 休む日が多くなっていた日本画教室。長く描き続けた落ち葉の絵をやっと完成させる。他にも遊びで描いた小さな絵。これも何とか完成。次回の日本画教室が終わるとこれまでの教室がビル空調のリニューアルで他の場所での教室となる。仮の教室は本通り付近の某ビル内。そこは教室が広くないらしく、2,3か月はもっぱらデッサンになりそうだ。絵の基礎ができていないのでこれはこれでいいことだ。

 日本画教室に出かける前にNHKのローカル放送「フェイス」を見る。番組名は「92歳の旋律~超人ピアニスト ルース・スレンチェンスカ~」。番組紹介欄には「92歳で超人的な演奏を行うアメリカ人ピアニスト・ルーススレンチェンスカさん。活動を続ける大きなきっかけとなった岡山を訪れコンサートを開いた。その舞台裏に密着。齢92、身長150の華奢な体で超人的な演奏を行うピアニストが今夏、岡山でコンサートを開いた。アメリカ人ピアニスト、ルース・スレンチェンスカさん。あのラフマニノフにも師事し、『ニューヨーク・タイムズ』ではモーツァルト以来の神童として紹介されたこともある世界的至宝だ。身体の衰えをものともせず命を振り絞って、遠路来日したルースさん。伝説の老ピアニスト渾身のコンサートと彼女の歩みを特集する」とある。

 前夜の放送を見逃し、昨日の朝の再放送を見る。それにしても世の中、ご高齢であっても素晴らしい人がたくさんおられる。この人の素晴らしいところはどういっても前向きな考え方にある。頑張るお年寄りはどの方もそうだけど…。樹齢1000年の桜が岡山県にあるそうだ。その桜の下での演奏で、樹齢1000年の桜は枯れずに咲いているのではなくて大きく成長している、という。番組最後でなぜそんなに前向きなのかと尋ねられると「92歳だから何でもできる」、「年を取ると美しく成長する」とのこと。

 これほどの人であっても一時は世間から見放されていた。5歳で神童と言われる。父から厳しく育てられ、上手くピアノが弾けないと平手打ちされ、食事もとることができない。9歳でラフマニノフの代役でピアノ演奏をする。16歳になると親からの体罰に耐え切れず家出。自分の血を売って生活する。大学では心理学を学ぶ。26歳になると演奏が評判を呼んで以降、9000回の演奏活動をする。大学で一人でラフマニノフのピアノ演奏をしていた時、毎日のように演奏を聞きに来る人がいた。その人は大学教授で5歳年下。その人と結婚し、夫が亡くなるまで35年間が過ぎる。一人になり意気消沈して2年後教え子が台湾での演奏に招待してくれる。その時、居合わせた人が岡山県の三船文彰。この人が岡山県での演奏を招待すること9回目。その模様が今回放送された。

 長い演奏キャリア。若い頃の演奏と今の演奏をビデオで比べる。若い頃は筋肉が成長し、年を取ると美しく成長する、という。そのためか、演奏の仕方を比較しても今の方が美しい弾き方だとか。「年を取ると美しく成長する」、この言葉は素晴らしい!

2017年10月21日土曜日

麝香猫珈琲

 定期的に出かける眼科。久しぶりに視力を測る。眼が悪いと視力検査も嫌になる。年を重ねて視力も更に悪化?と思ったら左目は裸眼で0.3だった。右眼は左目よりも良くない。ともあれ、視力は悪くなっていない、と一安心。眼圧の検査では17と13。これも正常らしい。

 医療機関は夏に歯科の通院が終わって眼科だけとなった。医院や病院が大嫌い!眼科はちいさいころから通院していたと親から聞いて育った。別に眼のどこがどうこういう問題はない。しかし、眼科とは縁が切れそうにない。一眼二足、眼は大事だ!

 午後からBSシネマで「愛と哀しみの果て」を見る。映画のタイトルに惹かれてしまった。1913年代のお話らしい。なぜかこの時代に興味がある。この中で「地球が丸いからはるか先が見えない」というような場面がある。それを聞いてそうか、と妙に納得する。先のことは誰にもわからない!?それならば何も先々を気にすることもない?

 話は変わって麝香猫珈琲の話題。2年前と今回、インドネシアに出かけてこのジャコウネコ珈琲の工場で試飲した。前回の自分のブログを見ると今回の工場とは異なっている。前回は2回分のコーヒーが5千円、と思った。ところが、記憶違いで2500円だった。(今回の参加者に間違って話していた。お詫びします)。今回は一袋のグラム数は覚えていないけど1750円で10杯分のコーヒーとの説明を受けた。そのため、前回は参加者の一人しか購入者がいなかった。だが今回は私を除いて全員購入された。購入場所も工場も異なるためこの違いがどうかは何とも言えないけど…。それにしてもこれをインドネシア以外で飲むと何と一杯8000円とネット上にある。さてさて、日本で麝香猫珈琲を扱っているお店があるだろうか。東京あたりではその専門店もあるかもしれない。http://www.afpbb.com/articles/-/2792189?pid=6937396 (参照)

 前回のブログでオスとメスの麝香猫のコーヒー豆の区別も書いている。豆に線が入ったのがメスでないのがオス。オスのほうが高い豆らしい。

 麝香猫珈琲は買わなかった。その代わりとして麝香猫珈琲よりも安いバリ珈琲を購入。これで現地通貨を使い果たす。さてそのお味は…。

2017年10月20日金曜日

エンジェルストランペット

上幟町公園付近のビル前に咲くエンジェルストランペット

 お天気が良くない日が続く。しばらく吹いていなかったフルートの練習をしていると急に外へ出たくなる。留守にしていた間に届いていた2枚の葉書。どちらも同じ展覧会の案内状だった。1枚は知っているヒト。もう1枚は去年絵を見て話をした人だと勝手に判断して見に行く。会場に着いて出迎えてくれた人が葉書を送ってくれた人だと思った。話をすると違っていた。案内葉書は主宰者から送られていた。

 話をした人は去年、「中学卒業以来の作品第一号」と絵が得意でないことを強調していた。今年は同じ調子で中学卒業以来の作品2号と3号だと笑って話す。言われてみればこちらも中学卒業以来、何十年ぶりかで描いている。絵を習い始めて4回作品展に出品。1年に2点としても今年で8点目。といっても今年は3点出した。ということで中学卒業以来第9号目の作品となる。

 2号3号目の作品の展示も一年で随分上手になっている。絵のモチーフは先生が提供してくださるらしく、敷物の上に静物を置いて描いている。この敷物の描き方がまるで本物に思えるほどだと話すと嬉しそうにされる。

 帰宅後、もらったパンフなどを見ると来月からしばらく習う場所が同じになる。というのは今習っているビルの空調設備リニューアルで会場を一時的にかわることによる。ともあれ、年老いて何かを習い始める、ということは確かに中学卒業以来となることもありうる。というよりも、自分自身は生まれて以来のこともある。自転車、水泳などがそうだ。
エンジェルストランペット



 展覧会場を後にして三越の画廊に向かう。油絵画家の辰巳隆の個展だった。この人のイメージカラーはブルー。それもスカイブルー。勝手にそう解釈してしまうほど空の青さに引き込まれる。絵を堪能した後はカフェでティータイム。

 その後、歩いていると女学院近くのバス通りにエンジェルストランペットが咲いている。携帯で写真に撮っていると数人の外国人も立ち止まって写真を取り出す。花の名前は家でネットで調べてわかった。それにしても咲き方がトランペットだ。エンジェルストランペット、いつか絵に描こう。

 花ではないが、今朝の地元紙に六患子の読者の投書がある。これはムクロジと読むそうで「役立つムクロジの実」とタイトルがある。なぜこの記事が気になったのかといえば、先日のインドネシアの旅で参加者から初めて聞いて知ったことによる。植物に疎いので話を聞いても何のことかさっぱりわからない。持っていたメモ帳にその名を書いてもらった。

 ムクロジの実は昔、お正月に羽子板で遊んでいた「♩追い羽根ついて遊びましょ♪」の羽根の下についている黒い丸い実、とのこと。他の参加者に何人か聞いても知らない様子だった。教えてくださった人は後日、会う際にこの実を持ってきてくださるという。有難い!

 話は変わって昨夜のBS1スペシャル「父を捜して~日系オランダ人 終わらない戦争~」を見る。外国に行けばその国に関係あるメディアなどの情報がやたらと目に入るようになる。昨夜もまさにそうだった。何でインドネシアの話題?と思った。ニュースを挟んで2時間の番組。プロ野球のCSでカープは負けている。野球を見ずにドキュメンタリーに釘付けとなる。

 番組紹介欄を見ると「太平洋戦争中、日本軍政下のインドネシアで日本軍兵士・軍属と蘭印系女性との間に多くの子どもが生まれた。今も日本人の父親探しを続ける『日系オランダ人』の姿を見つめる」とあり、「『日系オランダ人』たちの日本人の父親探しが、戦後72年の今も続いている。太平洋戦争中、日本軍政下のインドネシアで日本軍兵士・軍属と現地の蘭印系女性との間に多くの子どもが生まれた。しかし、終戦後、父は日本に送還され、母子はオランダへ移住した。多くは『日本人の子』であることを長く知らされずにきた。真実を告げられ、父親探しを始めた人々。自らの人生の意味を問う『戦争の落とし子』たちの姿を見つめていく」とある。

 番組の前半は姉妹が父親を捜し、後半は蘭印系オランダ人と日本の警察官との間に生まれた女性が15歳になった時、のちに継父となった人との間に子供を身ごもる話題を追う。実の父親はどちらも当時インドネシアで警察管をしていた日本人男性。1942年までインドネシアはオランダに統治されていた。ところがその後、たった1週間余りで日本がオランダ軍を追い払って1945年8月17日のインドネシア独立の日までインドネシアを統治する。その間に蘭印と日本人との間に生まれた子供がいる。

 15歳の少女に継父が子供を生ませた背景には日本軍人に対する敵意が少女に向けられた。15歳の少女の実父は日本人だ。日本に対する憎しみからそうなった経緯が番組を通して解明される。番組を見て日本軍もオランダ人を捕虜にしたりしている。今でも蘭印系のオランダ人は日本を好ましく思っていない。すべては戦争がそうさせた、といえば簡単だけど、そうとは割り切れない部分がある。短い旅であってもいろんな情報の中から出かけた国のことが何故か目に着きだす。これはこれでいいことかもしれないが、ますますわからないことが増えてくる。これもいい意味の好奇心!?

2017年10月19日木曜日

インドネシアの旅から帰ってその2

 今年の8月下旬、東京に住む姪はインドネシアの旅をした。成田空港発✈ジャカルタ着で7時間のフライト。ところが広島発でインドネシアに行くには2度トランジットがある。広島空港✈台湾✈香港✈ジャカルタ着で、気づけば12時間を要している。インドネシアは遠い。

 復路はバリ島のデンパサール発✈台湾✈広島空港で往路の3分の2くらいの所要時間。これはインドネシアがジャワ島、バリ島と横に長い島国とも関係がある。

 ともあれ、個人的には今年の夏はインドネシアの旅で終わる。2か月前にタイに出かけ、暑さのために体から水分が抜けて干からびたように感じた。その後の広島はインドネシアに出発する10月12日の前日も30度と暑かった。その点では暑さも覚悟の上で出かける。ところが広島の30度とインドネシアの同じ気温では湿度が高いため暑さも半端でない。ある日の服は木綿の淡いピンク。人の倍くらい汗かきのため着ている服が汗に濡れて濃いピンクに変色する。まるで水で洗った服をそのまま着ている感じになる。これを見かねたある人曰く「次回からは汗をかいても色が変わらない服を着るように!」。これは旅に出る際の注意事項の一つになった。

 インドネシアの旅について昨夜姪と電話で話す。姪はデンパサールで開催されるケチャックダンスが何かの手配違いで見られなかったそうだ。開催場所は大きな円形の野外ステージで1200人収容できる。現地ガイドによると連日観客は満員らしい。その周辺は川に面しており、寺院もある。寺院もダンスも見られなかったという姪。旅行社から後日、お詫びの振り込みがあったという。それでも、見ずに帰国は残念だったようだ。

 暑さの面では一日だけ滞在した台湾も同じだった。台湾から広島空港に向かう機内で広島の気温は14度とアナウンスがある。秋を通り越して一気に冬を感じる。帰国後、旅先で着ていた服を洗い、これをしまうとちょうど衣替えになる。ということで今年の夏はやっと終わりを告げた!

2017年10月18日水曜日

インドネシアの旅から帰ってその1

 昨夜8時過ぎ、広島空港に無事着陸。ここから白市駅までバスに乗り、山陽本線に乗り換える。わが家に着いたのは午後10時半ごろ。空港から白市までのバスの便が少なく、30分間、空港で待って遅い帰宅となる。

 インドネシアの旅は出かける前からアグン山の噴火が危ぶまれた。いわゆる旅行会社が主催するツアーでなく某会が主催するツアー。インドネシアは2年前に出かけているのでアグン山がどこら辺にあるかわかっている。そのため、噴火が気になる。ところが、その旨、幹事さんに尋ねると、その時々の状況に応じて現地ガイドが判断するとのことだった。これを聞いて安心して旅に出る。

 インドネシアのジャカルタに入国しても現地ガイドから噴火の話は出てこない。ジャワ島からバリ島に移動してもその話は出ない。世の中、日本で思っていたよりもいたって平和そのものだ。ある日、たまりかねた某人が現地ガイドに噴火の様子を尋ねる。だが、ガイドは全く驚く様子がない。というように噴火の心配もなく、楽しいうちに旅は終わった。

 噴火は無事だった。しかし驚いたことがある。それはバスに乗って移動後、食事や買い物、観光などで大きな建物に入る際のセキュリティ・チェックである。飛行機に搭乗の際、空港内で持ち物などのセキュリティ・チェックがある。これと同じようなセキュリティ・チェックを受けなくてはならない。これには驚く。当然、空港の入り口でもいきなりのセキュリティ・チェックがある。飛行機に乗るならば、さらに本来のセキュリティー・チェックがある。このようにヒト・モノ・コトに対する厳しいセキュリティー・チェッックはISなどに対するテロ防止対策なのだろう。

 それにしても、今回は何度飛行機を利用したことだろうか。6日間の旅で、1日を除いて毎日飛行機を利用して移動した。思わず団長に「インドネシア日帰り飛行機&日帰りバス旅」と話す。すると団長曰く「旅のタイトルはそれがいい」。笑ってしまった!

 2年前にも別の団体で出かけたインドネシア。そのため今回は不参加を予定していた。ところが急きょ参加を決める。6日間の旅のうち、半分は前回出かけたところだ。しかし、半分は行き先が異なる。ということで今回の行き先も初めて出かける国に思え、これはこれでよい旅となった。

 旅のメンバーは17名。このうち1名を除いて全員顔なじみの人たちばかり。今回初めて出会った人は会ができた1回目から10回目まですべて参加。途中、何年かブランクがあって今回は参加されたという。近年は百名山の登山踏破を目標とされながら、海外旅行もしているそうだ。旅の道中、参加者と話をすると皆さん、いろんな趣味があり、話題に事欠かない。

 旅行中、いくら移動に時間がかかり睡眠不足の毎日であっても旅行後の疲れが今のところない。これはやっぱり楽しい旅!?ともあれ、インドネシアの楽しい旅は終わった!旅の記録はまたいつかブログにアップしよう!旅をご一緒した皆さま、ありがとうございました!

 追記 インドネシアは雨季。またアグン山の火山爆発が危ういなかの旅だった。ところが、この会の幹事さんが参加されないと昨年の中国や一昨年の途中帰国のマレーシアの旅のようにトラブルがある。しかし、幹事さんが参加されると観光中、雨も降らず、蒸し暑さを除けば快適そのものの旅となる。ましてや火山爆発も寄せ付けない人だ。皆で曰く「幹事さんの威力はすごい!」。まるで添乗員のように皆をお世話してくださる〇幹事さん。本当に有難い!

2017年10月11日水曜日

アナザーストーリーズ「発見!ナチス略奪絵画 執念のスクープの舞台裏」&秋の日本画展を見る

 NHKのアナザーストーリーズ「発見!ナチス略奪絵画 執念のスクープの舞台裏」を見る。今春、ポーランドのアウシュビッツに出かけて以来、メディアに流れるナチス、ヒトラーなどのキーワードが目につくようになった。昨夜はナチス時代に略奪した名画の存在をテレビで見る。名画を持っていたのはナチスから預かった人の息子。親はすでに死亡し、極秘裏に名画を保管していた。その人物は決して自分自身の身分を明かさず、国籍もドイツでなくオーストリアに変更し、病院へ行くこともなかった。死後、部屋に置かれていたのは山積みされた缶詰類。絵を売って生活していた。

 番組HPによると「2012年、ドイツのマンションの一室で、ナチスによって強奪された1200点もの絵画が発見された!中にはピカソ、ルノワール、マティスなど世界的巨匠の名画が!世紀の発見のきっかけはある老人のささいな疑惑。だがその裏に数々の謎が…。なぜ当局は発見を1年以上も公表しなかったのか?自室で絵画を隠し続けていた、幽霊のような男の正体とは?第2次大戦の混乱と真実、歴史の闇を掘り起こした記者たちの舞台裏!」とある。

 謎の人物はある人によって顔を隠し撮りされて正体が暴かれる。誰とも交流せず、家族も持たない生活。絵画という財産を所有しても心の中は闇を抱える。決して楽しい人生ではない。この謎の人物もナチスによって自分の人生を略奪された…。似た番組が民放のBSでも同時間帯に放送された。なぜ、この期に及んで…。

 フルートのレッスンに出かける。今月から月4回のレッスンを2回に変更する。さらう曲は発表会で吹こうとしたもう一つの曲。家ではフルート演奏の動画をICレコーダに録音して、それを流して練習する。とはいっても拍をちゃんと取らずに音だけ聞いてもいい演奏はできない。レッスンではしきりに拍のとり方をさらう。

 レッスン後、八丁堀まで歩いて某金融機関の秋の日本画展を見る。この金融機関は日本画ばかりを所有するのか、それこそ日本画の名画ばかりが展示してある。ましてや、いつものことながらビデオを見ようとソファに座れば美味しいお茶が出てくる。何か気分もゆったりし、無料でこういうことをされるとここにお金を預けていない後ろめたさが付きまとう。かといって、今更預け直す預金もない。年に2度、1か月間ずつ開催される春と秋の日本画展。ほんとうに有難い。

 昨日は木村圭吾のビデオが流れていた。ススキの原っぱを歩いてそれを絵にする。この時季はヤッパリ、ススキがいい!先日お墓に参った時、ススキを見つけた。次に参るときはデジカメを持参してススキを写そう。そういえば岡山県の蒜山高原は中旬までススキが満開(?)とニュースで知った。ススキ、この響きがいい!秋を感じる!

2017年10月10日火曜日

バッテリー交換!?

 10日くらい前からパソコンの画面にバッテリー・リフレッシュ&診断の表示が頻繁に出るようになった。今のパソコンは3台目。前のパソコンを買い替えて3年になる。2台目までのパソコンではこういった表示を見たことがない。思い起こせばこのパソコンに替えてからメーカーに調子がおかしいと電話をすると必ず「放電」するようにと言われた。お蔭で放電には強くなった。しかし、今回のことをネットで調べると常時電源に接続するとバッテリーの寿命が短くなると知った。「放電」を教えられてから、常時接続はしていない。

 ただ不満なのはネットによるとバッテリーを長持ちさせるために充電も50%くらいがいいらしい。メーカーにフリーズなどで問い合わせたとき「放電」だけでなく、何故バッテリーについて教えてくれなかったのだろう。バッテリー・リフレッシュ診断も古いパソコンでしたことがなかった。バッテリーそのものが以前のパソコンにはなかったのだろうか。

 ともあれ、バッテリー・リフレッシュ診断後はパソコンを起動するたびに「バッテリー交換」の表示が出る。そして購入先まで出る始末。この金額は業者にしてもらうと2万4,5千円くらいかかる。これはメーカーからの情報によると新たに購入するパソコンの半額にも相当する。

 朝からぶつぶつ言っている。購入したパソコンはすべて自分で設定した。それなのにこのバッテリーとやらに手こずる。これがちょっと残念。バッテリーの寿命は2年間らしい。2年はとうに過ぎているのでやっぱり交換!?パソコンが安くなってもバッテリーが高すぎる。こうなったら最後の手段はACアダプタに繋いでパソコンを使用しよう。

 いろんなことが起きてくる。その都度、賢くなるからいいようなものの、いつまで頭が働くだろうか。105歳のダグニー・カールソンさん、今朝もブログを見ると「秋に思う」と題して投稿されている。この人を見倣ってぶつぶつ言わず、パソコンに親しむ。これに尽きそうだ!

 追伸:このごろパソコンに手こずってもネットで困った時の神頼みができる。これがセメテモノ救い。だれに頼らなくてもパソコンでのネット検索で問題は解決する。そう思えばやっぱりパソコンに文句は言えない。末永くパソコンと付き合うしかない!?

2017年10月9日月曜日

「新聞力~知的にイキイキ暮らす」講演会&第72回春の院展に行く

 CARP選手を応援する同じ推しメンの人のツイッターを見る。もちろん見知らぬ若者のツイッター。ところがシーズン終盤に推す選手が二軍落ちとなる。活躍する姿を見たいと思ってもそれは選手の力の世界。「本日の公示」で二軍へ降格、と知ればファン心理としてがっくりする。それでも若者が必死で応援する姿を見て、こういう応援もある?と感激してしまう。ところがこの見知らぬ若者、とはいっても女性は、3,4日前から「さがさないでください」とアイコンに表示し、プロフィールには「修行の旅に出ます」としている。この「修行の旅に出ます」が若い人の口から出るのが微笑ましい。もう少しすると私も「修行の旅に出ます」とブログに投稿して出かけようか!?

 気分を変えよう。齋藤孝の講演会に出かける。場所は平和公園そばの中国新聞社のホール。講師は明治大学教授。この人は一人漫才をしているかのように演台を離れてマイク片手にあちこち飛び跳ねて早口でまくし立てる。それも話を聞いていて可笑しいのなんのって会場が1時間40分、休憩なしに笑いの渦に巻き込まれる。講演会と名のつくところへは結構出かけている。しかし、今回は面白さというか内容的にも最高レベル。今朝の主催新聞社の新聞記事を読むと紙面の3分の1ページを割いている。講演の要旨の抜粋もある。しかし、そこには笑いの場面は一切ない。

 活字力がある人は話す言葉がそのまま活字になるという。その例を自分の教え子である安住アナをあげて話す。この人は学生時代に話す言葉がそのまま活字になる人だったそうだ。

 演題は「新聞力~知的にイキイキ暮らす」。「イキイキ暮らす」には「上機嫌」が大事。そうなるにほ「反応がいい」、「微笑む」、「質問する」の3点を挙げる。家庭内で妻の話を夫は「へえー」と答えるだけもいいらしい。ここで会場の人にその反応を見るために「へえー」と声を出させる。これは夫婦だけでなくすべてに当てはまるようだ。とにかく人の話に「笑顔でへえーと反応」すれば世の中上機嫌!?

 また、新聞記事を読んでキーワードや数字をあげて表現する。これもいいらしい。本を読んで大事なところに付箋紙を貼るようにしている。内容が長くなったり、わかりにくい箇所はキーワードだけでも羅列してブログにアップしている。それは旅の記録をする際にもキーワードを書きとどめて後で文にしている。そうしないと、どこで何をしたのかよほどのことでない限り覚えきれない。

 講演を聞いた後、平和公園を抜けてそごうデパートに向かう。途中、携帯で話しながら歩いていると講演を聞いた見知らぬ人が人の電話を聞いて話をし出す。変なおばさん、と思っていると一緒についてくる。御年85歳とか。原爆ドーム付近で髭もじゃの男性に近づく。何を言い出すのかと思ったらどこの国から来たのか聞いている。聞いてもわからないのか「カナダ人」と教えてあげる。しまいにはその人に近づいて体を触りだす。こんな日本人は変。同じ日本女性としてかかわってはいけないと察して足早にその場を去る。それにしても変な人だった。

 そごうで先日、日本画の先生にいただいた(というか、無理やりもらった)チケットで春の院展を見る。何百点という数の作品の中から、とくに4点気に入る。院展同人の福王寺一彦の「三日月」は樹木にとまる一羽の鳥を描いている。これは去年描いた樹木にとまるカラスに似ているようで気に入ってしまった。すぐに絵ハガキ購入。

 もう一点も同人の前原満夫の「木魂」。これは大木の根っ子の部分が描いてある。樹木に関心があるのでこれも絵ハガキ購入。他にも宮武廸子「水温む」。そして岡本季芳の「仔象」。大きな画面に象が線や点のタッチだけで描かれている。これは見事なまでの描き方。どんな人が描かれたのだろうか。きっと繊細な優しい人だろう。それにしても大分絵の見方が変わってきた。どういっても自分で気に入った絵がやっぱりいい絵。それにしてもいろいろと堪能した一日だった。

2017年10月8日日曜日

日本画、5年目に突入

 昨日から日本画を習い始めて5年目に突入した。まだまだ何を習っているのかわからない状態でも、何とか続けている。次に何をするのか、いつまでも先生に聞きながらでは進歩がない。そう思って、自分なりに筆を進める。とはいってもこれも簡単なことではない。ともあれ、何でも自分でやる癖をつけないと先が思いやられる。

 教室が終わると先生と一緒に5人でカフェに入る。5年目に突入、と話す。続けてよかったね、と言ってくれる人もいる。その人と共に、来年のこの頃は5年目の記念に先生の画がいただけるらしい。これは嬉しい!苦手意識が強かった絵。ここまで続けられるとは我ながら不思議。これも、先を急がずマイペースで歩を進める。これに尽きるのかもしれない。どういっても、元来、絵心がない。

 そう気づいた時から県立美術館の友の会に入ったり、絵を見たり、美術館での講演を聞くようにした。次第に自分の好みの絵があるとわかる。それから10数年、いや20年余り経過してやっと絵を習う。そう思うと一枚の我が絵が完成する。これは本当に嬉しい。単純と言えば単純だけどそれまでの絵に対するコンプレックスからすれば嬉しいの一言だ。

 こうやって、一枚ずつ絵を描いていく。何をやっても、特に運動や絵画は人よりも一歩も二歩も遅れていた。その思いがあるのでナニゴトもマイペース。それでも、時に「これじゃいけんじゃろう」、との気持ちが芽生える。その時が進歩の時。さて、それはいつ!?ともあれ、根気だけは人並みにある。ただそれだけが取り柄かもしれない。

2017年10月7日土曜日

タイ(アユタヤ遺跡、スコタイ遺跡)の旅5日間

  4年半前に出かけたスリランカの旅で九州のお坊様たちと知り合う。それ以降、2年前のインドネシアの旅と今回のタイの旅に誘われる。今回はいわゆる旅行会社のツアーでなく、九州にあるお寺の関係者が主催されている。この会からはこれまでに何度か海外や国内の研修旅行をされているらしく、旅慣れた人たちばかりだった。その中に、異端者が一人紛れ込む。旅の参加者はこの会ではお馴染みの旅行社らしく、添乗員とも皆さん顔馴染みのようだった。
 
 福岡空港の集合場所である特別待合室Bを探していると3階でなく2階になっている。親切な係りに誘導されて歩いていると添乗員に名前を呼ばれる。これにはびっくり!よほどウロウロキョロキョロしていたのだろう。ともあれ、無事集合場所にたどり着く。
 
 集合場所が特別待合室というのは何年振り、いや何十年ぶりだろう。30余年前、初めて海外旅行をしたころ、特別待合室が集合場所だった。そこで行く国の簡単な説明会がある。初めての海外は中国。日本とは政治的にも異なる国だ。出かけた先でおもい掛けないことが起きては大変だった時代。中国事情の説明を受けた。それから何度も海外に出かけている。しかし、この頃は集合場所は特別待合室でなく、ANAやJALの空港カウンターが多い。そして皆で集まっての説明もほとんどなく、Eチケットを受け取ると出国までの手続きは各自で行うようになった。しかし、今回の添乗員はこの会のレギュラー添乗員(?)らしく至れり尽くせりだった。
「タイの地図 日...」の画像検索結果
 
第一日目 2017年9月11日(月) 晴れ 広島🚄博多🚌福岡空港✈タイ・バンコク
 
 広島駅7時26分発みずほ乗車🚄8時28分博多駅着。博多口にあるバスターミナルから福岡空港国際線ロビーまでバスで移動。9時20分、何十年ぶりかで福岡空港国際線の特別待合室Bに集合。部屋にはソファが置かれ、いつもの空港カウンター前集合とは趣が異なる。ここで、急きょ、小倉のお坊様が体調不良のため不参加と聞く。ご本人はギリギリまで参加を希望されたそうだが、家族の意見で不参加となったらしい。旅の参加者は添乗員を入れて14名。そのほとんどはお寺の御住職。うち女性は4名。
 
 11時35分 タイ航空TG649便は定刻通り福岡空港を離陸して14時55分(これ以降現地時間表記)、バンコク着。日本とタイとの時差はマイナス2時間。5時間20分のフライトは揺れもなく快適だった。入国手続き後、専用バスにてホテルへ。
 
 この間、タイ人の現地ガイドは当日と翌日の夜のオプションツアーを説明する。当日の夜は2時間のマッサージで翌日はニューハーフショーとナイトマーケットの散策。オプションに参加しない人はナイトマーケットに出かける。どちらも関心がなくオプションツアーは参加しなかった。ところが専用バス車内で現地通貨に両替の際、金額が少なすぎるとガイドはぼやく。両替は日本円5千円≒1400バーツ。オプションツアーはいずれも各1600バーツ必要。これは日本円にすると6千円くらい。現地の所得は日本の6分の1らしい。ということは一つのオプションは日本円で3万円以上の勘定になる。これ、私一人が思ったことではない。あまりにもぼったくり!?
 
 17時ホテル着。夕食は蟹カレーなどタイの海鮮料理が次々と出る。まるで宴会モードだ。飲み物は旅費込みなのかフリーだった。タイのシンハビールで乾杯!美味! 
 
 旅に出るとその時の食べ物を写真にとる。ところが今回はタイとはいっても中華風料理が多く円卓に出てくる。写真に撮るよりも前に美味しいモノが口に入ってしまう。
 
 ホテルはAetas Lunpini Hotel。新しいホテルだった。ここで連泊。前夜の寝不足と当日移動の朝が早くて21時に就寝。
 
第二日目 2017年9月12日(火) バンコク🚌アユタヤ遺跡🚌バンコク
 
  5時に起床し、6時15分にバイキングの朝食をいただく。眼に入ってきたのは炒めたご飯の上に載せてある納豆。だれも手を浸けていないようで、そのままの形で置かれていた。この頃は何処の国へ出かけても手の込んだ料理は食べないようにしている。結果、朝食の定番は卵、ヨーグルト、フルーツ、ジュースなど。珈琲は濃い味でミルクは欠かせない。
 
  8時、専用バスはホテルを出発してアユタヤへ向かう。発車後しばらくして、誰に名付けられたのだろうか、一休さん、キューピーさん、〇〇さんなどと呼ばれるお坊様がバス前席に移動される。そして本日の旅の安全を祈って全員で「般若心経」を唱える。悲しいかな、このお経の名前は知っていてもお経そのものを知らない。黙ってお経を聞く。アユタヤまでの高速道路の横はスカイレールが開通するらしく工事中だった。
 
 9時20分、バスに1時間20分後乗車後、アユタヤ到着。ここからバンパイン離宮とアユタヤ遺跡観光が始まる。まずはバンパイン離宮に向かう。 
朝食のうちの1種
上の写真の料理名

宿泊したホテルの18階から

タイの国王夫妻の喪中につき、白と黒の垂れ幕や写真を目にする
 バンパイン離宮観光(王宮)

 バンパイン離宮に到着すると駐車場で目にするは派手に装飾された何台かのバス。離宮はまるで広い公園といった感じがする。離宮内はどれくらいの広さがあるのだろうか。広さも知らぬまま歩いていると途中にカートがある。これに4人ずつ乗り、要所要所で降りて観光する。私たち女性3名のカートは一休さんが運転された。

 タイの国は朝から蒸し暑い。それなのに女性はズボンを穿いているにもかかわらず、王宮に入るには巻きスカートを着用しなければならない。暑い、暑い!

 バンパイン離宮はウイキペディアによるとアユタヤ県バンパイン郡にある数多くの宮殿からなる宮殿群であるという。主にルネサンス様式ロココ様式の宮殿が多いが、中にはタイ国中華総商会から寄付された、明天殿という中国風の宮殿がある。他にも大量の黄金を使って建てられたプラティーナン・アイスワンティップアートという池の上に経つ離宮もある。また、もらったパンフによるとバンパイン離宮は夏の宮殿だった。

 離宮内は撮影禁止。中に入ると現地ガイドはタイのラーマ5世などにまつわる話をする。アジアの中で日本とタイだけがヨーロッパの植民地化から逃れている。それにはヨーロッパの言葉を学び、文化を取り入れるなどの先見の明があったラーマ王の話も出る。そのためか離宮内の庭に建つモニュメントもヨーロッパの香りがする。
バンパイン離宮駐車場
びっくりするほど派手に装飾したバス

カートに4人ずつ分乗してバンパイン離宮を観光


私たち4名のカートの運転手さんは一休さんならぬ〇〇さん
穏かなお顔はまるで一休さん

観光するタイの子供たちの団体 説明を受けている!?

王宮入り口に置いてある巻きスカート

バンパイン離宮(内部は撮影禁止だった)
王宮内に入るとき、女性だけが入り口横に置いてある巻きスカートを着用

大量の黄金を使って建てられたプラティーナン・アイスワンティップアート
という池の上に経つバンパイン離宮群の一つ

離宮内は仏教国なのにキリスト教のにおいが漂う

離宮内に咲く果物?

タイの中華総務商会から寄付されたという中国風の宮殿である明天殿

離宮内は象の国らしく、樹木の剪定も象の形
  アユタヤ日本人町の跡観光

 10時40分 専用バスは出発して20分ほどでアユタヤ日本人町の跡に到着。もらったパンフによるとアユタヤは1350年から1767年までの417年間、タイ王国(当時はシャム)の都であった。当時はポルトガル船も来航するようになり、海外への関心も高まって東南アジア方面に進出する日本人もあらわれた。タイ王国に渡来した日本人に対してアユタヤの国王は他の外国人同様に居留地を与えた。当時の日本人は3000人に及ぶ。なかでも山田長政はアユタヤ王朝の信任を得て第三位に位置する官位の位を授けられ、1630年戦闘中に負傷し死亡した。

 日本人町の跡は旧日本人町の遺跡保存のためにアユタヤ歴史研究センター別館が設置された。尚、本館はアユタヤ市内にある。この別館は2007年、前プミポン国王生誕80歳、そして日本とタイの修好120周年の機会に大々的に改造して日本庭園と休憩所が設置された。休憩所に入るとまずはこの町に因むビデオ鑑賞がある。その後、庭園を散策して専用バスでレストランへ移動する。お昼はブッフェ。お昼を済ませるとお土産売り場を覗く。タイの小物、スカーフ、衣類が安い。

 食事の際の飲み物代はすべて旅費に含まれており、各自の出費がない。現地通貨を使い切るためにタイの小物やポリエステルでできた日本のモンペのようなズボンを購入。これは、後日、汗だくで汚れたズボンの代わりに穿くと涼しさ満点だった。暑い国特有の現地仕様のモンペというかズボンの穿き心地は最高。尚、タイのお土産品は象がどこかにあしらってあった。
 
日本人町の跡入口




アユタヤ日本人町の跡の記念碑

日本人町の跡の庭園風景

アユタヤ自治市へようこその標識
 アユタヤ遺跡観光

 アユタヤはバンコクから北へ76㎞、タイの中央部に位置し四方を川に囲まれている。1350年にウートン王がこの地に王朝を築き、417年の長きにわたって栄えたアユタヤ王朝の古都として、世界遺産に登録されている。以下はアユタヤ遺跡に点在する主な寺院。

 ワット・ヤイ・チャイモンコン

 昼食後、ワット・ヤイ・チャイモンコンに専用バスで向かう。ここは初代ウートン王が、1357年にスリランカから帰った僧侶のために建てた寺院の跡らしく、敷地内にはスリランカ様式のダウ仏塔がそびえる。その傍の屋外には大きな涅槃仏が横たわっている。さらに大きな仏塔の周りには多くの仏像が鎮座。仏塔の急な階段を登るとお賽銭を入れるのか、柵に穴が空いている。下を見下すと沢山のお賽銭が落ちていた。
ワット・ヤイ・チャイモンコン

ワット・ヤイ・チャイモンコン
屋外に横たわる巨大な涅槃仏

ワット・ヤイ・チャイモンコン
大仏塔の周りの回廊には多くの仏像が並ぶ
裏側から写したためか写真には仏像が収まっていない

ワット・ヤイ・チャイモンコン
ここで現地の人を真似てお参りする

ワット・ヤイ・チャイモンコン
塔の上付近まで急な階段を登る

階段のてっぺんまで上がり、見下すと底にはお賽銭がいっぱいあった

ワット・ヤイ・チャイモンコン
ここからお賽銭を下に落とす

ワット・ヤイ・チャイモンコン
登ったはいいのだが下りの階段は急だった

 ワット・マハ・タート

 ワット・マハ・タートの遺跡は1767年、ビルマ軍の侵攻によって破壊され、無残な姿をさらしている。かつては50mもの高さの大仏塔が聳えていたという。なかでも以前テレビで見たことがある菩提樹に覆われた仏頭は長い年月を経て樹木の根っこにひっそりと顔を出していた。

」」ワット・マハ・タート

ワット・マハ・タート

ワット・マハ・タート

ワット・マハ・タートの仏頭
 

ワット・マハ・タートの標識

ワット・マハ・タート
仏頭はひっそりと樹木の根っこにある

ワット・マハ・タート
菩提樹の根っこに眠る仏頭
 ワット・プラ・シー・サンペット

 ワット・マハ・タート見学後、ワット・プラ・シー・サンペットに移動する。もらった資料によるとワット・プラ・シー・サンペットは王の遺骨を納めた仏塔らしい。大仏塔は多数並んで建つ。初代ウートン王が最初に王宮を建設した場所に、ラマティボディ2世が建てた王宮専用寺院の跡だそうだ。仏塔の中にはアユタヤ王朝の3人の王の遺骨が納められている。なかにはビルマ軍に破壊されて首のない仏像もある。

ワット・プラ・シー・サンペット
 

ワット・プラ・シー・サンペット

ワット・プラ・シー・サンペット

ワット・プラ・シー・サンペット


ワット・プラ・シー・サンペット


ワット・プラ・シー・サンペット
 象乗り体験

 14時、ワット・プラ・シー・サンペット観光後、象乗り体験に出かける。一頭の象に2人ずつ乗る。今回の旅で知り合った久留米の人と一緒に乗った。象に乗るのはいいのだが、首からぶら下げていたカメラを手に持つことができない。座っていても、どこかを持たないと振り落とされそうになる。ましてや象に乗ると高さを感じる。私たちが乗った数頭の象は列を成してのっそ、のっそと歩きだす。途中、草を刈っているのだろうか、それとも掃除の人だろか。その人たちの傍に象は立ち止まる。しばらくするとまた前に進みだす。十数分くらい象に乗っていたのだろう。象から降りる時、前の人たちが何やら渡している。チップ?と思って小銭を渡すと、「ペーパー、ペーパー」の掛け声。小銭でなくお札が欲しいと言っている。怖くなって急いで象から降りる。

 それにしても象乗り体験、キャーキャーワーワーとわめいて楽しかった。象に乗った写真は誰彼となく写されていた。自分が自分を写せない。旅に参加した人たちから象に乗った写真が送られてきて嬉しかった。感謝!
 
 象から降りるとトイレに行く。ところがトイレは有料。機械にお金を入れても入り口のドアが作動しない。仕方なくそこにいた3人で知恵を絞ってドアをくぐって入る。タイのトイレはたまに有料のところもある。無料であっても有料でもタイはきれい好きな国なのかトイレは何処も清潔だった。

2人ずつ象に乗る

 14時45分、アユタヤ観光後バンコクへ向けて専用バスは出発する。バスに乗ると一休さんから現地の人が写した写真(お皿に張り付けてある)をいただく。写真は象に一緒に乗った人と写っていた。一休さんは現地の人への喜捨というかお布施がわりにお皿を買われたのだろう。個人の写真は旅に出ても写さない。いただいたことは嬉しい限り。だが、このお皿の写真、どうすればいい!? 
 
  16時、専用バスはバンコク到着。夕食はタイスキ。夕飯までにしばらく時間がある。シャワーを浴びて服も着替える。どういってもタイの蒸し暑さは半端ではない。穿いていた服を脱ぐと象に乗った各国の人々の汗まみれのにおいが服にしみこんでいる。持参したズボンは3枚。上に着るのは旅の数より多く持参。ともあれズボン類が2日と穿けそうにない。急遽、急いでシャワー後洗濯する。幸い連泊。何とか乾きそうで一安心。ここで旅に出かける時の注意事項。暑い国では上も下も日数以上の枚数の衣服を用意すること。とはいっても、翌日だったか、現地のペラペラの象の柄入りズボンを穿いたけど…。
  タイスキの夕食で某寺のご子息と隣の席になる。ビールで乾杯すると、口を付けようとしない。ましてや次の食事風景を見てもビールでなくジュース。なんとまだ大学一年生だった。道理でビールを飲まないはず。大学は宗教関係でなく工学部と話していた。しかし、いずれは親のお寺を継ぐらしい。黄檗宗のお寺だそうだ。

 夕食後はナイトマーケットに繰り出す。夜になってもタイは暑い。市場に出かけても屋根があるのはアーケード街だけで暑い。狭い迷路にあるマーケット。特別に欲しいお土産はない。初めはマーケット散策も2時間の予定だった。それを1時間に変更してお店を見て歩く。オプションに参加しない人は散策後、バスでホテルまで送ってもらう。ニューハーフショーのオプション組はショー見学後マーケット散策となる。ホテルは前夜と同じAetas lunpini hotel。

タイスキ
次々と魚介類が鍋に入る

ナイトマーケット内にある観覧車
観覧車は速く回っていた

ナイトマーケット内
冷房はなく暑い

広いマーケット内を走るカート

街頭の大道芸人 手前は彫刻だがその奥は大道芸人

第三日目 2017年9月13日(水) バンコク市内観光✈スコタイ

 旅も3日目。雨季のこの季節、観光中は幸いにもスコールにあわなかった。8時にホテルを出て専用バスでバンコク市内の観光をする。バスからは白と黒の垂れ幕を目にする。バスを降りると王宮までの道を歩く。途中の道には漢字の看板が目につく。タイの中華街かもしれない。漢字といえば日本語の文字も多く目にする。いろんな文化が混ざりあう!?


王宮までの道には漢字の看板が氾濫する

 バスを降りて王宮へ向かう通りを歩いていると、喪服を着たタイの人々が目につく。昨年10月26日、前国王は亡くなる。1年後の今年のその日、前国王の火葬が執り行われるという。ネットで調べると「タイ前国王の火葬は26日、国葬期間中も観光は規制されず」と見出しがあり、「黒い衣服の着用は求めないが『敬意をもった服装』を守って欲しいとしている」。タイ政府がこう述べるように弔問に訪れるタイの人々の黒の喪服着用は国民として当然なのかもしれない。またタイの国王への敬意を非難すれば不敬罪の禁固刑が科されるという。
https://jp.reuters.com/article/thai-idJPKCN1C9094?rpc=122、(参照)
大通りにかかる白黒の垂れ幕

王宮近くのメインストリート

喪服を着て前国王の弔意に訪れる人々
 

前国王への弔問客

私たち一行は旅の格好での弔問!?

タイ国防省

喪服で弔問するタイの国民

タイの国防省

王宮前の通りの光景
 王宮、エメラルド寺院、涅槃寺観光

 8時、専用バスでタイのバンコク市内にある王宮などの寺院観光。この日もバス乗車後、一休さんの首唱の元、「般若心経」が唱えられる。バス下車後、しばらく通りを歩くと王宮に着く。王宮はもらったパンフによると1782年建立。国王の宮殿、即位式の建物、王室守護寺院のエメラルド仏寺院などのほか、宮内庁や官庁などの建物が、四方を長さ1.9キロの壁に囲まれて建っている。

 広い宮殿を観光後、通りを出て涅槃寺に歩いて向かう。道中、前国王の国葬の準備のための騎馬隊のパレードの練習風景を見ながら歩を進める。ところがここでハプニング発生。添乗員と3人で騎馬隊を写しながら歩いていた。添乗員は突然声を出す。一人いない!それからがさあ大変!

 涅槃寺に着くが行方不明者捜索に時間がかかる。立っているだけでも暑いタイ。ペットボトルの水もない。誰かが冷たいペットボトルの水を配ってくれる。しかし、添乗員や現地ガイドは行方不明者を探すのに難航する。しばらくすると、旅の事務局長から我々だけで涅槃寺の観光をしよう、との話がまとまる。だが、観光してもまだ不明者は現れない。もしかして船に乗って一人で暁の寺院に行ったのでは…。案の定、そうだった。

 行方不明になった人は旅慣れた人。それにしてもとんでもないハプニングだった。ともあれ、船に乗って暁の寺に到着するとその人がお出迎え。これで一件落着となった。

あちこちに蓮の花が咲いている

白い蓮で飾り付け


エメラルド寺院

エメラルド寺院

エメラルド寺院

紫の蓮の花


前国王の国葬のリハーサル?

騎馬隊
この辺りで一人が行方不明となる

涅槃寺に横たわる大きな涅槃仏


涅槃仏

 暁の寺(ワット・ブラケオ)観光
 
 11時15分、船に5分ほど乗船後、対岸に暁の寺(ワット・ブラケオ)が見えてくる。この寺は私たちが出かける2か月前に修復作業を終えたばかり。外壁のタイルなどすべて美しすぎるの一言だった。ましてや、タイルも太陽に照らされて一層その美しさを増す。寺院の階段はかなり急だった。それでも2,3人が連れだって階段を上る。階段の一番上まで登ろうとしたが途中からは上がれないようになっている。それでも階段を上り下りして寺院の周りを一周する。もう暑いのなんのと言ってられないくらい人生で最高の暑さを体験した。暁の寺は三島由紀夫の本にも書いてあるという。
5分ほど乗船して暁の寺(ワット・ブラケオ)に向かう

暁の寺(ワット・ブラケオ)の黄金の仏像

暁の寺

登られるところまで登った暁の寺
急な階段だった

2か月前に修復が終わり、美しさを増した暁の寺の外壁


暁の寺に登ってぐるっと一周してみた

暁の寺院内に建つ仏像

 12時、暁の寺を観光後、専用バスに乗車して30分すると飲茶料理のレストランに到着。このレストランは36階のビルの最上階にある。旅の間、料理はタイ料理か中華料理かわからないほど中華系の料理が出る。たとえタイ料理が出てもタイの調味料のナンプラーなどつけずに食べていた。そのためか、何を食べても日本の味がして美味。ただ、中華料理といっても食卓テーブルが中華のようにターンテ-ブルでない。この点は中国式が便利かもしれない。
お昼の食事場所である36階のレストランから見下ろす

 14時、専用バスは出発して30分後、お土産店に到着。ところが、このお店は国による経営らしく高級品ばかりでただ見るだけ。15時、専用バスは出発してスコタイに移動するため空港に向かう。バンコク発RG213便のエアーウエイズは17時定刻に離陸して18時15分、スコタイ空港着陸。機内で簡単な食事が出される。しかし、スコタイ到着後に市内のレストランでタイ料理が待っている。機内食はほとんど食べなかった。

 スコタイ空港はまるで奈良の街に飛行場があるような感じ。かわいい空港で一日に何便離発着するのだろう。スコタイ空港到着後ゲートに入り、振り向くと今にも太陽が沈もうとしている。ゲート付近には蓮の花も咲いていた。この日のホテルはPailin Skhothai Hotel。

スコタイ空港到着時の日没風景

スコタイ空港到着ロビー
夕焼けが美しかった
第4日目 2017年9月14日(木) スコタイ遺跡観光✈バンコク

 スコタイ遺跡観光

 朝食はヴァイキングでなくセットメニューだった。如何にもホテルの接客になれてなさそうな従業員が笑顔で食事を運ぶ。なかなか感じがいい。食事後、ホテルのプールに目をやると某お坊様は水中ウオ―キング中だった。プールから「〇〇ちゃん、〇〇ちゃん」と大きな声で名前を呼ばれる。今回の旅で初めてその方から下の名を呼ばれた。

 8時半から30分間、急きょ予定を変更してタイの観光寺院でなく、一般の寺院を見学する。寺院の名はワット・バン・ナー(耳で聞こえた名前なので正確なところは不明)。ワットはアンコールワットなどでもお馴染みのお寺の意。

 スコタイはまだ観光地でないらしく、タイの他の都市よりもいたって長閑。そして観光客も私たちのツアーだけかと思えるほど人影がない。そのためかホテルも昔の面影を残して懐かしい。私たちの今回のタイの旅の目的は一般のツアーではなかなか行かれないこのスコタイに行くこと、と聞いている。スコタイとは現地のガイドによると「幸福の夜明け」の意らしい。
スコタイのホテル
某お坊様はこのプールで夜も朝も水中ウオークをされた
 
 スコタイの一般のお寺見学(ワット・バン・ナー)

 一般寺院と言っても建物自体は大きい。自然災害の風水害をさけるためか、建物は高床式になっている。寺院内は出家式を執り行う高座や講話の際に顔を隠す大きな団扇のようなものもあった。またあるところでは僧侶だけが足を踏み入れることができる部屋があり、女性はそこへに立ち入るのは不可能だった。また広いお寺の周りにはプルメリアの白い花も咲いていた。

一般寺院内の床の下


一般寺院の床の上

スコタイの一般寺院

一般寺院の僧侶 
出家式の時にこの高座に登ってお話しをされる

プルメリアの花が咲いていた

一般の寺院
大うちわで顔を隠して説教をする!?

観光寺院でなくお願いして参らせてもらった一般の寺院
お坊様だけが上がり、女性は赤の場所へは上がられなかった

 スコタイ遺跡群観光(スコタイ歴史公園)

 スコタイはタイ最古の栄華を誇る巨大世界遺産。もらった資料によるとスコタイ遺跡公園は13~15世紀にタイ初の統一王朝として栄えたスコタイ王朝の跡である。数百年も放置されていたが、1960年代にユネスコの支援で修復し、1991年世界遺産に登録された。東西約1.8㎞、南北約1.6㎞あり、約70万㎡の敷地には200を超す遺跡が点在する。

 スコタイはバンコクよりも北に位置する。しかし、気温は午前10時の時点で34度。最高気温は36度になるそうだ。蒸し暑さは半端ではない。旅に持参したズボンは3枚。しかし、短い旅でもこの暑さでは足りない。前日買った現地のモンペのようなペラペラのズボンを穿く。やっぱり暑い国にあっている現地仕様のズボン。日本から観光に来ていたタイで見かけた若い女性の姿もほとんどがそれを着ている。ワンピースも買ったけどこれは到底外では着られそうにない。

ワット・シー・チュム
ワット・シーチュム


スコタイ歴史公園内は美しい蓮の花が咲いていた

ワット・シー・チュム

ワット・シー・チュム


ワット・シーチュム

ワット・シーチュム
建物の外から見る仏像
 ター・パー・デーン堂
ター・パー・デーン堂
中へは入られなかった
 ワット・マハタート

 ワット・マハタートはスコタイ王朝の王都であったスコタイ歴史公園の中心部に位置する。寺院の名はおよそ「大いなる遺物(仏塔)の寺院」の意であるという


ワット・マハタート

スコタイ歴史公園内

ワット・マハタート


大きな菩提樹の根っこ


ワット・マハ・タート
仏座像


ワット・マハタート


ワット・ワマハタート
花崗岩でできた柱

ワット・マハタート

スコータイ歴史公園内





ワット・シー・サワイ


菩提樹
 ワット・シー・サワイ
ワット・シー・サワイ(スコータイ歴史公園内)
トウモロコシの模様
 ワット・サー・シー(=ワット・スラ・シ―)
ワット・サー・シー(=ワット・スラ・シ―)

ワアット・スラ・シー
プルメリアの花がいっぱい咲いていた


ワット・スラ・シー

プルメリア

 スコタイ歴史公園内の遺跡でワット・トラバン・トーンの見学は一般寺院を見学したために時間がなくて急きょ中止。というか、朝からあまりにも暑くて見学するどころではない。それにしてもスコタイ遺跡公園内に咲いていたプルメリアの白い清楚な花。美しかった!
この乗り物に乗って遺跡を移動


手前のモニュメントは蓮の花を模している?
 スコタイの国立博物館見学

 スコタイ遺跡群見学後、国立博物館に入る。外気温が高く蒸し暑いため、館内に入っても冷房があまり聞いていない。ましてやタイの文字が読めなくて、集中力にかけてしまう。写真撮影のフラッシュは禁止でもなんとか写っていた。
国立博物館展示物

国立博物館展示物
ウオーキング仏陀

国立博物館展示物

国立博物館展示物

 11時50分、スコタイの国立博物館を専用バスで出発し昼食のレストランに向かう。お昼はタイ料理。やっとタイの料理を食べる、といった雰囲気があるお店だった。お昼を済ませるとホテルに戻り、シャワーを浴びる。汗が体中から滴り落ちるほど暑い。ホテルで一休憩後、バンコクへ向けて空港に向かう。その途中、スコタイのスーパーへ立ち寄り、お土産を物色。スコタイの街のどこからスーパーに来るのかと思えるほど大きなスーパーだった。

 特別に買いたいものもない。ただ、現地通貨を使い切るために何やかやと購入する。使い切った後のすがすがしさ。スーパーを後にして専用バスに乗ると、何とドリアンを買って乗車する人がいる。それも皆さんに分け与えようとされるが誰も反応がない。とうとう私の横に座り、食べるように言われる。話のネタに一度は味わってもいいかとほんの少し口にする。ところが、その後、この和尚さん、綺麗に全部平らげられた。おかげでバス車内はドリアンのにおいが充満。

 17時半、スーパーを後にして空港に向かう途中、近いうち行われる灯篭流しの灯篭が道に置かれているのを目にする。

灯篭流しが行われる灯篭の用意

 専用バスでスコタイ空港に到着。お天気は霧雨もようだった。空港付近は空港だけといった感じでいたって長閑。時間を持て余していると出発ロビーにあるドリンクや食べ物がフリーと知る。その時飲んだホットコーヒー。ほんまに美味しかった。タイの旅のどこで飲むよりも美味。また小さい粽やカップケーキもいただく。これを2個ずつ失敬して持ち帰る。日本でこれを食べるとやっぱり美味だった。空港でドリンクや食べ物がフリーとはこれまで何度か海外に出かけて初めてのことだった。

 バンコクへ向けての空港のチェックが始まる。日もだんだんと暮れかける。その時、某お坊様が虹、と叫ぶ声。それも二重の虹がかかる。この方、スリランカの旅でも彩雲を叫ばれた。虹を見るとなぜか気持ちが和む。幸せを運ぶ虹!?それにしても海外旅行で二度も同じ人が虹を見つけられるとは…。

 スコタイ空港発18時45分バンコクエアーウエイズ214便で定刻通り離陸。20時、バンコク着。タイの旅の最後の晩餐はバンコクの空港に隣接するノボテル・ホテル内のレストランでいただく。バンコクの空港で食事前にスーツケースを預けた。身軽になったかと思いきや何とも広いバンコクの空港内をあちこちと移動する。レストランは高級感が漂う。この後は夜間飛行で日本に帰る。スコタイからバンコクまでの機内でまたも軽食が出た。もちろんレストランの食事を優先してほとんど口にしていない。レストランの食事は美味だった。

第五日目 2017年9月16日(金) バンコク✈福岡空港🚄広島

 深夜零時50分、タイ航空TG649便にてバンコクを離陸し日本時間午前8時、無事福岡空港着。タイの旅は終わった。予想していたタイのスコール。観光中は幸いにも合わず、楽しい旅は終わった!旅行をご一緒した皆さま、ありがとうございました。本当に楽しい旅でした。またいつかどこかでお会いしましょう!
 
スコタイ空港ロビー

スコタイ空港

スコタイ空港周辺

スコタイ空港待合室のコーヒーと粽とカップケーキはすべてフリー
タイ旅行中、ここのコーヒーが一番美味だった

日が暮れるスコタイ空港
蓮の花が咲いていた

二重の虹がかかるスコタイ空港