2016年4月30日土曜日

「放下す」(ほかす)

 『文藝春秋』今月号に「老人ホーム殺人で私が考えたこと」として徳岡孝夫が書いている。このサブタイトルは「生き過ぎてしまう時代にはどんな覚悟が必要なのか」。

 高齢化社会到来といわれて久しい。すっかり老人といわれる域に達した。この中で「放下す」(ほかす)というキーワードに驚く。世の中、「断捨離」という言葉がよくつかわれる。何でもかんでも役に立たないモノ、必要のないモノなど、ほかしてしまえばモノ・コト・(ヒト?)が片付く風潮がある。

 ホームで働く人は毎日のように亡くなる人を見ている。亡くなるということが当たり前になると自分では動けず、何も出来ない人を見ればほかしてしまえばよくなる!?それはないよね!

 この仕事に携わる若者に同情しつつ、徳岡は森鴎外の『妄想』を引用して文を締めくくる。「<死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く>」、「老人はこんな心境であるべきでしょう。もっと長生きしようなどと思わず、一種の覚悟を決めて生きなあかんのです。」。『妄想』は明治44年に出た鴎外の自伝的小説。徳岡はこの本を老人が読んで心に染みる一冊としている。

 母は88歳の時、家で転倒して大腿骨を骨折。それから7年後に亡くなる。骨折で入院し、その後退院。それから家での介護が始まった。それまですべて親任せの生活が一瞬にして親娘の立場は逆転。退院後何年間かは自分の足で歩けた。ところが前ほど歩かなくなると次第に足も衰えてくる。ついには歩けなくなる。

 家での介護もお風呂に気を遣う。その時、一級建築士の義兄が一部屋をお風呂と洗面所に改造しようと提案してくれた。使っていたお風呂は段差があり、部屋用の車いすのシャワーキャリーでは出入りができない。すぐに改造に取り掛かる。ところがその部屋には母が持ってきた使わない箪笥類や子供である私たち3人の机など所狭しと置いてあった。

 トラック2台分くらい「ほかし」た。それを見ていた母はどう思っていたかは今となっては聞くこともできない。とはいっても改造したことで家で最後まで母を介護できた。義兄の提案はほんとうにありがたい。また、自分自身にとっても助かっている。

 我が家の場合はモノをほかした。人はモノではない。老人ホームでのあのヒトをほかすとは異なる。

 思うようにならなくなった母は時に「役に立たんね」と言っていた。役に立たなくなっても生きてさえいればいい!そのあたりはおなじ介護であってもホームで他人を介護するのと自分の親とではその意味も違うだろう。まだ介護される側の気持ちには至っていない。その時が来ると徳岡の書いたような気持になるのだろうか。とはいってもヤッパリ長生きしたい!そしてほかされたくない!

 今日はこれから元気を出して泳ぎに行こう!今日も元気で!

2016年4月29日金曜日

「ペデストリアンデッキ」&「トルクメニスタン・カラカルパクスタン共和国」

 昨日アップした写真は今朝の中国新聞によると歩行者専用橋「ペデストリアンデッキ」というそうだ。その専用ステージで昨日「エキキタ」の業者が㏚活動を実施している。その半分が先月開通。一昨日はそこを歩いたことになる。残り半分は広島駅の表口と北口を結ぶコンコース。右側は球場への道でなく、ほかの道に通じるらしい。

 話は変わって、親の介護などで9年間、海外に出かけられなかった。その間、大手旅行社などから旅の情報誌が軒並み来なくなる。それでも1社だけは年賀と暑中見舞いを兼ねた旅の葉書が届いた。その旅行社はたった一度だけの利用だった。だが律義に情報を寄こした。一昨日、その旅行社から届いたのはハガキでなくて旅のカタログ。それも立派なカタログ。以前の会社名でなく、明日から他の会社と合併して新たな名前でスタートするらしい。

 この社を利用して出かけた先はパキスタンのフンザ。ここはマイナーな地域で多分、今はテロなどで危険地域となって旅行も催行されないだろう。届いたカタログを見ると相変わらずマイナーな場所ばかりで旅ごころを誘われる。だがそのほとんどは成田発。26年前に出かけたときは今よりも当然26歳ほど若かった。当時は成田からの出発も気にせずに出かけた。律儀なこの社を利用して旅をしたい。だが、このごろは地方の空港もできて成田を遠く感じる。利用したくても利用できそうにない。

 旧ソ連時代はソ連に行くといえば新潟か名古屋空港が主だった。新潟はこれまた遠い。そのため名古屋から2度ほど出かけた。そのうちの1回はウズベキスタンというかソ連領シルクロード。一昨日届いたカタログを見るとそのとなりの国の名に驚く。ソ連が解体して聞いたこともない国ができている。その国の名は「トルクメニスタン・カラカルパクスタン共和国」。トルクメニスタンは聞いたことがあるが後の名にびっくり。

 世の中についていこうともがいても、国ひとつをとってもいろんなことが大きく変化している。しばらくはこのカタログを見て世界の国へ思いを馳せよう。どういってもやっぱり成田は遠い。海外への旅を再開して5年。関空、福岡そして広島空港発着で出かけることが多くなった。今年のGWの期間中も多くの人が海外へ出かけることだろう。姪もモンゴルへ行くと話していたけど…。

 ともあれ今日も元気で!

2016年4月28日木曜日

尾道市立美術館へ行く

散りゆく花

 マイクロバスをチャーターして尾道市立美術館へ出かける。「日本画でみる万葉の世界」、サブタイトルは奈良県立万葉文化館コレクション展を見る。参加者は日本画教室の人たちで先生の関係者も参加される。小雨模様の中、快適なバスの旅だった。

 美術館は尾道の千光寺公園内にある。尾道は何度か訪れている。だが、美術館は初めて入る。2001年に奈良県の明日香村に奈良県立万葉文化館会館。ここには『万葉集』の歌を題材とした現代を代表する日本画家たちの作品を収蔵しているという。そのうち公募受賞者の作品42点が尾道市立美術館で展示されている。

 どれも素晴らしい作品で作品ごとに『万葉集』にちなんだ解説がある。個人的には先日、一本の木が秋色に色づく葉っぱを描く。そのことが頭にあるのか丹羽貴子「青旗」(”青旗の 木幡の上をかよふとは 目には見れども 直に逢はぬかも 倭大后 巻2-148”)の樹木に緑の葉っぱを描いた作品に惹かれる。いつの日か、新緑に輝く葉っぱを描いてみたい。

 一通り見終えると千光寺公園を歩く。葉っぱのない枝を伸ばした木にカラスが止まっている。あたりは新緑に色とりどりの花を咲かせているさつきやつつじ。その中にまだ芽を吹かない樹木に真っ黒いカラスがただ一羽止まる。いつまでたってもカラスはその一羽だけ。小雨も降っている。こういうのも絵になるかな、と思って写真に撮る。

 自分の思うように絵を描けるようになるとさらに描く楽しみも増すかもしれない。だが、そうなるまでには当分というかかなりの年月がかかりそうだ。

 絵を鑑賞した後は場所を移動してフレンチのお昼をいただく。3時間も食べてしゃべってと楽しく過ごす。年に1,2度、先生は同じでも違う教室の人と会ってお話をするのは楽しい。

 帰りのバスが広島駅新幹線口に到着すると、コンコース2階にエスカレータで上がる。行きにちらっと見たコンコースの外の風景を時間がなくて見そびれる。ここは見ないで帰宅するのはもったいない。見に行く途中、同行した若い人と一緒になる。新たなコンコースを歩きながら余りの立派さにはしゃいでしまった。広島駅の表玄関も高層ビル建設中で新たな顔を表しつつある。駅の表も裏も様変わりしている。

 働いてもないのにJRの通勤定期を買っている。週に何度か習い物などで広島駅に出かける。それでも昨日のような広島駅の隅々までは見ていない。もうしばらくするとさらに駅付近は発展する。楽しみにして待つことにしよう。今日も元気で!

 ここでまた余談。奈良県立万葉文化館、また例の「おとなび」利用で行く気になる。落ち着いたら雨の降りしきる奈良を歩くのもまた風流かもしれない。とはいっても『万葉集』の知識が全くない。これじゃ、駄目じゃと思ったり…。ともあれ、一度は万葉文化館を訪れよう!
千光寺公園から




改装中の広島新幹線口2階 まっすぐ行くと球場に通じる道もできるとか

グランヴィア・ホテルも目の前に

新たな広島新幹線口

改装中の新幹線口

2016年4月27日水曜日

発表会の候補曲

 秋のフルート発表会で吹く曲を先生に決めていただく。2曲ほど用意してくださった。1曲はピアソラの曲でもう1曲はグルックの♪精霊の踊り♪。楽譜によっては♪妖精の踊り♪となっている。これまでの楽譜を探すと2冊の本に収めてある。楽譜があっても難しくてさらっていなかった。ここ2,3年はいい音を出すことに集中してさらう。少しはいい音が出るようになったらしく「聞かせる曲もいいかも…」との先生のお言葉。

 ピアソラはタンゴの曲で有名な作曲家。随分前、ピアソラに魅せられて発表会で他の曲を吹いたことがある。だが、ただ音符をなぞっただけで曲になっていなかったのでは…。今回のもう一つの候補曲はピアソラの♪天使のミロンガ - Milonga del ángel♪

 先生はこの楽譜を注文された。発表会で吹かなくてもレッスンで吹くようにと言ってくださる。ありがたい!今のところは発表会では♪精霊の踊り♪を吹く予定。2曲の動画を見ると両方ともいい曲!とはいってもどっちも難しそう!頑張って練習して両方とも自分の曲にしよう!今、聞いてもピアソラはいい!タンゴの本場、アルゼンチンにも行って見たい! 

 今朝はこれから日本画教室の人たちと貸し切りバスで尾道の美術館へGO~。今日も一日元気で!


2016年4月26日火曜日

モロッコの旅の余韻

 モロッコから帰って丸1か月が過ぎた。昨日はモロッコの旅で知り合った人とメールを交換する。これは旅の余韻!?楽しい!ブログがご縁となり話も通じる。その人のブログを訪問するとスライドショーの写真をうまく写されている。いつこれだけの写真を写されたのだろうと思っていた。ところが、昨日のブログの「旅の所見」のアップを見てびっくり!なんと旅の初日にアクシデントがあり、カメラを壊されたそうだ。それにしても写真一枚ずつにコメントがある。これを読みながら楽しく写真拝見。ありがとうございました!

 そのためブログの写真はツアー客からの拝借!?若い姫たち2人を除くとほぼ似たような年齢の人だった。その中に50代半ばくらいの男性1人がおられた。立派なカメラを持参されてポーズを決めて写真を写された。

 今ほどネット社会ではない時代、旅で知り合う人との写真交換は郵送かもしくはビデオでもらっていた。だが、そのビデオも機械が伴なわなければもう見られない。3年前のスリランカの旅では動画にアップされ、それをブログに利用させてもらった。ところが今回は写真交換もメールで間に合う。そして互いの情報もブログなどで知ることができる。とはいってもブログで話が盛り上がって知り合った人は今回が初めて。その人の昨日のブログから勝手にその一部を引用させていただこう。

「途中、女性の一人が暗闇の中、やさしく澄んだ声で 『月の砂漠』 を歌い始めてくれたのです
その場の雰囲気にぴったりでした
他の数人が声を併せて一緒に歌い、異国の星空に向かって流れていきました
王子様に続いてラクダに乗って砂漠を行くお姫様の歌に自分はその王子様なのだろうかと想像しながら
その場の気分に陶酔してしまう雰囲気でした
そんなことが日本から遠く離れた地球の裏側の砂漠で起っていたのです
人生に素晴らしいひとときでした」

 このようにアップされている。この中の最後の2行は特に素晴らしい!ツアーの誰もが暗闇の砂漠でこのようなロマンを感じる!?本当にいい!これは時代の申し子のスマホにもある。スマホから流れる音楽がさらにその場を盛り上げてくれる。

 そういえば今朝の電話は合唱の人からだった。旅のブログを見てくださったそうだ。ありがたい!いつもフォロワーやコメント…と言ってくださる。だが、こちらからどうやるのかはわからなくて申し訳ない。

 海外の旅の写真ひとつをとっても時代とともに大きく変化している。紙に焼く写真は自分ではほとんどしない。それでも昨日はこのうちのサハラ砂漠、どこまでも続く地平線、その上にぽっかりと浮かぶ雲と真っ青な大空、そしてベルベル人と写った砂漠の写真数枚をプリントアウトした。だが、文明がどんなに発達してもアナログの紙の写真はいつの時代にも適応する。

 今日はお昼からフルートのレッスンへGO~。今日も元気で!

2016年4月25日月曜日

旅のブログから

 旅のブログは文が長くなり過ぎてしまった。また写真のアップも多すぎる。しかし、もう触らずにこの辺でアップしよう。


 昨日もツアーの人のブログを訪問。旅のブログを完結されている。その中で特に気に入った写真がある。それはサハラ砂漠で太陽が昇る前の暗闇の中のこと、太陽を待ちわびる後姿の写真がいい。このシルエット写真は本当に素晴らしい!旅の参加者がずらっと立って太陽が頭を出すのを今か今かと待ちわびる。もう一つはラクダが一列に並んで砂漠を進むシルエット。まさに♪月の砂漠をはるばると旅のラクダは行きました~♪

 自分の後姿は人に頼んで写してもらった。だが、太陽が昇った後だった。やはりうす暗闇の中でのシルエットがいい。

 何度も自分の書いたブログを触りすぎると草臥れる。まあ、これも自分の楽しみ!気分を変えて今日からは他のことに目を向けよう。まずは堀文子関連の本を読むことから始めよう!今日も元気で!

 ここで余談。今回の旅のブログはビールと食べ物の話題が多い。食べ物では香草のことばかりを書いている。食べ物も旅のはじめは美味しい、とメモっている。ところが、疲れが出ると食事を不味く感じるのだろう。香草には何の罪もないはず。それよりもそれを食べられないモノが悪い。この苦手な食べ物以外は本当に楽しい旅だった。これを付け加えないと何かモロッコに対して人に誤解を与えそうだ。モロッコの名誉のためにもこのことを断っておきたい。モロッコは本当にいい国!そして素晴らしい国!モロッコの近くのチュニジアへもいつか行きたい!

幻想の国エキゾチック・モロッコ10日間の旅

 2016年3月16日から25日までモロッコへの旅をした。おひとり様参加限定で出発日も確定と銘打ったパンフ。送付されてきたのは昨年の9月23日。それによると広島駅からと記されている。飛行機は関空発でもツアー募集は広島から、と勝手に解釈してその日のうちに旅行社へ申し込む。長く憧れていたモロッコ。治安が悪い、テロが危ないなどと行くのをためらう情報も入る。その瞬間、ふと頭をよぎるものがある。とはいっても最悪の事態ともなれば旅行社は旅行を催行しないだろう。強い信念が芽生えだし、雑念を追い払う。その結果はもう満足のモロッコの旅。治安の不安は見当たらない。それよりも自由行動が2回もあった。これは驚き。大型ショッピングセンターへも自由に歩いて行った。また旅の最終日のマラケシュ。ここでも街の広場でのフリータイム、と驚くほど治安は良かった。

 旅の途中、日本のANAのシステムトラブルとベルギーのテロの情報が添乗員のスマホを通して入る。それも意に介せず、快適な旅は続く。モロッコといって一番先に思い当たるのは広大なサハラ砂漠。そして都市によって建物が色分けされていること。白い街のカサブランカ、青い街のシャウエン、赤い街のマラケシュ。タジン鍋、クスクス料理などのモロッコ料理。♪カスバの女♪に歌われるカスバ街道。出かける前にBSシネマで見た「アラビアのロレンス」や「カサブランカ」の映画。これくらいの知識で旅に出る。これから楽しかった旅の模様を順に追って記そう!

第1日目 2016年3月16日(水)広島→関空→ドバイ

 自宅JR最寄り駅16時18分発に乗車するため早めに家を出る。出かける時から風邪気味で鼻水が止まらない。広島駅到着後、「むさし」に寄って田舎むすびのお弁当を購入。広島駅17時13分発の新幹線のぞみ48号乗車。JRチケットは広島→関空、関空→広島の往復チケット自由席を旅行社から送付されている。早めの関空到着で集合時刻まではかなり時間がある。しかし、すぐに受付カウンターに向かう。しばらく待つと添乗員がカウンターに到着。Eチケットなど受け取り、簡単な説明を聞く。その後は各自で荷物を預け、航空チケットを受け取る。再度集合はドバイの空港と聞く。航空券発券の際、係に「通路側」と要求。ドバイ経由モロッコ到着まで両方とも通路側となる。

 ツアーには誰と一緒なのかこの時点ではわからない。添乗員同行といってもすべて各自が搭乗手続きをする。海外への旅を始めたころは旗を持った添乗員に連れられての旅だった。ところが今や、添乗員同行といってもすべて各自でしなくてはいけない。航空チケットを持って出発ゲートに向かう。ゲートで待っているとツアーバッジが同じ人を見かける。その人に声をかけるとそうだった。ここで岡山と福岡の姫たちと知り合う。

 搭乗ゲートで待っているとケニアへ帰る日本人の親娘に目が行く。娘はみのりちゃんといって日本人の母とケニア人の父のハーフだそうだ。まだ幼児のみのりちゃん、搭乗を待つ間の皆のアイドルになる。かわいいの一言。どっしりと構えているお母さんの態度も立派。ケニアの話など伺う。NGOでケニアへ道路をつくるお仕事に関わっておられた時にケニアの人と知り合って結婚。年に一度3週間ほど日本に里帰り。それを終えてケニアへ帰国されるところだった。今でも道路関係の指導をされているという。ケニアは想像するほど暑くなく過ごしやすいらしい。

 10日間のモロッコの旅といってもそのうち3日間は飛行機の中。モロッコは本当に遠い!関西空港23:35発 エミレーツ航空EK0317でドバイへフライト。飛行時間約11時間15分。ドバイと日本との時差マイナス9時間。この間2度ほど食事が出る。1度目の軽食が出る時刻は日本の真夜中に当たる。早めに寝るものにとってこれは体によくないので行きの新幹線内でむさしのお弁当を食べる。いつもの日本での食事時間だ。深夜に出た機内食は遠慮がちになる。というか食べるよりも眠たさが勝る。だが、興奮して余り寝られない。

 機内の座席は3,4,3列となっている。3列の通路側に座る。真ん中が空席で窓側の女性と話すともう一組のツアーの人だった。添乗員は違っても同じ行動をするので旅の最後までよくお話した。

第2日目 2016年3月17日(木)ドバイ→モロッコ カサブランカ→首都ラバト

 3:30 (ここからは現地時刻表記) 機内食でサバの煮付けが出る。美味!
 5:18 ドバイ到着 外気温20度。タラップで飛行機から降りる途中、乗り換えのバス3台の内、1便は満員で出発する。足止めされた人は次に来たバスに乗る。ボードを掲げた係りがバスの前でカサブランカ、といっている。「モロッコ行き?」と確認して乗車。ところがこれが飛んだハプニングになろうとは…。関空を出る時、ドバイの空港のバスを降りたところで集合と添乗員から聞いている。ところがそこには誰もいない。2組のツアーの10名余りの日本人は途方に暮れる。係りは私たちが最後の乗客と英語で告げる。仕方なく空港内に入る。だが、添乗員やほかのツアー客は見当たらない。ここでのトランジットの時間は長くない。中に入っていくがそこは空港内のお店。掲示板で次の搭乗口はC21と知る。

 キョロキョロあたりを見渡していると大きなカウンターに男性が一人立っている。その人を目指して添乗員を探している旨告げる。だが、埒は開かない。搭乗チケットを見せて日本語でまくしたてる。係りは外に出て来て今いる場所はAゲートだと英語で話す。これは聞き取れた。そしてC21 のゲートとチケットに書いてくれる。さらに日本語でまくしたてると私たちを誘導して下へと連れていく。外を見ると車が1台止っている。だが、空港から外へは鍵がかかって出られない。係りは暗証番号なのか何やらしている。ドアが開いた!車に乗車して動き出すとBゲート、さらにはCゲートの表示が見えてくる。10分くらい車で移動しただろうか。後で20分くらいの移動と知る。車から降車後、C21ゲートに向かう。

 途中、セキュリティチェックを受けてやっとゲートに到着、だが添乗員は私たちを探しているのか見当たらない。しばらくして添乗員とも合流。旅の初日早々、飛んだハプニングだった。これは気を付けて旅をせよ、との啓示か?そう思って自分の気持ちを和らげる。添乗員からの報告によると何と乗車したバスはサンフランシスコ行きだったそうだ。10回くらいモロッコに来ている添乗員もこういうことは初めてのことだという。

 今、改めて航空チケットを見るとAゲートからBゲートまでは車で15分。そしてBゲートからCゲートまでは徒歩で20分と英語で印刷されている。ということは車の移動時間は20分くらいかかっていたのかもしれない。これも過ぎてしまえばいい思い出となるのだろう。

空港の係りがC21 と書いてくれたチケット



チケットの裏面 Aゲートで下りてCゲートへ車で移動
 

 8:00 ドバイの空港からモロッコのカサブランカへ向けて飛行機は離陸。12:30 カサブランカ着。ドバイとモロッコの時差はマイナス5時間で9時間近く飛行機に乗っている。日本からだとモロッコまでは約20時間のフライト。広島からだと丸一日半が経過。機内では朝食とランチの機内食をいただく。カサブランカの外気温21度。
 
 14:40 空港からバスまで移動。お天気が良くて気持ちがよかった!空港内は椰子を模した飾りつけがされている。入国する時、入国審査の後、再度出口で係にパスポートを見せる。「こんにちは!」、「ありがとう」と日本語で話しかけてくる。こちらも「シュクラン」と覚えたてのモロッコの言葉であいさつを交わす。まるで入国の係りは言葉遊びをしている!?それともこれは親日の表れ!?他にも空港内でヘンナで装飾を凝らした女性の手を見る。女性の承諾を得て写真に撮る。

 ヘンナは『モロッコを知るための65章』(斎藤剛 明石書店、2007年)によると次のように書いてある。「モロッコでは慶事に際して、ヘンナという植物の葉を主たる材料とした『染料』を用いて女性が手足に模様など描くのが一般的な慣行となっており、結婚式においても花嫁がヘンナをすることは欠かせない。さらに、花嫁の女友だちや、イトコ、姉妹、母親などをはじめとする近親の女性たちも花嫁とあわせて、この『ヘンナの日』に手足にヘンナをする。」(272p)。

空港内の様子
ヘンナで装飾を施した女性の手

 モロッコ、アルジェリア、チュニジア、西サハラの北アフリカ北西部に位置するアラブ諸国はマグレブ(日の没する国)としての地域名がある。モロッコの面積は日本の1.2倍で人口は3400万人。首都はラバト。都市としてはカサブランカが一番大きく、人口は400万人。ドバイからの機内で見せてくれたモロッコの若い女性のスマホの言語はフランス語。そして話す言葉はアラビア語、英語も可能らしい。リン鉱石の産地らしく、その生産量はアメリカ、ロシアに続いてモロッコだそうだ。

 到着後、専用バスでカサブランカを観光。車窓から見る並木はベンジャミンの木。白い街カサブランカ。モロッコでは街によって都市が色分けされている。映画の舞台としても有名な街カサブランカ。かつての宗主国フランスの建築文化が今でも街を覆っている。

 バスを降りると目の前を電車(トラム)が走る。カサブランカからタンジェを結ぶ高速鉄道で10分おきに走っている。モハメッド5世広場(旧国連広場)には大勢の観光客が繰り出して賑わいを見せる。鳩に餌をやる人々、写真のモデルとなってお金を手にする民族衣装を着たひとたちもいる。その後、バスに乗ってハッサン2世のモスクへ移動。

大きなベンジャミンの木(車窓から)
沢山の人々が繰り出すモハメッド5世広場(旧国連広場)
通っている高速鉄道はカサブランカらタンジェまでを結ぶモロッコの国鉄
向こうにはムハンマド5世のモスクが見える
 
ハッサン2世モスク 
大西洋海際に建つハッサン2世モスク

 ハッサン2世モスクは大西洋の海際に建っている。目の前は大西洋。その水際まで行こうとするがすぐそばなのに集合時間に間に合いそうにない。残念な気持ちのままで海に近づくが行くのを断念する。このモスクは1993年に完成したモロッコ最大のモスク。モスク前の広場は8万人収容可能。高さも200ⅿあり市内のどこからでも見ることができる。地下にトイレがある。写真を撮っていないが、なかなかしゃれていた。だが、ペーパーはない。おまけに手洗い場も…。これ以上トイレのことを書くのは止そう。

 夕食はホテルでいただく。モロッコの地ビールであるカサブランカビールを注文。250 ml で60デュルハム(800円)。1デュルハム=13円。TAXは20%と高い。イスラムの国モロッコではアルコール類はご法度。そのため、日本のような大瓶や中瓶はなく、小瓶のみある。これもあればまだいい方でマラケシュのホテル連泊では一切アルコール類はご法度。途中、出かけたショッピングセンターでもアルコール類はモロッコの人たちの目に触れないお店の片隅で売られていた。当然、レジもこの場だけの清算となる。缶ビールを買って帰ったけど、冷たさのなくなったビールは飲めたものではない。

 モロッコの最初の夕食は美味だった。ただ、長時間のフライトで草臥れて21:30から熟睡する。ラバトのホテルは「ベラーレ」。明日の天気予報は曇りのち晴れ。予想気温は7~21度。

モロッコのカサブランカビール  

第3日目 2016年3月18日(金) ラバト→シャウエン→フェズ

 専用バスにてホテルを出発してラバト市内を観光。ラバトはモロッコ第2の都市であり、大西洋岸に位置する首都。ハッサン2世の塔は12世紀に建設の途中で放棄された未完のミナレット。高さは44ⅿで完成すれば88ⅿになる予定だった。塔の南側にある360本の大理石の柱はモスクの跡。他にモハメッド5世の霊廟見学。建国の父と呼ばれるモハメッド5世はフランスから独立を勝ち取った前国王。霊廟の中のイマム(お祈りをささげる人)は2時間ごとに交代する。霊廟はハッサンの塔と同じ敷地内にある。


ハッサン2世の塔(現在、修復中?)
人工のヤシの木が模してある

ハッサンの塔南側にある大理石の360本の柱はモスクの跡でローマ時代の石材使用
入り口に立つ霊廟を守る衛兵
モハメッド5世霊廟
イマム(お祈りをささげる人)は2時間ごとの交代
 
 モロッコの首都ラバトは庭園都市で美しい街。ブー・レグレグ川の水は大西洋に流れる。川の対岸の街はサレ地区でベッドタウンとなっている。観光後、250km離れたシャウエンへ移動。遠くに見える山脈のふもとは畑が多い。通りにはミモザの木が植えてあり、黄色い花が咲いている。道の路肩はユーカリの木が植えてある。ユーカリは水はけがいいらしい。車窓からはコウノトリの巣があり、たくさん飛んでいる。他にも道の両側にはコルクヤシの木がみえる。これは表皮をパルプとして7~9年ごとに樹皮の皮をはいで使うそうだ。

 途中、ガソリンスタンドでトイレ休憩。トイレは有料で1デュルハム。再度バスは出発。サトウキビやソラマメ、サトウダイコンなどの畑が見える。畑の水まきシステムも変化がある。スプリンクラーではなく地中に埋めるニューシステムで水を撒く。ジャガイモやニンジン、イチゴなども作っている。バスの車窓からは塩田や向日葵畑も見える。しかし、道の両側にはポリ袋がゴミとなって落ちている。この袋、最近では製造の廃止が決まり 、ゴミの分別収集も今年からマラケシュで始まったという。なお、このポリ袋は焼却が環境問題を引き起こす。そのため、焼却せず地中に埋めるという。ところが広い大地といえども風が吹く度に埋めたポリ袋は大地に出てゴミとなるらしい。
  
 11:00 モロッコで一番高いハイアトラスの山も見えてくる。シャウエンに向かう途中のバルサンの街に入る。外気温22度で気持ちがいい。オリーブの木も多く、川の水が黒い。これはオリーブを圧搾して出る水が流れるらしい。他にもカモミールの花が咲き、ガリンドラというモロッコの食べられないオレンジが実っている。この食べられないオレンジはモロッコの至る所で目にした。

 モロッコはメリーリャとセウタの2つのスペイン領だったところがある。次に通るはこのうちのセウタの街。領土問題は今でもあるらしい。途中、トイレ休憩で寄ったお店はタジン鍋のお店だった。

トイレ休憩で寄ったタジン鍋のお店
タジン鍋
シャウエンに向かうバスから見える美しい車窓風景

 シャウエンはモロッコで一番美しい街といわれる。青と白い色の壁に覆われた旧市街(メディナ)はまるでおとぎ話の世界に入った感じがする。青い街シャウエンを散策。狭い路地を歩く人はこの日は金曜礼拝で多いという。

シャウエンのお店
シャウエンの通りの一角
路地を入ると…
青い街シャウエン
シャウエンの空も青い!
通りから入った奥でパンを焼いている
シャウエンの人々と美しい壁

 12:10 ケバブ料理のお昼をいただく。美味!飲み物はコーラ。25デュルハム(約330円)。食事後、フリータイムで付近のお店を散策。もう一つのグループの人々とも出会って話をする。グラン・モスクは街の入り口にあるシャウエン最大のモスク。

ケバブ料理は美味
食べられないオレンジのガリンドラ
グラン・モスク

 16:00 シャウエン観光後、フェズに向かってバスは出発。バス車内でガイドによる即席、アラビア語会話教室が始まる。何といっても一番は「アンタ、アホヤ!」。関空発のツアーでこの言葉はまるで関西弁。これは「あなた、兄弟ね」に当たり親しみを表す。どこへでかけても「アンタ、アホヤ!」で笑いが起きる。それならばとコピーして覚えた「アナ、アホヤ」(私、兄弟ね)を聞くとそれはいわないという。それでも「アナ、ヤポーニャ(私は日本人です)」と現地の人に話しかけると親しみを込めて応答してくれる。これ以上はいくら話しかけられても話せなくて申し訳ない。モロッコの人たちは親日家!?ホテル到着は夜遅くてビールで乾杯。モロッコのビールは2銘柄。そのうちの一つは小瓶で40デュルハム(520円)。この日の移動距離は450km。

 11:15 就寝。フェズのホテルは「エル ミンツエ ザラー」。ホテルの廊下の電灯は自動点滅。ところが反応が鈍く、廊下を通ってもすぐに明るくならない。真っ暗の中、懐中電灯を持って廊下を歩く。明日の天気予報は晴れのち曇りで予想気温は8~20度。


モロッコのビール(小)

第4日目 2016年3月19日(土) フェズ観光→ホテルは連泊

 これまで2泊したホテルは空調の音もなくて熟睡する。どういっても今回の旅はおひとり様限定参加。それなのにツインベッドは当たり前で他に寝室が2つの部屋の時もある。そのうえ、部屋も広い。これまでいろいろと旅をしてきた。もしかしたら部屋は旅をした中では広い方かもしれない。バスが出発する前、ホテルのカウンターで30ドル=320デュルハム両替。その大半はお昼と夕飯の飲み物代で消える。買い物はスーパーではデュルハムとクレジットカードが可能。ドルや円は使えない。

 今回、かなり慎重を期してモロッコへやってきた。旅の間、初めて首からパスポートを下げる。クレジットカードは紛失が怖くて持参せず。旅の途中、添乗員は添乗員仲間からの連絡で確か、チュニジアへ旅をしていたツアー客のうち、一組の夫婦がパスポート紛失との情報が入る。奥さんが旦那のも持っていたらしい。いよいよパスポートが首から話せなくなった。しかし、クレジットカードは現地通貨がなくても買い物ができる。

 この日はホテルを出発してから約7時間のフェズ観光となる。フェズは世界最大の迷路と呼ばれている旧市街(メディナ)がある。「生き続ける中世」として周囲20キロを城塞で囲み、その中に30万人が暮らしている。モロッコでもらったパンフによると日本の平安朝時代にできた旧市街は、拡張に拡張を重ねて数知れぬ文化遺産を詰め込んだ宝物の街と紹介されている。

 確かにフェズは素晴らし街。しかし、この迷路の街を歩いた人は何も感じないで旅を終えることができるだろうか。もうどう表現していいかわからないほどいろんなことに思いを馳せた。この世の中にまだまだ知らない世界があるとどれほど思ったことだろう。

 フェズとはガイドによると「なめし」「つるはし」「赤い帽子」のことだそうだ。モロッコのどこを旅してもコウノトリをよくみかけた。赤ん坊を運んでくる鳥といわれるコウノトリは縁起がいい。ところが、フェズの意味にある「なめし」に辟易する。まさか、こういう場所の観光があることさえも知らずに旅に出た。こういう職業があることさえも知らなかった。この世の地獄を見たフェズの観光。これについては少し先で取り上げよう。

 9:50 フェズ川の両サイドにある旧市街を見下ろす南の砦に行く。旧市街は1981年ユネスコの世界遺産に登録。


見上げればどこでもコウノトリがいる
北アフリカ最大級のカラウイン・モスク 世界最古の大学とか
ムスリム以外はモスクに入場できない
遠くから眺めるカラウイン・モスク
ここにもコウノトリ
王宮の傍にはユダヤ人街がある
商売上手のユダヤ人を王様が呼び寄せてできる
 カラウイン・モスク、メドレセ、ザウイア・ムーレイ・イドリス廟、ブージュールド門、陶器工場など見学。フェズは車が通れない狭い道では荷を背負ったロバや民族衣装を着た人々が行きかう。1000本の袋小路や暗くて狭い路地が迷路のように入り組み、現地係員についていかなくては歩けない。世界遺産に登録されており、街全体が見どころとなっている。路地を歩く前、添乗員から迷い子にならないようにとの厳重に注意を聞いて気を付けて歩く。

 見学後、携帯電話の辞書機能で「モロッコ」を検索。すると「モロッコ革」に行きつく。『広辞苑』に掲載、と思ってびっくりする。帰国後、何故モロッコで革が有名なのかを調べると元北海道大学農学研究科竹之内一昭の論文に行きつく。それは『近世ヨーロッパの皮革 3.製品革』の(はじめに)にあった。宗教的抑圧から逃れてきた人がモロッコやイタリアでその産業の発達に寄与していることがわかった。この見学でもう革製品は買いたくない気持ちになる。

 ここでタンネリについて記そう。タンネリとはモロッコにある革なめし場。生き地獄とはまさにこのことか。糞尿まみれの中をゆっくり足を運ぶ。「ここでこけたらもうこりゃどうにもならないぞ」、と思いながら見学コースを歩く。このコースは階段を歩く。転ばないようにと手すりを持とうとするが何がついているか汚くて持てない。タンネリの入り口でミントの一枝を各自もらって鼻に詰める。これも気恥ずかしいのでバッグに挿してにおいをよけながら歩く。これくらいで消えるわけがない。

 ガイドの後の説明ではこの人たちの仕事は代々受け継がれているという。現在、以前の見学個所は休止中。王様が見学された際、あまりの臭さに清掃を命令された。今の見学個所は古い方だそうだ。どうであれ、フェズの狭い迷路を歩いても馬などの糞尿が道に落ちていてそれも臭い。それなのに一歩入った隔離されたような路地の奥にはさらに臭い仕事場がある。臭い、臭いで仕事を非難するだけではいけない!それよりもその人たちは仕事に誇りをもって従事している、と帰国後にタンネリについて話した人から諭される。

タンネリ地区の革なめし場
新しい方は清掃中でこちらの古い方を見学
周囲が見学コースとなっている



王様の清掃命令により現在使用禁止中
 


タンネリ見学でミントを鼻に詰めるところ、バッグに挿す



タンネリ見学後の皮革製品のお店の内部
ここでも革の嫌なにおいが鼻につく



ブ・イナニア・メドレセ (神学校)



迷路から中を見る



マリーン朝のブー・イナニア王が建立したブー・イナニア・メドレセ
木と石の組み合わせが見事



ムスリムのお祈り前の儀式



フランスからきたという撮影クルーのモデル
写した写真を見ているところ



フェズの民家でミントティーをいただく



迷路を抜けるとブージュルード門に出る 

 16:00 ホテル着。この後は夕飯まで自由時間。ホテルの部屋からスーパーが目の前に見える。早速、自由時間を利用してホテルを出てスーパーへ皆で繰り出す。チョコレートなど購入。1時間半くらい外出していた。
 
 19:00 夕食。ここでドイツ人と出会う。他の場所でもドイツ人を多く見かけた。フェズで連泊のホテルは「エル ミンツエ ザラー」。この「ザラー」はザラ山脈からつけられている。ホテルロビーは暖房の薪ストーブが燃えていた。ここにバス車内でガイドから聞いたモロッコのラッキー数について記そう。

1,3,5,7がラッキー数。

1 アッラー
3 ユダヤ教、イスラム教、キリスト教
5 5つの行い/5つの戒め
7 コーランの教えで天は7つあり、天地創造は7日間

 他にもイスラムの教えから花は人々を幸せにして太陽は人々を明るくする(ドアの模様にある)という。幸運を呼ぶものとして甘いものがあり、プレゼントに砂糖があるそうだ。フェズのホテルは連泊で「エル ミンツエ ザラー」。翌日の天気予報は晴れで7~24度の予想気温。


フェズのホテルロビーには暖房が…


第5日目 2016年3月20日(日)フェズ→イフレン→ミデルト→エルフード→メルズーガ

 8:00 ホテルを専用バスが出発するころは曇り空。エルフードの街に向かう。この日のバス移動走行距離は470kⅿ。この夜はサハラ砂漠近郊のメルズーガに宿泊。4WD駆動車でサハラ砂漠を移動するため、大型バスは通れない。1泊分の荷物を用意してバスに乗り込む。中アトラス山脈を越えるころ雨が降り出す。荒野から15分くらいでバスはイフレンの街に入る。ここは標高1600ⅿくらいでスイスに似ており、夏は避暑地、冬はスキー場となる。ここがアフリカ、と思わせるほど寒く、建物内も暖房があった。ここでコーヒータイム。温かい美味しい珈琲で一息つく。あたりを見渡すと子供たちの団体がいる。かわいい男の子ばかりで思わず写真をとる。ところが、先方はアジア人が珍しいのか一緒に写真に収まってくれる。珈琲は15デュルハム(160円)とホテルよりもかなり安い。

 ティータイム後、外に出ると各国からの観光客で人がいっぱい。岡山から参加の若い姫と歩いていると日本人は持てるらしく姫と写真を、と人々が寄ってくる。これにはびっくり。後で調べるとモロッコの人々は親日家だそうだ。


カフェでティータイム



ティータイム後、外に出ると馬と写真を撮る観光客でいっぱい

 
 
9:45 バスは出発。車窓からはさくらんぼの木、羊の群れ、紙の原料となる木を目にする。2番目に高いザイード峠(2178ⅿ)を越えるころには道の両脇には雪も積もっている。サルもよく出るらしい。30分も進むと雪止めの壁が見える。途中、バスは5分下車。日差しはあるが冷たい風が吹く。このあたりはハーブなどの薬草の産地で赤茶色の土。しばらく行くと3732ⅿのハイアトラス山脈も見えてくる。中アトラスとハイアトラスの真ん中辺にミデルトの街がある。ここでお昼のマス料理をいただく。リンゴの産地らしく飲み物は名物のアップルミルクジュースを注文。30デュルハム(400円)。デザートはアップルパイがつく。

 ここのトイレでマレーシア人と出会う。アメリカ人、ドイツ人ともよく出会った。お昼に食べたマス料理。これはもう日本の味そのもので美味しかった。ところが、付属する野菜はまったく口にできない。香草が…。とはいっても隣席の人はこれぞ、お魚の食べ方のお手本と言わんばかりに綺麗に召し上がっておられる。その様子を見て自分自身の食べ方を反省する。反対の隣席の人からもマスの皮を食べるようにと促される。いつもならお魚類は好きなので上手に食べる。だが、今回の旅では臭いのきついモノに負けてしまった。


雪止めの壁



アトラス山脈を越えて、くねくね道をどこまでも進む



ズイズ渓谷 緑が多くオアシスの街 
途中5分の下車で写す 
日差しはあるが冷たい風も吹く



車窓からの眺めは雪を頂いた草原



アップルパイ



マス料理は美味だった



車窓からの眺め



車窓からの眺め



灰色の水はリン鉱石を含む!?



車窓からの眺め



ダム
 
 
 お昼をいただいた後、バスは出発してズイズ渓谷へ向かう。緑が多くオアシスの街、ズイズ渓谷で5分下車。くねくねした道は続き、サルフィード峠1907ⅿから下りになる。しばらく進むと1982年に造られたダムが見えてくる。エルフードの街に着くころはナツメヤシの木を目にする。この木は5年で成長して実をつけるという。この干した実をマラケシュで購入。後で添乗員から黒い虫が入っているかも、と聞く。3袋お土産として購入したが、大丈夫?、と心配になる。結局、お土産としては誰にも渡さず仕舞いとなった。ここまでの道中、道の至る所にパイプが置いてある。これは水道管になるという。

 17:00 アブラヤシの木も多く見るようになる。メズルーガの街に入ると4WD駆動車に乗り換えてホテルへ入る。サッカー帰りの人々の姿もある。メズルーガはサハラの始まりを感じさせる街。翌朝は早く起きてメルズーガの大砂丘に立って日の出を楽しむ予定。

 19:00 夕食。カサブランカビール40デュルハム(520円)。これぞ砂漠の宿といわんばかりの宿に泊まる。暗くなるとあたりは真っ暗。同じような建物で入り口も似ている。部屋に一人では帰れないくらいに迷ってしまう。おまけに部屋の鍵の開閉が思うようにならない。廊下に出て大きな声をかけて人を呼ぶ始末。そのうち慣れてくる。食後、他の棟の3階屋上に行って星空観賞。視力が悪くても大きなお月さまと輝く星はきれいに見えた。

 ホテルはコテージ式。エキゾチック感漂ホテルの室内。電気スタンドなどの調度品もアンティークなもので統一。その中で近代的なエアコンとテレビがある。メルズーガのホテルは「オーベルジュ トンブクツ」。翌日の天気予報は晴れで気温は6~14度の予想。翌朝早い朝日鑑賞で21:00就寝。静寂の中で熟睡する。

サッカー帰りの人々
ヤシの木
途中下車して
途中下車して見る風景
メルズーカのホテル
お月さまも見える
メズルーガの砂漠のホテル室内


夕食後、屋上に上がって星空観賞

第6日目 2016年3月21日(月)メルズーガ→エルフード→ワルザザード

 4:00 起床。5:10にホテル前に集合。メルズーガの朝は早い。早朝から日の出を見に出かける。4輪駆動車に運転手以外、6人ずつが分乗してラクダが待機しているところまで真っ暗闇を車は走る。30分以上、車は走っただろうか、ラクダの群れが見えてくる。ツアー客20人の内、13人はラクダに乗る。残り7人はラクダの歩いた後ろの砂漠の道を歩く。30年くらい前に出かけたシルクロードの敦煌の鳴沙山。そこでラクダに乗った。乗り心地はあまり良くなかった。今回、添乗員はラクダに乗る人はもしものことをと念書を書かせる。ここまでするのならばと今回は歩くことにする。ところがこれが結構きつい。足がきついのではなく息がはあはあ、となる。

 砂漠の中は平坦な道ばかりではない。登り道があれば下り道もある。右足がずしんと砂に埋もれる。歩き始めは楽ちんと思った。添乗員のスマホから流れる♪月の砂漠♪。このメロディーを聞きながら歌を歌って歩く。まるで夢の世界に佇むようでロマンあふれる行進が続く。ところが、目的地まで行くうちにその大変さに気づく。ましてやまだ真っ暗闇の中。次第に言葉数も少なくなる。ロマンどころか苦しさが勝る。

 ラクダを引率する人々が朝日が昇る待機場所に敷物を敷いてくれる。それも知らずに、あと何秒かのところで腰を下ろす。ところが添乗員に名前を呼ばれて敷物のところまではもうちょっと言われてさらに歩く。シートに座ると思わず一瞬、大の字になって寝る。その時、起き上がれなくなりそう、と思ってすぐに立ちあがる。高山病でダウンするのとはちがった苦しさだった。しかし、それもすぐに良くなる。しばらくするとサハラ砂漠の向こうから太陽が顔を出す。デジカメではうまく写真が撮れなくて残念。

 ここまで来たからにはラクダを引くベルベル人と写真を撮らずにはかえれない。ラクダを引いてきたターバンを巻いたベルベル人とツーショットで写真を撮ってもらう。しんどかった割にはいい感じで写っている。これもベルベル人がモデルのお蔭!?写真以外にもサハラ砂漠の赤い砂をナイロンの袋に入れて自分へのお土産に持ち帰る。

朝方、暗いうちに砂漠へ出かける 真っ暗なホテル前
サハラ砂漠の赤い砂を持ち帰る
砂漠の風紋
遂に太陽が顔を出す!
ラクダに乗った人たち この後を歩く
サハラ砂漠を歩く
サハラ砂漠
サハラの日の出を拝んだ後は足取りも軽快にベルベル人のテントのところまで歩く。ここで朝食をいただく。と、その前に靴に入った砂を払う。細かい粒子の砂。簡単には取り除けない。この砂の影響でスマホが作動しなくなった人もいるそうだ。添乗員はしきりにナイロン袋でカメラを覆うようにと注意を促す。 

 朝食はヨーグルト、ナン、ゆで卵、珈琲などがある。ホテルでいただく朝食よりもテントの食事は美味。ここで若い姫たちはベルベル人に大変モテる。ハグをされたり、ここで暮らすようにと促されたりとモテまくる。モロッコの人々は親日家!?後でこれについて調べると、モロッコ人同士の結婚よりもモロッコを出たくて観光客をアプローチするそうだ。ここでサハラ砂漠の意を記そう。「サハラ」とは「砂漠」の意で、サハラ砂漠とは「サハラ サハラ」となるそうだ。

ベルベル人のテントの前で靴の砂を払う
ベルベル人のテントで朝食後、いったんホテルに戻る。ここで足を洗って靴下をはき替える。それでも靴の中の砂は払えない。タオルを湿らせて何度も靴の中を拭いて砂をぬぐう。

丸い1個ずつの建物が1室で室内は広い
同じ棟があり迷い子になりそう。案内板があった
サハラのホテル入口 同じ入り口があちこちにある

 8:00 エキゾチックなサハラ砂漠のホテルを後にして再度、4輪駆動車に乗ってエルフードの街へ行く。エルフードはナツメヤシに囲まれた赤茶色のオアシスの街でサハラ砂漠の入り口にあたる。1時間で化石工場に到着。ここで広東語のような言葉のツアー客に話しかけるとタイ人だった。

 9:45 エルフード到着後、4輪駆動車からバスに乗り換える。30分ぐらい進むとカナート(古い地下水路でカナールともいう。中国シルクロードではカレーズといっていた)見学のため途中下車。中に入って見たい人は地下に降りて水路を見学。カナートは土が盛り上がったところでいたるところで見られた。15分の下車後、バスは出発して150km先のトドラ渓谷へ向かう。どこまでも続く一本道、地平線、青い空と白い雲。この大空に魅せられる。

地下水路のカナート
右横の建物から中に入って希望者だけカナートを見学
トドラ渓谷への道
どこまでも続く地平線と大空
途中下車して撮影タイム

 12:30 トドラ渓谷到着。バス下車後、雲行きが怪しくなる。渓谷を歩いていると雷の音と小雨、そして突風が吹く。以前に山崩れがあって今は利用されていないホテルもある。ここはロッククライミング目的のヨーロッパの旅行者が多いそうだ。川の両側には200ⅿもの切り立った岸壁が迫り、見る者を圧倒させる。30分くらい渓谷を歩いた後、バスに乗車。もう一つのグループの人たちとバスがすれ違う。何分かの違いで後続のグループは雨と突風で渓谷を歩いて観光できなかったと後で聞く。

 13:30 コフタタジン(肉団子のタジン)のお昼をいただく。寒い日の温かい珈琲(25デュルハム)でホッと一息つく。雨と雷と突風、それに雹まで降る。同じテーブルの人は食事後、外に出て雹を掌のティッシュに載せて見せてくれる。長く生きてきてほんものの雹を初めて見る。氷砂糖のような大きさで真っ白い色をしていた。アフリカで雹が降る、雷が鳴る、大雪が積もる、と驚くことばかり。アフリカは寒い国(?)と知って驚くことしきり。

トドラ渓谷
崩れたホテル
ロッククライミングの跡
お昼は名物クスクス
昼食

 昼食後はワルザザードへ続く道の途中にあるティネリールの街へ立ち寄る。そこで緑豊かなオアシスが見える絶景ポイントで写真タイム。寒い!この辺りはダデスの谷といわれてバラの栽培で有名なところ。モロッコのダデスローズとして有名らしい。ここから山を見ると文字が書いてあるという。だが、写真ではわかりにくい。それは「サハラはわれわれのもの。アラーと王国の国」だそうだ。西サハラはモロッコではなく独立している。そのためか今も、西サハラはモロッコのものだと主張する。

 通りはカスバ街道でお天気も良くなり晴れてくる。モロッコの風土に合わせて要塞化された住居がカスバ。その集合体をクサールというそうだ。添乗員のスマホからマイクを通して♪カスバの女♪がバスの車内に流れる。カスバ、と聞くとやはり♪カスバの女♪が頭に浮かぶ。バスはカスバ街道をひたすら走る。街道沿いには「バラ」の看板がやたら目につく。街のロータリーもバラ仕様だった。バラの他にもアーモンドがピンクの花をつけたり、散ったりしている。バスは途中下車してバラの香水店に立ち寄る。

ティネリールの街
 

「サハラはわれわれのもの アラーと王様の国」と、
山に文字が書いてあるらしい。だが写真では見えにくい 
ワルザザードヘ続く道 途中下車してカスバ街道を写す
 
16:30 バスに乗車後、再度ワルザザードの街へ向かう。ワルザザードは周囲にナツメヤシのオアシスが広がり、カスバ街道の最大の街。途中下車してカスバ街道を写す。

 ワルザザードのホテルに着くと部屋にウエルカムフルーツが置いてある。バス車内で添乗員から部屋によっていい悪いの差があることなど、これまでのツアー客か受けた部屋割りのクレームのお話を聞いていた。それがなんと、自分の部屋にフルーツがある!すべてはナニゴトも内緒にするようにとのお話だった。だが人に話したい。ツアーの人にこっそり話すと今回は皆さん、フルーツが置いてあったという。どうも電話が通じない部屋らしくそのお詫びのフルーツだった。

 19:00 夕食。ビールはハイネケン350ⅿl(45デュルハム)で乾杯。この日を限りとしてモロッコ滞在中のビールはご法度となる。

 メルズーガ→エルフード→ワルザザードまでのバスの走行距離は380km。ワルザザードのホテルは「ホテル ワルザザード・ル・リアド(旧 リアド・サラーム)」。翌日の天気予報は曇りのち晴れ。予想気温は3~14度と低い。


ウエルカムフルーツ

 
  夕食 食べられそうなものだけをいただく


第7日目 2016年3月22日(火)ワルザザード→アイト・ベン・ハッドウ→マラケッシュ

 8:00 ホテルを出発してバスはアイト・ベン・ハッドウへ向かう。ワルザザードはハリウッド映画の街でハリウッドと友好都市だそうだ。そのためか、ホテルはハリウッドの人々でいつも満杯という。モロッコにある映画スタジオはアトラスコーポレーション。下車して外観だけ写す。この建物の前は大きな広場だった。ここでスイス人と出会う。モロッコに出かける前に見た映画といえば「アラビアのロレンス」と「カサブランカ」がある。それもたまたま旅行前にNHKのBSシネマで放映していて幸いだった。


モロッコにあるハリウッドの映画スタジオ(CLA STUDIOS)の外観



スタジオ前は大きな広場だった



映画スタジオ(CLA STUDIOS)の外観


 再度バスに乗車してアイト・ベン・ハッドウへ向かう。これはアイト・ベンさん宅の息子の意味だそうだ。8年前、橋が建設されてそこを渡ってアイト・ベン・ハッドウを歩く。そこはワルザザードから35kmのところにある。アイト・ベン・ハッドウはモロッコでも指折りの美しい村といわれる赤褐色の村。現在は数家族が住み、住民はほとんど新村に移っている。世界遺産アイト・ベン・ハッドウは車のなかった時代、この地に住んでいたベン・ハッドウ族は裏街道の関所として通過する人々から金品を頂いて峠までの安全を保障していた。土塀のカスバは映画の舞台にもなって有名となる。頂上の建物は貯蔵庫跡でここが要塞として機能していた最後の砦だそうだ。

 アイト・ベン・ハッドウの集落の一番上まで歩いていく。道中には観光客目当てのお土産店も並ぶ。中でも「ファティマの手」と呼ばれる手の形のお土産を目にする。これはネットによると「イスラム教の預言者ムハンマドの娘ファティマは4女として生まれ、災害・不幸・邪の目を防ぐ力を備えた女性として、また、誠実で精神深い女性として人々から愛された。生涯を社会奉仕に尽くし、慈悲深い彼女の手は幸福を呼ぶお守りとして、あるいは魔除けとして広く用いられるようになりました」とある。

 頂上まで行く道は突風が吹き荒れるくねくね道を歩いて登る。民家などの建物がない場所では吹き飛ばされそうになる。ここの画家でもある人の民家を訪問。中に入ると電気はなく外から入り込む天然の明かりで部屋を照らす。台所も自分たちの子どもの頃を彷彿させるようにかまどなどがあった。


8年前に建設された橋を渡って頂上へ行く



橋を渡らず、川を歩く人々の姿もある



突風の中を歩いて頂上まで行く 
この建物は貯蔵庫跡で要塞として機能していた最後の砦



画家でもあるこの人の民家にお邪魔する



画家の書いた絵



画家の民家訪問 電気はなく部屋の明かりは外から差し込む天然の明かり


 10:15 「峠が雪」、との情報がガイドに入る。急遽、お昼を早めにする。名物のクスクス料理をいただく。クシュカ峠は乗用車だけOKから大型車もOKとの情報が入る。この頃、添乗員から日本でANAがシステムトラブル、ベルギーでテロが発生との情報を聞く。添乗員はこれを伝えてくれたあと、「一日を精一杯生きるに限る」の言葉を発する。その通り。どこへいてもどこへ出かけても何が起きるかわからない。本当に一日一日を有意義に過ごしたいものだ。


お昼は名物クスクス料理をいただく


 12:00過ぎるころには山裾は雪景色となる。30分経過すると2260ⅿのクシュカ峠を無事通過。だが、しきりに雪が降る。さらに40分経過する頃にはクシュカ峠が閉鎖されたとの情報も入る。もしもお昼を定刻に食べていたならば峠越えができず、う回路を通るところだった。添乗員は以前、う回路で10時間かかった経緯を話す。この日の予想気温は3~14度と寒い。バスの車内も暖房が入る。アフリカは寒い!?


山裾も雪景色



2260ⅿにあるクシュカ峠

 
 峠を無事越えてアルガン・オイルのお店に入る。アルガン・オイルとはアルガンの木の実の核から採取されるオイル。ビタミンEを豊富に含み、食用として化粧品用として用いられている。あまり関心がないので何も買わずにお店を出る。だが外は冷たい雨。入口でツアー客に愛想を振りまくお店の人を見ていると手に一杯の実をくれる。家まで持って帰って写真に撮る。


アルガン・オイルのお店のデモンストレーション



もらったアルガンの木の実



アルガン・オイルの実



アルガン・オイルの店内風景

 15・00 雨は次第に大雨となる。アルガン・オイルのお店を出発してバスはマラケシュへ向かう。車窓から見る川の水は赤い。1時間あまり進むとホテルに到着。ホテルから歩いて10分くらいのところには大型ショッピングセンターがある。バスはそこで皆を降ろして待っていてくれる。その間、お店の下見をする。中には有名ブランド品もある。その中のスーパーでカレー粉、干したヤシの実、チョコレートなどを購入。

 19・00 夕食。コース料理だが、疲れもあるのか美味しく食べられない。ここ、マラケシュはアルコール類はご法度。仕方なくコーラを注文。コーラはさらに食事を不味くする。


ホテルの外にあるプール



マラケッシュの夕食のコ―ス料理



コース料理 香草がついてて食べられず



ホテル レストランに並ぶ各種パン



沢山のパンが並ぶ



これは何の野菜?


 ワルザザードからマラケシュまでのバスの走行距離は215km。ホテルは「モガドール パレス アグダル」。この夜、オプションでファンタジアショー見学があるという。だが、屋外で遅くまであるので参加せず。4名が参加されたらしい。翌日の天気予報はにわか雨で予想気温は8~16度。

 ここでマラケシュのホテルについて一言。とにかく大きい。そのため、宿泊する部屋によってはホテルのロビーまでが遠すぎるところも出てくる。皆が公平になるようにとの添乗員の計らいで、部屋のキーを20人分並べて各自取る方式の部屋割りとなった。幸いフロントの近くの部屋だった。


マラケッシュのホテル外観


第8日目 2016年3月23日(水)マラケシュ一日観光

7:30 朝食のオレンジジュースも香草のにおいを感じて飲めない!その後、ホテルでドルをデュルハムに替える。

9:00 ホテルを出発してバスは世界遺産マラケシュの旧市街の観光に出かける。マラケシュはベルベル人が築いた王朝の都で「モロッコの縮図」と呼ばれるエキゾチックな古都。ナツメヤシと城門に囲まれた街でもある。マラケシュは赤い街。赤い街マラケシュとの異名も法律で決められている。


800年の伝統を持つオリーブ園に出かける 
道の両側のうち片方ずつを新旧のオリーブとして分けて植えている



メナラ庭園に向かう道の左右に新旧のオリーブ畑が広がる



メナラ庭園内にある王の離宮



メナラ庭園から眺める雪を頂いたアトラス山脈
12世紀に造られた巨大な池を持つメナラ庭園。王の離宮として作られたもので、王族たちのデートスポットとして愛用されていた。アトラス山脈の雪解け水を満々とたたえた貯水池としての役割を持ち、その周囲にはオリーブ畑が見渡す限り広がっている。オリーブは左右で植えられた時期も異なり、向かって右側が古いオリーブの木だそうだ。マラケシュのシンボル的存在のクトウビア・モスクが見える。クトウビアとは本屋の意。


メナラ庭園に向かう道
観光用の馬車が通る
クトウビア・モスク
道の両側はオレンジの木
実をつけたものや白い花をつけた木もあり、辺りに芳香を放つ
ムスクに向かう道には食べられないオレンジが実っている
ミモザの花
サラディーン廟
バヒア宮殿内のバナナの花と実
バヒア宮殿
宮殿内にあるコーランの学校の図書館
宮殿内は今はアートで飾ってある
サラディーン廟(サアド朝の墳墓群)
フナ広場より南側の史跡地区にある代々の王たちが眠る廟
スーク(市場)を歩く
スーク(市場)を歩いてお土産店に向かう

 

 

マラケッシュのカスバの城壁
 

お土産に買ったディズニットの銀細工
白い壁とタイル張りの床や天井に囲まれた優雅なバヒア宮殿。イスラムの王宮らしく、複数の女性のための部屋が用意されている。中央には王の住まいである宮殿が立ち、その周囲は広大な庭園となっている。中庭を囲むように建てられた建造物は、王に仕える女性たちの個室が並んでいる。

 マラケッシュのカスバを歩くとユダヤ人街がある。ユダヤ人は商売上手。その特徴として1階はお店があり、2階にはベランダがある。だが、イスラム人街はお店もなく、ベランダも使わない。スーク(市場)を歩いて総合民芸品店に向かう。ここは国が経営するお店らしくモロッコの土産がある。ここに至るまで添乗員からモノを買うにはまず半額から値切るようにと教えられていた。ところがここは正規のお値段で価格も不安がない。自分のお土産にとディズニットの細工を凝らしたグラスを購入。

 昼食はピザ。一人1枚ずつピザをいただく。美味だった!そして久々のエスプレッソの珈琲を飲む。20デュルハム。このレストランのウエイターは注文品を出しながら”I like you”と声をかける。これには驚く!このころから雨になる。大道芸人が繰り出してにぎやかになるというジャマ・エル・フナ広場。午後にはこの広場で17時までフリータイム。ここで自由時間を過ごした人もいる。

 14:00 他の人たちはバスでホテルへ帰る。相変わらず雨が降り続いて冷たく感じる。しばらくホテルで休憩。その後、フリータイムを利用して昨日立ち寄ったショッピングセンターまで歩いて買い物に繰り出す。カレー粉、チョコレート、干したヤシの実など購入。

昼食のピザ 一人1枚ずつ

 17:00 ホテルのロビーに集合後、再度バスに乗ってジャマ・エル・フナ広場に向かう。先にフリータイムで離れていた人たちと合流して皆でスーク(市場)を歩いて見学。その後、広場に出る。この広場は添乗員によるとお天気ならばかなりの賑わいを見せるという。だが、生憎の雨のため人出は少ない。広場では大道芸人や屋台などもある。

 この広場にあるカフェでフリータイム。カフェのデッキから広場を見下ろす。だが、雨のために思うように写真も撮れない。雨、雹、雪などに見舞われた今回のモロッコの旅。窓ガラスのない吹きさらしの雨が降り続くカフェにいると次第にモロッコは冷たい、寒い国とのイメージが強くなる。そして温かいミントティーを飲んで心身を温める。だが、においが気になる。

モロッコ名物のミントティー
広場2階のカフェ
カフェ2階から眺める広場
ジャマ・エル・フナ広場
ジャマ・エル・フナ広場の猿回し
ジャマ・エル・フナ広場 民族衣装を着けたモデル写真のモデルとなってモデル料を稼ぐ

 19:00 ホテルのレストランでヴァイキングの夕食。ホテルは連泊で翌日の天気予報はにわか雨。気温の予想は10~18度。なお、大阪の気温は3~12度との情報が入る。モロッコについてから帰るまで常に1デュルハムを用意する。これはトイレを使うために必要。添乗員は初日からこの1デュルハムを皆に貸してくれる。現地通貨に替えても細かいデュルハムは簡単には手にできない。1デュルハムを用意してモロッコの最後の夜を過ごす。

第9日目~第10日目 2016年3月24日(木)~2016年3月25日(金)マラケシュ→カサブランカ→関空→広島

 6:30 朝食。7:30 いよいよ帰国へ。これから日本への長い旅が始まる。空港へ向かう車窓からは川の水が赤く見える。ここ、マラケシュは赤い街。モロッコのカサブランカは白い街。そしてシャウエンは青い街と街によって色分けがされている。その街ともお別れ。サボテンの栽培も見えてくる。聞くところによるとアルガンよりもサボテンの方が効能が良いらしい。だが、何を基準にするのか定かでない。

 バスの前席の人は話される。「お金の計算はできるが命の計算はできない」。確かにそうだ。旅の参加者は若い姫たち2名を除くと似たり寄ったりの年齢。前席の人は長く会社に勤められて昨年1月定年退職。月100時間を超える残業もされていたそうだ。「ブラック企業!」と失礼な言い方をしても穏かに笑って話される。退職するや否や長いブランクの後(若い頃は旅をされている)、海外に出かけられる。それも1か月おきに海外に出かけるという。いつもスマホ片手に撮った写真のコメントを車内で入力されていた。

 他の人も同じように次の行き先を決めておられる。ブログがご縁となって知り合った人もここへ「来る」と次の行く先を話される。「行く」でなくて「来る」とは…。確かにモロッコの近くをクルーズされるらしく戻って「来る」が当てはまる。楽しかったモロッコの旅も終わりを告げるころ、ガイドからラバト→カサブランカ間は雨のために通行止めになったとの情報が入る。

 旅の9日目となるマラケシュのホテルをバスは出発して240km先のカサブランカの飛行場へ向かう。13:55エミレーツ航空EK0752 はドバイへフライト。トランジットのドバイから関空まではエミレーツ航空EK0316 便。帰りの便のフライトは両方とも通路側。今回の旅では結局、行きも帰りも機内の座席は通路側だった。関西国際空港には16:50着。「はるか」と「のぞみ」を乗り継いで23:00近くに無事、我が家に到着。

 通路側といえばある男の人は搭乗手続きでチケットを係が破棄し、代わりに機械から出てきたのが通度側だったと大喜びで話される。満面笑みをたたえて喜んでおられた。フライト時間が長いのでそのお気持ちはよくわかる。

 今回の旅では行く先々でいろんな国の人と出会った。最後に出会った人はカサブランカの空港搭乗手続きの時の中国の若い男性。IT関連のお仕事をされているという。久々の中国語で話す。どこへ出かけても中国人の観光客と出くわすことが多い。また出かける先々の国では中国のお店がある。ところが今回は珍しくそれがなかった。

 モロッコの旅のバス移動の総走行距離はなんと2700kⅿ。飛行機もバスも何でも長~く乗\った。そしてよく動き、よく歩いた。元気でなければどこへも行けない。サハラの大自然、どこまでも続く一本道と地平線、広い大西洋も眺めた。サハラの朝日も拝んだ。ベルベル人とも写真を撮った。そして、みなさんいい人たちばかりで楽しい旅だった。もう一組のツアー客とも行く先々で「アンニョンハセヨ!」「ニイハオ!」とわけのわからない言葉で話して挨拶を交わした。楽しかった。ただ、食べ物に少々辟易した面は否めない。とはいってもこれは自分の好みの問題。もっと何でも食べるようにせんといけん、と大いに反省!その反動か最後に空港のフードコートで食べたパイナップルパイ。もう本当に美味しかった。珈琲も美味だった。

 そして乗り換えのドバイから関空までの間で出た機内食の少しばかりの日本そば。パックになっただし汁もつく。この醤油味の蕎麦つゆでいただくお蕎麦。この美味しかったこと。もう忘れられない。関空からの新幹線車内で買った柿の葉寿司。これも死ぬほど美味しかった。楽しい旅は終わった。さて次は何処へ。元気を出してこれからも楽しい旅を続けよう!

 最後にモロッコの旅をご一緒した皆さま、楽しい旅をありがとうございました!またいつか旅の空でお会いしましょう!

空港に向かう車窓から
車窓から空港も見えてきた
黄色い花は何の花?まるで黄色いじゅうたんのようだ
空港で食べたパイナップルパイと珈琲
もう、ただの美味しいというもんじゃない
死ぬほど美味しかった
帰国のトランジットのドバイの空港内フードコート