2011年10月28日金曜日

スペイン演奏旅行記

今日の午前中は昨夜、知人との話からスペイン演奏旅行の写真をブログに追加することと格闘する。後でわかったことは「ブログの編集」からそのブログをコピーすれば簡単だった。それをウエブ上のブログから貼り付けようとして、てこずってしまった。午後、ついに「ブログの編集」から写真を追加するといい具合にできた。嬉しい!

次回からはもう大丈夫!とりあえず写真を追加したスペイン演奏旅行を投稿しよう。

スペイン演奏旅行記(2011年8月25日-9月6日)

スペイン演奏旅行と銘打った一行38名(中途で帰国組みを含め、最終日には32名となる)の13日間の旅は以下のようであった。まず始めにこれを催してくださった皆様に感謝するとともに、この旅に誘ってくれた知人に感謝したい!そして楽しい旅に参加できた報告をこの場を借りて伝えたい!

8月25日(1日目、木曜日)

午前3時半、前日から用意した携帯電話、電波時計、目覚まし時計のアラーム3個が一斉に鳴り響く。すぐに起床。すばやく身支度を終えると軽く食事をする。

午前5時10分、仏壇のアサちゃんに旅の安全を願う。前日にお願いしていたタクシーに乗車して広島駅新幹線口に到着。これでスペインへ行けると実感。

午前5時25分、広島駅新幹線口に到着。だが建物のシャッターは空いていない。空くのを見届け2階の新幹線改札口に向かう。その間スーツケースを持つ人を見ると同行者?と思いながら歩く。まだ改札口は閉まっている。

午前5時45分、新幹線改札口に集合。誘ってくれた知人以外は皆知らない人ばかり。少々不安を抱えながらも知人と会話している人の話に加わる。

午前6時、広島始発の新幹線のぞみ108号で新大阪経由はるかに乗り換え、8時54分、関西空港到着。スーツケースを預け、パスポートを仕舞おうとしたとき「気をつけて行ってきてください」というメールをもらう。すぐにこれから機内に入る旨、返信。

午前10時55分、フィンランド航空AYO78便に搭乗。機内で隣席になった知人に先ほどメールをくれた人について説明。20年位前からその人の文章をモットーにしていると話し、ブログを通じて知り合った経緯を告げる。知人からブログのタイトルを聞かれ知らせる。

午前12時過ぎ、赤ワインなどの飲み物が出る。

午後1時過ぎ、マッシュポテト、お肉、ビール、コーヒーなど…の機内食が出る。フィンランドのコーヒー消費量は世界一とか?美味。機内は霜が降り、まるで冷蔵庫の中にいるよう。知人曰く、フィンランドは寒い国だから機内もそうだと…。これ本当のこと!?

午後3時10分、ヘルシンキ到着。日本との時差6時間。

午後5時、ヘルシンキでマドリッド行きAY3183便に乗り継ぐ。搭乗前、日本人の親子4人に出会う。聞くところによるとスペインに住んでいるとか。小さい男の子は日本語も英語もスペイン語もできると得意気に話す。この機内ではY姉妹の隣席になる。Yの妹さんから、知人が私をスペイン行きに誘ってくれた話を聞かされる。またいろいろと話をしていると本当に楽しい優しい姉妹だとわかる。Y姉妹とは一番初めに親しくさせてもらった。感謝している。おかげで他の人とも気軽に話せる雰囲気となった。機内食は軽食。

午後8時25分、マドリッド到着。日本との時差7時間。

午後10時30分、マドリッドのホテル着。ホテルはグランヴィア(大通りという意味)に位置し街中にある。広島でいえば八丁堀から紙屋町界隈か。ホテルに着くまでのバスの車窓から沢山の自転車によるデモンストレーションを眺める。夕食のためホテルを出ると街中には娼婦が一定間隔を置いて立っている。この現象は同行したバレンシア生まれで広島在住の神父様によると最近のことらしい。

午後10時45分、レストラン外のカフェレストランで食事。レストランの中よりも外のほうが金額的に高いそうだ。マドリッドではすべてカフェレストランで食事。ビール、生ハム、ツナのサンドで食事。日本では考えられないような遅い夕食。そのメンバーは神父様、教会の信者のEさん(いつも神父様のそばにいる秘書みたいな人)、知人、私の4人。外の風に吹かれながらの食事は心地よい。湿気の多い日本では考えられない外での食事。この日から毎晩遅い夕食が始まる…。マドリッドのカフェレストランでの食事は常にビールを注文。マドリッド以外の都市ではワインが主流。夜半というのにマドリッドの夜はまるで夕暮れ時のようだ。夜9時まで明るい。そのためか真夜中を過ぎても人、人、人の波。まるで皆徘徊しているように街中を歩いている。

気がつくと広島を経ってからマドリッド到着までなんと丸一昼夜もかかっていたと気づく。この日から睡眠時間は毎晩4,5時間あればいいほうだ。どこでもいつでも本当によく歩いた。

マドリッドのホテルは3泊。グランヴィアに位置しているため夜半の2時過ぎまで騒々しい。そのにぎやかさは半端ではない。ピーポー、ピーポーとサイレンの音をけたたましくさせて通るパトカーのうるさいこと。寝られない。外側に面していない部屋の人はそれも気づかなかったらしい。うらやましい限りだ。

スペインのホテルで日本と違うモノ・コトがあった。エレベーターである。エレベーターのドアの外にさらに手動で開閉する木製のドアがあった。またホテルに連泊すると大体のホテルは部屋の清掃やシーツ交換、バスタオルなどの交換がない。他にもヘルシンキに入国した際に入国審査が済んでいたためかマドリッド到着後はそれはなし。EU圏内だからその都度入国審査がないのかも…。

8月26日(2日目、金曜日)

マドリッドの朝は快晴。

午前7時30分、朝食。

8時45分、ホテル出発。今日からバルセロナまでの長い、長い道のりのバスの旅が始まる。そのバスを運転するスペイン人の運転手さんは45歳。バスには必ず運転手の奥様も同乗。日本では考えられない光景だ。

スペイン滞在中、観光案内をしてくださるのは広島市内の某教会のスペイン人の神父様。日本在住49年。広島に着いた初めの頃、江田島に行った際、神父様は毎朝「甲板掃除!」という言葉を耳にする。それはてっきり「おはよう!」という意味だと勘違いする。毎朝バスが発車する際、神父様は笑って「甲板掃除!」と挨拶される。それを聞いて皆ドッと笑う。

バスの車窓から見る景色は一面麦畑。時にスペインらしく牛の看板が立ててある。同行の合唱団の指揮者で音楽大学のS先生は広い麦畑、トウモロコシ畑、ひまわり畑を見てそれにやる水を面白可笑しく話される。スペインの人はそれぞれ2リットル(20リットルかも…。まあ冗談だからどちらでもいいことに…)の水をもって畑に行って水遣りをすると…。畑に人の気配はなく時にスプリンクラーが水を撒き散らす光景を目にする。

午前10時、トレド到着。

午後2時までトレド市内見学。ゴシック風のカテドラル(大聖堂)に至る道のりから眼下を見下ろす。その光景は真っ青な空にオレンジがかった建物の屋根。「これがスペインだ!」と思う。大聖堂の主祭壇の上の白いマリア様の彫刻を見る。聖堂の大きさは日本で目にするものと違ってとても大きい、これもスペイン!?とまた感激。サント・トメ教会、エル・グレコの家見学。大聖堂の広場で休んでいるスペイン人の中に入って早速一緒に記念写真。

白いマリア様

午後2時半 本場のパエリアで昼食。昼食時、先日広島の平和記念聖堂で行われた知人の所属する合唱団の服装の話で盛り上がる。その演奏会では指揮者しか姿が見えなかったと同行した人たちに話すと合唱する人たちは皆浴衣姿で歌ったといって笑わせる。その姿を想像するだけで可笑しい!実際はもちろん正装で歌っていたのだが…。
パエリア
 
午後3時、バスは出発して午後5時過ぎ、ホテル着。

午後5時半、明日のミサで演奏する人としない人とに分散して行動。演奏しない人は自由行動。皆でデパートなど繁華街を散策。大通りでは大道芸人のパフォーマンスであちこちに人だかりができている。鎖で体を縛り付けた人、赤ちゃんの恰好をして乳母車で泣く大人の男、体中を黄金色に塗った背広姿の不動の芸人。不動の芸人は我々日本人に関心をもち、体を動かして握手などする。

午後6時過ぎ、皆と分かれ知人とアイスクリームを食べながらデパートなどを散策。

午後8時夕食。神父様、信者のEさん、Kさん、Tさん、知人、私の5人でBAR (バル)で食事。広場では若者による政治的なデモンストレーションが行われていた。このとき神父様はスペインの街の光景が「綺麗でしょ?」と話される。電線などが日本のように張り巡らされておらず、地中に埋めてある。すっきりした街並み。さらに街灯も日本で見るような光線の色でなく温かみを帯びたオレンジ系統の明かりだった。

午後9時20分、ホテルの部屋でいろいろと旅の片付けや洗濯をする。同室のIさんは用意周到に洗濯物を干すロープを持参している。2人で部屋の真ん中にロープをつるし、洗ったものを干す。乾燥しているスペインなのに洗濯物は乾かない。なぜ?

午後10時、フラメンコを見るため皆で歩いてホテルを出る。フラメンコの開始は午後11時前、もう眠たくてたまらない。女性のダンサーに続き男性のダンサーがフラメンコを踊る。その音とスピード感は本当に迫力がある。上手い下手はその迫力の違いにあるのかと思うほどに。初めて見るフラメンコなのに眠いこと、眠いこと。注文した赤ワインはおいしいけど眠たさには勝てない。ほとんど飲まず。

午前0時前、会場を後にして数人で歩いてホテルに帰る。

午前0時半就寝。

 8月27日(3日目、土曜日)

スペインの空は毎日真っ青。今朝の空は飛行機雲が…。49年前のこの日、神父様は日本に到着されたとか。バスの中、皆で拍手をして神父様を祝う。

午前7時半、朝食。

午前9時、バスで国立プラド美術館へ。知人と日本語で書かれた「美術館ガイド夏2011」を携えて3時間美術を鑑賞。美術館は地下1階を含む4階建て。0階が日本での1階にあたる。この階の表示の違いはホテル、デパートなどでもこんがらがってばかり。折角プラドに来たのだからとスペイン絵画は特に意識してみる。パンフによると「プラド美術館では十二世紀のロマネスク時代の壁画から十九世紀にかけてのゴヤの作品まで年代順位展示しています。一階では中世、そしてルネサンス時代の絵画を、そしてメイン階ではエル・グレコ、リベラ、ムリリョ、ヴェラスケスなどの黄金世紀の画家の作品群を展示。黄金世紀は、一階、二階、三階に分散されているゴヤの作品で頂点を迎える」と書いてある。この中のムリリョについては知らなかった。大半は宗教画である。美術館に行くとミュージアムショップに行くのが楽しみだ。そこでプラド美術館をあらわしたコースターと手鏡を購入。知人は来年のカレンダーなどを買っていた。

午後1時半、ホテル着。午後2時から自由時間。神父様を含む10数人はマイヨール広場にあるカフェレストランで昼食。食事後、皆と別れ、地図の読める知人とグランヴィアを通り抜けて王立劇場、王宮そしてその終点のスペイン広場まで行く。さらにプエルタ広場なども散策。スペイン広場の真ん中にはセルバンテスとドン・キホーテの像が立っていた。その像の下をかがんで入って横に立ち写真を撮る。

その後デパートに移動。思ったより涼しいスペインなので知人はデパートでカーディガンを購入。そのとき店員は「付加価値税10%OFF」のカードがあると安くなるという。そのカードをもらうためカウンターを探す。教えてもらった階が日本のフロアと違うことを知る。探し当ててカードを受け取り、商品をやっとゲット。その後、アイスクリームを食べ終えて地下のトイレに行く。鍵が掛かっていた。トイレに入るには入り口付近にある暗証番号を押す必要があった。教えてもらった暗証番号は1111。アイスクリームは毎日のように食べる。乾燥しているスペインの大地で食べるアイスクリームは必需品!?

午後7時半、ミサに行く。そこで御聖体を受ける。それは信者だけのことであると知り、以後のミサでは受けないことに。この御聖体というキーワード。初めて知る。無理もない。初めてミサというものに参加したのだから。

今回の旅の目的は作曲家ビクトリア没後400年のこの日、この場所で、このミサで演奏することに意義があるという。そのため旅の計画は何年も前からこの日にあわせて予定されていたと聞く。

ミサを終えるとマドリッドに3泊しただけで仕事の都合などで翌日、日本に帰国する人たちが3人いた。少々勿体無いような気もする。それでも帰国組みの人たちは演奏できたこと、あるいは参加したことだけで幸せなときを過ごされたのかもしれない。

午後10時30分、ミサ終わる。

午後11時、マイヨール広場のカフェレストランで10名くらいの夕食。

午後12時半、就寝。

8月28日(4日目、日曜日)

今日も青空。昨日同行者の一人がパスポートを紛失したと聞く。以後、パスポートだけはなくしてはいけないと思い常にバッグに手を置いて歩くようにする。

午前7時、朝食。

午前8時、スーツケースを出す。

午前8時半、3日間滞在したマドリッドとも今日でお別れ。マドリッドから120キロ離れたアビラまでバスで移動。バスから見える山に立つ十字架はマヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線とフランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍が内乱を起こしその両者が祀られているという。勝利したフランコ将軍は1975年に亡くなる。

その頃の様子をこの旅行の実質的な団長であり、合唱団の指揮者でもある広島の音楽大学のS先生にバスの中で伺う。その先生は若い頃バルセロナに留学されている。もちろんスペインへもたびたび行かれている。やはり今のスペインがいいとか。同行の神父様もそういわれる。神父様は今秋スペインで行われるトップの選挙について憂慮される。その選挙でスペインの社会党は(期待を込めて)敗退すると…。やはり自由は尊い!

S先生はスペインに留学中、偶然有名な堀田善衛と知り合いバルセロナの家にも招待されたという。堀田は当時バルセロナで書いた作品を日本へあててFAXで送っている。その生活はお手伝いつきで優雅そのものだったとか。堀田が当時滞在したスペインで書いた『スペイン430日』を早速読んでブログに投稿した。

バスで移動中、目にするものは太陽光パネル、風車、草原にいる牛ばかりで人の気配なし。それを見て知人はしきりに「人がいない!」という。

そして知人の格言「スペインへ行けば(皆)元気になる!」。

確かにそう思う。スペインの国土は日本の国土の1.5倍もあり、人口も3分の1とあっては一人当たりの面積は日本の4.5倍にもなる。それだけあれば日本人のようにあくせくしなくてもゆったりと生活できる。皆元気になれる!

しばらくしてアビラに到着。アビラ大聖堂を見学中、日本語の書籍『創立史』を目にする。ネットで検索すると聖テレジアという人が書いたものを日本語訳したものとか。興味を覚えたのでネットで購入しようとしたが絶版だった。残念!図書館で借りることにしよう。

大聖堂で今回の旅のハイライトである日曜日ミサに参加。S先生の指揮でビクトリアの作曲による作品を演奏。聖堂内に響き渡る歌声は人の気持ちを何故か不思議にさせる。それを表現するには…。どう書いていいかわからない。

アビラ聖堂を見学後、偶然自転車によるツーリングに出くわす。それを見て知人曰く「ツール・ド・スペイン」と。その場所が終着点であったため最後まで見物。すがすがしい青空の下でのレース競技は快適そのもの。

午後2時、アビラ出発。

午後3時15分、パーキングエリアにあるレストランで昼食。美味だが何といっても大量。日本人の食事量の3倍くらいある。スペイン人と日本人の体の大きさの違いはそこらへんにある?

午後4時20分、バスは出発し560キロメートル先のサンティアゴへ。

午後10時半、サンティアゴに到着。遅い到着にもかかわらずレジデンスの人に温かく迎えられる。

午後11時、夕食。メニューはヌードスープ、肉料理など。この辺りから料理にはジャガイモがつく。これがまた美味。レザートは桃とりんごを掛け合わせたようなネクタリン。これも以後毎日食べる。ちょっとすっぱい。だが味が濃くてとても美味。マドリッドよりもサンティアゴ以降の都市の食事が日本人に合う気がする。この都市辺りからカフェレストランでなく屋内での食事に。

午後0時半、就寝。

サンティアゴ到着までに3回トイレ休憩あり。3度目のトイレ休憩は前の2度と違って長い30分間。それはどうもスペインの運転手に対する労務管理だとか。さらに翌日からの48時間は運転してはいけない規則になっているとも。その割には食事のたびに運転手はアルコールを口にする。皆その様子をみて怪訝に。日本では考えられないことだ。ワインは水代わり!?

8月29日(5日目、月曜日)

今日もスペインの空は快晴。サンティアゴの宿泊先は学校の宿舎。TVはなく、シャワーのみ。

午前6時、起床。マドリッドのホテルでは毎日寝不足気味。その原因はホテルの外の騒々しさだけでなく枕にもあると気づく。日本でも枕はなくてよい。昨夜は枕の代わりにバスタオルをたたんだものにする。やっとよく眠れた。以後、毎日枕はバスタオルで…。それでも日本にいるときの8,9時間の睡眠時間を考えると睡眠不足は免れない。

枕といえばスペインで泊まったホテルではどの枕もベッドの幅ほどの長さがあった。日本でもベッドの幅ほど2個枕が置かれているが…。それが日本と違い1個で長いモノ。

午前7時、同室の人が早朝ミサに参列するという。ミサ出席。ミサは同行の神父様が司祭に。参加人員は少ない。教会は学校の宿舎にある。音響効果は抜群によく、神父様の声は聞こえにくい。

午前8時、朝食。フランスパン、ミルクコーヒー、ネクタリンなど。美味。毎日昼食までの時間が長い。しっかり食べないと…と思いつつ食事。旅行中食事と食事の間隔が長いので常に空腹を感じる。かといって1回の食事量を増やそうとしてもそれも無理なこと。おかげで体が軽く調子は良い。

午前9時15分、ここで以前広島の音楽大学に非常勤講師で勤めていた日本人女性のタケベ先生と合流。その先生は30代の年齢でサンティアゴの大学のスペイン人の学長(40代なのに学長)と結婚されスペインに在住。サンティアゴ滞在中はこの先生に音楽堂など案内してもらい散策。サンティアゴでの食事の手配もすべてこの先生による。

午前9時半、宿を出発。演奏組みは練習。その他の人はサンティアゴで自由時間。知人と午前10時40分というのに朝からビールを。ワイン、水、パンは毎食、食卓に出る。ところがビールは出ない。時に乾燥しているスペインでは冷たいビールが…。

サンティアゴはサンティアゴ巡礼の終着点。道の中央には10余センチくらいの大きさの黄金色の帆立貝のレプリカが一定間隔を置いて埋められている。巡礼する目印とか。同行の信者の人に帆立貝とカトリックの関係を聞くが知らないという。先ほどネットで検索してその意味を知る。

ホタテ貝のレプリカが埋められている

「サンティアゴ巡礼の道標のように、行く先々で我々に方向を示してくれるホタテ貝のマークを見かけます。また、巡礼路を歩いている人々がホタテ貝のペンダントをぶら下げている光景にも度々遭遇します。何故でしょうか?昔はこのホタテ貝をお皿代わりに、食べ物を恵んでもらったことから、この必需品・ホタテ貝が巡礼者のシンボルになったと言われています。」(http://www.eurasia.co.jp/nittei/s_europe/qsv5/camino/index.htmlより引用)

サンティアゴ巡礼の道についてスペイン観光局の「ガリシア」のパンフによると「サンティアゴ巡礼の道は、本当の自分に出会うための自分自身への巡礼の旅である。」と女優シャーリー・マクレーンの言葉を引用して書いてある。さらにドイツの哲学者ゲーテの言葉を引用して「サンティアゴへの巡礼によってヨーロッパは作られた」という。「欧州理事会はサンティアゴ巡礼の道を『初のヨーロッパ文化の道』として制定し、ユネスコは『世界遺産』に登録しました」と書いてある。

さらに付け加えて「今、興りつつある三つの価値観に、自己啓発、精神性、そしてロマンティシズムがあります。サンティアゴ巡礼の道を歩けば、新世紀に頒布すると考えられているこれらの価値観を、追求することができるのです」とも書いてある。

私たち一行のスペイン演奏旅行は徒歩での巡礼でなくバスであった。それは徒歩に比べてた易いことである。それでもサンティアゴに行ったのだから気持ちのうえで巡礼だったと思いたい!

同行者は皆この自由時間を利用してお土産を買う。帆立貝のペンダント・トップなど売られている。色もエメラルド・グリーンとコバルト・ブルーを合わせたようなものがとても綺麗。装飾品に余り関心がないのでただ見るばかり。日本では見られないものだが…。お土産にはいいかもしれない。金額的にもそれほど高くない。その後知人と大聖堂の中に入るとミサが行われていた。

午後1時、皆集合。タケベ先生の案内で市場に同行。休みのところもあったが、チーズなど真空にしてもらって購入する人もいた。知人とチーズでなく植物の種を購入。種の名前は“Acaricida”だった。その和名はさてさて…。花が咲いてからのお楽しみ!?

午後3時、レストラン内で昼食。サンティアゴについてからはワイン、パン、水は必ず食卓に出るがビールはない。食事はガリシア料理に。ししとうの揚げたもの、タコの揚げたガリシア風料理、イカスミライスなど。いずれも美味。

食事中合唱団の世話をしている女性のKさんが「いい人を旅行に連れてきてもらった」と知人に話しているのを聞く。その意味は途中帰国組みがいたので、旅行中、宿泊メンバーが入れ替わるところをずっと同じ人とでいい…と話したことにあるようだった。旅行中は皆に迷惑だけはかけないようにしようと思っていた。それを聞いて少しホッとする。

昼食も佳境に入る頃、かわいいスペイン人の坊やを連れた家族に出くわす。ギター奏者のKさんはその子が気に入ったよう。いつもまるで十字架を背負っているかのようにギターを背にして歩くKさん。レストラン内で得意のギターを演奏。皆笑いころげてレストラン内のにぎやかなこと。日西友好親善のレセプションといった感じで大いに盛り上がる。旅行中、スペインは昼食が夕食よりも正餐?と感じることが多かった。本当はどっちが正餐!?

昼食後、皆と買い物などで散策。途中、買い物から外れて知人とアイスクリームを食べる。その後、知人とIさんと3人で新市街を歩く。そこにあるお店でグレイのラメ入りのワンピースを目にする。知人はそれが似合うから秋に行われるフルートの発表会で着るようにという。そしてさらに「それを買ってあげる」とまでいう。もうびっくり!さらにそこで試着するようにと同行の2人はいう。そういわれても…。気持ちだけありがたく頂戴してワンピースを購入。帰国後、試着すると体にぴったりだった。発表会に本当に着る!?

さらに3人で歩いているとスーパーがあった。そこに入ると知人は日本のキリンビールを目にする。ホテルではもっぱらワインが食卓に出る。知人は皆に飲ませてあげようと日本の缶ビールを買う。ついでにホテルには冷蔵庫がないからナイロン袋に入った氷も購入。そこには日本のしょうゆも売られていた。缶ビール、しょうゆの他に水、嗜好品など買ってホテルに…。水だけでも1.5リットルが2本。重いものはすべて知人が持ってくれる。気の毒なのでバッグに入るだけ缶ビールを持つことにした。

買い物を一緒にしたIさんは偶然にも同じ町内に住んでいる人だった。これからもばったり会うことがあるかもしれない。

午後7時前、ホテル着。

午後8時半、いつもより早めの夕食。

午後11時、これもいつもとは早めの就寝。

8月30日(6日目、火曜日)

サンティアゴの朝は小雨。
 

昨夜は就寝時刻も早く久しぶり8時までよく眠った。ところが朝ホテルの部屋でトイレを済ませると扉が開かない。べつに鍵をかけて入ったわけではない。幸い同室の人がいたので声をかけると必死で開けてくれた。もし一人だったらと思うと恐ろしくなる。

午後0時から午後1時半までサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂でミサ。昨日知人とちょっとだけ入った教会だ。早めに教会に入り椅子に座ってミサの始まるまでオルガンの音色を聴きながら待つ。その雰囲気に圧倒され、これまでのさまざまなことが頭を過る。ミサが始まるとそれも頂点に達し涙が止まらなく…。ちなみにサンティアゴとは聖ヤコブのスペイン名とか。その司祭には同行のカトレット神父も加わる。


サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂

この大聖堂のハイライトは何といっても大香炉振り(ボタフメイロ)であり、ミサでこれに遭遇できたことは幸せだった。JTBのパンフレットによると「サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂内において行われる信者や巡礼者の魂を清め、堂内を清浄にする儀式。ロープに吊り下げられた巨大な香炉が振り子のように往来します。」とある。それも佳境に入る頃には香炉の煙で教会内は真っ白に…。

午後2時半、大聖堂近くで昼食。このとき同行者の一人のIさんが誕生日を迎え、皆でケーキや歌などで祝う。

午後4時、昼食を終えた後、少々雨が降っていたが10数人で散策。新市街にある昨日も行ったスーパーに行く。今夜は規定の夕食はなく食事フリー。皆は夕食などを買い込む。ところが知人に聞くと買わないという。ただ水や嗜好品を買うのみ。

午後6時、ホテルに着くが部屋に入れない。知人も私も合鍵は同室のヒトが持って出ていた…。仕方なく私はTさんとIさんの部屋に居候させてもらう。知人はロビーに一人いるという。居候させてもらった部屋で、女性3人で色々と話をする。自然と話題は旅に来たきっかけと知人との関係に…。その話や母の介護の話などし終えるとTさんも息子さんのことを話される。大変な様子が伺える。皆いい人たちだと改めて知る。

午後7時15分、歩いて教会へ行く。サンティアゴではホテルと教会のあるところまで何往復したかわからないほどよく歩いた。おかげで一番その光景をリアルに思い出す。とはいっても地図が読めない女は知人について歩くのみ。このことを実感した旅だった。

午後8時、イエズス会の聖アウグスチン教会でコンサート。この模様は地元紙3社に掲載され、録音もされてCDになるという。この件に関しては地元在住のタケベ先生の応援にあるらしい。現地でその掲載された新聞を見ると写真入りだった。このコンサートはミサ曲だけでなくKさんのギター伴奏つきでウイーンで活動されている若い男性のOさんの独奏も披露された。独奏は「竹田の子守唄」などの日本の歌だった。スペインで聞く日本の歌もなかなかいい感じ。終了後、知人は地元の人から「ハポン?」と聞かれ、日本の広島からと答える。広島は世界に出ると知名度はある。その点はいいことかも…。

演奏会が終わると夕食のことが心配になってくる。何しろ日本から飴一袋しか持ってきていない。ホテルに帰る途中、心配になって同行の人に話すとカップ麺をくれるという。今夜は飴とカップ麺と水で寝ようと覚悟する。それにしても知人はどうするのだろう…と思いながらホテルまでの 道のりを歩く。

その日、宿泊するホテルを利用するには部屋ごとの鍵以外にホテルの出入り口の鍵とホテルの敷地に入る鍵の3つが必要だった。この3つの鍵は全員にいきわたらず、参加した人をグループに分けてそのリーダーが持つことになった。知人は所属する合唱組みのリーダーとなり鍵を持つことになる。午後10時過ぎ、グループがホテルに着くと敷地の鍵を開け、ホテルの玄関の鍵を開けて各自部屋に入る。

それを終えてしばらくして食料を持ってない知人と外に出てレストランを探す。その前に知人はカップ麺を同行の人からもらっていた。私もIさんがカップ麺をくれるというので部屋番号を聞いていた。それなのにIさんのところへは行かず知人と外に出て食事をした。その夜、Iさんはいつ来るかもしれない私を待って部屋の鍵を開けて寝たという。人の好意を無にしてしまった夜だった。ただ謝るしかない!

知人と遅い夕食を食べに街中へ繰り出す。街灯だけの明るさで人気のない道。ホテルから10分ぐらい歩いたところに差し掛かると大通りに出た。感じの良いレストラン“Meson-Parrillada ARGENTINA”が開いていた。そこを今夜の夕食場所と決めパスタ、パン、ビールなど注文して分け合って食べる。美味であった。一番心配していた食事にありつけた夜となった。

午後11時半、ホテル着。部屋で寝ていると演奏会に出た同室の人は打ち上げに出席して上機嫌で帰ってきた。演奏者たちのその様子を同行のTさんのブログから勝手に引用させてもらう。「総勢600人のお客さんが来ていたそうです!暖かいお客様で、最後はスタンディング・オベイション!そりゃあ、色々ミスはありましたが、きっと良い演奏だったと思います!なぜなら、最後のアンコールでS先生が身悶えしてましたからね♪あんな聖堂で歌えるって、素晴らしい!」と述べている。

それにしても宿泊したホテルと聖堂までを何往復したことだろう。本当によく歩いた。途中には毎朝アルコールを飲んでベンチでたむろする浮浪者5,6人の姿も目にした。彼らは会うたびに知人に「ハポン?」と声をかける。知人もスペイン語で彼らに応対する。時に雨が降ると彼らは近くの屋根のある場所に移動していたりして…。

8月31日(7日目、水曜日)

サンティアゴは曇りのち晴れ。

午前7時前、スーツケースを出す。

午前7時、ミサに出席。

午前8時、朝食。

午前8時45分、3泊したサンティアゴを出発。レオンまでの道のり360キロをバスは行く。
旅行の中日にあたるこの日、神父様は終日ご機嫌である。車内で大きな声で歌を歌われたりして…。バスの車内のTVからはバルセロナオリンピックの歌やスペインの歌が…。

午後1時45分、レオン着。大聖堂の付近の建物はどの窓にも綺麗な花が植えられている。大聖堂での休憩時間は先にトイレに行き、その後アイスクリームを食べる。だがその間にシェスタ(お昼寝タイム)になり聖堂の中の綺麗なステンドグラスを見られず残念!シェスタは午後1時半から4時までだった。ほとんどの同行者は見られなかったようだ。

午後2時15分、バスは出発。バスから見る風景は見渡す限り一面平原。

午後3時半、昼食。このときの食事は良く覚えている。一人ひとりの食事の量がとても多かった。例えば生ハムにメロンの前菜では大きなお皿には皿から出そうなハミウリのようなメロンが2切れと生ハムが…。もうこれだけでお腹がいっぱいになりそう!そしてメインは同じく大きな皿一杯に骨付きの牛肉を焼いたものが…。半分も食べられそうにない。それもそのはず。のどの渇きを潤すためまずはビールを飲む。それだけでお腹はいっぱいに…。乾燥したスペインの大地で飲むビールはやはり必需品!?

出される料理は各自同じでなく、違うものをとって分け合って食べることも。それにデザートが加わる。もう見ただけで食べられそうにない。美味しいと思っても一度に食べる量には限界が…。いつもこうして残す。そのたびスペイン人は出されたものを全部食べるのかと思いながら彼らの太る原因を勝手に想像。

午後6時、ロヨラから180キロ離れたブルゴス到着。気温17.2度。寒い。カテドラル大聖堂に着くと半端でない大雨に。すぐに同行者は皆、駆け足で聖堂の中に入る。聖堂は世界遺産に登録されている。

午後7時半、バスで大聖堂出発。

午後11時過ぎ、道に迷いながらもやっとバスは190キロ離れたロヨラに到着。ロヨラのホテルは新しい。

午後11時過ぎから12時まで相変わらず遅い夕食。スペイン滞在中、食事と食事の間隔が長いためいつも空腹感…。食事後シャワーを浴びてすぐに寝る生活は日本では考えられないコト。

バルセロナのホテルとロヨラのホテルのみバスタブがあった。そのスペインのホテルで気づいたことがあった。部屋に換気扇、扇風機、エアコンはない。日本だったらシャワーを浴びると部屋中が湿気で一杯になる。だがスペインの気候、風土なのかそういった類のものは見られない。

9月1日(8日目、木曜日)

昨夜は午前1時半から7時半までぐっすり眠る。ロヨラの朝は曇り空。ロヨラはイグナチオ・ロヨラの生誕地。
 

午前8時、バイキング形式の朝食。美味。

午前9時、ホテル近くにある城と聖堂見学。ロヨラに関わる生活道具、絵画などが展示されている。そこには日本から当時やってきた3人の姿もあった。

ロヨラの聖堂
午前10時、微笑みのキリスト像のある小聖堂で同行のカトレット神父様を司祭にミサ。このミサでは神父の日本語がはっきり聞き取れた。ワインは大地の恵、水・パンは生命の恵であり、モノよりヒトを大事にしなければならない…。食卓にワイン、水、パンが並ぶ理由をやっと知る。

イエズス会はここロヨラの聖イグナチオ教会から世界へと出かけている。イギリス映画「ミッション」はその辺を画いているらしい。見たことはない…。

午前11時、次の目的地まで210キロ離れたザビエルへ向けバスは出発。移動するバスからはこれまでの風景とは違い日本の山を思わせる。

午後0時半、バスはロクローニョの駅でパスポートを紛失したヒトを下車。そこからパスポートの交付を受けるためバルセロナに向け出発するという。不幸中の幸いながら紛失者は以前スペインへ留学経験ある人。そのため、言葉もスペインの状況もよく察知されている。もし何もわからないモノだったら…。

午後2時半、昼食。昼食のメニューを各テーブルで神父様が説明してくださる。そのとき若い音大の女性のWさんは神父様が一番嫌いだと説明した食べ物を注文。神父様はそれを聞いて彼女が一番好きだといって皆を笑わせる。出てきたものはやはり美味しくなかったようだ。その様子を察知したバスの運転手さんも彼女がかわいいといって写真をとる。実際にかわいい女性であった。その食べ物とはArroz Con Lolme(ミルク入り稲米)。

午後3時半、バスが出発するとき車内で若い男子音大生のT君は先ほどパスポート申請でいなくなった人の物まねをはじめる。もう本当に可笑しい!よく似ている。皆バスの中で笑い転げる。そのときだったのかもしれない。こういうことがあった。

若い人たちは偽の入れ歯を歯に刺してドラキュラのような顔をして写真に撮っている。これを見たときも本当に笑った。それまで今頃の若い音大生は「おとなしい!」というイメージを持っていた。それがそれをみて一気にそのイメージは崩れた。やはり若いということはすばらしい!楽しい人たちであった。一人、旅の主を失ったバス一行はザビエルに向かって出発。

午後4時、ロヨラから200キロ離れたザビエル到着。廃墟のようなザビエル城には真っ青な空が…。この光景はシルクロードの建造物を思わせる。こういうひなびた風景こそ旅するモノの心を和らげてくれる。大好きな風景だ!ザビエル城は山口にあるザビエル教会とも姉妹都市として関わりがあるらしい。

午後5時、210キロ離れたフランスのルルドまでバスは出発。出発したバスの車窓からは長くて大きいダムが見える。しばらくバスが行くと長い国境を抜けてフランスに入る。気温23度。ピレネー山脈を越えてバスはくねくねした山道をどんどん進む。知人は「林道」だという。道の両脇は深く険しい岩壁の山々。さすがピレネー山脈だ。さらに進むと放牧された牛がいる。一面トウモロコシ畑。


午後8時過ぎ、バスは迷い道をしながらくねくねと林道を進んでやっとルルド到着。バスから降りるとき少々酔ったような感じがした。ほとんどのヒトがそうだったようだ。ルルドはスペインとフランスの国境になっているピレネー山脈のふもとにある小さな街。聖母マリアの出現と軌跡の水“ルルドの泉”で有名らしくカトリック教会の巡礼地となって世界各国から観光客が訪れる。

午後9時、マリア様のローソク行列にお店で買った紙の灯篭とローソクを手に持って参加。その日は風が強く吹いていた。そのため同行の人3人にローソクを点火してもらうがそのたびもらった人のローソクを消してしまう。この行列にはマリア様を先頭にして長い列ができ、歌声に合わせてローソクを手の上にあげたり下ろしたりして歩く。その光景を写真に撮りたいのだが、撮っていると真っ暗いので知人からはぐれてしまう。はぐれるとホテルに帰る道が全くわからない…。この行事は毎日行われるという。

そこで歌われていた曲は次のような歌詞だった。

AVE MARIA DE LOURDES
LOUANGE A  NOTORE-DAME  DE LOURDES
SA LVE REGINA

小さい紙の灯篭に書いてある文字から以上の3曲だったと知る。曲は何度も聴いていると覚えられそうだった。

ローソク行列

午後10時過ぎ、ローソク行列も終わるともう一つの合唱団の世話人のKさんたち3人とTさん、K さん、知人、私の7人はカフェレストランで夕食。ここのレストランのスパゲティは不味かった。知人や同席の人のピザをもらって食べるとそれは美味だった。多分各国から集まるローソク行列の参加者のためのレストランと思われるので、ファストフード風の店かもしれない。レストランまでの道は人、人、人、人…で街は溢れかえっている。ホテルに帰る途中、皆で買い物。チーズ、チョコレート、水など買う。
午後11時半、ホテル着。

午前1時半、就寝。

知人と同室のYさんはこの日は別居!?途中下車した人の部屋が開いているため別々の部屋になったとか。ホテルの部屋の寝室には2つのシングルベッドが置いてある部屋と二段ベッドが置いてある部屋があった。キッチンもついており家族で泊まるコテージ的感覚。バスルームに換気扇があると思ってつけると温風ヒーターだった。新しいホテルだったが寒さ対策はあっても暑さ対策は必要ない!?

9月2日(9日目、金曜日)
 

午前7時半、朝食。

午前8時半、荷物を出す。

午前10時、ルルドの聖母のマリア様が現れた洞窟の祭壇の前で同行のカトレット神父の司祭によるミサに参列。ヒトは一人ではなく亡くなった人も天国で一緒になると聞く。またサビエルの洞窟から聖母マリアが予言して湧き出た泉は治癒効果があると信じられているとか。その水を求めて春から秋にかけて世界中から多くの巡礼者が訪れるという。
ルルドの水をくむ観光客の列
 

 
 
ミサの後、その水を汲んで日本まで持ち帰る。持ち帰る容器はお店で売っている。購入した容器はマリア様の形をしていた。ペットボトルで持ち帰った人もいる。“奇跡の水”を求める人の中には車椅子の人が多くいた。神父様もこの日歩き疲れて足が痛いためか車椅子を押してもらっていた。

ピレネー山脈を越えて

午後0時、ピレネー山脈を越えて岩肌の見える山々を眺めてバスはルルドから440キロ先のバルセロナへ。バスで移動するときトイレ休憩がある。レストランやパーキングエリアのトイレにはこれまで行ったどこにも便座がない。これにはびっくり!皆どうやってトイレを済ませたのだろう。

午後3時、昼食。昼食といっても予約無しで入ったレストランのためツナサンド等の軽食に。レストランの中は急遽入ったため皆が座れる椅子がない。関西から合流した女性の先生が外のテーブルをゲット。中よりも外の方が気持ちいいので外の椅子に座って缶ビールを飲みながら皆で食べる。

午後8時、バルセロナのホテル着く。ここで紛失したパスポートの交付を受けた人と合流。近くにいた人はバスの中で学生がその人の物まねをしたと報告する。そこでまた笑いが起きる。ホテルは帰国する5日まで3連泊。

午後8時半、夕食。バルセロナはこれまでの他都市と違って日本のように蒸し暑い。この日は昼食も余り食べてないためか早い夕食。換気扇、扇風機、エアコンなどはなく、夕飯は汗をかきながら食べる。

午後11時、就寝。部屋のベッドの配置は二つのベッドが縦に並べてある。背が高い人同士ならば足と足があたるだろう…。

バルセロナについたあたりからひどく咳き込む人が出てくるようになる。同室の人もそうだった。
 

 

9月3日(10日目、土曜日)

バルセロナの朝は晴れ。この日早朝、同行者のうち3人は早めに日本に帰国。日本では台風が近づいていると誰彼となく聞く。 

午前7時前、起床。

午前8時、食事。

午前9時、モンセラット山までバスで移動。モンとは山、セラットは切り取られたという意味。

午前10時、モンセラット山に到着。

午前11時、モンセラット修道院見学。ここにおいてあった日本語のパンフには「拝みましょう 聖母マリアを」と書いてある。さらに「聖母マリアはここから参拝にみえる方すべてを暖かく見守ります。今日モンセラットを巡礼する人への言葉。ようこそ」とも書いてある。この聖堂の中の「上昇とエスコラの扉」の前の横向きになっているエスコラ(少年聖歌隊員)の一少年の像をみて感動。「エスコラの木製の彫刻は、モンセラットの少年聖歌隊の一員となることを望み、一日だけその望みがかなった、病気の子供の肖像です。少年の死後、彼らの両親は、このような形で少年の望みを不死身の形に残しました。」とか。その少年の顔はまるで生きているかのように人を惹きつける。
モンセラット修道院の掲示板


エスコラの木製の彫刻
この修道院は教会付属のモンセラット少年合唱団が7月とクリスマスシーズンを除いて毎日、ミサの後、歌声を披露するという。このベネディクト修道会には80人のベネディクト派修道士がいる。またカタルーニャ地方で最初の印刷所がここモンセラットで創業されたからかどうか、お土産店ではどこの観光地よりも書物が沢山売られていた。

午前11時過ぎ、修道者たちが捧げる総合ミサに参列。ここでのミサはこれまでのミサの聖歌と違い、カタルーニャ語のグレゴリオ聖歌。色々なミサに参列したけどサンティアゴのミサと並んでここモンセラット修道会のミサもひどく感動する。

ミサが終わると皆でケーブルカーに乗ってモンセラット山を目指す。乗っている間、スペイン人の2組の親子のグループと話す。何といっても文化人類学に関心があるので出かけた先の国々の人とは仲良くしたい。そこでの母親との会話は慣れない英語での会話であったが何とか意志が通じた。「何日間のスペイン旅行か」「スペインのどこに行くのか」「どこから日本に帰るのか」などと。本当に楽しい瞬間であった。一緒に写真もとった。やはりそのときの顔は我ながら楽しそうに写っていると実感。

ケーブルカーを降りたところから見下ろすバルセロナ市内は本当に広い。山はモンセラットがのこぎり山といわれるだけあって奇怪な丸みを帯びた岩山の峰が四方を連ねる。ケーブルカーを降りると知人と山の上にある観光ポイントを目指して砂利道を歩く。ケーブルカーまで同行した人の中には砂利道を歩くのにふさわしくない靴の人もいた。大変だろうなと察する。幸いスニーカーをはいていたので砂利道も難なく歩けた。途中行きかう人に日本人はいない。知人はよく外国の人から声をかけられる。すれ違う人の話し声からどこの人…と教えてもらう。

しばらく歩くと観光ポイントに着いた。そこで写真を撮っていると来る途中で知り合った外国人が知人と2人だけの写真を撮ってあげるという。他の人も一緒に写ってしまうとかで写す場所を色々指定されて写真におさまる。そこだけでも数枚写真を撮ってもらっていた。写真を撮ってくれた人と話しているとその人たちはスペイン人であり、日本にも来たことがあるという。そして日本は桜が綺麗だともいう。知人はドイツ語も習っているだけあって外国語に強い。移動のバスの中でもスペイン語をしきりに覚えたりしていた。ここで出会ったスペイン人とも結構話を交わす。旅の楽しさはこの辺りにもある。

砂利道をもと来た道に引き返していると、指揮者のS先生やギタリストのKさんたちがギターを背負ってこちらに歩いてくる光景と出くわす。これから観光ポイントを目指すとか。次第に天気も下り坂になっている。雨の降らないうちに下山されるといいのだが…と思いつつ知人と砂利道を下って歩く。

ケーブルで降りるとモンセラットの土産店に寄る。ここまで余りお土産らしきものを買っていなかった。もうバルセロナの観光しか残っていないと思ってお土産にチョコレートを買う。買い物を済ませると昼食を食べにレストランに入る。そこでは同行者の人も沢山いた。調理したところに並んで好きなものを注文する。日本のファストフード店のようなものばかりが目に付く。トマト味のスパゲッティーを注文。やはり山盛りだ。知人はビールのつまみになるようなものを注文している。知人がビールを注文するとそこで店の人はいなくなってしまった。いくら待っていても店員が帰ってこないので仕方なくビールの代わりにスプライトを注文。スプライトとスパゲッティーの組み合わせはまったく不味い。スパゲッティーも山盛りなので半分くらいだけ食べる。山の上のレストランだ。美味しさを求めるほうが無理というもの!?

この後、マンレサ洞窟訪問。同行の神父様は日本に来られる49年前、ここで8日間、黙想されたという。この洞窟の小聖堂の天上を見ると高山右近大名の絵が描かれていた。

午後5時15分、ホテル着。

午後8時まで自由行動。皆でメトロに乗って街中に繰り出す。指揮者のS先生からメトロの乗り方を習いながらメトロに乗り込む。メトロは大阪の地下鉄に似ている。だがホームをまたぐことができないため上り、下りを確認しないとメトロに乗れなくなる。デパートや大通りなどを散策。同行者でスーツケースが壊れた人、或いはお土産が多すぎて新たにスーツケースを購入する人もいる。ここでもアイスクリームを食べながら歩く。中の一人はアイスクリームの「ナタ」を注文。よくスペインのアイスクリームの名を知っているなあと思っているとその人は「ナタ」はどういう意味かS先生に尋ねる。先生曰く、ナタデココのナタとか。聞いた人もそれを知って少々びっくり。その人はアイスクリームが美味しいといって食べ終わるとさらにもう一つ違うものを注文。

アイスクリームは本当に良く食べた。日本ではほとんど食べないといっていいほど冷たいものを口にしない。まあビールは例外だけど…。ところがスペインは乾燥しているためかやたらとアイスクリームが食べたくなる。アイスクリーム・ツアー…と笑ったりするほど良く食べた。

午後8時半、ホテルのレストランで夕食。もうこのときは部屋が暑くて…。扇風機、エアコン、換気扇類は全くなし。顔を扇子で扇ぎながら食事をする。隣席の人も顔をハンカチでぬぐって…。2人して暑い、暑いと…。それに加えてワインを飲む。余計体も顔ももう火が出るほど暑い!日本でエアコン無しで食べるようなもの。あの暑さはスペインの思い出?…。

いつになく早い夕飯を終えると部屋に戻り、相部屋の人とこの旅ではじめてゆっくり話す。旅に誘ってくれた知人のことを聞かれる。知人の職業は?既婚者か?など。いくら聞かれても他人のコト。いえる立場にない。すべて「本人に聞いてください!」といって押し通す。既婚云々について私は既婚者ならば誘われても行かない…と話す。

知人は別の機会に他の同行者から「仕事は?」と聞かれたときスペインでよく見かける「芝刈りです!」と笑って答える。それを聞いて私は「農夫よね」といい、さらに「漁夫もね」という。太田川(広島市内で一番大きい)で鮎をとっていると冗談を交わして…。

相部屋のヒトは話しながらもスペインで風邪を引いて喉が痛いといって薬を飲む。話しているうち時刻はもう午前1時に…。就寝。

9月4日(11日目、日曜日)

バルセロナの朝は今日も蒸し暑い!

午前7時、起床。
午前9時15分、ホテル出発。バスから見える車窓には虹が出ていた。バルセロナ市内にある世界遺産に登録されている音楽堂訪問。そのホールは2146名収容可能。1905年から3年間で建設され、30年前は雨漏りのため使用できなかったという。この音楽堂の運営母体は合唱団。音楽堂について説明を聞いた後、ホールでパイプオルガンを聴く。
バルセロナの音楽堂外観


バルセロナ市内


午後2時、サクラダ・ファミリア横のレストランで昼食。ほとんど皆昼食を終えた頃、バルセロナのガイドのサントさんが「外尾さんだ!」というのを聞く。もうそれを聞いてびっくり!奥に入られるから待つようにという知人の制止を振り切って足はもう前に…。外尾氏のところに行って写真を撮ってもらう。その後も誰彼となく写真を撮ってもらっていた。

サクラダ・ファミリア訪問。入るだけでそこは人、人、人。外観の説明を神父様より聞く。もう見上げるようにして話を聞く。中に入るとこれまたとても広い。指揮者のS 先生は若い頃スペインに留学され、その卒業演奏会を地下のホールで演奏させてもらったことがあると話される。先生にとっては本当にすばらしい思い出だろう。
サクラダファミリア


サクラダファミリア内部の天井


サクラダ・ファミリアをエレベーターで上がっている間に、エレベーターで上らない他のグループの人は外尾氏から一般には入ることのできない礼拝堂や地下のガウディの墓など特別に案内してもらったという。部屋に帰って相部屋の人からそう聞いたときはとてもショックだった。相部屋の人からそのとき外尾氏から聞いた言葉を教えてもらう。「芸術とは作る側だけでなく見る側があって始めて成り立つものだ」と。どうも聞くところによるとサクラダ・ファミリアの誕生の門の未完成部分についての話らしい。
サクラダ・ファミリアをエレベータで上がってから眺める下界


エレベーターで上がって降りてきた受難の門のところで栃木県から来たという若い小野田さんと根岸さんの男女に会う。「新婚旅行?」と知人が聞くとそうではないという。13日間の旅行とか。その日数は私たちと同じだが…。

午後5時半、希望者のみグエル公園見学。サクラダ・ファミリアを後にしてグエル公園に行く。途中のバスの中で知人に「完成後のサクラダ・ファミリアを見ることができるかね」と話すと「見に来られる!」という。完成後のサクラダ・ファミリアを見たいものだ。

グエル公園に一度行ったことのある知人はこの公園は行くようにとすすめてくれる。グエル公園の丘に上がって皆で写真に写っているとき、ガイドのサントさんは偶然幼馴染の女性と30年ぶりの再会。
 

バルセロナには4大世界遺産があるという。音楽堂、病院、サクラダ・ファミリア、グエル公園。病院だけは休みのため中に入れなかった。

グエル公園から見るスペインの青い空 

グエル公園見学後、自由行動となる。グエル公園を見学した一行はバスでカタルーニャ広場まで行く。そこでバスを降りたKさん、Tさん、知人と私の4人はカタルーニャ広場からバルセロナの目抜き通りを歩いて港にあるコロンブスの塔まで歩く。目抜き通りを歩く途中、両側にある土産物店やマドリッドのグランヴィアで見たような路上パフォーマンスなどを見物。1時間弱くらい?歩くと、コロンブスの塔に着いた。コロンブスの塔の内部にはエレベーターがあり、上にある展望室からはバルセロナ市内と港を一望できた。

ここのエレベーターガールはとても若くて愛嬌があった。エレベーターの勤務を終えるとそこにある売店の売り場にいる。そこでも愛嬌たっぷりなしぐさでまるで私たちとの別れを惜しむかのようにおどけて振舞う。

コロンブスの塔を見物後はまた来た道を歩いて帰る。来たときと同じように両側のみやげ物店を物色し、途中レストランで4人は夕食。この夕食は大きな器に入ったバルセロナの名物らしきものと単品をとって4人で分け合って食べた。飲み物はビールなど飲んだがそのグラスはとても大きい。

まだ午後11時になっていなかったと思う。4人でメトロに乗って帰った。ホテルに近い駅で降りると他の同行者も同じメトロだった。ホテルに入ろうとする頃、S先生に出会う。今から夕飯に行くとのコト。相変わらずスペイン時間に合わせた遅い夕食のように思えた。明日はいよいよスペインともお別れ。宿に入ると荷物の整理をする。

9月5日(12日目、月曜日)

今日でバルセロナともお別れ。

午前7時、荷物を出す。外はまだ暗い。お天気はあまりよくない。

午前8時半、ホテル出発。朝食は昨夜夕飯で残ったパンを非常食に持ち歩く。朝ホテルを出るときそれを少しかじる。飲み物は水だけ。何かお腹が物足りない。バルセロナ空港ではしきりに小雨が降り続く。

午前10時、スペインのバルセロナ空港よりヘルシンキへ。バルセロナからヘルシンキまでの機内でやっと機内食のパンを半分食べる。やっと空腹が収まる。よく考えてみると昨夜から12時間も経ってやっと食に有りつけた勘定だ。余り食べないので旅行中は体の調子はすこぶる良好。この機内で神父様の秘書的係りのEさんと隣席となる。Eさんは昨年から放送大学で学ばれているという。その費用を聞くと1年で20万くらいとか。結構放送大学も費用が掛かることを知る。そのEさんは放送大学でスペイン語を学んだと聞く。その話に刺激され私もスペイン語を習おうと機内で決心。それは2年半前に修了した大学で…。

その機内ではYさん姉妹の妹さんから心温まるメモを渡される。その返事を書いているとき、その優しさに感動し涙が…。

午後5時20分、ヘルシンキから関西空港へ。ヘルシンキの空港でフィンランドがムーミンの国と知り、それに関係あるお土産を買う。旅の最後の機内は若いT君の隣に。彼は機内食もほとんど手をつけずに寝ている。そして長い飛行時間、彼がいつトイレに行ったのか知らない。私も彼同様その機内でぐっすりと寝ていたのだろうか、わからない。それにしても行きも帰りもフィンランド航空の機内は寒かった!寒すぎて寝られなかったようにも思うけど…。

9月6日(13日目、火曜日)

午前8時55分、無事関西空港到着。見るからに日本は暑そう!
荷物を受け取り「はるか」に乗る前、広島まで帰る人たちは「うどん」を食べる。いくらスペインの食事が美味しいといってもそこはやはり日本人!旅に出るといつも日本に着いたならうどんを…と思う。知人とうどんを食べながら朝からビールを飲んでいると、後からやってきた知人と同室だったYさんは笑って同じくビールを注文。家に帰るまでが「旅」と思えば、これもまた楽しい!

本当にいい旅だった!始めにもらった旅のしおりに書いてあるほとんどの人たちと打ち解けて旅をした。旅が非日常を求めるならその目的は達成された。日本では考えられないような毎日だった。本当に楽しい旅を企画してくださった神父様やS先生、同行の皆さま、そして楽しい旅に誘ってくれた知人に心から「ありがとうございました!」。そして¡Hasta la vista!(また会いましょう、さようなら)

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