2020年2月29日土曜日

『迷いながら生きていく』

 新型肺炎騒動で広島市の公の施設は当分の間、閉鎖される。昨日、図書館のHPを見ると画面がピンクだ。なんと図書館は閉鎖とまではならなくても、ほぼ閉鎖状態となる、注意喚起のピンクだった。予約の本の貸し借りはされても、閲覧はダメとある。図書館の本は家で借りて読んでいる。今、読んでいる『空海の風景 上』ももうすぐ読み終える。読む本がないと活字に飢えそうだ。

 予約すれば本が借りられる。すぐにネットで2冊予約した。予約は以前から20冊している。追加で2冊予約するが、それにはこれまでの予約2冊を取り消さねばならない。仕方なく2冊取り消して新たに貸し出し中でない司馬作品を予約する。

 小・中・高校が休みになれば図書館に人が集まるかもしれない。それを見越してか図書館も美術館も……とあらゆる公共施設が使えない。家でじっとせよ、と言われても、これも困ったことだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は先日読んだ『迷いながら生きていく』(五木寛之 PHP研究所、2019年)から。

 このなかの次の文(☆)に、なるほど、と思ってしまった。50代半ばで仕事をリタイアし、70代に差し掛かった。この時期が人生の収穫期!?言われてみればそうかもしれない。収穫期かどうかは怪しいが、自分としても会社リタイア後から今の時期が一番充実している。といいながら、その前半は充実感を通り越して忙しく過ごし、その後半から今まではやりたいことができる状況にある。だから、そういえるのかもしれない。どういっても健康であり、自由があり、経済的にも何とか年金で生活できることはありがたい。このうちのどれか1つでも欠けると充実感はあり得ないかもしれない。

☆五十代後半から七十代後半と考えていいでしょう。私はこの「白秋期」こそ、人生の収穫期(ハーベストタイム」、最大の黄金時代だと考えています」

★中国には、人の一生を自然の移り変わりになぞらえ、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」と、季節で区分する考え方があります。……そして「白秋」はシフトダウンし、社会における役割や生々しい生存競争の世界から一歩引いて、澄み切った秋空のように、静かで自由な境地に暮らす季節です。人生百年にあてはめると、五十代後半から七十代後半と考えていいでしょう。私はこの「白秋期」こそ、人生の収穫期(ハーベストタイム」、最大の黄金時代だと考えています。18-19p

★「運命」は、他者への共感や切ることのできないつながりを与えてくれる。そして「宿命」は、「ひとり生きる」ことの意味を与えてくれるのです。73p

★そもそも、人はみな「孤独」です。ひとりで生まれてきて、ひとりで死んでいく存在です。それなのに、孤独であることを否定してしまうというのは、自らの首を絞めることになるだけではないかと思うのです。96p

★私が言いたかった「孤独のすすめ」とは、ひとりぽつねんと自己を見つめていることではありません。他者の中に在りながらも、自分を見出すということ。「和して同ぜず」という言葉のとおり、みんなと調和しつつ、個を失わないということだったのです。99p

★近現代史を知れば知るほど、日本や日本人というのはどうなんだと絶望してしまうようなことも多いのです。満州事変以降の戦争の歴史を見ても、呆れてしまうようなことは山のようにあります。私自身、唾棄するような場面を見てきただけに、近代史を知るにつれ、日本人としての自信を失いかけるのです。しかし、目を覆いたくなるような事実を知ると同時に、もう一つの知識として、ある無名の日本人が成し遂げた善行を知る、あるいは、自分自身が体験した人間への信頼感を思い出すことで、態勢を立て直して生き抜くことができるように思います。……「歴史を知る」――多くの人の生き様や様々な考えや場面を知ると、自分の中に幾重にも層が形成されていくのかもしれません。すると、自分でもよくわからないようなタイミングで、その層の中にある思いもよらないものが、特効薬になってくれることがあるのではないかと思います。193-194p

2020年2月28日金曜日

「生きているということは”動いている”ことである」

 新型肺炎騒動はついに小・中・高校が前倒しの春休みに突入するようだ。昨夕、広響からのメールによると近いうち開催予定のタウンオーケストラ2件は中止、とある。また来月初旬に開催予定の定演はただいま考慮中らしい。定演の会員になっている。これはその都度チケットを購入するのでなく年間パス。チケット購入者もいるかもしれない。多分、定演は延期になるだろう。

 世の中がウイルス騒動の渦に巻き込まれている。かなり気持ちをしっかり持たないと病気でないものまでが病気になりそうだ。こういうご時世、おのずと動きが鈍る。今日予定されていた講演会も中止になった。プールに行く予定が行かずに終わった。気持ちが乗らないとケガの元になる。

 動きが鈍ると体に悪い。「人間も、生きているのは、動いているからである。動くことをやめれば、活力を失う道理である」(055p)。これは今読んでいる外山滋比古の『やわらかく、考える』(PHP研究所、2019年)から。外山はいう。「生きているということは”動いている”ことである」と。

 それでなくても寒い季節は動きが鈍る。今年は雪を全く見ない。そのためかダウンジャケットも薄手のジャケットしか着ていない。家の付近をチョロチョロするときはダウンも着ずに、パーカーを着て自転車に乗る。かなり身軽な格好の割には動きが鈍い。とはいっても毎日自転車で近場をうろつく。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年2月27日木曜日

電話に振り回されて

 明日予定していた講演会。今朝、主催者側から電話が入る。ナンバーディスプレイ対応の電話も、あまり関係ない番号は登録していない。かかってくる電話は怪しい電話が多い。つい疑って電話に出ないことがある。今朝も電話が鳴るとすぐに留守電にする。録音が始まった。明日の予定の場所だ。コロナウイルスのこのご時世。講演会は中止する、との報告だった。出席者に一人ずつ連絡するのも大変なのに、ご丁寧に話される。またいつか開催されるようだが……。

 昨日、申し込んんだ別の講演会。これも参加すべきではない、と思って電話でキャンセルした。ところが、電話に出た人は年取った男性のスタッフなのか、要領を得ない。ましてやこの会社は旅行社。昨日の申し込みでも動作がとろかった。今朝はさらにとろい。多分、現役を退いた再雇用で働く人だろう。なんと「確認しますから」、と電話で話す間にパソコンを立ち上げている。これでよくも会社が成り立つと勘ぐってしまった。これもすべてバックの企業が大きいから成り立つのだろう。せめて電話の窓口は、はつらつとした人がふさわしい、というか客に対しても感じがいいと思うけど、どうなんだろう。

 電話と言えば昨夕は大慌てした。夕方、用があり1時間ほど出かけていた。その間、携帯に電話がかかっていた。姉からの電話だ。何事?と思ってすぐに電話をかけなおす。だが、電話が通じない。姉夫婦はつがいだから旦那の方にもかけてみる。だが通じない。家にもかける。どこも通じない。だんだんと不安が募る。おかしい。何度も携帯にかけなおす。夕飯を食べても気になっておいしくない。

 しばらくすると家の電話が鳴る。姉からだ。こちらの心配をよそに、ケロッとしている。知り合いの不幸があり、夫婦ともども携帯を持たずに家を飛び出したという。家を出る前に聞きたいことがあったそうだ。なんとも人騒がせなことか。

 今朝は太陽が燦燦と輝いて気持ちがいい。いろんなことが落ち着いた。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年2月26日水曜日

コロナウイルス騒動

 新型肺炎騒動は収まるどころかあちこちで陽性反応が出ている。一昨日届いた旅のパンフ。見ていてどうしても行きたくなる。先日、ほかの旅行社の3月下旬の旅をキャンセルしたばかり。それなのに4月の桜の旅を申し込む。そのころにはコロナ騒動も収まるといいけど……。昨日はほかにも3月の講演会を申し込む。

 いろいろと予定を立てると気分も落ち着く。ところがお昼過ぎ、某会の会長から総会延期の電話が入る。これもウイルス騒動の影響によるらしい。ネットでウイルス騒動を見ているとスポーツジムで感染云々の記事がある。ということはプールも要注意なのだろうか。先日やっとプールのメンテが終わっている。今日は定休日で明日は泳ぎに行こうと思っているのだが……。

 4月のコンサートのチケットを予約するつもりでいた。だが、まだ予約していない。何もかも行動を制限すると気持ちの方が病気になりそうだ。そんな中、夜には週末にフグを食べに行く電話が入る。美味しいものを食べてウイルスを寄せ付けない!?これはいい! 

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年2月25日火曜日

「一つの生命(いのち)を救う者が世界を救える」 

 「一つの生命(いのち)を救う者が世界を救える」 。これは昨日のNHK・BSシネマの「シンドラーのリスト」を見て一番感動した言葉である。ユダヤ教の教えらしい。番組HPには次のようにある。「第2次大戦下、ドイツ占領下のポーランド。ドイツ人の実業家オスカー・シンドラーは、迫害されるユダヤ人を労働者として雇い事業を成功させる。しかし、ユダヤ人が居住地から収容所に送られ、次々に殺されていくのを目の当たりにしたシンドラーは、全財産を投じて彼らの命を救おうとするが…。実話をもとに、スティーブン・スピルバーグ監督が迫力のモノクロ映像で描き、アカデミー作品賞・監督賞など7部門を受賞した感動の名作」。

 「シンドラーのリスト」は3時間20分もある長い映画。ユダヤ人大量虐殺の映画で、目を覆いたくなる場面もある。モノクロ映画なのになぜか赤い服を着た少女だけはカラーだ。この少女に意味があるのだろう。最後にこの赤い服の少女も亡くなる。

 終わりのシーンで交わされる会話。「人を殺す正当な理由がある時に殺さないことだ」。シンドラーは1100人の命を救った。そのシンドラーも戦後は結婚も事業も失敗した。1958年、エレサレムに招かれて「正義の人」に選ばれた。そしてユダヤ人虐殺記念館(ホロコースト)の「正義の通り」前に植樹した。なんと600万人のユダヤ人が殺されている。

 3年前に出かけたポーランド。アウシュビッツ収容所で目にしたのは大勢の人が命を落とした殺戮現場。この現場を見ているので映画を見るとさらにその場面がリアルになる

 ユダヤの民はなぜ、これほどひどい目に合わなければならないのか。これを知るにはキリスト教やユダヤ教が分からなくては到底わかりえない。それには人類誕生から学ばなくてはいけないのかもしれない。むつかしい問題だ。神の子、とあがめられたユダヤの民。人が嫌う仕事につかされ、今では世界各地の大金持ちはユダヤの人たちだ。

 映画の中で流れる曲はあまりにも切なすぎる。それでもネットで楽譜はないか、探すとあった。だが、著作権侵害を防ぐために小さい楽譜だ。これを五線譜に書き込んでいる。曲のイメージはつかめたがフルートで吹くと近所の人になんとも不幸な曲と思われそうだ。とりあえず五線譜に写そう。


  ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年2月24日月曜日

『翔ぶが如く』(八)

 最近読み始めた司馬作品は『空海の風景』。これは上下2巻ある。1巻が400頁近くある長編だ。いくら長くてもまだまだ司馬作品に飽きない。むしろますますハマっていく。コロナウイルス騒動で家にいることが多い。これ幸い、と本を読んで過ごすのも楽しい!?

 以下はだいぶ前に読んだ『翔ぶが如く』(八)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年新装版第13刷)から。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★勝は政権が徳川家から京都に移るときに、江戸開城をヤマ場として西郷と二人で歴史的大事業を遂げたが、薩長藩閥政府が自分のその大功をわすれがちなのを不快とし、自分の相手役の西郷という存在とその本質を世間に知らしめることによって、世間の自分に対する認識を深めさせようとする癖があった。30p

★先頭の一騎は、西郷隆盛である。
西郷の馬上姿というのはとんど珍奇に属するであろう。桐野でさえ西郷が馬に騎った姿に記憶はなかった。西郷は鳥羽伏見の戦でも終始徒歩で指揮をした。明治初年、陸軍大将として演習を総監し、天皇に従って閲兵したときも、騎馬の天皇の背後から陸軍大将の正装のまま徒歩で従った。
 かれの馬嫌いはその巨大な体躯が、当時、馬格の小さかった日本馬に騎るのに適さなかったということもあるし、いまひとつは、幕末の大島流謫中に、風土病をわずらったため、鞍にまたがることが苦痛だったということもある。75p

★薩摩軍の強さについては戦国以来、江戸の太平の時季を通じ、諸国で神秘的なほどに信じられていたし、戊辰戦争はそれをみごとに実証した。百姓兵が守る熊本城などは、まさに青竹(いらさぼう)一つでたたき割るということは、桐野にいわれずとも、誰もがその程度におもっていた。93p

★官というのはすなわち盗賊であるということが、この当時天下一般の士族や農民の心象に、濃淡の差こそあれ、ひろがりつつあった印象であった。……明治九年に薩摩でつくられて四方に流行したという数え唄の「ぬ」のくだりに、「盗みは官員、咎は民」という文句があるが、これなども、世間一般の新政府に対する悪感情をよくあらわしているといっていいであろう。157p

★薩人というのは夜郎自大で他県人に対して恐ろしく冷淡であり、ときに冷酷で、自分たちの薩摩集団の利益のためには平然と他県人をあざむいたり討ったりする、ということは、幕末の諸藩での定評であった。その集団的な個性によってもっとも手ひどい目に遭ったのは幕末の会津と長州で、高杉晋作なぞは死ぬまで薩人を許さなかったし、木戸孝允はいまなおそういう薩摩観を捨てていない。158p

★西郷軍の本質が封建制の復活にあるのか、それとも士族と農民だけで社会を構成しようとする素朴な理想主義をもっているのか、かれら自身にも説明のつかないことであったが、ともかくも熊本郊外の農民が薩兵に握り飯をとどけようとしたことは、この当時の事相の一面をよくあらわしている。
 しかし、乃木とその部下の政府軍にとっては、この場合、政府の是非論などでどうでもよく、ともかくも農民だけを追っぱらい、握り飯をいそぎくばって、当座の腹の虫を養った。195p

★吉松秀」枝は自分を語らぬ男であるために同郷人のあいだでさえ無名にちかい存在だったが、かれは土佐藩の維新史にとって重要な転轍機の役割をなしたことがある。
 鳥羽伏見の戦いが勃発した時期でも、かれの土佐藩は、上層部が佐幕主義だった。……しかし伏見に土佐藩の通常警戒部隊(四個小隊)がいて、この四人の小隊長が、藩の方針を無視し、独断で薩長側についたのである。……その四人の小隊長の中に、当時速之助といった吉松がいた。この一挙が、結局は戊辰戦争で土佐藩を薩長側にひきこむことになった。225p-226p

★西郷は島津斉彬のもっとも強い影響をうけていながら、産業革命についての理解は斉彬の足元にもおよばなかった。このため、かれは私学校という一面では軍事教育機関である学校において砲兵教育を軽視した。桐野や篠原も同様であった。
「熊本の城は、この青竹(いらさぼう)一本で」
土くれを打つようにしてたたき割る、というふうにしか攻城法を考えていなかった桐野は陸軍少将でありながら、攻城は砲兵力による以外にないという初歩的な知識さえもっていなかったことになる。249-250p

★桐野・篠原らは西郷という世間的価値に、世間以上にまず自分たちが眩んでしまったということであろう。このため常識的な意味での政略も戦略も考えなかった。そのため、政略も戦略も、眼前の戦術的存在にすぎない熊本城にとらわれてしまったとき、霧のように消えた。戦いは、政治性も戦略性もうしなって、瑣末な戦闘にすぎなくなった。
 かれらは、自分たちの戦場が日本全土であることを忘れ、ごく小さく、熊本城とそそこにコンパスの針を置いて、せいぜい一日半の行程の範囲内だけを地理的な思考圏にするにとどまるようになった。260-261p

★この時期、「旅団」というのは、西南戦争によってつくられた新語であった。旅という文字は本来、移動中の軍隊をさす。所定の地域に駐屯している単位を鎮台といい、それが戦闘編成で動くのを旅団とよぶ、といった程度の感覚でこの言葉はつくられたのであろう。くどくいえば鎮台が銃に弾をこめて歩きだすと、旅団になるのである。287p

★この時期の陸軍卿山県有朋は、一個の独裁者に似ていた。かれが独裁者たらしめている政治的条件は、長州人であることのほかは希薄なのだが、しかしその信念である徴兵制をかれが立案し、実施し、このために鎮台の実情をかれ以上にしっている者はなく、またほかの者は山県ほどの実務の才をもっていなかったため、自然、山県一人が動員から作戦、補給、さらには東京への政治的措置に至るまで、何もかもやってのけるということになった。後年、かれが陸軍と官僚界に法王的な地歩を占めるに至る基礎は、このときにできあがった。288p

★薩軍は、補給を考えなかった。本来なら熊本から銃弾や兵糧を補給しつづけているのが当然であるのにそれをしなかった。薩軍の思考法は室町期に薩摩坊ノ津が倭寇の一基地であったことと多少は関係があるのか、倭寇に似ていた。かれらは裸一貫で敵中にとびこんで斬りまくり、大いに敵を震え上がらせみずらも一種の勝利感を得つつ、あとはくたびれればひきあげるというものだった。日本の戦史からいっても、これほど戦争――戦闘には熱心でも――を理解しなかった集団は、まれであるといえるかもしれない。
 篠原はその代表的な男だった。307p

★薩軍は天下無敵であるという神話は、士卒たちの誰もが信じていたし、それが薩軍の強さの一要素にまでなっていた。桐野もその例外ではなかった。それどころか、かれは将領でありながらその神話のもっとも熱心な信者だったし、単に信仰だけでなく、それが事実であることをかれは幕末においても戊辰戦争ににおいても体験してきたのである。314p

2020年2月23日日曜日

ネコヤナギのスケッチ

 子供のころ、川の傍に繁っていたネコヤナギ。家の建て替えや川をアスファルトで覆ってしまいネコヤナギはなくなってしまった。昨日、日本画教室にネコヤナギ登場。ネコヤナギは先日の区の催しに先生が持参されて絵のモチーフになっていた。教室の人はネコヤナギをスケッチする。先生は私もスケッチを……、と思われたようだが、それはほったらかしてモミジを木製パネルに転写する。モミジ1つずつの転写は時間がかかる。3時間の教室で2時間ほど転写にかかる。あと1時間残っている。じゃ、どうする?となったとき先生からネコヤナギのスケッチをすすめられる。

 家に持って帰っても絶対と言っていいほど絵を描かない。これは褒められたことではない。まだ1時間もある。スケッチしよう、とスケッチ帳を取り出す。花瓶に生けたネコヤナギ。この頃は写真を見てのスケッチが多い。久しぶりに実物を見てスケッチする。さてさて、とスケッチに取り掛かると先生曰く「1本ずつをスケッチする!」。花瓶に活けたネコヤナギを全部スケッチしようとするのは大間違い。久々に絵を習い始めたころを思い出す。とりあえず、ネコヤナギ1本をスケッチした。

 ネコヤナギを描いていると先生は花の描き方を教えてくださる。習った通りに描くとさらにネコヤナギらしくなる。これに葉がつくと色どりもよくなるだろう。今はまだ小さい芽を出している状態だ。葉がつくにはまだ時間がかかるだろう。

 ネコヤナギ数本をもらって家に持ち帰る。今日から花瓶のネコヤナギがどう変化していくか楽しみ。根が生えるといいけど……。

 季節は春。この春はとんでもないものが流行して穏やかな気持ちになれそうにない。せめてネコヤナギを愛でて春を感じる!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年2月22日土曜日

第397回広響定演を聞く

 昨夜は第397回広響定演を聞きに行く。出かける前、パソコンのメールを見ると広響からだ。新型肺炎が流行っている。定期演奏会の会場では係はマスクを着け、ドアも消毒液を配置し……とある。昨日はバスツアーをキャンセルした。コロナウイルス対策で何もかも中止にすると何が楽しいのかわからなくなる。今はじっと騒動が収まるのを待つしかないのだろうか。

 演奏会場に着くと席は15列目の右端。最近はこの席がレギュラー席になりつつある。開演まで席でじっとしていると前席の夫婦がせき込み始める。こりゃ駄目じゃ、と後部の席をきょろきょろ見渡す。後ろの席は空席だ。無理してせき込む人の後ろにいることもないと思って勝手に席を移動する。おかげで安心して聞けた。本来ならばこれはルール違反。しかし、これも自分を守るためには……と勝手な判断で席を変わる。

 新聞を見るといい演奏会の割には入場者が少ない。これもウイルス騒動によるのかもしれない。演奏曲目は以下のとおり。

★チャイコフスキー 交響曲第一番ト短調「冬の日の幻想」

★伊福部昭 ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲
 ピアノに小山実雅恵を迎える。

 2曲とも聞きごたえ充分の曲だった。帰りのバスに乗ると隣に座った人は演奏が楽しかったようで引き続き会員になってよかった、と嬉しそうに話される。まだまだ話したりないらしく途中のバス停で降りるとき、自分の座席を言っていた。

 プログラムを見ると4月にある廿日市市の定演では徳永二男が指揮兼ヴァイオリン演奏、とある。徳永の演奏は以前、出かけている。だが、その時は指揮だけで演奏が聞けなかった。今回は演奏が聞ける。広響会員は他の広響定演会場でも1割引きとある。週が明けると早速チケットを申し込もう。

 例年ならば春から夏になる時期は旅行が待っている。しかし、今年は「旅行」はご法度のキーワードになりそうだ。それならば、と方針を変更して音楽三昧!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年2月21日金曜日

ミャンマーの旅の反省会

 今朝見たYAHOOニュースによるとバスツアーに参加して新型肺炎感染とある。先ほど3月下旬に3日間予定していたバスツアーをキャンセル。連日のコロナウイルスの報道で旅の参加有無の様子を見ていた。気にしながら無理してツアーに参加することもないと潔くあきらめた。その裏には昨日見た地元の文化センターで開催の陸上自衛隊音楽隊のコンサートがある。これに惹かれたのかもしれない。

 昨夜はミャンマーの旅の参加者による交流会。まずは旅行費用の精算があり、計5万円も返金された。これはいいお小遣いになる。うち2万円余りは個人部屋でなく相部屋になったための返金で、そのほかは個人的に別途、広島🚄博多往復を「おとなび」を利用したためと旅行社からの返金だった。

 交流会は旅に参加した人と会長が参加された。次の旅はぜひ会長の参加を、とお願いする。ただ、今の肺炎騒動の状態では海外は行かれそうにない。国内の参加も今はじっと様子を見るしかない。旅の参加者のうち4人は来月初めに近場の温泉行きを予定している。声をかけてくださった人はこの状況でOK?、と念を押される。楽しみにしているので大丈夫と返答した。ましてや近場であっても出かけたことがない温泉。これは楽しみ。

 旅の写真をたくさんいただく。いつも写真を撮ってくれる人には前もって写真はいらない、と可愛げないことを言った。それでなくても写真がたまる。ましてや、今はこれまで生きてきた写真を整理中。ただ、今回もらってうれしかった写真がある。それはヤンゴンのパゴダで、生まれた曜日の祠にお参りしている写真。土曜日生まれでその守護動物は竜。これは自分で写せないので写真をもらってうれしかった。また、別の仏塔で鐘をついている写真。これも記念になる。

 旅の間、知っているようで知らないほかの参加者の面白い話を聞いた。これは是非とも旅の記録に追加しよう。旅の宿題は終わりそうにない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

  ブログ投降後に気づく。ヤンゴン最大の仏塔(パゴダ)で購入したカレンダー。昨夜、やっと手元に戻る。このカレンダー、なんと畳3分の1の大きさがあり、日本で見られる大きなカレンダーよりも2倍の大きさがある。手にもって移動しているとスーツケースに入れてくれるという。新幹線で広島についた時点で受け取る予定が、同じ列車でないため受け取らずに帰った。昨夜は大きなカレンダーを持ってきてくださった。感謝!

2020年2月20日木曜日

眼圧と深呼吸

 先日の一般検診で血圧と深呼吸は関係があるとわかった。それならば眼圧と深呼吸も関係性があるのでは?と思ってネットで調べる。調べる前に定期的に出かけている眼科に行った。頭の隅に、深呼吸と眼圧は関係ある、と勝手に決めつける。眼圧の測定前は血圧と違って深呼吸云々は言われない。深呼吸して測ると16と14だった。もともと眼圧は正常値の範囲内にある。

 さて、と思ってネットで調べる。血圧も眼圧も大いに深呼吸と関係があった。眼圧と深呼吸との関係は「交感神経が興奮すると、眼圧が上がります。そこで今日は、深呼吸することで、神経を鎮めて、眼圧を下げましょう」とある。やはり深呼吸と眼圧は関係があった。深呼吸のやり方は以下のようだ。http://cjnext.com/322(参照)

1 鼻からゆっくり息を吸い、お腹をふくらませます。この時、新しい血液が目に運ばれることをイメージするとさらに効果的です。
2  口から細く長く息を吐きます。
3  繰り返します。

 ほかにも深呼吸の効果を述べている。

・自律神経のバランスを整える
・ホルモン分泌の正常化を図る
・血液を通じて全身に酸素を補給する
・自然治癒力を高める

 深呼吸はいいこと尽くめのようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年2月19日水曜日

『歴史を紀行する』

 昨日は母の祥月命日。お花をもって墓参りをする。墓地の入口のお墓に見知らぬ人が参っている。誰?と思って声をかけると1年前に50歳の若さで交通事故で亡くなった人の奥さんだった。墓の主はよく知っている。だが、その縁者は知らない。感じがいい人なのでしばし立ち話。それにしても50歳で亡くなるとはあまりにも若すぎる。荒れ模様だった一昨日の風を心配して昨日、墓参りに来たという。平凡に生きている。いろんな人生を垣間見たお墓参りとなった。

 司馬遼太郎への熱はまだまだ冷めそうにない。生きているうちに司馬遼太郎の全作品を読み終える気持ちに変わりはない。読んだリストをワードに作成。全作品読破となるとかなり長生きしないと読み終えれない。我ながらこの歳になってよくもハマったことよ、とあきれる始末。それくらいハマってしまった。読む本があるのはいい。ましてや目が悪くても本が読めるのがさらにいい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『歴史を紀行する』(司馬遼太郎 文春文庫、1998年第41刷)から。

★たとえば土佐人の無神論的あっけらかん性である。この土地の一種の奇蹟は、日本最大の宗旨である本願寺宗をほとんど歴史的にも現在も受け付けていないことであり、自然、日本人が共有している後生欣求的な湿潤な瞑想の感情をもっておらず、江戸時代からそれが珍奇とされた。
 珍奇とされた事象としてよくいわれるのは、老人になっても男女とも寺詣りをせずポリネシア人のごとく、狩猟や魚釣りという後生にもっとも障りのある殺生を老人どもが好むことであり、他国人がそれを指摘すると、「この世を楽しめばよい」と、どういう土佐の老人もいう。どういう悲惨なはなしでも、土佐人はそれを因果応報の暗い宗教的教訓に仕立てることはせず、からりとした俗謡にうたいあげて明色かしてしまう。
 その楽土礼讃性、非瞑想性、余韻嫋々の哀切感について音痴性といったものは、仏教渡来以前の上代日本人を思わせるものがあるものがあり、それは冒頭に触れた土佐人の固有日本人性ということにつながってゆくような気がする。26p

★会津を含めた奥羽のひとびとは、こと文学に志すとどうにも根源的な、第一義的な、たとえば人間いかに生くべきかといったふうの大岩壁のような命題にむかって頭をぶっつけ、体をたたきつけ、血みどろになりつつもなおその岸壁をかけらでも欠きとろうとする。宮沢賢治、石川啄木、葛西善蔵、石坂洋次郎の初期、中川義秀、太宰治といったひとびとの共通項を引き出してくれればこの意味がわかってもらえるであろう。上方や瀬戸内海沿岸の出身者は、栄光ある例外をいく人か認めることができても、多くはストーリー・テラーになり、画家はカラーリストになり、造形の骨髄にせまることをむしろ野暮とするようなところがある。39-40p

★人間とはまことに妙なものである。おなじ朝鮮からの帰化人が近江に住まわせれば近江商人になり、関東に住まわせれば坂東武者になるのである。64p

★一つの機械を発明するのに数十年かかるかもしれず、この間の金利計算や仕込みの計算をしているような精神や能力ではそういう根気仕事――ときには無意味にみえるような努力――はできないのである。世界中にちらばっている華僑がついには金利計算者の域を脱せず、産業資本家になりえていないのはその好例であろう。70p

★利常と加賀藩(利常以降ずっとそうだが)は、幕府を安心させるために「軍備をおろそかにしている」という印象をあたえなければならなかった。このため藩をあげて謡曲をならわせ、普請に凝らせ、調度に凝り、美術工芸を奨励し、徹頭徹尾、文化にうつつをぬかした藩であるという印象を世間にあたえようとした(なんと戦後の日本に似ていることであろう)。
 ともかくもこの大政略が、金沢の今日にいたるまでの一性格をつくりあげた。金沢がいまなお日本の美術工芸の一中心地でありえているのはその無言の証拠といっていい。104-105p

★徳川家の防衛戦略をあらわすのに城がある。万一、「西国大名」がたちあがって江戸へむかうであろうことを想定し、その進撃路の城郭をりっぱにした。第一要塞は、姫路城である。わずか十余万石の姫路城主にこれだけの大城郭をもたせたのはここにくいとめようとするがためdえあり、姫路がやぶれれば第二要塞である大坂城でふせぐ。このため元和ノ役で焼失した大坂城を大改修し、将軍の直属城とした。第三要塞は名古屋城である。この名古屋城まで落ちればあとは箱根の嶮い拠って関東をまもる。家康とその官僚団は、そこまで考えた。逆にいえば毛利と島津は、それぞれ一大名でありながらそれほどまでにおそれられた。221-222p

2020年2月18日火曜日

一般検診と血圧測定

 今日は母の9回目の祥月命日。月日が過ぎるのは本当に早い。9年前の出来事であっても忘れることはない。ただ、親を亡くした寂しさは年々薄れていく。来月になれば父が亡くなって30年になる。

 昨日は一般検診の日。寒い朝だった。何も食べずに検診会場へ急ぐ。血圧測定の前に係は必ず「深呼吸をしてください」と言う。この「深呼吸」と「血圧」に何か意味があるのか。そう思って先日、プールにある血圧計で深呼吸する前とした後の血圧を測ってみた。後の方が血圧は低くなる。昨日、そのことを係に話すと深呼吸をした後は血圧が低くなるという。昨日もそれを試すと深呼吸後はする前よりも低く129と76だった。ネットで調べてもそのように書いてある。検診後、医師と会う。昨日の時点では異常がなかった。

 朝の冷たさとは違って暖かくなりそうだ。これからお花を買って墓参りへGO~。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年2月17日月曜日

プルメリアの花の絵

  日本画を習っている区民文化センターで作品展が催された。これは教室合同の作品展とは異なり、区民文化センターが開催する作品展。出品する絵もサムホールの大きさで小さい。以前、タイに出かけた際に撮ったプルメリアの花の写真をもとにして日本画に描いた。毎年この作品展を見に来てくれる人はこの絵を見て「いつハワイに行った?」とプルメリアをハワイの花と結びつける。プルメリアはハワイではレイとして使われる南国の花で東南アジアでもよく見かける花だ。

 絵を描くのは苦手。習っていても好んで自分で描こう、という気が起きない。とはいいながら、一つの絵が完成すると半端でなくひとりで喜んでいる。この絵も記念としてここにアップしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!  

プルメリアの花 サムホール 日本画

2020年2月16日日曜日

ミャンマー大周遊6日間の旅

 ミャンマーの旅のブログは下手の横好きで今回も文が長くなってしまった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 某文化交流学会一行16名は2020年(令和2年)1月9日(木)から2020年(令和2年)1月14日(火)までの6日間、ミャンマーへ旅行した。ミャンマーといって思い出すのはビルマの竪琴。この「ビルマ」の呼び方はビルマ語「バマー(Bama)」が口語的、「ミャンマー」が文語的といわれ、語源や意味はほぼ同じで、脈絡的に使い分けられてきた。ここでは現在の国名の「ミャンマー」で統一する。地図は外務省HPより引用。

 連日雲一つなく、真っ青な空に高く聳える黄金の仏塔(パゴダ)や寺院建築が私たち一行を迎えてくれる。これまで出かけた東南アジアのどの国よりもお天気に恵まれた旅だった。また夜は満月と蝋燭の灯りのもと、屋外のレストランで夕食をいただいたこともある。観光中はハンカチで汗を拭い、扇子で涼を取ることもなく季節的にも快適な旅だった。楽しかったミャンマーの旅の模様をここに記そう。


ミャンマー
 
第一日目 2020年1月9日(木)

 旅の朝は早い。午前4時に起床後、「おとなび」利用の3人は始発の新幹線に乗車して福岡空港国際線のベトナム航空カウンターに向かう。皆と合流後、いざ出国、とその前に人生初の経験をする。出国審査がこれまでと違って各自、顔認識と押印は機械操作で実施された。10時半、ベトナム航空VN357便搭乗後、5時間のフライトでハノイのノイバイ国際空港に到着(ここからは現地時間表記)。日本とハノイの時差は2時間遅れ。16時半、トランジット後、ハノイからベトナム航空VN957便でヤンゴン国際空港に向けて離陸する。途中、飲み物と軽い機内食が出た。

 機内トイレを利用しようとすると待つ人が多い。前にいる人がどこの国かも知らず英語で話しかけるとスペイン人だった。スペインと聞いて暇つぶしに片言の英語で話す。こちらの年齢を告げると驚かれる。20歳も若い女性でマドリッド在住という。マドリッドとバルセロナは仲が良くないらしく、しきりに両手の人差し指で双方の地を✖印で表現する。トイレの番が回ってくると先にどうぞ、と勧められる。トイレから出るといきなりのハグでびっくり。こういうことも旅なればこそだ。後で気づく。せっかく習ったスペイン語を一言も発せず。どこの国から?くらいは言えたのに残念。とはいってもその後は返答できそうにない。

  18時、ヤンゴン国際空港に到着(ベトナムとの時差は30分遅れ。ここからミャンマー時間表記)。ホテルに向かう車内で、ガイドのピューさんから各自5000円をミャンマーの通貨チャットに両替する。5000円×13=65000チャットだった。この日は朝早い起床で、時差が2時間半あり夕食は4回目の食事になる。レストランでの夕食は 次々とミャンマー料理がテーブルに並ぶ。美味しくても全部はいただけない。翌朝も早いため22時半就寝。これは日本時間だと25時。宿泊はヤンゴン ベスト ウエスタン グリーンヒルホテル。旅の初日は長い。


ヤンゴン到着のベトナム航空

ヤンゴンのレストランで夕食


ミャンマー料理の夕食の一部
 
ミャンマー料理のご飯
第二日目 1月10日(金)

  4時に起床。パガンで一泊するとまたヤンゴンのホテルに戻ってくる。1泊分の荷物を持参して飛行機に乗る。朝早くホテルで飲んだカプチーノは目が覚めるほど美味だった。ホテルで用意されたサンドイッチ、ゆで卵、バナナ、ジュースのパック詰めは朝食として持参する。5時、ホテルを出発。ヤンゴン空港に着くと給湯器があり、ペットボトルに入れる。7時、ゴールデンミャンマー航空K7208便はヤンゴン国際空港離陸。機内から朝日を拝む。8時20分、古都の面影が漂うマンダレー空港到着。

機内から朝日を拝む
マンダレー 

  マンダレーはミャンマーのほぼ真ん中に位置し、ビルマ王国最後の王朝があった街。かつての隆盛ぶりが色濃く残る。現在も文化と宗教の中心地であり、ヤンゴンに次ぐミャンマー第2の規模を誇る都市として発展を遂げている。

  バスに乗車して観光が始まる。旅の初日の前夜は満月だった。ピューさんはこの日が母の月らしく、お坊さんを招いて法要したという。通りの両側には合歓の木が植えられ、敬虔な仏教徒の寄進によって今でも植樹されている。

古都の趣があるマンダレー空港玄関

旧王宮

 10時半、旧王宮到着後のバス車窓の彼方からマンダレーヒルが見える。仏教国ミャンマーはどの観光地に出かけても黄金のパゴダや寺院建築が輝きを放ち、裸足になって観光する。だが、裸足に慣れておらず大理石の廊下や屋内の木廊を歩くと小さい石や砂などが足の裏を刺激する。痛さだけでなく石の上を歩くと熱さを感じたり、また冷たさを感じたりと子供のようにはしゃぐ。

  旧王宮はミャンマー最後のコウバウン朝の王宮で正方形の敷地の一辺は約3kmある。第二次世界大戦で王宮は焼失し、城壁のみ現存する。旧王宮は1990年に再建され、現在は軍施設となり、その一部が一般に開放されている。高さ8mの城壁内の建物上部には物見の塔がある。旧王宮を見学しているとヤンゴン大学で学ぶ聡明なお坊さんや修学旅行中の賢そうな私学の中学生と出会う。言葉が通じない私たちに代わってピューさんはその人たちに話を聞いてくれた。
向こうに見えるのがマンダレーヒル
  11時半、旧王宮を後にしてレストランに向かう。レストランの建物は開放的で食事後、庭の樹木にはリスがいた。お昼の飲み物はマンダレー生ビールをいただく。生ビールは生ジュースよりも安く2000チャット(日本円150円)だった。
美しく再現された旧王宮

旧王宮内部
物見の塔(上の白い建物)



タマリンドの木
シュエナンドー僧院


 シュエナンドー僧院に向かう道には果物や籠に入れた小動物を売る露店などが並ぶ。ここは19世紀のミンドン王が住んでいた場所で現在は僧院となっている。建物はチーク材で造られており、外壁は緻密な木彫りが施され、屋根や入口の周囲も手の込んだ彫刻が施されていた。僧院の木の廊下を歩いていると入口にモデルらしき美女が蓮の花束を抱えてポーズをとっている。紫の開花した蓮を見て思わずカメラで写す。後でその花束をくれるという。しかし、粗末になるので受け取らなかった。シュエナンドー僧院傍の民芸品店の人は顔に「タナカ」を塗っている。民芸品を購入する人や顔にタナカを塗ってもらう人もいて楽しそうだった。


チーク材をふんだんに使ったシュエナンドー僧院



緻密な木彫りが施してある外壁
クドードォド・パゴダ
 
 クドードォド・パゴダにはユネスコ世界の記憶に登録された世界最大の経典がある。大理石に刻まれた仏教経典を祀った730個の塔が並び、730番目の石板には「世界最大の経典」が造られた経緯が刻まれている。2013年、この729枚の石板はユネスコの世界記録に登録された。真っ白な白亜の世界にいるとこの世のものとは思えないほど幻想的な雰囲気に包まれる。白い小仏塔の間に生える緑のスターフラワーの樹も彩を添える。ピューさんは落ちているスターフラワーを拾って掌に載せて見せてくれる。仏塔を回っていると大きな鐘が目に入る。ピューさんに鐘の突き方を教わって3回鳴らす。鐘を突く木の棒は紐で結ばれておらず、鐘の下に置いてある。鐘に拝礼後、鐘の下方の縁をめがけて突く。皆で順に鐘を鳴らした。

クドードォド・パゴダ入口



仏教経典が納められた730個の小仏塔



白い仏塔に生えるスターフラワー
黄金のクドードォド・パゴダ


金箔工場
  
  クドードォド・パゴダを後にしてバスで金箔工場に向かう。バスを降りると大きな音が響いてくる。中に入ると上半身裸の男性が大きなハンマーでひたすら竹の皮を叩き、薄く伸ばしている。重々しいハンマーの響きを聞くと見るに忍びない。手間暇をかけてやっと金箔が完成すると功徳を施す人々によって仏像や仏塔に寄進される。


ひたすらハンマーで叩く上半身裸の男性

 15時40分、バスでマンダレー空港に向かう。プロペラ機で座席は自由。飛行機は前から自由に座る。これは初めての経験だ。マンダレー空港✈バガン空港はマン・ヤダナルポン航空7Y241便が飛行する。18時、離陸後30分間のフライトでバガン空港到着。満月が一行16名を歓迎してくれた。

  バガンの夕食はホテル屋外のレストランでいただく。満月と蝋燭の明かりが灯る中、近くで行われている得度式の余興が聞こえてくる。拡声器のボリュームを目一杯にしているのか、半端なくにぎやかな夜の宴となる。暗闇の中、鳥、豚などのカレー料理がテーブルに並ぶ。写真に写そうとするが、暗くて写せない。マンゴーの生ジュースを記念に撮った。生ジュースは6000チャット(460円)。

  ホテルの部屋はコテージ形式で趣がある内装だった。ただ、どの部屋もいろいろと問題があったらしく、翌朝、そのことで笑いが絶えない。泊まった部屋はトイレの水が出なかった。これは困った、と部屋から電話しようとするが電話機が壊れて使えない。フロントに出向いてピューさんに告げると係が部屋に来てくれた。水をためるタンクの浮きが変だったらしく、すぐに修理完了。だが、夜中に利用するとまたおかしくなる。浮きを触ると直った。バガンのホテルはダジンガーデンホテル。



バガン空港に満月で迎えてくれた



バガン空港




満月と蝋燭の灯りで屋外で夕食をいただく


第3日目 2020年1月11日(土)

 5時半 起床、6時 朝食。朝食を終えると昨夜の夕食場所へ〇〇さんと散策する。暗くて何も気づかなかったが、ホテル内のパゴダが見える場所での食事だった。レストランの敷地には花弁で”WELCOME ”などの文字があしらってある。朝食後、ホテルロビーでは宿泊した部屋のトラブルやアクシデントで笑いが絶えない。

前夜の夕食場所

旅のこぼれ話その1

 幹事の〇さんは隣室との出来事を面白おかしく話される。皆、笑って涙を流して聞いていると〇〇さんが来られて同じことを話される。〇さんの隣室は〇〇さんと〇〇さんの部屋で、閂一つで隣室と一部屋になる。隣は誰?と部屋割り表で調べると一つ先は〇さんの部屋だ。では隣は誰?とこっそり閂を外す。10㎝くらい開けて隣を覗き見るとトイレとバスが見えた。だが、人の気配はない。外に出て隣室のドアをノックすると〇さんだ。この話を聞いた人は問うた。「〇さん、襲われなかった?」。〇さん曰く「襲われなくてよかった!」。このやり取りを旅の間、何度聞いて笑ったことだろう。

 バスはホテルを出発してニューバガンでの得度式に向かう。その前に、パガンのマーケットに立ち寄る。マーケットには日本では見られない茄子が売られ、殻付きの落花生など購入されていた。

得度式見学

 
 得度式はミャンマー仏教徒の最高の功徳の一つとされ、親族や地域の子供を集めて合同で行われる。この日は12歳前後の女児の得度式だった。式の前から親類縁者を呼び寄せ、当日は地域の人々や知人など数多くの人を招待して食事などの世話をする。また式当日の前日から、自宅近くに設営した無数の電飾に輝く大きな仮設舞台で夜通しのショーが繰り広げられ、地域の人々を楽しませる。幸いこの日の得度式の主催者はピューさんの昔のガイド仲間で現在は会社経営者ご夫妻だった。食後に訪れた私たち一行にまで食事の用意がされていた。

 僧侶を招いての得度式後は華やかな余興が繰り広げられる。この中心的なものが司会者の声とともに打楽器を中心とした楽団を招いて夜通し行われる。これが1週間もある。このスピーカーの大きな音が前夜の夕食会場にまで響いていたようだ。
 


得度式の子供たちと参列者



楽団を招んで繰り広げられる得度式のショー
バガン遺跡
 
 近年、観光の目玉として建設されたバガン ビューイング タワー。ここに上って眺望すると360度遮るものがなくバガン遺跡を見渡せる。それは見事な絶景だ。バガン遺跡は内部空間を持たない仏塔であるパゴダ、内部に仏像を安置したり壁画が描かれたりする寺院建築、そして僧侶が起居する僧院建築の3つから構成されている。バガンはビルマ族によるミャンマー初の王朝が開かれた土地で寺院や仏塔などの数は3000以上もあるそうだ。2016年8月に発生したミャンマー地震によりパゴダの損壊が発生した。これを適切な処置で修復したことから、2019年7月 ICOMOSにより「バガン」の名で正式登録された。ピューさんは移動する車内で寄進するモノの順番を話す。まずはお水、道に植えてある合歓の木などの樹木、そして金銭などがあり、究極は仏塔などの功徳を施すことだという。

バガン ビューイング タワーからの眺め


ビューイング タワーから眺める絶景のバガン遺跡群
 
タワーから眺めるシュエズイーゴオン・パゴダ






タワーから眺めるダマヤッズイカ・パゴダ



タワーから眺めるスラマニ寺院




タワーから眺めるスラマニ寺院
 
シュエズイーゴオン・パゴダ

 シュエズイーゴオン・パゴダはピューさんによると「勝利」の意らしく、バガンを代表するパゴダの一つである。台座の上に黄金の塔が建ち、ビルマ式仏塔の建築様式の基礎となった。釈迦の遺骨と歯が納められているといわれ、仏塔の4隅にある小仏塔には、高さ4mほどの仏像が納めてある。

シュエズイーゴオン・パゴダ



高さ4mほどの仏像

アーナンダ―寺院 

 バガンで最も美しいといわれるアーナンダ―寺院。本堂は正方形で、入り口が4つあり、東西南北それぞれに4体の黄金仏の立像が納められている。高さ9.5mの4体の立像は見る者の立ち位置によって微笑まれて見える。南北の仏像は1091年の創建時のものだが、東西の仏像は再建されたレプリカ。寺院の中央にある高さ51mの尖塔は均整がとれた華麗な美しさで訪れる人を魅了する。




 
バガン一の美しさを誇るアーナンダ―寺院



南側 迦葉仏
西側 釈迦牟尼



北側 拘楼孫仏

東側 拘那含牟尼

 12時20分、バスは移動してレストランに向かう。入口にはミャンマー文字が記されている。ミャンマー文字33字は「〇」を正確に書く練習から始まる。文字を見ると確かに「〇」が基礎になっている。お昼の食事はどれも美味でミャンマービールで乾杯!


レストラン前に掲示されたミャンマー文字
バガン漆工場見学
 
 昼食後、漆工場へ向かう。バガンの漆は植物学的には日本で利用される「ウルシ」とは別の属に分類される「ビルマウルシ」のようだ。そのためか工場の人たちは手で漆を触って作業していた。漆は漆器の他にも寺院や仏像、傘、托鉢用の器などにも
使われ、高価だが、お土産として購入されていた。


タビィニュ寺院

 タビィニュ寺院は65mの高さを誇るバガンでは最も高い美しい寺院である。「タビィニュ」とは全知者を指し、仏陀を意味する。寺院1階に入ると金で覆われた仏像が鎮座する。寺院の外では一角に陣取って絵を描く画家が数人いた。絵は布地に描き、揉んでもすぐに元通りになって破れないそうだ。何人かはお気に入りの絵を購入された。

 タビィニュ寺院には日本人墓地があり、タビィニュ僧院の僧侶が管理している。第二次世界大戦で命を落とした日本人兵を供養する慰霊碑は寺院の管理者が用意してくれる線香を供えて手を合わせた。あたりには誰彼となく唱え始めた般若心経が響き渡る。今の幸せはここに眠る人たちのお陰かもしれない。
 



タビィニュ寺院



金で覆われた鎮座する仏像
 
日本人墓地
ダマヤンジー寺院

 ダマヤンジー寺院は12世紀、15代ナラトゥー王によって建立された。ナラトゥーは自分が国王になるために父と兄を殺した。その罪滅ぼしのため、細工を施した変わった形の寺院を立て始める。だが何者かによって暗殺され、未完のままで現在に至る。地元では夜になると幽霊が出ると噂されている。ダマヤンジー寺院は、基壇一辺の長さが約78mあり、バガンで最大規模の寺院である。


ダマヤンジー寺院
ダマヤンジー寺院の仏像
スラマニ寺院

 ダマヤンジー寺院の近くにあるスラマニ寺院は1183年に建てられ、寺院の姿も洗練されている。1階には東西南北に向いた仏像がある。内部の壁画を見ると仏像などをモチーフにした11世紀のフレスコ画があり、当時の生活や風俗が描かれている。寺院入り口には大きな栴檀(せんだん)の木が繁っていた。


スラマニ寺院
東西南北4体の仏像の1体目
東西南北4体の仏像の2体目




内部の壁面にある11世紀のフレスコ画
 
東西南北4体の仏像の3体目



東西南北4体の仏像の4体目




寺院入り口の栴檀の木

 バガンの観光を終えてバスでバガン空港に向かう。空港まで15分のところには夕陽スポットがあり、多くの人々が集まって夕陽を眺めている。また、パゴダの絵をスケッチする画家もいた。

 18時45分、マン・ヤダナルポン航空7Y241便はバガン空港を離陸し、ヤンゴン国際空港に20時05分到着。空港に着くと数人はトイレに向かう。その間、旅のハイライトともいえることがあった。空港ロビーで〇〇さんと〇〇さんは飛び上がって喜んでいる。誰とも握手しないと大騒ぎだ。ナニゴトがあった?と思って後で〇さんに教えてもらうと……。

旅のこぼれ話その2。

 マン・ヤダナルポン航空7Y241便に搭乗後、ピューさんはCAに機長は誰かを尋ねる。知り合いだった。ピューさんはCAに日本人が搭乗していると告げて日本語の挨拶である「こんばんは、ありがとう」を教えた。CAはこのことを機長に知らせる。飛行機がヤンゴン空港に到着する前、機長は機内放送の最後に「こんばんは、ありがとう!」と日本語でアナウンス。そして、飛行機から降りた機長はロビーで日本人一行に出会うと「こんばんは、ありがとう!」と言って握手を交交わした。また〇〇団長はピューさんのスマホに機長とのツーショットを写されている。機長と握手した人は〇〇団長以下、〇さん、〇〇さん、〇〇さん、〇〇さん、ほかにもいらっしゃるかもしれない。〇さんからこのお話を聞いてその場に居合わせなかったことを悔やむ。今回のミャンマー旅行の目的の一つである日緬文化交流&友好はこれで少しは達成されたかもしれない。

 夕食は一人ずつ膳に並んだシャン料理をいただく。シャン料理は脂っこい料理だがミャンマービールで乾杯!ホテルは初日と同じくヤンゴン ベストウエスタン グリーンヒル ホテル。

 ここでミャンマー料理について一言。『ミャンマーを知るための60章』によるとミャンマーの人々は「米食い」であり、「油食い」だそうだ。ミャンマー人の食用油消費量は大人1人につき年間20㎏。これに対し日本人の1世帯当たりの年間購入量は約8㎏。国産の食用油だけでは「油食い」国民の需要をみたすことができず、マレーシアやインドネシアからヤシ油を輸入しているそうだ。食事後は油で手がベトベトになる。


お膳に並ぶシャン料理(一人前)
第4日目 2020年1月12日(日) 

チャカワイン僧院

 8時にホテルを出たバスは日帰りでバゴー観光に出かける。バゴーはヤンゴンの北東にあり、13~16世紀頃、モン族のバゴー王朝の都として栄えた。チャカワイン僧院入口には騎馬に乗ったアウンサン将軍の像がある。馬は片足を上げている。この足の上げ具合で暗殺、病死などの死因がわかるらしくアウンサン将軍は暗殺だった。

 1000人以上の僧が修行に励む大規模なチャカワイン僧院。お昼前には托鉢を終えた僧が戻ってくる。それまで僧院内を見学すると犬が何匹もうろついている。どの犬も目の前に食べ物があっても決して近寄らず、人を見て吠えたりしない。殺生を嫌う敬虔な仏教徒であるミャンマーの人々は犬と共生し、犬も飼いならされているのだろう。僧院内には広い台所や、ここで修業した歴代の高僧の写真が掲げてある大講堂があった。

  しばらく廊下で待っていると鐘が打ち鳴らされ、托鉢を終えた僧がお鉢をもって入ってくる。僧のなかにはまだあどけない顔の少年もいる。廊下を通る托鉢僧に信者や観光客からの托鉢もあった。



歴代の高僧の写真が掲げられた大講堂
犬も托鉢僧を出迎えた

 お昼のレストランに向かう通りには「YBS」のロゴ入りのバスが行き交う。YBSはイエローバスの意らしく、車体は黄色。このバスはエアコン付きでミャンマーの人々はバスができた時、大変喜んだそうだ。お昼のレストランではパパイヤジュースをいただく。3000チャット(230円)。
 
シュエターリャウンパゴダ

 全長55m、高さ16mのシュエターリャウン寝釈迦仏はバゴー王朝滅亡後、イギリス植民地時代に発見されるまで密林に覆われていた。大きな目を見開いて参拝者を見守ってくれているようなシュエターリャウン寝釈迦仏。ピューさんによると足の裏に模様があれば生きておられる寝釈迦仏だそうだ。寝釈迦仏の周りには寄進した人々の名前が掲示され、背面には寝釈迦仏を物語るレリーフが続く。この日は日曜日とあって家族、友だち、僧院で仏教を学ぶ子供たちなどのグループが円座になって食事をし、参拝後にくつろぐ姿も見られた。



シュエターリャウンパゴダの寝釈迦仏

円座になって食事をするグループ
寝釈迦仏の足の裏に模様がある!
 
チャイプーンパゴダ

 入り口には地元でとれたヤシやココナッツの実をジュースにして売っている。高さ30mの柱の4面のチャイプーン座仏。もらった旅のしおりによると「仏像に従事した4人の女性のうち誰かが結婚すると仏像が壊れるといわれており、1人が結婚したら本当に西側の仏像だけが崩れてしまった」とある。今は修復されて美しい姿を見せている。チャイプーン・パゴダを観光中、大きな木の下で楽しそうにしている若い女性数人にピューさんは声をかける。ミャンマーに進出する中国企業で働くミャンマーの人たちだった。人懐っこい女性たちは私たち一行とも記念写真を撮っていた。
四方を向いた4体の座仏

 16時、バゴーの観光を終えると予定を変更してバスはヤンゴンに向かう。翌日予定のボージョーアウンサン・マーケットが月曜日休業のため、この日に振り替える。ヤンゴン最大のマーケットは観光客と現地の人たちでごった返す。ピューさんはマーケットに1か所だけあるドーム型アーケードの時計下を集合場所と決めて時間まで各自買い物をする。両替した現地通貨を使い切るため珈琲やクッキーなど購入。皆、購入されたようで品薄だった。
 
ここで旅の余談。〇〇さんご夫妻の旦那さんは用があり、奥様はマーケットで一人待っておられた。その時、ミャンマー人ではなさそうないかつい顔の数人が周りによって来る。ピューさんからあらかじめ声をかけてくる人は要注意と聞いていた。奥様は周りに近寄る人たちを不気味と感じ、あたりに響き渡るほど大きな声で「うるさい!」と叫んだそうだ。それでも離れようとしない。何度か「うるさい!」と声を発するとやっと逃げたという。
 18時、市内のレストランでミャンマー風中華料理をいただく。この夜は全員、ボトルの赤ワインで乾杯!またビールで乾杯と楽しい旅の晩餐だった。食事後、敬虔な仏教徒であるミャンマーのNPO(?)が販売する民芸品を購入する人もいた。ホテルは前夜と同じくヤンゴン ベストウエスタン グリーンヒル ホテル。なんと〇〇さんと〇〇さんはライトアップされたシュエダゴォン・パゴダを眺めながらお休みされている。

第5日目 2020年1月13日(月)~第6日目 2020年1月14日(火)

  ヤンゴンのホテルロビーにはミャンマー独特の化粧であるタナカの実演コーナーがある。タナカの木(ミカン科)は乾燥地に生え、この樹皮の粉末を顔に塗ると日焼け止めにもなるようだ。ピューさんも毎日塗っていた。またタナカ以外にもピューさんはミャンマーの民族衣装であるロンジーをその日に合わせて着こなし、身に着けるポシェットも衣装と合わせていた。

  ロンジーは動きをしとやかにさせるのかピューさんは常に冷静だった。『ミャンマーを知るための60章』によるとミャンマーの公務員は「指定の服」着用義務がある。女性は白いブラウスに綿または絹のロンジー姿。男性は白いシャツに指定の色の綿または絹のロンジー姿とされ、履物は男女ともにミャンマー草履。ほかにも政府機関によって服の色が決められている。いわゆる労働者の服装はピューさんによると仕事着で、ロンジーは着ないそうだ。

シュエダゴォンパゴダ


 10時にバスは出発してシュエダゴォン・パゴダに向かう。途中、車窓から船上レストランが見える。シュエダゴォン・パゴダはヤンゴン北部にあるミャンマー仏教の総本山。境内まで上がるエレベータ付近であたりを見渡すと雲一つない空の青さと黄金の建造物、そして長い廊下の蒼い屋根は何ともいえず美しい。エレベータを降りると各自参拝用のお花を受け取る。これをもって誕生日の祠にお参りする。

  ミャンマーの暦は日本の七曜日と、水曜日を午前と午後に分けてそれぞれを一日と数える八曜日の伝統的な暦もある。各曜日には守護動物が決まっていて、皆の誕生日の曜日をピューさんに教えてもらって参拝する。土曜日生まれの守り神は竜。祠の水がめの水を柄杓ですくい、願いを込めてお水をかけた。

  「聖なる」の意をもつシュエダゴォン・パゴダは多くの参拝客を惹きつけてやまない。境内の中心にある黄金の塔は高さ約100m。建物全体には金箔が施され、上部には6000を超える宝石で装飾されている。天高く聳える黄金の仏塔(パゴダ)の前に立つとこれがこの世の現実、と見間違えるほど厳かな気持ちになる。仏塔の周りでは仏像を磨き、功徳を施す人々の姿もあった。

  ここからはピューさんに教えてもらったお話から。お供え物について、ローソクは知恵、花は美しくなる、線香は評判がよくなる、水は悩みが少なくなる、の意味がある。また「お釈迦様はいいことをすれば運命がいい方になる」と説かれ、さらにお釈迦様の教えを話す。それは「悪いことはしないでください。良いことをしてください。自分の心を清らかにしてください」の3つである。観光中もお参りするだけでなく自分の善い行いが大切である、と何度か聞いた。その傍にはインドの聖地であるブッダガヤから木の種を運んで植えたという大きな菩提樹(Bodhi Tree)が繁っていた。

  シュエダゴォン・パゴダの境内には2500年の歴史ある洗髪の井戸がある。持ち込まれた聖髪を最初に洗ったとされる井戸は立派な覆いで囲まれて現在、中は確認できない。シュエダゴォン・パゴダの境内を出る手前でミャンマーの大きなカレンダーを購入する。大半の人が買われたようだ。カレンダーはなんと1000チャット(80円くらい)と恐縮するほど安い。これでは寄進にもならなくて申し訳ない。



空の青さと黄金の建造物、そして蒼い屋根



菩提樹(Bodhi Tree)



シュエダゴォンパゴダ

誕生日の祠



洗髪の井戸

 チャウタッジー・パゴダ

  観光を終えてバスでお昼のレストランへ移動し、円卓で飲茶をいただく。その後、ミャンマーでの最後の観光地、チャウタッジー・パゴダに向かう。高さ17m、長さ70mという巨大な寝釈迦仏は穏やかで美しいお顔だ。足の裏に描かれている108の絵は涅槃の世界を表現している。足の前に立つ看板には英語で書かれた模様の解説があった。
 
 チャウタッジーパゴダ寝釈迦仏
チャウタッジーパゴダ寝釈迦仏の足の裏

 15時45分、ヤンゴン国際空港へ向かう。ベトナム航空VN956便は19時にヤンゴン国際空港を離陸後、ハノイのノイバイ国際空港21時半到着までに機内食が出る。ところが〇〇さんと〇〇さん、そして私の3人は機内食をスルーされる。周りの乗客は食事を終え、CAが飲み物を配っている。機内のボタンで知らせるも梨のつぶてだ。飲み物を配るCAに話してもさっぱり反応がない。何度か機内食がないと告げてやってきたのは「ソーリー」の一言。がっかりした3人はやっとのことで食事をいただく。何度も飛行機に乗るが、こういう経験は初めてだった。ハノイのノイバイ国際空港でトランジットのため空港ロビーでしばらく待機。その後、日付が変わって1時20分ベトナム航空VN356便は離陸し、福岡空港へ向かう。福岡空港までは4時間足らずと短いフライトだった。

 ミャンマー大周遊6日間の楽しい旅は終わった。敬虔な仏教国、ミャンマー。ピューさんが発する言葉にはアウンサン・スー・チー女史に期待するミャンマーの民主化がある。その反面、スー・チーさんの年齢的な面を考慮する。また天然資源が豊富なミャンマーに押し寄せる中国企業の野望を懸念する。そして心に残る言葉はお釈迦様の教え。ミャンマーの人は寺院や仏塔(パゴダ)を寄進することが最も大きな功徳を施すと考えられる。これは『アウンサン・スー・チーはミャンマーを救えるか?』によるとミャンマーが仏教国であっても輪廻転生を重く見る小乗仏教にあるようだ。小乗仏教は人が亡くなるとその瞬間に生まれ変わり、遺骨は持ち帰らない。お墓がないから仏塔に帰依し、お参りする。手に入れた富は固執せずに喜捨し、寄進する。訪れたどの仏塔にもミャンマーの人々が心のよりどころとして共有するお参りの場所があり、また、お参りする人々の姿が絶えなかった。これもお釈迦様の教えによるのだろう。
 
 心洗われたミャンマーの旅。ベトナム航空VN356便は7時(ベトナム時間5時)に福岡空港到着。朝早い到着は皆さん、悟りを開かれたお顔だったかもしれない。いや、眠かった!?旅を企画してくださった皆様、そして旅をご一緒した皆様、楽しありがとうございました。また、皆で楽しい旅に出かけましょう!