2011年7月31日日曜日

『全思考』

北野武の『全思考』(幻冬舎、2007年)を読んだ。この本は先日読んだ『超思考』の前に書かれている。内容的には似通っている。相変わらず思考の根底には母親の影響の強いことが伺える。

当然といえば当然のことかもしれない。我がブログだって、タイトル名を変えても相変わらずその中味はアサちゃんのことについて書いてしまうほどだから。

本の構成は「生死の問題」、「教育の問題」、「関係の問題」、「作法の問題」、「映画の問題」の第5章から成り立っている。なかでも「生死の問題」と「関係の問題」に特に関心を持った。

「生死の問題」の中で北野は母親との影響について冒頭で述べている。「ペンキ屋の職人で、仕事と飲み屋と家を、ハンコを押したみたいに行き来して、気が弱いくせに、飲んだくれて帰ってきては、毎日のようにお袋に手を上げる。仕事は毎日きちんとしていたけれど、稼いだ金はあらかた飲み代に消えていたんじゃないかと思う。そんな調子だから、ウチの生活はお袋を中心に回っていた。生活も家計も、子供の進路も何もかも、お袋が決めていた。昼は土木工事のアルバイト、夜は遅くまで内職。そういう生活の中で、あの時代に息子三人を大学に通わせ、娘も高校に入れた。美輪明宏さんの『ヨイトマケの唄』を、地で行く人だ。…お袋のモノの考え方に、縛り上げられていたわけだ。…母親が考えた以外の選択肢なんて、自分自身にも考えられなかったのだ。」(014-015P)

母親の呪縛の中で育った武が学生時代は死ぬことが怖くてたまらなかったという。(010P)「その死の恐怖を克服するために、俺が選んだ道は、一種の自殺だった。」という。(013P)その自殺とは「そうだ、大学を辞めよう」であった。(019P)

大学を辞めるということを「それは、それまで俺を育ててきた母親を捨てる、ということだ。母親にしたら、俺が死んだってそれほどは驚かなかったかもしれない。…それは言葉の遊びなどではなく、俺にとっては文字通り自殺するのと同じことだった。…その時の唯一の確かな答えでもあった。そういう風にして俺は大学を辞めることを決めた。」と書いている。(019P)

その後演劇に憧れて浅草に行き人気者となる。そして「事故」を起こす。その事故について「おネエちゃんの通っているのを写真週刊誌に撮られて、アタマに来てバイクを買った。『クルマだからバレるんだ。自転車かバイクで行けば、誰にもバレない』」と考えた結果が事故となる。(025P)

その事故により生きることに興味を失う。それでももともと何の色も着いてないこの世に「喜びだの悲しみだのの色を着けるのは人間だ」という。(037P)そこから人が死ぬということを論じている。そして人が死んだらどうなるかについては「『答えはわかりませんでした』という答えが正解なのかもしれない…」と。(042P)

「関係の問題」では綾小路きみまろの成功について書いている。「綾小路きみまろが売れたとき、俺は本当に嬉しかった。」(088P)「綾小路きみまろという芸人がブレイクして、この歳でもまだまだ十分やれるんだってことを教えてくれた。」(089P)

「同じ時期にこの世界に入って、同じように苦労した。だけど俺は25年前にはもう売れてたよという余裕が、頭のどこかにあるから喜べたのだ。あんまり恰好のいい話じゃない。売れてよかったと思う。他人の成功を素直に喜ぶことができる。それがどれだけ幸せなことか、この歳になってよくわかる。」(090)

その綾小路との関係の締めくくりを「同じ時代に同じ若手として舞台に上がっていた同士として、意識はしていたんだろう。テレビの仕事が忙しくなって、ほとんど浅草に足を運べなくなってからも、綾小路はどうしているのかな、なんて思い出すことがあった。あの人の才能を、心のどっかで認めていたんだろう。…25年も経って、いつの間にか世間に綾小路きみまろの名前が出てきたときには、…なんだか嬉しかった。すごいなあ、よかったなあって。」(118-119P)

武の本を読んでいつも自分をよく分析しているなあと感心する。だから何か一つをやり遂げれば覚めた目で自己を見つめ次々と新たなことに挑戦していく。並みの人間であればすぐに人気も廃れて消えていく。長く人から愛される所以はそこら辺りにあるのだろう。

2011年7月30日土曜日

「悲しみに寄り添うということ」

先ほど何気なくTVを見ていたら伊集院静が出ていた。テレビのタイトルは「悲しみに寄り添うということ」。NHK総合のホリデーインタビューである。

まず伊集院の仙台でのサイン会の模様が映し出される。そしてこのたびの震災で元気をなくしている人たちにサインをしながら一人ひとりに声をかける。

震災による人を亡くすという喪失もある。伊集院は自らの2番目の妻を亡くすという喪失についても語っていた。そのときギャンブルと酒に救いを求め、今の自分があるという。特にギャンブルについては尊敬する色川武大について多くを語る。

悲しみのどん底で伊集院は色川からギャンブルや旅行などに誘われる。20歳も年齢差がある色川を先生と慕う。だが色川は決して人を見下さない物言いだった。ともに行動するうち小説を書くことの意義を見出す。

色川とのことは『いねむり先生』という小説になる。

その小説についてのインタビューでは悲しみに出会うことは「幸(さち)」になる。そして小説を読むことで「悲しみを再生させる」ことができる。

伊集院の本はまだ1冊も読んだことがない。

それでも伊集院の読者である著名な人から「僕が大好きな伊集院静さんの本で書かれていた言葉『どんな悲しみにも終わりはあるよ』頑張ってくださいね。」と6月にメールで励ましてもらったことがある。

もしかしたらその言葉はこの『いねむり先生』の中に書かれているのかもしれない。

伊集院は人の悲しみのとき誘ってくれた色川のありがたさをしみじみ語る。

アサちゃんが亡くなってまだ半年も経っていない。その間、知り合いなどからコンサートや食事などいろいろと誘っていただく。その中にスペイン行きを誘ってくれた知人ももちろん含まれる。伊集院のいうように、悲しみの底にいるときいろいろ誘ってくれる人には悲しみを救ってもらえた。おかげで早く元気になれたのかもしれない。そういう人たちに対してほんとうに感謝しなくてはいけない…。

2011年7月29日金曜日

第311回広響定演

月曜日の水泳を手始めに毎日、毎日暑い中ご苦労さんという1週間の締めくくりは広響定演である。

夕方出かけるまではおとなしくするつもりだった。ところが107歳の友人の母上の話をTELにて別の友人にすると話が聞きたいという。定演に行くまでの時間その友人と会って話をする。

話を聞いてもらう友人は107歳の人がどれくらかりんとうやラスクを食べるのか関心をもつ。すぐメールにて聞くと夜、返事が来た。かりんとうは毎日10本でラスクは端を取り除いたものを食べるという。それにしてもやはりすばらしい!聞いてもらった友人には明日知らせよう。

友人と別れ、定演に出かけた。演奏プログラムは下記のとおり。

リスト:ハンガリー狂詩曲第2番嬰ハ短調(ピアノ独奏)
リスト:ピアノ協奏曲第1番変ホ長調
チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調Op.74「悲愴」

指揮者は小林研一郎、ピアノは金子三勇士(みゆじ)でハンガリー人と日本人のハーフとか。ピアノの金子は若干21歳の音大生であり、国立、桐朋、洗足大学の教師もしている。

指揮者とピアノの人はともに初めて見る人。前半のピアノ独奏は「豪快」そのもの。何といっても今回は1番前の席のほぼ真ん中の席であったためか、演奏者もよくみえ強烈な音で響き寄せられる。

後半の「悲愴」は何といっても指揮者のパフォーマンスがすばらしい。指揮台でまるで一人が演技をしているようなしぐさに思え、しばし指揮ばかり目に付く。それはあるときはスキーのジャンプの選手のようであり、あるときはアーチェリーの選手、またあるときは競馬の騎手にも思える。

ひざを曲げて演奏するスタイルがそのように見えて仕方がなかった。

演奏後、指揮者はこれまで見たこともないほど一人ひとりの演奏者に向かっていって声をかける。結構な時間である。また花束を受け取ると後方の演奏者に向かってそれを投げる。後方の演奏者はうまくそれをキャッチする。それが終わると会場の聴衆に向かって話し始めた。これからやってくる8月6日に向けて広島を元気付け日本を元気付ける広響に応援を…とメツセージを送る。

それには「悲愴」はふさわしいらしく、また定演の指揮者でないからいえる言葉だろう。

指揮者の小林はなんと28年ぶりの広響のタクトを振ったとか。

指揮者にも色々なスタイルがある。それでも今日の小林のような精力的な指揮振りを見たのははじめてであった。みていて気持ちがいい。まるで舞台で一人演技する人のように…。相当なエネルギーを消費するだろうなあと思いながら会場を後にした。

2011年7月28日木曜日

107歳

今日107歳の母を持つ友人宅に伺った。訪問時、母上はすやすやとお眠りだ。しばらくすると内科医と看護師が往診にこられる。月に2回の往診とか。もう正午を過ぎていたけど107歳はやはり睡眠中。そのままでの往診となった。

医師曰く「どこも悪くないです」。友人はそれを聞いて一安心。

往診が終わると友人は107歳の母親に水分を与えようとする。すぐに体位を起こすと107歳はベッドに座る。もうこれを見てびっくり!誰にもつかまらなくても一人で座ることができる。そして友人の差し出すスプーンの水分をおいしそうに飲む。元気なはずだ!

友人の隣の区に112歳の長寿者が健在とか。だから広島市の最高齢者にはまだまだだという。

私のみた限りでは友人の107歳の母上もまだまだお元気そうなので日本一に…と思ってしまう。1時間余り友人宅にいた。その間に携帯で一緒に写真を取る。「顔をあげて!」と友人にいわれるとちゃんとして写真に写る。すばらしい!もう1枚は友人と母上との3人で写った。

友人宅にいる間、ついアサちゃんと比較してしまう。やはり107歳はなんといっても立派だ。アサちゃんは1年前から話ができなくなっていた。ところが107歳は声は大きいし、はっきりしている。そして来る人々にああだ、こうだといって笑わせるとか。もうそれを聞いてまたもびっくり!また人の顔をみて綺麗とか綺麗でないとかもいうらしい。今日は寝起きのためかまだ眠そうでそこまでには至らなかったが…。

友人宅を後にしてその人の車でランチに行く。車は真っ赤な色で、助手席は母親のために座席が介護用に外に飛び出るようになっている。最近は母上との外出も儘ならないといってたが…。

その車で市内の古田台というところにあるとても素敵なイタリア料理店に行く。店の名は「ゾーナイタりア」。丘にあるその店からは市内が見下ろせる。まるで外国?と思ってしまうほどロケーションは申し分ない。夜景もきっと綺麗だろう。

午後1時の予約なのに店に入ると人、人、人。丘にある駐車場は店専用とか。久しぶりに行く郊外のレストラン。気分はもう旅行気分!住んでいる町にはこれほどしゃれた店はない。さすが市内でも高級住宅街にあるレストランだ。

友人はこれからも食べ歩こうという。嬉しい限りだ。

いつまでもお元気で…と思わず応援したくなる。その母上ももうすぐ108歳の誕生日を迎えられる…。

ブログを書き終わって忘れていたことがあった。友人に帰り際、お土産を戴いた。なんとそれは東京から取り寄せた「福し満小桜」というかりんとうと、ガトーラスクだ。この二つが107歳の母上の好物という。普通の人でもかりんとうは硬いというイメージがある。それなのにその二つが好物とは・・・。。他にもお肉が好物らしい。長生きの秘訣はこの辺にあるのかも…。

2011年7月27日水曜日

スペイン・パンフ

先日スペイン旅行の説明会に出かけた。もらった資料には「スペイン演奏旅行」と銘打ってある。「演奏」の言葉に驚く。聞くところによると2箇所で演奏があるとか。それも当然のことかもしれない。何しろ参加人員は日ごろ合唱を通じた人たちの集まりなのだから…。引率する人も音楽大学の先生であり、指揮者だ。

それでもスペイン行きを誘ってくれたフルートの知人は「演奏」には参加せず聴く側だとTELにて話していた。

日程も決まったので先日スペイン政府観光局に出かけるところのパンフレットを請求した。早速本日資料が送られて来た。

行き先はトレド、マドリード、アビラ、サラマンカ、オウレンセ、サンティアゴ・テ・コンボステーラ、ポンフェラーダ、レオン、ブルゴス、ビトリア、ロヨラ、サン・セバスティアン、ザビエル、ルルドバルセロナである。太字は宿泊予定地。スペイン以外に一部フランスも含まれている。いわゆるスペインの北部地方だ。

宿泊先は大体3連泊なので日程的にはハードでないような気がする。

スペインはカトリックの国である。キリスト教に全く疎い。これまでもキリスト教に関係ある国へ旅行したことはいろいろとある。だが、どちらかというと中国を除いてはシルクロードのイスラム圏やヒマラヤのふもとのチベット辺りの国が多かった。

キリスト教は社会人大学生の頃、教養科目で宗教学を学んだことがある。ただそれだけであり全くキリスト教はわからない。それを今さら気にしても仕方ない。

スペインについても全く予備知識がない。海外に出かけるときはその国の言葉を少しかじって出かけるようにしている。今回のスペイン語は全くわからない。社会人大学生の頃スペイン語を学ぼうとした。それもアサちゃんに手がかかり時間がなくて得意の中国語で第二外国語を受けた。今になっては残念な気もしてくる。

ともあれ今さらジタバタしても仕様がない。モノゴトはなるようにしかならない!それでも唯一救われることがある。どんな旅でも楽しい思い出しかないと…。

出発日までまだ時間はある。せいぜいそれまでにスペインをもっと学ばなくては…。

2011年7月26日火曜日

元気?

今日は朝からTEL、メール、もらい物の多い一日である。

朝、アサちゃんの長女から「元気?」とTELがかかる。どうしているか心配してくれたらしい。「昨日は泳ぎに行った」というと「元気じゃね~」という。アサちゃんの長女は少々夏ばて気味らしい。それなのにアサちゃんの長女は3女のことを「もし病気したらどうするんかね」と心配する。アサちゃんの3女の子供は2人とも東京に住んでいるからすぐ帰ってこられない…という意味だろう。

アサちゃんが健在のころはこういったやり取りはなかった。たとえあったとしてもアサちゃんの子が病気だと知るとアサちゃんはすぐにTELして説教した。「そういうことじゃいけんよ」「しっかり食べんと…」。健康には人一倍気をつけたアサちゃんだった…。

TELを切ると友人からTELがかかってきた。お土産を沢山もらったので少しあげるという。すぐもらいに行くと袋の中には色々なものが入っている。人からもらっても余り間食をするタイプではない。それなのに何やかやと人から戴くことが多い。そのほとんどはアサちゃんのひ孫が我が家に来たときの口に入るのだが…。

午後はフルートのレッスンに出かける。街中に着くと東京三菱UFJ銀行に寄り、円をユーロに両替した。本日のレートは116,67。初めてユーロを目にした。銀行の窓口でなく、4階の外貨両替ショップで交換する。

ドルは地方銀行でもすぐに両替してくれる。ところがユーロは地方銀行でなく都市銀行がレートがいいとか。現地での交換はゆっくりだから日本でするようにといわれる。

それを終えてフルートの会場に着くと友人からショートメールが入る。他社の携帯でも使用可能かどうかテストのメールだった。

しばらくするとフルートの先生がこられた。先生から熊本のお土産を戴く。ありがたい。

フルートの発表会のソロの曲は決まっている。今日は全体合奏とアンサンブルの楽譜をもらった。この2つはソロで吹くのとは違って気分は楽である。それでもやはり練習は欠かせない。

フルートから帰宅すると107歳の母親を介護している友人からメールが入る。元気にしているかと。すぐにTELにて返事をする。我がことばかり考えてその人のことを考えていなかった。いつもアサちゃんのことで困ればすぐにTELして教えてもらっていた。それなのに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ではないか…。

明後日ランチをともにし、その後友人宅に伺う約束をした。まだまだお母さんは健在のようだ。何年ぶりかでその人のお母さんにも会える。会ったらゆっくり話をしよう!

ブログに投稿していると、隣町の花火が上がっている。玄関を開けるとはっきり見える。隣町の毎年の行事だ。アサちゃんにいつも見せてあげていた…。今年はもうそれもできない…。

2011年7月25日月曜日

プールデビュー!?

2年ぶりプールで泳いだ。やっぱり泳いだ後は気持ちいい!

先週急に泳ぎに行こうと思いつく。その時、水着は?と思って探すとナップサックに水泳用品一式を入れていた。中を見ると空気に触れなかったためか水着は着れそうにない。すぐに廃棄する。

予備の水着は?と思って箪笥を見ると大丈夫だった。

今朝は雷を伴った土砂降りの雨で目が覚める。これでは泳ぎに行かれそうにない。そう思っていると昼前から天気が回復する。午後になれば夏休みの子供たちがプールへ大勢やってくる。そこで昼前の晴れ間を利用して泳ぎに行く。

プールに着くとすぐに休憩時間があるかどうか係りに聞くと今はないとか。何しろ2年ぶりのプールだ。何もかも初めての感じがする。それでもプールに入って泳ぎ始めると泳げた。嬉しい!

小さいときから運動は大の苦手だった。ところが15年前に何を思ったか10回の水泳教室に通うと泳ぐことができた。そのときから水泳は運動神経に関係ないと思うようになった。それ以降、水泳だけができる唯一の運動となった。

鈍い子に比してアサちゃんは運動神経抜群だった。いつも自慢していた。子供の頃、陸上競技の選手でよく試合に出たといっていた。日本陸上界の草分け的存在の織田幹雄(隣の町の出身)を「おだのみっちゃん!」といっていつも話した。

大きな親亀を子亀は介護した。アサちゃんは大正生まれにしては背が高かった。アサちゃんの兄弟も皆鴨居に頭があたるほど背が高い。子供の頃は後から2番目に背が高かったとアサちゃんはいっていた。歩けなくなっても背筋はしゃきっとし、背中は全く曲がっていなかった。

ところが小亀はアサちゃんの夫に似て背が高くない。それでもアサちゃんの長女だけはアサちゃんに似て足が速いし、運動神経もよい。

久しぶりの水泳だった。これでほぼ我が生活リズムは回復した感がある。

今日は久しぶりの水泳だ。そのためビート板を使っての1往復とクロールで500メートル泳いだ。次回からはクロールと背泳ぎを交互にして1キロ泳ごう!

もともと水泳を習おうと思ったのは体にいいからという気持ちはさらさらなかった。ただただ小さいときから泳ぐことと自転車に乗ることに憧れがあった。そのためどちらも出来るようになるともう夢中になった。

そういえば水泳教室で面白いことがあった。最後の水泳教室の修了後、服を着替えた我々生徒の女性ばかり10人くらいは受付にいた先生に「今から遊びに行こう!」と声をかけた。その時間は午後8時半頃でプールの場所も辺鄙なところだ。もちろん食べるところはまったくない。それなのにそういって、皆で車に乗って少し離れたファミリーレストランに行った。打ち上げといってもお酒は呑めない。ただ軽食などである。

男の先生はこのように声をかけてもらったのは我々のグループが初めてだと話された。それがきっかけでそろって「日本一周泳ぐ会」にも入った。その会長は水泳の先生である。その先生に声をかけたのはもちろん誰かいうまでもない。

2年前までその「日本一周泳ぐ会」にも入っていた。ところがアサちゃんの介護でそれも儘ならずやめてしまった。そのときのメンバーは老若男女さまざまで皆いい人たちだった。年に2,3度ある飲み会は楽しかった。運動音痴がトライアスロンなどする人に混じって話をする。楽しいことこのうえない。

これからは時間もたっぷりある。週に1度のペースで泳ぎに行こう!

2011年7月24日日曜日

『戦争の記憶』

昨日聞いた集英社の資料の中に「戦争×文学」の宣伝パンフが入っていた。その中に立花の記事がある。以下に記したい。

学生たちと「デジタルミュージアム『戦争の記憶』」という大きなウエブサイトを立ち上げようとしている。戦後六0年余を経て、戦争体験者のほとんどが、八〇代、九〇代になり、戦争体験をリアルに語れる人がこの世から消滅しようとしている。生き残りの戦争体験者の声を少しでも集めようとしたのだが、やりだしてわかったことは、それがすでにほとんど不可能になりつつあるという現実だ。

戦争の記憶の掘り起こしに最も有効な手段は、戦争の同時代たちが、文学、回想録、ルポルタージュ、ドキュメンタリなどの形で書き残しておいてくれた活字資料なのだということを知った。しかし、そのほとんどが、今では入手困難となっており、図書館に行っても見つけることがむずかしかった。…去年夏ヨーロッパ各地をまわってきたが、向こうでも戦争体験者が次々に亡くなっていく現実を前にして、社会をあげて戦争体験の掘り起こし、語り直しがはじまっていた。戦争の記憶が消えてしまったら、世界は歴史から何も学べなくなってしまう。…


戦争を知らない次の世代に「戦争の記憶」を受け継ぐためにデジタルという手段で語り継ごうとする気持ちが伝わってくる。

今朝の地元紙を見ると、立花の話よりも第二部の編集者たちの話の写真が掲載されている。貴賓席にはプレス関係者の席も確保されていた。今年に入って2月にも来広しているといってたが、地元紙には何の情報もない。講演の最後には「脱イデオロギー」と書いてあったが…。

政治や思想に余り関心がない。それでも極端に偏りすぎるヒトは要注意だ。筑紫哲也だって亡くなって脱税とか…。いいことばかりいってるヒトに限って…。どこまで信じていいかわからなくなる…。

むしろはっきりモノをいわない、いえないヒトのほうが信じられる気がする…。

その点、音楽はいい!音楽にはイデオロギーがない。音楽はヒトを裏切らない…。

2011年7月23日土曜日

長い一日

やっと慌しい一日が終わろうとしている。

昼前、平和記念公園内のメモリアルホールである立花隆の講演会を聞きに行く。「戦争×(と)文学」と題された講演である。立花の講演は15年位前にも聞いたことがある。そのときはNHKの主催のシベリア抑留画家香月泰男の話であったが今回は集英社の主催である。どちらもキーワードの「戦争」は同じであるが、前者は立花が無名の時代であり、香月の作品をゴーストライターとして書いていた経緯がある。

相変わらずプロジェクターを使用しての講演。だが今回はアシスタントがプロジェクターを操作していた。もう70歳を過ぎ、癌を患っているとかで姿形は以前見た立花とは雲泥の差がある。だが話しぶりは決して衰えを見せずまだまだ健在だ。

現在すすめているプロジェクトは、講師を務めている立教大学の立花ゼミの「デジタルミュージアム『戦争の記憶』」とか。

講演のはじめに立花は5月に母親の橘(立花の本名は橘)龍子を亡くしたと話す。アサちゃんと同じ位の年齢だった。立花は長崎で誕生し、中国満州で終戦を迎える。満州から日本に帰る途中、広島を通過している。母と兄はそれを記憶しているが立花はあまり覚えていないとか。

東大に入った年の1959年、安保闘争、原水爆禁止運動が始まり自らも学生運動にのめりこむ。1960年、オルダー・マストン・マーチがイギリスで開かれ、知人と2人で出かけるのだが、軍資金が足りない。当時の東大総長の茅誠司に直談判すると読売新聞にTELしてくれてスポンサーになってもらう。だが次第に学生運動も嫌になる。

現在立教大学で教えている。その学生からショックを受けたという。それはジュニア世代の学生(1986年生まれ以降のポストコールドウオーキッズ)と社会人で入ったシニア世代(1956年生まれ以降のもはや戦後ではない世代)である学生も全く戦争を知らないと。これではいけないと思い数年前から戦争を語り継ぐ運動をしているという。

その運動は立教大学の立花ゼミの「戦争の記憶」であり、海外の戦争の記憶(ベルリン アウシュビッツ)、朝日新聞連載の広島・長崎の記憶もあるという。

それには体験を語る「デジタルミュージアム」が必要であり、「モノからコト」が大事となる。バーチャルリアリティを使って伝えることとか。

バーチャルにはGoogleのArt Projectなどがあり、ワルシャワの蜂起ミュージアムやアウシュビッツやニュークリアバンカーのプラハ、ベルリンがあるという。

立花の熱を帯びた話しぶりの底辺には(脱イデオロギーで結んでいるけど)まだまだ左翼思想が垣間見える。日本の今おかれているこの期に及んでも民主党を推し、自民党でなくてよいという。これにはいくらなんでも納得できない!おかしいのではないの…と思ってしまう。

ともあれ立花の張り切っている様子はわかる。何といっても知名度は抜群だ。

講演が終わると一緒に行った人の車に乗って食事に行く。そこで2人して立花のことなどを話す。その人とわかれた後は夜まで少しぶらぶらし、スペイン旅行の説明会に行く。会場に行くと誰もいない。会場の予約は聞いていた話と違う。すぐスペインヘ一緒に行く知人の携帯にTELして話を聞くとその会場で待つようにとのこと。しばらくすると人がやって来た。その女性と話をするとフルートの知人と同じ合唱団に属している人だった。これでホッとする。

6時半から8時まで旅の話を聞く。説明する人は合唱団の指揮者の先生だ。やっと旅の概要がわかった!

長い一日は終わった!後は明日ゆっくり考えよう!もう眠たくて仕方がない!

2011年7月22日金曜日

節電中!?

梅雨明けまでは毎日のように図書館に出かけていた。ところが最高気温が上がるにつれ次第に足も遠のくようになる。というのも図書館に一歩足を踏み入れると汗がどっとあふれ出るからである。

1週間くらい前、予約の本を受け取りに図書館に出かけた。やはり中へ入ると暑い。

図書館は区民センターの2階にある。図書館の入り口のガラス戸には最近「節電中」の張り紙が貼ってある。

区民センターに入ったときは涼しい。それなのに図書館に入るとロビーよりも暑い。たまりかねて予約の本を受け取るとき係りの人にロビーのほうが図書館よりも涼しいと話した。係りは節電中ですからという。

予約の本を探してもらっているとき、他の男の職員が近づいてきた。何を言ったのか聞きたかったのだろう。そう思ったので同じことをその人にも告げた。

本を受け取ってあたりを見渡すと何人かはうちわで扇ぎながら本を読んでいる。こうまでして図書館で本を読むこともないと思い、最近では家で借りてきた本を読むようにしていた。

といっても予約の本はやはり受け取りに図書館に行かなくてはならない。昨日と今日、図書館に行くと気のせいか以前よりはだいぶ涼しい!うちわで顔を扇がなくてもいいほど涼しい!

本当に涼しくしてくれたのならいいのだけど…。

暑さ対策と閑対策で近くの友人とカラオケに行く。昨日も出かけた。ところがせっかく見つけた隠れ家が危うい!

というのも夏休みに入ったからか、それともマツダが木・金を休みにしたからなのか、カラオケ店が隠れ家にならない雰囲気になってしまった。

これまで時間制限無しのフリーで使用できたのに、昨日はその設定がない。仕方なく3時間で予約する。それに加えて満室で10分待ち。

世間では不景気、不景気といっている。ところがどこもここも平日の昼間なのに遊び人だらけである。友人は女性ならまだしも若い男の人が日中にいるとはどういうこと?と疑問をぶつける。もしかして仕事にあふれた人たち…。

もう9年も仕事をせず、社会からはみ出た生活をしている。ついつい他人もそうだろう位しか思わない。ところが最近遊び人になった友人にはやはりそれも理解しがたい現象のようだ。

暑さはこれからが本番を迎える。今日は最近では珍しく涼しい朝だった。それでも最高気温は31度になるとか。

暑い暑いといってだらだらとした生活をすると後で体によくない。そのためにも規則正しい生活が大事だ。午後はエアコンをきかせてフルートの練習をしよう!

と、その前にふと区のスポーツセンターにあるプールへ泳ぎに行けばよかったと思ったりする。もう2年泳いでいない。夏休みになると自由に泳げなくなる。1時間に10分間くらい休憩時間があるからだ。それをはずして行けばいいけど…。

近いうち泳ぎに行こう!そう思うと俄然元気が出てきた!これで我が調子は本来の姿になるはず。きっと…。

2011年7月21日木曜日

『昨日の旅』

清水幾太郎の『昨日の旅』(文藝春秋、1977年)を読んだ。図書館で借りた本だが、30年以上も前の本であり、書庫に置かれていたためか本独特の湿気たにおいがする。それを我慢して読んだ。

一気に読めるほどの本でない。結構時間をかけて読んだ。

著者の清水は昭和50年と51年の2回にわたって計3ヶ月アメリカ、メキシコ、ペルー、チリ、ブラジル、スペイン、ポルトガルを旅している。本書ではそのうちの大半をブラジルとスペインに紙数を費やしている。

後半部分の大半を占めたスペインについて「かれこれ二十年前、スペインの内乱を熱心に勉強したことがあって、終始、その記憶が私を刺戟していたし、同時に私の訪れたスペインが、フランコの死とファン・カルロス一世の即位という大転換にあったのが、謂わば私の仕合せであった」(あとがき)と述べているようにスペイン内乱後の状況が本書でよく読み取れる。

前半部分のブラジルについては「サン・パウロからジェット機で四十五分のリオ・デ・ジャネイロに、オーギュスト・コントの学説および宗教を奉ずる一団のブラジル人がいて、その人々に会うということである」(16P)とブラジル行きの目的を書いている。そのリオにはコントの人類教の堂々たる教会があり少なからぬ信者がいた。(16P)

清水は自分の大学卒業論文でコントの学説の一部を取り扱い、コント主義者たちに会いたいと思うようになる。この旅でそれを実現した。

コントは『三段階の法則』を唱えた。人間の精神の進歩には、精神的、形而上学的、実証的の三つの段階があるという主張だとか(130P)。

コントのモットーは「秩序と進歩」である。1889年ブラジルの新しい共和国の出発と同時に新しい国旗が制定された。そのとき新しい国旗にはコントのモットーが入れられたという。清水はブラジルとの関係を陸軍徴員として昭和17年ビルマへ運ばれる身のとき、大阪梅田新道の角にある喫茶店の壁にある国旗を見てブラジルまで来たという(133P)。

ブラジルに比べて無宗教である日本の国旗に関しては国旗の持つ意味が軽いとか(135P)。だから「日の丸を無視し、侮辱して、その行為を『平和主義』とか『良心』とか『節操』とか称するインテリは、実は、過去の重みに堪え得ない繊弱な人たちなのであろう」(157P)という。

清水はブラジルを後にしてスペインの独裁者であるフランコの死を目前にするスペインへ飛ぶ。「フランコの死があれば、それは単に八十二歳の老人の死ではない。ファシストという名称の適否は別として、何処かでiron ruluという言葉を見かけたが、複雑な事情を抱え込んだスペインに統一と発展とを生んだ―――押しつけけて来た―――人物の死である。ヒトラーの要求を斥け、危うく第二次世界大戦にスペインが巻き込まれるのを防いだ人物の死である。…何処から見ても、フランコの死があれば、それは、一人の老人の終焉ではなく、一つの時代の終焉である。…是が非でもスペインへ行こう。行って、転回点のスペインを見よう。行くのならフランコは生きているうちに行かねばならぬ。…行くのなら新しい眼を持たねばならぬ。しかし、それをもつための勉強をしてはいない。それなら勉強の手始めにスペインへ行ったらよいではないか。」(169ー170P)と思ってスペインへ行った。

フランコが亡くなった翌日、ファン・カルロスは国王に即位する。

スペインの魅力について清水は「観光客がスペインを発見したのは一九五三年、発見されたスペインには、ヨーロッパの多くの国々の人間が気違いのように憧れる青空があり、太陽があり、海岸がある。また八世紀間に亙るイスラム文明のイスラム文明が夥しくあり、それと闘争し混淆したカトリック文明の建造物がこれも夥しくある。スペインの自然と文明とが人々を魅了した。」(220-230p)と述べる。

著者は日本の安保闘争について「一つの小さなスペインであった。そうだ、あのドサクサの中で、私は、私たちは『トロツキスト』として非難されていた。」と。そのうえで「私たちはそう特別なことを考えていたわけではない。安保改定阻止という目標である以上、結果は駄目かもしれないが、やれるだけのことをやろう。岸内閣を倒そうという位」だったという(301P)。

安保闘争が終焉する頃、清水は気が狂ったほどスペインの勉強を始める。その結果スペインのPOUM(カタロニアを中心とする小さな政党)と日本の全学連を重ねていく。(304P)

そのことを「自分の経験をトコトンまで大切にし、それを不断に拡大し、それを丹念に鈍化して行くのが、インテリの条件である。インテリがスペインで懲りたのは、政府軍が敗れ、フランコ軍が勝ったためではない。日を遂って、自分の経験が美しい観念や立派な大義を掘り崩して行ったゆえであり、立派な大義を守るのには、自分の経験を否定せねばならぬ。つまり、嘘をつかねばならなかったゆえである。…自分の経験を棚上げして、平気で嘘をつく左翼官僚にならないとすれば、インテリは、自分の経験を固執することによって、『トロツキスト』や『スパイ』になるほかはない。インテリはスペインで懲りた。スペインで懲りたのは、イデオロギーに懲りたということ、政治に懲りたということであった。」(306-307P)と書いている。

このことは自ら安保闘争を経験したこととも関係している。清水は「戦後、そういう運動が何回もあって、すべてインテリが敗れた末、一種の総決算のような意味を帯びて、1960年の安保闘争があった。そこでインテリは最終的に敗れた。単に敗れただけでなく、私たちは、小さなスペインを見た。」と。そのとき「敗れた」と思ったのは、全学連や清水のような「トロツキスト」であり、共産党やその同調者は「民主主義の一大勝利」として祝ったという。ところが清水のような「トロツキスト」は自分たちの苦い経験を分析してスペインの研究を始めていく。(309p)

清水は「スペインは卑しいところがない」のが魅力だという。清水の父親は金もなく、学問もない人だったとか。その父親が清水をしかるときは「卑しいことだけはするな」であったという。5ヵ月後再度清水はスペインを訪問する。そのとき清水は「卑しくない人間を見るのを楽しみに、私はスペインへ来たようなものである」と書いている。(336P)

「卑しい」という言葉で思い出すことがある。アサちゃんもその言葉を「勿体無いも卑しいから」という風に表現していた。アサちゃんに食べすぎて苦しいと話すと、必ずそういって叱られた。勿体無い、勿体無いといって食べすぎるのは卑しいことだと。苦しいほど食べるなと。

「卑しさ」について清水は「戦後の日本では、国民が豊かになるにつれて、却って卑しさが増して来ているように思う。…『卑しいことだけはするな。』生きている限り、私は父親の言葉を大切にしようと思っている。」(337P)

清水は「孤独の意志」について「意志を持つ人間にとっては、困難なことは一つもない。」と聖イグナシオは言うとしたうえで凡人の清水には縁のない話だという。ところが清水は「私は意志というものに憧れを感じている。人間を人間として内部から支えるもの、結局は敗れるかも知れないが、内外の敵と戦って、何とか自分を卑しさから救うもの、それは意志ではないか。或いは、そういう側面を人間に発見して、それを意志と名付けるようになったのではないか。」と。(352P)

清水は当時のスペインについて「国内は疲れて餓えていたけれども、国外には、どこにも敵がいなかった」と考えた。(366P)

だから「すべての国がフランコの味方であった。それゆえ、内乱終結の四ヵ月後に起こった第二次世界大戦は、フランコの味方の間の戦争であった。…内乱に当たって、ドイツおよびイタリアが如何にフランコを助けてくれたか、宿敵イギリスが如何にフランコの敵を助けたか、それも問題ではない。どちらが勝つか、それだけが問題であった。」と。(366-367P)

その後、フランコはヒトラーとアンダイの停車場で会う。そのことを「色々と起伏はあったが、兎に角、アンダイでフランコは峠を越え、それでスペインが第二次世界大戦に巻き込まれるのを防いだ。アンダイはフランコにとって、勝利の土地である。そして、ヒトラーにとって、ヒトラーに占領されていたフランス人にとって、それは敗北の土地である。」と書いている。(376P)

著者である清水はスペインの旅をそのアンダイで終えている。

ここまで長々と書いてきた。ブログに入力するだけで相当時間を費やした。スペイン行きを前にして何もスペインを知らなかった。先に読んだ中丸明の本で『昨日の旅』を知った。これを読み終えて少しはスペインの近代の歴史が判ったような気がする。とはいっても、まだ見ぬ国スペイン。「百聞は一見にしかず」の言葉どおり、まずはスペインに行くしかない。

2011年7月20日水曜日

台風一過

今朝は台風も過ぎ去って西の空は青空も見える。

台風は昨日の明け方が一番強く風が吹いた。広島は他の地域と違って雨はほとんど降っていない。昨日の日中はどこにも出ず家でおとなしくしていた。今日になっても他の地域は未だに台風の影響が出ており大変な様子が伺える。

今週末に開催される立花隆の講演会の招待葉書が昨日届いた。早速その旨陶芸家の知人に知らせるとまだ来ていないという。TELで他の話もした。我がブログを見てくれてるようで、先日彼女から聞いた件では違うところがあるという。

「いい加減にしか人の話を聞いていない!」という。数に関することが違っていたらしい。最近どうも数に関して間違いが多い。算数は得意だったはずなのだが…。それでも「人の話を聞いてない…」はあたっているかもしれない。

話の途中で携帯とパソコンのメールアドレスを交換する。

夜パソコンを開くとメールが入っていた。携帯メールの使用はあるがパソコンのほうのメル友は少ないから良かったと…。確かにメールそのものもパソコンを購入した当時に比べると格段に使用しなくなった感はある。

すぐに知人のメールの返事にブログの数字の間違いを訂正した旨、報告した。

立花隆の講演会を主催する集英社は翌日にも他の人の講演会をする。それもネットで申し込んでいた。昨日は2枚の封筒で招待券が送付されてきた。翌日のほうは参加者が少ないようで3枚も入っている。立花のほうは1枚。

「戦争×文学」と題された講演会だけあって、会場も平和記念資料館のメモリアルホールだ。8月6日にあわせた場所で開催される。地元にいて原爆資料館に入ったことは小学校低学年に学校から連れて行ってもらった1度だけ。毎年その年の半分を過ぎる頃から地元のメディアはすべて原爆がらみの報道が増えてくる。聞きたくないと言ったらひんしゅくものだろうか。戦後生まれで原爆を知らない世代だからそう思うのか、ともかくあまり楽しい話ではない…。

今日は2日間乗らなかった自転車に乗ってふらふらと外に出かける。そういえば昨日の陶芸家も我がブログを見て毎日ちょろちょろ動き回っていると話していた。確かによく動いていると我ながら感心する。意識して動き回っているところもあるけど、家でじっとしておられないということも本音だ…。

ブログを書き終えると立花隆講演会の葉書が来たと知人から携帯メールが入る。よかった!

2011年7月19日火曜日

台風の影響

明け方、突風が吹き荒れる音で目を覚ました。台風の影響で昨日から時折強い風が吹く。今朝知人にTELするとベランダの屋根が飛んだといっていた。相当強い風が吹いたことがわかる。

昨日はアサちゃんがいなくなって丸5ヶ月。朝早く隣に住んでいるアサちゃんの姪が初盆のお供えを持ってきた。アサちゃんはもらわないようにと言い残している。それでも隣の従妹は気持ちを供えてくれた。ありがたく頂戴することにする。

隣に住んでいても平常はほとんど顔を合わせることはない。久しぶり家に入ってもらって話をした。その人が帰るとアサちゃんの長女夫妻がやってきた。すぐに墓参りに行く。

墓参りといっても台風の影響で風が強い。線香やろうそくは危ないので花や水を供えるだけにした。

家に帰るとアサちゃんの長女の夫は少々傷んでいるブロック塀の応急処置をした。今秋にはブロックを取り替えて新たな塀にする話になった。いつもの業者にしてもらおうと…。その工事は秋がいいという。

これまで家のいたるところを直してきた。直すよりも立て替えたほうが安くつく。そう思うのだがそれも仕方なかった。年寄りを抱えての工事は住んでいる環境を変えると惚けるというし…。ともあれ家のメンテは大変だ。

夕方になるとフルートの知人から前日の合唱の件でTELが入る。指揮者は正装だったが、歌ってた人がどんな服装か見えなかった。それを聞くと上着は着ていなかったが蒸し風呂状態だったという。また広島市長も聴きにこられていたと知り、光栄に思うともいっていた。

夜寝ようとすると、短大時代の知人からTELが入る。相続登記のやり方について教えて欲しいと。

相続登記はアサちゃんが亡くなってすぐに行った。といっても法務局や区役所へは何度も足を運んだし、福山市役所へもTELや郵送でいろいろ大変だった。簡単ではなかった。

知人にそう話すと不動産屋がやってくれるという。司法書士でないと本人に代わって最後までできないと思うと話した。自分でやろうと思うのならまずは法務局へ行くようにすすめた。

あわただしい一日は終わった。

今日は夕方フルートのレッスンがある。広島は暴風警報、波浪警報が出ている。ブログ投稿前に先生宅にTELして今日のレッスンは休むと連絡した。

1年のうちのほとんど毎日を自転車で外に出かけている。ところが昨日と今日は台風の影響で自転車で出かけられそうにない。

今日一日は家に引きこもってじっとしていよう。早く台風が去ってくれればいいのだが…。

2011年7月18日月曜日

世界平和記念聖堂にて

昨日は世界平和記念聖堂で開催された知人の合唱団の定期演奏会に出かけた。

演奏会の始まる午後3時は一日のうちでも一番暑い。特に昨日は広島でも一番の暑さで35度。本当に暑い!

会場はカトリック教会である。一般的に寺院や教会は冷暖房がない。

受付で知人の預けてくれた招待券を受け取る。そのお礼に持参していたワインを受付で渡す。それを済ませて会場に入ると沢山の人がいた。エアコンはないが教会そのものが広く、天井もとても高い。一般の建物よりは涼しいが、それでも暑い!各自備えられていたうちわを手にする人もいた。

隅々に大きな扇風機が置かれていた。その横に一人座っている人がいた。その人の横に座る。話していると合唱団関係の人でなくカトリック信者とか。会場関係者にチケットを配っていたらしく、その信者は教会からもらったという。後を振り向いてみると何人かのシスターの姿が見える。

教会でのコンサートは初めてであった。普通の演奏会であれば前を向いて音楽を聴く。ところが今回は出演する人の姿は振り向かないと見えない。それも2階の後方で演奏されているため真反対に座らないと全く見えない。皆パイプオルガンの音に合わせて歌う合唱を聴く。

そういえば世界平和記念聖堂はもう10数年前、フルートのレッスン後のある年のイヴ、皆で興味半分に出かけたことがあった。そのときもカルチャーショックだったが、昨日もそのときに劣らず相当カルチャーショックを覚えた。不思議な世界である。

世の中、まだまだいろんな世界があると…。

それも信者であれば少しはわかるのかも…。

そうはいっても世界平和記念聖堂は8月6日が近づくと毎年のように南こうせつもコンサートをしていた。だから、それほどカルチャーショックを受けなくてもいいのかもしれないが…。

隣の人は指揮者と幼馴染だという。聴きにきたこととそれとは全く関係ないそうだが、よく指揮者を知っていた。指揮者は中学時代にカトリックの私学に通っていたとも話していた。

昨日の演奏曲目は第一部 ビクトリア作曲 AVE MARIA、LAUDA SION
        第二部 ペルゴレージ作曲 STABAT MATER
        第三部 ビクトリア作曲 REQUIEM
であった。どの作曲家も初めて聞く名前だ。

この合唱団を含め、これから広島の街はさまざまな平和コンサートがあちこちで開催される。そして暑い夏は続く…。他の都市ではきっと見られない光景だろう…。そして今日はアサちゃんがいなくなって丸5ヶ月になる。

2011年7月17日日曜日

『老いの才覚』

3月に図書館に予約していた曽野綾子の『老いの才覚』(KKベストセラーズ、2011年)の順番がやっときた。昨日午後からは外に出ず一気に読み終える。

最近の新刊本のキーワードはシンプル、すっきり、収納、断捨離、老い…など「人生の後始末」に関するモノが多い。この本もそうである。

書いてあることは当然のことであり改めて…とも思えるコトだ。それを凡人は文章で言い表せず、作家は判りやすく書く。その辺がやはり作家なのだろう。

読者としては我が年齢よりも高く設定しているように思った。「老い」は誰でもやってくる。だから読者層は誰でもよいのかもしれない。

いつものように気にかかるところを記したい。

人間が死ぬまで働くということについて「与える側でいれば、死ぬまで壮年だと思います。おむつをあてた寝たきり老人になっても、介護してくれる人に『ありがとう』と言えたら、喜びを与えられる。そして、最終的に与えることができる最も美しいものは、『死に様』だと私は思っています。子供たちは今、死ぬということを学ぶ機会があまりないから、それを見せてやることだけでも大した仕事だと思います。…どんなよぼよぼになっても、与えることができる人間は、最後まで現役なんですね。」(72p)

ヒトの死ぬ瞬間を見たのはアサちゃんが初めてだった。曽野に言わせればアサちゃんは最期まで仕事をしていたコトになる。

親と成人した子供との関係についてうまくいく秘訣は「友人との関係と同じように、もし私を受け入れていただけたら、仲よくしてください、という気持ちでいたほうがいいと思います。」(78p)という。

若い頃はアサちゃんとべったりではなかった。よく衝突もした。ところがアサちゃんが怪我をして親子の立場が逆転する。そのころからアサちゃんが愛おしくなり大事にするようになった。歩けなくなっても、食事ができなくなっても、話ができなくなってもアサちゃんを介護するときが一番幸せだった。嫌だと思ったコトは一度もなかった。最期までみてあげたかった…。久しぶりその当時を思い出し涙があふれ出る。

冠婚葬祭について「八十、九十まで長生きして、自分の家で老衰のように穏やかに亡くなった親たちには、社会的な晴れがましさなどもう必要ありません。大金を使うこともなく、故人が心から愛していた人たちに囲まれて、このうえなく温かいお葬式ができたのも、世間がどうであろうと、『うち流』を通したからでした。」(103P)と「うち流」を通してよいという。

我が家もアサちゃんの書き残したメモのとおり「うち流」で執り行った。誰からも香典はもらわず、すべてアサちゃんのお金を使い、コトがすべて終わった日、アサちゃんの子供、孫たちとホテルグランヴィアに宿泊して食べ飲んでにぎやかに過ごした。費用はすべてアサちゃん持ちで…。きっとにぎやかなその場にアサちゃんも居たかっただろう。だが、それはもう…。

一人で遊ぶ習慣について「一人旅は、知恵を働かさないといけないし、緊張していなくてはならないから、惚け防止にも役立ちます。毎日料理すること、時々旅をすること。それが私の精神を錆つかせない方法です。」(113P)という。全くそう思うし、そうしている。

人の生涯について「その人の生涯が豊かであったかどうかは、その人が、どれだけこの世で『会ったか』によって、はかられるように私は思います。人間にだけでなく、自然や出来事や、もっと抽象的な魂や精神や思想にふれることだと思うのです。何も見ず、だれにも会わず、何事にも魂を揺さぶられることがなかったら、その人は人間として生きてなかったことになるのではないか、という気さえします。」(114P)と。

好奇心旺盛だけが取り柄のモノとしてはそのとおりとまた納得する。

人の一生について「雨露を凌ぐ家に住んで、毎日食べるものがあった、という生活をできたのなら、その人の人生は基本的に『成功』だと思います。もしその家に風呂やトイレがあり、健康を害するほどの暑さや寒さからも守られ、毎日乾いた布団に寝られて、ボロでもない衣服を身につけて暮らすことができ、毎日、おいしい食事をとり、戦乱に巻き込まれず、病気の時には医療を受けられるような生活ができたなら、その人の人生は地球レベルでも『かなり幸運』です。もしその人が、自分の好きな勉強をし、社会の一部に組み込まれて働き、愛も知り、人生の一部を選ぶことができ、自由に旅行し、好きな読書をし、趣味に生きる面も許され、家族や友だちから信頼や尊敬、好意を受けたなら、もうそれだけで、その人の人生は文句なしに『大成功』だった、と言えます。」(164ー165P)という。

生活条件の厳しい世界を旅し、それを目にした著者だからこそ、そう感じるのだろうか。そうだとすればいろいろある日本だが、皆人生「大成功」の人ばかりになる。いいことだ。

旅といえば何故かイスラム圏の国が多い。イスラムの国の人々は自然条件も厳しい地帯に居住している。それをみるたび、恵まれた国に生きてると思ったことは何度もある。

毎日の凡々とした日々は著者の言うように旅を通して非日常を味わい、活性化を図るのもいいかもしれない。それにはまず、心身共に健康が一番。

午後からは合唱団のコンサートを聴きに行く。ブログを投稿中、知人からTELが入る。会場の世界平和記念聖堂は暑いとか。うちわも配られるらしい。

2011年7月16日土曜日

暑い一日

この暑さの中、本を読む時間がめっきり少なくなった。午前中はエアコンなしでもどうにかなるが午後はもうどうにもならない。暑い!それでも午前と午後の1回ずつ運動を兼ねて自転車で外に出かける。

昨日の午後フルートの練習を済ませて出かけようとすると知人からTELがかかった。おいしいシュークリームを買ってきたから食べにこないかと。すぐに自転車に乗って出かける。知人宅で夕方まで遊ぶ。

午後6時半頃に帰宅すると部屋の電波時計の温度は35度近くにまであがっている。暑いはずだ!エアコンをつけるがすぐには冷えない。その間に夕飯を用意する…。

暑い暑いといいながらあっという間に一日は過ぎてゆく。

半年前までは暑さ寒さは言ってられないほど毎日夢中で過ごしていた。それを思い出すたび、もうその頃の気力はどこへ…と思ったりする。

夜はスペイン行きの話でフルートの知人からTELがかかる。知人は日曜日に世界平和記念聖堂で開催される合唱団の演奏会に出演する。そのコンサートに誘われた。フルートの先生もこられるという。

宗教音楽を主とする合唱団だ。習っているシャンソンやカラオケとは趣を異にする。そのため聴くにはいいが簡単には歌えない。

知人はその合唱団のお世話をしている。そのメンバーに混じって異端者はスペインに行く…。

暑さに負けないよう毎日を過ごさなければ…。本はその合間を縫って…。

2011年7月15日金曜日

鼻がしっかりしている!?

昨日は朝ブログ投稿後、すぐにひまわりを見に行った。

隣町にあるひまわり畑は地元紙に掲載された記事で知った。昨年もアサちゃんの寝ている隙に見に行ったことを思い出す。

記事によると8千本のひまわりとか。ひまわり畑までは自転車で20分くらいかかる。銀行、小学校などの隣にひまわり畑は位置している。ひまわりはその町のシンボルらしく、ひまわり大橋などあらゆるモノにひまわりの名がついている。マンホールもひまわりのデザインだ。

今回の震災の被災地にもひまわりは届けられていると報道で知る。

炎天下にもかかわらずTVクルーも来て撮影していた。家に帰ってお昼のNHKのローカル放送を見ると、ひまわり畑のオープンセレモニーが行われたとか。どうりで小さい幼稚園児も沢山来ていたはずだ。

せっかくだからと思い、ひまわり畑に入り迷路になった道の出口までを5分間歩いた。右手にはうちわを持って顔を扇ぎながら…。ひまわりは2メートル前後もあった。

午後からはシャンソンのレッスンに出かけた。先生の弾く音にあわせて発声練習をする。いつものように下腹を支えて…といわれながら練習が始まる。90分のレッスンだが、結構な運動になる。

レッスンが終わると恒例の飲み会が待っている。レッスン会場の隣のデパートの10階にある食堂街に出かける。リーダーらしき人は下見をして来たといってそこに皆を連れて行く。だが、残念ながら貸切となっている。

近くにあるすし店に入る。昨夜は以前シャンソンを習っていたという人も1人加わった。その人は日舞の先生とか。日舞をすすめられ、名刺ももらう。当然習う気持ちはさらさらない。聞くところによるとどうも日舞を習う人は少ないらしい。

これまでいろいろなことを習ってきた。飲み会があると興味半分に各自の血液型を聞く。シャンソンの人にも以前聞いたことがあった。4人とも全部血液型は違っていた。

よく4人で飲み食べるフルートの人にも聞いたことがあった。そのときも各自違っていた。中国語のときもそうだった。といっても中国語ではA型がほとんどいない。

日本人はA型が多いと聞く。それなのに我が習うコトに関しては4人の場合大概同じ血液型はおらず全員バラバラでA型が少ない気がする。

ふと思った。さまざまな血液型が多いグループほどモノコトが長続きしていると。シャンソンももしかして続けられるかも…。

昨夜の飛び入りの人はAB型だった。

5人のうち独身は我一人。話がそこに行き着く。なぜなのかと。逆になぜ独身なのか教えて欲しい!

考えてみればフルート、中国語などの知人は独身が多い。シャンソンはそうではなかった。

リーダーらしき人はそのとき我が顔を見て「鼻がしっかりしている」という。これを聞いてもうびっくり!人を見てこういう言い方があることを初めて知った。可笑しかった!

それはどうも人に頼らなくてもいいという意味とか。だから独身でいいのだという。

人に頼らずに生きてるかどうかはわからない。だが、これまではアサちゃんがついていた。全面的に頼っていた。アサちゃんがいなくなっても同じような生活をしている。そういう意味では人に頼っていないのかも…。

2011年7月14日木曜日

MD ・CDラジカセ

昨日はMD・CDラジカセでCDをカセット・テープに録音した。

録音するときCDのところには大川栄策のCD、カセットには日本の童謡唱歌のテープが入っていた。

アサちゃんがいなくなってもうすぐ半年。ラジカセには毎日アサちゃんに聞かせていた時と同じままでそれらが入っている。それをみてあらためてCDやカセットを交換する必要がなくなったことを思い知る。今ではラジカセはFMを聞くのみでBGM代わりに流している。

ラジカセは10年位前にMDがついていたので購入した。その当時はMDプレイヤーも買ったこともあった。アサちゃんが骨折で入院した7年前、認知症予防のため就寝時に泊まるよう医者から要請された。その4ヶ月毎晩MDをかけて寝ていたことを思い出す。

それほどMDを使用していたのに今ではMDは…。世の中でもMDはどうなっているのだろう。ふと疑問に思った。

その点、CDやカセットは今でも健在だ。

ラジカセに入っていたのは大川栄策のCDだった。これはアサちゃんが元気な頃いつも大きな声で「さざんかの宿」を歌っていたので、とりあえず買った初めての歌謡曲のCDだ。

昨日午後、友人とカラオケに行った。歌う曲をモニターに転送するときふと思ったことがあった。アサちゃんは元気な頃TVを見て歌番組であろうとなんであろうと人の顔の特徴をつかんですぐあだ名をつけていたことを。

カラオケの友人に大川栄策は「大鼻」、川中みゆきは「あご出る」、都はるみは「おかめ」、白鵬は「はちこう」、豊真将は「ほうまちょう」、イチローは「てこない」…と言ってたと話すと大笑いする。あたっていると…。

歌手のほうは顔の特徴から、相撲のほうは自分の耳に聞こえた感覚から、イチローはグローブを特注するドキュメンタリーを見て「手」がないと錯覚して…。まだまだ他にもいろいろつけていた…。今はこれくらいしか思い出せない。

ほとんど最期まであだ名のコトを話しては2人して笑っていた…。

ともあれ発表会のCDはテープに録音した。録音し終わると偶然にもFMから工藤重典のフルートリサイタルの模様が聴こえてくる。彼は元N響のフルーティスト。日本のフルートの第一人者だ。やはり聴いていて心地よい。

久々にゆっくりとフルートの音色を聴いた夜になった。

今日も暑い一日になりそうだ。隣町でひまわりが8千本咲いているという。見たいけど…。夕方にはシャンソンが待っている…。

2011年7月13日水曜日

楽譜&CD

昨日は夕方からフルートのレッスンを受けた。レッスン会場は市内のど真ん中にある銀行のビル6階。

受付を通り過ぎて部屋に入る。この受付が最近苦手になっていた。というのも2ヶ月くらい前、受付にいる中国の女性と中国語と日本語を交えて5分位話しているとその上司らしい女性に叱られたからである。仕事中に話しかけるのがいけなかったのかもしれない。

その時は丁重に謝った。今までいろいろなことを習ってきたけれど受付で叱られたのは初めてであった。

少々気にしながら毎回部屋に入る。そのたびその受付の人に「怒られるから…」とこっそり話して…。

そのたび中国の女性は「(上司が叱ったことを)皆気にしてますよ。気にしないでください」という。いくら仕事中といえどもこちらはお客なのに…。ましてや受付で授業料を払うときなどは否が応でも会話が必要なのではないかと。

またロビーはレッスンを終えた人々のサロンと化し、笑いや談話でにぎやかこの上ないのに…。

レッスンになった。発表会用に練習している曲だ。とりあえずどうにか一通り曲自体はさらった感がある。後はどれだけ丁寧に、綺麗に、ミスなく吹くかが求められる。

修了後、先生はピアノ譜の入った楽譜とCDを見せてくださる。ピアノ伴奏の入った曲の感覚を知るためにも大事な楽譜とCDだ。それを借りて帰った。

今CDをカセットに録音している。本来ならCDをパソコンでCD録音すればいいのだがその程度にまでパソコンを使い慣れていない。

録音しながら聞いているとやはり我が吹くフルートの音色とは大違い。どの曲も本当にうっとりする。そこまで吹けるようになったらもっともっと楽しいだろうと思いながら録音する。

こういう瞬間はフルートを練習しようと思うのだが、ついつい暑さを理由に…。なかなかそれも…。

午後はまた友だちとカラオケに行く。その前に楽譜をコピーしなくては…。

2011年7月12日火曜日

レモン

我が家の狭い裏庭に今年初めてたった1つレモンが実をつけた。

梅雨の時期までレモンの実は2つあった。それが昨日見ると1つは実が落ちている。

レモンの木は8年前アサちゃんの米寿の祝いにアサちゃんの孫からプレゼントされたものである。

庭に植えて何年かすると白い花が咲いた。すぐに小さい実をつけるのだがすべて大きくならず枯れてしまう。昨年も2,30ほど白い花が咲くのだが実がならない。それが今年は1つ実をつけた。

今春、シルバーの人に植木の剪定をしてもらった。その際、庭師は燐酸肥料が足りないから結実しないという。

それを聞くとすぐにホームセンターに行って肥料を買い、庭に撒いた。その時はまだ小さい実であった。

それが今日見ると卵を一回り小さくした大きさにまでなっている。

同じように植えたアサちゃんの長女はこの冬の寒さでレモンの木も枯れそうだといっていた。当然実はつけていないだろう。

レモンの木は本当にいいかおりを放つ。そのためかその周りには平常見ることもできない綺麗な蝶々が飛び交う。

人は亡くなると蝶々などに化身すると聞く。もしかしてそれは「アサちゃん?」と思い、カメラを構えるのだがすぐに飛んで行く。

レモンの木は年中花を咲かせると聞く。新芽も年中出ている…。

毎日暑い日が続くけど、たった1つのレモンの実が大きくなるのを楽しんで…。

2011年7月11日月曜日

サロンコンサート

昨日の昼下がり、フルートの先生たちが演奏するサロンコンサートに出かけた。

場所は繁華街にあり、夜になるとあたりいったいは飲み屋街になる。昨日は日曜日のお昼とあって人通りは少ない。

店の名は「爈談亭」。店主によるとその名のとおり囲炉裏を囲んで談話しながら飲み食べるところとか。店内は薄暗く、ひと昔前の田舎を思わせる。日曜祝日は文化活動の場として開放しているという。

会場は30数名がやっと入るほどの広さで、演奏者たちは聴衆の目の前で演奏する。フルートの先生たちのアンサンブルだが、そこはプロ。各種のフルートに加え、演奏された楽器は9種類とか。演奏される曲目もその場にふさわしく、くつろいでいた。ステージ衣装もアフリカかインドあたりの雰囲気を漂わせた民族衣装のよう。

演奏の始まる前、ふと思った。この店は以前来たことがあると。囲炉裏の雰囲気で思い出した。

今から10数年前、中国の内モンゴルに出かけた。関空からのツアーで広島からは4人参加した。我々と他の2人組がいた。関西からは初めてツアーに参加し、この旅に人生をかけていると話していた若い男性2人組がいた。

そのうちの若い1人の男性とあまり若くもない広島の我々4人の女性は旅が終わって広島のこの店で再会した。

人生をかけたといっていた彼は京都から1人広島で合流。京都にあるノーベル賞を受賞した会社に勤めている。当時彼は25歳位だった。若い彼は広島の4人の女性のうち1人を気に入っていた。そのた彼は広島にやってきた。

その後その人は広島から参加した女性とうまくいかず、岐阜から参加していた2人組のうちの1人と結婚する。それから何年経っただろう。なんと広島の女性はその後亡くなったと彼の奥さんからTELで聞いた。

彼は確かにその旅で人生をかけた。今では彼は2人の男児の父になっている。

店を思い出したものにパンフに掲載されている青竹に入れた地酒をみたことにもある。「珍しい!」と。

演奏会は終わった。まだ梅雨明けの太陽は燦燦と輝いている。いろんなことを思い出しながらデパートめぐりをして家路に着く。

ブログを書いていると郵便物が届いた。東京の日本特殊旅行からの葉書である。20年前に行ったパキスタン旅行を主催した会社からである。この旅行社だけは不思議と毎年暑中見舞いと年賀状を寄こしてくれる…。

2011年7月10日日曜日

正直ものは馬鹿をみる!?

一昨日エアコンのクリーニングを終えた。その夜、依頼した家電量販店からTELが入っていた。昨日も同じところからTELがかかる。このときは家にいたので電話に出た。

エアコンのクリーニング料金を取りすぎたという。

この依頼は先日デジカメを買った時にしておいた。1台につき¥16800。エアコンを見ずして業者は金額を言う。いわれるまま支払いを済ませた。それでも店を出た後、高いのでは…と思いながら家に帰った。

近くに住む人にTELすると1台につき¥10000という。少しは気になりながらもそのままにしておいた。

それから1週間後のクリーニングである。実際に作業する人は委託されていた。金額を告げると「高すぎる!」という。領収書を見せると又びっくりされる。

アサちゃんはこれまたよく言っていた。「正直ものは馬鹿をみる」と。人をすぐ信用してしまう我が娘を時に心配してくれて…。

ところが昨日は正直ものは馬鹿をみなかった!

量販店の係りの人は電話で差額の代金を1台につき¥4000返却するというのである。

暑い土曜日の昼下がり、早速運動を兼ねて自転車で家電量販店まで出かけた。係りの人は接待中であったが顔を見るとすぐに手続きをしてくれた。

帰宅後、作業をしてくれた委託人にお礼のTELをした。その人が量販店に話してくれたのである。代金を返却してもらったと告げると「それは良かった!」と。

「人が良い」と人から言われることがある。アサちゃんは「人が良いのは馬鹿のうち」だとよく話していた。

アサちゃんとは離れてしまったが、時にあたふたと人に振り回される我が娘の姿をみてどう思っているだろう。「大丈夫!アサちゃん。心配せんでええよ。人が良すぎると人は騙しにくいそうだから…」。

そう思ってこれまで生きてきた…。

2011年7月9日土曜日

梅雨明けの一日

梅雨も明けた昨日は忙しい一日であった。

午後からはエアコンのクリーニング業者がやって来る。そこで午前中は予約していた本をとりに図書館に行き、その後買い物を済ませる。

午後は予定通りエアコンのクリーニングをする人が我が家に来る。

昼には梅雨が明けたことをTVで知る。そう聞いても本当に蒸し暑い。暑くてもエアコンはクリーニング中。扇風機2台出して対応する。作業の人は本当に大変だ。途中冷たいものを出すが、それでも暑そう。

エアコンのクリーニングはなんと2時間に及んだ。

それが終わると部屋を掃除する。もう汗びっしょり!すぐにシャワーを浴びる。気がつくともう4時を過ぎている。6時には友人と落語を聞きに行く約束をしている。それには5時に家を出なければ…。

軽く食事をして5時過ぎ家を出る。

街中の会場に着くと結構若い人たちが集まっている。それもそのはず今日の独演会は若手落語家の柳家花緑だ。その人と会ってそのことを知る。

独演会のお客は満員。熱気が伝わって来る。

初めて生の落語を聞いたのは今から5年くらい前になる。我が家の近くにできた区民センターの杮落としの時であった。「笑点」のメンバーの何人かが登場した。そのときはアサちゃんを車椅子に乗せて聞きに行った。今回は2回目の生落語だ。

入場料¥3500。その人は金銭は要らないという。それでは悪いと思い、会場の受付で販売されているてぬぐい、CD、落語家の本を買ってお礼に渡す。購入者は修了後サイン会もあるとか。

落語は前座が1題と花緑が3題演じた。

なんでも生で聞くものは迫力が違う。本当にすばらしい!旬の人だ!何を言っても可笑しさがこみ上げる!

修了後、友人はサイン会に臨んだ。脇で見ていると花緑は本当に客を大事にする。サインをしてもらう人の希望通りに応えて…。時に一緒に写真に写ったりして。

その人の番になった。写真を撮ってあげるというと写さないという。そこで横から友人がサインしてもらっているところをツーショットで携帯カメラで写した。

サインが終わると友人は日本手ぬぐいをくれる。なんと私の名前入りのサインをもらっていた!その心遣いにもうびっくり!ありがたく頂戴した。友人はCDにサインをしてもらっていた。

そのとき思った。人気のある人は沢山サインを求めて待つ人々に対しても決して退屈させない気遣いをみせ、頭も低い、と。毎年広島で独演会をする理由がそこにある。

会場を出るころには時間もかなり遅かった。2人して友人の行ったことのある店に入る。中はサラリマンでー杯。 まずはビールで乾杯して食事となった。あっという間に夜はふけてゆく。

店を出るとさすが街中。人であふれているが家路につく足がない。仕方なくバスセンターから最終の郊外バスで広島駅まで出てそこから我が家までタクシーで帰った。

運転手さんいわく。「木、金曜日はマツダが休みで閑なんです」と。おかげでスムーズに家に着いた。何年ぶりかの遅い帰宅…。忙しい一日はやっと終わった。

2011年7月8日金曜日

こだわる!

昨日は朝から寺の世話人が我が家にやってきて初盆のことをあれこれ聞かされる。だが、気持ちの良いものではない。アサちゃんの長女にTELすると出かけていて通じない。携帯電話にかけることもないと思いそのままにしていた。

夕方、予定していた友人との夕食で広島駅のグランヴィアホテルまで出かける。5月に我が家に来て以来2ヶ月ぶりに会う人だ。2人とも牛フィレのコースを注文。美味であった。

食事をしている場所からはエアポートリムジンバスや長距離バスがひっきりなしに出入りする。ちょっとした旅気分も味わえる。

その人と他愛ない話をしては笑う。また彼女は私の置かれている状態がいいとも言う。言われてみれば、今の状況は働いているわけでなく自由である。やろうと思えばある程度のことは可能だ。それには底辺に健康であることが大きい。それがすばらしいとその人は言う。

そういう友人もまだ若い!働いてはいるけど楽しそうに見える。みなそれぞれ他人がよく見えるのかもしれない。

こうして楽しい時間はあっという間に過ぎていく。

家に帰り、アサちゃんの長女にTELする。やっと通じた。夫婦で遊びに行ってたらしい。

朝、世話人から聞いた寺での初盆にアサちゃんの写真をもって参る件である。それには供養料として10万円とか。金額をとやかく言うのは好きではないけれど…。

アサちゃんは今から15年前の平成8年9月15日「眠れぬ夜に」と題して独り身の我が娘の将来のことに加え、5か条くらいノートに走り書きしている。その何番目かに「四十九日に寺に写真は持っていくな」と書いていた。この意味がずっとわからないでいた。四十九日に写真をもってこいといわれなかったからである。

ところが今朝の世話人の話でそれがやっと理解できた。写真持参云々は四十九日でなくて初盆だったのである。

今から21年前アサちゃんの夫が亡くなった。そのとき気づいたことをアサちゃんはメモに書いていたのだろう。残ったものに気を使わせないようにと…。

アサちゃんの長女にその話をすると、世話人の言うとおりでなく我が家の方針ですればいいと言う。それを聞いてホッとする。

チベットの講座を受けたとき先生は日本の坊さんが本来の勉強をせず葬式仏教に走っていると話していた。全くそのとおりだ。

今朝、ブログを投稿しているとフルートの友人からTELがかかる。今夜、落語を聞きに行こうと。

その人は長く裁判所に勤め昨年定年退職している。先日イタリアに行くと話していたが…。

彼女が落語好きとは知らなかった。今夜の落語はプロの人であり、一緒に行く予定の人が行けなくなったらしい。それで急遽我が出番となった次第。せっかく声をかけてもらったことでもあり楽しみだ。

その人とは明後日の日曜日にも先生たちのサロン風コンサートで会う予定だが…。

その前に今日の午後には先日デジカメを買った家電量販店に依頼したエアコンのクリーニングがやってくる。

閑になったとはいえ、なんやかや忙しい。それでもすべて面倒なこだわりをなくせば気持ちも落ち着く。

さあ今日も張り切って…。

2011年7月7日木曜日

死んで花実が咲くものか!

昨日の午後は雨の中、近くに住む人と予定していたカラオケに行った。半年くらい前に開店した店であり、なかなかしゃれたつくりになっている。

カラオケは何年ぶりだろう。以前に行った時はリモコンで機械を操作した。今回はモニターとは別の小さい画面をタッチしての操作だ。時代の変化を感じさせる。

その人は元の職場仲間と行くらしく操作も慣れている。その上、リズム感ある曲もよく知っている。

利用時間は時間によって違うのだが、そこは暇人2人。無制限で予約した。なんと午後2時から6時まで歌い、しゃべり続ける。それでも平日とあってとても安い。またドリンクもフリー。

今様の歌はさっぱりわからない。とりあえず今習っているシャンソンの曲を検索するとあった、あった!

まずはそれを歌うが、習っている曲は同じでも歌詞が全く違う。途中フランス語も入ったていたり…。

歌は育ってきた時代を髣髴させる。若いときに流行った歌を歌うとその時代が蘇る。それでも決してその頃に戻りたいとは思わないが懐かしさは募る。

その人は聖子ちゃん、百恵ちゃん、グレイ、ユーミンその他の知らない人の歌をリズムに乗って歌いまくる。その合間に次の曲を転送する。本当に忙しい!

1人カラオケが流行っているとTVでみたことがある。昨日の店でも何室かはそういった人であった。1人で行動するのは好きだけどカラオケに1人で…は今のところ考えられない。

2人でにぎやかに楽しく時間を過ごすと6時になっている。我が家に帰ると、寺から初盆の案内が来ていた。現実を見せられた思いがする。すぐにそれぞれのところへ初盆の連絡をする。そしてゆっくり他の案内状を見ると初盆に関わるモノや経費が書いてある。

亡くなってああせい、こうせいといくら寺が言ってもアサちゃんはきっと喜ばない。アサちゃんは元気な頃いつも言っていた。「死んで花実が咲くものか」。生きてるうちが花だと…。生きてるうちに楽しめと…。

我が住むところは大半の家が浄土真宗安芸門徒であり、盆になると墓のまわりに竹と紙で作った色とりどりの灯篭を立てる。初盆は白い色で…。ところが我が家はアサちゃんの夫が福山なので安芸門徒ではなく、日蓮宗だ。

灯篭よりも塔婆を立てる。その塔婆だが、初盆はいつもの塔婆に加えて大塔婆も立てるという。普通の塔婆の長さは2メートルで幅10センチくらい。大塔婆の大きさ長さは…。

ブログを投稿してると、寺の世話人が来た。初盆に寺に参るようにと言う。寺が我が家で参られるのに…と言ったけどそれとこれとは違うらしい。

遊んだ後にくるこれらの面倒なこと。そう思うことはいけないことだろうか。ついつい朝から思ってみたり…。

2011年7月6日水曜日

ブログいろいろ

先日の葡萄亭わいんさん出演のチラシを見て以後、時々彼女のブログを拝見する。

なんと昨日のブログには日舞もやっている。これについては以前見たブログで知っていたはずなのにすっかり忘れていた。もうひとつ忘れていることがあった。ゲームの達人とか。

昨夜、ブログを見てわからない言葉があったのでコメントするとゲームのことだった。その返事には以前ゲームで中国地区チャンピオンになったとも書いてあった。

ブログも1つだけではなくいくつか投稿しているらしい。

ここ数年忙しい日々を過ごし、他人に対して無頓着であった。聞いたこともすっかり忘れていた。

最近少しは気持ちに余裕が出来たのかヒトのブログも拝見する。

それにしても”葡萄亭わいん”とは本当に綺麗な名前だ。もちろん芸名のみならず本人自身も美人だけど…。

葡萄亭わいんさんの特技を見るとなんとフルートとある。

フルートといえば昨日もレッスンを受けてきた。発表会に向けてスラブ舞曲第2集2番を習っている。先生の吹かれた後すぐ吹くとその余韻で少しはいい音がでる。だが油断するともう変な癖が抜けきらない。

レッスン後は家で練習しようと言い聞かせて帰宅する。だが、それがいつの間にか…。次のレッスンがすぐにやって来る。

個人で習うレッスンなのに、これまでいろんな人と知り合った。皆個性がある人たちだ。それに皆長く続けている。途中でやめていてもいつか再開して…。

皆と会うのは年に一度の発表会か忘年会。それに先生の出演されるコンサートなどだ。それぞれ年齢・性別関係なく和気藹々と話し合い、たまに会ってもすぐ打ち解ける。

年齢的には先生がなんといっても若い!20年前後続けている皆を引っ張って下さるのは先生の魅力にあるのか…。

葡萄亭わいんさん、いつかまた特技のフルートを一緒に吹きましょう!

2011年7月4日月曜日

『スペインひるね暮らし』

中村明の『スペインひるね暮らし』(文藝春秋、1997年)を読んだ。彼の著作を読んだのはこれで2冊目。前回のあの読後の悪さに比べて今回の本は彼の作家デビューのひたむきさが伝わってくる。

読んだ後、ネットで彼について検索すると3年前に亡くなっている。もうこれを知ってびっくり!スペインで暮らし始めて13,4年。それも66,7歳の若さで…。本のはしばしに飲む話が出てくる。酒におぼれてしまったのだろうか。

ネットでの検索結果、中丸の本の内容の下品さは私だけでなく皆に追及されている。それでも2冊目に読んだ今回の本はいやらしさもあるが、サラリーマンをやめ作家生活に至るまでの話を読むと応援したくもなる。その矢先に亡くなっているとは…。

中丸はクリスチャンの家系に生まれ彼自身もクリスチャンだ。彼は「安保」闘争のデモ隊に駆り出された日の京都でカルロス・モントーヤのポスターを見て入った店でフラメンコとの出会いが始まる。初めて聞いたフラメンコについて「演奏が終わったとき、僕は立てなかった。強烈な音色に腰がぬけてしまっていたのだ」と。彼はこのようにして神さまが教えてくれたフラメンコを知ったとたん、神さまに背を向けてしまう(16p)。

大学を卒業し出版社に入り、53歳で退職しスペインに渡る。ここから話は始まる。

スペインについての本を紹介している。齋藤孝『スペイン戦争』(中公文庫)、清水幾太郎『昨日の旅』(文藝春秋)。この2冊の本はいずれ読むとしよう。

そういえば清水幾太郎の孫は清水〇木という。社会人大学生の頃、この先生から専門科目の哲学を学ぶ。そのゼミは2名だけ。あるときのゼミ前、清水幾太郎のお孫さん?とたずねると私の質問を含めてこれまで2人にそういわれたことがあると喜んでおられた。

先生は東大で学ばれ、当時から専門の科目は1対1で学ばれたとか。小さいときからラテン語を学ばれていたらしく、ドイツ語、フランス語も教えておられた。そこには祖父の教育方針があったのかもしれない。相当な年齢まで共に過ごしたといわれた。見るからに賢い坊ちゃんという風貌が感じられた先生だった。

変わった授業であった。いっさいの無駄話はなく、ゼミ生はただ聞くのみ。質問とかはなし。配布されるプリントは原稿用紙に書かれた文章のコピーを渡される。30代半ばと思われる若い先生なのにパソコンは苦手だとか。試験のときはあらかじめ用意された課題を時間内に書くのだが、これがとてもおかしい。2名しかいないゼミ室で速さを競うように文字を埋めていく。この作業は年齢、性別関係なし。しゃべるのは早口だが走るのは遅い。それでも字を書くのは結構若者に負けないから助かるのだが…。

これが教養科目となると人数も多い。字を書くときのスピード感ある音は経験者しかわからない。社会人大学生となるものはまず字を早く書くことから学ばねばならないと知った。

その先生の私以外のゼミ生はその後、京都大学の大学院に進学し、哲学を研究している。とても聡明な女性であった。まだ最近のことなのに今となっては懐かしい!

話は中丸に戻る。スペインが今のように落ち着いたのはフランコが亡くなってからだという。彼はそれを「フランコはスペインに中産階級を生んで死んだ」(35P)と表現している。

スペインでの生活に対して中丸はまず「親愛なる君よ」と我が身に言い聞かせる。そして「きみは食べなくてはいけない。まず、食うことだ。それから散歩、計画だった読書、そして、よーく考えて書くのだ。酒は慎まなくてはいけない。いいね、わかったね」(48P)と。

中丸の奥さんはスペインに行った夫に会いに行くために団子屋のパートで時給650円で週に3日働いている(71P)。

パエーリャについて一躍有名になったのはサマセット・モームの『ドン・フェルナンド』というスペイン紀行(1935年)の中で絶賛したからだとか(74P)。

イスラム教徒のモーロ人によってスペインは711年から1492年までの800年の長きにわたってイスラム支配が続いた。砂漠からの民は水をふんだんに利用した建築を作った。それは中庭の噴水に見られる。その最たるものがグラナダのアルハンブラ宮殿だとか。ちなみにアルハンブラのようにALで始まる言葉はほとんどがアラビア語から来ているという(76-77P)。

スペインと玉ねぎについては切っても切れない関係とか。日本のことわざにある「お前とならば手鍋さげても」は「お前とならばパンと玉ねぎ(Contigo、Pan y Cebolla)」に。

ひるねについて「ぼくは読書なども摂取しようと思い、スペインでひるね暮らしをするにあたってあれこれ取捨選択した本のうち、『檀流クッキング』を手にした」と述べる。中丸はこの中の「いつの日にも、自分に拭き募ってくる天然の旅情にだけは、忠実でありたい」という一節に強く惹かれるという(221P)。

彼がスペインへ来た理由を「駐在員の日本人夫婦の顔は、いつも本社に向いている。それが嫌なのだ。僕はサラリーマンを捨てて、ひるねをしにきた男だ…」と(253P)。

8ヵ月後の新年に中丸は一時帰国する。スペインの人と別れるとき「ぼくも身を立て、少しは名を上げ、ちょっとは売れる物書きにならなくては、団子屋勤めの女房がかわいそうである」といって「昴」を歌い皆で「蛍の光」歌って再会を祈る(291P)。

中丸は物書きとして売れなかったなら憧憬する「乞食」を職業にしようとした。そこには私淑する結城昌治の影響があった。「結城さんは、検察事務官時代、勤めに嫌気がさし、いっそ乞食になろうとおもったことがある…」。それも母の嘆きから断念されたとか(297P)。

日本に帰って結城と再会後の一年後、結城は亡くなる。「六十九歳の空の高みにのぼって行かれた。白布を上げ、たった二行の簡潔な遺言を拝見し、涙がとまらなかった。弟の死以来たまっていた涙が、堰をきった。チャンドラーの薫陶も全く役に立たなかった」(299P)。

その後「翼よ、あれがスペインの灯だよ」(299P)とスペインに戻った中丸は「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きていく資格がない」(Si no fuese duro、no estaria vivo.Si no pudiera ser dulce、no mereceria estarlo.)「ぼくはそういうふうに残りの人生を生きてみたいとおもっている」(301P)と自己を戒める。

そう思った彼は本の最後にこう記す。「アニモ!」頑張って、元気を出していけ!アニモ!アニモ!アニモ!」(302P)。

どんなに著名な人もそれなりに自分を奮い立たせて頑張っているのだとこの本で知った。最後の言葉は特にそう思う。皆にあてはまるのだ…と。

2011年7月3日日曜日

落語

今日近くの区民センターで素人落語会が開催される。

昨日我が家の修理をしてくれたアサちゃんの長女夫妻にお礼としてそのチケットを購入して渡した。

素人落語だから大した金額ではない。チケット購入の依頼は以前からあった。それにしてもいつ落語に目覚めたのだろう。

アサちゃんがいたときは夜寝るとき以外はほとんど一日中、音のある生活だった。ボケ防止もかねていた。

CDなどはすべてネットで購入。CDは年齢的にも落語、浪曲、歌謡曲、民謡、童謡、唱歌とさまざまなジャンルに及んだ。

先日のチケット購入依頼でアサちゃんの長女の夫が落語が好きと初めて知った。アサちゃんに聞かせていた落語のCDをあげようと思って探す。探してもあるのは落語以外のものであり、落語はすべて処分していた。

昨日の昼前、区の図書館のロビーに目をやると、アサちゃんの長女の夫の住む区の落語会のチラシを見つける。なんとその中に知っている人がいた。

葡萄亭わいんという芸名の女性落語家だ。

彼女とはフルートで知り合った。落語をやっている話はフルートを再開した今春、先生から聞いて知る。今その人のブログを見ると、NHKの社会人落語日本一決定戦in池田の応募で悪戦苦闘している様子が伺える。

彼女は一人の主婦でありながら地元の役者でありアマチュア落語家等で活躍している。春に会ったときもちょい役でTVに出たと嬉しそうに話してくれた。

私の周りにいる人はそれほどしょっちゅう会うわけではない。けれども、みんな何かを頑張って楽しんでいる。

昨夜アサちゃんの長女の夫にTELして落語家の話をする。8月と12月に開催されるその人の演じる落語会にも聞きに行くと話していたが…。

2011年7月2日土曜日

信頼!

今日も朝から蒸し暑い!そんな中、アサちゃんの長女夫妻がグラジオラスの花束を抱えて我が家にやってきた。先日来からお願いしている家のちょっとした修理のために…。

アサちゃん亡き後は金銭を払ってでも他人様にモノ・コトを依頼しようと思っていた。先日の庭木の剪定がそうである。ところがアサちゃんの長女の夫は1級建築士として長くJRに勤務し、何事も器用である。またとても親切だ。

他人に頼まなくてもしてくれるとのことで今回もお願いした。

それもすぐに終わると長女夫妻は自分たちの孫たちのところへ出かけていった。

しばらくするとTVドアホンがなる。排水溝の修理はどうかと業者はいう。家がとおりに面しているからか毎日いろいろな人がチャイムを鳴らす。「うちは結構です!」といって帰ってもらうのだが、あまり気持ちの良いものではない。

アサちゃんがいたときは介護しやすいように家のいたるところをリフォームした。それらはすべてアサちゃんの長女の夫の知っている業者でやってもらった。先ほどやってきた訪販業者は信用できないばかりか怖い!

少し気を取り直して本を読む。先日読んだ中丸明の別の本だ。本の裏表紙をみると著者の写真がある。それを見る限りそれほどへんなおっさんには見えない。今回読んでいる本は『スペインひるね暮らし』(文藝春秋、1997年)。まだ4分の1くらいしか読んでないけど、前回の著者の本の書き方と比べると内容的には神妙さが伺える。

著者が長年勤めていた出版社をやめて出かけたスペインを書いている。そのころから著者は一年の半分ずつを日本とスペインで過ごしている。この本では住み着くきっかけから話は始まる。

それから10年後、前回の作品を書いている。スペインに関しては相当権威があるようで「日西協会終身会員」と書いてある。それでも作品を書くにつれて慣れが生じるからか、前回のような作品の書き方になる。その書き方は受け入れられない。

今読んでいる本は、著者の気持ちが良く出ていてそれほどの違和感はない。でもやはりところどころ変な言葉を書き並べている。もうこれは著者の趣味の範疇になるのでどうしようもないことかもしれないが…。

こうなると本でも何でもその人となりを信頼するしかない。そう思わないと読んだ後ドット疲れが出てしまう…。それでなくても暑さで大変なのだから…。