2011年12月29日木曜日

NHKテキスト投稿から

今朝も寒い。

最近遅い起床が続いた。昨日から少し早く起きる。スペイン語の放送を聞こうとする。だが、テキストは1月号に…。昨日早速1月号を購入。

身支度を整え、スペイン語放送を聞く。なんとなくテキストの後を見る。「Queridos amigos(親愛なる友へ)」の頁に先日投稿した文が掲載されている。嬉しかった!

この年末年始、思うところがあってブログ投稿をその期間、止そうとした。だが今朝は嬉しさに負けて気持を新たに投稿する。

今年は本当にいろいろなことがあった。今年始めアサちゃんを亡くし、我が人生最大の不幸と思った。ところが日々改まるにつれ、いろいろな人のおかげもあって楽しい毎日を過ごす。有難い!

今年をざっと見渡してみても6月、「ワインの夕べ」で知人からスペイン行きを誘われる。またひょんなきっかけで信奉する人とブログを通して知り合い励ましてもらう。また8月には気落ちしているモノを励ましてくれたフルートの知人とスペインへ…。フルートの先生には4月からフルートのレッスンを再開してもらう。フルートの仲間たちにも励まされる。さらに身近にいる姉妹とその身内。さらにまたスイミングの先生を始めとする皆さん。さらにさらにこれまで行った海外旅行で知り合った人たち。そして遊ぶことばかり考えているモノに付き合ってもらう人たち等。親切にしてもらった。非常感謝!

年末近くになって、再度これまでのことを振り返る。

2,3年前、気づいたことがあった。それは10年毎、新たな行動をしている、と。その10年に来年はあたる。9月、スペインから帰る途中、スペイン語を習おうと決意。これがその10年毎のことだと直感する。

昨年まで、その10年は「アサちゃんが亡くなる…」と不吉な予感をしていた。だが、それは9年目であった。10年毎は、エレクトーン、中国語、フルート、社会人大学入学と主に学ぶ方面のことだった。それに気づいたときそれがいつしかジンクスに思えるようになる。それが来年である。これらほとんどは今でも続いていることばかり。

アサちゃんがいなくなり、来年になるのを楽しみにするようになった。その時スペイン語に行き当たる。私の中の10年目のジンクスはスペイン語。来年が楽しみだ!

こうして年初の不幸はすべて帳消しになり、年末まで楽しいことばかり続く。それは来年にかけても…。

そしてNHKテキストへの掲載である。

NHK『まいにちスペイン語』2012年1月号に掲載された文、記念のためにここに改めて書こう。

「スペイン演奏旅行

8月末から2週間、地元の音大の先生方と合唱団の演奏旅行に入ってスペインへ行ってきました。初めて見る国スペイン。見るもの、聞くものすべて初めてで、サグラダ・ファミリアの横にあるレストランでは彫刻家の外尾悦郎氏に偶然お会いし、同行者一同楽しいひとときを過ごしました。また、サンティアゴでは、聖堂での演奏の模様が地元紙に紹介されるなどということもありました。
それでも残念なことがあります。それは訪れた先の国の言葉を話せないということです。日本に帰国する機内で、『スペイン語を習おう!』と決心。すぐにラジオのスペイン語講座『まいにちスペイン語』10月号を購入し、次の日から学び始めました。NHK語学講座のHPから放送されたラジオ講座が聞け、時代の移り変わりを実感します。いい時代になりました。(広島県 〇〇〇〇さん)」

そのコメントは「サンティアゴの聖堂での演奏はいかがでしたか?ぜひスペインを再訪して、会話も楽しんできてください。(編集部)」とある。

もちろん再度スペインへ行く予定。その時はスペイン語を話せるようになっているだろう。

掲載の記念としてオリジナルグッズが贈られるという。まだ届いていない。それを目にしてスペイン語を学ぶ励みとしよう!このスペイン語、NHKの放送以外にも、来春には修了して3年になる大学に再度通って学ぶ予定。新春になるとその受験手続きが待っている。

夕方から市内のホテルにバイト時代の人と投宿し、今年最後の遊び収めをする。食べながら、飲みながら楽しいひと時を過ごしたい!そして来年も元気で楽しく毎日を過ごせるよう期待して…。

年末年始、しばらくブログは休みます!よいお年をお迎えください!

ブログを書き終えるとメールが入る。東京に住む姪からである。今からネパールに行くという。すぐにTELすると飛行機に乗る直前だった。初めて姪を海外に連れ出したのは伯母である私。大学時代、オーストラリアへ行くという姪を中国に変更させて連れて行った。その時中国語を話す私をみて中国に関心を抱かせるきっかけをつくる。その後、姪は大学を卒業し、学校へ勤務した。それにもかかわらず、そこをやめて東京の中国語の専門学校に3年通う。それにも満足せず天津の師範大学に留学する。その間、アサちゃんは中国にいる孫にエアメールを送り続ける。時には国際電話をかけたりしたこともあった。そのすべての手紙をアサちゃんは保存していた。

幸い姪は得意の中国語を生かした仕事についている。

余計なことを書いてしまった。ネパールはまだ行ったことがない。発展した国より、途上国のほうが旅は楽しい!いろんな国を見てきていつもそう思う。まだまだ姪は若い!いろんな国へ出かけて行き、そしていろんな人に出会って欲しい!

〇〇ちゃんへ
帰国後の話、楽しみにしています!そしてまた一緒に海外に行こう!旅費は任せて…!

2011年12月27日火曜日

泳ぎおさめ

今朝も寒い朝であった。2日前から朝4時半ごろエアコンのタイマーをして寝ている。アサちゃんがいた頃はこの季節になると24時間エアコンを稼動していた。その癖が抜けそうにない。

この寒さ、市内の北部に住む姉の家は大変らしい。朝、電話してくるなり「雪はどう、元気?」という。雪は降ってないと話すと、姉の住むところは粉雪が降り続き、積もりそうだという。昨日も市内中心部に出ると雪はなく、着込んで出たので恥ずかしかったと笑って話す。

確かにこの年末は例年より寒い気がする。それでも今年が最後となるプールに出かける。幸い寒いながらも日が差している。プールの更衣室に入ると泳ぎ終えた人が2人いた。話をすると、寒いのでかなり勇気を出して泳ぎに来るという。

その気持、よくわかる。今朝も泳ぎにいくかどうかためらった。それでもプールに入ると気持がいい。

今日も1キロ泳ぐ。子供たちも休みに入ったのか何人か泳いでいる。泳いで方向転換する途中、隣のコースで歩いている男の人から「こんにちは!」と声をかけられる。泳ぎながら「誰?」と考える。考えても思いつかない。しばらくするともう一人の男性から何往復したか聞かれる。20往復と答える。

その人はさらに「上手に泳ぐんじゃけえ、ここで歩きんさい」という。「歩いたことがない」と話すと「歩いてみんさいや」という。それで「足が到(た)うかね」と聞く。「プールの底を上げたけえ、足はたう」とその人はいう。そこまでいわれるならと思い、初めてプールで歩いてみる。

ところがプールの中ではなかなか思うように足が進まない。するとその人は「若いんじゃけえ、さっさと歩きんさい」と促す。「若くはないよ」、「泳ぐより難しいよ」と話すとそんなことはないという。結局2往復プールの中を歩いて、今日は終えた。

「若いんじゃけん」云々は着ている水着のせいかもしれない。水着はFILAで派手に見えるらしい。以前水泳の先生もその水着をみて「なんと派手な水着じゃねえ」といわれたこともあった。

先週はプールで歩く人から指図され、いい感じがしなかった。今日の2人は先週の人と全く違って親切だ。

それにしても…と思う。歩く人は泳ぐものの観察をしているのかと。泳ぐものは顔を水に浸けて泳ぐ。ところが歩く人はプール全体を見渡しながら歩くことが可能だ。そのため暇暇に泳ぐものの動きを観察しているのだろうか。

今日は1キロ泳ぎ、水の中を100メートル歩いた。歩いたからかプールから出た後、いつもと比べて体が寒くない。その点はよかった。

今年はじめ、アサちゃんの介護の疲れか、相当体重が減少していた。もうこのままかと思っていた。ところが、最近よく寝る人間がさらによく寝る。そのためかやっと高校時代の体重にまで回復した。これをキープして来年も元気に過ごそう。ともあれ今日の泳ぎで今年も暮れる。新春は5日から始まる。泳ぎ始めはさてさて…。

2011年12月26日月曜日

『道づれは好奇心』

夕飯後、BSの「長江 天と地の大紀行 第一回チベット大峡谷と理想郷」を看る。それを看ていて「やっぱり中国が好きなんだ」と気づかされる。というか中国の大地や民族が好きなのかも知れない。旅心に誘われる。

旅といえば先日、お礼のメールをしてただ一人返事が来なかった人からも夕方返事をもらう。全員、携帯番号にショートメールで送信した。そのうち何人かは携帯のメールアドレスを知らせてもらう。今日の人もそうだった。その人からのメールには「人の気持を大切にされる方ですね」とある。メールをもらったモノよりもそう書いて送ってくれたヒトのほうがよほどそうである。ありがとう!

旅といえばなんといっても「好奇心」。それにふさわしい本があった。『道づれは好奇心』(澤地久枝 講談社、2002年)である。

以前、筆者の澤地が琉球大学やアメリカの大学に通う姿をTVでみたことがあった。そのとき私は会社に勤めていた。若者に混じって楽しそうに学ぶ筆者のその姿を看たとき、とても感動し、「いつか私も…」と思ったことがあった。そのときのことなどがこの本に書いてある。筆者が大学で学んだのは1999年頃。4年後、私のその夢は叶う。今さらながら何事も「思いを抱き続けばそれは実現する」を実感する。

なんといってもこの人は素晴らしい!こういう人の本を読むと「今から…」と思うし、勇気をもらう。今ブログに投稿しながら改めて読んでいるともうこれは我がバイブルとしか思えない。よいも悪いも「好奇心」はある。これからも筆者のように「好奇心」を持ち続けよう!

筆者は本のタイトルどおり、「好奇心」と言うキーワードを頻繁に使用している。そのキーワード、全部を拾い集めた。すべてをブログに投稿するには長くなるので一部は割愛した。以下がその引用である。

「…行けないはずの場所へ行ったということにわたしは興奮した。たっぷりと満たされるものがあった。なにが満たされたのか?それはわたしの好奇心。封じ込められていたものがこのいっときに解放され、喜んでとびはねているようだった。わたしは子供のときから好奇心の強い人間だった。…やりたいことはかならずやるという厄介な習性。その中心に位置しているのが『好奇心さま』なのだ。これは生まれつきのものか、自分で育てたものかわからない。物心ついたらそうだった。」(11p)

「もしもなんに対しても興味をもてなくなったら、時間があり、経済にゆとりがあっても、わたしはひょいと気軽に旅に出るだろうか。カタクリの開花を見たいという思いだけで出てゆく一人旅。旅のさきにはかならず未知の世界が待っている。そういうわたしの道連れは、好奇心。貪欲な好奇心がわたしの心を揺さぶり、ひょいと身軽に腰をあげさせる。七十歳をこえればそれだけの衰えは確実にやってきている。それでも、好奇心を道づれに遠くまで歩いてきた。好奇心によって生かされた今日までの人生。わたしが特別な人間であるわけがない。」(17p)

「『教えることはしない』人生をえらんだが、いまではなにをしても許される境遇に身をおき、すべては自分でえらぶのだ。伝えたいことがないわけではない。初めての経験への好奇心と冒険心がわたしを揺り動かした。という次第で一九九九年度前期の半年、『非常勤講師』として週に一日、九十分の講座をもつことになった。」(20p)

「いつも好奇心を道づれの人生を歩いてきて、『沖縄』の原風景というべきものが心にある。それはなんなのか。じっくり自分と向き合うことになった。…好奇心のかたまりのわたしが記憶する事柄は、まことに自己中心身勝手なものだった思う。」(39p)

「これが現実なのだと思った。『だからダメだ』と思うことはするまいと考えた。この状態から前向きの知的好奇心が生まれることに希望をもとうと。…この日をさかいに、わたしの文章はすこしは変化したはずである。通じない日本語は、さしあたって端を書けるときの障害になる。」(101-102p)

「学ぶことと伝えることとは、わたしにとっては切り離せない一つのものだった。自信をもって伝えるためには十分に学び直す必要があった。スタンフォードの一学期間と、琉球大学の二年間、わたしは学ぶ生活に徹したことになる。それを実現できたのは、自分がそんなにものを知らないかという自覚と、未知のことにほんのすこしでも近づきたいという意欲、いや好奇心のたまものだった。学生たちがわたしの好奇心に感染してくれるといいのだけれど。『知りたい』『知ろう』という気持ちがなくては、積極的な行動は生まれない。この気持の底にひそんでいるのが好奇心なのだ。関心と言ってもいいし、知識欲と言うこともできる。わたしの人生では、『好奇心』とよぶのがいちばん適切であるようだ。」(104-105p)

「どんな心の持ち方で生きるか、きまりもない禁止の法律などもない。一人ひとりがえらぶことだ。好奇心人間のわたしの人生は、与えられた条件をいつもはみだし、生きたいように存分に生きてきた。その傾向はまだ失われていない。わたしが『外国人以下の日本人』と自称する理由は、数年前まで金閣寺、銀閣寺、龍安寺の石庭などなど、日本人なら当然一度は訪ねている場所へ一度も行っていないせいだった。『いつか、好きな異性と二人きりで』というかわいい夢をかなえられなかったせいもある。」(114p)

「この国の政治の動きに対して、たとえ孤立し、罵詈讒謗を浴びせられても、機会をみつけて変わらぬ志を述べる生きかたをかえないでいようと心を決めた。…そういう仕打ちが大手をふってまかり通りそうな世相が近づこうとしている。好奇心人間のわたしといえども、そんな不幸な世の中など見たくはない。…心は剛直に、生き方は柔軟に(できれば優雅にというのは高望みだが)生きてゆく。そのときも、わたしの有力な道づれは貪欲この上ないわが『好奇心』ということになろう。」(115-117p)

「だれも認めてくれなくてもいい。わたしはいつも、精いっぱい生きてきた。これがわたしの人生といえるほどの成果などなくても、一所懸命に生きた自分を認めてやろう。後悔はない。…ここまで生き、仕事もつづけてきて、なしうることのささやかさを思い知り、それがふつうの人生なのだとわたしは静かに肯定する。大きなことなどできなくていい、できない方が人間的だと思う。他人に強いる気はないけれど、わたしは自足できる答えに達した。」(172-173p)

「若い人にまじって大学で聴講をつづけていて、昨日よりは今日と変わってゆこうとしている自分に気づく。ささやかでありながら内容豊かな人生を生きるとはどういうことか、答えを今も求めつづけ、命を実感するわたしがいる。」(173-174p)

「『もうすぐ七十歳になるのよ』と言うべきだっただろうか。メディテーションはいざ知らず、好奇心と意志を支柱として、わたしは小さな旗をかかげて生きてゆく。『矩』は結局のところ、わたしの判断。それを踰えそうだ。ヴィザなしでアルジェリア国境の無人地帯へ三歩入る冒険をやってのけたように。」(190p)

「未知の世界に心躍らせる好奇心を押しつぶし、人とはチョッピリ違った行為をする冒険心をさげすみ、ひたすら老いることを嫌い、『ぼけ』をおそれる日々を送っていたら、人は老い、ぼけることをまぬがれない。」(193p)

「『好奇心がつよい』などと言わない方がいいと思う。『知りたい』」欲求よりも、こわいものから逃げようという本能の力がはるかにつよいのだから――。ヤモリはその一例で、そのほかにもきっとある。」(243p)

「好奇心が道づれの人生の恩沢を書いたが、わたしは節度と志のブレーキは保ってきたと思っている。そういう志を欠き、その上お金がらみになったら、パパラッチの同族になろう。パパラッチになるのは好奇心人間ではなく、『かくされたもの』を知りたいという人間の俗な好奇心につけいり、金銭の代償(成功報酬?)として他人のプライヴァシーをあばくことを仕事とする人たちだ。」(244-245p)

「感動はあとに自問自答をひき起こす。感動が呼びおこした『わたしも…』という新鮮な意欲。それがわたしのささえ。『好奇心』を道づれに、もうすこし、精一杯生きてゆこう。」(249p)

(あとがきから)「『道づれは好奇心』とタイトルをつけたこの本のあと、プランはあるが、当分書く気はない。わたしは一つの時代に区切りの線を引き、のこされた時代へのあたらしい出発を用意することになりそう。区切りのためにかつての旅や仕事の資料をまとめていて、わたしは“好奇心”というパートナーとともに生きてきたと思った。なんとも貪欲でこわいもの知らずの生き方をしてきた。『遠っ走りのチャー坊』だった幼児の日から今日まで、わたしが好奇心を養い育てたのか、生来の好奇心がわたしの人生を決めたのか、区別はつかない。よき人との出会いに恵まれて、倖せな人生であることの一端は、この本の挿画にのぞいている。すべての思いに感謝のおもいでいっぱいです。」(252p)

2011年12月25日日曜日

中国映画から

この1週間、毎朝起きるのが遅い。このままこの起床時間に落ち着くのかと思うと恐ろしい気がする。

遅い朝食をとろうとすると短大時代の同級生からTELがかかる。許可を得て食べながら話す。行儀が悪いことこの上ない。申し訳ない。

お昼からは市の映像ライブラリーへ中国映画を見に行く。ここは10年振りか20年ぶりに出かける。日中友好協会や日中親善協会で中国語を学んでいた頃、中国映画に関心があった。そしてその情報も耳にしていた。

今では中国映画の情報はほとんどはいってこない。ところが先日、市の公共施設で中国映画特集のチラシを手にする。その上映は20日から今日までの6日間。映画は昨日のブログに書いたように余り好きでない。

それでも寒い中、思い切って街中にある映像ライブラリーに行った。今日の映画は「図雅的婚事」(トゥヤーの結婚)。

2006年の映画でベルリン国際映画祭金熊賞受賞作品とか。舞台は内モンゴルだろう。広い草原と羊の群が画面に溢れる。見ていて頭が何か錯覚を起こしそうになる。余りにも自分の置かれている状況と違いすぎるからである。いい映画だった!

内モンゴルはずいぶん前のGWに行ったことがある。パオの中で目を醒ましたとき、外は雪が降っていた。1日で夏も冬もやってくる厳しい土地。一番の思い出は星が綺麗だったことと、食事の不味さ。いろんな国へ行ったけど、この内モンゴルと中国桂林の食事の不味さは他と比べようがない。「何でも食べてみよう!」の私でもこの不味さには閉口する。そのため、外モンゴル(モンゴル共和国)は行きたいけど、ちょっと考えてしまう。

旅の話題ついでに、先日から海外脱出組みがお正月を海外で…と繰り出している。もう少し早く気持に余裕ができていたなら、それも…と思ったりする。働いていた頃は、盆も正月もGWも海外に繰り出していた。父が亡くなってからはアサちゃんを一人にさせるのは…と思い、お正月は海外に行かないようにした。落ち着いたら来年からそれも視野に入れよう。

それでも29日には市内の某高層ホテルにバイト時代の女性と宿泊し、今年の遊びおさめをする予定。

やっぱり家でじっとするのは似合わない。映画の話題から気持が旅行にそれてしまった。ぐっと元気が沸いてくる。

今年夏、9年ぶりの海外旅行をした。来年からは以前の感覚を取り戻し、もっと、もっと羽ばたきたい!今はそれがささやかな来年に向けての希望である。

2011年12月24日土曜日

趣味etc.

今日はクリスマス・イヴ。クリスマスといえば昨夜、知人が出演するメサイアを聴きに行く予定だった。ところが寒さに負けて行くのを断念。本当に申し訳ない!

今朝は、年内、後2日しか開館しない図書館に出かける。新聞を読んでいると、趣味のアンケート結果が出ていた。読書、旅行、スポーツをする、音楽を聴く、パソコン、映画や劇の観賞、写真と続いて音楽を演奏するは12位となっている。上位に入るもののうち、映画や劇の観賞はほとんど当てはまらない。特に、映画は余り好きでない。

それ以外は当てはまる気がする。だがそれも趣味といえるかどうか疑わしい。「読書」は最近は時によく読む。ブログにすべて公開していない。だけど、相当読んでいると思う。「スポーツをする」は水泳のみ。「音楽を聴く」は一日中FMやCD、YOU TUBEで音を流している。「パソコン」はブログ投稿などでもう必需品。これも趣味といえるのだろうか。「写真」と「旅行」は対になっている気がする。「音楽を演奏する」はフルートである。

毎日関わるモノは読書、音楽を聴く、パソコン、音楽を演奏するが当てはまる。

この音楽。今日広島交響楽団から「重要なお知らせ」と封筒に印刷された書類が送られて来た。来年度からの会員制度についてのお知らせとお願いである。

現在、年10回定期演奏会が開催されている。その個人正会員になっている。それが来年度から定演に加えて「平和の夕べコンサート」も同料金で聴けるという。さらにディスカバリー、名曲コンサートの会員もそれぞれ募っている。

ともあれ、暇人としては開催される演奏会はなるべく聴きに行こうと思う。広島以外にも倉敷からもたびたび案内が来る。以前出かけていた名残だろう。遠くは名古屋まで行ったこともあった…。

さらに趣味といえば夕食後、先日知りあった人からTELがかかる。フルートの話をすると音楽の趣味がないと話される。これは好き嫌いの問題。他に趣味があればどういうこともない気がする。泳げなかった頃、スポーツは苦手と思っていたように…。

また、その人に先日ブログをしていると話した。電話で早速、ブログを見たとも言われた。何の取り得もないブログだけど、読んでもらうと少しは励みになる。ありがとう!

またブログに投稿して悪意のある人がいるのでは…と心配してくださる。大丈夫!と話す。これまで、そういうことは全くない。メールなども変なモノは来たことがない。ご安心を!

こうしてブログに投稿して今日1日も無事終わる…。

2011年12月23日金曜日

ドラッグストア開店

年の瀬も押し詰まった今朝、我が家のとおりを隔てた斜め前にドラッグストアが開店した。人通りは多い。だが、その前の道半分は交通規制をして道路の修理をしている。

ドラッグストアといえば、今年始めまで買い物に行く時間も儘ならなかった。アサちゃんの尿取りパッドやとろみをつけるトロメイクはネットで購入していたことを思い出す。この2つは毎日の生活に欠かせず、カートンで購入していた。アサちゃんがいなくなったときそれらは大量に残ってしまった。幸い、施設入所の人に全部持って帰ってもらったこともある。

今では逆にドラッグストアに行くほどの用がない。大概はスーパーで間に合う。そのスーパー内の薬局は今月末で閉店するという。

昼過ぎ、シクラメンを買って帰る途中、近所の人に出くわす。買っている品がちがう、とその人は笑っていう。

夕方、宅急便が届く。その人もドラッグストアの開店の話をする。

隣の従妹は電話で「もう行った?」と私に聞く。

すべての買い物はJRの線路を渡らないと手に入らない。個人的にはドラッグストアよりも他の店舗のほうが…と思ったりする。開店しても当分買いに行くことはなさそう…。

2011年12月22日木曜日

琵琶を聴く

今日も寒い朝であった。

お昼前、広島経済大学に出かける。といっても初めて行く大学だ。大学近くにあるJRの駅も初めて降りる。大学までの無料のバスに乗ろうとするが、その停留所がわからない。駅前で学生らしき若者に聞くと大体のところを教えてくれた。近くまで歩いてさらに人に尋ねると、やっとバスが見えた。

バスは大学のある山のほうに向かって動き出す。すぐに大学に着いた。到着しても目指す講演会場はさっぱりわからない。

建物内に入るとどこにエレベーターがあるのかわからない。それでも目に付いたエレベータに乗ろうとするとそれは違うという。さらに奥に行ったところのエレベータで会場に着いた。

すぐに講演は始まった。半円形のひな壇形式の会場だ。学生300人に混じって社会人が話を聞く。指定された席はどう見ても年齢は高い。我が年齢よりもずいぶん高く見える。ふと思った。

若い頃、1歳上の人でも話が合わないと感じたことがあった。それなのに今ではどんなところへも平気で出かけ、若者に混じって学んだりする。当の若い学生はこの状況をどう感じているのだろうと。そう思うと申し訳ない気がしてくる。

ましてこの大学は最寄のJRの駅と大学までをバス会社のバスを何台か貸切って3,4分間隔で一日中ピストン輸送している。思わずこの費用は…と思ってしまった。

大学内も今日見た限りカフェテリアなどもすばらしい。これもすべて学生確保の手段なのだろうかと穿った見方をしてしまう。

余計なことを書いてしまった。今日聞いた話、というか語りは『厳島を愛した平清盛と平家一門の運命』と題した琵琶の弾き語りとその解説。弾き語り奏者は荒尾努氏。まだ30過ぎと若い。本職は某重工業に勤務する人とか。休暇を利用してメディアや講演に出ていると聞く。

来春NHKの大河ドラマが平清盛らしく、広島へも来年また演奏に来ると話していた。

琵琶法師というだけあってお坊さんの恰好で琵琶を弾く。なんとさびしげな音よと思いながら聞く。もらったプリントを見ながら何を語っているのか聞く。内容は始めは「祇園精舎」。これはよく知っている。さらに厳島神社を作った物語などの「大塔建立」。それに「那須与一」。これはなぜ平家と琵琶がつながっているのかや、宮島としゃもじとの関係等の話を聞く。

そういえば宮島へ初詣に行くとかならずしゃもじを買って帰る。そして高校野球の広島代表は必ずしゃもじを持って応援する。「敵をめし(飯と召し取るがかけてある)とる」は知っていた。

それを今日詳しく聞く。聞いた話を書くよりネットで検索すると詳細なHPがあった。それを引用する。(http://park1.wakwak.com/~vine/mati/tokusyuu/syakusi.htmlより引用)

「宮島の杓文字は、江戸時代(寛政年間1800年頃)厳島の光明院というお寺に誓真というお坊さんがいて、宮島の貧しい人々をみて宮島の木で弁天様の琵琶にちなんで杓文字を作ってお土産にしようと島の人々に教え広まっていきました。また、ほかの杓文字よりも使い勝手がよく、寛政の改革では、宮島の杓文字は高級品として指定を受け贅沢とされていました。滝沢馬琴の日記には、『宮島の杓文字は使い勝手がよくってお櫃のごはんが一粒残らずきれいにとれる』と書いています。
日清・日露戦争の頃には、広島の宇品港から大陸に出兵し、また帰ってきたのですが、『ご飯』」を『めし』ということから『敵をメシトル』にかけて、縁起をかつぎ、無事に帰ってくればそれを持って故郷へ帰りました。そうして、全国へ広まっていきました…」

最後に、「先帝後入水」。それによると『平家物語』は平家一門の魂を慰めるためにその物語はできたという。そしてその物語を通してその効果を3点話された。
1 日本語が美しい
2 歴史、文化がよくわかる
3 想像力を豊かにしてくれる

来春大河ドラマが放映されるという。学生たちに『平家物語』を読むようにとも…。

今回の公開講座は「特別客員教授による特別講義」と銘打ってあるだけあって、その内容はいずれも素晴らしい。特に5回目の話に関心がある。せいぜい期待して年明けを待つことにしよう!

2011年12月21日水曜日

ショートメールから

今日も寒い朝であった。この気温、平年よりも低いとか。

午前中、昨夜知人から教えてもらった人たちにショートメールを送信する。スペインへ行った知人の合唱団の人たちへのお礼のメールである。知人の所属する合唱団のうち、10数名が旅行に参加している。そのほとんどの人から写真やCD、菓子などをいただく。携帯電話番号に1人づつショートメールを送る。

送信しながらも早い人からはすぐに返信が来る。ほとんどの人からすぐに返事をもらう。そのうち同じ町に住む人からは何度もメールをもらう。その最後には「これでメル友だね。〇〇」と猫好きの人らしい絵文字が入ったメールが届く。こちらも「ありがとう。うれしいです。」と送信する。

また修了した大学の近くに住む人からは家に立ち寄るようにとのメールを受け取る。来年4月から再度通う予定と連絡する。

メールの返事が来ない人は、知人によると体調を崩されているとか。早く回復されるといいのだが…。その人はスペインで「悩み」のことを話されていた。悩みがあるかと聞かれ、「全く悩みがない!」と答えたことを思い出す。その時、そういう私に対してうらやましがられたこともあった。

「悩みがない!」は今でもそうである。アサちゃんをなくした今年、それ以上の不幸はないと思っている。それも少しは落ち着き、今は「悩む暇さえない」のが本音である。悩む暇があればそれに浸らず動き回ると思う。きっとそうする。

お礼のメールをし終えると幼馴染と約束どおり、隣町まで回転寿司を食べに行く。お昼なので店内は客で一杯。それも終えると幼馴染の家に上がりこむ。そこで夕方まで遊ぶ。

年の瀬も押し詰まった感がある。明日はまだ行ったことがない大学へ講義を聴きに出かける予定。この大学は来月一杯毎週出かける。そのうち1回は有名な人が来広される。

こうして動き回ることが今の私の「元気のもと」だと思っている。来年もそうする。今年よりも…。きっと…。

2011年12月20日火曜日

万歩計&ヘルスメーター

今年最後のフルートのレッスンに行く。

先日、先生から郵送してもらった楽譜でレッスンする。元の楽譜より1度音をあげているとか。レッスン曲は短調とばかり思っていた。聞くところによると短調と長調が入り混じっているらしい。いずれにせよきれいな曲である。

今日はフルートの仲間に誕生日が同じ人がいる。1人は先生でもう1人は知人だ。この2人、何歳になっても互いに互いを忘れないだろう。

先生と話していると旦那さんから万歩計をプレゼントされたという。もちろん先生は太ってはいない。万歩計といってもこれまで見たことがあるモノとは違っていた。パソコンに万歩計のデータがすぐ入るとか。

いいモノが出回っていると改めて知る。体重云々については全く気にしたことがない。ほぼ同じ体重で何十年も生きている。

飽食の時代だ。メタボが気になる人が多いらしい。先生の旦那さんも少し注意をしただけで半年位で自然に数キロ痩せられたとか。反対にいくら食べても太らない人もいる。フルートの発表会で伴奏してもらうピアノの先生がそうらしい。もって生まれた何かがあるのだろうか。

今日知人にメタボの話をすると、ヘルスメーターをいいものに替えたという。話を聞くとそれで図ると体重計の表示が実年齢よりも相当若く出るという。気をよくして図ったら、また同じ表示だった、と。そして他の人が図っても同じく若く表示されるという。「自分だけ若い…」は違っていたと笑って話す。面白いモノが出回る時代になったものである。

2011年12月19日月曜日

プールで

月曜日のお昼はプールに行くようにしている。それも今年は来週を残すのみとなった。

今日も寒い朝であった。だが、朝の日差しは暖かい。その間を利用してプールに行く。プールの中にはいつもと違って少しだけ人が多い。歩いている人たちだ。

泳ぐコースには5人くらいの人がいる。泳いでいてぶつかるのが怖い。なるべく泳ぐ距離を開けて泳ぐ。しばらく泳いでいると歩いている男の人が近寄ってくる。何を言われるのかと思うと、いなくなったコースで泳げと命令する。

どうも他のコースで泳ぐ人がいなくなったのでそこで泳げということらしい。すぐにコースを変更して泳ぐ。

先週は、泳いでいるのに、何かプールに落ちているといって騒動する女の人がいた。係りに何事?と聞くと天井の錆がプールに落ちるらしい。それがその女性にとっては気になって歩けないという。

それも落ち着くと、泳ぎもせず、歩くコースでしきりになじみの人としゃべるばかり。

最近、プールで歩く人はしゃべっている人が多い。泳ぎながらはしゃべれない。その点、歩きながらは話ができる。だからといって泳いでいるモノに干渉して欲しくない。

それでも今日も1キロ泳ぐ。言われたことも気にせず無視して泳ぐ。

返り際、受付の職員の女性から「お疲れ様でした!」と声をかけられる。その言葉、今日は嬉しかった!

まさか、その若い女性は先日の「鍋」のときにいた人ではないと思うけど…。

2011年12月18日日曜日

墓参りに…

今朝はこの冬一番の冷え込みだったのでは…。明け方寒くて目が覚める。手元においているエアコンのリモコンを入れてまた寝る。

今日はアサちゃんがいなくなって丸10ヶ月。朝、アサちゃんの長女に墓参りに行くかどうかTELすると、行くという。

起きたときは冷たい朝だった。それでも3人で車で墓参りをするときはぽかぽか陽気になる。空を見上げても快晴で気持ちよい。アサちゃんの長女夫妻は墓の掃除道具を持参し、その周りを綺麗にする。

いったん家に戻り、ティータイム。その後、3人で食事に出かける。車の中で「古希」の話になった。アサちゃんの長女の夫のことである。今月が誕生日なのでそれまでに、2年もある。自分の娘にしてあげるようTELしたらしい。すると、「まだだいぶ先の話…」といわれたと笑っていう。

そう話したのは、アサちゃんが一番かわいがっていた孫だ。その孫に、午後、家から電話でデパートに贈り物を依頼する。アサちゃんがいなくなったので身内には誰にも贈らないつもりでいた。だが、アサちゃんのこの孫だけはやはり思い入れがあり、贈ることにした。

アサちゃんの長女である姉と話していると、来年は四国遍路に行くという。「2人で?」と聞くと、姉の夫の元の職場の何家族かの「妻」のグループで行くらしい。「夫」のほうはなぜ行かないのかと尋ねると信心深くないという。判る気がする。いくらアサちゃんがいなくなっても今はそこまでの気持ちは沸いてこない。

それでも姉夫妻に「サンティアゴ巡礼はしたけどね…」といって今日は分かれた。

2011年12月17日土曜日

サグラダ・ファミリア

昨日の昼前、スーパーの外に出ると先月、ベルギー、オランダに行った近くの知り合いと出会う。自転車を押して歩きながら話をする。旅行先の温度は0度から5度だったという。

着ている服を見ると頭にはフードを被っている。その恰好で旅行した、と。

その頃、広島で始めて雪が舞う。東の方の山は見る見るうちに白くなる。自転車を押すのをやめて、乗って家路に急ぐ。

夕飯後、フルートの先生から送られた新しい楽譜で「愛の小径」の練習をする。曲は短調なので憂いを含む。綺麗な曲だと思いながらフルートを吹く。家の外に音が漏れたらなんと物悲しい…と思われるかもしれない。

その後お風呂に入る。そのときちょうど電話がなる。先日、知人はBSで「サグラダ・ファミリア」を放映すると話していた。それを教えてくれる電話だった。始まるまでは5分しかない。

BSは最近見られるようにした。といってもほとんどTVを見ない。TVの番組欄も当然見ない。知らせてくれてありがとう!

ゆっくりその番組を見る。先日のスペインを思い出しながら見る。放送内容は当然知らないことばかり。ガウディが亡くなった100年後の2026年にそれは完成する。

放送はサグラダ・ファミリアの天井のデザインの謂われを説明していた。長方形の筒をねじると真ん中がへこんだスツールのようになる。その先端を切り取った形が天井のデザインになっているという。

サグラダ・ファミリア(2011年9月)
幸いその天井の写真を撮っていた。

サグラダ・ファミリアの天井のデザイン(2011年9月)

教会の円錐状の柱も高さを1にすると、横幅は2分の1、途中の高さは3分の2に設計されているという。

それも今ではコンピュータ・グラフィックスでやっている。

完成後の2026年はまだ遠い先だ。行ける日を楽しみにして元気で毎日を過ごそう!

今朝は短大時代の人からピアニストの横山幸雄の演奏会と打ち上げにいった話を電話で聞く。彼女は長いことピアノを教えていた。短大卒業後、ギターを習っていた同級生とその人からピアノを教えてもらったこともある。今では横山幸雄のファンで、熊本在住のその人の知り合いもわざわざ広島まで聴きに来たという。韓流だけでなくクラシックにも追っかけはいる…!?

2011年12月16日金曜日

音楽便り

今日は天気予報の予想通り寒い一日だ。それでもお昼過ぎまで日差しは暖かく感じた。

先日、フルートの先生から「愛の小径」の変調した新たな楽譜が送られて来た。先生によるとその楽譜をパソコンに取り込むと変調のソフト変換がすぐに可能とか。それを聞いて技術の素晴らしさにただ驚くばかり。♯が2ヶと♭が1つに変調されていた。

郵便受けには他にもハガキが入っていた。広島交響楽団からのクリスマスカードである。広島交響楽団の演奏を聴く個人会員に、今年、再入会した。その間、9年のブランクがある。9年前までは1度もそういう便りは届かなかった。それなのに今年は「メリークリスマス♪いつも応援ありがとうございます」と手書きで書かれたカードが届く。裏面は楽団員全員が写っている。

書いた人はヴァイオリン奏者でその人のサインも記されている。

先ほど先月のプログラムの演奏者名簿で確認してやっとサインが読み取れた。

個人会員は相当数いると思う。それを楽団員が手分けして書き、各人に送っているのだろう。

時代の変化をここでも感じる。先日「広響」から届いた郵便物にも初めての「ファン感謝デーコンサート」の誘いが寄せられた。聴く人がいて初めて音楽も成り立つ。ファンを大事にする気持ちがよくあらわれている。

来年度の広島交響楽団の個人会員も今の座席の予約方法を改め、座席指定になるという。何でもいいことに変化するのは素晴らしい。また一つ新しい年が来るのが楽しみに…。その前にフルートの練習が待っている…。

2011年12月15日木曜日

冬眠!?

一昨日寝るのが遅かった。昨夜はいつもの時間に眠る。それなのに今朝は起床時間9時前。よく眠る。眠たいときはアラームをしない。余計よく寝てしまう。

もう少し早く起きる癖をつけないとすぐにお昼になる。午前中があっという間に過ぎてゆく。

午後、予約の本を取りに図書館に行く。その後、スーパーで買い物をする。レジに並んでいると先客に声をかけられる。全く見覚えのない顔の人だ。しばし考えていると、「〇〇さんの妹さんでしょ?」とその人は話す。姉と同級の人であった。

姉とは4歳離れている。そういわれても全くわからない。話しているといつもスーパーで見かけると「妹さん」だと思ったという。「小さい頃と顔が変わらないね」ともいわれる。そういわれてもしっかり年齢は重ねていると話す。

「小さい頃と顔が変わらない」とはよく人からいわれる。体重が高校時代からほとんど変化がない。だからそう思われるのかもしれない。その人の弟さんのことも話される。全く見当がつかない。弟さんは1歳上だった。

先ほど姉にTELしてその人のことを話す。よく知っていた。その人の家も知っているという。

その後、YOU TUBEでフルートのレッスン曲、プーランクの「愛の小径」を聴く。聴くたび綺麗な曲だと思う。楽譜のその曲の説明によると「F・プーランクは、パリで生まれ、パリになくなった生粋のパリジャンらしく、軽妙洒脱と抒情性を使い分け、その作品は、常にフランスの粋なエスプリに満ち満ちている。数多い彼の歌曲の中で、この『愛の小径』は、いわゆるメロディ(フランス芸術歌曲)の範疇には入らない軽いものだが、Valse Chanteeの副題を持ち、まるでよき時代のパリで品のいいシャンソンを聴いているような味わいのある作品である。」と書いてある。

あまりにも聴き応えのある曲なので夕食後、吹いてみた。曲自体は吹きやすい。ざっと通して吹いてみる。やはり綺麗な曲だ。

明日の朝から寒くなるという。最高気温も7度とか。寒いといって今から冬眠していては…。明日は早く起きよう!

2011年12月14日水曜日

フルートetc.

昨日のフルートのレッスンは忘年会のためいつもより早い時間にはじまった。

今回のレッスン曲「スペインのセレナーデ」は早く仕上がる。レッスン前、先生から先日行われた発表会のCD、DVDそれに写真を収めたCDを受け取る。先生はいつも熱心にそれらを作成してくださる。それを見ると頭が下がる。

来週からのレッスン曲は今朝、先生にTELしてPoulenc(プーランク)の「Les Chemins de l'Amor」 (愛の小径)になる。先ほどYOU TUBEで探すと持っている楽譜と同じ『フルート アンコールピース22選』からフルートで演奏していた。

全く同じ楽譜の演奏だ。この曲は♭が5ヶと♯が4ヶが途中、何度も変調している。先生はそれを半音下げるか上げるかする楽譜を作成して送付してくださるという。

まだ練習していない。YOU TUBEで聞くと素敵な曲だった。フルート以外でソプラノ歌手が歌っている。その歌詞に圧倒される。綺麗に吹けるよう、気合を入れて頑張ろう!

レッスン後、忘年会の開始時間まで教室にフルートをおいて近くにある中央図書館に出かけた。途中、そごうデパート、NTT基町クレド、リーガロイヤルホテル、ひろしま美術館を通り抜ける。会社リストラ後、何度も通った中央図書館。昨夜は、そこに到着するまでクリスマスのイルミネーションを見ながら歩く。

ゆっくりイルミネーションを見るのも久しぶりだった。

時間になって教室に戻る。最後のレッスンの人も終わり、4人で会場まで歩く。

紙屋町から流川に向かう道は不景気はどこへ…。サラリーマンの姿で溢れている。

会場に着くと人も揃ってきた。どの人も見慣れた顔の人たち。1人を除いて皆、習っている年数は10年、20年と長い。以前よく食事をしていた4人が列を作る。思わず「4人でバブルを生きてきた、よく遊んだ」といってしまった。皆も笑っている。もちろん先生も!4人でよくレッスンが終わると遅い時間にもかかわらず街へ繰り出した。毎週がまるで忘年会だった。

2次会は先生を含めた5人でカラオケに行く。カラオケには近くに住んでいる人とよく行っていた。最近は行かない。

それでも街中にあるカラオケは久しぶり。時間も遅いので長くはいられない。2,3曲ずつ歌う。皆、音楽が好きなので楽しそう!あっという間に時間は過ぎる。

皆で電停に行くと電車は走っていた。だが遅い時間なのでタクシーで帰る。

会社勤めの頃はタクシーも捕まえられなかった。それが今はタクシーが列を連ねて並んでいる。世の中の様変わりを思いながら家に帰る。

そのフルートのレッスンも今年はあと1回を残すのみ。月日が経つのは早い。

一夜明けた今朝、スペインへ行った若いテノール歌手の人からお詫びのメールが入る。

帰国後、名前を検索していたらその人のブログに行き着いた。すぐメールを送った。だが返事は来なかった。なぜ?と思った。ところが今朝その人からパソコンのエラーでメールの返信が遅れたとの返事が来た。気に障ることを書いたかなと思っていた。そうでなくてホッとする。

午後は幼馴染の家で遊ぶ。今日も1日過ぎてゆく。今年も押し迫ってきた感じがする。

ブログを投稿して忘れていたことに気づく。

昨夜、忘年会の席で知人からスペインへ行った合唱団の人からの預かり物を受け取る。お菓子だった。知人の所属する合唱団のいろいろな人から写真や優しい言葉など受け取る。しかし、その人たちと直接会うことがない。すべて知人を通してお礼をいってもらう。昨夜、知人は合唱団の人の電話番号を教えてくれるという。大概の人は携帯を持っていると思う。教えてもらったなら、お礼のメールをショートメールで送ると知人に話す。ありがとう!と。

2011年12月13日火曜日

年賀状の欠礼ハガキから

昨日、年賀状欠礼のハガキを受け取る。エレクトーンを一緒に習っていた人からである。

昨日のブログで楽器のことを書いたばかり。そのタイミングのよさに驚く。夜、お悔やみのTELをする。何年ぶりかで話す。互いに声は変わってないね…といって。

知人の実母と思って話していたら、旦那さんのお母さんだという。話は悔やみから他のコトになった。エレクトーンを習っていた当時は、その全盛時代だった。グループレッスンで、5,6人だった思う。そのうち今でも4人で仲良くしている。最近はそれぞれ忙しくしていて年賀状だけである。

昨日の彼女は、エレクトーンをやめた後、リコーダを習っている。ところが、今はリコーダの人に誘われてドイツ・リート音楽に所属して歌っているという。

音楽の話になると世間の狭さを感じる。また、何かをやってる人はずっと何かをやり続けていると感じる。エレクトーンを習っていたもう一人も、原爆資料館で英語のボランティアガイドをやっている。彼女はずいぶん前、NHKの教育TVの福祉の時間にメインで登場したことがあった。すぐにTVを見たと電話して喜んでもらったことがある。

考えてみると、人から「~ちゃん」と呼ばれるのは、エレクトーンの人と会社の同僚からだけである。それはどちらも姓のほうで呼ばれるのだが。同級生からも呼ばれないのに…。それだけ皆仲が良かったのかもしれない。また、こちらも他の人を今でも「ちゃん」づけで呼んでいる。

昨日TELした人には我が家の不幸も知らせる。年賀状の欠礼のハガキは出さず寒中見舞いを出すと話した。すると、何年か前にも寒中見舞いを受け取ったという。父のときかもしれない。自分ではそのことをすっかり忘れている。

新年に寒中見舞いを出すとき、4人で会おうと連絡を書くといって電話を切った。4人の年齢は6~9歳の開きがある。うち1人は10代の学生時代から知っている。私を含めて他の3人も20代と若かった…。レッスン後の皆との遊びが楽しかったことを思い出す。

昨夜の話で面白いコトがあった。ボランティアガイドをしている人は今でも自分のことを「〇〇子はね、」といってるのかと私に聞く。50代になってるのでどうだろうと話した。今度会ったとき聞いてみよう。

自分を含めた4人は長い付き合いになる。今度会うときは10年ぶりくらいだろうか。きっと以前と同じようににぎやかなことだろう。

今日は午後、いつもより早めにフルートのレッスンがある。レッスン後、忘年会が待っている。今からフルートを練習して、忘年会に行こう!

それにしても外はまばゆいばかりの日差しが射している。気持ちいい朝だ!

2011年12月12日月曜日

楽器

昨日の演奏会のチケットは琴奏者の関係者からもらったと知人はいっていた。その琴だが、高校時代3年間、同好会に入っていたことがある。

とはいっても家が貧しかったので琴はない。今、手元にあるのは琴の爪と教則本だけである。

楽器は小さい頃から習いたいと思っていた。高校に入学したとき、音楽部に入部しようと思った。当時はマンドリンクラブがにぎわっていた。ところが入ってみるとマンドリンが盛んな中学出身の生徒がいる。初心者は無理だと入部をあきらめた経緯があった。

その反動がクラブでなく同好会の琴だった。

働くようになったら楽器を買う、これが夢だった。卒業後、初めて買ったのがギターだった。それを持って短大時代の友人と仕事帰り、街中にあるYMCAに通う。ガットギターだ。それもいつしか冷め、ヤマハでエレクトーンを習い始める。これは10年以上と長く続いた。ところが習うに従って、音楽の基礎ができてないことに気づく。

そしてフルートに行き着く。今も習っているフルートはクラシックであり、音楽の基礎から学べた。年が明けると習いはじめて20年になる。途中何度かレッスンを中断するということもあった。フルートは上手く吹けないけど、自分に合う楽器のような気がしている。

楽器といえば、チェロも習いたいと思ったことがある。先日、米子に行った際、米子の友人はチェロを習いたいと話していた。習うようすすめたのだが…。今度合った時、聞いてみよう。

今日も明け方は寒かった。昼前、家のチャイムがなる。出てみると家の真向かいに建設中のドラッグストア開店の挨拶だった。23日に開店するという。

その話を聞き終えるとプールに行く。出かけた時刻が正午である。今日も1キロ泳ぐ。プールの中にいるのは泳ぐ人、歩く人合わせても5,6人くらい。入ったときは温かく感じるが、出たときは寒い。シャワーを浴びても寒い。すぐに服を着る。やっと落ち着く。

泳いだだけなのに一仕事したような気持ちになる。それはなぜ?

2011年12月11日日曜日

コンサートに…

今日も寒い朝であった。起床時間は8時半。昨夜、ふと思いつき、夜10時半頃電話をした。勤めていた頃の人である。

彼女とは1年に1回くらい電話で話す。仕事を離れて9年が過ぎた。その人は一回りも若い。仕事を離れてから、彼女は関連企業に勤めている。互いに良き時代を生きてきた、と笑いあって話す。話していると勤めていた頃の気持ちが蘇る。明日からまた仕事に行くような気持ちになる。不思議だ。電話を切った時刻はなんと真夜中に…。早寝が取り得も昨夜は違った。当然起きるのが遅い。

なかなか会えないけど以前と同じように話せる人がいるのはやはり嬉しい!楽しかった!

今日は午後、我が家の近くのホールで開催されたコンサートに出かける。知人からチケットを2枚もらっていた。隣町に住む幼馴染を誘って聴きに行く。幼馴染はクラシックは初めてだとか。息子さんが友人の結婚式に出席するので里帰りしているという。

長く引き止めるのは悪いかなと思って聞くと大丈夫だという。眠くなるかも知れないといって幼馴染と後の席に座った。ところが演奏が始まると感動したようで前に座ればよかったと話す。

今日のコンサートのタイトルは「心に残る情景」。演奏者は地元で活躍している人たち。演奏曲目は歌い継がれる日本の名曲、心に残る名曲、心に咲く希望の花束、と銘打ったよく知っている曲だった。

日本の名曲は琴と西洋楽器とのコラボ。地元で活躍している人といっても見ていて「華」がある人がいる。ソプラノの女性はオペラで活躍しているだけあって見ごたえがある。それにピアニスト。その人は今回全曲アレンジしたとか。そしてフルートの人。この人もピアノ曲の「ラ・カンパネラ」の速い曲を見事に上手く吹いていた。

フィナーレは「ふるさと」を全員で合唱する。この歌、コンサートのたびよく歌う。やはり淋しさが増す。3番は歌えなくなってしまった。幼馴染もそうだったという。

初めてクラシックを聞いた幼馴染は相当感激していた。チケットをくれた知人に感謝、ともいってくれて…。

ふと思う。今は暇もあるし、元気だ。それに遊んでいてもどうにか生きていける、と。今が一番いい時期かもしれない、と思う。ちょっぴりある淋しさを除いては…。幼馴染もせいぜい遊ぼう、といってくれるし…。これもアサちゃんを介護したお蔭?これからもずっと見守っていて…。

2011年12月10日土曜日

寒くなってきた!

昨夜は、J.ブラームス“最晩年の音楽1891-1896”VOL.1を聴きに出かける。広島駅に近いホールなのでJRに乗っていく。ちょうど時間帯が退社後のためか、久しぶり働いていた頃のラッシュアワーを思い出す。

演奏曲目は「クラリネット三重奏曲イ短調作品114」と「クラリネット五重奏曲ロ短調作品115」であった。

ブログに投稿するので改めてプログラムを見る。第一ヴァイオリン奏者に目が留まる。多分、この人は社会人大学生のとき大学で中国語を教えていた先生のお嬢さんだと思う。

その先生は中国系のシンガポール人で、奥さんは日本人。既に日本に帰化されている。講義のときよく家族のことを話されていた。バイオリニストの出身大学と先生の話されていた大学が同じであり、名前も一般的な日本の名字でない。顔の作りもすべてのパーツが大きくそれも先生に似ている。

関係ないことだ。それなのに、その先生に今も中国語を習っているウクライナ人と結婚した人に先ほどメールをした。間違ってたら悪いけど…。多分合ってると思う。

プログラムを開けると、なんと聞きなれた名前の合唱団のチラシが入っていた。チケットをくれた知人によるとクラリネット奏者の関係者が知人の属する合唱団の人とか。その関係からかもしれない。来年の定期演奏会を知らせるチラシであった。この感想は、約束どおり忘年会で話すことにしよう!

今日は朝方、とても寒かった。ところが次第に日差しも出てきて午前中は自転車で外に出ても暖かく感じた。ところが午後は日もかげって冬を感じる。それでも予約の本を取りに図書館に出かけた。

これからますます寒くなる。ふとさっき思った。家にいる時間が長くなると…。

中国語を習っている人ではないが、習っていないと中国語を忘れてしまいそう。そうならないためにも、ラジオの中国語ニュースやNHKのワールドニュースの中国語版をネットで見ている。遊んでばかりいないで、せめて家にいる時は中国語の本を今より多く訳そう。

明日はまた演奏会に出かける。どんなに寒くても、それでもやはり家にいるより外に出ている方がいい!?

2011年12月9日金曜日

物騒なことが…

昨日の「拉致」ではないが、我が家も3歳違いの妹が誘拐されかけたことがある。

その光景を今でもはっきりと覚えている。

妹がヨチヨチ歩きの頃だ。家の外へ出ると2人の女性に手を引かれて遠くの角を曲がるのを目撃した。すぐに家に帰り、「人攫いだ!」と告げた。

アサちゃんは家を出ると「それはうちの子です!」と叫び続ける。やっと追いかけて手を離してもらった。大きくなるまで「〇〇ちゃんを〇子が助けた!」とアサちゃんは話していたことを思い出す。

小さい頃、妹は「お月さん!」と人からいわれるほど、愛嬌あるかわいい顔をしていた。そのため外に1人でいたところを連れて行かれたのだろう。

今朝の地元紙を見ると、見出しに「中2男子、傘で顔を突かれる」と載っている。余りTVのニュースを見ないので新聞でそれを知る。もうびっくり!なんと住んでいる町の話だ。

最近、拉致や誘拐の話は余り聞かない。だが先日のナイフで人を刺す事件が起きて以来、真似をするのだろうか。殺傷事件は多い気がする。

ヨソの話と思っていた。なんと似たようなことがわが町で起こるとは…。

お昼のニュースでは、中学校は日が落ちる前に授業を30分切り上げて下校させるという。小学校も父兄が見守っているとか。我が家は小学校の横にある。

学校といえば、昼過ぎ銀行のATMのところで高校時代の同級生の女性に声をかけられる。ずっと地元に住んでいるので学校時代の同級生は多い。それでも今日会った同級生は久しぶりである。

明日、明後日、獣医として牧場を経営している同級生に皆で会いに行くという。高校時代、地元の大学には獣医になる学科はなかった。そのため鳥取大学で学んで獣医になっている。当時の担任も参加するとか。欠席者が出たら声をかけるという。

声をかけられても急な話なので参加しない。今日会った同級生は旦那さんを昨年亡くしている。短時間、話しただけなのに同級生のなかにも亡くなった人が何人かいるという。

どうしている?と聞かれ遊んでいると返事する。その人はまだ働いているという。携帯電話番号を知らせあって同級生と別れた。

嫌なことが起きる世の中だ。余りあくせくせず、適当に楽しく生きていくのもいいのでは…と思ったりする。

そんな今日だけど、今から知人からもらったチケットを持って演奏会に出かける。

傘で顔を突かれないようにしなくては…。物騒な世の中になったものである。

2011年12月8日木曜日

『拉致と人生 夢うばわれても』

明け方は雨。それも次第に晴れる。昼過ぎ自転車で外にでる。帰宅すると、スペインへ行った写真を整理。いろんな人から写真をもらうので、相当な枚数になる。全部を日付順に並べられない。しばらくどこで写ったのか考えてしまったり…。

幸い知人からもらった写真には日付が入っている。着ている服で日付を確認して自分で撮った写真を合わせていく。他の人からのものはバラバラなので別にまとめることにした。かなり時間がかかる。

夕飯を食べて蓮池徹著『拉致と人生 夢うばわれても』(PHP研究所、2011年)を一気に読む。

長く生きてきて涙を流しながら本を読むということはなかった。ところがこの本は120頁という短い本(文字も大きい)なのに38頁付近から本の最終頁まで涙がとまらない。

「拉致」という誰もしなくていいコトを経験する。その思いが同じ筆者の『半島へ、ふたたび』よりももっと本音で語っている、と感じた。

筆者はたびたび北朝鮮で引越しをしたことから「ちょっとした会話からでも、相手の真意を必要以上に探ろうとします。…この出来事の背後に何があるのかを、考えざるを得ない。…これは何だろうと詮索することが、習慣になっています。…拉致という、本当に苦しく、絶望的な体験を生き抜くための知恵として、ごく自然に身についたのだと思います。」という(38-39p)。

拉致されて以後、一生懸命に「帰せ」と訴えたという。それも次第に無駄なことだと知り脱力感と虚無感が襲う。そのことを筆者は「私が拉致によって閉ざされたのは、夢と希望です。」そして北朝鮮の人から「勉強しろ」といわれる。

そこで「『じゃ、やろう!』そうすれば、何かがわかるかもしれないと。私には生きるための情報が必要だったんです。そのためには言葉が必要で、根底にはとにかく生きよう、という強い意志があったのです。」と述べている。(55p)

筆者が外国語を学ぶ動機は暇人がスペイン語を学ぼうという気持ちとは比べようもない。生きていく手段として外国語を学ぶ、切実さが痛いほど伝わってくる。

それをもとめて書いている。「孤独でしたが、死ぬことまでは考えませんでした。それよりも自分は生きなきゃと。生きるためには、言葉を知らなきゃ。知るためには、言葉を勉強しなきゃ、みたいな感じでした。」(56p)

拉致されて筆者は「夢」を断たれる。その夢について「夢というのは結局、自分で考えて、自分で選択して、その実現のために努力する過程です。私の考え方では、…」とのべて北朝鮮にはそれは皆無だという。「夢なんていうのは、自分で封殺しました。最後には。」といっている(59p)。

ネイティブに話せない北朝鮮の言葉を子供たちには在日朝鮮人として日本で生まれ育って、北朝鮮に帰国したと信じ込ませる(61p)。そこには日本人としての悔しさ、腹立たしさを押し殺したという。

そんな絶望の状況でも「非常に厳しい状況でしたが、たまには日本の料理を作って、食べることができたというのは、ある意味、力づけられました。自分で努力すれば、こんなこともできると、自分の意識を高めていたんです。」という(67p)。

北朝鮮に拉致されていた頃、キム・ヨンジャが訪れ、「イムジン河」が放送されるのをTVで見る。その河に自由に行ける鳥になりたいと思う。(83p)。

また他の海を見てもそう思ったという。だがそれも「いやいや、こんな思いを持っちゃだめだな」と必死にその気持ち押さえつけたという。(84p)「そこをぐっと抑える。抑えて、抑えて、暮らす。」と。(86p)

筆者は拉致の経験から政府に対して「解決するならば、絆を全部つなげられる解決法を追求してください。」とお願いする(95p)。

帰国した筆者は翻訳の仕事に挑戦し始める。その底辺には「何か自分の中に持っているもので道を切り拓いて生きたい、という考えがあってのことでした、」(101p)。

翻訳家として生きようとした筆者には友人に翻訳家がおり、エージェントを紹介してもらう。(104p)

初めて翻訳した『孤将』は反日的かと思ったという。だが「孤独な人間の強さや弱さ、愛や憎しみ、苦悩これは誰にも通じるところがあるんじゃないか。また歴史上、相手側は日本をどう見ているかを知りたい人もいるんじゃないか…」と思ったという(106p)。

筆者は自由のある日本で暮らせることを「夢を持ち、夢を追い、努力する、という楽しい過程は、取り戻せたと思います。」といい、思っていたような生活ができつつあるという。(111p)  

さらに筆者は「“生きる”ために大切なものは、絆と夢」の二つだという。その二つを回復させるためにみんなに応援をお願いしたいという。(113-119p)

最後に筆者は互いに違うところを知り、理解しあって日本と朝鮮半島の関係を見ようという。そのために筆者は自分なりの視点でその違いを知らせていく。それは翻訳であったり本を書くことで果たしたいという。(121p)

この本のタイトルである「夢うばわれても」について書くのを忘れている。

筆者は翻訳を通して「拉致によって閉ざされた自分の夢、遮断された夢」をつないでいきたいという。それは拉致されるまで学んでいた「司法試験を目指す」気持ちは薄れていった。だが「何をやるかは問題ではなくて、どうやって夢を追うかが大事なことなのです。」と。(101-102p)

皮肉にも筆者は拉致されていた国の言葉を、再起の礎にしなければならない。だが言葉には罪はないとする。(102p)

拉致に関しては何も手助けできない。だが何とかならないのだろうか…。

2011年12月6日火曜日

専属カメラマン!?

4時過ぎ、フルートのレッスンに出かける。教室に着くといつもより大きな音でフルートの音色が聴こえる。それも余り聴きなれない音で…。しばらくロビーで様子をみる。時間になったので部屋に入ると先生が吹いておられた。生徒のレッスンの音と違う意味がそのとき分かる。

今日は新しい曲をレッスンする。8分の6拍子の曲。またしても16分音符に手こずりそう。

レッスン後、知人とロビーで会う。今日も知人の所属する合唱団の3人から預かったというスペイン旅行の写真をもらう。さらに知人からも写真をもらう。知人の開口一番、「専属カメラマン!」と笑っていう。もらった50枚位の写真はいわれるとおり私の「専属カメラマン」。ありがとうございます!

その中の2枚を知人は笑って取り出す。そしてその2枚が「フルムーン!」とさらに冗談を言う。2人して大笑い。モンセラット山の観光ポイントまで行く途中、スペイン人が撮ってくれた写真だ。少々遮がかかった写真だった。その写真を見るたびよく歩き、楽しかったことを思い出す。

そのスペイン人のグループは観光ポイント到着時も何枚か写真を撮ってくれた。だが撮ってくれたスペイン人の写真がない。それが少々残念!

知人が合唱団の1人からあずかったという写真の中には、
「〇〇様、〇〇様 
旅行中は、たいへんお世話様になりました。
ありがとうございました。
お二人が ほのぼのとした
雰囲気を かもし出して 下さいました。
また お会いできる日を楽しみに
しています。
〇〇」
と書かれたメモが入っていた。メモは薔薇の花の周りに2匹の蝶々が舞っている一筆箋である。

異端者がひとりツアーに入り込んだと思っていた。そういう風に思われただけでもう大感激!

先ほど知人にそのことをTELすると書かれていたことは知らないという。知人に「〇〇さんによろしく伝えて下さい」と伝言する。改めて皆、いい人だったと思う。

知人からは他にも2箇所の演奏会のチケットをもらう。知人曰く、その演奏会の感想を来週のフルートの忘年会で聞くという。

こちらも負けずに、ブログを読んでくれている?と聞く。すると読んでいないという。来週、ブログについてテストをするので読むように、と話す。

お互い宿題を抱えて、フルートの忘年会で会おう、といって…。知人はレッスン室に入っていった。

2011年12月5日月曜日

気分よく…

今日は朝からまばゆいばかりに太陽が輝いている。昼前、気分よくしてプールに行った。

先日の豆乳鍋のとき先生は月曜日はプールへ行かないと話された。先日傘を借りた。プールに行く途中、先生宅の玄関に傘とお礼を置いてきた。

ところが、泳ごうとすると「〇〇さん!」と声がする。先生だった。水泳教室が終わった後のようだった。

プールを見ると誰も泳いでいない。そこにいるのは職員数名と先生と私。広いプールで一人で泳ぐ…と思っていると人が入ってきた。しばらく先生と立ち話をする。木曜日の夜、泳ぎに来るようにといわれる。鍋に来ていたあの若い青年たちと泳ぐことは到底無理。春になったら金曜日に…といって先生と別れた。

少しの間、立って話しただけなのに、体は冷える。再度シャワーを浴びて泳ぎ始めた。

今日も1キロ泳ぐ。

今年もだんだんと残り少なくなっていく。いくら寒くなっても、プールの中は温かい。また泳いだ後は気分がよい。たが泳いだ後しばらく鼻水がとまらない。それが辛い…。

2011年12月4日日曜日

豆乳鍋は終わった!

今日は昨日までの騒々しさとは打って変わって静かな日曜日である。また外は暖かい!

昨夜は水泳の先生宅で「豆乳鍋」が行われた。参加人員は小学生、中学生、高校生、大学生、社会人の男性12人、それに女性は若いプール監視員1人と我々の6人の総勢19名であった。

先生宅に伺う前、事故があってJRは遅れ、一駅なのに30分以上かかる。到着すると、すでに準備万端で後は人の到着を待つのみだった。何も手伝わないが果物を持参する。各自それぞれ色々なものを上手く使い分けて持参していた。

男性軍は10代から20代がほとんどで、3、4人が社会人であった。

「宴」がはじまった。昨日のメニューは豆乳鍋、おでん、むすび、サラダなど。飲み物は日本酒、ビール、お茶など。車の人と子供がいるのでアルコールはそれほど飲んでいないようだった。だが、その場の雰囲気はクラブの「合宿」という感じ。にぎやかなことこの上ない。横にいた28歳の若者は、「先生が好きなんじゃ!」といって笑わせる。先生は人気があるようで昨日も3人は先生宅に宿泊するといっていた。

今朝の世話人の女性のメールにも「〇〇先生は、若い男性等が好きと話されてましたが、今迄の積み重ねですね・・・」と書いている。これだけ慕われることは男性の先生もコーチ冥利に尽きると思う。

女性は1人を除いて年齢は高く、自分の孫の名を中学生に言ってはその孫を知っているかと話かける。地元の人らしくローカルな話で盛り上がる。

途中、皆涙を流して笑う場面があった。となりの28歳の男性に誰かが「彼女は何歳か」と聴いたとき、「70?年…」の生まれといってるのに聴くほうは「20何歳…」と全く話がかみ合わない。まるで漫才だった。

楽しい様子は今朝の世話人の女性のメールを引用させてもらうと「昨夜は、爆笑の夕べとなり、皆楽しい一時を過ごされたかと思います。私も腹の皮がヨジレましたよ!(^^)!」と送られて来た。

茶髪にしてる子はおらず、皆感じがいい!会社の飲み会に参加しないという今頃の若者の雰囲気は全くない。どの男の子も、スポーツマンらしく感じがいい。この日を楽しみしていたともいっていた。

これほどの料理を誰が食べる?と思った。だがそれも心配無用。デザートも皆ぺろりと食べる。早めに来て用意した人は大変だったと思う。また後片付けも…。

JRで帰るので9時前には先生宅を後にする。今朝メールを見ると深夜12時位まで皆いたようだった。

こういうメンバーと食事会をすることはめったにない。木曜日のクラブに加えて金曜日が増えた意味がよくわかった。参加するにしても木曜日の若者たちとは一緒に泳げそうにない。金曜日になりそう…。

寒くなるので春になったら夜スイミングに参加すると皆に言うと、先生から4月からクラブに入るようにといわれる。

昨夜、その先生にお礼のメールを送るとすぐに「またプールに来てください」と返信がきた。

暖かくなるまではお昼にプールに行って泳ごう!

2011年12月3日土曜日

皆にお世話になって…

明け方まで降っていた雨も昼前には止んだ。今朝早くアサちゃんの長女の夫からTELがかかる。これから我が家に来るという。

しばらくしてアサちゃんの長女夫妻は菊の花と大根をもってやってきた。先日、塀の工事をした。今日はそれを見に来たようだった。いつもその夫には家のことでお世話になる。

ひとりで暮らしていると誰にでも工事を依頼できない。ところがアサちゃんの長女の夫は親身になってやってくれ、家のことは安心して任せられる。

アサちゃんがいたときも何かあればお世話になっていた。

今朝もその夫にお礼を渡すと受け取らないという。だが、アサちゃんの長女は受け取るようにという。間を取って半分ほど、お礼をした。アサちゃんがその様子を見ていたらきっと全額渡すようにといっただろう。

アサちゃんの長女夫妻は綺麗になった塀を見た後、自分の孫のところに犬を連れて出かけていった。

我が家は静かになったけれども、家の周りは相変わらず騒々しい。ドラッグストアの完成を急ぐのか道の両端はその業者の車が並んでいる。そして店の外の舗装をするので何日間も機械の音が鳴り響く。

昼前、買い物に出る。帰ってみるとTELがかかっていた。知人からである。

音楽会のチケットをくれるという。それも2箇所も…。〇〇さん、いつもチケット、ありがとうございます。楽しんで聴きに行きます。

今夜は「豆乳鍋」を食べに水泳の先生宅に出かける。世話人の女性によると、小学生、中学生に大学生、それにスポーツセンターの職員、そして我々のような人たち総勢21名とか。

世話人はメールで「今夜は大いに盛り上がり、爆笑の夕べにしましょう!(^^)!」という。

きっと楽しい「鍋」になるだろう。その分、せっせと泳ぎに行かなくては…。

2011年12月2日金曜日

暇!?

木枯しが吹く季節になった。2、3日前までのあの暖かさはどこにいったのだろう、と思えるほど今日は寒い。久しぶり家で大人しくしている。だがほとんどTVはみない。

以前、TVは時間的制約があってみられないと思っていた。ところが何の制約がなくても余りみない。最近はニュースもみなくなってしまった。

そんな中、先日知人とBSの話をした。当然我が家はそれはみられない。知人はBSで中国近代や外国の話題があるという。それを聞いて、BSをみられるようにしようと思った。

一昨日BSをお願いしに電気店に出かけた。今朝、その業者がやってきて1時間足らずで工事が終わった。

それが終わってもTVでなく、ラジオ、雑誌、本、パソコンなどのマス・メディアに気が向く。夜になればこれまでと違ってBSをみるようになるかもしれないが…。

メディアといえば、先日新聞に松江の講演会の記事が掲載された。だが、山陰に位置する松江に通えるかどうか気になった。その講演会は年6回あり、行けないことはない。

米子に行った際、友人にその話をすると、距離的には米子も松江も同じくらいだという。先ほどそこのHPを検索すると詳細が書いてあった。すぐTELしてその情報を聞く。近いうち、詳細な情報を知らせてくれるという。

忙しそうにしていても以前に比べれば暇である。先日岩国の友人が言っていたように「石橋をたたく暇はない」ではないが、別の意味で「暇」はある。「暇」はないほうがやはりいい…!?

2011年12月1日木曜日

「哀しみにも終わりがある」

12月になった。今年を振り返るにはまだ早い?我が家は新年早々大きな出来事があった。それも何とかクリアし、新たな年を元気で迎えられそうだ。

午後、デパートに出かけ、アサちゃんがお世話になった人たちにお歳暮を贈る。先日、米子でお世話になった友人にも宿を借りたお礼を込めて…。

以前、伊集院静の本のなかに書いてある「哀しみにも終わりがある」というメールをある人からもらったことがあった。

伊集院の本はこれまで読んだことがない。ところがそのメールでどの本にその言葉が書いてあるのか気になった。すぐに図書館でそれらしき本を2冊予約した。その1冊目の『大人の流儀』(伊集院静 講談社、2011年)にこのことが書いてあった。

この本を予約したのは7月。やっと今、読むことができる。

この言葉は本の最後に書いてある。妻である夏目雅子のことを書いている最後に「親しい方を亡くされて戸惑っている方は多いでしょう。私の経験では、時間が解決してくれます。だから生き続ける。そうすれば亡くなった人の笑顔を見る時が必ずきます。最期に、数年前に観た映画でのチェチェンの老婆のせりふを紹介します。『あなたはまだわかいから知らないでしょうが、哀しみにも終わりがあるのよ』。」(189p)

7月といえば、今ほど気持ちも落ち着いていなかった。その辺りをブログを読んで「哀しみにも終わりがある」と教えてくださったのだろう。

また、この本の中におもしろいことが載っている。それは「まったり」と言う言葉。この言葉は広島ではあまり使用しない。筆者は広島の隣の県の山口県の人。だからこの言葉を使用していないのだろう。というのは同じ本の中の「料理店と職人に一言申す」から「名文家と評判の文筆家でも、こと食に関しての文は、そこに卑しさを感じる。ましてや文章を話言葉と同程度に考えている輩が食に書いたものについて書いたものは酷い。“まったりとした味わいだ”――まったりとは何だ?相撲の技か。あれはとったりか。どういう意味だ。“ソースと食材がハーモニーを奏でてる”――ソースは楽器か?…」(116p)と書いている。

この文章は読みながら笑ってしまった。確かに「まったりとは何だ」である。

先日の米子の友人に話すと教育TVの番組でその言葉をよく使用しているので知っているという。

日本は狭いようで広い!?何年も生きてきて知らない言葉が多すぎる。外国語の前にまず日本語を学ばねば…、そう思ったり…。