2022年12月30日金曜日

『新しい「日本の歩き方」』

 『新しい「日本の歩き方」』(山谷えり子 扶桑社、2021年)を読んだ。このなかに奈良・吉野の金峯山寺がある。奈良・吉野の桜を一度見てみたいと思っていた。が、吉野には金峯山寺があると知ってますます吉野に行きたくなる。昨日と一昨日、大手旅行社2社から旅のカタログが届く。そのうちの1社に吉野の旅の掲載がある。一瞬(ツアーで参加?)と頭を過ったが吉野への滞在は4時間とある。4時間は長いようでもすぐに時間が経つ。ましてやこの秋から一人旅をするようになった。奈良・吉野、それも金峰山寺へ行く計画を立てよう。

 今年も残り少なくなった。この先の天気予報を見ると10度前後で晴れの日が続く。穏やかな年末年始となるようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 この一年、ありがとうございました!新たな年も元気で楽しく過ごせますようにと願って年末年始のブログを休みます。どうぞよいお年をお迎えください!

 以下は気になる箇所をメモした。

★紀伊山地は神話の時代から別な地とされてきました。一万年以上にわたる古神道と神仏習合の霊的パワーは訪れた人の多くが何かを感じる地となっています。十世紀中ごろには中国にもその名が伝わっていたといいますが、奈良時代の修験道の祖・役行者が山桜の木に本尊を彫刻したという話から桜の献木がはじまった吉野の桜は、シロヤマザクラを中心に全山でおよそ二百種三万本の桜が咲き誇り息を呑むほど見ごとです。豊臣秀吉が徳川家康や伊達政宗、前田利家などの武将のほか数千人を引き連れ、「大花見」をして権勢を誇ったほか、後醍醐天皇、源義経、西行など歴史に残る多くの偉人が当地を訪れています。

 文化財指定の金峯山寺(きんぷせんじ)、吉水神社などの前に立てば、激しかった時代の雄たけびのような祈りの声が聞こえてきそうです。……如意輪寺には南朝に仕えた楠木正行が死を覚悟し、闘いの前に詠んだ和歌が記されています。父、楠木正成と今生の別れをした桜井の駅、正成が自害した湊川神社と、時間を遡ってそれぞれの地を踏まずにはいられなくなります。(51-52p)

★旅に出て自然に触れることの効用を説く人は多いですね。人と自然との共生という言葉もあります。しかし、奈良県・吉野、金峯山寺の田中利典長臈(ちょうろう)は、人間と自然が台頭というイメージの共生ではなく、自然のなかで人は生かされているのだとおっしゃいます。(121p)

★奈良の吉野山の桜が美しいのは、ただ自然まかせではなく、室町時代から金峯山寺を訪れた方が山の麓で桜の苗木を買って奉納(植樹)してきた歴史の延長にあるのです。ですから、明治時代「神仏分離令 廃仏毀釈」で吉野山に訪れる人が減ったとき、山は荒れてしまい、版画の版木用に桜の木を伐採しようという話もあったとか。しかし、私財を投じてその危機を救った日本の林業の父と呼ばれる篤志家(土倉庄三郎)がいたり、(その後、今も続いていますが)吉野の小学校では低学年のときに桜の種を拾って苗を育て、卒業するときに植樹するようになったりと、いろいろな形で桜の保存、保全の取り組みが行われて、今も桜の名所が維持されているのです。(209p)

★旅は、自分を浄化し、人と出会い、森羅万象の調和に包まれながら、みずみずしい新しいエネルギーをとり込める。だからそんな旅に出たいと思う人は多いのではないでしょうか。……旅の醍醐味は訪れる者も迎える者も互いに楽しみ、得るものがあること!日本の魅力は無尽蔵です。(238p)

2022年12月29日木曜日

「フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して」を見る

 昨夜のNHK・BSで放送された「フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して」を興味深く見た。番組HPによると「 “魂のピアニスト”フジコ・ヘミング。彼女が最も愛する作曲家・ショパンはスペイン・マヨルカ島で死を宣告されながら名曲を書き上げた。ショパンの面影を探す旅に密着!」とある。

 90歳を過ぎても精力的に活動しているフジコ・ヘミング。今年の9月に8日間の日程でスペイン・マヨルカ島を訪れている。フジコ・ヘミングは20年くらい前にNHKの特集で知った。が、その時、フジコは60代後半だった。そのころ広島でのコンサートを聞きに行ったことがある。それから月日は経ち、昨夜の放送では歩行器で歩いていた。またピアノがある舞台までは人に伴われて出ていく。そんな状態なのに一番好きなショパンが過ごしたマヨルカ島を訪れたい一身でショパンを追いかける。

 ショパンは生まれ故郷のポーランドの戦火から逃れてマヨルカ島へ移る。フジコはこの島で一度目のコンサートをし、そして2度目はショパンが以前住んでいた元教会で演奏会を開いた。どういっても90歳を過ぎている。しかしピアノに向かう姿は聞く者の胸を打つ。年が明けると広島でもフジコ・ヘミングのコンサートがあるようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月28日水曜日

黒豆を煮る

 今年も残り少なくなってきた。毎年のことながらこの時季、平日とは何ら変わらない生活を送っている。ただ、(お正月が来るのだから、くる年も「マメでありますように」)と願って黒豆を煮る。これを食べて新たな年も元気で楽しく過ごせれば言うことはない。

 先日受けたPCR検査の結果を出先で見せようとしたら3回目も4回目も全く見ようとはしない。「ああ、わかっています」みたいに面倒とばかりの態度をとる。友だちに至ってはワクチン接種済みの話すら出ない。まあ、一般的にレストランを利用する際、ワクチン接種が、PCR検査がどうじゃこうじゃと聞かれないから確認もどうでもいいのだろう。

 昨夜は「辻井伸行in富士山河口湖ピアノフェスティバル2022」を見る。(音楽番組は生に勝るものはない)、と思いながら見ていると迫力満点の演奏に引き込まれる。辻井伸行の演奏だけでなく何とゲストも素晴らしく山下洋輔と加古隆のピアノ演奏もあった。山下洋輔はジャズピアニストだがまるで鍵盤と闘っているような激しい演奏をする。迫力満点で生の演奏が聴きたくなる。辻井と山下の即興演奏は連弾だった。これもテレビを通して見ても迫力があった。さらには加古隆の「映像の世紀」の「バタフライエフェクトのテーマ曲」も素晴らしかった。

 先日欽ちゃんのYOU TUBEの生配信を見ていると加古隆の「映像の世紀」のピアノが好きだと話していた。「映像の世紀」の番組で流れる曲は聞いていても加古隆が演奏する場面は今回初めてテレビで見た。この人の演奏もテレビであっても素晴らしかった。いい番組がないと言いながらも昨夜はいい番組だった。

 年末年始、お天気は良さそうだ。今日は最高気温12度となるらしく穏やかな年の瀬である。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月27日火曜日

「さいはて慕情」

 

 全国旅行支援「広島じゃ割」を利用して安芸グランドホテルで食事をする。このホテルでの食事はもう20年以上も前に一度ある。今回の旅行支援も前回同様、広電の一日利用券がついている。宮島口へはJRの利用が大半だが、利用券を利用しないといけないらしいので久々に宮島口まで電車に乗った。広電はJRと比べると広島→宮島口間は倍以上の乗車時間がかかる。ゆっくり行けばいいかと思いながら電車に乗って友達と宮島口へ。到着後、ホテルの送迎バスに乗る。年の瀬とあってホテルの利用客は少ない。

 昨日は和牛御膳を美味しくいただく。食事後、ホテルのデッキに出ると1階のプライベート船乗り場から宮島へと向かう船が待っている。さらに目を先に向けると宮島の朱い鳥居が見える。ロケーション抜群の場所にホテルはある。

 ホテルを出ると再度、電車に乗って市内に戻る。カフェで休憩後、友だちと別れて駅前の福屋まで電車に乗る。福屋で先日、下見した寛斎のバッグを購入。このバッグ、派手派手だが結構気に入ってしまった。これからの日帰り旅に利用できそうだ。今年は昨日で旅は終わった。来年も元気を出してせっせと遊びに行こう。

 話は変わって先日来から頭をかすめるフレーズがある。スマホでハミングして曲名を探すと「さいはて慕情」という曲だった。この曲を聴いてもメロディは知ってるが歌詞は全く出てこない。検索時、「ラーラーラーラー ラーラララ」とハミングするとすぐに曲名が出た。曲の出だしはクラシックと思っていたが日本の歌謡曲と知ってびっくり。なぜ歌詞も知らずにメロディが浮かんだのか不思議だ。若かったころに耳にした曲が今になって甦るとは……。曲の流行った時期を見ると1970年代。この時代は人生で一番暗かった。それを思うと今はなんと明るく楽しく過ごしていることか。人生、いつどこでどう変わるかわからない。昔がいいよりも今がいい方がいい!どういっても若かったころできなかったことが年を経てできるようになった。これが今、いいと思える所以かもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう! 

2022年12月26日月曜日

『司馬遼太郎の時代』

 『司馬遼太郎の時代』、サブタイトルとして「歴史と大衆教養主義」(福間良明 中央公論新社、2022年)を読んだ。以下に気になる箇所を取り上げる。このうちの最初の有吉佐和子のくだりはまったくそのように感じる。これは余談だけではなく全作品に言える。そして2番目にあげた司馬が言う「私にとって小説概念というべきものが一つだけあるとすれば『人間と人生』について、書くに値するもののみを書く」のくだりがある。人の生き方に関心があるので自分自身が司馬の作品に魅かれる理由はこれに尽きるのかもしれない。

 以下、気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★余談という名の「自作自注」を通して、小説のなかに「評論」が組み込まれ、そこに作品の魅力が見出されている。作家の有吉佐和子も、余談には直接言及しないものの、『坂の上の雲』について「ああ、そうだったのかと教えられることが余りにも多かったので、小説を読んでいるという気がしなかった」「司馬さんの書かれるものは日本外史とでも呼ぶべき種類の史書ではあるまいか。膨大な材料を明晰に分類し判断し、しばしばユーモアを湛えて平明に綴っていく」と評していた(「司馬文学のファンとして」)。司馬作品に見出されたのは、「小説」というより「史書」という名の教養だった。(175p)

★私にとって小説概念というべきものが一つだけあるとすれば「人間と人生」について、書くに値するもののみを書く、ということだけで、だから小説とは何ぞやという定義を考えたこともないし、考えないようにしています。(「年譜」)(79p)

★教養主義を連想させる哲学に挫折し、「二流」の文学に近づく子規に、司馬は「底抜けの明るさや稚気」を見出していた。(『坂の上の雲』第一巻「あとがき五」)。そのことは、「二流」の学歴・記者歴を歩み、かつ、正統的な文学から距離がある点で「二流」の歴史小説を開拓した司馬自身にも重なる。(114p)

★明治に「明るさ」を見出そうとするのは、司馬が戦車のなかで感じ取った「昭和の暗さ」を照らし出すためだった。前述のように、司馬は敗戦の折に、「なんとおろかな国に生まれたことか」「むかしは、そうではなかったのではないか」との思いを抱いた。そこでは、昭和と戦国、幕末・維新、明治との比較対象が意識されている。……司馬は『坂の上の雲』全八巻(文庫版)を通して、そのような「明るい明治」を描き、『花神』全三巻、『竜馬がゆく』全八巻を通して維新期の「明るさ」を記した。戦国期の「明るさ」は、『国盗り物語』全四巻、『新史太閤記』全二巻などで叙述される。それらの記述の端々には、司馬の戦争体験や戦前期のライフコースが投影されていた。司馬は戦国期や近代最初期の「明るさ」にこれほど膨大な分量を割くことで、憎悪した「昭和の暗さ」を描き出そうとしたのである。(130-131p)

★司馬は「歴史小説の革新」という功績により、一九八二年度の朝日賞を受賞した。一九九三年には「『竜馬がゆく』などの大作を次々と発表。司馬史観とも言われる独特の歴史観を展開したほか、『街道をゆく』で紀行文学の新分野を切り開いた」との理由で化勲章が授与された。それに先立ち、一九九一年には梅棹忠夫(民族学)や川島武宜(民法学)らと並んで、文化功労者に選ばれている。司馬の「小説でも史伝でもなく、単なる書きもの」は、ここにきて、梅棹や川島といった戦後の学知を切り拓いた知識人と同等の評価を受けるようになったのである。それは「二流」「傍流」のキャリアを歩んだ司馬が「一流」と目されるようになったことを意味する。司馬作品は「単なる小説」でも「単なる史伝」でもないゆえに、領域横断的な知識人の知的関心を喚起した。「余談」に満ちた司馬の歴史小説や文明批評は、文学や歴史学からすれば「傍流」でしかなかったが、そのゆえに「日本の歴史学の固陋で偏頗な近代暗黒史観が払拭される」ような斬新さが見出されたのである。(218-219p)

★「昭和五十年代」までの歴史学が、司馬へのアンビバレントな評価に終始した「戦後五十年」以降の戦後歴史学は、司馬を学問的に論じることに、一定の意義を見出すようになった。他方で、学際知識人による司馬への評価は、揺るがなかった。ことに左派的な議論に違和感を抱く知識人・文化人は、もともとマルクス主義の影響下にあった戦後歴史学への不快感も相挨って、司馬を好意的に評していた。かくして司馬は、サラリーマン層のみならず知識人のあいだでも、「一流」の著述家と見なされるようになった。(244-245p)

★「余談の教養」がちりばめられた司馬の歴史小説が、サラリーマンをはじめとする読者に一定の知的好奇心をかき立てたことも、否定できない。古今東西の政治史・軍事史との比較が随所に配され、昭和史との対比もなされるなかで、社会を長いスパンで多角的に捉え返す営みに興味を抱く読者は、少なくなかった。それは必ずしもビジネスへの関心に縛られない人文社会系の読者へと誘うものでもあった。(250-251p)

★司馬作品は、確かに歴史学から見れば、精緻なものではなかったかもしれないが、それでも、人文知と大衆をゆるやかに架橋するかすかな可能性を有していた。すくなくとも、人文知とは遠遠いはずのサラリーマンにも、歴史への関心を促し、ひいては近代史・昭和史を批判的に問う営みに誘おうとするものであった。……人文知は、決してアカデミズムに閉じるべきものではない。たとえ実利には直結せずとも、人文知が過去や現在を批判的に問いただし、あるべき社会や文化、政治を構想するものである以上、多様な出自や階層の人々にひらかれるべきだろうし、そうすることによって、また知それ自体も練り上げられていく。「司馬遼太郎の時代」は、困難や限界を伴った大衆教養主義の歴史であると同時に、現在そして未来の「人文知と大衆」のありようを問うものでもある(253-254p)

2022年12月25日日曜日

検索バーの復元

 先日受けた4回目のPCR検査の結果がSMSで送られてきた。この陰性の結果を旅行社にメールで送信。これで日帰り旅(?)の当日、旅行社へこの結果報告を見せに行かなくて済む。

 メールで送信する画面はIDカードをダウンロードしてこれを添付して送る。この一連の過程をSMSで送られてきたらすぐ送信できるように、とスマホを触っていた。要らぬことをしていたのだろう。スマホの検索バーが画面から消えた。これを復元しようと試みるも検索画面は出てもバーが出ない。また検索バーが出ても本来の画面と異なる。151に電話して教えてもらうと難なく元に戻った。

 一昨日、昨日と151にお世話になった。電話でのやり取りは以前だったら難しかったが今回はスムーズに電話で教えを請うことができた。スマホを触りすぎていろいろと不都合が生じるがこれもすべては自分が悪い。といいながらもこうしていろんなことを覚えていくと思えば(これもまあ、いいか)と自分自身を甘やかしてしまう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月24日土曜日

スマホ中毒!?

 (よりによって大雪が降る日にPCR検査を受けに行かなくても)、と思いながら街中へ繰り出す。JRに乗ろうとすると案の定、雪で遅れが発生。11時に予約を入れている。広島駅に着いた時刻が11時。検査場へは広島駅からバスに乗らなくてはいけない。10分余り遅れて現地に着いた。これまで3回PCR検査を受けている。が、早めに到着して注意されたことがあっても遅れて着くことはなかった。今回のPCRは4回目となる。が、係にスマホで予約した旨、見せようとすると予約画面が表示されない。なぜ?と不思議がっていると予約の11時を過ぎているので予約が無効となったらしい。

 次に予約するときはスマホでなく電話でするといいようなことを言われる。(この日の検査は無理?)、と聞くとOKだった。テントの検査所はストーブが1台あるだけ。3回目の時はそれほど冷たく思わなかった。しかし、昨日の雪の降り方が尋常ではないので冷たさも半端でない。が、4回目となる検査なのですぐに検査を終えた。寒さ除けに本通りを抜けてシャレオに降り、そごうに入る。ここで軽くお昼を食べて我が家へ急ぐ。あまりにも雪が降り続くので広島駅でJRに乗り換えずバスセンターから家までバスで帰ろうとした。が、もしかして雪でバスの乗車時間が長くなるかもしれない。そう思って広島駅でJRに乗り換える。

 地元最寄り駅に着くと雪の降り方が風をともなって舞い上がっている。急ぎ足で家と家の間の道を探して我が家へ帰る。家の中に入るとまるで天国のように思えてホッとする。

 年内に決めている予定は残り一件となった。今は頭がPCR検査とそれに付随するスマホの検索で暇さえあればスマホを触っている。余計なことをしなければいいのに触りすぎてスマホの任意の4桁の暗証番号が使えなくなった。夜8時前、151に電話すると係が電話に出た。ロックされた暗証番号を解除してもらう。これで触るのをやめればいいのにまたもいじっていると検索バーが消えた。もう触るのはやめて寝る。が、起きるとまた検索バーが気になる。先ほどまで触って何とか検索バーが表示できた。しかし、買ったときの表示とは違う。

 7,8年前、パソコン、携帯、そしてタブレットを2年半ぐらい持っていた。その時の通信料は半端でなく高かった。が、それよりもネット中毒にかかりそうでタブレットのSIMを解約した。今回携帯の機種変更をして3か月になるが、またも同じようにネット中毒になりつつある。なるべくスマホに触らないように心がけよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月23日金曜日

友だちとランチ!

 PCR検査の結果を見せに旅行社へ向かう。見てもらった後、これをメールで送信する方法を教えてもらう。係は何度かスマホで試みる。そして、その結果をメールの送り主(私のスマホ)の画面の「三点リーダー」→「共有」→使用するメール→送り先(TO)→送信と教わる。先ほど、何度か自分のパソコンあてにスマホからテストメールを送信してやっと送信できた。次のPCR検査の結果はもしかしたら旅行社へ行かなくてもメールで連絡できるかもしれない。

 旅行社を後にして友だちと合流後、レストランまで電車で向かう。今、開店という時刻に着くとすぐに席に案内された。まずはPCR検査の結果を、と見せようとすると係の反応はまったくない。むしろ結構です、と言わんばかりだ。これにはびっくり。何のためにPCR検査をうけさせるのだろう。疑問に思った。気を取り直してゆっくり食事をする。まずは赤ワインで乾杯。それからは次々と料理が出てくる。久しぶりに友だちと楽しく食事をした。食事後は電車に乗って県立美術館へ向かう。隣は縮景園だ。

 最近、雨や雪で冷たい日々だったが昨日は晴れて気温も上がる。ひさびさの県立美術館と縮景園だ。美術館では常設展と地下のギャラリーで開催中の「絵画で紡ぐインドと日本のきずな」展を見る。インドは30年くらい前に出かけた。(今はその頃のインドではなく発展しているに違いない)と思いながら絵を見る。

 絵を堪能後は隣接する縮景園に入る。寒い季節、園内を観光する人はまばらだ。それでもぐるっと一周した。友だちと八丁堀で別れて広島駅まで電車に乗る。今回、バスでなく電車に乗ったのは旅行社の電車一日乗車券がついていたためである。その後、福屋に入り、今回貰ったクーポン券3000円でお菓子処高木の和菓子を購入。これは年末年始用である。また何日かするとまたクーポン券がもらえる。その下見に店内を物色。買いたいものはあまりない。が、山本寛斎のお店で気に入ったバッグを見つける。半額になっていると店員は話す。このバッグの一部代金を次のクーポンで利用しよう、と決めて我が家に帰る。

 昨日といえば広島駅で市内電車を待っていると変な若者に声を掛けられる。山ほど荷物を横に置いてベンチから立ち上がったと思ったら「神戸から山口に帰る途中、財布を紛失した。昨夜は野宿し、東広島市の守衛に560円借りた。パスピー(広島のICカード)を切符売り場で金銭にかえてもらおうとしたが売り場が空いていないんで待っている」という。そしてこれから廿日市市に向かい、市役所でまたお金を借りるともいう。借りたお金はどうやって返すのかと問うと「出世払いです」とのこと。話す言葉は関西弁でも山口弁でもない。おかしい、と思いながら話を聞いていると「今困っているのは食べていないんです」だと。

 (こういう人に関わってはいけない)と感じて、入ってきた電車に乗った。お金を役所で借りる?と思いながらなぜ警察で借りないのか不思議に思った。話を聞いて可哀そうにとも何とも感じなかった。むしろ怪しい人に思えた。それでなくても変な世の中。

 今朝は雪が積もっていたが道の雪はとけた。が、雪は降り続く。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月22日木曜日

「サイドメニュー」or「三点リーダー」

 SMSでPCR検査の結果が陰性である旨送られてくる。が、出先でその結果を見せてもそれほど価値はなく、ID番号が示された結果の方に価値がある。昨夜、ID番号の表示がある用紙のQRコードを読み取って、その結果をスマホ画面に保存しようとする。が、いくらやっても結果を表示する前の画面になる。いろいろ触っていると画面の右端に「…」の縦になったアイコンがある。このアイコンは「サイドメニュー」とか「三点リーダー」というらしい。

 それをタップすると「ダウンロード」の項目がある。これをさらにタップすると「pcr……」があった。そして、さらにタップすると押印された証明書が表示された。これを出先で見せればいい。

 この間、かなりの時間を要した。とはいえ、この手順を知れば数秒もかからない。パソコンの保存やダウンロードは慣れているがスマホはまだまだ分からないことだらけだ。が、今回、これが分かっただけでも由としなくてはいけない。次はその画面をどうやってメールで送るかとかスクリーンショットのやり方が知りたくなる。これはドコモで聞く!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月21日水曜日

司馬遼太郎記念館誌「遼」届く

  一昨日受けたPCR検査の結果がSMSで送られてきた。もちろん陰性である。もらったIDカードのQRコードをダウンロードしてこれをメールで送信するやり方を試みる。が、どうやっても送られない。(できなくてもいい、これを見せに旅行社へ行くのだから)、とあきらめる。明後日もまたPCR検査を受けに行く。が、(これからはこの旅行社とかかわらない)、と肝に銘じる。面倒なことこの上ない会社だ。もしも泊を伴う旅ならば旅行社へPCRの結果を見せには行かれないかもしれない。その時はどうするのだろうか、と思った。が、もうこの社を利用しなければそれも関係ないことだ。

 気持ちを切り替えよう。先日、司馬遼太郎記念館友の会への入会を申し込んだ。昨日、さっそく入会に付随する書類などが送付されてきた。その中に司馬遼太郎記念館誌「遼」が1冊ある。そして「遼」のこれまでのバックナンバー一覧表もある。司馬遼太郎記念館は2001年11月に設立されている。それから21年後の入会になる。

 今から4年前に大連に旅行し、その時のツアー客から司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読むように勧められた。旅の間、連日、ツアーに参加した8人と円卓を囲んで食事をするうち、帰国したら何が何でも『坂の上の雲』を読もうと思った。

 読むときめても司馬遼太郎の一作品は一冊ではなく何巻もある。『坂の上の雲』の読み始めは大連の旅で訪れた先が出てくる。旅の最中、本を勧めてくれた人たちの言葉を思い出しながら読み終えた。それから今日まで何十冊と司馬作品を読んでいる。その究極が友の会入会!?ではなく、生きてるうちに司馬遼太郎全作品を読み終える!

 友の会会員証を見ると申し込んだ年月日が会員番号になっているようだ。送付された記念館誌「遼」をざっと見ると興味を惹かれる記事ばかりだ。この「遼」は年に4回送付され、その中には行事や様々な情報の掲載もある。春になれば記念館を訪れたいと思っている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月20日火曜日

3回目のPCR検査

 ちらちらと雪の降る中、予約したPCR検査を受けに街中まで出かける。検査場所は屋内でなくテントの中である。寒くても暑くても雨が降っても雪が降っても数人の係は検査の仕事に従事している。ある人はテントの外に立って訪れた人が予約済みかどうかを確認する。昨日のように雪の舞う日は外で立っているだけでも大変だ。テントの中は予約客の本人確認をする人や検査に係る事項に記入を促す人、さらには検査キットを渡す人などと仕事の分担がある。

 さすがにテントの中は暖房があった。昨日は3回目のPCR検査で慣れもあってかすぐに規定量の唾液が出た。今週、もう1回検査を受けに行く。PCR検査の後、一緒に日帰り旅(?)に出かける友だちと合流して旅行社に向かう。今回初めて知った旅行社だが、(大丈夫?)と思いながら社に向かう。変な会社ではなさそうだが、それでも他の社と違うやり方で面倒なことを言う。PCR検査の結果は利用する先で見せればいい。ところが今回は社までその結果をメールで知らせるか持参せよという。面倒なことこの上ないので社に持参する旨を告げてその場を去る。

 次の日帰り旅(?)もこの社を利用するのでまたPCR検査の結果を見せに行かないといけない。近いうち出かける2回の日帰り旅(?)は友だちに誘われて出かける。これほど面倒なことと知っていれば利用しなかった。が、それも後の祭り。代金は支払済みだ。すべてはワクチンを打っていない自分がいけなのかもしれない。が、友だちにも迷惑をかける。1人で行動すればこういった煩わしいことはしないのに、と思ったり。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月19日月曜日

『80歳、何かあきらめ、何もあきらめない』

 昨夜のM-1グランプリ、面白おかしく見た。ただ、優勝したウエストランドの漫才の時だけお風呂に入っていたので見ていない。上位3組の優勝決定戦の漫才もウエストランドだけ見逃す。今朝、YOU TUBEを探すと早くもウエストランド優勝時の漫才のアップがある。ウエストランドの名も初めて聞いたし、漫才も初めて動画で見た。漫才本来の正統派漫才師に思える。

 お笑いといえば欽ちゃんがいる。欽ちゃんのYOU TUBE「80歳の挑戦」を見ている。(最近の欽ちゃんの著書は)、と思って図書館のHPで探すと『80歳、何かあきらめ、何もあきらめない』(萩本欽一 主婦と生活社、2021年)があった。早速借りて読む。

 何歳になっても新たなことに挑戦し続ける欽ちゃんは素晴らしい!この本の中に奥さんを亡くし、その最期のころに交わした「ありがとう」の場面がある。涙を流しながらこの箇所を読んだ。奥さんが元気だった頃、決して欽ちゃんに「ありがとう」をいわなかったそうだ。ところが、欽ちゃんが「ありがとう」を催促するともう先がないとわかったのか、「ありがとう」を言ったとある。それも日を改めて3度も。そのくだりは読むものの涙をさそう。そして奥さんが言葉を発せられなくなって欽ちゃんが奥さんの手を握るとぎゅっと握り返してくれた、とある。

 この場面は父との最期の朝、自分自身も経験しているのでよくわかる。話は出来なくても手を握ると父も握り返してくれた。母も亡くなる半年くらい前から言葉が発せられなくなった。最期のころ、病室に行くと母は目を見開いてじっと私の顔を見つめた。何が言いたいのかその時はわからなかった。が、もしかしたら「頑張るんよ」とか「しっかりしんさいよ」と言ってくれたような気がする。この後、姉が病室に入ると母は目を閉じていたという。自分自身の父、母のことを思いだしながら本を読んだ。

 以下はこの本のなかから気になる箇所を記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★欽ちゃん流「健康」の流儀

歳をとってからは 自分の「身体」と弥次喜多道中。

身体が思った通りに動かず、違う人生がやってくる。

それを「笑い」に変えていこう。

「終活」なんて、マイナスなことは考えずにね。(42-43p)

★でも、遅くたって気づいたらそれを変えていけばいいんです。僕の場合は、テレビの仕事をほぼやめた40代で、河合塾に入りました。正式に手続きをして、千駄ヶ谷校に通ったんです。でも、周りの塾生たちが落ち着かなくなるという理由で、途中から僕の家での個人授業になりました。この勉強がどれだけその後の仕事に役立ったかはわかりませんが、勉強って死ぬまで必要なんじゃないかなと思っています。(50-51p)

★夢がでかすぎるとなかなか辿り着けないけど、小さな夢ならまだいくつも叶えられる、と今も思っているしね。つい最近も、YOU TUBEデビューをして、また一つ夢を叶えたところ。新しい仕事に挑戦したとたん、気持ちも身体も活性化して元気になっていくのを実感しています。この分だと、僕の母親のように、100歳まで生きちゃうかもしれないな。(185p)

2022年12月18日日曜日

2022年最後の日本画教室

 今季初、雪が薄っすら積もった朝を迎える。だが、日差しはある。昨日は今年最後の日本画教室に出かける。描く絵は蓮の花。教室の皆は先日、スケッチブックを一枚ずつ切り離して持参した用紙を先生がサムホール大くらいに切り、それにクレパスで絵を描いている。一人だけ違うことをしていたが、皆さん、クレパスで描くのが楽しいらしく賑やかな教室になる。新年はクレパスに挑戦しよう。

 クレパスは筆でなく指を使って描く。時にヘラで描いた箇所を削ったりして描く。使用するクレパスは先生の他の教室の人の子供や孫が使っていた物らしい。断捨離の時代、モノを大事に残している家もあるようだ。

 今年最後の教室が終わるといつも行くカフェとは違うところへ、の予定があまりにも外が寒いのでいつものカフェになった。一年はあっという間に過ぎていく。話は来年の作品展の話題になる。さてさて来年はどんな年に、と今から思ってもどうにもならない。ただ無事に元気で楽しく過ごせればそれで大満足!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月17日土曜日

脱マンネリ化

 広島県の旅行支援である「広島じゃ割」は今月28日で終わり、次の支援は来年1月10日から3月末まであるようだ。今朝の地元紙を見ると「まつやまに泊まろう!」のキャンペーンがある。松山の場合は来年2月末までの宿泊割引利用を明日までに購入する宣伝だ。同じ宣伝をするならばもっと早めにすれば、と思うがこれも何かの事情があるに違いない。松山にある「坂の上の雲ミュージアム」へ行きたい気持ちはあるが宿泊の割引券を購入するには「明日」までがネックになる。それも旅行社を通してせねばならない。

 旅行割引を受けようと思えばワクチンを打っていないものとしてはその都度、PCR検査が必要だ。PCR検査は2度受けた。が、初めのころと比べて慣れもあって検査は簡単に思える。とはいえ、3月末まで旅行支援で旅をすればその間、何度もPCR検査を受けねばならない。今のところ同じ会場に出向いている。そのうち常連客となりそうで他の会場で受けようかと思ったりする。

 なんやかやといいながらも今年の後半から一人で動き出した。先の見えない世の中にあってこのことは自分にとっては光明となった。他にも今年の新たな光明といえば昨日、年会費を振り込んだ「司馬遼太郎記念館友の会」入会がある。そして萩本欽ちゃんのYOU TUBEがある。初めて欽ちゃんのYOUTUBEを見たときはダラダラとただ長いだけ、と思った。ところが最近、生配信を見るようになると面白くなっていく。今年の生配信は26日で終わるとか。これもささやかな楽しみである。

 寒くなってきた。何でもいいからいろんなことに興味を持ち、生活リズムがマンネリ化しないようにと心掛けている。楽しく毎日を過ごそうと思えば自分の関心の向くままに行動するしかない!それには元気が伴う。いつでもスタンバイOKの元気が……。

 元気といえば姪は和歌山のアドベンチャーワールドへのパンダ詣が楽しいようだ。和歌山へは往復飛行機利用らしい。広島にいると和歌山は四国と同じくらい交通が不便。その点、東京は飛行機が全国を網羅して飛んでいる。羨ましい限りだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月16日金曜日

司馬遼太郎記念館友の会

  『司馬遼太郎の時代』(福間良明 中公新書、2022年)を読んでいる。まだ途中までしか読んでいないが、このなかに『司馬遼太郎の世界』(一九九七年第八刷)の引用がたびたび出てくる。『司馬遼太郎の世界』は司馬が亡くなった際の弔辞などが収められている。各界の著名人による文章が詰まった司馬ワールド満載の本だ。「鎮魂・司馬遼太郎」として陳舜臣、田辺聖子、そして山崎正和が書いた箇所を読んでいるうちに、何が何でも司馬遼太郎記念館友の会に入ろうと思いついた。すぐにスマホで入会手続きをする。年会費はこれから振り込みに行く。

 自分の10代、20代、30代……の決まったある年に必ず新たなことを始めている。今年がその年に当たる。自分自身では「街道をゆく」を読んで10月に(司馬が歩いた道のどこか一カ所でも歩こう)、と思って一人旅を始めた。(このことがそれだ)、と思った。が、昨日、ふと思いついた記念館友の会入会がそうかもしれないと思いだす。いずれにしても司馬遼太郎に関することを新たに始めたことは間違いない。

 『司馬遼太郎の世界』は山崎正和を読んで読むのをやめている。山崎正和といって思い出したためだ。社会人大学生として入学試験を受けた際、朝日新聞に掲載された山崎正和の文章が小論文の課題の一つにあった。もう20年前になるのに山崎正和のあの時の文を鮮明に覚えている。その当時は当然、20歳ほど若かったし、人生で一番張り切っていた。

 いずれにしても人生の晩年に司馬遼太郎に巡り合えたのは幸せなことのように思える。また今回、友の会に入って記念館から送られてくる「遼」を読むのが楽しみになった。ほかにも司馬遼太郎に関する情報が入ってくると思うと嬉しくなる。人生の残り時間がもうそれほど長くはないが友の会に入った。(年があらたまって入会を)、と一瞬ためらった。が、「思い立ったが吉日」とあるようにすぐに入会した。いつか司馬遼太郎記念館を訪れたい!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月15日木曜日

従軍僧

 昨夜のNHKBS1スペシャル「戦禍のなかの僧侶たち〜浄土真宗本願寺派と戦争〜」を興味深く見た。この初回の放送は8月20日だそうだが見逃していたようだ。戦争といえば兵士が浮かぶ。しかし、従軍僧の存在はこの番組で初めて知った。

 番組HPによると「仏教は戦争にどう関わったのか。浄土真宗本願寺派は1万寺に調査を行った。戦場に派遣された従軍僧の日誌や戦時動員の住職の記録など新資料から僧侶たちの戦争体験を描く。 日中戦争から太平洋戦争の時代、仏教は戦争にどう関わっていたのか。浄土真宗本願寺派(西本願寺)は1万寺に調査を行った。3800の寺から回答があり写真や資料が寄せられた。中国の戦場に派遣された従軍僧の日誌や門信徒を戦場に送った住職の記録などアジアに進出した教団の姿が浮かび上がった。太平洋戦争では85%の寺が金属回収に応じ学童疎開や戦時動員に協力していた。新たな調査をもとに戦禍の中の僧侶たちの姿を描く」とある。
 
 広島は安芸門徒と言われるように浄土真宗の家が多い。従軍僧は日清戦争から始まる。昭和6年(1931年)、上海に上海別院が建設され、各宗派の従軍僧を中国に派遣した。それは傷病兵を激励するためであった。さらに南京に仏教学院をつくって中国の仏教徒を日本人を教育するように教育した。昭和15年(1940年)、宗教団体法が制定されて国は戦争協力を仏教界に求めた。これにより僧侶はそれを門徒に広めた。この協力は俗諦(ぞくたい)(注・電子辞書によると「仏語。世間の道理。浄土真宗では王法や世俗の仁義をいう」)として求めた。昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が始まり、報告団が結成される。

 戦争へと駆り立てる出兵兵士を送るとき、寺は激励会場になった。また全国の寺の9割近くは梵鐘を国に寄進した。熊本の山下少尉19歳は昭和20年(1945年)5月25日、「南無阿弥陀仏」と書いた紙を体に巻き、それを唱えながら我が家の上空を一度旋回して飛び立っていった、と弟は話す。その何年か後の同じ月日に母親が亡くなる。19歳の特攻隊員は「南無阿弥陀仏」と唱えれば仏が助けてくれると思ったようだ。見ていてこの場面が一番泣けた。

 戦争中、寺院は学童疎開を受け入れた。広島の三次のある寺院は広島市内の学童26人を受け入れた。その時、広島に原爆が投下され、疎開先で親を亡くした学童もいた。このお寺の現在の住職である小武(おたけ)氏は家を片付けている時、祖父が戦争へと送り出した当時のお寺での講話を記した日誌を見つけた。これを見た小武氏は過去を見つめなおし、もしもその当時の自分だったら、と問い直したそうだ。そのことを今の門徒さんに集まってもらって話す場面があった。

 浄土真宗大谷派は2004年、戦争協力を認めた。すべては国策として戦地に送り出したことに問題がありそうだ。

 いま、『司馬遼太郎の時代』を読んでいる。司馬は学業を繰り上げ卒業して戦争に赴いている。本を読んでいるとやるせない気持ちになる。従軍僧として戦地に赴いた人、そして、その地へと送り出した人たちはもっとやるせない気持ちになったに違いない。すべては国策!?小武氏は今、何であれ戦争はいけない、と街頭に立って人々に訴える。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月14日水曜日

春帆楼のフグ

 今日の予想最高気温は8度。これまで最高気温は2ケタ台だった。寒くなりそうだ。寒くなれば冬眠とまではいかないがそれらしき毎日になる。地元紙を見ると「おいでませ山口」として「旅々山口割プラス」の旅行支援を宣伝している。12月20日までの旅行支援が27日まで延長された。その知らせなのだろう。山口といえばフグ。ネットニュースによると日本で初めてフグを食すようになったのは下関にある春帆楼。10月に長州へ一人で出かけた時、李鴻章の道に春帆楼があった。

 春帆楼は以前、広島にもあったが今はない。今から10年くらい前、恩師の退職記念の会が広島の春帆楼で開かれた。その時、春帆楼で食べたフグ刺しは大きなお皿に一人前ずつ出てきた。すべてがフグ尽くしで豪華な食事だった。この春帆楼が下関に来た人にカレンダーを無料で配るという。

 今年の秋もJRは下関のフグと新幹線がセットになった商品を売り出した。以前だったら2人から催行だったが今年のパンフを見ると1人でもOKのお店がある。しかし、春帆楼は2名からになっている。日本画教室の人を誘って下関へフグを食べに行こうとした。が、コロナの感染者が日ごとに増えて皆で行くのはやめた。それならばと年が明けて1人で、と思ったり。その時は春帆楼でなく門司にある三井倶楽部を考えている。

 寒い毎日が続く。家にいるときは司馬作品を読み、その合間に笛を吹く。今はもっぱらドルドラの思い出を吹いている。ドルドラの楽譜を見ると五線譜の上部に斜線が2本書いてある。カエスーラだ。この曲の前半部にカエスーラが頻繁に出てくる。出てきた箇所の音を中断するようにして吹くカエスーラ。この曲は寒い冬が過ぎて一気に木々が芽吹くかのような気持ちになる。それほど潔い曲に思える。


 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月13日火曜日

入団会見

 カープに入団する新人10選手の入団会見があった。これから厳しい試練が待っているプロ野球の世界。だが、そこには希望にあふれた顔があり、決して悲壮感は見られない。しかし、この中の何人が10年後にプレーしているだろうか。毎年、野球シーズンが終わる時季になると、入団した人数だけ球団を去る者がいる。一見華やかに見えるプロ野球の世界だが、そう感じられるのは一握りの人に違いない。

 たとえ1位でスカウトされた人であっても、プロの世界で通用する数字が伴わなければ即、退団となる。それもわずか30歳かそれ以下の年齢の人もいる。たとえば30歳で現役引退となれば残りの人生の方が長く、一から出直しとなる。そんなことを思いながらこのニュースを見た。

 その合間にPCR検査の予約を入れる。年末までに2回ほど日帰り旅(?)を予定している。そのための検査である。日帰り旅とは名ばかりで……、これ以上書くのはやめよう。2日ほど日を変えて予約を入れようと試みる。が、何度か試すも1度しか予約が入らない。2回目は1回目の検査が終わらないと予約できない仕組みのようだ。

 ナニゴトも安く遊ぼうとすると面倒なこともある。今朝の地元紙を見ると3月の旅もPCR検査が必要とある。この先いつまでPCR検査を受けるのだろう。コロナが収まるまでPCR検査を受ける!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月12日月曜日

2022年、年の瀬に思う

  『街道をゆく』 (二十七)「因幡・伯耆のみち」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九六年第二刷)を読んだ。このなかに「日本人は、ゴビ砂漠やシルク・ロードの西域の流沙、あるいはサハラ砂漠に、他の国のひとたちには理解しがたいような甘美さを感じてきた。たとえば、ゴビ砂漠においては、紀元前から遊牧国家と農業帝国(中国の歴朝)とが争闘をくりかえした骨組みのあらあらしい歴史がある。またシルク・ロードのオアシス国家を中継地としておこなわれた東西文明の交流の歴史もあり、あるいは中近東の砂漠にあっては世界のいくつかの大宗教がおこった歴史もある。それやこれやを日本列島という湿潤の地でおもうとき、太虚に立つ虹のようなおもいをもってしまう。私も少年ころ、その思いが甚だしかった。中年になって、はじめてそこへ行ったときも、感動した。ゴビ砂漠やシルク・ロードへの日本人のあこがれも、つきつめれば、砂漠という巨大な空虚への憧憬が基礎になっているのではないか。鳥取砂丘は、戦後、大きな観光資源になった。湿潤の民が、無いものねだりとしてえがいていた砂漠思想のいわば代替物だった」(90-91p)のくだりがある。

 自分自身、司馬のいうとおりそう感じる。コロナ前までいろんな国へ出かけた。海外旅行に1人で出かけたことはないがツアーに参加して出かけている。そのなかでもゴビ砂漠やシルクロード、そしてサハラ砂漠は格別なものがある。

 初めての海外旅行は36年前に出かけた中国。中国語を習っていた人とツアーに参加した。この旅行が楽しくて海外旅行に魅せられた。2度目の海外は1人でツアーに参加した。広州・桂林にまだ魔界が残っていた香港である。1人でツアーに参加した旅行も楽しく、これ以降、海外旅行の半分近くかそれ以上は1人でツアーに参加している。

 しかし、コロナ禍で海外に簡単に行かれなくなった。シルクロードのゴビ砂漠やサハラ砂漠がまるで夢のような旅行に思えてくる。もう2度とは行かれそうにない旅行先となった。来年の年賀状にラオスの旅に一緒に出かけた友だちにモロッコの旅を勧めてくれたお礼を改めて述べた。モロッコへは自分のなかに旅行する国のイメージがなかった。しかし、同行者の話で(モロッコへ行こう)という気になった。出かけてみると思っていたよりも何倍も何十倍も素晴らしい国で、とくに明け方前から日の出とともにサハラ砂漠をラクダと歩くさまはロマンにあふれていた。サハラ砂漠へ出かけたのはコロナ禍の3,4年前のことである。

 「先の見えない世の中になる」、と誰が予想しただろう。そのなかにあって光をともしてくれるのが旅。この秋、(海外旅行に行くことばかりに囚われず、国内をⅠ人で旅しよう)と気づかせてくれたのはコロナ禍のお陰かもしれない。そう思うとコロナ禍も悪いことばかりではないようだ。これから先、どんなことが待っていても、(それがたとえいいことであっても悪いことであっても)、気の持ちようひとつでどうにでもなる。そう気づかせてくれた年の瀬である。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月11日日曜日

絵の道具あれこれ

 揉み紙を貼ったサムホールに蓮の花を描いている。若い人は先生が持参された黒いケント紙にクレパスで花を描く。クレパスと聞いて小さい頃にクレヨンを使っていたことを思いだす。クレヨンとクレパスはどう違うのかを電子辞書で調べるとクレパスは「クレヨンとクレパスの両方の特色を合わせた棒状の絵具」とあり、「商標名」で「パステルクレヨン」と言い換かえることもあるとか。またクレヨンは「棒状のろう絵の具」「洋画・児童画に使う」「クレオン」とある。

 クレパスで描いている絵を見せてもらうとメルヘンタッチの絵になっていく。教室の人はクレパスに魅せられたかのようで先生は用紙を調達する旨話される。白いケント紙は日本画を習い始めた9年前に、1冊買って途中で描くのをやめている。先生にそのことを話すと教室に持ってくるようにと言われる。家には日本画を習い始めたころに買い集めたF6大の分厚いスケッチブックも何冊かある。先生にそれも話すとスケッチブックをばらして教室に持ってくるようにと言われる。モノを習い始めると「まずは格好から」の意識があって言われるものをそろえたくなる癖がある。そのため絵に関するモノが溜まりだす。以前、教室の人にお土産にもらった土佐和紙ももらったまま家にある。それも教室に持ってくるようにと先生に言われる。

 家にそのまま寝かせていても仕方ない。最近はスケッチブックにスケッチをすることもなく写真から絵に仕上げている。そのため、スケッチブックやケント紙で絵を描くことがなくなった。ケント紙のスケッチ帖を見ると絵を習い始めたころなので割と丁寧に色鉛筆で描いている。これを眺めていると絵を習い始めたころを思い出す。元来、絵心が全くないのに人に強引に誘われて絵の教室に入った。それも日本画教室に。今思うと(よくも丸9年習い続けたことよ)、と思ってしまう。今や、絵がどうこうよりも教室で皆とわいわいがやがやと絵を描くのが楽しみとなった。そして教室が終われば皆でカフェに行き、そこでも話が盛り上がる。昨日は5人でカフェに行った。来週は今年の絵の教室が終わる日。その後はいつもとは違うお店に行く話が出る。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月10日土曜日

またも「広島じゃ割」利用!?

 下旬になれば年内の習い事が終わって暇になる、と思った。その矢先に友だちから「広島じゃ割」で安くなる食事に誘われる。食事に出かけるのはいいのだが、その都度PCR検査を受けねばならない。何でも安く遊ぼうと思えばリスクが付きまとう。利用する旅行社は聞いたことがない。が、その会社に関連する企業はよく知られている。

 友だちに「この会社をどうやって知った?」と問うとネットで調べたそうだ。そして友だちはすでにこの会社を利用したと話す。食事場所は2か所ともかなり前に利用したことがあるレストランだ。一人では入りにくいレストランなのですぐに友だちの話に乗った。

 まずは互いのスケジュールをみて食事日を決め、そしてそれによってPCR検査を受けねばならない。これまで同じ場所で2度ほどPCR検査を受けている。これから3,4回目のPCR検査が待っている。その前にこの会社の利用では申し込む本人が申し込みに行かねばならないシステムになっている。大半の旅行社はまず電話で予約してその後に書類が送付され、旅費等を振り込む。そのため利用者が直接旅行社に赴くことはない。が、今回は様子が違うようだ。

 利用する会社のHPを見ると全国ネットの展開で海外旅行もやっている。どんな会社なのかHPを見ただけではよくわからない。が、近いうちに友だちと申し込みに行くので会社の様子が少しはわかるかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月9日金曜日

墓地が整備された!

 気になっていたお墓に20日振りに参る。先月のお墓参りの際、隣の墓地を整備中の業者に出くわした。その際、「我が家の墓地も整備を……」とお願いすると余ったセメントでやってあげるみたいなことを言われた。それも無料で、と言われる。それでは悪いのでお金を払う旨話すと金額を告げられた。幸いその時、金銭を持ち合わせていた。支払うとさらに隣の墓地の話をされた。墓地に穴が空いた話である。「我が家の墓地も穴が空いていた」、と話すとその場所を踏まれた。すると穴がさらに空いた。そこをスコップで掘ると大きな穴になった。

 この穴を埋めてくれ、さらに墓石の外柵の周りをセメントで埋めてくれるともいう。そこまでしてくださると大変な作業だ。金銭をさらには要求されなかったがこちらから先の金銭と同じ額を支払った。昨日、お墓参りをすると隣の墓地と同様、きれいに整備されていた。しかも水の通り道も作ってある。

 先月、偶然にも作業中の業者に出くわしたことが幸いだった。穴はふさがれ墓地の周りもきれいになった。これまでのわが家の墓地よりもよく整備されて業者との偶然の出会いに感謝する。

 いつも何かに行き詰まると誰かが助けてくれる。お墓の件もそのとおりになった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月8日木曜日

テレビ離れ

 テレビはBSの紀行やドキュメンタリーを見るのが好きだ。が、近年はコロナの影響で海外の取材が無理なのか以前の再放送が大半だ。BS3はなくなって他の放送と再編されるとか。「新日本紀行」も地デジで放送されだした。それでも民放で面白いと思っている番組がある。それは漫才。何も考えずただ面白おかしく見ている。以前、好きだった歌番組はまったく見なくなった。そのため紅白も10年以上も見ていない。というか出場メンバーを新聞で見ても聞いたこともない名前が大半だ。ドラマや映画も全く見ない。せめて大河ドラマを、と思ったこともあったが見ていない。

 漫才と同じく好きなのは旅番組。こちらもコロナの影響なのか海外からリモートで放送される番組もある。ニュース番組は見るべき番組と思う。が、嫌な映像やニュースを見て自分自身の気持ちに悪影響を及ぼしそうでほとんど見ない。が、新聞やネット記事は読んでいる。

 昨夜も面白い番組がなく、ネット記事を見ていると欽ちゃんがYOU TUBEを生配信をしていた。欽ちゃんの動画は1時間以上と長い。が、いつの間にか最後まで見た。欽ちゃんの80歳の挑戦らしく、薄くなった頭のてっぺんを最新の技術で自然の髪のようにしていく過程だ。洗髪からはじまって頭の毛が若返った状態になる。欽ちゃん自身も我が頭を見て納得した様子だった。

 誰もが情報を発信できる時代になった。とりわけ有名人はYOU TUBEをながして職業はユーチューバーの人もいる。少し前までは名前は忘れたが個人のラジオ局みたいなことも話題にあった。が、最近は聞かなくなった。いわゆるSNSの発信でテレビ離れが進んでいく。そのかわりYOU TUBEが個人のテレビ局になるかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月7日水曜日

『街道をゆく』(二十一)「芸備の道」

 この秋、三次市内にある尾関山と鳳源寺の紅葉を見に行こうとした。が、「広島じゃ割」の安い切符に惑わされているうちに、その切符が売り切れてしまった。狭い料簡に囚われ、またケチな根性が災いした結果、三次に行きそびれた。来春の桜の時季には何がなんでもこの2か所へ行こう!

 2か所は『街道をゆく』(二十一)「芸備の道」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九九年第五刷)に記されている。以下はその中から気になる箇所をメモした。司馬遼太郎は登場人物を悪く書かない。が、この中に登場する警官はよほど気になったのだろうか良く書いていない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★仏教で業(ごう)というのは、行為としての善悪のもとをなすもので、三業(さんごう)というと、身(み)、口、意(こころ)である。当時の本山の学僧が、「浄土にうまれたいと思えば、三業に祈願と請求をこめて阿弥陀如来に頼まねばならない」といいはじめ、本山がほぼこの学説でかたまった。本来、親鸞の思想には祈願という考えも請求という考えもなく、そういうことをしなくても如来が救ってくださるというのが、他力というものであるという。この学説ははるかに異端の説(異安心 いあんじん)であった。本山の学説を異安心として闘ったのが、この可部の寺に住していた大瀛(だいえい)安芸の学匠たちだった。……ようするに、安芸門徒が勝った。……可部には大瀛の勝円寺がまだあるはずだが、寄ることは割愛して、北をめざした。(29-30p)

★「いやな町ですね」そのあと、路上で遭遇した長谷氏は、私にいった。吉田にあこがれて入ってきたのだが、あの警察署の一郭だけは、どうも気分よく通る気になれない……。私は、少年(年少 としわか)ニシテ高臺(こうだい)ニ上(のぼ)ルハ一(いつ)ノ不幸ナリということばを思いだした。……年少で高い地位につくのは不幸の一つだという意味である。まだ初々しい若者が、警官の制服を着たがために、高臺ではないにせよ権力意識ができ、日本人としてのふつうの礼が取れなくなったということも不幸にちがいない。(それ以上に、日本社会の不幸としては、すべての警官が、戦前に本卦がえりして江戸の同心意識や、太政官の邏卒、または内務省の官憲の意識をすこしずつもちはじめたときにおこりうるのではないかということだが、この長谷氏の被害(むろん被害である)はおそらくごく特殊で極めて偶発的な事件かもしれない。(50-52p)

★福島家の改易とともに、尾関氏も三次を去った。その城はこぼたれたが、城址の山の名を土地のひとびとは尾関山とよんだ。新領主(浅野氏)の世になって、かつての領主の姓を冠して丘の名にするというのは浅野氏の風である寛容さもあったろうが、尾関石見が地下(じげ)の者にきらわれていなかったということにもなるかもしれない。尾関石見については、正則と同郷の尾張の人というだけで、くわしいことはよくわからない。(140-141p)

★三次浅野家五万国の初代が、名君といわれる長治である。長治の次女阿久利が播州赤穂五万国の浅野内匠頭長矩に輿入れをした。そのとき城代家老大石内蔵助良雄が三次までお迎えにきたという伝説が三次にあり、内蔵助がうえたというしだれ桜が、市内鳳源寺にある。(177p)

★傘をさして尾関山のひくい隆起をこえると、黒くぬれたアスファルト道路が走っている。それを突ききって向かいの丘にとりつけば、そこが鳳源寺である。三次侯初代の浅野長治が、寛永十年(一六三三)、臨済宗の禅僧万室を開山として建立した。石段をのぼって旧藩時代の墓所を見たりしてやがて境内に降りてくると、樹齢五百年経たかとおもわれるしだれ桜がある。(180p)

★池には、睡蓮が七、八個の赤い花を浮かせている。……池の中ごろに架けられた橋の上に立ってみると、橋の下に河骨(こうぼね)が葉を沈ませつつ黄色い花をつけていた。……「三次は、どこというところなしに、いい処ですね。こう、この盆地ぜんたいかもしれません」と、橋の上で須田画伯がつぶやいた。(183p)

2022年12月6日火曜日

『街道をゆく』(三十四)「中津・宇佐のみち」

 先日、土佐に出かけた。土佐は高知県で四国には他にも阿波、讃岐、伊予がある。讃岐の香川県と伊予の愛媛県はなじみがあるが土佐、阿波は遠い気がしていた。ところが土佐に出かけてみると思ったよりも遠くなく、もう一度行きたくなるほどいいところだ。阿波の名所旧跡は今一歩わかっていないが、出かければきっといいところに違いない。『街道をゆく』に阿波が取り上げられているかどうかを調べると「阿波紀行」があった。今は「近江散歩」と「奈良散歩」を読んでいるのでこれを読み終えたならば「阿波紀行」を読もう。

 遊んでばかりいたらすっかり本を読む速度が衰えている。再度気合を入れなおして本を読もう。以下は『街道をゆく』(三十四)「中津・宇佐のみち」 (司馬遼太郎 文藝春秋、一九九七年第三刷)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★目の前に、睡蓮の葉のむれの面がひろがっている。この堤に立てば、容易に古代のなかに入ることができる。睡蓮などと漢名でいったり、印象派のクロード・モネの水面にきらめくこの水草をおもうより、和名のヒツジグサこそふさわしいかもしれない。この花は夜、ねむるように閉じ、未の刻(午後二時)にひらく(ただし実際には午前中にもひらくらしい)。蓮の群落もある。また蓴菜(じゅんさい)の大群落もみられる。……この水草もスイレン科らしい。他に、夏になるとあざやかな黄の花を咲かせる香骨の群落があり、これもスイレン科だそうだから、この池(注・みすみ池)は、睡蓮がいとこ・はとこを従えて大いににぎわっているようである。(216-217p)

★春宮社(とうぐうしゃ)という摂社のそばから林のなかに入った。林のなかは、印象派絵画の世界だった。あの頃の画家たちは、光を印象づけるために影を淡く紫でえがいたのだが、この細長い林のなかは、それを証明するように落葉の一枚ずつが無数の紫の影をつくっていて、上から木漏れ日のなかで輝いたり、ゆらめいたりしている。……頂上は、朱と黄であふれていた。屋根は黒っぽい茶の檜皮でふかれている。建物のほうは朱塗で、黄金の金具が打たれ、樋までが、黄金であることに驚かされる。「宇佐の黄金樋(きんとい)」というのは、神社建築のなかでも、聞こえたものであるらしい。(253p)

★本宮を辞し、こんどは若宮坂の石段をくだることにした。坂は、イチイガシやクスの原生林のなかにあって、じつに気分がいい。林の標柱をみると、この神宮ではこの森のことを、「社叢(しゃそう)」とよび、国指定の天然記念物の標柱をたてている。……宇佐神宮の最大の年中行事は「放生会(ほうじょうえ)」である。仏教的な名がついている。捉えた生きものを放してやる行事である。(58p) 

2022年12月5日月曜日

マウスポインタ―

  2000年にはじめて買ったパソコンはデスク型。デスクと言っても当時、テレビのパソコン教室で使われていたもので簡単に持ち運びができた。それ以降、2台目、3台目、4台目とノート型をメーカー直で購入する。メーカーから段ボールで送られてきたパソコンをトリセツを見ながら設定。そこまではいいのだが、昨夜、夕飯後ふと頭を過るものがある。パソコンのマウスポインターである。

 視力がよくないのでマウスのポイントがどこにあるのかわらなくなる時がある。その時はマウスの電源をOFFにしてONに切り替える。するとポインターが出てくる。パソコンを買って以降22年、(ポイントがもう少し大きければ)とも思わず使っていた。というか大きくできると知らずにパソコン操作をしていた。ところがふと頭を過るモノがある。それは(マウスポインターはもしかして大きくなるのでは?)。そう思うとすぐにGOOGLE 先先生に問いかけた。その詳細はすぐにわかった。(パソコンのスタートをクリックして……)で始まる操作である。その通りにするとマウスのポインタ―が思う大きさで表示できた。

 何でもわからないことはGOOGLE 先生に聞けばすぐに教えてくれる。ありがたい世の中である。それにしても(困っていたのだからもっと早くそのことに気づけばよかった)、と思うが今さらそう思っても仕方ない。今、わかっただけでもよかった、と思う方が賢い。ポインターはポイントの色も変えられる。が、色を変えなくてもポイントが少し大きくなるだけで十分だ。初めてのパソコンから22年も経過してやっとポインターが楽に使えるようになった。本当に良かった!

 なお、使用するマウスはブルートウース規格。ブルートウースは今のパソコンで初めて使う。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月4日日曜日

一人焼き肉!?

 2週間ぶりに日本画教室に出かける。日本画教室は月に3回ある。土曜日が月の4週目や5週目にあたるとそれらの週の教室は休みになる。休みになる週を見計らって旅行する人もいる。教室の人は北陸へ行ったそうだ。(北陸)、と聞いて能登半島辺りは若い頃に出かけたが金沢辺りに出かけていないと思った。石川県には友だちもいるのでいつか行こうと思いながら行かずにいる。教室の人の金沢の話を聞いて行きたい気持ちが募りだす。が、これから寒くなるのでどこへ出かけるにも暖かくなるまで待つしかない。

 それにしても松山の坂の上の雲ミュージアム、国東半島、そして金沢と徐々に行きたい場所が増えてくる。行きたいところを先延ばしにしてはいけないが出かけるには季節も関係がある。海外が無理ならば国内へ、それも一人旅へと気持ちを切り替えたことはよかった。もしも海外に行くことばかりを考えていたならばコロナで行かれない気持ちをぼやいていたかもしれない。それでなくても歳ばかり取っていく。海外から国内にシフトしたのは正解だった。

 日本画を習い始めたころ教室で(旅行はほとんど一人で参加する)と話した。その時、(一人で参加して何が楽しい?)みたいなことを言われて顰蹙を買った。ところがそれも時代の変化なのか(一人で行った)と話しても誰からも非難されなくなり、むしろ行けるときに行かないと行かれなくなる、みたいなことを言われだす。昨日の教室で若い人は(焼き肉を一人で食べに行く)と話す。これを聴いて(焼き肉屋に一人で?)と言ってしまった。この言い方はよくなかった。というか若い人の行動にかなり刺激を受けている。

 旅行を一人でするよりも焼き肉屋へ一人で入るほうが自分にとってはかなりの勇気がいる。何でもやりたいと思うことをやらないとあとで後悔が残る。そう思うと若い人の言葉に謙虚に耳を傾けて大いに刺激を受ける、いいことかもしれない。

 描いていたカタバミを描き終えた。次はサムホールに揉み紙を貼って蓮の花を描く予定。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月3日土曜日

土佐の旅

1日目 2022年11月29日(火)

 広島駅新幹線口から高速バス「土佐エクスプレス」に乗って高知駅に向かう。高速バスの所要時間は約4時間余り。途中、八幡PAと豊浜SAで各15分の休憩がある。初日はあいにく小雨である。丸亀辺りで一瞬、日が射すがそれもつかの間。四国の山々を貫くトンネルを通り過ぎると雨の勢いが増してくる。高知駅バスターミナルには12時半に到着した。今回は運行するバス会社がホテルと往復バス代込みで発売した個人旅行である。この旅費は高知県と国の旅行支援をダブルで受けてとても安い。さらに3000円のクーポン券がつく。

 高知駅バスターミナルで下車後、雨の中、駅の反対側にある「こうち旅広場」の高知観光情報発信館「とさてらす」に向かう。ここで翌日に利用する牧野植物園や桂浜行の一日周遊の「MY遊バス」を購入。購入後、お昼の食事場所を探すと目の前の駅構内に居酒屋があった。今回は全ての食事がついていない。勇気を出してお店に入る。土佐といえばカツオのたたきが有名だ。是非とも本場のたたきを食べてみたいと思った。注文しようとするとお昼の定食をすすめられる。これには魚の煮付けなどあり感じがいいお店だった。
土佐エクスプレスの車窓から まるで墨絵の世界!?

こうち旅広場(左側) 高知駅(右側)
 こうち旅広場に立つ3体の像を見に行こうと足元を気にせずに歩いていたら靴が水たまりにハマった。背中のリュックも降り続く雨でびしょ濡れだ。それも仕方ない。傘が小さい折り畳みだ。駅前の「とさてらす」で高知駅から目指す龍馬の誕生地までは市内電車に乗るように教えてもらった。が、そこまで行くにははりまや橋で乗り換えねばならない。はりまや橋まで行く途中にこの日の宿がある。(宿を探しながらはりまや橋まで歩こう)と思って辺りをキョロキョロしながら歩く。途中、高知橋一帯に茂る蘇鉄などが南国土佐を思わせてくれる。高知橋を渡ると「槇村浩生誕の地」の標識がある。初めて知った人だが反革命詩人らしい。雨の中、写真を写すのも大変で片手に傘をさして右手で写す。
「龍馬伝」幕末志士社中 左から武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎
南国土佐の樹木が生い繁

 はりまや橋に着いた。はりまや橋が街の中心地なのか十字路になっていた。ここで電車に乗る。電車は広島では珍しくないがどこの電車もゆっくり走る。上本町1丁目で下車し龍馬の誕生地を目指す。電車を降りた場所に誕生地があるとは知らずに歩く。が、場所がわからず人に聞くとバス停前に石碑があるという。誕生地の石碑はまるでお墓のようだ。石碑の前に立つと、上、左右に見事な生花が活けてある。触ると飾り物ではなく本物の生花だ。だれが管理するのだろうか、よく行き届いている。

 バス停には数人がいる。「龍馬の生まれたまち記念館」を探しているようだ。その人たちの後をついて行く。が、どこにあるのか迷った様子だ。行きかう親子に聞くと目的地が同じでついて歩く。記念館に入ると入館料に各種割引がある。一覧表を見せられて、これまた安く切符を購入する。
龍馬の生まれたまち記念館

坂本龍馬誕生地の石碑

 もらったパンフによると記念館は高知市立となっており、この上町で生まれた龍馬がなぜここで育ち世に出たのかを展示や映像などで紹介している。館内の見学を終えると電車に乗ってはりまや橋に戻る。お天気が良ければすぐ近くにある高知城へも行きたかった。が、雨の中、リュックを背負って行くのは無理と思ってはりまや橋で降車し、高知大丸付近を歩くが繁華街なのに人の動きがない。ひろめ市場へ行こうかと思ったが雨に負けて宿に向かう。

 数分歩くと高知パレスホテルに着いた。チェックインをしようと中に入るがフロントらしきところへ行かれない。キーが必要とある。どうもホテルの入口が違うようだ。入ってきた人に聞くとそこは宿泊する禁煙館で本館は向かいの建物だった。受付けでチェックイン後、ドアボーイに近くにある食べ物屋を尋ねる。禁煙館の隣にコンビニがあり、その隣に居酒屋があると教えてくれた。部屋に入るまでにそのお店を物色するとすぐ近くにあった。

 部屋に入るとずぶ濡れになったリュックの中身を出して乾かす。靴もソックスも脱いだ。何もかも濡れている。雨に濡れてもこの日は幸い寒くなくてよかった。新たなソックスに履き替えて部屋のスリッパで過ごす。気持ちが落ち着くと夕飯を食べにお店に行く。和食のお店でカウンターに座る。(さて何を)、とメニューを見るがお腹は空いていない。握りずしと生ビール、そして鰹のたたきが入った中巻を注文。と、その時、フロントでもらったクーポン券を部屋に置いたままにしていると気づく。わけを話して部屋に取りに行く。何と落ち着きのないことか、と我ながらあきれる。なお中巻は朝食に。

 もらったクーポン券は超えたがここで使い果たした。今回の旅は食事がついていないので食べることが気になる。が、一人でお店に入るのも徐々に慣れてくる。部屋に戻ると湯沸かしやティーバッグはあるが珈琲がない。本館にあるレストランはパンフではイタリアンやフレンチレストランと書いてあったが実際はテイクアウトのみ。お湯を沸かして持参した珈琲スティックを飲む。どういっても安いパック料金。文句は言えない。この日は7847歩ほど歩いていた。 

2日目 2022年11月30日(水)

 前夜、急遽予定を変更してMY遊バスの時刻を1便早めて9時発に乗る。が、乗る場所を確認ずに高知駅バスターミナルに向かった。その場所に行くも標識にその行き先がない。案内所で確認するとこの反対側に乗る場所があるという。急いで引き返して人に聞こうとする。が、駅前なのに誰も歩いていない。(どうしよう?)と思ったら人が来た。聞くとその人もバス停を探しているという。ついて行くとバスが止まっていた。

 2日目は高知駅から約1時間乗車して桂浜で降りる。桂浜では龍馬像と龍馬記念館を1時間半見学。その後、11時半のMY遊バスに乗って牧野植物園と竹林寺を散策、を予定した。高知駅で道連れになった人は桂浜の龍馬記念館が目的らしい。バス車内で話をすると茨城県から飛行機で高知に来たという。それも高知割と国の全国支援とのダブル割を適用とか。同じやり方でどの人も高知の観光を楽しんでいると思った。見知らぬ者同士なのに静かな車内で話をする。後で知り合った若い2人連れと話すと「車内で話していた人?」と問われる。どうも話が車内に聞こえていたようだ。

 話題は一人旅。茨城の人はしきりに一人で1年間世界を回った話をする。最近はハノイに出かけたそうだ。人と話をして自分には到底できないことをする人の話を聞くのは楽しい。よほど興味を持って聞いていたのだろう。車内で一人旅のすすめと題した講演会の模様をYOU TUBEで見るようにと名刺をくれた。地元主催の2時間の講演会でまだ数分しか見ていない。それによると長年、国際交流をされてホームステイなどもされている。

 来年はまた世界一周の旅に1年間かけて出るそうだ。個人的に日本国内の一人旅は何とかできても海外はツアーでしか参加できない。ツアーならばかなり出かけたと話すと回数と出かけた国を聞かれ、それを話すと驚かれた。

 桂浜公園にバスが止まるとまずは龍馬像を探す。が、広くて何がどこにあるのかさっぱりわからない。係に尋ねてまずは龍馬に会いに行く。龍馬像は遥か太平洋のかなたを見つめて立っている。近づくととても大きな像だ。像の高さは5.3m、高さは13.5mもある。この像は昭和3年、地元の青年有志によって建立されていた。今から94、5年前になる。

 龍馬像を見学後、浜辺に沿って歩くとうつぎの小道と椿の小道に出る.この道を抜けた先に龍馬記念館がある。標識では380mと短いようだが山道の石段でそれも一段が高い。旅の全財産を背負って石段を上がるのはとても大変。それも話ながら歩くので、(このきつさは高山病?)と思えるほどだった。龍馬記念館に着くもこれほど歩くとはつゆ知らず、気が付けば見学時間が30分もない。ましてや館内が何ヵ所にも分かれて展示されており時間がなくて気持ちが焦る。2つ目の展示室を見学中、先の道連れに時間がない旨告げてここで別れる。そして残り時間を急いで見学する。もらったパンフによると「坂本龍馬は土佐に生まれ、新しい日本を作るために奔走した人物です。当館は坂本龍馬を紹介する施設として、1991年に開館しました。館内には龍馬の手紙や関連資料の展示のほか、体験型展示コーナーもあり、楽しみながら学ぶことができる空間となっています」とある。どこを見ても贅を尽くした展示となっており、龍馬ファンはたまらないに違いない。

桂浜にある坂本龍馬像

桂浜

桂浜のいたるところにつわぶきが咲いていた

坂本龍馬記念館までの道から海を見下ろす

桂浜バス停下車後、坂本龍馬記念館まで険しい石段を歩く
 今回の旅の計画は時間的に相当無理がある。(また土佐に来い!)と言われているような気持で竹林寺と牧野植物園行きのMY遊バス停に向かう。はっきりバス停を確認せずに降りたので不安が募る。前を見ると若い人がバス停付近にいる。声をかけるとバス停を確認しているという。2人で確認してバスを待つ。若い人は学生時代の友だちと土佐で再会するとか。牧野植物園で2人は合流していた。

 牧野植物園と竹林寺はバス停が異なる。ところが若い人たちは竹林寺で降車すると隣が牧野植物園入り口と教えてくれた。竹林寺に12時に下車後、14時までの2時間が竹林寺参拝と植物園散策の時間だ。(2時間ある)、と気を大きくしていたら時間が足りそうにない。お腹もすいてくる。若者たちは停留所前のお店で食事らしい。食事は竹林を参拝後にして境内を歩く。

 竹林寺は四国八十八カ所霊場第31番札所である。境内を歩いていると同行二人の杖を持った若い女性が一人お遍路なのか参拝していた。

竹林寺参道 この石段横に牧野植物園がある

竹林寺五重塔

きれいな紅葉

竹林寺智恵の文殊大菩薩

色づきがいい!

日吉神社

竹林寺山門(仁王門)

 竹林寺を参拝後、牧野植物園に入る。入り口に自販機がある。珈琲を買い、持ち歩いていた非常食のパンを食べる。この日、夜遅く広島駅に着く。そう思ってお昼は高知駅についてから食べようと決めた。ベンチで食べながら休憩していると隣のベンチに神戸から5日間かけて車で旅行中の夫婦が座った。話をすると感じがいい人たちだ。その時点ではベンチに座る前に入った暗い部屋が温室とは知らず、すぐに外に出た。園内を奥に進むと中央に葉牧野富太郎博士像がある。
 
 広い園内にいろんな道がある。そのそばにはこれまたいろんな花が咲いている。タイキンギクの前では座ってスケッチする人がいる、声をかけるとスケッチ途中の絵を見せてくれた。その人は花の絵は写真でなくスケッチして描くほうがいいという。それがわかっていてもつい写真に撮って後でそれをもとに絵に描くいている。

見事な紅葉だ

シコンノボタン(リトルエンジェル)
タイキンギク

サツマノギク

花の名は不明

牧野植物園園内を歩く
 どんどん進んでいくと足が疲れだす。辺りを見渡すと先方にきれいな建物が見えてくる。牧野富太郎記念館展示館だ。展示館の外で珈琲を一人飲む女性がいる。たまらなくいい香りが辺りに漂う。珈琲を注文したくなるが飲んでいるとバスに間に合わない。かなり逡巡した挙句、珈琲はあきらめて来た道を引き返す。春には秋とは違う花が咲き、さらにきれいかもしれない。(またいつか来ればいい)、と思いながらバス停に向かう。

 停留所で先の若い2人連れと出会う。「温室の建物はわかってもその入り口がわからなかった」、と話すと受付に交渉してくれて再入園した。「温室がこの植物園のメインですよ」と促されてバスが来るまで中に入る。5分くらい見てバス停に行くが時間が来てもバスが来ない。若い女性たちは飛行機で長崎と愛知に分かれて搭乗するらしい。飛行機が間に合わなくなると言って電話でバス会社に問い合わせるとバス会社から返事が来るまでに遅れてバスがやってきた。
 
 若い女性たちははりまや橋で下車。下車前、手を振ってくれた。こちらも手を振って別れる。その後、高知駅バスターミナルにバスは到着。広島行のバス停を確認後、遅いお昼を食べる。高知駅は新しいきれいな駅だが食事場所があまりない。前日、お昼を食べたお店を探すと夜まで休みだ。カフェを見ると広島のお店だ。ここには入らず、他のカフェに入りハンバーグ定食と珈琲を注文。やっと珈琲にありつけた。2日目は15669歩とよく歩く。

 広島駅に20時半ごろ到着。久しぶりに夜道を歩いて我が家に帰る。1泊2日の土佐の旅。時間がなくて忙しかった。次はもっとゆとりを持って旅をしよう。やっぱり旅はいい!楽しいし、元気が湧いてくる!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月2日金曜日

遊ぶ元気

 昨日から一気に気温が下がり、長い秋も終わるようだ。この時季、届く便りは訃報ばかり!?昨日も1枚届く。はがきの内容を見てしばし驚く。何と40年以上も前からの友だち本人の訃報だ。送り主は夫と娘になっている。なぜ?と聞こうにも聞くことができなくなった。その人の親と母が同じころ亡くなっている。そのこともあって親を失った悲しみを慰めあったりした。今から11,2年前のことだ。その頃、他の友だちと3人でランチをしたことが最後になった。知り合って長く年賀状だけは絶やさなかった。その最後が訃報の知らせとは人生があまりにも儚すぎる。これからは親世代から本人の訃報となっていく。

 気持ちを切り替えよう。今朝の地元紙に国東市観光キャンペーンの掲載がある。ここへはまだ出かけたことがなく行きたい場所だ。新聞広告のQRコードをダウンロードするとその詳細が出た。個人が宿に泊まると宿泊代金が安くなるという。国の制度もこれと並行して利用できるとか。宿は各自で決めて行かねばならない。来年2月末までの制度のようだが、寒い時季。出かけるとなると勇気がいる。一昨日までの陽気はどこへ行ったかのような寒さになった。が、今から寒いと言っていてはどこへも行かれない。

 松山の「坂の上の雲ミュージアム」。そして国東半島。いずれもフェリーの利用になる。普段JR利用が多いので今一歩フェリーに疎い。これではどこへも行かれない。3歳も若い友だちが亡くなった。生きていればこそ遊ぶこともできる。もっと元気でいるために元気を充電しなくてはいけない。それは遊ぶこと。それには旅がいちばんいい。とはいえ遊ぶにも元気がいる!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月1日木曜日

「土佐エクスプレス」に乗って

 南国土佐までは広島からだと「土佐エクスプレス」を利用する。所要時間は4時間。途中、八幡PAと豊浜SAの2か所で15分ずつの休憩がある。実質3時間半の乗車は長い気がしてこれまで高知へは行きそびれていた。思い起こせば初めての高知は今からなんと半世紀近く前の社員旅行。その時出かけた場所は龍河洞と桂浜は覚えている。が、今回、桂浜に出かけて浜辺は覚えていてもその辺一帯の桂浜公園はほとんど記憶と違っていた。それもそのはず、坂本龍馬記念館は1991年に建設されている。

 高知へは母が88歳の3月に旅行を計画した。ところが出かける直前に母の骨折があり、急遽、旅行をキャンセル。そして今回の土佐行きである。今回は友だちに誘われての旅だった。ところが今回、旅行直前に友だちの体の調子がよくなくて一人旅となった。一人旅はこの頃出かけているので不安はない。というか、どこに出かけてもすぐに旅の道連れが現れる。今回もそうだ。これは我ながら不思議で仕方ない。

 バスがどこを通って高知まで行くのかさっぱりわからない。2か所の休憩場所は検索してわかったが四国に入ってからは今一歩わかっていない。ただ、四国の山を抜けるのかほぼトンネルばかりでそれを抜けると高知についた。

 南国高知は初日は小雨。翌日は好天に恵まれた。気温も高いのかどの日も歩けば汗が出るほどだ。小雨の初日は汗というよりも背負ったリュックや靴が雨でぬれた。雨の中、龍馬の誕生地と龍馬の生まれたまち記念館へ行く。ショルダーバッグにリュック、そしてカメラにスマホ、さらには傘をさしての観光は歩くだけでも大変。それでも行きたい気持ちが勝って観光すると通りを歩く人はいないのに観光場所は観光客が多くいる。龍馬人気はいつまでも色あせそうにない。といっても自分自身は司馬作品を読み始めてのことでまだ4年である。

 翌日は高知駅から牧野植物園や桂浜が一日中、周遊できる「MY遊きっぷ」を買ってバスに乗る。ところが高知駅の乗り場を確認せずにいたためバスターミナルで乗り場を探すが見当たらない。案内所で尋ねると駅の反対側からバスが出るという。急いで歩いて行くが場所がわからない。駅前なのに歩く人もいない。やっと見つけた人に聞くとその人も同じバスに乗るという。お陰でバスに間に合った。その人と話をすると茨木県から飛行機で来たという。その人も桂浜へ行くとのことで2時間半、道連れになった。

 バス車内で話していると世界中を一人で飛び回っているという。その様子をある場所で講演したそうだ。そのようすがYOU YUBEにアップされているとのことで名刺をもらった。海外をツアーでなく一人で、それも1年間かけて出かける人の話を聞くとかなり刺激される。司馬遼太郎の話をするといいことを話してくれた。それは松山に「坂の上の雲ミュージアム」があるという。昨夜、旅から帰って新聞を読むと偶然にも旅の広告にそのミュージアムのツアーが載っている。これまで聞いたこともないミュージアムだ。それが旅の案内にある。この偶然に驚く。

 読んで一瞬、このツアーに、と思ったら4,5人の旅。もちろん、今ツアーに参加する気はない。いつか松山のこのミュージアムに出かけよう。その人と桂浜で別れて牧野植物園に隣接する竹林寺まで先の周遊バスに乗る。ところが桂浜での周遊バス乗り場がはっきりしない。若い女性が場所を探している様子で声をかけると同じバスだ。2人でバス乗り場を確認して話をすると長崎から飛行機で来ているという。その人は学生時代の友が愛知から来て高知で再会するそうだ。周遊バスが竹林寺に停車するとその2人はここで合流。牧野植物園と竹林寺の距離が今一歩だった。が、この若者が教えてくれたとおり竹林寺で降りる。なんと竹林寺と牧野植物園は目の前に隣接していた。

 ここで若者たちと別れて竹林寺を観光後、牧野植物園を見て歩く。園内は広い。高知駅行きの周遊バスが来るまでの1時間あまり歩き回るが時間が足りない。だが、あとで地図を見るとくまなく歩いていた。しかし、温室に入っていない。バス停で先の若者たちに遭遇して温室がわからなかったというと、そこがメインの場所だ、と言って案内所にわけを説明してくれて連れて行ってくれた。そこは案内所の横にある暗い場所だ。初めに入った場所がまさか温室とは知らず、すぐに外に出て園内を散策した。

 若者たちは竜馬空港で長崎と愛知に分かれて飛行機に乗るとか。2人は私よりも先にはりまや橋で周遊バスを降りた。その時、親切にも振り向いて手を振ってくれた。旅で出会う人たちはどの人も親切だった。そういえば牧野植物園で休憩していたら神戸から車で5日間観光中の夫婦と話した。その人たちも親切だった。

 旅の道連れは好奇心。その思いが強いがどこへ出かけてもすぐに皆と旅の道連れになる。いい旅だった。この続きは後日、ブログにアップしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月29日火曜日

『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで』

 ゼロ・コロナを目指す中国。その政策について行けない中国の国民は怒りの矛先を政府に向けて連日デモを繰り広げている。が、コトは簡単ではない。そこに自由はなく、まさに「独裁国家」中国がある。以下は『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで』(楊海英 文藝春秋、2019年第1刷)から気になる箇所を取り上げた。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★中国は都市部と農村部で戸籍が分かれており、激しい格差の温床となっています。大雑把に「いえば農村戸籍者六割に対して、都市戸籍者は約四割。かつて農村から都市への移住は厳しく制限されており、農民は自給自足を原則として、社会保障制度からも外されていました。それに対し、都市戸籍者は教育、経済、福祉などの面で圧倒的に優遇されているのです。……大学を卒業したあとの生活も、都市戸籍を持つ人のほうが有利です。北京の都市戸籍がなければ北京で就職することはできません。……、当然、共産党の中央幹部は、その家族ともども北京などの都市戸籍を持ち、特権を謳歌しています。(22-23p)

★一九一一年十月、清で辛亥革命が起きたとき、孫文はアメリカにいました。このとき革命運動の中心にいたのは、日本や欧米への留学経験がある漢民族の知識人たちでした。特に日本への留学生は多く、清朝末期には一万人以上に達したといわれます。彼らが辛亥革命で掲げたスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」、すなわち清朝の打倒、中華=漢民族による主権の回復、共和政の樹立、土地の平等化という意味です。このスローガンは非常に重要で、漢民族主権と土地問題はまさに中華人民共和国の時代になっても、主要なテーマであり続けるのです。(39-40p)

★中国共産党が発足した第一次全国代表大会の会場は、東京帝国大学への留学から帰国した李漢俊の自宅で、集まったのはわずか十二人という、全国代表大会というにはあまりにもささやかなものでした。この十二人のうちの一人が毛沢東でした。初期の中国共産党のありかたは、近代的な政党というよりもむしろ秘密結社に近いものが感じられます。……現在の中国共産党の秘密体質、密告による支配は、革命党の秘密主義+中国的秘密結社の伝統がミックスされたものではないでしょうか。(48-50p)

★都市部のインテリ秘密結社としてスタートした中国共産党は、一九二〇年代末から三〇年代にかけて数百万の農民を党員として獲得し、農民主体の党となります。この大変身の立役者となったのが毛沢東でした。(59-60p)

★長征とは、江西省瑞金から陝西省延安まで約一年間をかけて、約一万二千五百キロメートルを徒歩で行った大移動のことです。……ちなみにこの陝西省で毛沢東たちを迎い入れたのが、後に「満州のスターリン」とよばれる高崗であり、習近平の父習仲勲でした。(64-65p)

★中国共産党は現在も強固な等級制度を敷いています。また反腐敗闘争でも明らかなように、密告文化も健在です。今の中国の組織や、ルーツは延安時代にあるのです。(68p)

★共産党は国民党に寄生して資金と武器を調達し、麻薬を売りつけ、「抗日を戦った救国の党」という正当性さえ搾取して勢力を伸ばして行きます。……戦後、毛沢東は田中角栄首相や、日本社会党などの訪中代表団に対して、繰り返し「戦争のことを謝ることはない。おかげで私たちが政権を取れた」と発言しています。これは「日本の戦争指導者たちは敵だったが、日本の人民は味方だ」という分断戦術でもありましたが、歴史的事実でもあったのです。(75-76p)

★この「告発と粛清」の手法は、その後も中国で繰り返し登場します。一九五七年の反右派闘争、一九六六年以降の文化大革命、さらには現在の反腐敗闘争にも通じるものがあります。いずれも権力側がいわば恣意的に処分を行える「恐怖による支配」のツールなのです。……もう一つ、中国社会を大きく変えた政策が農村の改造です。その二つの柱が、「土地改革」と「農村戸籍の導入」でした。建国当時、中国の人口の八割は農村に住んでいました。それだけに、毛沢東にとって農村の改造は非常に重要な政策でした。「土地改革」の手法については、前にも触れました。地主から土地を奪い、農民に分け与えると約束する。瑞金政府時代から毛沢東が行ってきた方法を全土にひろげたものです。(90-91p)

★共産党を批判するのは「右派」であるとして、それを取り締まるから「反右派闘争」。……反右派闘争は、中国に残った知的エリートを標的としておこなわれた粛清でした。これによって毛沢東は、言論、文化のレベルでも政権に異を唱える者を許さないという完璧な独裁国家を作り上げたのです。(112p)

★毛沢東は政権奪取のために、大衆を扇動しました。その一方で、扇動された大衆たちも毛沢東を利用した面があります。毛沢東の「造反有理」の呼びかけを、党の指導部やエリートたち、地主、富裕層、知識人を攻撃するお墨付きとして、不平不満や個人的な恨みなどを晴らそうとしたのです。これは現在の習近平の反腐敗闘争にもあてはまりますし、もっと広くポピュリズム政治一般で見られる構図でもあります。その代表的な例が、アメリカの低中所得層とトランプ大統領の関係でしょう。(135p)

★文革で「反革命」「ブルジョワ」とされ、自己批判を強いられリンチの対象とされた人々と、リンチを行った人々との間に、明確な差異があったとは思われません。たまたま「政敵」だと指摘された人物がスケープゴートとされています。「敵」の定義の曖昧さ、恣意性、そして、誰もがいつでも「敵」とみなされる可能性があること。これが中国現代史で繰り返し登場する「粛清」の基本パターンです。そして「敵」が誰かを決定できるのが、現代中国の権力者なのです。(141p)

★アジアの多くの国々にとって西洋諸国からの独立・自立が大きな課題だったように、モンゴル、ウイグル、チベットは中国からの独立を目指し、一時はそれを実現してもいたのです。これは現在の民族問題を考える上でも重要な点です。もともと歴史的にも民族的にも中国に属していなかったエリアが、二十世紀になって突然、中国の一部に組み入れられたのです。(146-147p)

★新疆は「新しい彊土(土地)」を意味する言葉です。漢民族は古くからこの土地を「西域」、つまり自国に含まれる地域だと考えてきましたが、現在の新疆ウイグル自治区を含む中央アジアの広い地域はペルシャ語で「チュルク人の国」を意味する「トルキスタン」と呼ばれ、地理的にも文化的にも明らかに中国の一部ではありません。清朝の支配下に入ったあとも、圧倒的多数はチュルク系の農耕民族ウイグル人、そこに同じくチュルク系の遊牧民カザフ人、そしてモンゴル人が暮らしていました。……清朝はロシアの進出を食い止めるため、新彊に多くの漢民族を移住させ、一八八四年、新彊省を設置しました。……スターリンはヤルタ会談において新彊の中国への編入を主張しました。……スターリンが新疆を中国へ編入しようとした狙いは、チュルク系民族の分断でした。チュルク系民族がすべてソ連国内の共和国となり、民族として結集すると、コントロールが難しくなる。国内統治上の理由で、新彊は切り離されたのです。(150-152p)

★この「精神汚染」の問題もまた、ずいぶん海外からの文化の輸入が赦されるようになった現在でも、基本的には変わっていません。たとえばよく知られた話ですが、中国のインターネットには金盾(きんじゅん)という検閲システムがあり、「天安門事件」や「ダライ・ラマ」などの検索には規制がかかります。お金は入ってきてほしいが、不都合な情報や思想は排除したいというのは相当無理なことだと思いますが、中国共産党にとっては死活的な問題でもあるのです。(177p)

★父親を失脚させ、自分たちを理不尽な目に遭わせた張本人は毛沢東です。それにもかかわらず、習近平も薄熙来も毛沢東を信奉し続けているのです。それはなぜか。習近平や薄熙来などの文革世代の太子党たちを評した言葉に「オオカミの乳を飲んだ世代」があります。オオカミの乳とは毛沢東思想のことで、親を食い殺してしまったオオカミ=毛沢東に育てられ、自分の親だと思ってしまっている、という意味でしょう。(196-197p)

★これまで周縁の地であり、長い期間、中華王朝の支配とは無縁だった地域、モンゴル、ウイグル、チベットはロシアやインドなどに接しているために、国家防衛の要所とみなされるようになります。だから、これらの地域で強引な中国化が進められている、すなわち、全土を赤く塗り上げた中国は、その縁の部分をさらに濃い赤に染めようとしているのです。これを海洋に展開しようとしているのが、南シナ海であり、尖閣諸島であり、台湾なのです。(199-20p)

2022年11月28日月曜日

QRコード読み取り

  PCR検査の結果がSMSで届いた。前回の結果通知は検査翌日の正午過ぎ、今回は午後5時ごろに届く。陰性だ。もらったIDカードのQRコードを読み取ってみた。前回、携帯の機種変更で日が浅く、うまく処理できなかった。今回は携帯にも慣れてすぐに読み取れる。昨夕から旅の同行者と連絡を取る。体の調子がよくないという。先ほどその人から旅をキャンセルするとの連絡が入る。幸い、ひとり行動になれているのでその点、救われる。

 今回の旅は乗り物と宿がパックになっている個人旅行。そのため互いに各自で旅を申し込んでいる。キャンセル云々の影響はない。が、久しぶりに友だちとの旅を楽しみにしていた。それも体が今一歩の状態では仕方ない。ただ、友だちが本来の調子に戻るのを願うばかりだ。

 旅はお天気がその良し悪しを左右する。雨の予想100%から少しだけ%が下がっている。お天気などの自然現象はこちらがどうこうできない。後は運に任せよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月27日日曜日

オペラを見に行く

 PCR検査を受けに行く。今回のPCR検査は2度目なので少し慣れがあるのか前回ほど時間がかからなかった。とはいえ、(他の人と比べたわけではないが)人並み以上に時間がかかっているに違いない。前回、予約時間よりも早く行くと、次回からは時間通りに、と注意された。それにもかかわらず15分早めに行った。すると予約の証明なるモノを、みたいなことを言われる。ない旨、告げると何やかや言われて予約したスマホを見せる。その画面のキャンセルをタップするように係は言う。そこをタップすると予約が表示された。

 前回検査を受けているので要領はわかる。PCR会場の責任者は前回と同じ人のようだ。2回目と告げると目的を聞かれて前回同様IDカードを宿に見せるようにという。検査会場は前回の少なさと違って多そうだ。終わるとやれやれ、という気持ちで会場を去る。次に向かうは大型電気店。ここで用を済ませるとそごうで遅いお昼を食べる。時刻は午後2時半。この後アステールプラザで開催されるオペラを見に行く。

 本通りのバス停で会場までバスに乗る。が、バスが来ても満員で通過。この調子だと開演に間に合いそうにない。会場まで歩けばよかった、と思いながらバスを待つ。何台か行先が違うバスがやってくる。そしてやっとのことで目的のバスが来る。車中は満員だ。このバスに乗るたびに乗り換えなしで行ける場所に演奏会場があればいいのにと思う。車内は暑いし人は多しでコロナも気になる。こんな状態で通勤通学する人は大変かもしれない。

 会場まで3,4か所しか停留所がないのに時間がかかる。それでも何とか無事到着。オペラの題目はモーツアルトの「魔笛」。このオペラは何度か見ているがその都度、演出に変化がある。出演や演奏者に何人か知り合いがいた。子供の出演者には水泳を一緒に習った人の子供さんもいる。

 近年、夜は出歩かないようにしている。が、チケットを知り合いから安く譲ってもらって出かけた。今回、最後まで見ると遅くなるので第一幕で切り上げた。外に出るとまだ薄日が残っている、が、しだいに夜も更ける。今日は一日、PCR検査の結果待ち!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月26日土曜日

ハガキが届く

 先月出かけた水彩展の主催者からご丁寧にもお礼のハガキを受け取る。他にも某デパートからハガキが来た。このデパートで眼鏡を購入している。(眼鏡の案内?)と思ったら補聴器だった。自分の年齢を考えれば耳が聞こえにくくなる年齢かもしれないがそれにしても(補聴器はどうよ?)と訝る。

 そういえば先日隣町のクリニックからがん検診の案内ハガキが届いた。(なぜ?)と一瞬考える。その何週間か前にクリニックの前身である外科の院長の訃報記事を新聞で見た。20数年前、肩を触っていたら炎症を起こした。それを処置しに外科を訪れた。その時のカルテで住所、氏名を探し出したのか、ハガキが届いた。がん検診などは市から知らせがある。それなのに(行きつけでもないクリニックがハガキを寄こすとは?)、とこれまた訝る。

 気分を変えてドルドラの「思い出」を吹いてみる。以前にも練習した曲だが、また吹いてみたくなった。この曲もフルーティストの神田勇哉が動画にアップしている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!


2022年11月25日金曜日

眼科へ

土手に咲くコスモス

皇帝ダリア
 眼科に出かけて眼圧を測ると13と18だった。いつもにぎわっている眼科だが、昨日はなぜか一人だけ。時間もあるのか医師はこれまでなかった手帳のようなものを取りだす。そこには 文字の大きさが違う1行だけの文が何列か並んでいる。そのうちの2番目に小さい文字の文が読めるかどうかを聞かれる。小さい文字はどんなに小さくても読める。それがふしぎだったのかさらに小さい文字の文を読む。もちろん読める。先生曰く「この2行は一般の人は読めません」と。それに応えて「もっと小さい腕時計に書いてある字も読めます」と話す。これもすべては人よりもひどい近視!?

 目がいい人は小さい文字が読みづらいと聞いたことはある。その点、視力がよくなくてもどんな小さい文字でも読める。先生はさらに「小さい文字を読むと目がつかれるでしょ?」とご自分の顔の疲れる場所を指して聞かれる。それに応えて「どんなに本を読んでも疲れない」旨、話す。実際、ほぼ毎日のように司馬作品を読んでいる。が、それで目が疲れたとは思わない。と言いながらも目は大事と思っているので決して無理な生活はせず睡眠は充分とっている。

 眼科を出ると目の前を流れる2級河川の土手に皇帝ダリアが1本咲いている。近づくとコスモスや菊など数種類の花が植えてある。誰が手入れするのか他にも苗が植えられていた。その場所は川の上を国道が通っている。賑やかな場所にひっそりと咲いていた。

 先日各戸にこの2級河川の改良工事に伴うアンケート用紙が送られてきた。すでにアンケートを送付済みだが、送った後で島根県の木次を流れる斐伊川の土手を思いだした。両岸は桜並木となっている。それもかなりの距離だ。我が家の近くの河川にも桜は植えてあるが川の一部分である。アンケートに「斐伊川の土手のように桜を植えて堤防にする」、と書けばよかった、と後で悔やむ。斐伊川の桜は護岸の斜面に沿って植えてあり堤防となっている。

 お天気のよさはまだまだ続きそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月24日木曜日

『街道をゆく』(二十一)「横浜散歩」

 この先1週間の天気予報を見ると月末から来月にかけて気温が一気に下がり最高気温は一けた台になるようだ。太陽暦の11月から12月上旬の穏やかな暖かい天気を小春日和というそうだが、まさに今日はそれにあてはまりそうだ。この時季が過ぎれば年賀状が待っている。年々、減少していく年賀状。1年に2,3人の訃報があればその分、年賀状も減る。これが10年続けば2,30人の減少でさらに続けばもっと減る。

 先日郵便局に行って年賀状を購入した。年賀状を出す人が減少傾向にあるためか年賀はがきを購入すると小さいカレンダー、ティッシュ、そして「寿」と印刷された祝い箸3膳をくれた。郵便局も年賀はがきの売り上げを意識する!?

 以下は『街道をゆく』(二十一)「横浜散歩」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九九年第五刷)から気になる箇所を記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★風霜に堪えた三階建ての赤レンガの倉庫が、遠近法の教材のように遠くまでつづいている。倉庫と言っても不愛想な四角の建物でなく、前面、隅角、正面にそれぞれ形象を造作して、ぜんたいとして一種の威容を感じさせるように設計されている。赤いレンガも、ところどころ油で黒ずみ、雨で変色し、人工のものというより自然に近くなっていて、その色は絵具では再現しがたい。……どういうわけか、税関の倉庫は「上屋(うわや)」とよばれる。(318-319p)

2022年11月23日水曜日

司馬作品は生きる糧!?

 久しぶりに降り続く雨。これから一雨ごとに寒くなってゆくだろう。しばらく司馬作品から遠ざかっていた。が、他の人の本を読むと司馬作品ほどの感動がない。というか、読後感が清々しくない。これでは本を読んでも体に良くないと気づく。ナニゴトも自分にとって感動的とか興味をそそられないといくら読んでも体に良くない。そう思ってすぐに図書館へ行き、司馬遼太郎の本を借りる。なぜ司馬作品は読んだ後に感動するのか。自分なりに探ってみると司馬作品を読むことで知らないことを知る喜びみたいなことがあったり、また作品に登場する人物などに愛ある書き方がされており決して悪く書いていない。それが読むモノを気持ちよくさせる所以かもしれない。

 来月になれば司馬作品にハマって丸4年になる。この間、かなりの数の司馬作品を読んでいる。一覧表にしているのでそれを見ればすぐわかる。ともあれ、生きているうちに司馬遼太郎の全作品を読み終える目標がある。これは夢でなく実現可能!?それに向かって今日もまた明日も、そして来年もまた再来年も、司馬作品を読み続けよう!

 それにしても司馬作品を読むように勧めてくれた大連の旅で知り合った人たちに改めて感謝したい。この4年間、自分自身の生きる糧になっている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月22日火曜日

楽譜 

 先日のホームコンサートで楽譜の話が出た。話を聞くまでは楽譜といえば紙の楽譜だけと思っていた。ところがこの頃の楽譜は紙だけでなくデジタル化もあるという。ホームコンサートのお宅にはハープ3台とグランドピアノ2台などの楽器がある。その中のグランドピアノ2台をピアニストと主宰者が何曲か連弾された。その時、話された中に楽譜がある。主宰者は紙の楽譜、ゲストのピアニストはタブレットの楽譜だ。

 演奏を聴いているときは楽譜のことは気にならなかった。ところが家に帰ってネットで調べるとデジタル化された楽譜の件が多数ある。コロナ禍になって広響の会員をやめて以降、本格的なコンサートを聴く機会が減った。そのためもあるのか音楽関係の情報に疎くなっている。その時にデジタル楽譜を知って驚いた。プロの交響楽団はデジタルの楽譜を使用して演奏しているのだろうか。それが気になる。今週末にオペラを見に行くのでその際、演奏者の楽譜を見るようにしよう。

 楽譜のデジタル化を知ってますます世の中が進化していると感じた。個人的には視力もよくないので紙の楽譜が何かと便利だ。ところがデジタル化された楽譜は風など吹いても楽譜が飛ばされる心配がないらしい。が、照明の影響の不都合もあるとか。すべてがよい事ばかりではないのかもしれない。今回、ピアノ譜の付いた楽譜を貰ったが個人的にフルートのパート譜に細工しなおして演奏した。それを横で吹かれるフルーティストに見られてしまい細工した旨の話をした。これは紙の楽譜だから簡単にできること。デジタル化の楽譜は初めからタブレットにそれ用の楽譜が入っているのだろうか。それともタブレットに紙の楽譜を取り込むのだろうか。

 そういえばゲストのピアニストについてプロフィールを調べた。プログラムにも記してあったが音大で博士号を取得されていた。なんとその論文がWEB上で読める。が、自分自身、音楽家でもないので読んではいない。もう一人のゲストであるフルーティストは音大の非常勤講師をされている。お二人とも素晴らしい方たちだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月21日月曜日

ホームコンサートへ

 今朝の地元紙の週刊誌見出しを見る。そのなかに80代を元気に超えた現役医師の趣味として管楽器がある。管楽器は呼吸と肺機能を高めるため趣味としていいようだ。個人的にそれを趣味として30年続けている。木管楽器のフルートである。フルートを吹きだして胸囲が増し、風邪もほとんど引かず、もう20数年、内科ともご無沙汰だ。すべてはフルートを吹くお陰!?

 昨日、某宅でホームコンサートが開催された。ゲストはピアニストとフルーティスト。そのフルーティストに2名が加わって「花は咲く」を演奏した。フルーティストの人と個人的に話したことはない。が、あいさつすると「フルート・フェスティバルで会いましたね」と話される。その時、言わなくてもいいのに「以前、姪と一緒にテレビ局で働かれていた」旨、話すと、姪の名を聞かれた。返答すると「ああ!」と言って覚えておられた。姪が東京で働く以前のことである。

 そんなこともあってフルートも楽しく吹かせてもらった。が、数人での演奏になれておらず、自分の音色が聞き取れずにいたが途中から聞こえるようになった。人前で吹くのはかなりのプレッシャーがある。何日も前から気が付けばフルートを吹いていた。昨日も出かける前から音出しをする。

 コロナ禍とあって聞く人もそれほど多くない。久しぶりに出会う人たちもいた。演奏曲の大半は知った曲が多い。演奏楽器の主はハープ。これとフルートが奏でる「グリーンスリーブス」は相性抜群。次回のコンサートは来春になるとか。お土産にケーキをいただいて帰る。

 帰宅後、姪にフルーティストとの話を電話ですると姪も覚えていた。要らぬことを話したので姪に怒られると思ったらそうでもなかった。フルート・フェスティバルに何度か参加したことや姪のテレビ局時代の話は懐かしかった。時はあっという間に過ぎていく。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月20日日曜日

日本画教室へ

 相変わらずカタバミを描いている。花を描くのは久しぶりで、これまで描いていた樹木の点描写のようには描かない。点描写が気に入っていたのでちょっと寂しい気もするが写真を見て描いている。カタバミの花は小さい。それをいかにも大きな花のごとく描いている。葉っぱと花の色合いは描いていてもすがすがしい。が、彩色は上手くできない。ぼかしもそうだ。

 サムホールに描くカタバミの花。サムホールの絵は習っている教室がある区民文化センターの区民祭りに展示する。近年コロナ禍で区民祭りも行われず、出品しないままになっている。しかし、来年の始めにある区民祭りは開催されるようだ。

 行楽日和は続き、今年の秋が長く感じられる。いいことだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月19日土曜日

「人生行路難し」

 (人生長く生きているといろいろあるなあ)、と感じるこの頃である。昨日は母の月命日。お墓に参ろうとすると、墓地に上がる石段に車が止まっている。墓を建てるのだろう、と思ってわが家の墓地に行くとなんとそこが工事現場だ。この何か月か気になることがあった。それは隣の墓地でも同じである。我が家の墓地に工事関係の物が置かれている。先月お墓に参った時、隣の墓地の穴は整えられていた。昨日はその後の工事らしく、お墓の一部を外して墓地の穴を整備されていた。

 工事の人の話を聞いて我が家も穴が空いていた旨、話すと材料が残るので無料で直してあげるという。それは困ると話すと金額を言われた。それを渡すと我が家の穴が空いていた場所を見てくださった。足で踏まれるとまた穴が見えだした。スコップで触るとさらに穴は深くなる。墓地の水の通り道が関係あるとか。さっきの金額では少ないと思ってさらに渡す。何も整備しないとお墓が傾くらしい。隣のお墓はその修理らしい。

 工事には3人来られていた。名刺をもらうと地元のよく知られた業者で感じがいい。何か困りごとがあれば、と親切に言ってくれる。我が家のお墓はお寺の紹介で他の町から来てもらった業者だ。昨日は墓地に行っただけでお墓参りをせず、業者に墓地の整備をお願いしてその場を去った。水の通り道もなんとかしてくれるようだ。

 その足でお宮の方へ行く。義兄にこの旨、電話すると業者と同じことを言う。水の通り道云々だ。姉にも電話する。何かコトが起きると納得するまで人に話を聞いてもらいたい。昨日は姉と義兄に面倒を掛けた。また近いうち、墓地の様子もかねてお墓参りをしよう。

 昨年から今年のはじめにかけて屋根の瓦が1枚外れて屋根の工事で大金を払った。この秋は墓地、と思ったがお墓に関しては我が家は跡継ぎがいない。墓地のことを考えるのは自分自身が元気でいるから思えること。もしも体が悪ければ自分自身のことだけで墓地のことまで気にすることはできないかもしれない。そう思ったりした。何か問題が発生して困難にぶつかる。これを打破するには元気がいる。そう感じた。そう思えばこれくらいのことで(まっ、いいか)、となった。そして偶然にもお墓参りで親切な業者に出会えてよかった。

 改めて電子辞書で「人生」を調べると「人生行路難し」がある。長く生きていてそう感じる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月18日金曜日

喪中はがきが届く季節になった

 年賀状欠礼はがきが届く季節になった。今年もこれまで2枚届いた。が、うち1枚は長年付き合いのある姉妹の妹さんの訃報だった。はがきを見て(えっ、まさか?)と驚いてしまった。すぐに電話をかけると不在。時間を経て電話をするも通じない。喪中はがきは50代になってから届くようになった。この年代で亡くなる人は癌によることが多い。60代もそうだ。が、50代、60代の喪中はがきはどちらかといえば本人よりも親の訃報である。

 親世代の訃報は年齢的なこともあってわかるが同世代の訃報はすぐには信じられない。自分自身の死を考えたこともなく、それよりも親の年齢を超えるほど生きると思っている。幸い今のところは元気でどこかが痛いとか悪いところがない。と言いながらも人から見れば十分老いぼれていると思われるかもしれないが。

 喪中はがきは受け取らなくても配偶者が亡くなった、と先月、電話をかけてきた人がいる。また訃報ではないにしても昨日は友だちから体の調子がよくない旨、電話があった。その人は市内在住でなく、遠くなのですぐには伺えない。春になったら桜を見に行く、と言って電話を切った。

 自分自身、元気と思っていてもこれから先のことはわからない。といって先を気にしていても何もいいことにはならない。その思いがあるのでやりたいことはできるだけ何でもしようと思っている。とはいっても体の調子が悪い人はやりたくても気持ちがついて行かないらしい。その点、気持ちは十分やる気がある。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月17日木曜日

不動院へ行く

 陽気に誘われて不動院へ行く。ネットで行先を調べるとアストラムライン不動院下車すぐとある。我が家からアストラムラインを利用するには運賃も時間ももったいない。(広島駅から?)と探すとバスが出ていた。広島駅に到着後すぐにバスに乗る。10数分バスに乗車後、不動院前で下車する。が、不動院がどこにあるのかわからない。どういっても大通りの上をアストラムラインが走っており、不動院駅もある。

 行きかう人に声をかけると不動院まで連れて行ってくれるという。(どこへ行っても親切な人がいる)と思って歩く。すぐそばにある不動院が目に入らない理由がわかった。それはアストラムラインが視界をふさいでいる!?駅の歩道橋を抜けると不動院が見えた。場所を教えてくれた人とここで別れる。その人は病院に行った帰りのようだが不動院へはあまり行かないと言っていた。


楼門 奥は金堂
 不動院入り口に立って辺りを見渡すが誰もいない。楼門をくぐると左右にりっぱな仁王像がある。しかし、この周囲を金網が施してあり写真に写せない。奥に進むと国指定の金堂がある。境内を見渡すと紅葉の樹木は思ったよりも少ない。が、赤く染まりつつある紅葉を眺めるとこれまた幻想的で美しい。
鎮守社 紅葉の色どりが美しい
 お参りしようとすると鈴紐が数珠になっている。これは初めて見た。お賽銭箱におみくじがある。小吉だった。
護摩堂 数珠になった鈴紐


 
不動明王
 バスやアストラムラインの通りを一歩入ると静かな空間があった。境内は綺麗に整えられており、剪定作業中なのか車が止まっていた。(帰りの道はすぐにわかる)、と気を良くして歩いていたら来たバス停に出ていた。引き返してバス停を探すと目の前にある。広島駅行はすぐに来た。

 広島駅の福屋でお昼をいただく。今回は新たに見つけた和食のお店に入る。美味しかったし、感じもいいので次回もここを利用しよう。食事後はリュックを探す。6階の売り場で気に入ったリュックを見つける。が、(他にも)、と思って2階のバッグ売り場を物色。やっぱり6階のリュックがいいと思って購入する。近場をウロウロちょろちょろするときはこれを背負って……。昨日と違って今日はお天気が良くない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月16日水曜日

楊海英の本

 楊海英の『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで』を読んでいる。楊海英の経歴を見ると『墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上下)で司馬遼太郎賞を受賞している。著者と司馬遼太郎は賞で結び付いている。そう知って驚いてしまった。そのこともあるのかこの人の著書をさらに読みたくなる。副題に「毛沢東から習近平まで」とあるように習近平の独裁政治は、というか中国のそれは今に始まったことではなく辛亥革命の頃から関係している。この時期は大変興味があるのである意味、関心を持って読んでいる。

 司馬遼太郎は『草原の記』で当時のモンゴル人通訳のツエベクマさんを題材にした本を書いている。司馬遼太郎は学生時代、モンゴル語を専攻した。そのこともあるのかモンゴルへの入れ込みは相当なものだった。もしも司馬遼太郎が楊海英の書いた受賞作を読んだならばどういうふうに思ったのだろう。ふと想像してしまった。楊海英はツエベクマさんほどではないにしても内モンゴルで生まれて育ち、その後、日本に留学。そして2000年に帰化と苦労している。モンゴルにいたならばこういった著書も決して書けなかったに違いない。

 読みながら、初めて中国語を習ったときのことやそれから後もいろんな中国の留学生に習ったことで中国の現状を知っていると思っていた。が、まだまだ理解不足は否めない。この本を読み終えたならばしばらくは司馬遼太郎と楊の本を並行して読もう。

 秋の行楽日和はまだまだ続く。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 追記 楊海英は司馬遼太郎賞を2010年に受賞している。これまでの受賞者を見ると錚々たる人たちだ。

2022年11月15日火曜日

次に読む本は?

 お昼過ぎにガスコンロを取り付けに来てくれる、と電話がある。その前に少しは周辺を片付けようとなる。テーブルの上にはパソコンや本を置いている。これは毎日の生活に欠かせないが他にも旅のカタログなどがある。一枚一枚確認していると先々月開催された某会の資料もあった。資料を貰ったが(そのうち読むから)と山積みの中に埋もれていた。手に取って読み始めると会長の読まれた本の紹介記事がある。それは楊海英の『独裁の中国現代史』である。

 近年、司馬作品にハマり、今年の春からはもっぱら『街道をゆく』を放送と並行して読んでいた。ところが放送もなくなり、ついでにと放送されない「街道をゆく」も読んでいる。昨日、そのうちの「西伊予・西土佐の道」を読み終えた。次は何を読もう、となった時、会長の話された『独裁の中国現代史』になった。昨日、図書館のHPを検索してこの本を予約。近いうち手もとに届くだろう。著者の楊海英は今回初めて知った人で内モンゴルの人だ。と言っても中国の独裁について書こうとすれば実名ではないはずと思ったら案の定そうだった。まだこの人の本を一冊も読んでいない。が、久しぶりに中国関連の本を読む予定。

 中国関連といえば、某研究会にも所属している。年に3回送付される史料をみるとお世話になった恩師の名が掲載されていない。もしかして、と案ずる。

 少しずつ秋が深まってゆく。今年の秋を満喫、とまでいかないがそれでも近場を出歩いている。不動院へはさて今週に行くか来週にする!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月14日月曜日

曲名の検索

 「アルビノーニのアダージョ」の練習とともに「花は咲く」を吹いている。スマホの検索画面の音声認識を触ると「♩曲を検索」がある。(もしかして……)と思ってアルビノーニのアダージョを階名で歌うと「もう少し歌って……」の表示が出る。言われるままにさらに続けると曲名が出た。これにはびっくり。「いまさら何を」「誰もが知ってるやりかた」と笑われそうだが自分としてははじめてのことで驚いてしまった。驚きはこれだけでなくカメラ機能で花を写すとその花の名が表示される。これにも驚いたが曲名はこれ以上に感動してしまった。

 笛を練習していて頭をかすめるメロディーなどが聞き覚えのある曲であってもわからないことがある。これまでは電子辞書で最初のフレーズを聴いて探したりした。この場合はクラシックしか利用できない。ところがスマホはどんな曲名もすぐに解明できる。便利な世の中になったのはいいがその反面、怖い気さえする。

 位置情報がそうだ。調べ物は何もかもスマホで、となる!?自分自身の個人情報も知らぬ間に独り歩きするかもしれない。

 話は変わって昨日は雨の中、歩いて隣町の大型電気店に行った。歩数もかなりある、と思ったら3700くらいでそれほどでもなかった。お店に入ると目的の2口ガスコンロの売り場を聴く。店内は雨にもかかわらず客が多い。何か催しをしているのだろうか。売り場に着くとすぐに購入。今日午後には配達されるという。購入後、アンケートやくじ引きをするようにとのこと。賑やかな理由がこれでわかった。くじを引いてお好みソースを貰った。そしてアンケートではティッシュの箱をもらう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月13日日曜日

カタバミを描く

 昨日は日本画教室の日でカタバミを描いている。久しぶりに描く花は簡単そうで難しい。大きさはサムホールで小さい絵なのにうまく描けない。ただ、カタバミのピンクの花と葉っぱのみどりの色合いは描いていても気持ちいい。

 コロナの新規感染者が増えている。第8波到来なのかどうか知らないが、教室の人と門司へフグを食べに行く話はやめにした。一人で行くには問題ないので長府の紅葉の盛りにフグを食べる!?そして門司で食べるフグは新年に、と思ったり。

 今日は久しぶりに雨が降っている。昨夕、ガス・テーブルの調子がよくないと気づく。ブラシで点火付近を掃除すると大丈夫だ。買うか買うまいか迷ったが新たな器具に買い替えよう。雨の日に乗る自転車は危ない。というか、最近はほとんど近場は徒歩での行動が多い。自転車で隣町の大型電気店まで行けばすぐに行かれる。が、これから小雨の中、運動を兼ねて歩いて出かけよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月12日土曜日

『街道をゆく』(二十六)「嵯峨散歩」

 先月、京都の大徳寺と嵐山辺りに出かけた。出かける前、『街道をゆく』の「大徳寺散歩」と「嵯峨散歩」を読んだ。せっかく京都へ行くのだから「街道をゆく」の一か所でも見てみたい気持ちが湧きおこる。今、『街道をゆく』(二十六)「嵯峨散歩」の気になる箇所を改めて読むと本の影響を受けて出かけていた。

 司馬の「街道をゆく」を読んでいる。が、まだ読み終えていない「街道をゆく」もこれから読むつもりでいる。9月まで台風や雨、そしてコロナ禍で今年はどこへも出かけていないと気づく。その時ひらめいたのが(「街道をゆく」を読んでいるんだからその一か所でも出かけてみよう)、という気になった。そこですぐに宿を探す。そしてJRの新幹線「おとなび」を予約する。その後は(さて、どこへ行く?)、となって「街道をゆく」を頼りに歩いた。

 先月、長州と京都へ出かけた。今月は土佐を予定している。少しずつでいいから自分の足で出かけたい。先月出かけた2か所に弾みがついて(まだまだ一人でも十分行ける!)との思いが募る。昨日、旅好きな友だちから電話がある。そしていろんな旅情報を知らせてくれる。行楽シーズンはまだ続く。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『街道をゆく』(二十六)「嵯峨散歩」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、1999年第4刷)から気になる箇所を抜粋。

★樒(しきみ)は漢字だが、べつに国字があって梻(しきみ)と書く。文字にこの木の用途があらわされている。日本ではその枝を切って神にささげる木としては、木へんに神と書く榊(さかき)(国字)がある。シキミもサカキも、葉の色や形が似ているが、神と仏と用途がわかれている。シキミに漢字の樒がありながら梻という国字がつくられたのは、神と対にしたい気分があったにちがいない。(30p)

★東アジアにおいて普遍的文明というのは、中国にしかなかった。朝鮮は質のいい文化をもっていたが、文明ではない。文明とは、”たれでも参加できるもの”であり、文化とは”そのグループだけの特異なもの”と定義すれば、当時の日本に必要なのは、普遍的なもののほうだった。たとえば漢字は普遍的で、たれでも参加できる。土木技術もそうである。それらの根源は、中国にあった。(41-42p)

★角倉家と嵯峨の天竜寺との縁はふかい。天竜寺の僧たちのかかりつけ医者だったという時代もある。天竜寺はいうまでもなく臨済禅の京都五山の一つだが、寺ながらも別に対明貿易商という一面をもっていた。すでに元の時代から室町幕府によって官許されていた貿易商で、世に「天竜寺船」とよばれた。了以の父の宗桂は遣明天竜寺船に乗って入明したことがある。天竜寺船はいわば一航海きりの会社のようなものだから、角倉一族は当然、資本も出し、利潤の分配にもあずかったであろうが、宗桂自身はかの地で明の医方を学んだ。(56-57p)

★登りは、石段である。この峰の大悲閣に、了以が木像になってしずまっているというのも、ゆゆしい。かれは保津川工事の犠牲者の霊をとむらうために念持仏の千手観音を大悲閣(千光寺)にまつり、この寺で亡くなった。木像はいまでも工事現場を見おろしている。(62-63p)

★室町期の嵯峨となると、この景観と地元経済の一中心地は、天竜寺だった。開山は、よく知られているように、夢窓礎石(一二七五~一三五一)である。その著『夢中問答集』をみると、禅客にままある奇矯の風がない。夢窓は中庸を好み、長者の風をそなえ、さらには山林への退隠を好みつつも、後半生、京という市井に出た以上は、孤高を誇るをみせず、俗世の難事にも手足を汚してこれが調停や解決に当たろうとした。生前、三つの国師号をうけたというだけでも、当時の人気の高さがうかがえる。三つの国師号のうち、「夢窓国師」の号の知名度がいちばん高い。(83p)

★私どもも南門から入った。正面に向かってすすみ、放生池(ほうじょうち)や松林やらをすぎてゆくと、法堂(はっとう) (座禅堂)にゆきつく。……夢窓をさらにわかろうと思えば、大方丈の裏の庭園(曹源池)ほとりまでゆけばいい。夢窓は、庭園で禅の境地を表現しようとした人で、この庭には禅がもつ抽象性の骨格がふとく組みこまれている。そのくせ、古今・新古今の日本的美意識の世界であり、大和絵そのものといえる。(94p)

★私は天竜寺の塔頭妙智院で、湯豆腐を食っている。嵯峨には、湯豆腐の店が多い、はじまりはこの妙智院である。寺の収入を観光やあやしげな供養でまかなうよりも、湯豆腐で賄うほうが、はるかに宗教的といえる。鍋の中で煮えているのは「森嘉」の豆腐で、あれやこれや思えば、日本文化を食っている気がしてくる。(108p)

★後嵯峨天皇の子が、亀山天皇(一二四九~一三〇三)である。このひとが、嵐峡の空をわたる月をながめて、あたかも橋が天上の月を渡しているようだ、として橋に「渡月橋」の名をあたえた。(117p)

★建設省は、流量計算で橋の構造をきめるだけという単純なやり方で、風景をぶちこわすような悪い橋をかけつづけている。今後、万一、いまの渡月橋が流れることになれば法規によって高々として分厚い(しかもふしぎに赤ペンキを塗りたがる)新橋ができるおそれがある。となれば、先年の嵐峡も死ぬ。法は神よりも強い世である。願わくば渡月橋の寿命の永からんことを。(121p)

2022年11月11日金曜日

「花は咲く」

 図書館で借りた須田剋太の本が重すぎてざっと目を通しただけですぐに返却した。が、その後もこの人のことが気になり、ネットで調べると鴻巣市のHPに須田剋太画伯についての項目がある。そのなかに略年譜が記されており、その最後に「造形略歴(須田剋太の自伝へ)」としてPDFが添付されている。これを読まねばならないと読んでいると記事がとても長い。多分、本一冊分くらいあると思われる。一昨日、その半分を、そして昨日残りを読む。だいぶ須田剋太の人となりがわかってきた。それにしてもパソコンやスマホで読むネット記事のなんと疲れることか。紙の媒体であればどういうこともなくすぐ読めるのに、と思ってしまった。ネット記事は紙よりも理解力が劣る気がする。と言いながらも今の子供たちはタブレットで学ぶことも多いから紙が、ネットが、と言ってはおれないかもしれない。

 フルートで吹く「花は咲く」を練習している。昨日、フルートを吹く人はコンサート前にリハをやる旨、SMSが届く。久々に皆の前で吹くので練習が欠かせない。といいながらもこれまた久しぶりに旅行社から日程表が送付されると旅へと気が向く。この旅はいわゆるツアーでなく、個人が宿と乗り物のセットになった旅を申し込み、そのチケットなどである。詳細を見ているとさらに何処かへ行きたくなる。ネットで近場を調べると牛田の不動院がある。ここへは昔、一度行ったような気がするが覚えていない。ここも紅葉の名所らしく、広島駅からも近いので下旬に出かけよう。昨年出かけた今高野山や岡山の閑谷学校の紅葉も見事なので見に行きたい。が、さてさて。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月10日木曜日

時すでに遅し!?

 今月中旬に某宅で行われるホームコンサートに参加する予定でいる。一昨日、5日もかかって当日、吹く予定の楽譜が送付されてきた。以前だったら近郊の町からの郵便物はその翌日届くはず。ところがこの頃は土曜日の配達がなくなり郵便物の届くのがおそい。届いた楽譜を見るとピアノの伴奏付きの楽譜だ。昨日はこの楽譜をコンビニでコピーし、フルートのパート部分を切り張りしてフルートの楽譜を完成させた。そして再度それをコンビニに出かけてコピーした。こういう小細工は器用だが、これから毎日暗譜するまで吹くことになりそうだ。

 曲名は「花は咲く」。以前、合唱でピアノとフルートで伴奏をしたことがある。その時の楽譜はフルート用のアレンジがなく吹くのも大変だった。しかし、今回はゲストがフルート奏者なので送付の楽譜もフルート用。合唱で吹いた楽譜を持っていればよかったがナニゴトも自分の気持ちが伴わないヒト、モノ、コトは破棄する癖があるのでその楽譜も今はない。しかし、今回送付された楽譜は捨てないようにしよう。

 昨日といえばほかにも図書館へ予約の本を取りに行く。借りようとする本を受け取るととても分厚い。その本は須田剋太の曼陀羅の本。司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を須田剋太が描いている。この挿絵を見るだけでも本を読む価値がありそうなくらいうまく描かれている。本を受け取るとこれは家には持って帰れない、と思って図書館内で目を通す。どういっても分厚くて重い上に持ち運びは大変。館内でしばし読んだ後、すぐに返却。係に重くて申し訳ない旨、断りを入れて返却した。

 ざっと目をとおした限りでは日本の著名な人たちが寄稿文を書いている。この人はすごい人だ、と改めて感心しながら目を通す。わかりやすい絵が好きだが、須田に関してはそれとは別に妙に絵に力があるというか見ているだけでも元気が出てくる。先ほどネットで検索するとずいぶん前にNHKがこの人を取り上げている。「街道をゆく」を読んでいると司馬は須田の発する哲学めいた言葉をよく書いている。その点も「街道をゆく」の良さかもしれない。

 今頃その良さに気づいても「時すでに遅し」かもしれないが今わかっただけでも良しとする!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年11月9日水曜日

宮島へGO~


3年余ぶりに姿を現した大鳥居

 前回宮島に出かけたのは2016年11月18日。ということは今から6年と10日前になる。その年によって紅葉は異なるが10日早いと紅葉も以前とは違っていた。紅葉のピークは人がごった返す、と思い急遽、宮島へ。JRの車内はそれほど混んでいなかったが、宮島のフェリー乗り場は外国人ツアーで込んでいた。6年ぶりの宮島はフェリー乗り場も様変わ。広電の宮島口駅は装いも新ただ。フェリー乗り場に3年前に完成した”etto”。”etto”とは広島弁の「えっと」で「ようけい」、「ぎょうさん」、「たくさん」の意がある。

 東京にある県のアンテナショップは”TAU"。こちらも同じく広島弁で「たう」から命名されている。「たう」とは「届く」の意。

 久しぶりに宮島行のフェリーに乗る。波静かでいつ船が出たのかわからないほど海は穏やかだ。宮島に近づくと3年の大改修を終えた朱の大鳥居が迫ってくる。今朝見たネットニュースによると鳥居の真下に立って鳥居を見上げることができるとか。出かける前にそれを知っていれば鳥居の真下から見上げたのに……。まだ工事が完全に終わっていないので近づけるようだ。

 行先は紅葉谷公園。と、その前に6年前と同じく牡蛎入りのカレーパンを買って食べる。前回は@400円が今回は100円アップしていた。牡蛎入りカレーパンのブームは去ったのかすぐに買えた。そこら辺に座って食べていると夫婦連れなどがまねしてビールを買って飲んだり何か買って食べたりする。そばには鹿が彷徨っている。獲物狙いの鹿だ。牡蛎入りカレーパンを買う際、お店の人は鹿に気をつけて、と注意を促した。
勇ましくなった宮島の鹿
 厳島神社へは参らずに通り過ぎて紅葉谷公園に向かう。紅葉橋辺り一帯が公園になっている。そこから上に行くとロープウエー乗り場がある。歩いていると小さい古びた神社がある。何度か宮島へ出かけたがいつも人について歩くので気づかずにいた。(階段を上がってちょっと見て行く!?)と思って石段を上がる。誰もこの神社に近づこうとはしない。神社の周りに石碑がある。見ると「大正14年……」とあるがほぼ寂れて何が書いてあるのかわからない。そのそばで道を掃除している女性に聞いた。神社は四宮神社(しのみやじんじゃ)というそうだ。宮島に到着後の案内所でもらったリーフを見ると「四宮神社」はあるがどういう神社かわからない。ネットで調べると「四之官神社 祭神不詳 大正四年南町秋葉神社合祀、仍て火神一座を加ふ。(「廣島縣史」より)」とある。どおりでわからないはずである。
紅葉谷公園
 四宮神社の名を教えてくれた人としばし話す。毎日、自分の意志で対岸からフェリーに乗って紅葉谷公園付近を掃除しているという。年齢を聞くとなんとその人の母親と1歳違いで、50代の人だった。すでにお孫さんもいるという。「宮島へ来られたら紅葉谷にいますから」と言っていた。「何で掃除を?」と聞くと「外国人と話がしたい」とか。1か月あまり前から一人でちょろちょろ出かけているがその先々で出会う人と話をすると本当に楽しい。(この世の中、いろんな人がいる!)と感心してしまう。

 そういえば京都で半日近く案内してくれた人は元は福岡の生まれで退職した20年前に沖縄に出かけた。気に入ってしまい10年間沖縄で生活したそうだ。その後、京都に観光できて高齢者のバス運賃が無料、と知り10年前から嵯峨野に家を買って住んでいるという。
紅葉谷公園内にある四宮神社 
石段下にあった石碑に大正14年……の文字が見えた

紅葉谷公園

紅葉谷公園
紅葉谷公園
 紅葉谷公園を散策していると小さな池(?)を鯉が泳いでいた。これまで池があるのに全く気付いていない。一人で歩くといろんな箇所に目が行くもの、と改めて知る。

紅葉谷公園
紅葉谷公園
 宮島の紅葉谷公園の紅葉は今一歩だった。が、それでも色とりどりの色は綺麗だ。時刻は2時過ぎ。牡蛎入りカレーパンしか食べていないのでお腹もすいてくる。フェリーで宮島口に着くとすぐに”etto”に入り、中を物色。1階に牡蛎のお店があった。そこで牡蛎フライの定食をいただく。お昼も牡蛎入りカレーパンで久しぶりに牡蛎をよく食べた。2時半にお昼を食べると夜は食べられない。

 全国旅行支援と国の旅行開放政策で外国人も多く、またこの日、何があったのか着物姿もたくさんみられた。今年の秋はまだまだ続く。せいぜい秋を楽しみたい!
新たになった広電宮島口駅(左)
お土産店や飲食店が入るetto(エット)(右)フェリー乗り場でもある
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!