2012年9月30日日曜日

気持を切り替えて

フルート発表会も無事終わった。無事といっても午後から始まったソロのリハーサルではさんざんのでき。途中投げ出してしまった。それでも皆、その様子を見ている。

演奏の前に控え室でチューニングメーターで音を合わせる。そのとき音がチューニングメータより高くなる。それはレッスンのときも同じ。先生から「高い」と言われるたび気持が焦る。それが舞台でのピアノとの音あわせでも出てくる。

それは演奏に入っても気持の上であらわれ、結果は散々な目に・・・。

そのため先生に本番では舞台に上がってピアノとのチューニングをしないと言ってしまった。

その様子を見ていた人が、舞台では上がるからピアノとチューニングする「ラ」の音をさっと吹いてすぐ演奏するようにと気遣ってくれる。そうはいっても先生は何とかいい音を出すようにと思ってしてくださっている。

ソロのリハーサルはなかったものと気分を変え、今度はアンサンブルのリハーサルに入る。これは大丈夫だった。全体合奏のリハーサルもOK。

リハーサル終了後、ゲストのリハーサル、休憩を挟んで本番となった。本番のソロは、リハーサルのようなひどさでなく少しホッとする。

その後は、落ち着きを取り戻して他の人の演奏を聞く。どの人も20年前後習っている人たち。皆上手になっている。演奏する曲目もどの人も素晴らしい。

次の発表会までの課題はチューニングメーターに音を合わせること。これを最低限の課題にしよう。

発表会が終わると打ち上げに行く。ゲストのソプラノ歌手の人とピアノ伴奏の先生夫妻。フルートの先生夫妻とその息子さん。そして私たち生徒。出演者全員の出席ではないけれでも、顔なじみの人たち。先ほどまでのフルートの良し悪しは忘れて楽しく飲んでしゃべって食べる。

発表会の司会は先生の旦那様。打ち上げでも会を仕切ってくださる。宴も佳境に入る頃には、先生の旦那様の司会で一人ずつ今日の感想を述べる。これもまたいろいろな話が出て楽しい。

発表会には昨年スペインで買ったワンピースとレギンスを着て出席。スペインから帰って早くも1年になる。1年の歳月はあっという間。1年後にはまた来年の発表会がくる。

この積み重ねでフルートも20年の歳月が流れた。リハーサルでの大きな失敗。すべてを忘れて来年に向けて頑張ろう。

〇〇先生、今日は気持が高ぶってリハーサルでは申し訳ないことを言ってしまいました。それもさっと流してくださって本番では何とか音が出せました。ありがとうございました。折角いい音を出すようにと思ってしてくださること。今日のことは反省して、来年を目指します。ありがとうございました!

明日から10月。気持をフルート・モードから大学・モードに切り替えて、さあ頑張ろう!元気を出して!

2012年9月29日土曜日

続「時代の移り変わり」

台風の影響かスッキリしないお天気。雨が降らないうちに今日も自転車に乗って外に繰り出す。小学校の前を通るとにぎやかな太鼓の音。幼稚園の運動会のようだ。

明日で9月も終わる。10月になれば、2ヶ月の夏休みも終わり、大学の後期の授業が始まる。この2ヶ月、暑さにも負けずよく動いた。ドッと疲れが出ないように気を引き締めよう。

大学と言えば先日からメールや書類で情報が入ってくる。修了した研究科からはメールで情報の受信設定をしている。なんと今年、その科だけで7人の教員が新旧交替している。そのうちの一人は主の指導教官の退職がある。

メール以外でも書類で情報が送られてくる。再来月初めに行われるホームカミングデーの案内や研究室の資料など。

昨日のブログではないがこういう資料を見ても時代の移り変わりを感じる。

特にこれまで活躍されていた先生の名前はどこを見ても見当たらず、初めて聞く名前がやたら目に付く。

新任教員の履歴を見ると70年代前後の生まれ。団塊の世代の新旧交代だろう。

送られて来た研究資料の「書評」の「おわりに」に学部時代の指導教官はそれに関わることを書いている。

70年代生まれは「ロスジェネ」。指導教官は「SS世代」。この「SS」は現天皇の「成婚」とオリンピックの「聖火」の間に生まれ高度経済成長期を見てきた世代。

「書評」は個々の研究者の研究成果について、世代のギャップを「おわりに」の一部で議題にしている。それは日本の今日の学問状況について「問題意識」の背景にある世相、時代相にまで思いをめぐらせて、さまざまな角度から検討する余地もあるとか。

急速な世の中の「時代の移り変わり」。全く関係ないことだが日中国交正常化40周年にしてここまで関係がこじれるとは・・・。夕方からNHK・BSで「周恩来・中国現代史の巨人知られざる素顔」が2時間にわたって放映される。周恩来は日本人にとって親しみを感じる人。再放送らしいが見ていないのでしっかり見よう!そして日中の「時代の移り変わり」を知ることにしよう!

2012年9月28日金曜日

時代の移り変わり

昨日は幼馴染と一緒に我が家で夕飯を食べる。わかちゃんは生野菜にちりめん雑魚を混ぜたものや市販のポテト、串焼き、缶ビールなどを持参。我が家はスーパーの魚屋で買った握りずし2パックと秋刀魚の握り6巻、それにトマトの輪切り、冷奴など簡単なもの。

先ずはビールで乾杯!夕方5時から女性2人の宴が始まる。話題は取り立てて何もない。ただひらめく言葉を口にし、他愛なく笑っては食べて飲む。何も遠慮するモノ・コトもない。

しばらくすると祭りの獅子の稽古が始まる。笛や太鼓でにぎやかなこと。窓を閉めても音は聞こえる。それもまたBGM?

当然話題は「浮浪者風」の人に及ぶ。この人についての昔を知らない。ところがわかちゃんは郵便配達をしていたころのその人を知っている。そのため「浮浪者風」という言葉の使用を嫌う。だが、その人が酒を飲んで道に寝ていることがあると話すと逆に驚く。

いずれにせよ、人に迷惑をかける人ではない。やはり「浮浪者風」はわかちゃんのいうとおり失礼かも。

今朝は髪をカットに行く。美容院に着くと『女性自身』が目の前にある。カットしてもらう先生に最新号を聞くと目の前においてくれる。

いつも何人かの人のブログを読んでいる。その中の一人は著者で弁護士の舛井一仁氏。その人の最近のブログを読むと『女性自身』にコメント掲載、とある。

早速目の前に置いてもらった女性週刊誌を手にするとその記事はあった。美容院の先生は何を読んでいるのかと思いコピーを助手の人にさせようとする。ここで読むから、と言ってしばしその記事を読む。

記事内容は経営危機にある東京の私学の女子大学の存続を弁護士の立場から応援する記事である。

今や全国的な問題となっている私学経営。広島も同じこと。社会人大学生だった3、4年前まで県内の私学で定員割れをしていないのは以前からある男女共学の1大学のみで後は全部定員割れと聞いている。

先ほどネットで調べると以下のように書いてある。

「加速する少子化と大学の増設という、需要と供給のミスマッチ現象。この源流となったのが、九八年十月の大学審議会の答申である。『二十一世紀の大学像と今後の改革方策について』と題する答申は、公私立大の設置認可の簡略化と併せ、大学の『自主・自律体制』の強化を打ち出した。答申の直後。当時の文部省が東京都内に全国の私立大関係者を集め、説明会を開いた。広島市内の私立大事務局長は、今も文部省の大学担当者の言葉が耳から離れない。

『自由の範囲が広がる半面、つぶれる危険性も出てくる』―。大学の設置・運営に目を光らせてきた『護送船団方式』から『自己責任』への大きな方針転換。事務局長は、国がそれを宣言したのだ、 と受け止めた。」(http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/josisyo/toku0907.htmlより)

今と違い、一番子どもの数が多い時代を生きてきた。高校に入学するのさえ「中学浪人」が出ると脅されて育った。一学年300人以上もいる生徒のうち、100名以上は私立中学に入学した。親たちが高校入学を心配してのことだった。私学全盛の時代である。

当然公立高校入学も学区制があり、地元の公立高校しか受験できなかった。公立高校入学志望者も滑り止めのため必ず私学を受けさせられた。

その私学さえ不合格の人も多くいた。どこへも行き場のない人のために、男子校の私学は急遽、女子を受け入れる学科を作った。それでどうにか高校に入ることができた人もいた。それほど幅を利かせていた私学がつぶれる・・・。なんとも皮肉な現象である。

時代の移り変わりを感じる日となった。

2012年9月27日木曜日

「浮浪者風」

昨日の内田氏のブログを見ると「中国離れについて」投稿している。それはトヨタが中国での操業を停止することにある。内田氏はそのことの問題のはけ口を「日中両国民を『外交能力の高い統治者を選出する』というソリューションへ導けばよいのだが、たぶんそうはならないだろう。暗い気持ちでいる人間が下す判断は必ず間違ったものになるからである。」という。

昨日は自民党の総裁選が行われた。そのことと昨日の内田氏のブログとは関係あると思うけどどうなんだろう。

ブログによると「生産拠点の『中国離れ』はこの後たぶん一気に進む。」としながらも、かつて日本で起きたパナソニックの工場を移転したことを例に挙げる。だがそのときは、工場のあった守口市は火が消えたようになる。しかし、市民はその「不運」に黙って耐えていたという。

ところが、中国ではそうはゆかないとして、「人々は自分たちを『裏切った』日本企業を恨み、その反感は中国全体に拡がり、罷業や不買運動や工場や店舗への攻撃が起こるだろう。そして、ますます日本企業の『中国離れ』は加速する。」という。

このように日本でも中国でも「尖閣をめぐるナショナリズムの角突き合いで得をする人間は誰もいない。損をする人間は数え切れないほどいる。でも、損をする人たちは『オレが損をするから、領土問題でもめるのはやめてくれ』という言葉を口に出すことが許されない。この抑圧された『怨み』はどこに噴出することになるのだろうか。」と気にしながら内田氏は「外交能力の高い統治者の選出」を期待する。

尖閣問題での「中国離れ」、個人的にもそうなりそう。

話はガラッと変わって今日のこと。昼前、自転車で買い物から帰るといつもの「浮浪者風」の人が缶ビールを持って立っている。先日の菊のお礼を言った後「何を飲んでるん?」と聞くと、先ほどまで一緒に食事をしていた人のビールの空き缶を持っているという

今日の身なりは普通の恰好。「家がきれいだから中もきれい?」と聞くと「きれいよ」と返事。そして「心もきれいになればええけどね」という。

その人は夜でも昼でもお酒を飲んでいる。それもわざわざ外の道に面したところで飲んでいる。別に外で飲んでも誰にも迷惑もかけないのでいいのだけれど・・・。それでも何故と思って更に聞くと「人が好きなんよ」という。家の中で飲むより、人と話しながら飲むのがいいらしい。

そのためかいつも集会所の空き地か階段に座って飲んでいる。今日は太陽の陰になる空き地だった。横には市販の弁当がある。「花見じゃね」と言うと「短歌か詩を考えてる」という。ちょっとだけしゃべった後、自転車を庭に置いて家に入る。

「浮浪者風」に見えるのは外で酒を飲んでいる姿を見るからかもしれない。そんな人だからきっと余り人から話しかけられることもないのだろう。その人の家を知るまでは何か変な浮浪者のように思っていた。

尖閣問題も大変だけどそれは専門家に任せ、先ずは毎日の生活を楽しもう!もう少しすると幼馴染がやってくる。今日も「浮浪者風」の話で盛り上がる?

とはいっても何も「浮浪者風」はその人だけでなく、日本全体が落ち着きなくさまよっている「浮浪者」かもしれない。

2012年9月26日水曜日

本を読んで

お昼過ぎの部屋の気温27度、湿度43%と電波時計は快適を示す。ところが買い物で外に出ると日差しは厳しく暑い。

ラオスから帰って本を読まなくなった。図書館で借りている『ラオスを知るための60章』(菊池陽子 鈴木玲子 阿部健一 明石書店、2010年)も今日で貸し出し期限が切れる。借りてくる本はいつもならすぐに読む。今回は気持が本に向かない。仕方なく、貸し出し延長を申請しに図書館へ行く。

図書館に行くと相変わらず中高年が多い。そこに混じって、中高年の月刊女性誌を見る。今月は黒柳徹子がメインで掲載されている。この人の考え方が好きなので、ザーッと目を通す。その中のインタヴュー部分の見出しを携帯で写す。写しながら書いてあることに納得する。

写した見出しを挙げると、4点ある。
「命の最後まで生き生きとしていたい。そのつどベストを尽くし好奇心を持ち続ける心をもって」
「飽きるということがないんです。リンゴの袋貼りだって、毎日毎日一日中やっても飽きない。そこに楽しみを何か見つけちゃうんです」
「つまらないことを言っても”ああ、面白いね”って喜び合える友達がいていいわよね」
「つきつめて考えないんです。ノンキなのかしら。でもたまに、エミリー・ディキンスンの詩を読んで人生を考えたりするの」

この最後のエミリー・ディキンスンは初めて知る。先ほど図書館にその人の本を予約する。蔵書は2冊あり、そのうちの1冊は『愛と孤独』。黒柳もこの本を読んだのだろうか。

さてラオス。貸し出し延長といってゆっくりしていてはいけない。こちらもザーッと目を通す。何と「第一次インドシナ戦争以降、ラオスが平和だったのはたかだかこの20年間に過ぎない」(124p)とか。

そのためか、やっと治安も落ち着き観光にも力を入れているのだろう。だが、落ち着きを保ちながらも中国からの影響が強まっている。

「ラオスにおける中国の影響は想像以上のスピードで強まったし、それは今でも続いている。中国の行商人が地方農村にもたらした安い衣類は伝統織物や民族衣装を晴れ着や高価な商品に変える一因となり、プラスチックは一部竹藤細工を駆逐した。安いバイクは農山村まで入り込んで、生活圏を一気に広げた。プランテーションや鉱物掘削はラオスの土地や自然自体を大きく改変するもので、それはそれまで自立・自衛・自給的だったラオス農村の人々の生活スタイルをも変えようとしている。一方では地味ではあるが着実な地べたからの民衆の底力で着実に南へ南へと広がっている。」(123p)

ラオスは国連の定義によると最貧国だという。2007、2008年度の一人当たり平均収入は835ドル。数字から言えば最貧国のラオス。だがラオスに行けばそのイメージはない。

それは本を読むと公務員の月収が5000円程度だが、外国人には到底理解できないところで彼らは統計に表れない収入を得、数字以上に余裕のある生活を送っているという。(179-180p)

それには外国からの援助もある。その底辺にラオスに豊富に存在する天然資源や農林産品が今後の日本にとっても価値があるとか。ところがその重要性に気づいているのは日本だけでなく中国・韓国も触手を伸ばしている。

とはいってもラオスは約600万人の人口の国。その小国ラオスは多額の資金と人材を外国から投入されると「来るものは拒まず」の方針で政府は援助を受ける。だが援助供与国間の競争や重複が生じる。それでもラオス政府はそれを制御する調整能力がない。(184p)

それは中国化となっていくのだろうか。

ラオスも中国も社会主義の国。社会主義は宗教を排除する。ところがラオスは早朝に見た僧侶の托鉢風景にもあるように目に見える形での宗教の抑圧はない。その辺りは中国と異なる。そこにはラオスの人民革命党が仏教を国家の文化的アイデンティティとして利用する方向で舵を取り始めていることにある。(222-223p)

こうした党の仏教政策は現在も続き、むしろそれは積極的に仏教を保護して利用している。(223p)

先日のブログで托鉢する僧侶への「布施」と書いたけど物品供与は「喜捨」が正しいらしい。先ほどその箇所を訂正する。

お土産に買って帰ったコーヒー。先ほどスーパーへ行ってコーヒー売り場を見ても日本のコーヒーが安い。月給5000円の国でビールやコーヒーは日本の価格と遜色がない。

本を読むと「1990年代半ばにラオス政府はカティモールの普及とともに民間企業のコーヒー事業参入を奨励し、これをきっかけにティピカとカティモールを中心に品質向上の取り組みと、品質に見合う価格での取引が始まった。現在ではラオスのコーヒー豆の買い付けをリードする大企業が自社農園を経営するほか、NGOやフェアトレードが生産者組合を設立して、『カフェ・クンナパープ(良質なコーヒー)』も生産されている。・・・」(99-100p)とある。

この中の「フェアトレード」、以前アジアを学ぶ勉強会で議題となり、初めてそのキーワードを知る。そのとき日本で何でも安く手にする製品は後進国の恵まれない人たちの犠牲の上に成り立っていると知り驚いた。

他にもたくさんラオスについて知らないことがある。今朝の地元紙を読むと地元の車メーカーが「マツダ、ラオスで販売」と見出しがあり、タイで生産した車をヴィエンチャンで販売することに力を入れるとある。車の販売店はヴィエンチャンで多く見かけた。まだまだ車の数は少ない。

ヴィエンチャンといえば滞在中、九州の「お母さん」にだけ絵葉書を書いた。一昨日電話をすると絵葉書は届いている。話をしていると中国へ行かないようにと忠告される。次回の海外はモロッコ、スリランカを考慮中で中国へは当分行かないつもり。

昨日のフルートのことを忘れている。昨日は前にレッスンする人とアンサンブルをさらう。個人レッスンでは全体合奏を、先生の吹かれるメロディにあわせて自分のパートを吹く。先日のピアノ合わせの日には全体合奏はあまり合っていなかった。折角作ってもらったCD。ここ何日かBGM代わりに流して聞いている。やっと昨日のレッスンでは一回で合った。よかった。ソロの曲もピアノとズレが出るところもあったけど、メトロノームと自分の足でリズムを取って家で練習すると合ってくる。

昨日のレッスンも大丈夫だった。発表会、頑張ろう!

2012年9月25日火曜日

一昨日から今日にかけて

一昨日から昨日にかけて書き残したことがある。一昨日朝刊を取ろうとして玄関を開けるといつもの「浮浪者風」の人が前を歩いている。挨拶をすると手にする菊を見せる。そして持っているものは人にあげるのでまた持ってくるという。

昨日朝食を食べているとドアホンがなる。すぐに出ると「道を掃除している〇〇です」という。外に出るとその人は菊の花をもっている。花といってもつぼみもついておらず、葉っぱだけの菊がコーヒー缶に挿してある。それを受取る。

先日幼馴染と話すとブログに「浮浪者風」と書くのはやめて「紳士風」にするようにと注意される。いつもの身なりは掃除をする恰好だと幼馴染。本人もドアホンで「道を掃除している〇〇」と名乗っている。

菊はその人が畑の手入れをしているところのものらしい。

だがいくらもらっても花の咲いていない菊を家で活ける気にならない。申し訳ないけど昨日の燃えるゴミの日にもらったものを出した。それを幼馴染に話すとまた注意されるかもしれない。

注意といえばもう一件ある。

ブログに投稿したある箇所がブログに相応しくないとのご指摘である。すぐにその箇所を削除する。指摘してくださった人は信奉している著者で弁護士さん。何気なく投稿しているブログ。読む人が読めば社会的にいけないところもあるらしい。

言われてみて初めてその問題に気づく。

その節はありがとうございました。また、日本語として気にかかる部分のご指摘もありがとうございました!

今日は、しばらくするとフルートのレッスンに出かける。その前に午前中、近くの大型電器店に自転車で出かけ、ボイスレコーダーを購入。係りの人に売り場を聞き、機種を比べても何がよいのかわからない。

そんなときは姪が言っていた言葉を思い出す。買うのは売る人との相性だと。迷っていると他の係りがやってきた。どれが良いかと聞くとソニーの製品を教えてくれる。店頭表示よりもレジでは@¥3000安くなるという。感じがいい人だったのですぐにそれを購入。

先ほどからいろいろ試しているけどすぐに時間が経つ。今回のフルート発表会には間に合いそうにない。だが、そのうち慣れるだろう。それまではゆっくり説明書でも見ることにして・・・。

2012年9月24日月曜日

「人生、これからよ!」

今朝は先日の水道工事をしてもらった業者に電話して集金に来てもらう。2時間くらい後にその支払いを済ませると、早いお昼を食べ正午過ぎプールに出かける。

母がいた頃は、工事をしても何の心配も要らなかった。すべて生活面は母に依存していた。それは、先日姪と食事をした際、姪が話したことばにもあらわれている。「バアの長生きは〇〇姉(ねえ)のために子孝行をしたんよ」。

この「子孝行」、週に一度母を訪問看護していた看護師からも言われたことがある。母の長生きは「親孝行」にあると思うけど、どうなんだろう?

親が生きているだけで何の生活不安も感じなかった。それはやっぱり「子孝行」?

今日は約一ヶ月ぶりのプール。その間に季節はすっかり秋になり、プールの行き帰りも楽になる。

屋内に入るといつもの大人だけのプール。人は少ない。最初にビート板を持って泳ごうとするが、なかなか前に進まない。それを手放してクロールで泳ぐ。今日はクロールと背泳ぎを交互にして900メートル泳ぎ、100メートル水中歩行する。

顔なじみは一人だけいたが、ただ黙々と泳ぐ。泳いだ後、更衣室に行くと、なにやら職員に文句を言っている人がいる。狭い更衣室。聞かなくても耳に入る。プール利用者のマナーの悪さを注意するように職員に言っているようだった。

グチは聞きたくない。折角気分よく泳いだのに、この人は「何を言っている?」と思ってしまう。究極は中国人の利用者の話にまで及ぶ。「それはないでしょ?」と思うけど・・・。

こういう人は近所でもどこでも毎日グチを言って過ごすのだろうか。決して体に良いことはない!?

ブログ投稿後「さっちゃん」のブログをみると「人生最高の日」とあり、本が出版されるという。90歳でそう思えることは素晴らしい!その年齢まではだいぶ時間がある。そう思えば「私の人生、これからよ!」。頑張ろう!「人生最高の日」を目指して・・・。

2012年9月23日日曜日

秋彼岸に想う

やっと気持いい季節になってきた。今朝は姉夫婦と一緒に墓参りをする。その前にいつものようにお寺によって塔婆2本を受取る。

墓に着いても先日までの照りつける暑さはない。ふと隣の墓を見るといつも活けてある花がない。夏の暑さで元気をなくされたのだろうか、少しだけ気になる。

墓参りを済ませるとまだお昼まで時間がある。スーパーで食料を調達し、我が家に帰って3人で食事。食べながら話をしていると姪の家族が東京ディズニーリゾートへ行く話になる。そのとき、誰か欠員が出ると一緒に行くのかと聞かれる。

欠員が出れば親であるモノが行けばいい。それなのに、その矛先がこちらに向く。それも聴いていて可笑しい。

姉は我が家に来る度、まるで農家のように野菜などたくさん持ってきてくれる。今日はかぼちゃ、ジャガイモ、玉ねぎ、ゴーヤ、長なすびなど。ジャガイモはすぐに芽が出るから冷蔵庫へ入れるようにと姉。そのとき初めてジャガイモの保存方法を知る。

姉夫妻と話していて、お遍路の話が出る。その話をする度、服の話になる。遍路旅が目的か服を買うのが目的かわからなくなりそうだけど、着ていく服を考えるのも旅の楽しみかも知れない。

旅といえば今朝の地元紙を読むと「進む若者の旅行離れ」と見出しがある。どうも若者の旅行離れに歯止めがかからないらしい。その理由として「同伴者がいない」「旅行に関心がない」がそれぞれ23.7%、20.7%を占める。それを合わせると半数近くになる。

これは現代の若者気質を浮き彫りにしているとか。

先日東京にいる姪と話した時「今の若者はバーチャルな世界に浸るから旅に出なくてもいいと思っている」と聴いたことがある。それはどうも本当みたい。

新聞の最後に「ネットに浸る現代の若者は旅先での人物との出会いなどリアル(現実)から逃げている」と指摘する。

これを読んで世代間のズレを感じる。これとは逆に中高年の旅は増えている。

旅といえば、大学受験まで乗り物酔いがひどかった。大学受験での苦い経験を思い出す。それも働き始めるようになって次第にどんな乗り物にも酔わなくなった。それ以降、どこへでも行きたくなる。

また旅といって思い出す。短大卒業後同級生と2人で鳥取県三徳山三仏寺投入堂へ行ったことがある。まだ余り旅なれておらず、ユースホステルを利用。急遽翌日の予定を変更して、そこで知りあった一人旅の男子大学生と3人で投入堂に行く。

そこがどんな山かも知らずに若者に着いて行く。ところがその山は登り始めから難所だった。麓の境内入り口でいきなり履物を脱がされ、草鞋に履き替える。そして白装束をあらわすためか肩に白いたすきをかける。はだしで草鞋(わらじ)を履いて、途中、鎖につながれた道をつたいながら山を登る。

一歩間違えば山から転落する険しい道。それでも「若さに任せ」、全く山歩きをしたこともないモノがその山を登りきった。

今でもなかなか簡単に行かれる山でない。それなのに何の準備もせずいきなり人について登った。

これはかなり歩くことへの自信となった。そして旅をすることへの楽しさとなった。

それ以降、日本海に浮かぶ隠岐島へも行く。そのときはかなりひどい船酔いもあった。その船酔いもいつしかなくなる。今はかなり乗り物に強くなっている。

考えてみればその頃から辺境趣味がある。今でも山は好き!

どんなことでもやり始めれば楽しさを知る。若者もバーチャルに浸らず、現実を直視して前に進めば生きる張り合いも生まれるのに・・・。

会社つとめのころは全くそうだった。今の若者が問題としているような、たとえ同伴者がいなくても2回目の海外旅行から一人で参加した。一人参加はこれまでの旅の半分近くを占める。

長い休みがあれば海外を目指した。一歩新幹線に乗れば誰がどう言おうとこちらのもの。そういう意気込みで外に飛び出した。それも仕事の憂さ晴らしだったかもしれない。いい言葉でいえば元気の源!?

今はそういう憂さ晴らしは何もない。じゃなぜ海外へ行くのだろう・・・。現実逃避?

そうはいっても中高年のそれは若者とはかなり違うはず・・・。

2012年9月22日土曜日

ピアノあわせに行く

先日NHKのテレビで高倉健の放映があった影響かどうか、図書館で予約待ちをして本を借りる。借りた本は『想』(高倉健 集英社、2006年)。

この中で、いい言葉が書いてある。それは本の一頁を割いて大きな文字で書いてある。

「何が美しいかということ、お金ではない、力でもない、まして物でもない。人を想うことがいかに美しいか。生きるために人生の大事な持ち時間を提供する、そういうものを遥かに超えた人間関係だった」(111p)。

「あるテレビ番組を見ていたら、作家のテネシー・ウイリアムズが『幸せとは?』とインタビュアーに質問されていた。予期せぬ質問に答えに詰まったこの作家は、しばらく考えた後『あるとき感じる人と人との優しさ』と答えていた。裏を返せば、人の優しさに触れることは滅多にないことだと想う。幸せと言うのはそれほど儚く、精神的なものだと考えさせられた。・・・撮影中の小さな証として、この日記を僕の誕生日にプレゼントしたいという想いからだと、撮影の最後の日には、スタッフ全員からの寄せ書きも頂いた。監督の指示でクランクアップを控えた忙しい最中に、僕への記念にと皆が書いてくれた。想いを届けるこころがどういうものか、このロケで教えられた。僕なんかすぐ物を買って送って、それで終わりにしてしまいがちだ。何が楽しいかということ、お金ではない、力でもない、まして物でもない。人を想うことがいかに美しいか。改めて教えてくれた監督やスタッフと出会えて、ロケの間、僕は幸せだった。」(138p)

これは張芸謀監督と撮った『単騎、千里を走る。』に出演した際、助監督から”健さんのために書いた日記です”といって渡されたときの話。その中国ロケで毎日、幸せを感じることができたという。(134p)

昨年10月高倉健の本の『旅の途中で』をブログに投稿した。いつもなら古いブログを見る人はそれほどいない。それなのに最近26人も見ている。これには驚く。何かを検索して引っかかったのだろうか。

今日はお昼を食べた後、フルートの先生宅へ伺う。目的はまじかに迫ってきたフルート発表会のためのピアノ合わせである。

発表会は全体合奏、アンサンブル、ソロの3曲を吹く。アンサンブルの4人が午後2時に先生宅に集合。1年ぶりに会う人もいる。積もる話はいろいろあっても話す暇はない。先ずは先生を交えてアンサンブルの音あわせ。

他のパートの音も聞きながら吹けばいいけど、なかなか自分のことで精一杯。それでも吹くにつれ、少しは余裕も出てくる。

アンサンブルの練習が終わると同じメンバーで全体合奏をする。全体合奏はアンサンブルより更に人の吹く音に注意が必要。それもなかなかできない。

全体合奏の音合わせが終わるとソロのピアノあわせが始まる。

先にする人の手元を見るとボイスレコーダがある。昨日、大型電器店に行ったばかり。買って今日持参すればよかったと後悔する。火曜日のレッスンには隣の電器店に寄って買って行こう。

ソロのピアノ合わせで先ずはチューニングメータでフルートの音を出す。高い音を出すと余計高くなる。手にするフルートを先生が少し触られ、頤を引いて目線を下にして吹くようにとアドバイスされる。その通りするとチューニングと合ってくる。もう魔法にかかったよう。2度目もそう。「目線を下に」と楽譜に記入してもらう。

今日の録音はCDでしてもらった。また自宅に伺ったのに梨までいただく。ありがとうございました。

終わってビルの下を歩いていると交差点付近で車が止まる。少し遅れてピアノ合わせをする知人だった。体調が戻ったといってもう車の運転をしている。大丈夫!?

何はともあれ、フルートの発表会、頑張ろう!

2012年9月21日金曜日

若者言葉

毎日動き回っている。昨夜は休息もかねて早く寝る。今朝起きると8時前。これから涼しくなっていく。今から起床時間が遅くなると寒くなる頃にはどうなることやら・・・。

遅く目が覚めると夢を見ていた。両親の夢である。いつもあるはずのベッドがない。どこにベッドは・・・と探していると、いつもは利用しない部屋に両親がいる。そこで母は座布団を敷布団代わりにして寝ている。敷布団を敷いてあげようとするとどんどん上に行く。尿パッドを替えてあげようとするが、やり方がわからない。掛け布団をかけても上に行く。どうすることも出来なくて困っていると目が覚めた。変な夢だった。

お彼岸の中日を前にして何か思うことがあったのだろうか。

気を取り直して、今日は先ほどまで幼馴染のわかちゃんとお昼を食べ、我が家で談笑する。しょっちゅう会っているのになぜか話は尽きない。今日も遊びに行く話をする。

わかちゃんは芸備線沿いにある湧永満之記念庭園へ薔薇を見に行こうという。手には今朝新聞折り込みに入っていたフリーペーパーを持って・・・。

ここへは母を連れて行こうと思ったこともあった。しかし母が怪我をし、結局行かずじまい。11月中旬くらいまで一般公開されている。折を見てJRに乗って見に行こう!

新聞折込でなく今朝の新聞を見ると、文化庁の2011年度の国語に関する世論調査が載っている。この中で最近の「まったりする」「がっつり食べる」を使う人は60歳以上で6%と3%となっている。ほとんどこの2つの言葉を使用する人は身の回りにいない。また「ハンパない」も「ハンパでない」と「で」を入れて使用する。これも年を重ねるほど使用頻度は低い。

ほかに載っている言葉は平常使っている言葉で違和感はない。言葉は年代や地域で変化する。親の時代の言葉もいつしか自然淘汰され、新たな言葉も生まれて当然。若者が生み出す新たな言葉。その言葉も最低限、意思疎通ができなくてはいけない。異文化交流とならない程度に。

2012年9月20日木曜日

フルート定例会&「鳩の詩」

今日も涼しい朝だった。あまりにも季節の変わり目が極端すぎる。風邪を引かないように気をつけよう。

今朝、FMを流しているとダ・カーポの音楽が聞こえてくる。いい曲なのでしばし聞き入る。「翔べ 翔べ 鳩よ 高く 高く 空へ」のリフレインが何度かある。このフレーズが印象的。

曲名がわからず、ネットで検索すると「鳩の詩」という曲名でYOU TUBEにも投稿がある。なんとなく淋しげな曲だけど、元気が出てくる曲だ。

「鳩の詩」
街のどこかの 片隅に 愛にはぐれた 鳩がいる 
夢を探して 追いかけて 折れた翼で 翔ぼうとしてる
翔べ 翔べ 鳩よ 高く 高く空へ
翔べ 翔べ 白い鳩よ わたしのこの胸の空を

ここにおいでよ 淋しいなら わたしも同じ ひとりぼっち 
冷たい夜が 明けるまで 濡れた翼を 休めておゆき 
翔べ 翔べ 鳩よ 高く 憧れながら 
翔べ 翔べ 白い鳩よ 明日は虹色の空へ

翔べ 翔べ 鳩よ 高く 高く空へ 
翔べ 翔べ 白い鳩よ わたしのこの胸の空を

翔べ 翔べ 鳩よ 
翔べ 翔べ 白い鳩よ 明日は虹色の空へ

今日はフルート定例会。体調を崩していた知人も元気になり、3人で先ずはビールで祝杯をあげる。飲みながら食べながら最近のいろんな状況を語り合う。こうして楽しい時を過ごせるのも皆が元気であればこそ。

2人はすぐにビールに酔ったのか真っ赤な顔に・・・。人のことばかり「顔が赤い」と言ったけど、皆と分かれた後、酔っている自分に気づく。

そして酔いに任せて口がすべり、言わなくてもいいことまで話してしまった。短大卒業後からこれまでのひょんな人とのきっかけで関わった仕事の話である。別に犯罪行為(笑)でないので話してもいいけれど・・・。それにしても、いつも人の話に乗って主体性なく生きている。

広島駅に着き、JRのホームで列車を待っていると、一緒にラオスに行った人を見つける。すぐに近づくと、実家に行って列車を乗り換えて自宅に帰る途中だった。ホームでしばし立ち話をする。

ラオスから帰国後、体調を崩しているとか。変な気候が続いている。体調がおかしくなるのかもしれない。

体調といえば水泳が欠かせない。1ヶ月近く泳ぎに行っていない。近いうち泳ぎに行こう。元気で冬を迎えるために・・・。

2012年9月19日水曜日

一気に秋が・・・

朝晩は急に涼しくなった。急激な気温の変化は体調管理が大事。先日来から体調を崩していた知り合いも今朝のメールで元気になったとの知らせあり。本当によかった!

今日は昨年スペインへ同行し、相部屋になった人と新幹線口のホテルで再会。ランチを食べる。この人とは旅行で初めて会った人。そのため、旅行以外で一緒に食事をしたことももちろんない。

ところが、年齢、性別、血液型も同じで、共に独身。さらに一人暮らしとあって生活環境がよく似ている。

先日知り合いの合唱団の定演の日、1年ぶりで再会する。その日に電話番号を聞かれたことがきっかけで今日会うことになった。

ホテル最上階で食事をする。食事を終えると、ドライブに繰り出すという。いろいろ考えた末、広島市郊外の美術館へ行く。

近いと思って行ったけど結構時間がかかる。1時間半を過ぎる頃には、車道の傍の田んぼに稲穂が黄色く実っている。なかなか見事な景観。市内にいては稲穂を見ることもない。

郊外の美術館に着く頃には午後3時半を回っている。喉も渇いたので美術館へ入らず、画廊喫茶に入ってティータイム。この美術館はなんといっても材木メーカーがーオーナー。さすがに喫茶内の調度品も木材をふんだんに使用し、そのロケーションも最高。

窓越しに見える山々は緑一色。秋を満喫とまではいかないがすがすがしい光景だ。

今日は他にも彼女と先日、広響の定演でもらったチラシのピアソラのタンゴの演奏会の話をする。聞きに行こうと誘うとOKだった。

このモダンタンゴ五重奏団の演奏は区民文化センターの演奏会でよく聴いていた。ところが10年間どこへも行かずにいる間に、演奏会場所は変更になる。

来月、久しぶりに聴きに行かれそう。

今日も家に着くころは涼しい。一気に秋がやって来た。秋といえばコスモス。コスモスも見に連れて行ってくれると彼女。ありがたい。これからいい季節になる。せいぜい秋を満喫しよう!

2012年9月18日火曜日

「爺殺し」

今朝はやっと秋を感じる。涼しい!

今日は母の月命日。母がいなくなって早くも1年7ヶ月になる。姉夫婦は用があり、23日に墓参りするとの連絡が入る。

墓参りに行くのに、お参りする花がない。スーパーが開店する時間を確認せず9時過ぎスーパへ行く。するとまだ開店準備中。仕方なく別のスーパーへ行って花を買う。

線香も持たず、花だけ持って墓参り。山道を上がる途中、他所の家をキョロキョロしながら歩く。市は山を抜ける大きい道を作ろうとしている。だが、地権者との問題で広い道は途中まで。昔からの家が多いのでなかなか拡張工事になりそうにない。また市も予算不足とかで工事はいつになるのやら・・・。

墓に着くと、何人かがお参りしている。年中、墓地は誰彼となくお参りするのだろう。

一人で参るときはさすがにいろんなことが頭を過る。「また来るね!」と言おうとして墓を去るとき自然と涙が・・・・。

いつまでもメソメソしていては母に申し訳ない。でも大丈夫!元気で頑張っている!

今日は午後からフルートのレッスンに出かける。発表会まではフルートに集中!?

話は変わって先日のラオスでのこと。面白い話を聞いた。「爺殺し」である。

このキーワード、ラオスで初めて知る。食事でこの話になると盛り上がる。

一人暮らしの78,9歳の男性は1年の大半を旅で過ごす。自身の人生の残り時間を考え、旅に財産を費やしている。その費用はクルーズ船に乗ればすぐに500万くらいかかるとか。

「爺殺し」はこのクルーズ船での話である。船に乗ると「爺殺し」の30代の女性が何人かいるという。彼女らは物品を提供してくれる「爺」を見つけ旅をする。だが「爺」たちは彼女たちを取り合うとか。そこで爺たちのけんかが始まる。

聞いていて今時の世相を見る。何歳になっても「爺」たちは女性を巡って奪い合う。面白いというより爺たちのはかなさが漂う。

「爺」たちも「爺殺し」たちも「お金で幸せを買おう」とする。しかし、お金で買えないものもある。それはどうするんだろう?

2012年9月17日月曜日

あわてんぼう

台風が近づいている影響なのか蒸し暑い。そろそろエアコンがなくてもいい頃なのに相変わらずお世話になる。

先日音楽を聞いた際、プログラムに立花隆の講演会のチラシが入っていた。立花の講演会がきっかけで知りあった陶芸家に早速電話で知らせる。その人から昨年スペインへ行った際、絵葉書を出すように言われていた。しかし、忙しくしていて誰にも絵葉書を出していない。先ずはそのお詫びをする。

電話をかけた日は福山のデパートで個展開催中とか。相変わらず活躍振りが伺えた。

講演会へ一緒に行こうと思った。だが、その日は,来月から始まる大学の講義と重なる。その人にチラシをFAXで送信して知らせる。

昨日は姉の長女が一人で我が家にやって来た。子どもたちは父親と遊んでいるという。姉は知り合いから「三次ピオーネ」を一箱買った。その中の4房のうち2房を姪は持ってきてくれた。大きな房のピオーネ。母に供えるようにと姉は言う。

姪一人で来たのでお昼を食べようと話は決まる。姪の車で市内に繰り出す。だが新幹線口まで行くのに1時間半経っても着かない。JRで行けば8分で到着なのに・・・と言って姪と大笑い。

笑いといえばもっとおかしいことがあった。信号待ちで、ふと自分の履物を見る。するとなんと左右の靴が違う。これには参った。

食事場所は新幹線口のホテルを予定。途中車のガソリンがなくなりそうと姪。急遽食べる場所をプリンスホテルに変更する。だが、どちらに行っても靴が変。

家を出るとき玄関を開けると姪が車を動かしている。それを見てあわてたのだろう。それにしてもかなりの慌て者である。

幸い姪は運転用の靴と外出用の靴を持っていた。その一足を借りる。

ホテル近くでやっとガソリンスタンドを見つける。燃料を入れた後、ホテルに入ると家を出て2時間経過している。

このホテル。余りいい思い出がない。母と姪と3人で以前来たとき、母が粗相をしたことがある。気を取り直して最上階に行く。ところが上の階の和、洋、中華は生憎貸切。仕方なく最上階のラウンジに行くとOKだった。そこに座って海を見ながら姪と食事。

この姪と2人になって食べることも遊ぶこともなかった。

姪は育ち盛りの3人の子どもたちを育てている。その意味もあってリッチにしようと思ったが、結婚式と連休で人出が多い。

話の中で東京ディズニーリゾートへ家族で行くという。姪は東京にいる自分の妹に旅の手配をお願いする。ところがお願いされた下の姪から昨夜電話が入り矛先はこちらに向いてきた。

11月の連休を利用するとか。今朝、その辺りのチラシが新聞に入っている。東京までの旅費は安い。ところが、連休中の追加一泊料金は子どもも大人も同一料金で@¥24000(朝食付き)する。一人8万円を予定とか。

市内に出たとき旅行社に寄ってパンフを探すことが仕事になった。

これだけあれば海外に行ける。そう思ってしまう。だが、そうはいっても姪たち家族にとっては東京ディズニーリゾートはやっぱり楽しいところ!?

東京ディズニーリゾートへは行ったことがない!

2012年9月16日日曜日

ラオス周遊とタイ東北部イサーンの世界遺産の旅

 福岡空港からラオス直行チャーター便でラオス人民民主共和国(以下ラオス)に行ってきた。ラオス滞在は2012年9月1日(土)から2012年9月6日(木)までの6日と短期間ながら楽しい有意義な時間を過ごした。

 今回の旅は福岡⇔ラオスの直行チャーター便を利用。そのため、行き先は全員同じ。だが、旅行商品に通販と窓口販売の区分けがあり、その中でもさらにアンコールワットを含むコースとラオス周遊のコースの区分け、またさらにホテルの基本コースとグレードアップコースの区分けがあった。

 これらの区分けで何コースかに分かれての旅となる。私たちは窓口販売の商品でラオス周遊。ホテルはグレードアップとした。このホテルのグレードアップは大成功。価格は大幅に変わらないのに、ホテルや食事が最高によかった。料金体系の差があるときは高い方に設定する方がベターと実感。

 最後まで旅を共にした人たちは窓口販売の商品の人たち。基本コース7名とグレードアップコース10名の計17名。この17名の内訳は私の知る限り、広島から6名、山口1名、九州10名。その大半は高齢男性の一人参加者。夫婦連れは2組。女性の一人参加者も2名いた。

 機内持ち込みには塩・コショウ・コーヒーもスーツケースに入れる。危険物と見なされるらしい。

 今回の旅では何といってもコーヒーがラオスの特産と知ったこと。日本で飲むコーヒーよりも美味。機内食で飲んだはじめてのラオスのコーヒー。その美味しかったこと。お土産はコーヒーと決める。

 今年、ラオスは観光年。そのため1年前に新たな航空機を購入している。機内は新型機で快適な旅。乗り込んで一番に気づいたことは客室乗務員の女性の頭につけられた白い花の髪飾り。それはラオスの国内に入ると乗り物、飛行機、パンフなどありとあらゆるものについている。ラオス名チャンパー(プルメリア)という花で国花。

 白い可憐なこの花は、ラオスを象徴している。それは「素朴」にある。

 私の思うところではラオスは「素朴」という言葉に尽きる。それは機内に乗り込む際の客室乗務員の「合掌」にもある。人々の顔の表情もおだやか。東南アジアのあの険しい表情はない。「合掌」と言う行為が「素朴」な人々の表情となるのだろうか。

 花以外では「LAO BEER」。昼食、夕食は必ずビールを飲む。ビールのよしあしはよくわからない。しかし、なんといっても美味!

 そして、食事は最高に美味。フランスに統治されていたからだろうか。特に、ヴィエンチャンの「ラオプラザ ホテル」の夕食は最高。これまで各国に出かけているが一番といっていい。一人そう思うのかと思ったら、小倉から来ていた奥さんも「最高ね!」といっていた。

 またいつものように思いつくままブログに投稿しよう。

 ラオスは日本の本州ほどの広さを持つ。熱帯モンスーン気候に属し、暑季(3月~5月)、雨季(6月~10月)、乾季(11月~2月)の3シーズンに分かれる。ラオスの民族は、メコン河流域に住む「低地ラオ族(ラオルーム)」、標高1000メートル以上の高原に住む「丘陵地ラオ族(ラオトウン)」、「山岳地帯に住む「高地ラオ族(ラオスーン)」と大きく3つに分類される。

飛行機にも国花のマークがある。ルアンプラバン空港周辺は山、山、山。

一日目 9月1日(土曜日)

 5:00 3ヶのアラームで目を覚ます。素早く身支度を整え、JR最寄駅へ。
 7:00 JR広島駅到着。同行者と合流。
 7:32 「こだま」に乗り博多駅へ。
 10:20 福岡空港集合。手荷物検査後、301号室でラオス出入国カード記入。集合後、別室に集まることは何年ぶりのことだろう。中国へ行き始めた25年前はこのように別室でその国の諸事情の説明会が行われた。今回「別室」は久しぶりの体験。
 12:10 福岡空港発→14:20 ルアラプラバン空港着(日本との時差は2時間遅れ)
          (機内食)
 15:15 空港で入国検査が終わる。入国検査は2ヶ所のみ。日本のサービスエリアのような小さな空港。暑い。風は強く吹いている。
     
 現地ガイドはスーリアさん。若い男性。お父さんは日本の阪大で学ぶ。自身はヴィエンチャンの考古学大学で学んだ秀才。日本への留学経験あり。兄も九州に留学していたとか。
     
 ルアンプラバンではホテルグレードアップコース10名が1台のマイクロバスでスーリアさんと共に行動。
   
 15:25 「ル パレス ジュリアナ」 ホテル到着。ルアンプラバンは街全体が1995年に世界遺産に 登録される。街に信号は無い。
 18:50 夕食はルアンプラバン郷土料理。このとき広島から一人参加の高齢男性からいろいろ聞かれる。話しているとアジアを学ぶ塾、フルートを習っている、広響を聞いているの3点から「以前からよく知っているよ。広響で隣になったよ。」と言われびっくりする。知らないところで知っている人に出会うとは・・・。

ラオス滞在中いつも食べたカオ・ニャオ。日本のおこわ風でとても美味。
説明会で聞いていたゴマ塩を持参せずに残念!
20:35 夜はナイトバザール見学。旅の初日で何も買わず。ガイドから日本円をラオスの通貨に替えてもらう。全員5千円→500,000キープ両替で大金持ちになったよう。1円=100キープの換算。


0:15 寝ているとドアをガチャガチャさせる音で目を覚ます。かなりの時間ドアを触っている。「誰ですか」と問いかけると小さな声を出す。何度言ってもガチャガチャさせる。怖くなってきてもっと大きな声を出すと同行者が目を覚ます。同行者に事情を話すとさらに大きな声で聞く。すると小さい声で何か言う。同行者は「ドアを開けてはいけんょ」としきりに言う。それでもドアをガチャガチャさせる。2人で大声を出すと小さい声で「すみません」と日本語で男性の声。その間10分。怖かった!その後もガチャガチャ音がする。もう完全に目が覚めて旅の初日はほとんど眠られず。

 この間フロントに電話をかけようとするが添乗員はこのホテルに滞在せず基本コースに滞在。何度も海外に出てこういう怖い経験は初めて。
    
 ホテルは日本のホテルと違い広い庭園に建つ2階建ての立派な建物。部屋が単独でないくっついたコテージのよう。

 翌日ガイドと添乗員に事情を話す。他のコースの日本人で酔っ払った人がいたとか。しかし現場を見ていないのでそれ以上いえないという。

 事情を知るまではラオスの人だとばかり思っていた。それがマナーの悪い日本人だったとは。

二日目 9月2日(日曜日)

 5:35 前夜は事件(?)と室内のエアコンの音でほとんど眠られず。途中エアコンは切って寝る。それにもかかわらず、早朝のラオス風物詩の托鉢と朝市を見学。托鉢では道に売りに立つ人から粽5ヶ入りを10000キープ(@¥100)で買って托鉢に参加。キープの単位は1円=100キープ。ゼロを2つカットして日本円に換算。

同行の人の托鉢僧への喜捨風景
早朝の托鉢風景。粽を一籠買って托鉢僧に献上
座っている敷物は売り子の人が敷く
それに座って托鉢僧を待つ
托鉢見学後、朝市へ



7:00 ホテルに戻り朝食。

 8:35 ホテルをバスで出発。バスの中に国花のチャンパーが置いてあり、一輪もらう。バスで出発する際、ラオスが日本より涼しく感じる。ルアンプラバン市内世界遺産観光。ルアンプラバンは街全体が1995年に世界遺産に登録されている。なおルアンパバンの「パバン」とはすべての悪いことを「止める」の意とか。

8:45 王宮博物館到着

ラオス国立ルアンパバーン王宮博物館



ラオス国立ルアンパバーン王宮博物館

 1975年の革命まで続いた王政時代、ルアンパバン王家の宮殿。現在は博物館になっている。1975年から1985年までの内戦を経て、ラオスは現在、LPRPを母体とする社会主義国家。今年日本から皇太子がタイ・ラオス・カンボジアを訪問。その際、皇太子はラオスに6月29日から7月1日まで滞在。そのため、ラオスでは博物館内の展示を一部新たなものと交換している。恥ずかしながら、皇太子訪問をラオスに来て博物館でガイドの説明によって知る。

 ワットマイ


 「ワット」とはアンコールワットとなどといわれるように「寺」の意。「マイ」は「新しい」の意。5層の屋根と黄金のレリーフが特徴的とか。

 ワット・セン
 
 センは仏像の重さを表し、10万センは12㎏のこと。100万仏像の国ラオス。仏像が多い。見学していると太鼓が鳴り響く。これからお坊さんの食事が始まるという合図らしい。

たくさんの仏像



 ワット・シェーントーン

 ルアンパバンの寺院の中で最高の美しさを誇るといわれる寺院。1560年建立。

ワット・シェントーン標識
1959年王様は亡くなり、翌年葬儀
遺体は立てていた
本物の霊柩車


 12:50 昼食後バスは出発し、民族の織物、紙鋤の村バーンサンコンを見学。気温28度、湿度70%で蒸し暑い。
14:10 メコン河クルーズ船に乗る。乗船前、ラオスの地酒”ラオラオ”造りの村バーンサンハイに立ち寄り見学。この村は酒の甕作り、酒つくりの村として有名。

一艘日本円で100万円。トイレありといっても垂れ流し?

造ったものを売っている
蛇やさそり入りの酒もある
蛇入りをお土産に買った人もいた


グリーンのポロシャツ姿はガイドさん
ガイドの前にいる作務衣の人は小倉の同行者
旅行中、作務衣と着流し姿を通す
もしかして???系と思ったら話しぶりは親切
外国旅行でこういう人は初めて
「小倉生まれで玄海育ち~♪」と話すと
「玄海で育っていないよ」と言われてしまった
 14:20 悠久のメコン河クルーズ船に乗ってメコン河をクルーズ。河の水深は18m。乾季のときは10m浅くなるとか。17名が一艘に乗船。

 船はラオス特産の木材を使った新しい船。この木材はホテルなどの建物にも贅沢に使用されており落ち着く。乗船してもその暑さは半端ではない。しかし船の座席は豪華な椅子で快適。

 乗船中、ラオス事情をガイドからいろいろと教えてもらい、参考になった。

 ラオスは中国、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムの5カ国と隣接している。中でもラオスの人々はタイに精通する。例えばTVを見るのもタイのテレビ。ドラマも子どもからお年寄りまで見ているという。そのためラオスの人はタイ語が話せる。しかし他の4カ国はテレビも戦争や軍関係のことなので見ないという。またこの5カ国は文字も言語も異なるとか。

 14:40 パーク・ウー洞窟到着。
 
 洞窟は王宮博物館前の桟橋より、優雅なメコンの流れに身を任せること2時間で数多くの仏像が安置されたパーク・ウー洞窟が姿を現す。

 また洞窟は楽な階段(上の階段)と険しい階段(下の階段)に分かれる。楽な階段の洞窟は王政時代に王が新年の幸福を願ったという。洞窟入り口で2000キープ(¥20)で線香と金盞花のような黄色い花で作られたお供えを買い、それを供えていざ洞窟へ・・・。真っ暗な急な階段ばかりの洞窟へ懐中電灯を照らしながら入る。どこまで入っても仏像が供えられている。王様が仏教布教のために仏像を備えることを提唱したとか。仏像の古いものは朽ち果てて頭がないものもあった。
楽なパーク・ウー洞窟入り口


 険しい洞窟には4000体以上の仏像が保管されている。洞窟内は真っ暗。懐中電灯を持って歩くが、ペンライトのため暗い。人の持っている明るさを頼って中へ入る。
険しい洞窟入り口

 船から眺める白い建物はラオスの刑務所
刑を終える終えないというすべては金銭が伴うという
まるでどこかの国のよう
賄賂、賄賂で・・・ 
プーシーの丘からルアンパバーンの街並みを眺める

 15:20 クルーズ船で洞窟出発。ルアンパバン市内へ戻る。帰りの船は風も吹いて心地よい。
 17:30  市内に到着。プーシーの丘は「仙人の山」の意で海抜700mの小高い丘。王宮博物館向かいにある328段の階段の階段を上りきるとルアンパバンの街並みが一望できる。 この丘に登る前に3,40分自由時間あり。半数くらいはスパ&マッサージに繰りだす。30分@5ドルとか。

プーシーの丘でメコン河に沈む夕陽を眺める
どこで見ても太陽は一つ。それなのにラオスで見る太陽は違う?
生憎夕陽は見られず
夕陽を写真に収めているとき、西洋の旅行客に声をかけると
オーストリア人だった。一緒に写真に収まる

スパに繰り出さない同行者と3,4人でバザールで買い物。なんといってもどの人も日本円で5000円しか現地の通貨キープに替えていない。それでも何を買って使えばいいのかわからず。”露店”で買う習慣がないのでためらう。今思えば店舗で買うコーヒーなどはフェアトレード。それほど日本で買うのと価格に遜色はない。しかし民芸品は気の毒なくらい安い。値切らずに買ってあげればよかったと痛感。ここで一枚刺繍入りの派手なクッションカバーと民芸織物の小さな袋を購入。

 これまで何度か海外に出かけている。26年前の最初に出かけた外国は中国。そのときでさえ、確か1万円か2万円ほど「元」に両替した気がする。それなのにラオスにお金を落とさずに帰った。


バザールのカラフルなテント
この下の露店で冷やかしながら民芸織物の袋とクッションカバーを買う
向こうに見えるは王宮博物館
夕食はルアンパバンで一番高級といわれるフレンチ・レストランでラオス風フレンチを食べる。ビール、ワインを飲んだ楽しい宴。ワインは九州から参加でビジネスクラス利用の2人組みの男性の差し入れ。みんなで楽しくいただく。

 今回ビジネスクラス利用は4名。短時間の飛行ながら、足腰が悪い人が利用している。差額運賃@¥95,000。「これを利用せず、奥様を連れてくれば・・・」と小倉の女性が話す。するとある男性は「女房は働いていない」と言ったとか。それを聞いた夫婦で参加の小倉の女性は「むっ!」。

三日目 9月3日(月曜日) 

 7:30 ホテルレストランで朝食。相席は韓国の2人の男性。何か話すと手で話し始める。きっと聾唖者と勝手に思い、同行の人にそう話す。すると声を出す。日本語がわからず手で合図をした模様。そのうちの1人が美味しそうに麺類を食べている。レストラン外のラウンジで卵焼きや麺類のコーナーがある。ヌードルと卵焼きを食べる。それはまったく日本の味でとても美味。だが韓国の人には不味かったらしい。残していた。

 知っているハングルの単語を並べる。だが会話に至らず残念。また韓国に行ったこともなく韓流にも興味がないので話は通じない。同行者は3度韓国に行ったことがあるという。

「ルアンプラバン」ホテルのレストランで朝食
ホテルの庭に咲くチャンパー


 前日までのハードスケジュールの割りに今朝は夕刻ヴィエンチャンに向かうので午後の自由時間を急遽午前に当てる。ゆっくりとしたルアンパバンの朝をホテルで過ごす。宿泊のホテルは広い。南国特有の花も咲き乱れている。部屋の外に出て庭を散策。大きなプールもある。

 12:00-13:00 バスに乗って昼食へ。店の経営者は日本人の若夫婦。30歳過ぎで男性は大阪、女性は宇治の人。ラオスで3年前に知り合い結婚。旦那さんが店の経営者。奥さんは私たちに愛想を振りまく。その女性を見ていて何かわからないけど感慨にふける。なぜ日本を脱出するかと・・・。奥さんと写真に収まる。

 13:00 バスは出発。ルアンパバンから20数キロ郊外にある国立自然公園クアンシーの滝を見学。落差のあるメインの滝周辺の森には段々になった池や、熊などがいる小動物園がある。天然のシャワーを浴びて森林浴。ところがカメラは水しぶきで大丈夫?


滝に向かって奥へ歩く


水に触るとかなり水温は低い
 
あでやかな見事な真っ赤な花
葉っぱも花も大きい
 
 14:50 バスは出発。
 15:15 少数民族モン族の村到着。近づいてくる子どもたちに物をあげないようにとの添乗員からの忠告を受ける。観光中、あどけなさが残る子供たちを見て何か複雑な心境になる。
16:00 ルアンパバンの街中にバスは到着。食べ物やマッサージ店が多い。自由行動になり、小雨の中、お店を散策。途中、絵葉書を売ってる店を見つける。九州の「お母さん」に出す絵葉書を1枚だけ購入。

 福岡空港で知りあった女性と民芸織物の店でばったり会う。その人は何とラオスは4回目の訪問。生地など買うのが目的でラオスに魅せられたという。オプションのあるツアーで来ているとか。

 16:50 バスは空港へ向け出発。飛行機に乗る頃になると涼しいので薄い上着を着用。
 18:25 ルアンプラバン空港発→19:20 ヴィエンチャン ワタイ空港着。機内ではペットボトルの水とスナック菓子が出る。お腹もすいていたので出された菓子を食べる。美味。
 20:00 ホテル到着。夕食はホテル内のレストラン。「ラオ プラザ ホテル」のレストランはこれまで旅行した中で最高の味!握りずしもサーモンの刺身もお肉も何でもあり。コックが目の前で切ってお皿に盛ってくれる。

レストランの傍では生演奏がある。弾いている曲はビートルズのもの。一昔前の音楽の感じ。時はゆったりと流れる。

 同行者は余り食欲がなくコンビニへ行くという。ホテル横にコンビニがある。現地の日本人エージェンシーと一緒にコンビニへ行く。エージェンシーの人はこちらが恐縮するほど日本人観光客に気配りする。「味はどうですか?」と。ラオスにかける意気込みの現われか。申し訳ない気がする。 

 22:30 就寝。ぐっすり眠る。

四日目 9月4日(火曜日)

 7;00 モーニングコール。朝食を食べにレストランへ行くと横に座っている人が同行者に話し始める。聞いていると日本語。4人の日本人男性で九州の柳川の材木関係の人たち。ベトナムへ行く途中らしい。翌日も偶然会い、話を聞くとJICAの関係で大川市の家具関係の人もいるとか。

 広島もマルニ、ウッドワン、それに府中市の家具は有名。それらもライバルらしくよく知っておられた。このホテルの宿泊代金を聞くと朝食付きで@¥8000だとか。日本の価格とまるで同じ。日本は高級ホテルも値下げ傾向だから高いくらい?

 9:00 バスはタイ北部の世界遺産イサーン地方の観光へ向けて出発。国境を越えるといってもメコン河を渡るだけ。「国境を越えると雪国だった」ではないが「メコン河を渡るとタイだった」。

 ヴィエンチャンの街中は車、車・・・。駐車場がないらしくどの車も路上駐車。そのため信号はあっても意味を成さず、ラッシュ時には手信号。

 車に関しては無免許は当たり前。そのため事故が多い。また免許証はお金で買える。すべて賄賂の世界。ヘルメットを被らずバイクに乗っても違反キップを出して賄賂を受取るのは警察個人の収入とか。どこかの国を真似しなくてもいいのに。ガイドは「賄賂」の話をしきりにする。世の不条理を嘆いているのかもしれない。
 
 午前 ヴィエンチャン市内観光。

 ワット・シーサケート

 回廊、境内あわせて、一万体を超える仏像を擁する寺院。度重なる内戦、フランス植民地時代の損傷などが残っており、ラオスの歴史を感じる寺院。


日本とラオスが手を組んだ証

 タートルアン広場

 10月末から12月初めの満月の日に国内外から大勢の僧侶が集まり、大規模なお祭りが開催れる。北京の天安門広場は100万人収容で敷石をめくるとトイレになると聞く。ここにそれはない。皆どうするんだろう。

 タートルアン

 ラオス最大の聖なる仏舎。


タートルアン

 11:00 バザールへ行く。ここでお土産にコーヒーを買う。買うといっても皆で押しかけるためすぐにコーヒーは品切れ。価格は民芸品に比べてフェアトレード。豆のコーヒーよりも粉が人気。その後、隣のバザールでランチョマット1セット購入。

 12:00パトウーサイ(凱旋門)到着

 フランスから独立した記念に1958年に建てられた。現在はパトウーサイと呼ばれているが、以前は、アヌサワリー(記念碑)と呼ばれていた。内戦で戦死した兵士の慰霊塔。パリの凱旋門を模して作られ、最上階からはヴィエンチャン市内が一望できる。

 頂上までは150段ほどの階段がある。登りきったところで関西外国語大学と胸にロゴの入ったTシャツ姿の若いアメリカ人男性と出会う。日本語OKでWebサイトに写真を載せていると話していた。一緒に記念写真に収まる。

 12:30 バスはレストランへ。昼食はラオスの郷土料理。臭いがきつく、からい。
 13:50 昼食後、大型バスの調子が悪く、エアコンを入れるたびピーピーと携帯電話のような音を出す。それもついに出なくなるとエアコンは車内で効かなくなる。マイクロバスに移動。


中国の援助により建造されたという標識
左はラオス国旗で右は中国国旗

パトウーサイてっぺんから見下ろすヴィエンチャン市内

パトウーサイから見下ろすヴィエンチャン市内

 14:50 エアコンの効かない車内で皆ぐったり。またここまでの道のりは予算がなくて道は舗装されず、田舎道。思わず「♪田舎の道はおんぼろ車♪~」と歌いたくなる。ほこりが入るのでバスの窓も開けられず。帰りも同じ道を通る。

 ブッダパークに到着すると、各自旅行社の車のおわびで売店にある冷たいドリンクをもらう。気温35度、,湿度40%。木陰で休んでも暑い!

 ここでさらに大型バスに移動するため、しばし見学後バスを待機。ブッダパークのトイレは有料。1000キープ=@¥10。小屋に用足しが出来るほどの足場と水があるだけ。小さい子どもをつれた女性が傍で番をする。

 ブッダ・パーク

 仏教像だけではなく、ヒンズー教の神々も祀られている寺院。

後のかぼちゃのような建物に入ろうとしたら入り口で頭を”ゴツン”痛い!
見物前にもらったペットボトルの冷えたジュースを持っていた人に借りて頭を冷す
大事に至らずにすんでよかった!
ユニークなポーズの仏体が無造作に置かれている
 


 ヴィエンチャン市内へ戻るもバスは渋滞に巻き込まれる。信号は渋滞時は手信号に切り替わる。

 18:40頃の夕食のレストラン到着予定が、旅行社の手配ミスから本店から支店へのレストラン変更。ガイドにそれが届いておらず場所を変更するまで時間がかかった。そのため、夕飯時の飲み物は旅行社のおごり。皆飲んで食べて宴会のようなにぎやかさ。夕食場所は「福満楼」という中華料理店。

 円卓にどんどん料理が出る。それでも食べきれず残る方が多い?

 ホテルに到着後、ガイドに日本へ出す1枚の絵葉書の切手を購入手配をお願いする。ホテル支配人に合わせてくれ、その人に絵葉書をコトずける。日本人の支配人。日本までの切手代9500キープ=@¥95。

六日目 9月5日(水曜日)

 観光先の影響で4日と5日の日程が反対になる。この日はヴィエンチャンから国境を越えてタイ東北部のイサーン地方の観光に出かける。外は大雨が降っている。

 ホテルで早い朝食を取る。6時半に 行くと、先日のJICAの人はもう食べている。そこでまた昨日に続いていろいろと話す。

 8:30 バスは出発。車内の気温21度。寒い!バスはタイとラオスの友好橋を渡りタイへ到着。橋の真ん中には鉄道が走っている。

国境を越えて入国審査を受ける。タイ到着後はタイのガイドもバスに乗り込む。そこでタイバーツに両替する。@¥2000=760バーツ。

 9:50 タイ到着。
 10:00 タースデ船着場到着。小雨が降る。
 
10:00~10:50 サオマーケットで自由散策。

 サオマーケット

 このマーケットでブラウス購入。その目的はお昼のビール代が必要なため両替したタイのバーツを使いきれないと感じたから。ブラウス代金199バーツ(@¥524)。残ったバーツはトイレ休憩でバスが立寄ったパーキングエリアのコンビニでチョコレートを購入。市場の有料トイレは5バーツ。

10:50 バス出発。曇り空。
 11:50 昼食場所到着。昼食はイサーン料理。魚と肉の鍋料理。先に皿に盛ってあったものはハエがたかっている。食べなかった。昼食に飲んだシンハビール100バーツ(@¥264)。
 13:00 バス出発。

バンチェン世界遺産周辺景色

 ラオスは日本と逆で車は右。ところがタイは日本と同じ。バスの運転手さんはその切り替えが大変。


 14:00 バンチェン村到着 

 バンチェン遺跡(世界遺産) 

 1992年に世界遺産に登録。到着後館内でビデオ7分鑑賞。それによると1966年アメリカの学生が発見。1967年発掘が始まる。1972年タイの国王夫妻が発掘現場を訪問。1974年から75年にかけてペンシルバニア大学とタイの美術局が研究を始める。

 バンチェン文化は5000年前から始まり、発掘により有史以来の史実、文化、経済わかるという。

バンチェン国立博物館
世界遺産登録の証

 15:15 本物が展示してある博物館見学。
 15:55 ノンカイのマーケーットで小さな花瓶を買う。20バーツ
 16:30 トイレ休憩のコンビニでタイバーツを全部チョコレートを買って使い切る。72バーツ×4ヶ。
 16:45 バスは出発。
 17:45 タイの出国手続き。全員まとめてしてもらう。トイレ休憩。有料で5バーツ。
パーキングエリアにある移動ATM機

 18:20 ラオス入国手続き。
 18:55 レストラン到着。

ラオス最後の晩餐は民族舞踊ショーを見ながらの郷土料理。


レストランでラオス最後の晩餐(一人前)
ラオス郷土料理
苦手な香草が入っていた
 
楽器名はkeanto(キーン)ラオス笙

 20:40 ホテル着。日本へ向けて出発までホテルで休憩。荷造り、シャワーを浴びる。
 23:30 バスはホテルを出発し空港へ。

六日目 9月6日(木曜日)

 眠くてたまらない。深夜にもかかわらず、空港売店は開いている。そこでありったけのラオス紙幣でお土産のコーヒー4袋購入。残ったお金は硬貨で22バーツを日本に持ち帰る。

 2:00 ヴィエンチャン ワタイ空港発→8:20 福岡空港着(機内食)  

 全くといってもいいくらいラオスを知らずにラオスへ行った。しかし「百聞は一見にしかず」のことわざどおり、出かけて見るとわかってくることもある。今、手元に図書館で借りた『ラオスを知るための60章』(菊池洋子 鈴木玲子 阿部健一 明石書店、2010年)がある。


 以前アジアのことを8年間学んだ。しかしラオスに関して話題さえ出なかった。ラオスに隣接する国である中国、ミャンマー、カンボジア、タイは出かけたことがあり、ベトナムへは行っていない。いつか行こう。

 ラオスへ行って気になることがある。それは、行く前に読んだ本の影響と現地ガイドの話からそう思うのかもしれない。ラオスは確実に中国化している。11月にはヴィエンチャンでアジア欧州会合(ASEM)首脳会合がラオスで開れる。その突貫工事を中国が請け負い、たった3ヶ月で工事をする。そして出来上がった建物は大会後マンションとして売りに出る。それは中国人が買い、中国人民街となる。他の国のモノがとやかくは言えない。それでも、豊かな自然に恵まれた素朴な人々の住むラオスが他の国の援助を受けながらも独自の文化を維持できる国になってほしい。

これから当分、この本を読んでラオスを学ぼう!

2012年9月15日土曜日

秋はいつ来る?

九月も半ばというのに毎日暑い。この調子だと秋は短く、すぐに寒くなるだろう。

昨日の夜は広島交響楽団の定期演奏会を聞きにいく。その前に知り合いのところに立寄る。

知り合いを訪ねるとニコニコとした元気そうな顔。開口一番「行くところが違うでしょ?旅行先はここじゃないよ」と発破を掛けると笑っている。

そして時に興に乗じて「ありがたく優しいお言葉」をかけられる。昨日はその言葉をそっくりそのまま返すと「そーう!そーう!」と言って大笑いする。

余りにも言ってることが当てはまるのだろう。

ラオスで一枚だけ買って帰った刺繍の派手なクッションカバー。それを丁度よいお土産と思い、手渡す。そのとき「これに座るとすぐに元気になるから・・・」とまた発破を掛ける。

それを手に取ってしばし眺め、飾りにしてもいい、という。飾らずに座って・・・!

知り合いは「水泳が体にいいよ」と言って褒めてくれる。水の中を泳ぐのも世の中の荒波を泳ぐのも一緒?何でもいいけど元気が一番。こうやって笑って話せるから大丈夫?

体のこと、旅のこと、フルートのこと等、他愛なく話す。元気が出てきたのかすぐに遊ぶ話も出る。そしてこのことを知らせてくれた人ともそこで電話する。話していても笑いは絶えない。これで一安心。

ちょっとだけが長居になってしまった。

定演は初めて聞くメシアンのトウーランガリラ交響曲。何と1時間15分も休みなく演奏される。それもオンド・マルトノという聞きなれない楽器を使用している。西洋の音楽というよりも時に京劇やインドネシアのガムランのようなアジアの香りが漂う。

それもときにどんな音も遮断されるほど、ただ演奏する楽器だけで会場が膨れ上がる。ものすごい音が鳴り響く。かなり印象に残る曲になりそう。

広響プロ改組40周年とかで会場は超満員。会場入り口までは階段に蘭の花がずらーと並び芳香を放つ。

プログラムを受取るとかなりの催事案内のチラシが入っている。2枚気に入ったものがあった。一枚はピアソラのタンゴの演奏会。これは一般のホールならば一人で行けるけど飲食を伴うところは一人では気が引ける。だが行きたい。さてさて・・・。

もう一枚は立花隆の講演会。この催しを行う会社の講演会はこれまで応募しても当たったためしがない。多分、会社関係の残りを一般に振り当てるためだろう。

それにしても暑い。今日は朝からエアコンをつけ、午前中買い物に出かけるときもつけたままで出かける。それほど暑い。秋はいつ来る?

2012年9月14日金曜日

元気になろうよ!

このまま涼しくなるのかと思ったら今日も暑い!この暑さは全国的とか。北海道は例年よりも4度も高いらしい。

この暑さで頭がすっきりしない。いくら顔を洗っても目が覚めない。こうなったら目を覚ます意味もあってお風呂へ・・・となる。やっと気分もすっきり。

毎日ラオスのことをブログにアップしようと張り切っている。だが、写真を多く取り込んだためか、写真と文の構成でかなり手間取る。

幸い同じような建造物や観光地がないので、出かけた場所や人とのかかわりはかなり鮮明に思い出す。その点では楽。

また文章を投稿しながら、世の中、厳しい自然条件の下で生活している人々に思いを馳せる。仕事がないとか何とか言いながらも日本は幸せな国。今一歩若者も外へ踏み出せば考えも変わるのに・・・。そう思ったりする。とはいっても若い頃、そういう知恵はなかった。長く生きてきて今になって思うこと。せいぜい外へ目を向けよう。

気分を変えて今夜は広島交響楽団第322回の定期演奏会を聞きに行く。本日の指揮者は常任指揮者秋山和慶、ピアノに永野英樹、オンデ・マルトノに原田節を迎え、演奏曲目は下記の通り。

♪ モーツアルト:交響曲第33番 変ロ長調K.319
♪ メシアン:トウーランガリラ交響曲

発表会が近づいている。ピアノ合わせの日程も決まった。練習しないといけないのにフルートに手が届かない。

周りに調子の悪い人が多い。昨夜も幼馴染と夕飯を食べて帰宅する途中、携帯に気づく。電話をかけなおすと知っている人が体調を崩していると教えてもらう。それを聞いてもうびっくり!早く元気になってくださいね!

そしていつものように元気よく飲んで食べて楽しく遊ぼうよ!

2012年9月13日木曜日

『無所属の時間で生きる』

今朝地元紙を読むと青紫蘇のつくだ煮の作り方が出ている。紫蘇の葉は抗酸化脂質ベータカロテンの含有量が野菜の中でもトップクラスとか。

今日も自転車で買い物に行こうとすると、我が家の狭い庭からはみ出て茂る紫蘇の葉にチョンギース2匹が止まっている。

紫蘇の葉はどれも一箇所虫食いの状態。チョンギースの食料になる?食べあらされていない葉は洗って調理に利用する。だが、虫食いは何となくいやなもの。それが今日の記事によると佃煮に・・・とある。これならば大丈夫かもしれない。

何十枚か手にとってみた。後で新聞の通りに調理してみよう。

毎日気ままに過ごしている。気ままといってもけっこう規則正しい生活。家の中で横になることはない。家にいるときは母の遺した介護テーブルにパソコンを置き、籐の椅子に座って一日を過ごす。

まるで会社で仕事をしているよう。退屈になると食事の用意をしたり外に飛び出たり。結構暇。しかし、ブログを読んでもらってる人からすると忙しく見えるらしい。

暇と感じるとすぐに人を誘って遊びたくなる。今夜も幼馴染を誘って一緒に夕飯を食べに行く。

こんな暇な時間を城山三郎は『無所属の時間で生きる』と題して書いている。

「淡い旅情。短いが、非日常の世界。あらゆるものから、解き放されている。その思いを味わいながら、悔いも沸いた。なぜ、小一時間でなく、半日なり一日なり、こうした時間をもてるようにしなかったのか。戦後最大の財界人石坂泰三を調べていて、幾日か出張するとき、空白の一日を予定に組み込んでいることに、私は注目した。旅先で好奇心の沸いた場所や人を訪ねるためもあるが、ただ風景の中に浸っていたり、街や浜辺を散歩したり。経団連会長や万博会長など、日本で一番忙しい男であるはずの時期でも、そうであった。その空白の一日、石坂は二百とか三百とかの肩書きをふるい落とし、どこにも関係のない、どこにも属さない一人の人間として過ごした。私はそれを『もう、君には頼まない』の中で、『無所属の時間』と呼び、その時間の大切さを,私なりに確認した・・・。真新しい時間、いつもと違うみずみずしい時間があり、子どもに戻ったような軽い興奮さえ沸く。おそらくそれが、人間をよみがえらせるきっかけの時間となるからであろう。・・・」(19-20p)。

「無所属の時間とは、人間を人間としてよみがえらせ、より大きく育て上げる時間ということではないだろうか。」(20p)

「無所属の身である以上、ふだんは話し相手もなければ、叱られたり、励まされたりすることもないので、絶えず自分で自分を監視し、自分に檄をとばし、自分に声をかけるほかはない。・・・度し難い話だが、それが人間ということなのであろう。」(127p)

「人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなるし、深く生きるためには、ただ受け身なだけではなく、あえて挑むとか、打って出ることも肝要となろう。」(134p)

マンネリの毎日にこういった本はカンフル剤となる。そして昨夜はエレクトーンの旧友4人との半年振りの再会予定も決まる。今朝、その中の一人からもらったメールには、4人とも今年外国へ行ったと連絡が入る。「みんな今年は海外に行ったと思います。考えればすごいね」と。それぞれドイツ、フランス、イタリア、ラオスと出かけている。

再会の日には、このきっかけをメールで作ってくれた人ではないが「ゆーっくり11時間耐久レースのような女子会ですから・・・」とあるように、積もる話は終わりを知らない!?

毎日無所属の時間で生きている。気楽なように見えるけど、城山ではないが「絶えず自分で自分を監視・・・」は当てはまる。ちょっとの油断は病気になりそうで・・・。

2012年9月12日水曜日

再び「母親が法律」から

昨日から急に秋を感じて朝晩は涼しい。

昨日のフルートのレッスンでは発表会にソロで吹く曲を中心にさらってもらう。吹いていて曲に全くメリハリがない。メリハリというよりも吹いているときの気持ちのゆとりのなさかもしれない。

先生はさらうたび、感情移入の箇所を譜面に書いてくださる。ある箇所は音符の3倍位の長さで音を伸ばす。またある箇所は自分で思い切り吹きながら次の音は伴奏のピアノの音を聞いて吹くようにとアドバイスされる。

昨日朝、FMを聞いていると聞き覚えのある曲が流れる。何とゴールウェイが吹くフルートだ。発表会でソロで吹く曲。道理で聞き覚えがあるはず。

上手い人が吹くと同じ曲とは思えない。淋しさの漂う曲だけど、吹く度いい曲に感じる。暑いとばっかり言わず練習しよう!

昨日「母親が法律」と高倉健の話をブログに投稿した。先ほどネットで検索すると日経新聞のHPに「高倉健のダイレクトメッセージ」に「母心 俳優 高倉健」の今年4月20日付けの記事がある。

この一部を引用しよう。

「『辛抱ばい』 私はこの一言に支えられ、南極、北極灼熱の砂漠から厳寒の冬山を駆け抜けてきました。不条理ばかりのこの業界で、道を踏み外さなかったのも間違いなく『おふくろを悲しませたくない』の一心。母は私にとっての規範であり、法律でした。・・・」とある。

この最後を高倉がTVで「母が法律」と話したのだろう。これより違った話し方だったかもしれないがこんなニュアンスに聞こえた。

これを読むと涙が溢れ出す。以前『あなたに褒められたくて』を読んだときのように。

高倉は8歳の頃、肺浸潤に冒され、母親を2人の妹から独り占めにした負い目を持っている。そのため余計母親に対して優しい気持になるのだろう。

今は以前ほど母を思って涙を流すことはあまりない。しかし、高倉ほどではないにしても母親の言葉は身にしみる。高倉のように小さい頃体が弱かった。そのため何をやっても人より鈍い娘をいつも「人ができることは誰でもできる」と励ましてくれた。これが高倉をもじっていえば「母親が法律」となるコトかもしれない。

2012年9月11日火曜日

「母親が法律」

一昨日と昨日の2日にわたってNHKの「プロフェッショナル」に高倉健が出演。両日ともTVを見たかった。しかし、一昨日は友人と会っていて見ていない。

この人が特に好きと言うわけではない。以前図書館で借りた高倉の著書『あなたに褒められたくて』『南極のペンギン』『旅の途中で』を読み、この人に関心を抱くようになった。

昨夜のTVで最後の辺りにたけしが高倉健の背中に「孤独」を感じる、と話す。今年81歳になるという高倉。人生の大半を一人で生きている。映画の虚像と実生活の実像。そのギャップがそうさせるのだろうか。

高倉は「母親が法律」と話す。長く独りで生きてきたなかの結論か。『あなたに褒められたくて』の中でも母親のコトを書いている。

あれほどの人なのに「縁がなかったんでしょうね」と言い切る。不思議な気もする。その結果が母親に向かうのだろうか。

たけしは高倉に対して「孤独」を感じるという。そういっても、「年をとるということは孤独との戦い」と何かの本に書いてあるのを読んだことがある。そう思えば何も高倉だけが「孤独」ではなく誰も皆当てはまる。

たまに見るテレビ。こういう番組は何故か元気になる。前日の番組が見られなくて残念。いつか再放送されればいいのだが・・・。

今日はいつもよりほんのチョッピリ秋を感じる。

昼ごはんを食べようとすると、同級生から電話がある。先日食べられないといっていた人。元気になったのかと思ったらそうでもなさそう。今日は食べるようにと話したけど・・・。

元気といえば今はどこも痛くも悪くもなく元気。喉もほとんど治ってきた。旅行から帰ったら会おうと言っていたスペインで相部屋だった人も腰が痛いといって寝ているという。会うのは1週間後にした。腰痛の人は多い。

毎日遊んで過ごしている。悪いところがあってはなんだか申し訳ない。そのためにも、毎日を元気で楽しくをモットーに過ごしたい。

先ほどまで読んでいた城山三郎の本『無所属の時間で生きる』にあるように。

「この日、この空の下に在るこの私を、かけがえのないものとして前向きに受けとめていたか、どうか。・・・一日一つでも、爽快だ、愉快だと思えることがあれば、それで、『この日、この私は、生きた』・・・これは私の造語なのだが、「一日一快」でよし、としなければ。」(225-226p)

今日はフルートのレッスン日。昨日少し吹いてみたけど・・・。今日も頑張ってレッスンを受けよう!

2012年9月10日月曜日

飛び入り

昨夜は飛び入りがあった。それも4名。姪とそのチビたち3名である。

夕飯を済ませ、喉の痛みがあるのでゆっくりしていた。すると姪から電話がかかる、姉の長女である。すぐに我が家に来るという。キッチンのシンクを替えたが、夕飯とお風呂の水が間に合わないらしい。

すぐ来るというので待っていたがやってこない。外に出て待っていると近所に住む男の人から「〇〇さん」と声をかけられる。その人を知らない。右手に小さい缶ビールを持って自転車に乗っている。同級生の弟さんだった。

ビールを手にして自転車に乗るとは・・・と思って尋ねるとその人の姉が飲むことを許さないらしい。「なぜ?」と思い、さらに聞くと35歳で胃がんになり食道まで切っているという。

姉である同級生が弟を気遣う配慮から飲ませないようにしているのだろう。そのためいつも姉弟のケンガかたえないらしい。なんといってもその家の姉と兄は近所でも優秀な家。そのため姉としても許せない?

昨夜の弟に「家に帰ると姉さんに叱られるよ」と言うと、昨夜は散髪帰りだからOKとか。

同級生であるその人の姉と電話で話した時そんなそぶりは聞かなかった。家の中に入ってみないとわからないことがある。母はいつもそういっていた。外からよく見えても中に入らないとわからないことが多いと。

ひとりで暮らしている。姉弟と暮らしている同級生を見て羨ましく思っていた。ところが弟の昨夜の話しぶりではケンカがたえないとは・・・。そう思えば一人でいることもいいのかもしれない。

その話を今朝幼馴染に電話ですると「いろんな人から声をかけられるね」という。本当にそう。なぜかどの人も見た目が変な人ばかり。それをいうと先日の「浮浪者風」と書いたことも幼馴染はいけないことだと言って叱る。そして「いつか町内会で有名になって役員にさせられるよ」と冗談を言う。

自分のこともしっかりしていないのに人の話に首を突っ込む。とはいっても一見変に見える人も話を聞いているとそうではない。世の荒波を上手く泳ぎきっていない人に思える。そう、お人好しだ。

そう思っていると姪がやって来た。まだ夕飯を食べていないという。旦那は家で用があるらしく4人でやって来た。買ってきたものを出して3人のチビたちは食べる。いつも一人なのでにぎやかさは半端ではない。4、6、8歳のチビたち。

途中、無花果をテーブルに出すと真ん中のチビは食べていたものも食べず、さっと無花果を取る。早い早い。見るたび大きくなっている。

持参してきたものだけでは野菜不足と思い、ボールに一杯作っていたポテトサラダを出すと、それも食べる。元気がいい。

食事を終えると、仏壇に立てかけてある母の写真を見て小さいチビが何か言っている。そして母がどこにいるかと思ったのだろうか。当時は2歳だったから覚えていないはず。仏壇を開けたり閉めたりする。さらには仏壇の前に座って手を合わせる。どうも通っている幼稚園で月に一回祈りの日があるらしい。お寺の幼稚園だからだろう。

食後はお風呂。8歳が4歳のチビをつれてはいる。そのうち4名全員がはいる。姪に聞くと夜は毎晩こんな調子で時間が足りないという。みていてよくやっていると感心する。

母がいたならあれもこれもと手土産を渡していた。ところが今回はラオスに行っていたので冷蔵庫には何もない。それでも何やかやと探して持って帰らせる。

「怒涛のように押し寄せて嵐のように去っていく」と姉夫婦が来るたび母は言っていた。その娘である姪も同じよう。とはいってもなんの気兼ねもせずに我が家にやってきてくれる。そんな姪がかわいい。そしてその子どもたちもまたかわいい。そのチビたちもすぐに大きくなっていくだろう・・・。

ブログ投稿後、以前習っていたエレクトーンの友だちからメールを受取る。「女子会」なくして生けてはいけない?秋に皆で会う約束をしている。若い頃知りあったエレクトーンの友達。是非会いましょう!ブログも読んでもらってありがとう。今一歩、喉の調子がよくない。すぐに元気を取り戻します。また笑ってゆっくり会いましょう!楽しみにしています。

それにしてもフルートの発表会を前にして10日以上も吹いていない。今から練習できるかな?

2012年9月9日日曜日

秋を感じる

昼前、自転車で買い物に行こうとすると、庭の紫蘇の葉に赤トンボが止まっている。すぐに携帯カメラで写そうとするがどこかへ飛んでいく。このごろはトンボを見ることもない。

一昨日、生い茂るもみじを少し切ってもらった。そのため風通しがよくなったのか、綺麗な蝶々が飛び交うようになった。それに混じって飛ぶ一匹だけの赤トンボ。少しだけ秋を感じる。

昨夜は米子の友人姉妹と広島駅新幹線口のお店で夕飯を食べる。妹さんと車で急遽野球見物になったとか。だが応援するDENAが負け試合なので早めに球場を後にしたという。

その人とは旅で知り合った。友人はこれまで70回海外に出かけている。ここ数年は海外とご無沙汰とか。その人は10年前まで日本最大手の電機メーカーに勤務していた。だが10年前に会社をリストラ。それ以降、公民館勤務。その公民館に入る倍率はかなり高かったらしい。だが、入っても会社員時代と違って休みが取れないとぼやく。

友人は私より数歳若い。公民館をやめたら一緒に海外に行こうという話で盛り上がる。そんなに遠い話ではなさそう。それもまた楽しみ。

昨日から今日にかけて旅土産になってしまった喉の調子がよくない。

今日の午後は家でおとなしくする。

先日BSで放映された笹本恒子の『好奇心ガール今97歳現役の写真家が語るしあわせの長生きのヒント』(小学館、2011年)を図書館で借りてきて読む。いつものように気になるところを記したい。

「学ぶのにも、仕事をするのにも、年齢は関係ありません。もういくつだわ、なんて考えたらもうおしまいです。もちろんわたくしも毎年、年をとっていきます。でも心は年をとっていないから、年中あれをしよう、これをしようと頭の中はいっぱいで、ビジー、ビジー欲ばりなのでしょう。そしてやりたいことが一杯あるから、神様が生かしてくださっているのかな、などと思います。」(164p)

この中の「心は年をとっていない・・・」は読んでいて改めて気づかされる。人の気持は若い頃と変わっていない。心まで老けてしまったら何もできない。せめて気持だけは若くありたいもの。

「苦労は顔に出さないほうが賢いですね。悲愴な顔をしていても、母親以外は誰も抱きしめてはくれません。だから、影で泣いても明るくしていたほうがいい。わたくしがぎりぎりのとき、まわりの人が道を開いてくれることが何度もありました。」(165p)

この中では「まわりの人が道を開いてくれること・・・」は当てはまる。何かにつまずいたときいつも誰かに助けられてきた。

こう思うことが秋!を感じることかも。それは赤トンボだけでなく。

2012年9月8日土曜日

いろんな人と・・・

旅行中に咳き込んだ人が多くいた。自身の旅土産は喉の痛み?少し風邪気味。それなのにこの暑さで、朝からシャワーを浴びる。

昨日、以前水墨画を習っていた人に電話するとFAXになる。用件を書いてFAXを流した。すると先ほどTELがかかる。その人と昨年の不幸以来、話をする。

「水墨画」と書かれたFAXの文字を見て懐かしかったらしい。そして2,3日前に家を片づけていて先生のお手本の水墨画が出てきたところだとか。本当に思いは通じる。

旅行の際の同行者の話をするとその世話人は水墨画の人に間違いないと互いに結論付ける。そして30数年前の水墨画を学んで楽しかった頃の話をする。

一緒に水墨画を習った人とは仕事を通じて知りあった。その人は職場の絵画展で賞を取った人。左利きながら絵は上手い。長く木版画もされている。

絵画のセンスを持ち合わせないモノが当時一緒に学んだのも何かの縁。これまで長く付き合ってもらっている。この話をきっかけにまた近いうち会うことが出来そう。それも楽しみ。

今朝は外にも出ず、家でじっとしている。午後は幼馴染がやってくる。しばし、2人で話をしようと思ったら、携帯電話がなる。米子の友人だった。

その人は大の野球好き。それもDENAのファン。午後からマツダスタジアムで試合があるとか。今夜は新幹線口近くのホテルに宿泊するという。試合が終わり次第、新幹線口で会うことにした。

やっぱり神様は家でじっとすることを許されない?

4月から6回ほど松江に行く予定だった。それも4回はいろんなコトと重なり出かけていない。松江に行くたび米子の友人宅に泊まっていた。5ヶ月ぶりで会う。

ラオスに行くことは知らせていない。その人とはパキスタンで知りあった旅友だち。今夜は食べながら、飲みながら旅の話など楽しくしよう!

2012年9月7日金曜日

奇遇!

ラオスから無事帰ってきた。9月になり、少しは涼しくなっていると思った。ところが帰ってみるとラオスより暑い!

この暑さの違いは、ラオスの雨季と日本の真夏にある。何といってもラオスは国土の大部分を南国特有の大きな樹木が生茂る。そのため木陰を求めなくてもある程度は涼しい。また、雨季特有の雨もなく、天候に恵まれた。

この模様は後日ブログにアップしよう!

今回の旅で感じたことは、ツアー客に高齢男性の一人参加が多いということ。これには驚く。また、働いている現役は一人参加の女性だけ。そのため、この旅に限っては年を重ねていても若者になる。

高齢男性の一人参加者はまさに日本の後期高齢者。知る限りでは75歳から81歳までの人たち。その人たちは自分の人生の残り時間を計算して旅でお金を費やしている。はっきりとそう話した人も幾人かいた。

中でも母親を7年前まで介護して生涯独身という男性もいた。その人は一年の半分を海外旅行で過ごし、今月も19日から旅立つらしい。旅の計画は1月まで決まっているともいう。

旅行費用も豪華客船を利用すると軽く500万1000万円だとか。親の遺産を使い、後に残すこともなく使うらしい。

会社をリストラされて以降、親の介護と大学生生活で一昨年まで9年間、海外に出かけられなかった。

10年前までの海外旅行は仕事をしていたこともあり、平日に行かず、お正月、GW、お盆の一番価格帯が高い時期に出かけた。そのためツアーの年齢層も似たり寄ったりで、勤め人が多かった。

しかし、今回参加の高齢者はその辺にいる人たちとは元気さが違う。かなりハードなスケジュールにも関わらず、見ること、聞くこと、食べること、飲むこと、しゃべることと何でも人生を楽しんでいる様子。パワーが溢れている。

それを考えるとその人たちの年齢までにはまだまだ何度でも海外に行けそう!

ブログを投稿している最中、JTBから電話が入る。例の窓口の女性からだ。「楽しい旅で食事が最高だった!いい国です。」と話す。

今回は何度もブログに書くように、曰くつきの旅。現地の日程変更も窓口に連絡があったようで知っていた。それにしてもこの10年のブランクはJTBの親切な応対の変化にもある。電話で優しくされると、これからもJTBにしようと思う。

電話がかかる前、神戸のフェルメールもJTBへTELして予約した。これで西日本にやってくるフェルメールは両方見に行ける。秋が楽しみ!

秋といえば、いい季節。しかし、残念なことがある。それはいい季節には大学生活が待っている。そのためいくらいい旅があっても大学を休めない。それが少々残念!

何かを得ようとすれば何かを失う。何ごともいいことばかりではない。

今回のラオス行き。楽しいことばかりではなかった。怖いこともあった。今思えば、それも大したことでなくて、いい思い出。だが初日には何という国?と正直思った。悪いやつ?はラオスの人たちではなく、他のツアーの酔っ払った日本人男性。それもブログにアップしよう。

以前、文化人類学(民族学)を少し学んだことがある。旅の模様を「民族誌」とまではいかなくても、「民族誌」もどきでブログに書こう。

昼前、近くに住む浮浪者風の男性に伊呂波もみじを少し剪定してもらった。浮浪者風というのは見た目がそうで実は人はとても好い。人は見た目でその人の生活ぶりを判断する。最近までどこに住む人か知らなかった。話しかけると話しぶりは優しい。人づてに長く郵便局に勤めていたと聞く。

しかし、どう見ても身なりが浮浪者風。先ほど外に出ているとその人に出会う。もみじの話をすると切ってくれるという。暑いので申し訳なく思っていると、すぐに切ってくれ、ゴミも処分してしてくれた。

人からもらった、いいワインを1本お礼に渡した。しかしワインよりもビール一缶でいいという。ワインを渡した後、すぐにビールを1ダースと無花果を買ってきて、その人の家の玄関横に置いて帰った。

我が家から100メートル位しか離れていない、芝生の庭のある一軒家だった。浮浪者風と言うほうが悪い。人は身なりではない。

その人はいつも学校や集会所の周りの道を掃いている。もちろんボランティア。そして仕事でもないのに頼まれれば他人の墓掃除や家の雑用もしてあげるらしい。

生まれてずっとこの町に住んでいる。家を替わったのは、生まれた家の隣の土地に親が家を建てて替わっただけ。もう何十年も住んでいる。しかし、学校卒業後ずっと働いていたので同級生くらいしか顔見知りはいない。先方は知っていてもこちらは知らない。

それが親がいなくなってから近所の人の知り合いも増えた。今日の剪定の人もそう。

今日は久しぶり図書館へ行く。予約確保の本4冊受取る。わずか1週間足らずのラオス滞在。長く行っていた気がする。

本も読みたい。しかし、まだちょっと気合が入らない。今日の地元紙「9月の随想」の上原隆ではないが「こんな日もあるさ」。そう「本を読みたくない日」もある。

筆者は「人生って捨てたもんじゃないなと思った」らしく、それを「こんな日もあるさ」として本のタオトルにしている。

なんであれ、旅行はやっぱりいい!

旅に出る後期高齢者の人ではないが、もっともっと人生を楽しもう!!そして外国に出かけるたびいつも思う。筆者にもじって「日本って捨てたもんじゃない!」。日本は本当にいい国!!

ブログ投稿後、忘れないうちに書いておこう。行動を共にした旅行者は17名。大半は九州の人で6名が広島からの参加者。この広島からの参加者のうち、2名の人は私のことを知っておられた。これにはびっくり!

1名は一人参加の男性。旅の初日に話かけられる。以前アジアを学ぶ塾に8年間通っていた。そのことを話される。そして広響の演奏会で席が隣になったとも言われる。アジアのことと音楽を学んでいること、広響を聞くことの3点を言われてびっくり。

知らないところで人と接していたとは・・・。その人から「前からよく知っているよ」と言われてしまった。

もう一人は同行の女性。ビエンチャンのホテルロビーで早めに部屋を出て話をする。その人の話す内容は、ある勉強会で私と同じ姓の人が3名いた。そのうちの一人と顔かたちがよく似ている。もしかしたらそのときの姉か妹かな、と話される。そのときの講師の名前を聞くと知ってる人だった。すぐに「それは私本人です」と言う。

それを聞いた同行者はびっくり仰天!なんといっても30数年以上も前の話。その勉強会に最後まで参加しなかったのだろう。その後の勉強会のことは知らなかった。しかし同行者は今でもその勉強会の人たちとは付き合いがあるという。

若い頃、水墨画を習っていた。その頃、ある勉強会の男性たちとも一緒に習った。その水墨画の男性たちと勉強会の男性たちは同一人物。話がここでも一致。

この水墨画がきっかけとなり、中国にのめり込み中国語を学び始める。若い頃の話をその人から聞くとは・・・。かなりおとなしかったらしい。そして昔を知っている人とまさかラオスに一緒に出かけるとは・・・。「人生って本当に面白い!」。

とはいっても私も同行の人と大学で初めて会った際「〇〇塾で学びましたか?」と聞いたことがある。同行者は学んでいない、と返答。それが塾ではなく、ある勉強会で知り合っていたとは・・・。

〇〇さん、ラオス行きではお世話になりました!楽しい旅でしたね。また奇遇の出会いがあったんですね。話を聞いて自分の若い日を思い出す旅となりました。ありがとうございました!

それにしても若い頃とやってることは変化していない?ただ自転車に乗ること、泳ぐこと、それに海外旅行に行くことは進歩かも。とはいっても社会人大学生のとき知りあっているから、学ぶ面でも進歩しているかも・・・。