2011年6月30日木曜日

デジカメ

毎日本当に暑い!今日は朝からエアコンをつけている。

今朝は燃えるゴミの日であった。その日はカラスや猫がゴミをつつくので網をかけている。それなのに我が家も隣の家もゴミがあらされ、地面の上はゴミが散乱している。ちょうどそのとき市のごみ収集車がとおりかかった。

なんと係りの人は塵取りと箒を持って車から降りて来る。それを見てもうびっくり!

我が家のゴミを片付けていると、係りの人は隣の家の散らかったゴミを掃いて車に入れている。いくら仕事とはいえなんと大変なことか。

一段落すると自転車で近くの家電量販店に出かけた。平日の朝というのに結構お客はいた。入るとすぐにデジカメ売り場をたずねると案内してくれた。その人の説明を受けフジのFINEPIX Zを購入。27800円。この機種は店頭表示によると当店売り上げNO1とか。

カメラのレンズが突出せず、大きさ、機能、色ともスマートフォンを思わせる。スマートフォンは愛用していないが、画面を手で触って動かすタッチパネル機能がそう思えた。

初めてデジカメを買ったのは今から10数年位前になる。今のデジカメと比べるとデザイン、機能とも大幅に劣る。デジカメは今では電気器具と化した。そのため、ここ10年近くは新機種を買わず携帯電話のカメラ機能で写真を撮っていた。それも限界と思い、新たにデジカメを購入した。

買うのならば電機メーカーのものは避けたかった。カメラはカメラ屋だ。フジかキャノンにしようと決めて買いに行った。ところが売り場にあるのはほとんど電機メーカーのものだった。

持っている携帯電話も真っ赤、今回のデジカメも真っ赤。大きさも携帯を一回り大きくした感じでカメラとは思えない。それでも家に帰ってからは買って来たカメラと格闘する。

ケースからデジカメを取り出すと使用説明書を読む。携帯電話を購入するときはその場で使える状態にして渡してくれる。ところがデジカメはそうではない。すべて我が手で設定しなければいけない。それは10数年前に初めて買ったパソコンや5年前に買い換えたパソコンの取扱説明書との悪戦苦闘を思い出させる。

ましてやスマートフォンを使用していないので慣れないタッチパネル操作も厄介だ。慣れれば簡単なのかもしれないが…。とりあえず初歩的なことだけで写せるようになればいいかと思ったりする。そのうち慣れてくるだろう。

何をとっても何を見ても世の中は進化している。

どこまで世の中についていけるかわからない。それでもなんでも遊び道具と思えばそれはそれでまた楽しい!

当分はデジカメで遊ぼう!

そう思ってブログに投稿しているのだが、パソコンの調子がなんだか変。なかなか投稿画面になってくれない。どうにか投稿している。さてさて今度は3台目のパソコンに買い替えとなるのだろうか…。

2011年6月29日水曜日

『スペイン、とっておき!』

中国地方が梅雨明けしたかどうかしらないが、今日の天気はもう夏空だ。そこで今月から3年目に入った我がブログも今日の青空にあわせてデザインを一新する。

午前中、近くの図書館に出かけて中丸明の『スペイン、とっておき!』(文春文庫、2007年)を読んだ。この著者は今まで知らなかったが、スペイン関係では多くの著作があるようだ。文の書き方は全く上品さにかけるが、それでも参考になるところがあったのでそれを記したい。

全体を通して頻繁に使用されている言葉は「コーニョ」で「ったくも!」の意味だとか(10P)。お国柄をあらわす言葉は「アスタ・マニャーナ(いずれ、そのうちにね)」で、「明日じゃ間に合わん」といってもアスタ・マニャーナだとか(39P)。

スペインを象徴する色について「青、アスールは、スペインの色なのだ」という。ピカソの『自画像』の中でよき理解者であり、パトロンであったガートルード・スタイン女史は「スペインの悲しさ、スペイン的色彩の単調さは、ピカソがパリで生活したあとだったので、彼が故国に帰ったとき、彼を強く打ったのでしょう。と言うのも、スペインは他の南方の国と違って、色彩が少ないんです。スペインの色はすべて、白、黒、銀、金であって、赤も緑も全くないのだということを、忘れてはいけません。この意味でスペインは、オリエンタル(東方的)な国なのです。ですから、女たちは色ものよりも黒を多く着るし、大地は乾いて金色をしています。ですから、空は青というより、黒みがかった蒼なんです。星の輝く夜も黒か濃紺色で、空気が軽やかなため、人も物も、すべてが漆黒に見えるのです…」(50P)。

スペイン大好きの女朋友はそういえばいつも黒を身につけている。この話と関係ないと思うが…。

水について初めて知ったことがある。「水には恵まれた日本だが、仏壇などに供える水を『閼伽(あか)』という。サンスクリット語(梵語)では『功徳』を希求するものらしいのだが、『アカ』という響きは、スペイン語で『水』を意味する、アグアaguaを想わせる」(130P)。

これを知ってアサちゃんに水を供えていなかったけど今日から供えることにした。

旅について「『旅をすれば、それだけ人間は賢くなる』と言ったのは、『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスだが、喜びも悲しみをも伴うのが、旅というものであろう」(129P)と述べている。そこには著者の7歳下の弟と共にスペインを旅しようとしたが、その前に弟は亡くなってしまった。その弟を偲んで書いている。

「観光旅行」について「『観光旅行』の『光』は、『文明』であり、『文化』なのだ。『ここに陸尽き、海はじまる」というその海の彼方には、別の『文明』、別の『文化』が待っているのだ」(190P)と。

全く観光旅行の意味がそういうこととは知らなかった。これからはそういう意味を知ってその国の「文明」「文化」を理解したいものだと思う。

ここの取り上げたところはそれほどのいやらしさはないかもしれない。ところが本全体には綺麗なイメージはまったくみえない。よくもこれほどいやらしく本が書けるものだと思いながら最後まで読んでしまったが…。親の顔が見てみたいではないが著者の顔が見てみたい。いや見たくもない。きっと変なおっさんだろう…。

嫌な気分を忘れるかのように近くの人がTELしてきた。「東の空に虹がかかっているよ~」と。何年ぶりかで見た虹だった。綺麗な虹だった。

2011年6月28日火曜日

初盆の予定

昨日と今日2日続けてアサちゃんの初盆はどうするのかという問い合わせが入る。昨日は大阪豊中市に住んでいるアサちゃんの3女から、今日は東京に住んでいるアサちゃんの孫からである。

アサちゃんの孫4人のうち1人だけ広島に住んでおり、残りの3人は東京に住んでいる。当然アサちゃんのひ孫もその大半は東京に住んでいる。

そのため頻繁に会うのは広島に住むアサちゃんの長女夫妻とその子供、孫である。

今夏のお盆はアサちゃんの初盆である。先日寺からTELがあり、家に参ってもらうことにした。だがその詳しい日程は近づかないとわからない。

それぞれ皆、夏の予定がある。初盆だからといってとりたてて大げさな行事をするわけではない。だが気になるのだろう。

1年前まですべて何事もアサちゃんに相談して決めていた。アサちゃんのひ孫の誕生のときの祝いまでアサちゃんは気にかけていた。今その当番が回ってきても何をしていいのかさっぱりわからない。のんきなものである。

アサちゃんの3女はアサちゃんの生まれ変わりのよう3人目の孫が誕生している。そのため忙しくなかなか広島にも帰れない。気持ちが落ち着かないからどうすればいいかというのが昨日のTELだった。アサちゃんの長女とも連絡しあったらしい。

無理して8月に帰らなくても9月のお彼岸にかえればいいと告げると安心していた。

今日メールで連絡してきたのはアサちゃんの孫である。折り返しTELすると夏の旅行の計画があるらしく、寺の詳細がわかり次第連絡すると告げる。一番アサちゃんがかわいがっていた孫である。気にしてくれたのだろう。ありがたい。

一番しっかりしないといけないモノが一番のんきにしている!

ほとんど最期まで介護したという自負はある。遣り残したと思うこともあるが最期はもう我が手ではどうすることもできなかった…。それに毎日アサちゃんを供養しているという気持ちもある。ただ暑さにも負けずいつも飛び回って遊んでばかりいることも多い。

そのことをアサちゃんの3女はアサちゃんの長女から聞いたのだろう。元気そうなので安心したという。メソメソしてるとでも思ったのだろうか…。

今日もフルートのレッスンを受けてきた。行く前に、近くに住む人が冷麺を食べようとTELしてくる。お昼にその人の家に行って出前の冷麺をとって2人で食べる。食べ終わっても話しているとすぐにレッスンの時間が近づく。友人宅を早めに出て街中に向かう。来月からのフルートとシャンソンのレッスン料3か月分前納するともうレッスンの始まる時間ぎりぎりになる。

こうして今日も一日あわただしく過ぎていく。そのうち初盆もすぐにやって来る…。

2011年6月27日月曜日

広島人

先日女朋友と会った際「広島学」(岩中祥史、新潮文庫)という本を読んだといっていた。街中に出た際、大型書店に立ち寄るとその本は山積みされていた。今広島で売れてるらしい。

今朝の地元紙にこの本の著者のインタビュー記事が掲載されている。著者は編集企画会社の社長とか。大見出しには広島人は「故郷愛強くラテン系」、小見出しには「県民性紹介した『広島学』全国で話題」、「カープが生活の一部」とある。どの見出しもまちがっていないと思うけど「ラテン系」云々ははじめて知った。

アサちゃんの両親は山口と島根で、アサちゃんの夫は福山だから純粋には広島人ではないかもしれない。だが、アサちゃんを含めみな長く広島に住んでいるからやはり「広島人」だろう。

この本はまだ読んでいないからとやかく言えないけど、先日の女朋友は「広島交響楽団」のことは書いてないといっていた。

市場開拓をする際よく聞かれることはまず広島から発売し、それで好評だったら全国へ展開するという話がある。新しいものが好きなのだろう。

新しい物好きは移民にもあらわれている。新境地を求めて出かけたのだろう。著者は「移民が多いのも、物おじせずに海外に打って出て…」と述べる。確かに広島や山口県はハワイなどへの移民が他県に比べてダントツに多いと習ったことがある。

さらに著者は「日本では珍しいラテン系の気質」と語る。それは「明日は無条件で今日よりいい」と信じる楽天家だとか。

さらにまた面白いと思ったところは「他都市のように多くのレジャーの一つが野球なのではなく、カープが生活の一部だからでは。おばちゃんたちがこれほど熱を込めて応援する光景は他の球場では見られない」と指摘するところである。確かにカープに関しては著者が言うように全くそうかもしれない。

我が家でもアサちゃんが元気な頃はTVでカープを応援したし、旧広島市民球場にも出かけたことがある。最近はそれどころの生活ではなかったので、新球場に行ってないけど…。

それでもJRに乗っていても見える新球場は試合のある日は結構観客も入っている。又場所的にも広島駅から歩いていけるし、他県からも新幹線で行きやすくなったのでは…と先日会った知人も話していた。

以前旅行で米子の人と知り合った。その人は大の野球好きで横浜のファンである。横浜の試合があるときはせっせと広島、阪神、横浜へ行くという。広島に来るときはその知人と市内で会う。車かバスで姉妹で広島まで来るそうだが一緒に試合を見たことはない。応援するチームが違ってはまずいことになってしまう。

広島人はカープ好きといっても熱しやすく覚めやすいところもある。だからカープが負けたときは大変だ。機嫌悪くなって家庭内でもめる話を聞いたこともあるし…。

著者が最後に面白いことを言っている。「広島市は本当に平地が少なく、すぐに山が迫る。だからエネルギーがたまると狭い街を出て行くのではないか」と。それで「エネルギーを放出するきっかけさえつくれば、広島はもっとおもしろくなるはず…」と。

山が迫る…話は都会からの転勤族が新聞投書欄に書いていたことがあった。広島駅に降りるとすぐに山が迫っていると。全くそのとおり。新幹線口には二葉山が迎えてくれる。田舎を思わせると…。広島人に言わせるとそれが又いいのに…。

血液型のように県民性も簡単に一くぐりにできないと思うけど、遊びで面白おかしくいうのはいいことだと思ってみたりする。

このなかで一番気に入ったところは「明日は無条件で今日よりいい」と信じる楽天家というところ。

楽天家かどうかはよくわからないが、明日は今日よりいいことがあるといつも思うからそうかもしれない。他県で生活したことがない。やっぱり「広島人じゃ~」。

2011年6月26日日曜日

工房にて

今日は東広島の陶芸家の工房を訪ねた。久しぶりの訪問である。

最寄の駅からはその人の車に乗って工房に行く。工房に入ると大きな犬がお出ましだ。聞くところによると、昨年秋、市に預けられていた犬を引き取って飼っているという。

大型犬にしてはおとなしく、犬というよりも羊のような気がするほどやさしそうだった。自宅2階には猫も飼っているという。犬の名は又三郎、猫は次郎とか。次郎の前にいた猫は亡くなったという。その猫の遺影も飾られていた。かわいがっていたことをうかがわせる写真だ。

立花隆の話になった。今回のシンポジウムは入場者300名。その数は宝くじに当たるほどの倍率だとその人は言う。応募者が多いということらしい。集英社の主催だけどとりあえず多くても応募するしかない。

10数年前2人とも立花隆の話を聞くためにわざわざ下関まで行った。講演会は時間を大幅にオーバーし4時間にも及んだ。今回はどんな状況になるのだろう。

12時過ぎに会い、5,6時間もその人宅で話した。その人とは年齢が1才しか違わない。だが、育った環境はかなり差がある。我が家はサラリーマン家庭。その人はお父さんが市内のバス会社の社長。かなりのお嬢さん。しかし話しぶりは決してそのあたりをひけらかさない。そこが又すばらしい!

だから話をしていても退屈さがなく、延々と話しは続き哲学めいた話になっていく。「哲学者だ!」と思わせる場面も多々…。

話している途中、友人らしき人が4人尋ねてきた。工房の玄関横の展示室で土、日曜日に作品を即売しているとか。お客はお客なのだがどうも知り合いらしい人たちに見受けられる。話を聞いているとその中の人のお姉さんが陶芸家と友達だとか。

若い頃知り合ったらしく、そのお姉さんという人はバルセロナに渡る前、市内でギャラリーを経営していた。そのときその人の陶芸の作品も展示していたという。

その姉さんは40年位も前からスペインのバルセロナで日本人の旦那さんと日本料理店を6件くらい出しているという。その店は成功し皇太子も2度ほど訪れたといっていた。陶芸家の人も40日間その人を訪ねて遊んできたこともあったらしい。

当然その人の陶芸作品もバルセロナの日本料理店で使用され、更なる注文も続いていると聞く。

その人のパソコンでその料理店のHPを見せてもらうと沢山出てきた。家に帰って『地球の歩き方』を見るとやはり掲載されている。

今日工房にやってきたその妹である人の娘の話になった。その娘さんは地元NHKの夕方の情報番組「お好みワイド広島」のキャスター兼レポーターを務めている。毎日夕飯時に見るTV番組だ。話していてその親子にとても親近感が沸いてきた。そのレポーターはこの1週間くらい前に結婚指輪をしていたというと、3月頃結婚したとか。

それ以外にもあれこれ見た番組をいうと親よりもよく見ていると驚く。

さらにそのリポーターとは社会人大学生として学んだ時期が重なっている。これにもびっくり!

その大学の新入生はおおよそ毎年3,4千人位である。そのうち社会人大学生は我々の年で7人だった。そのうちの2人をレポーターの母は知っていた。7人のうちの1人はここにいるのだが…。驚かれていた。

世間は本当に広いようで狭い!そう思った一日だった。

その人たちと陶芸家の家の庭を散策する。裏庭は広く借景としての裏山もある。そのため余計広く感じる。アジサイは庭のあちこちに咲き乱れ本当に綺麗!庭には2階の屋根よりも高い樹木が青々と茂っている。

我が家の庭とは比べようもないほどすばらしい!それもそのはず陶芸家のその人が25年がかりで庭を手入れし管理しているとか。帰りには咲いている花を花束にしてもらって帰った。

立花隆のシンポジウムで会おうといってわかれた。その人の言うように応募者は多いのだろうか。その人は駅まで送ってくれた後、応募葉書を投函するといってたが…。

2011年6月25日土曜日

あつ~い講義

昨日と今日は本当に暑い!昨夜は窓をあけ扇風機をかけても暑くて眠れず、エアコンの出番となった。

7年間もアサちゃんに合わせた生活をしていたためかこの暑さは我慢できない。まだ6月というのにこれから先どうなるんだろう。

天気予報は曇りのマークなのに全く当てにならず、今朝も朝からかんかん照りの暑さだ。その暑さの中、地元紙を読んでいると「シンポジウムのご案内」で立花隆の講演会の記事が目に入った。

立花隆…と思うとすぐに友人に知らせるTELをした。

友人とは10数年前に下関で開催されたシベリアで抑留された画家の香月泰男の講演会で知り合った人である。共に広島から下関までわざわざ講演を聞きに行っている。帰りの新幹線で同じ講演会の封筒を持っていたので話が弾み知り合った。

その人は広島市よりも東に位置する東広島市に住んでいる陶芸家である。毎年正月すぎには、市内のそごうデパート画廊で個展を開く。ここ数年は忙しくて出かけられず会っていない。

今朝の久しぶりのTELで「シンポジウム」の応募方法を知らせると「会おう!」ということになり明日彼女の〇〇工房で会うことにした。これまでも2度ほどその工房に遊びに行っている。

下関に出かけた当時の立花隆は飛ぶ鳥を落とす勢いがあった。ところが最近の立花は週刊誌のネタになっている。何事もいいことばかりは続かないということか。

ともあれ葉書かネットで応募できるのでネットで応募した。

それを終えると広島修道大学に出かけた。先日から受講しているチベットの最終講義である。今日は「チベット仏教が日本人に教えること」というテーマだ。

まだまだ若い先生は最初に見たときからチベット人を思わせる風貌である。やはり今日もそうであった。とにかく熱心に話される。

今日のテーマに沿えばダライ・ラマの偉大さは仏教のなかでも日本に入っていない学派の思想を伝えたことに意義があるという。

先生もそれを知りたいと思ってチベット仏教を学んでいるという。

特にインドのサンスクリット語のテキストは消滅し、今でも残存している『欽定和訳』を通してサンスクリット語を通してチベット語訳を学ぶ必要があるという。

ところが英語でもシェイクスピアを学ばずして英語検定のみ重視する傾向を訝しがる。これと同じようにチベット語もチベット仏教を学ばずしてチベット語を学ぶのは…とまた訝しがる。

卒業された稲のつく東京の大学のチベットに関する先生でさえもチベット語を話さないと嘆いておられた。

チベット語が廃れてはいけないと思い先生は辞書編纂プロジェクトに参加して学んでいるという。先達として多田等閑、現在のプロジェクトのチベット語の先生は中沢新一だという。

チベットにあこがれた昔、多田等閑や大谷探検隊の本をよく読んだ。また中沢新一は社会人大学生の頃、学内の講演で来広され話を聞いたことがある。この人の話は本当に面白かった。特に当時網野善彦の著作のゼミを受けていたので興味もあった。中沢の叔父が網野だとか。

今日の先生は先生自身もチベット仏教を信じる人のように見られるが、実際はそうではなくチベット語を継承していきたいという気持ちだけだという。それは先生の言葉から如実にあらわれていると思った。

そして大学まで来てチベット講座に参加した我々を「理想主義者」か「変わり者」だという。ここで皆どっと笑いが出て場が一段と盛り上がった。それもそのはず今日の講座受講生は20人のうち8名に減っていたのだから変人かもしれない。

これは紛れもなく的を射た先生の発言だ。我自身本当にそう思う。

ダライ・ラマは今秋10月29日から4日間、高野山にくるという。「是非とも会いに行ってください」と懇願される。そして広島の龍蔵院へもぜひとも来るようにと。龍蔵院は日本で唯一のチベット仏教のお寺だとか。もとは高野山の寺だったがそれを借り受けて3人のチベット僧が守っているという。

明日は龍蔵院でチベット僧の話があるという。何人かは行くようだった。明日は陶芸家の友人に会うので残念ながら参加できない。先生はチベットを知ろうと思ったらまず話から…と。話し合うとは何事もそうだけど…。

チベットへは20年位前に旅行した。ラサに到着した日から2日間、全くどうすることもできなくなった。枕のような酸素ボンベを吸っていた。チベットの医院へも連れて行かれた。そのときはただ「注射はするな!」とだけ心に決めていた。針からの感染が非常に怖かった。それもなく枕みたいなボンベのホースを口にくわえて高山病に耐えた。3日目のツエダンからは高山病に慣れツアーに舞い戻った。

そのとき買って帰ったマニ石は今も大事にしまっている。ここまでチベットについて書いているとまた辺境の国に行きたくなる。もうこれはまぎれもなく先生のいわれるとおり「変わり者」に間違いない!?それとも理想主義者か。まあ何でもいいけれど、楽しければ…。

2011年6月24日金曜日

広響定演

この2,3日どんよりした空模様である。ところが今朝は梅雨空を忘れるかのように日が燦燦と照り付けている。

昨日の最高気温は広島で30度を越え、米子ではなんと35度とか。暑いはずである。暑いだけなら何とか凌げるが、湿度も高い。今午前10時。部屋の電波時計の温度は28.4度、湿度70%を表示。

アサちゃんがいたときは電波時計の「快適」に合わせた生活をしていた。そのためこの時期になるとエアコンは24時間作動。国が節電とかいっても体の不自由なモノを抱えているとそれは全く通用しない。

だがそれも今年はその必要もなくなった。とはいっても元気なものでも暑さには耐えられないものがある。一昨日も昨晩も窓を開け、朝まで扇風機をつけて寝る。そのうちエアコンになるのだが…。

そんな蒸し暑い中、昨日は「広響」の定演を聴きに出かけた。昨夜のプログラムは「~愛しきボヘミヤ~The world of ドヴォルザーク」と題され、

ロマンスヘ短調Op.11
マズルカホ短調Op.49
チェコ組曲二長調Op.39
交響曲第9番ホ短調Op.95「新世界」から

の4曲が演奏された。

指揮者は常任指揮者の秋山和慶に代わってエヴァルド・ダネルが指揮でヴァイオリンも演奏した。

ダネルは今回の演奏にあわせてメッセージを送っている。「人との絆を大切に、近しい人のために生きましょう。笑顔を絶やさず、私たちの人生が美しく『普通』でありますように…ちょうどドヴォルザークの音楽のように」とパンフレットに記す。

これをみるとドヴォルザークは謙虚で「普通」の生活を好んでいた人のようだ。

昨夜の演奏には日本を襲った今回の大災害にも負けず笑顔で生活するようにとの願いが込められている。演奏曲目自体もなじみがあり、すばらしい演奏であった!

途中の休憩時間に館内アナウンスが流れた。演奏修了後、広響団員との無料の交流会をすると。交流会には参加しなかったが、それにはアサヒビールが協賛し、ビールもでるという。

先日の「ワインの夕べ」はサッポロビール協賛で今回はアサヒビール。広島はキリンビールでは…と思いながら会場をあとにした。といっても「ワインの夕べ」に出たビールはキリンだったけど。

広島といえば地方にしてはめずらしく3つのプロ集団を抱えている。野球はカープ、サッカーはサンフレッチェ、オケは広響と。さらに企業としては車がマツダ、ビールはキリン。

車に関してはあまり関心がないのでマツダはどうでもいい。だが、それ以外はやっぱり広島人。どれも応援している。しいていえばビールのキリンも近年工場を広島から撤退したからだんだん薄れてくるかもしれないが…。そこを他のビールメーカーがシェア争いするのだろう。

ボヘミヤを電子辞書で調べると「チェコの中心部」とある。「ボヘミヤの住民」が「ボヘミアン」で「ジプシー」に通じるという。このジプシーという言葉の響きがいい。チェコには行ったことがない。いつか哀愁が漂うボヘミヤへ行こう!そしてジプシーの奏でる音楽を聴こう!

2011年6月23日木曜日

中国行き!?

昨日は中国語を学んでいた女朋友とランチを共にした。

正午にホテル・グランヴィア広島のロビーで会う。そのホテルの対面は今春オープンしたシェラトンホテル。オープン時のシェラトンでランチを共にしたのも昨日の人。

シェラトンは和洋食はあるが中華がない。グランヴィアはその点なんでも揃っている。

グランヴィアの中華は「東天紅」が入っていた。ところが「東天紅」は昨年撤退し、ホテル直営の「煌蘭苑」になっている。

朋友と会った瞬間の会話は「もう上海蟹が食べられん!?」。

「東天紅」は10年前までよく利用し、店長とも顔なじみとなっていた。紹興酒の差し入れなども受けていた。それも時代の移り変わりか、なくなってしまって残念!

新たな店は「東天紅」に負けず雰囲気がとても良い。なんといっても朋友とは中国語を通しての仲間。中華が一番似合っている。お互い「Xiao Chi」(シィアオ チー)、「Yu Tian」(ユィー ティエン)と中国語読みで呼び合う。中国語の呼び方は中国語を習ったものは誰でもそうだけど…。

その人は大学で図書関係の仕事をしている。本に関しては専門だ。

昨日は長谷部誠の『心の整理。』がいいと教えてくれた。早速家で検索すると図書館の予約待ちはなんと416人もいる。市内の図書館のその本の蔵書を見ると10冊以上もある。それが今まさにフル回転して読まれているようだ。帰宅後朋友にその旨報告するとあまりの多さにびっくりする。

さらに話はブログに移った。以前のブログは終わりを告げ、新たなブログをしていると知らせていない。

その話の中で先に書いた舛井一仁氏の言葉を話すと覚えているという。内容までは覚えていないけどずいぶん前に話したことを覚えてくれていた。その人にもその言葉を話していたとは…。

30年以上も前からだと思う。気に入った言葉や文があれば当時はノートに書き写していた。それが次第にコピーにとって変わり、最近はブログで保存している。

朋友もこれまで読んだ本をノートに書きとめるなどしておけばよかった…ともいっていた。そうしないと忘れてしまうと。

いつか今まで気に入った文章などの保存しているものを自分用のメモとしてまとめたいと思っている。さてさてそれは…。

話は当然海外旅行にも及んだ。

中国語を習って海外に目覚め、異文化に目覚めた。

朋友は大学卒業後すぐに「青年の翼」で中国に出かけている。その頃は日中国交回復後まもなくであり、旅行そのものも中国側から相当な厚遇を受けたと聞く。若い頃に出かけた中国でモノの見方も変わったとも言っていた。

その人に遅れて数年後の1986年、初めて中国に行った。中国語を習い始めて4年後である。25年前の中国でもかなり丁寧に扱われたことを覚えている。我々日本人の周りには珍しさからか観光地では中国人の人垣ができるほどだった。なれない中国語も旅行中駆使した。中国に足を入れた初日の上海の夜、一緒に行った友人と街に出ようとして乗ったタクシーの怖かったこと。タクシーがエンストしたのである。必死で知っている中国語を使ってどうにか宿に帰ることができた。

あれからかなりの年月が経ち、中国も大きく変化している。

次に行こうとする四川省成都は2度ほど行ったことがある。だが九寨溝には行っていない。その高度は富士山くらいもある。心配なことは高山病。朋友と以前行ったブータンでも高山病に悩まされた。チベット、ペルーでは完全に1,2日はダウンしている。その辛さを思い出す。

ともあれ九寨溝は中国が力を入れてる観光地なのかパンフにも大きく載っている。

朋友の休みにあわせ、また楽しい旅をしよう!

2011年6月22日水曜日

音楽

昨日はフルートのレッスン日。せっかく街中に行くのだからと何年ぶりかで市の中央図書館に寄る。ところが休館の知らせが…。外の人も続いて入ろうとしていたが…。仕方なく近くにあるデパートをうろついてレッスン会場にいく。

先ほど月曜日でないのになぜ休みなのかネットで調べると年に一度ある整理月間の週にあたっていた。

フルートのレッスン前に先生からフルート五重奏の話を聞く。この五重奏はしばらくフルートを休憩していたときから始まっている。市内の文化センターなどのフルートの講師5人による軽食つきのコンサートだ。今回初めてそのコンサートに出かける。チケットは昨日先生から購入した。

4月から広島交響楽団を聞く個人会員になっている。明日はその定期演奏会の日。

フルートレッスン曲は先日決めたドボルジャークのスラブ舞曲。明日の広響の演奏曲目はすべてドボルジャークの曲だがあいにく第2集第2番は演奏されない。少々残念だけど…。

先の話になるが毎年秋に行われるフルートの発表会の日程も決まったと先生から聞く。近年はフルートどころではない生活を余儀なくされていた。当然参加はしていない。そろそろ発表会の曲も…と先生から言われる。これからレッスンするスラブ舞曲を…と思ったりしている。

いろいろ書くうちに思ったことがある。生活に音楽は切り離せないと…。休みながらも長くフルートを続けられたのもすべては先生を始めとするまわりの人たちに恵まれていた…。

そう思うと遊ぶばかりでなくせっせと練習しなくては…と思う。が、やはり何事もその後の楽しみがあるからこそ続けられるとも思うし…。

2011年6月21日火曜日

知らせる!

昨夜、中国四川省に行く予定をしていた女朋友にスペイン行きを知らせるTELをした。朋友は若い頃、スペインに行きとても楽しかった思い出があるという。

その人とは中国語を通して知りあった。海外にも一緒に出かけたことがある。イタリア、ブータン、中国など…。どの旅行もよく食べ、よく飲んで楽しかった!四川省行きも楽しみにしていた…。

スペイン行きを告げると快く応じてくれた。またいつの日か成都に一緒に行く話をして…。

大学に勤める朋友は住む家も離れており、親の介護もあってこれまで年に1度くらいしか会えなかった。ところが我が状況がフリーとなった今、朋友は明日休みを取って市内に出てくるという。

久しぶりその人とランチをする。今でもさまざまな国を旅する人だ。まだ行ってない国の話も聞ける。明日は本当に楽しみだ!

2011年6月20日月曜日

決断!

昨日はあわただしい一日だった。午前中は雨も上がった曇り空の下、自転車に乗って買い物に行く。午後は近くに住む人が我が家にやって来て2人で話す。

話していると2度ほど続けてTELがなる。近くに住む人と先日我が家にやって来た人である。

友人が帰った後の夕方、2人にTELするとブログを見たとの話だった。どちらも「ワインの夕べ」に関心があるように思えた。

文を書くとき「読み手がわかるように書け」とよく言われることがある。気ままに書いているブログだが、果たして読む側のことは…。

ともあれ何の取り柄もないブログに関心を持ってもらえることは嬉しい!

2人にTELをかけ終えるとすぐに時間もふけていく。

寝ようとするとまたTELがかかってきた。先日「ワインの夕べ」に一緒に行ったフルートの知人からである。

その知人はフルート以外にもドイツ語と合唱をやっている。昨日は合唱の練習日であったらしい。知人と合唱団の先生との間で私の話が出たという。「スペインに行こう!」と何度も言われる。そのたび「それほど若くもない異端児が入って皆に迷惑ではない?」と念を押す。知人は「かまわない」の一点張り。

海外旅行は丸9年のブランクがある。9年前までは燃油サーチャージとかのキーワードは聞いたこともなかった。世の中の変化に必死についていこうとするものにとって9年は長い。

来月には広島と四川省の直行便が就航する。女朋友と成都の中国の友人に会いに九賽溝に行く話も出ている。その前に一人で足慣らしとして近場に行くことも考えた矢先だった。

ところが昨夜突如として、それを投げ打ってスペインが近づいた。

これまでの海外旅行は友人と行くか一人で行くかの半々位の割だった。ところが今回はそのどれにもあてはまらない。

時にヒトはあまりモノ・コトを深く考えず、流れに身を任せるのもいいか・・・と思いスペイン行きを決断した!

これから当分スペインを学ばねば・・・。

2011年6月18日土曜日

古詩「駆車上東門」から

今日はアサちゃんが亡くなって丸4ヶ月になる。朝早く、お寺からTELがかかってきた。月忌参りはどうするかというのである。四十九日法要で月忌参りはお寺でお願いする旨話していた。再度そう伝えたが、お盆はお願いすることにした。

アサちゃんは14年位前、ノートに自分の死後について数条走り書きしている。そこには「月忌参りはするな」の一文が書いてあった。きっとお寺が参られる日はアサちゃんにとって大変だったのだろう。

アサちゃんの夫が亡くなって以後、月忌参りは昨年7月まで続けていた。ところがアサちゃんに手がかかり、それどころではなくなった。考えた挙句、月忌参りはお寺で…とお願いに行った。それから一度も月忌参りはしていない。最近の法要もお寺で済ませた。

それにしてもこのご時勢、マンションなどに住む仏壇のない家はどうするのだろう。特に都会の人は…。

すっきりしない気持ちでいると、アサちゃんの長女夫妻が孫2人を連れて我が家にやってきた。今日はアサちゃんの月命日。5人で車に乗って墓参りに出かけた。

3歳と5歳のアサちゃんのひ孫はやっとアサちゃんがお墓にいるのがわかってきたようだ。通っている幼稚園がお寺の経営であるためか、3歳の男児は仏様の歌を歌っている。歌うたびに墓にぴょこんと頭を下げる。付き添ってきたものがするとおりの恰好で花など活ける。それもまたかわいい!

午後は、今日から始まった県立大学の最初の講座「酒の文化誌」を聞きに行った。会場は大学でなく、市内にある市の交流プラザ。休憩を挟んで1時間ずつの講義である。席はひな壇形式。

2人の先生はともにパワーポイントを駆使して講義する。2年余り前まで大学に通っていた。大学に入った8年前は全部が全部メディアを使用してはいなかった。ところが前期と後期の講義後のアンケートで必ずメディア使用の有無を記入する欄があった。国の進める政策かどうかは知らない。当時はパワーポイントは若い先生が使用する程度だった。年老いた先生はメディアといえばTVのビデオ位であった。それが次第にパワーポイントになっている。

講義を聞きながらふと思った。生涯学習とか公開講座とか言いながら、状況はまるで大人を預かる幼稚園ではないのかと。特に無料の講座はそう思う。もちろんその中に我自身も含まれているのだが…。

きっと若い現役の学生と共に学んだ経験から公開講座が物足りないのかもしれない。

それでも今日1つ収穫があった。家に帰ってもらったレジュメを再度読んで気づいた。

それは「古代中国の酒宴」というタイトルの講義の中の文である。古代中国で酒が楽しまれた場に目をむけた講義である。前漢時代後半期頃から、死後の世界に触れる場所でも、世俗と変わりない酒宴が繰り広げれている。そうした社会現象がどのような経緯で生じたのかを論じた。この死後の世界…は今のようなその時の酒宴とは意を異にするという。

その文は、まさに我が置かれている状況にふさわしい。

古詩「駆車上東門」(『文選』巻29「古詩十九首」其十三)

駆車上東門  車を駆って上東門から街を出て、
遥望郭北墓  はるかに遠く、城郭の北に横たわる陵墓群を眺めやる。
白楊何粛粛  白楊のなんとさびしげに風に吹かれていることだろう。
松柏夾広路  常緑の松柏は大通りを挟んで茂っている。
下有陳死人  その下には久しく死後の世界に住む人々がいて、
沓沓即長暮  ほの暗い茫漠とした空間の中で、ひっそりと眠りに入り、
千載永不寤  千年もの長きに渡って永遠に目覚めないのだ。
浩浩陰陽移  果てしなく時は流れた季節は移ろい、
生命如朝露  その中に浮かぶ命は、日に照らされて消え失せる朝露のようだ。
人生忽如寄  人の生涯は、天地の間に仮住まいするようにはかなく、
寿無金石固  その寿命には金石のような牽牛さはない。
万歳更相送  幾万年もの歳月が、交互に送別を繰り返しながら過ぎてゆき、
聖賢莫能度  聖人賢者でさえ、その長久の時間を渡って生きながらえることはできない。
服食求神仙  薬を服用して神仙への道を求めても、
多為薬所誤  多くの場合は薬のために道を誤ることになってしまう。
不如飲美酒  そんなことをするよりは、美酒を飲み、
被服紈与素  美しい白絹の衣を身につけ、この世の楽しみを存分に味わうほうがずっとよい。

アサちゃんの月命日にこのような古詩に出合った。中国文学の入門程度はかじったことがある。だが、あまり触れたことがない古詩には古より今に当てはまることが記されている。すばらしい!特に後半部分が…。せいぜい今を楽しもう!

2011年6月17日金曜日

『知的余生の方法』

渡部昇一の『知的余生の方法』(新潮社、2010年)を読んだ。

今春生活リズムが大幅に変わった。余った時間、本を読もうと思って図書館の新刊蔵書検索中に、目に付いたのが本書である。

著者の渡部氏は相当前に似たような『知的生活の方法』という本を著している。そのときは買って読んだ。渡部は定年後も20年以上あると思える「余生」をどう生きるかが問題だとしている(8P)。

その問題も「楽しむ境地の人は、定年退職しようがずっと楽しみ続けていける。だから問題はない」としながらも、「大多数の、好きでやっているだけの人は、定年になった途端に、何もやる気が起きなくなってしまいやすい」(44P)という。

それには「定年退職をチャンスだと考え、その抑えてきたものを復活させてやればいい。やりたいことを、思う存分やればいい。楽しくて仕方がないことならば、犯罪行為でなけれ何でもかまわない。楽しければ、知的な興味もどんどん沸いてくる。それこそが『知的余生』なのである」(45P)と述べる。

リストラ組みなので定年退職は我が人生に当てはまらない。だが、リストラ当時は相当ショックだった。けれども、それをチャンスと捉えてさらに働くことは断念し、すぐに大学に入り直した。

その意味では渡部氏のいう「知的余生」とは違う少し早い「余生」である。

氏は定年退職後のボランティアについて「壮年の時代に社会人および家庭人としての義務を果たした老人にふさわしい活動だと思う」(50P)という。そのボランティアについて「いつでもやめることができることである。自由がある。親の面倒や子供の面倒は義務である。義務より自由がよい。義務から逃れるというやましさをなくしてくれるのがボランティア活動である」(49P)といいきる。

そして親をみることについて”Charity begins at home”を引用して「人がもしその親族、特に自分の家族を顧みることをしないならば、その人は信仰を棄てたものであって、不信者よりもっと悪いのである」(47P)といっている。それは「完全義務」であると。

それに対して哲学者カントの言葉を借りて「やらなくても非難されたり処罰されたりしないが、やればほめられるような行為」をボランティアと考え「不完全義務」とした(50P)。

それを全うした人がするのにふさわしいのがボランティア活動だという。

氏がいうように親を最期まで介護したモノでもボランティア活動は簡単な活動ではない。それよりも今はまだまだ遣り残したことのほうが多い。定年後に何もやる気が起きないどころか、である。

渡部氏は長生きについて「恥など多くてもかまわないから、九五歳以上は生きたいと思っている」(55P)と希望している。

95歳まで知的生活を送るためには何といっても「フィジカル・ベーシス」(肉体的基盤)が必要だという(56P)。それには白川静の「脳健康法」というやり方を参考にすると、年齢に関係なく学び続けることができるらしい。それには「毎日規則正しく」ということがその健康法としてあげられるという(58P)。

95歳まで生きたアサちゃんを例にとってもそれは当てはまる。本当に規則正しい生活だった。

さらに「神様や仏様といった宗教的なことに興味をもつと、人は飽きることなくやり続けることができる」、「これにより知的生活を形成していく」という(60P)。

これについては今のところ・・・という感じ。あまり信心深くない。もう少し年齢を重ねればそういう心境になるのかもしれない。

長寿の心得として岸信介の「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」をすすめる(81P)。岸が提唱したとはこれまで知らなかったが、我が家でも大きく書いて貼っていた。年をとっての骨折は転んだことが原因となる。アサちゃんもそうであった。

時間についてはカレルの『人間-この未知なるもの』から引用している。カレルによると時間には物理的な時間と「内なる時間」があるという。「内なる時間」は「年とともに時間の質が変わってくる。そしてシニアはこの質の変化にとまどう。あまりの速さについて行けず、結局は無為に時間を過ごしてしまうことにもなりかねない」と「内なる時間」の捉え方を問題にする(103~105P)。

他にも「読書」、「友」をあげている。年を取ってからの「ダメな友」として第一にベースになる思想・信条が違う人。第二に支払い能力の違う人。第三に教養の差が大きい人をあげている(182~184P)。

最後に「余生に見る夢」として「若さは必要条件ではない」とする(218P)。当然といえば当然だ。これからもじっとせず夢を追い続けて動き回ろう!

2011年6月15日水曜日

ワインの夕べ

昨夜はフルートの先生たちのアンサンブルが出演する「オーストラリアワインと音楽を楽しむ夕べ」に参加した。一緒に行った人はフルートの知人男性とその人の知り合いの男性の3人である。知人の知り合いの男性はドイツ語の仲間でフルマラソンにも出場しているという。皆何かを頑張っている。

会場は市内の中心部にある県の施設。来場者はワインとあって男性が多かったが、夫婦連れや我々のようなものもいた。総勢100名くらいと思われる。

受付を済ませた後、ロビーを見渡すとサラリーマンの姿が目に付く。どの人もネクタイ姿はいない。ここにもクールビズが行き届いていると感じた。

平年だったらこの界隈は官庁やオフイス街のためネクタイをした背広姿であふれているはずなのに…。

音楽が流れる中、テーブルに着く。知人は「披露宴のよう…」という。確かにそんな感じがする。名前が書かれたテーブルに座った。我々のテーブルは我々3人と夫婦連れが2組の計7人。

オーストラリアワインの夕べだけあって、まず業者のワインの話で始まる。業者はサッポロビールとか。

ワインの説明が終わるともちろんワインで乾杯。次々と料理も運ばれる。もちろんワインも。ワインは6種類。ワイングラスも各自4ヶずつテーブルにある。

ワイン以外にもビールもOK。ところがビールの銘柄はキリン。それを見て皆で大笑い!

気分はもう海外旅行に行ったときのあの解放感といった感じでほんとうに楽しい。我々以外の2組の夫婦は子供さんがいないとかで海外旅行の話をされていた。

我々の3人もオーストラリアから始まって他の国に話が及ぶ。フルートの知人はこの夏2週間スペイン北部に合唱の仲間と総勢30名位で旅行するという。一緒に行こうといわれたけど…。ポルトガルなどのスペインを囲んだ国は行ったことがあるがなぜかスペインは行ったことがない。

フルートの知人の知人は家で飲むワインは以前行ったことのあるハンガリーのワインとか。その人は会った瞬間水泳をしているともいった。

昨日まで我が本来の姿に戻るには水泳と海外旅行が加われば…と思った矢先だった。それが昨夜の話の中でそれが一気に浮上してきた。その時間も近づいてきた…。

オーストラリアは行ったことがない。行くチャンスはあった。10年余前、社内旅行がオーストラリアだった。ところが会社内がギクシャクしてたので気持ちが乗らず参加しなかった。

しばらくするとアンサンブルの演奏が始まった。もうその頃には皆出来上がっており演奏を聴いてはいないようだった。それでも興に乗じて口に手を入れてピーーピーと音を鳴らす人がいる。知人に「やってみて…」というと「できるよ」というのだがアルコールが入っているのでいい音がでない。演奏とは合わないところで音がでる。それがまたとても可笑しい!

場も一段と盛り上がると係りの人は各テーブルの人たちとの記念撮影をした。帰りにはその写真も出来上がりもらって帰った。

また係りの人は我々のところに何度か来て今日の様子を聞く。「楽しいです!」と答える。そういえば係りの人は皆正装だった。

宴も終わりになる頃アンケート用紙が配られた。知人と次回も先生のアンサンブルを指名し、ワインはハンガリーワインと記入した。

アンサンブルの演奏は最後の曲に差し掛かっている。参加者全員で「ふるさと」を3番まで歌う。この曲はアサちゃんを思い出させる。だが昨夜は会場がざわついてそのかけらもない。

楽しい宴は終わった。次回も皆で会う約束をして会場を去った…。

先ほど先生にお礼のメールをすると騒がしかったのでびっくりしたとの言葉が返ってきた。やっぱりそうだった…。

2011年6月14日火曜日

梅雨の晴れ間

昨日は梅雨の晴れ間を利用して2階の部屋を片付けた。といってもそれは2階の部屋の小さい押入れにあるものを少し片付けた程度である。

その中に小さな袋にいれた書類を見つける。その中には10数年前に出版社に投稿し、掲載された本などを入れていた。

紙類とあって少々湿気たにおいがする。それをひろげてしばらく干した。夕方その本を取り出し、しばし眺める。

国立民族学博物館の友の会機関誌『みんぱく』、全日空の『翼の王国』、フルートの機関誌、PHP研究所の『ほんとうの時代』、長く通っていた「ひろしまアジア塾」で書いたレポートなどである。

中でも2002年の『ほんとうの時代』は相当刺激を受けた跡がうかがえる。

2002年といえばその年の7月に長く勤めた会社をリストラされている。その本の中をめくると土屋賢二氏の「『学び』こそ中高年にもってこいの遊び」が掲載されていた。

その年、再度「大学に行こう」と思い始めていた。それから6年間も大学で学んだことを思うと少しはその人の影響があるかもしれない。

今その頁を読んでもやはり当時の気持ちと変わらない。『ほんとうの時代』は買っては読まず、すべて図書館で借りていた。手元にある本は我が投稿が掲載され、出版社から送られて来たモノである。

いずれにせよ年齢を重ねてからの大学生生活は大変だった。とにかく時間に追われた生活をしていた。2年目になるとアサちゃんの介護も加わったりして…。

そのすべては過去のコトになった。

今我が置かれた状況はその当時とは雲泥の差である。修了した大学のポリシーである「学問は、最高の遊びである。」をこれからも我がモットーにして時間を費やしたい。

そう思いながらポストをみると葉書が入っていた。今月末から始まる県立大学の「マルチメディアの世界から英語を楽しむ」の講座の受講通知である。

夜の講座は避けていた。だがそうもいっておれない。飲みながら、食べながら、聴きながら、学びながら…も楽しくなりそう…。

あとスイミングと海外旅行が加わったら我が本来の姿になるのだけれど…。

2011年6月13日月曜日

ブログに投稿

昨夜寝ようと思っていたら携帯電話がなった。出てみると先日会った岩国の友人からである。「見た!見た!…」と。

先日会った時、その日のことをブログに投稿すると話していた。友人はそのブログを見て早速TELしてくれたという次第。声の調子から喜んでくれたようだった。

アサちゃん亡き後、今のブログはあまり人に知らせていない。人に会って話が出れば教える。教えても大概人のブログを本当に読んでくれる人はあまりいない。ところが友人は読んでくれていた…。

TELで話すまでメール・アドレスはお互い知らせていなかった。昨夜はFAXですぐに知らせるとメールも送られて来た。そこにはコテージに遊びに来るようにとの言葉も添えられていた。ありがたい!

気分良くして眠った。朝、目が覚めると久々の気持ちよいお天気だ。今日も朝から自転車で外に出かける。一休みすればまた自転車で出かける。

雨よりもやっぱり晴れがいい!今週は晴れの日が多いようだが…。

2011年6月12日日曜日

ピアノ発表会

今日はアサちゃんのひ孫2人のピアノ発表会に出かけた。

発表会会場は我が家の近くにある区民文化センター大ホール。アサちゃんの長女夫妻と会場に着くと、まだ開演時間でないためか着飾った小さい子供たちが駆けずり回っている。

ひ孫たちは年長組と小学2年生。弾く順番は年齢順になっている。年齢的には年少組みから中学3年生のようだった。ようだったというのも出演する親にしかプログラムをもらえず、順番に出演するアナウンスで知るしかないからである。

いくら小さくても舞台に立って正面でお客に挨拶し弾き終わるとまた挨拶して退場する。子供のピアノ発表会と思って安易に考えていた。どの子も譜面を持参せず暗譜である。そのあたりはすばらしいと思う。途中で投げ出す子もいなかった。だが、2,3人はいつまでたってもピアノの前に座って弾き始めようとしない。たまりかねて先生が生徒を促す場面もあった。

発表会といえばこの数年を除いて毎年のようにフルート発表会に出ていた。我々のフルートの発表会には大人だけが出場する。フルートはピアノと違ってひとたび誤ると散々な音になる。その点ピアノは鍵盤をたたけば音がでるからうらやましい。

子供たちの出番も終わって最後は先生たちの出演だ。そのあとは全員での集合写真となる。

最後まで見ていた。発表会というのはピアノであれ、フルートであれ、子供であれ、大人であれ全く同じ様式で執り行われていると感じた。

子供たちの場合は鉢植えの花にお土産がついている。このお土産は我々大人にはない。ただそれだけの違いである。さらにもうひとついえば終わった後の打ち上げが子供たちにはない。大人の発表会はそれがまた楽しみだけど…。

いずれにせよ毎日のように降り続く雨で自転車も乗り回せず、久々にゆっくりとした一日となりそうだ。

2011年6月11日土曜日

吉香公園の花菖蒲

昨日は雨の中、岩国の錦帯橋に出かけた。錦帯橋ちかくの吉香公園には花菖蒲が見ごろを迎えている。

今日と明日行われる吉香公園の花菖蒲祭りはJRのパンフで知った。その祭りに参加しようと思ったとき、ふと岩国に友人がいることに気づく。すぐにTELした。その友人と花菖蒲祭りの前日の昨日会った。

広島市内から錦帯橋までは高速バスで50分。友人の教えてくれたバスに乗り込んだ。平日とあって乗客は5人。これで採算が取れるのかと思いつつ窓を眺めていた。映し出す景色は山、山、山。途中、田んぼも目に入る。

錦帯橋に着くと友人が車で迎えに来てくれていた。友人と初めて会ったのは県庁のバイト時代。その人は職員であった。たった4ヶ月しか一緒でない。それなのに今でも親しくさせてもらっている。そう思ったときなぜか涙があふれてきた。

友人の車でご自宅に伺った。錦帯橋から家まではほんの僅かな距離に思える。小雨が降っていたので車で駆けつけたらしい。

友人宅はとても大きな家。なんといってもその部屋数が…。1階だけでも10部屋以上あると思えるほどの広さ。1階のトイレも2箇所あるとか。我が家と比べると雲泥の差だ。

庭といえば和風庭園で気持ちよく行き届いている。庭に面した部屋で話をする。気分はまるで旅館にいるみたい。庭を眺めながら、しばらく2人でゆっくり話をする。ゆき過ぎた年月を感じさせない。

アサちゃん亡き後、堰を切ったように昔の友人に会っている。まるで自分の気持ちを徐々に以前の心理状態に戻すべく訓練しているかのように…。

友人は昼食の用意をしていたようですぐに食事となった。そのうち旦那さんも帰宅された。昼食には旦那さんからビールを戴く。よその家に初めて行って昼間からビール?と思ったけど気がつくと食卓にはもう…。

食事を終えると花菖蒲の出番である。友人宅から錦帯橋は歩いて行ける距離だが車で出かけた。花菖蒲の群生地近くに車を止めると池の周りを散策する。

花菖蒲の植えてある池の散策には雨が似合う。白、黄、薄いピンク、青とさまざまな色で咲いている。とりわけ黄色い花菖蒲は葉っぱまで他の葉の色と違い黄色さを増す。どの色の花菖蒲も本当にきれい。

知人はしきりに「あやめ」を「しょうぶ」という。「なぜ…」と思って電子辞書を引いてみるとどちらも「菖蒲」と書くので同じ意のようだ。

カフェに入りコーヒーを飲みながら再度ゆっくりと話す。そのとき2つの言葉に感動する。1つはパスポートを交付したが海外に行くのはどうかと思うというと「待ってる閑はない…」と話す。人が亡くなって1,2年後に行けば…という人もいるのにそうではない。もう1つは先日人からいわれた私の姿が地味?の話をすると「何でも楽しく習えばいい」と。

お互い決して若いとはいえない年齢に差し掛かった。年齢云々をいうのはあまり好きではない。確かに友人のいうように何でもやろうと思うことをしなければすぐに月日は過ぎていく。自分自身を考えてもそうである。最近10年間は本当に忙しい日々だった。それも過ぎてしまえばあっという間である。

友人は近くを走る錦川鉄道の錦川清流線近くにコテージを持っている。週末にはそこで過ごすという。なんともうらやましい生活である。

コテージには耕作地もあるとかで昼食のご飯は友人夫妻で作った米だという。どうりで美味しいはず。もちろん今でも料理を習っているとかでそれも関係あるかもしれないが…。

楽しい一日だった!機会があればぜひコテージにも伺いたい。と、その前に清流を走る錦川鉄道に乗らなくては…。

2011年6月9日木曜日

馴染む?

今日は3回目のシャンソンのレッスン日。いつもどおりレッスンは発声練習からはじまる。男の先生はとにかくお腹から声を出すようにという。横隔膜あたりに両手をあてて…と。

フルートの先生も同じく息継ぎはお腹から…と。ということはどちらも呼吸の仕方が大事ということだろう。

シャンソンはグループレッスンで時間は90分。先生はその間絶え間なくクラビノーバを弾く。先生の音に合わせて歌うときは何とか歌うことができる。ところがはじめて聴く曲などは自宅で1人楽譜をみて歌うとなんだか変。そこで毎回お世話になるのがユーチューブである。

レッスン時の90分間は声を出し続ける。それは結構な運動になる。その後は決まってビールが待っている。

今日は1人欠席のため3人での飲み会だ。するとなぜか新米の方に話の矛先が向く。聞くところによると、このグループにこれまで馴染んで参加したものはいないとか。

それほどこの人たちと馴染んでいるというつもりもない。だがどんなレッスンもおわればすぐ解散よりも違うジャンルの人と知り合うのも楽しいと思い参加する。するとメンバーとも次第に親しくなっていく。

親しさもますと言いたいことをいい始める。地味すぎるというのだ。そのうちの1人が我が着ている服装についてあれこれという。そのころは2人はビールのジョッキ3杯目を飲み干していた。我が方は1杯目というのに。

服装は柄物でなく無地を着るようにとの忠告だ。いわれてみれば確かに柄物が多い。それが終わると髪についての忠告だ。聞く側としてはただうなずくばかりじゃなく意見もいう。すると今度はそれが今までのメンバーにない人だと褒め上げる。

何でもいえば…と思いながら聞いていると笑いが起きる。我ながらそれがまたおかしい。

家に着くと知人から電話がかかっていた。知人にTELをかけなおすとワインの夕べに一緒に行く人が1人増えたという。そのとき先ほどの飲み会の話をした。「地味すぎるらしい」と。相手はそれを聞いて大笑い。そうは見えないらしい。最後には「楽しく習えばいい!」という。なるほどと妙に感激する。楽しければいいじゃないの、と。

こうやって今日も1日暮れていく。人に馴染むとはさてさて…。

2011年6月7日火曜日

ドヴォルジャーク「スラヴ舞曲集第2集第2番」

今日はフルートのレッスン日。4月の終わりからレッスンしていたメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調第1楽章」は次回で仕上がりそう。この曲はヴァイオリン協奏曲だがフルート用に編曲されている。誰でも知っている曲だけあって吹くたびにきれいだ、と思う。

次のレッスン曲はドヴォルジャークの「スラヴ舞曲集第2集第2番」。これもきれいな曲で先生の吹かれるお手本にただうっとり。

来週のフルートのレッスンはオーストラリア・ワインの夕べに先生が出演される。それでレッスンは休みだが、その夕べにフルートを習っている知人と駆けつける。先生たちのアンサンブルは市内のさまざまなところで活動しておられる。このたびの「夕べ」は生演奏を聴きながらワインを飲み、美味しいものを食べることになっている。今から楽しみだ。

飲み・食べるといえばフルートとの仲間とが一番多い。先生を含めた仲間とは年齢も性別も違うのにもう20年近い付き合いになる。その前半の10年はみなバブルに酔い、レッスン後毎週のように食べて飲んでよくしゃべった。ところが後半の10年弱はアサちゃんの介護などでフルートのレッスンを中断。その機会もままならない。

4月からフルートのレッスンを再開した。以前のようにその機会も増えそうだ。何といっても楽しい仲間だ。フルートを続けて本当に良かった…。明日からまた気持ちを新たにして新しい楽譜と向き合おう!

2011年6月6日月曜日

びっくり仰天!

ブログに投稿し始めて丸3年近くになる。昨日我がブログをみると「どこか変?」と感じたところがあった。読者が増えていたのである。

恐る恐る読者をクリックすると名前が表示された。その名前はもちろんよく知っている。そのとき「でも…」と疑問がわく。「いたずらでは…」とか「なぜ…」とも。

しばらくして検索画面でその名前を入力するとその人のHPがあった。HPを見ていると連絡先が目に付く。

とっさに我がブログの読者とその人がホンモノかどうか確認する必要を感じた。すぐに連絡先にメールすると返信メールがきた。内容からして本人であるとわかった。

本人とは弁護士、大学教授、著作等等で活躍されている舛井一仁氏である。

舛井氏は今から20年近く前に読んだビジネス書に掲載された文章で知った。そこには「人に元気を与えるポイント」10か条が書かれていた。それを我がブログに書き込んだことから検索でヒットしたようだ。

先ほど家の中を探すとその本があった、あった。大事に保存していた。発行は1993年となっているから20年も経っていない。舛井氏のその言葉をコピーし今日まで我が手帳にはさんでいた。探し出した本を改めてみるとやはりその文面に付箋をつけ蛍光ペンで線を引いている。よほど我が気持ちにぴったり当てはまったのだろう。

昨日は舛井氏と何度かメール交換をさせてもらった。

何の取り柄もない我がブログを読んでる人がいると思うと文章もいたずらにはできない。

もともとブログは勝間女史が情報を受信しようと思ったらまず情報を発信しなければならないという風なことを書いた文章を読んだことに始まる。

確かにそのとおりだった。 

改めて舛井一仁氏の「人に元気を与えるポイント」を下記に記す。

1 声を大きく、よく話をする
2 健康である
3 手紙でもファックスでも、思い立ったらすぐに出す
4 悩んでいる人に気をつかわせないようにする
5 人脈を豊富にし、質を高く保つ
6 不条理を感じるものがあれば常に怒りを忘れない
7 自分なりの、ネットワークルートを頭の中で完成しておく
8 金銭的に少し余裕をもっておく
9 機会があれば旅のかおりを届けられるようにしておく
10自分の目標をもって突き進む

舛井一仁様、お忙しい所、本当に昨日はありがとうございました。改めてお礼申し上げます。

2011年6月5日日曜日

エクステンション講座

市内にある某大学の講座も次回で終わりとなる。昨日やっとその講座の面白さを知った。講義の内容の意味が少し理解できたからである。

人の話を聴くのが好き。とりわけ興味のある話は好奇心いっぱいだ。

講座は6回あり、タイトルは「死を超越する文化~ダライ・ラマとチベット仏教~」。これまで5回話を聞いてきた(1回は休んだ)。ところが前回までは昨日ほど講座内容が理解できていなかった。

昨日の「チベット問題とダライ・ラマ制度」を聞いて妙にその内容に納得した。話を聞いていて思わず笑いが出たほどである。

思いつくところを書き留めたい。

最近のメディアによるとダライ・ラマが引退するという情報が伝えられた。それは引退ではなく、次のダライ・ラマを探すための用意であり、それによりチベット仏教が存続する作戦とか。すなわち、宗教部門と政治部門を切り離したというわけ。

チベットはダライ・ラマを代表としてガンデンポタンという王朝が宗教と政治を司っている。ガンデンポタン
とはダライ・ラマがいる場所という意味である。そのためダライ・ラマが亡命してもガンデンポタン王朝は亡命先で存続する。

チベットは観音菩薩の聖地であり、国である。ダライ・ラマはその観音菩薩の化身である。化身とは仏陀の色身の1つとか。

菩薩には慈悲智力があり、慈は弥勒菩薩であり、その姿は人間の姿で現れる。悲は観音菩薩、智は文殊菩薩で中国の五台山がその聖地。清朝は文殊菩薩の化身である。力は密教の力で金剛菩薩でありモンゴルがある。モンゴルはその昔世界にその勢いをとどろかせた。そしてチベットはダライ・ラマ四世をモンゴルから迎え入れて中国から身を守った。そのためモンゴルとチベットは大いに関係があるが中国とは三角関係にある。そのモンゴルの『元朝秘史』にはダライ・ラマの生まれ変わり(再来者)を認定する制度が書いてあるという。

日本はといえば天台四教の影響が濃くそれは平安時代にさかのぼる。特に『法華経』の上・中・下は読み応えがあるとか。そしてこの経典のお題目を礼拝すると成仏するとか。ところが日本では日蓮はマイナーである。

わかったつもりなのに書いているうちよくわからなくなってきた。ともあれダライ・ラマはガンデンポタン政府(王朝)を民主化して独立させた。チベットにはパンチェン・ラマもいる。こちらは阿弥陀如来の化身である。中国は勝手にパンチェン・ラマの代わりを探した。そこでチベットは現在のダライ・ラマ十四世がもし亡くなっても中国の手を借りず自ら後継者を探せるようにしたのである。

どういっても宗教と政治はブログに書くべきではないかもしれない。今回は学問として書いたつもりだが…。

2011年6月3日金曜日

夜の宴

昨日夕方近くに住む知人から夕飯の誘いのTELが入った。一緒にカナダのワインを飲もうというのである。予定時刻の6時半に知人宅に自転車で駆けつけた。

夕飯のおかずとして前日買っていたてんぷらの盛り合わせとチシャ、トマトを持参した。

それに加えて知人はワインのおつまみにめかぶ、野菜サラダ、ちりめんじゃこの炊きこみご飯、味噌汁などを用意していた。

知人によると料理は本格的に習ったことがあるとか。道理で我がやり方と全く違いすべての料理の手順に繊細なイメージがある。それに美味しい!

話は弾みに弾んで気がつくと午後10時だ。

いくら近いといっても夜、自転車で帰るのは注意が要る。ましてやワインも飲んでいる。ワインを飲んで自転車に乗るのは飲酒運転かどうか知らない。それでも夜の旧国道を自転車ですいすいとはいかない。車が通るたび何度か乗ったり降りたりの繰り返しで我が家についた。その間8分。

夜の宴は楽しい!だがその後が忙しい。なんたって毎日10時前後に就寝しているのだから。すぐにシャワーを浴びて寝ることにする。その頃時刻は10時45分であった。

2011年6月2日木曜日

何歳で?

昨日107歳の母親を介護している知人とTELで話した。話の中で知人の不注意で起きた数年前の親の骨折が悔やまれるという。親の骨折に関しては知人同様、アサちゃんにも当てはまる。7年前の早朝トイレに行くときどうしても眠たくて付き添わず1人で行かせたことから骨折させてしまった。それが結果的に…。

人はよく親が亡くなったと話すと「何歳で?」と聞く。「〇〇歳」と答えるとその年齢ならば仕方ないというニュアンスで話をする。昨夜もそういう経験をした。その当人もいつ寝込んでもいいような状態なのによく言えるものだと感心する。

そのときいつも思うことは人が何歳で亡くなろうと「年だから…」という言われ方は納得できない。

げんに先の知人のように今年108歳になろうとしている母親の骨折が原因で元の元気さをなくしたことを悔やんでいるからでだある。知人の後悔は100歳の人の元気な姿をTVで見たことにあった。その母親は市内の某区の最高齢である。その母親を抱えている知人でさえ骨折させたことを悔やみきれないのに、ましてや何歳で亡くなろうと悔やみきれないのは当然である。それともある年齢以上になると亡くなることはあたりまえであるというのだろうか。

年齢的なことに関しては病院の医者でさえも同じコトをいう。「年ですからね…」と。アサちゃんの入院中何度この言葉を聴いたことだろう。年を重ねると手の施しようがないというのだろうか。それとももう亡くなってもいいと思うのだろうか。

その経験から、人に対して「年齢」でモノゴトを片付けることだけはやめようと思った。

ではどういえばいいのか。我が身を照らしてみると「最期までよく看てあげたね」「寂しくなったね」「がんばろうね」などが嬉しい言葉だと思う。

その意味でも決して「年齢がね~?」とか「寿命よね~?」などとは言わないようにしたい。