この秋、三次市内にある尾関山と鳳源寺の紅葉を見に行こうとした。が、「広島じゃ割」の安い切符に惑わされているうちに、その切符が売り切れてしまった。狭い料簡に囚われ、またケチな根性が災いした結果、三次に行きそびれた。来春の桜の時季には何がなんでもこの2か所へ行こう!
2か所は『街道をゆく』(二十一)「芸備の道」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九九年第五刷)に記されている。以下はその中から気になる箇所をメモした。司馬遼太郎は登場人物を悪く書かない。が、この中に登場する警官はよほど気になったのだろうか良く書いていない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★仏教で業(ごう)というのは、行為としての善悪のもとをなすもので、三業(さんごう)というと、身(み)、口、意(こころ)である。当時の本山の学僧が、「浄土にうまれたいと思えば、三業に祈願と請求をこめて阿弥陀如来に頼まねばならない」といいはじめ、本山がほぼこの学説でかたまった。本来、親鸞の思想には祈願という考えも請求という考えもなく、そういうことをしなくても如来が救ってくださるというのが、他力というものであるという。この学説ははるかに異端の説(異安心 いあんじん)であった。本山の学説を異安心として闘ったのが、この可部の寺に住していた大瀛(だいえい)安芸の学匠たちだった。……ようするに、安芸門徒が勝った。……可部には大瀛の勝円寺がまだあるはずだが、寄ることは割愛して、北をめざした。(29-30p)
★「いやな町ですね」そのあと、路上で遭遇した長谷氏は、私にいった。吉田にあこがれて入ってきたのだが、あの警察署の一郭だけは、どうも気分よく通る気になれない……。私は、少年(年少 としわか)ニシテ高臺(こうだい)ニ上(のぼ)ルハ一(いつ)ノ不幸ナリということばを思いだした。……年少で高い地位につくのは不幸の一つだという意味である。まだ初々しい若者が、警官の制服を着たがために、高臺ではないにせよ権力意識ができ、日本人としてのふつうの礼が取れなくなったということも不幸にちがいない。(それ以上に、日本社会の不幸としては、すべての警官が、戦前に本卦がえりして江戸の同心意識や、太政官の邏卒、または内務省の官憲の意識をすこしずつもちはじめたときにおこりうるのではないかということだが、この長谷氏の被害(むろん被害である)はおそらくごく特殊で極めて偶発的な事件かもしれない。(50-52p)
★福島家の改易とともに、尾関氏も三次を去った。その城はこぼたれたが、城址の山の名を土地のひとびとは尾関山とよんだ。新領主(浅野氏)の世になって、かつての領主の姓を冠して丘の名にするというのは浅野氏の風である寛容さもあったろうが、尾関石見が地下(じげ)の者にきらわれていなかったということにもなるかもしれない。尾関石見については、正則と同郷の尾張の人というだけで、くわしいことはよくわからない。(140-141p)
★三次浅野家五万国の初代が、名君といわれる長治である。長治の次女阿久利が播州赤穂五万国の浅野内匠頭長矩に輿入れをした。そのとき城代家老大石内蔵助良雄が三次までお迎えにきたという伝説が三次にあり、内蔵助がうえたというしだれ桜が、市内鳳源寺にある。(177p)
★傘をさして尾関山のひくい隆起をこえると、黒くぬれたアスファルト道路が走っている。それを突ききって向かいの丘にとりつけば、そこが鳳源寺である。三次侯初代の浅野長治が、寛永十年(一六三三)、臨済宗の禅僧万室を開山として建立した。石段をのぼって旧藩時代の墓所を見たりしてやがて境内に降りてくると、樹齢五百年経たかとおもわれるしだれ桜がある。(180p)
★池には、睡蓮が七、八個の赤い花を浮かせている。……池の中ごろに架けられた橋の上に立ってみると、橋の下に河骨(こうぼね)が葉を沈ませつつ黄色い花をつけていた。……「三次は、どこというところなしに、いい処ですね。こう、この盆地ぜんたいかもしれません」と、橋の上で須田画伯がつぶやいた。(183p)
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