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2026年10月5日月曜日

『歴史の中の日本』

  人はいい加減なものでぐずついた日々が続くとあの暑かったカンカン照りが懐かしい。こんなにもお天気に支配される?

 『歴史の中の日本』(司馬遼太郎 中央公論社、1996年第3刷)を読んだ。以下は気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★明治以前における最大の人文科学者のひとりである新井白石は、その学問はほとんど独学によって得た。師匠についたのは、ある程度の学者になってから木下順庵の門をたたいてその客分のようにして入門した程度である。松陰も、学校教育を経ることなくその教養をふかめ、思想を醇化し、しかも独学者流の独善的偏狭さやくさみなどはいっさいなしに自分を成長させることに成功した。この両人に共通しているのは知的好奇心の強烈さと、観察力の適格さと、思考力の柔軟さであり、その結果として文章表現が実に明晰であったということである。さらにいえることは、両人とも学問を受け入れて自分のなかで育てるということについての良質な態度を、天性なのかどうか、みごとにもっていた。学校教育という場は、学問にとって必要ではないというのは暴論だが、しかしかれらがもっていたこの態度をもたずに学校教育の場にまぎれこんでもそれは無意味であり、逆に、学校教育から離れた場所に身をおいても、この態度さえあれば学問(その種類にもよるが)は十分にできるという例証になりうるのではないか。(「白石と松陰の場合」 148P-149P)

★幕末における長州藩の暴走、狂躁ぶりというのは、寒気がさすほどのものだ。その暴走だが、奇跡的に成功した。幕末における国内事情、国際事情が、この暴走をして、万に一つの奇跡的成功をおさめたのである。(うろん、長州藩の暴走がなければああいう形での維新政府は樹立しなかったことはたしかである。だから私はその功罪を論じているのではなく、巨視的に長州藩の暴走をここでとりあげているだけのことだ。その長州藩が、明治陸軍をつくった。濃厚にその「やれば何とかなる」も体質を陸軍軍部に遺伝させた。(「百年の単位」314p)

2026年9月8日火曜日

『この国のかたち』(六)

 『この国のかたち』(六)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年第14刷)を読んだ。これでこのシリーズを読み終え、いまは『歴史の中の日本』を読んでいる。若いころと違って年老いてゆくにつれ、歴史好きになっている。というか、老いるにつれて本好きがますます昂じていく。目はよくないがいくら小さくても本が読める。これだけは神仏があるとすればありがたいことに思える。

 何かの本で人生最期の趣味は?とあった。好きだった自転車と水泳を今はやめている。残るはフルートを吹くことと本を読むことが残った。最期まで、となれば本が残るかもしれない。と、いいつつ、最期までとはいかなくても旅をしながら人生を終えたい気がある。それには体力!?昨日も体操教室で3時間頑張った!

 以下は『この国のかたち』(六)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★平安初期、天皇家の財政が困窮し、多くの皇子たちを養ってゆけなくなった。……そういうことから、「源(げん)」という姓が創設された。弘仁五年(八一四年)のときで、多くの皇子皇女に「源」姓を持たせて臣籍に下した。……「源」は、訓読してミナモトともいう。……雑談ふうにのべる。まず「源」が、中国ふうの一字姓だということである。中国では、二字姓は前記禿髪(とくはつ)の例でもわかるように異民族出身である場合が多く、貴とばれない。ついでながら国名ですら中国内地の王朝は一字である。……源姓が創設された八一四年は、まだ遣唐使の時代である。遣唐大使は、巨勢(こせ)、土師(はじ)、吉備、阿倍、藤原、大伴、長岑といったように、二字の姓で、かれらのすべてがそう思わなかったかもしれないが、長安の社交場で自分の姓を田舎くさいと感じるむきもあったのではないか。源姓が創始される十年前の八〇四年に出発した大使藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)の場合、公文書での自分の姓名を「藤賀能(とうがのう)」とあらためたりした。……源の成立から十一年後の八二五年、桓武天皇は葛原(かつらばら)親王の子を臣籍に下し、はじめて「平(へい)]という姓をおこさせた。初代は平高棟(たいらのたかむね)である。……二字の漢字をならべて、漢字としても意味をもたせつつ、わざわざ訓読みするというこの命名法は、こんにちにいたるまで生きつづけているのである。その後、源・平は、ふんだんに創られた。(源と平の成立の影響 200p-203p)

2026年9月4日金曜日

『この国のかたち』(五)

 暑かった日々は昨日からの雨で一休みだ。昨夜は今季初めてエアコンなしで寝る。今日は最高気温27度の予想で連日のあの暑さから免れそうだ。今朝は昨日の検診で2時間半もかかったのでくたびれ果てて寝ていた。病院に通えるうちはある意味、元気といえるのかもしれない。通えなくなった日からが本当の病人!?

 以下は『この国のかたち』(五)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年15刷)から気になる箇所を抜粋した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★水戸中納言とよばれた光圀は老いて隠居した。世間は、中納言の唐名である黄門の敬称で読んだ。……光圀は南朝の諸将のなかで、人柄と戦略の才においてきわだっていた楠木正成(?-一三三六)を顕彰した。正成をたたえることによって、南北朝史における正邪を水戸学の立場から明快にした。湊川にたてた碑面の題字は光圀自身が書き、碑陰には、すでに故人になった舜水の正成に関する遺文を刻んだ。世間で評判になった。(111宋学「三」181p-182p)

2026年8月10日月曜日

『この国のかたち』(五)

  『この国のかたち』(五)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年15刷)を読んだ。以下、気になる箇所をメモしよう。

★結局、会津藩が、慶喜の形代にされた。以後、戊辰戦争のなかで会津藩は鶴ヶ城を拠点としてよく戦い、籠城戦の末、降伏した。そのあと、藩ぐるみ下北半島の荒蕪の地に移された。日本史上、これほど大規模な流刑はなかった。明治後も、会津人や会津地方は割りを食うことが多かった。会津若松が県下最大のまちでありながら、福島県庁が置かれることはなく、また偶然かどうか国公立の高等教育機関も設けられなかった。(100会津 82p-83p)

  先日、某会の人と電話で話した際、所属していた合唱団の代表が先月亡くなられたとの訃報を聞いた。この人は青森県の人だ。10年前、青森のねぶた祭りを見に行った際、この人の家に1週間も泊まらせていただいた。その時の旅で聞いた話を思い出す。青森出身の代表は元は青森の人ではなかった。ここにあるように「藩ぐるみ下北半島の荒蕪の地に移された」、その子孫にあたる。その時はこういうことを全く知らずに話を聞いた。改めて本を読んでこれを知るともっと話を聞いておけばよかったと思えてくる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2026年8月2日日曜日

『最後の将軍』

 アクシデント後、丸4か月が過ぎた。もっぱらの目標はあおむけに寝た状態から片足を上にあげること。今朝、起床後、すぐに試みると嘘のように右足が楽に上がった。下ろすときの痛みもない。更に上にあげるには腹筋がいる。初めのころは1㎜も動かせなかった。しかし、毎日の運動で動かせるようになっていく。ということで今朝はかなりうれしい。

 『最後の将軍』(司馬遼太郎 文藝春秋、1998年第3刷)を読んだ。気になる箇所をメモしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★井伊直弼が桜田門外で斃されたといっても、この若者――一橋慶喜の運命はすこしも変わらない。依然、国事犯として一橋邸で蟄居させられている。他の、安政ノ大獄で罪を得た公卿、大名、志士も同様である。しかしいずれはあたらしい行政措置がとられるであろうということは、世間のたれもが見ていた。……自分を赦すべきではないというのである。井伊によって行われた安政ノ大獄の罪人どもは、依然として禁錮、入牢(じゅろう)のみであるべきであるというのである。側近たちは最初は驚いたが、少しずつこの若者の思考方法がわかってきた。なによりもすきなのは理屈であるらしい。この場合も、井伊が殺されたからといって、昨日の罪人をきょう釈き放つとなれば国法が立たない。そういうことを幕府がすれば政府としての威信を失墜し、あすにでもほろびる、というのである。単に理屈だけでなく、この若者の風変わりな点は、その理屈のなかで日常の精神まで安らぎつくしているらしいことであった。(86p-87p)

2026年7月2日木曜日

『この国のかたち』(二)

 週末に降る雨で今季の梅雨が明けそうだ。梅雨が明ければ気温が上がる。いよいよ夏到来!?

 以下は『この国のかたち』(二)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年第32刷)から気になる箇所を記した。これを読んで山口市湯田にある井上公園を訪れたときのことを思い出す。井上馨は司馬に言わせると汚職まみれの人で決していい人ではなさそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★明治憲法もまた他の近代国家の憲法と同様、三権(立法・行政・司法)が明快に分立していた。ただし、天皇の位置は哲学でいう空(くう)に似ていて、行政においては内閣が各大臣ごとに天皇を輔弼(ほひつ 明治憲法の用語)し、輔弼者をもって最終責任者とした。が、昭和初年、軍とその同調者は、憲法について異常な解釈をしたのである。三権のほかに統帥権があるとし、この魔法によって張作霖の爆殺(昭和三年)という謀略をやり、つづいて満州事変、上海事変をやることで三権を無視しつづけ、ついには統帥権によって日本国そのものを壟断した。そのあと国そのものをつぶした。(37無題 155p-156p)

★江藤も西郷も、史上まれにみるほどに正義がありすぎた。しかもその正義のためにかれらはほろび、あまつさえ賊名を着せられた。それに、皮肉なことに西郷を討った政府軍の総司令官は山県有朋だった。またその軍費の工面をしたのは、井上馨だった。こういう言い方は子供っぽいかと思われるが、かれらは後に公爵あるいは侯爵になる。しかし、江藤や西郷の霊も、浮かばれなかったとはいえない。この乱による衝撃がどうやら官員たちを粛然とさせたらしく、その後明治がおわるまで、ほとんど汚職事件というものはなかった。死者たちの骨は、その面での礎石(いしずえ)になっているのである。(38汚職 170p)

2026年6月20日土曜日

『この国のかたち』(四)

 外は薄暗く梅雨本番を思わせる朝だ。こんな日は外に出るのはやめよう。以下は『この国のかたち』(四)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年第20刷)を読んで気づいたことを引用している。その中に先の戦争が「石油」に絡んでいたことだ、と初めて知った。なぜアメリカ等との戦争でフィリピン沖や東南アジア諸国が戦争の舞台となったのかを疑問に思っていた。それが判明した。昨日の地元紙の先の戦争の遺骨収集の記事においても「石油」が戦争と絡んでいたとは一言も触れていない。「石油」をめぐっては今も世界中で争いは絶えないが……。残る2点は気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★南方進出作戦―大東亜戦争の作戦構想ーの真の目的は、戦争継続のために不可欠な石油を得るためでした。蘭領インドネシアのボルネオやスマトラなどの油田をおさえることにありました。その油田地帯にコンパスの芯をすえて円をえがけば、広大な作戦圏になる。たとえばフィリピンにはアメリカの要塞があるから、産油地を守るためにそこを攻撃する。むろん、英国の軍港のシンガポールも、またその周辺にあるニュ-ギニアやジャワもおさえねばならず、サイパンにも兵隊を送る。それを総称して、大東亜共栄圏ととなえました。……石油戦略という核心の部分は、むろん隠され、多くの別なことばにつつまれて窺うことができません。この構造を裏づけるに十分な経済力も戦力も日本にはないということまで、さまざまなことばによっておおいかくされ、人々に輝かしい気分をもたせたのです。……あの戦争は多くの他民族に禍害を与えました。領地を取るつもりはなかったとはいえ、以上に述べた理由で、侵略戦争でした。ただ当時、日本が宣戦布告したのは米英仏蘭であって、その諸領土のなかの、油田を奪おうとし、また英国のシンガポール、米国のコレヒドールなどの要塞を攻撃したのです。この点では欧米との戦いだと当時の日本人は思っていました。しかし土地に現実にいるのは土地の人々であって、その人々が日本軍の作戦によってひどい目にあいました。あの戦争が結果として戦後の東南アジア諸国の独立の触媒をなした、といわれますが、たしかにそうであっても、作戦の真意は以上のべたように石油の獲得にあり、その獲得を防衛するために周辺の米英の要塞攻撃をし、さらには諸方に軍事拠点を置いただけです。真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放していなければならないのです。ともかくも開戦のとき、後世、日本の子孫が人類に対して十字架を背負うことになる深刻な思慮などはありませんでした。昭和初年以来の非現実は、ここに極まったのです。(239p-241p)

★西暦一八六八年は、いうまでもなく明治維新のとしである。年号が二つあった。幕府時代最後の年号になる慶応四年と、あたらしい時代を象徴する明治元年(このとし九月八日に改元)で、まぎらわしいために、このとしのことを、ふつう、「戊辰(ぼしん)」と、十干十二支(じっかんじゅうにし)でいう。戊辰戦争とよばれる革命戦争は正月の京都南郊の戦いではじまり、翌明治二年五月北海道五稜郭開城でおわる。革命軍は”官軍”と称した。主力は薩(のちの鹿児島県)長(のちの山口県)土(のちの高知県)肥(のちの佐賀県)の四藩で、他藩は時流を追うかたちで参加した。(83p-84p)

★僧はむかしから、”法外”(世間の外といわれた。殿中の坊主衆の頭は、”私どもは世間の秩序の外の者でございます”というしるしとして剃っているのである。(207p)

2026年5月17日日曜日

『歴史と視点―私の雑記帳ー』

 自宅近くにドラッグストアとスーパーが3軒ある。ドラッグストアは食料品の中でも牛乳、豆腐、卵やバナナなど重たいものを買っている。が、スーパーは野菜や鮮魚などを購入。今は使い分けて買い物している。旅に出るのが当分無理なので今は近場の買い物が一番の気晴らしだ。一歩自宅を出ればだれかと出会う。それは知り合いだけではなく出会う人は皆知り合い?の感覚で話をする。これも結構な気晴らしだ。

 今、完全とは言えない中での生活を強いられている。しかし、出会う人の中にはもっと大変そうな人も見受けられる。どこにいても今の状況に満足して生活するしかない。そして元気を取り戻せば、このリベンジを……。それまでは辛抱、辛抱!

 3月に読んだ『歴史と視点―私の雑記帳ー』(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年五十四刷)から気になる箇所を記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★太平洋戦争には戦略というものはなかった。横井庄一氏のような兵隊を汽船に乗せ、地図にあるかぎりの島々にくばってまわり、配るについては海軍がその護衛をし、まるで棄民のように島々に捨て去りにしたあとは、東条英機という集団的政治発狂組合の事務局長のような人が、東京の大本営で「戦陣訓」というお題目をひたすらに唱えつづけただけの戦争であった。そして横井さんが戦後二十八年してグアム島の密林から出てくるのである。……私はつい不覚にも大正時代に生まれてしまった。このため戦争時代を兵隊として多少体験したということで、後続世代のひとびとからどうやら中州に入れられている。しかしその立場から提言できることがあるとすれば、反戦とか非戦とかという裏返しの旧軍人じみた感情コトバを題目のように唱えることでなく、日本というこの自然地理的もしくは政治地理的環境をもった国は、例えば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な常識を認識としてひろめてゆくほうが大事なように思えるのだが、どうだろうか。(大正生まれの『故老』)(22p-24p)

2026年5月5日火曜日

『箱根の坂』(下)

 世の中、GWの真っ最中。お天気も良く遊ぶにはもってこいの日だ。しかし、この頃の我が身を振り返れば遊ぶ話は皆無だ。このリベンジはさていつになるやら。だいぶ前に読んだ『箱根の坂』(下)(司馬遼太郎 講談社、昭和五十九年第一刷)、気になる箇所をメモしよう。

 久しく司馬作品を読んでいない。しばらくは家にある本を読む!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★上代日本が金を欲していたのは、律令国家が造寺造仏をするためだった。上等の仏像には銅に金鍍金して金銅仏(こんどうぶつ)に仕立てねば「異国の神はきらきらし」というふうにならず、そのようにせねば律令国家の権威を民百姓に示せなかったのである。金が、鍍金用金属以外の価値をもちはじめたのは、十二世紀の源平ぐらいからであった。平家政権の平清盛が、日本国最初の貿易主義の政治家で、さかんに対宋貿易をおこなった。決済商品として、金が必要になった。当時、奥州平泉の藤原氏がにわかに繁栄したのは、北上川の砂金の採取権を持っていたためで、この砂金が清盛の貿易につかわれ、宋に流れた。室町期は、貿易の時代である。大いに金を必要としたため、国内でも金をもってたとえば米が買えるようになった。……いずれににしても早雲は、―伊豆の土肥の金で米を買い、足軽隊をつくろう。とおもいつづけている。金は駿河においても産する。(22p-23p)

★曹洞宗とは、ふしぎな宗旨である。宗祖道元はその著『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)においてもわかるように、きわめて晦渋な表現をもって禅宗の哲理を説いたのだが、そのむずかしい宗旨が、武士や知識階級へはゆかず、民衆のほうにむかったことは奇妙というほかない。道元は権力者がきらいであった。鎌倉幕府の使者がきたとき、その使者が座っていた場所の上までけがれたとして捨てさせたほどである。道元の本拠地は、越前永平寺である。その第三世を継いだ義介(徹通義介)はあまりにも目ききがきき、経営主義的でもあった。……義介の門人の螢山(螢山紹墐けいざんしょうきん)も、いわばやり手だった。道元の思想に反し、どうげんがもっともきらった祈祷や儀式などもとり入れ、民衆教化にのりだした。……民衆禅としての曹洞宗の効用は、清規(行儀作法)にやかましいことであった。人間が社会を組む場合、行儀作法さえよければ半ば世間に波風が立つことがふせげるといっていい。宗瑞は自分自身は臨済禅をを学んだが、曹騰禅を知るにおよび、それが民政に役立つことを知った。……(ついでながらこんにち曹洞宗の末寺が全日本で一万四千、西本願寺の一万余と比べるとはるかに大きく、民衆宗教と言っていい)。(75p-76p)

★早雲の遺骸は韮山で火葬に付され、虚空にこどった。骨は遺言により、箱根湯本の古寺の境内みうずめられた。その寺は、それまで真覚寺とよばれていたが、子の氏綱が臨済禅にのっとって菩提寺とし、早雲寺とあらためた。墓碑は、骨になったこの人物の生前の好みと思想をあらわすかのようにささやかである。ながめていると、小気味よさまでただよう。人は、墓石などを残すために生きるのではない、などと早雲がつぶやいているようにも感じられる。(344p)

★この奇妙人について重要なことは戦国の幕を切っておとしたことである。さらには室町体制と網の目のあらい統治制度のなかにあって、はじめて「鎖国性」という異質の行政区をつくったこともあげねばならない。日本の社会史にとって、重要な画期であり、革命とよんでもいい.(347p あとがき)

★「箱根の坂」という題は、様々な象徴性をこめてつけたつもりであった。連載の最後の下り、早雲がようやく箱根の坂を越えて、あずまに入ったときには、書いている作者自身まで足腰の痛みをおぼえた。早雲は越えがたき坂を越えたのだと思った。(349p)

2026年3月21日土曜日

「人は、墓石などを残すために生きるのではない」

  図書館で借りた『箱根の坂』(下)の貸出期限が今日までだ。昨日の時点で残り100頁以上もある。昨日、60頁ほど読んで残りは今朝、読み終える。最近、司馬作品を読んでいると借りるときは予約者がいないのに、読み始めると予約者が出てくる。今回の『箱根の坂』の上・中・下巻は単行本で発行年は昭和59年とかなり古い。それなのにどの巻も予約者が出て、せかされて読んだ。

 今朝、返却までに気に入った個所を書き留める。特に、以下の個所に惹かれる。「墓碑は、骨になったこの人物の生前の好みと思想をあらわすかのようにささやかである。ながめていると、小気味よさまでただよう。人は、墓石などを残すために生きるのではない、などと早雲がつぶやいているようにも感じられる」。(344p)

 なかでも「人は、墓石などを残すために生きるのではない」に、惹かれる。

 毎月のようにお墓に参っている。我が家は後継ぎがいないのでいつの日か墓地の管理をする人がいなくなるだろう。墓石を見ると母の名で父の墓碑銘を刻んでいる。母の墓碑銘も刻んだが決して娘である自分の名を記さなかった。自分がいなくなっても戒名も墓碑銘も刻まないでほしいと思っている。

 「人は、墓石などを残すために生きるのではない」、を読んで特にそう感じる。死んでからのことよりも生きていることが大事だ。それも楽しく生きることに限る。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2026年3月10日火曜日

『箱根の坂(中)』

 気温は低めだが晴れの日が続きそうだ。今日午後はプールで泳ぐ予定でいる。泳ぐのが好きでも寒い日や暑い日は行く前日から泳ぐぞ、と気合が入る。そして水泳一式を前日から用意する。

 『箱根の坂』(中)(司馬遼太郎 講談社、昭和五十九年第一刷)を読んだ。読んでいる本に予約が入ることがある。この本もそうだった。途中からスピードを上げて読み終える。以下は気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★静岡県沼津市の東光寺に「今川竜王丸の印判状」がのこっているが、この黒印は四角の陽刻で、なかの文字は判読できない。亡き義忠の印だったればこそ、公文書として効果があったのであろう。のち、この今川の風(ふう)が、諸大名にまでひろがり、朱肉をつけて捺印したものを朱印状といい、墨をつけて捺したものを黒印状とよび、江戸期におよぶまで公文書の定型になった。さらに明治後、日本独特の署名捺印という習慣にまでおよぶ。(191p)

2026年2月6日金曜日

『義経(下)』

 『義経(下)』(司馬遼太郎 文藝春秋、2005年第11刷)を読んだ。図書館で借りた本だが、貸出期限が明日までだ。それも1度延長しているので何が何でも読み終えなくてはいけない。源頼朝と義経は兄弟だ。義経は父の仇を討つために平家を滅ぼす。そして兄を信頼するも最期は兄に騙されて自害する。本の末尾に書いてある「悪とは、なんだろう。」について考えさせられる。司馬遼太郎は少年のような心を持った人が好みだ。まさに義経はそれにふさわしい人だった。しかし、兄、頼朝は鎌倉幕府の運営に苦慮して政治的感覚のない義経が毒物以外の何者でもなかった。

 本を読みながら源氏の子孫はどうなった?と思った。平家の子孫は「平(たいら)」や「平(ひら)」などといった姓で今でもある。その両方の姓の人を知っている。が、「源」は聞いたことがない。本を読みながらつい思ってしまった。そして面白くこの本を読んだ。

 以下はこの本から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★この時代、義経のみならず、ひとびとの心は怨念ぶかくできている。怨念ぶかいことが、むしろ美しいとされていた。法師たちがひきあげたあと、梅のにおいがいきいきと闇のなかでいきづきはじめた。(これが、鞍馬のむかしのにおいというのか)義経は蔀戸(しどみど)をあげて縁に出た。庭燎(にわび)の火が、闇いっぱいの梅花を夢幻の精のように浮きあがらせている。炎が燃えさかるたびに花影がうごき、義経を恍惚へさそった。おもわず涙があふれた。(かならず怨念を)――晴らし遂げたい、と思った。怨念のうつくしさはそれを晴らすことによって完結する。晴らすとは平家を討つことであった。平家を討滅させることによって自分の生涯も、この闇のなかの梅花のごとくにあでやかに荘厳されるであろう。この若者は、中世に生きている。自分の生涯を美化したいという、ただそれだけの美的衝動だけで十分に死ぬことができる時代に生きていた。(83p-84p)

★義経が着想し、指揮し、実施したすべての戦術が平家を潰走せしめた。「あの若者が、な」と、後白河法皇には、ちょっと信じられなかった。色白で小柄な、どこからみても見映えがせぬあの若者のどこにそのような天才性が宿っているのだろう。その翌日、すべてがあきらかになった。そのうわさの義経が、平家方の首桶を先頭に京へ凱旋してきた。……義経といえば数年前までは流浪の子であり、きのうまでは無名の若者であったのが、きょうは神であった。戦争が、その変化を遂げさせた。戦争というぼう大な生命の賭け以外に、これほどの奇跡を現じさせるものはない。(122p)

★「月代御前だ」「匂うような名だ」月代というのは月が昇る前、山の端(は)がほのかに黄金色に色づく、その現象をいう。(174p)

★鯱(しゃち)は海にいる。犬は陸にいる。犬がいかに吠えようとも海の鯱にとびかかるわけにはいかない。陸軍しかもたぬ源氏は犬であり、強大な水軍をもつ平家は鯱であった。平家は瀬戸内海という広大な水域に大小数百の軍船をうかべ、中国、四国、九州の海岸地方を完全におさえている。犬である源氏は山陽道を駆けくだって本州の西端まですでに行っているが、いくさにはならない。(水軍をもたぬ以上、平家をどうすることもできぬ)と義経は思う一方、しかしながら騎兵集団を特殊使用することによって海上王国の平家を一挙に覆滅できるただひとつの方法を義経はおもいついていた。(それならば勝てる)と信じている。しかしながらすでに頼朝から司令官である資格をとりあげられている以上、どうすることもできなかった。……(たれもできぬ)という自負心が義経にあった。単にかれだけの自負心ではなく、歴史上の何者をもってきてもかれ以外にそれができないことは、後世の歴史が証拠立てている。(184p-185p)

★ほかにも捕虜になった者がいる。この一門では齢(とし)がしらである大納言平時忠でああった。平時忠といえば、むかし、平家のはなやかなころ、――平家にあらずんば人にあらず。という有名なことばを吐いてその栄華を一世に代弁した人物であった。(313p)

★義経は、この尊大な捕虜に対し、あくまでも自尊心を傷つけぬようにあつかい、しかるべき船をえらび、船室を清めてそこへ収容した。この処置に時忠は満足し、「あの小僧は分(ぶん)を心得ているらしい」と、その息子の中将時実にささやいた。(315p)

★白拍子とは、男舞(おとこまい)を専門とする妓女のことである。男舞というのは、女ながらに立烏帽子をかしらに頂き、白い水干(すいかん)、白鞘巻の太刀といった男装をし、絣のはかまをうがって舞い、かつうたう。そういう種類の歌舞は数十年前からあったらしいが、法皇などは、――白拍子の舞の創始者は磯の禅師。ということで記憶していた。……弦楽器を用いないのが特徴で、鼓、笛、銅鑼という拍子楽器を用い、それを伴奏とした。歌は流行歌謡(いまよう)である。おおぜいで舞うときには歌も合唱をする。この神泉苑での百人舞いがちょうどそれであった。(379p-380p)

★義経が都を去った四日後に、法皇はあれほどに寵愛しておきながら、義経の官位を容赦なく没収し、伊予守でも判官でもない、ただの九郎に堕としてしまった。さらに義経退去のあと九日目には、――義経こそ賊である。追討せよ。という院宜を法皇は鎌倉の頼朝に対してくだした。すべて頼朝への遠慮であり、配慮であり、朝廷という古典的権威をまもるためのやむをえざる処置であった。義経は、諸国の山河にかくれ、隠れては奔り、転々としつつ、朝廷と鎌倉から追跡され、ついに奥州の平泉まで逃げ、追いつめられ、最後に衣川の持仏堂に逃げ入り、自害した。その首が酒漬けにされて鎌倉に運ばれてきたとき、頼朝は「悪は、ほろんだ」といった。なるほど、国家の機能をあげて弾劾と追跡をうけた義経は、悪といえば類のない悪かもしれなかっ。が、「悪」ということばを頼朝の口からきいたひとびとも、それを漏れきいた世間の者も、また京の廷臣たちも、――悪とは、なんだろう。ということを一様に考えこまざるをえなかった。後世にいたるまで、この天才のみじかい生涯は、ひとびとにその課題を考えさせつづけた。(497p-498p)

2026年2月1日日曜日

『義経(上)』

 『義経(上)』(司馬遼太郎 文藝春秋、2005年第5刷)を読んだ。以下はいつものごとく気になる箇所をメモする。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★平家はいよいよ栄華をきわめ、平家一門の平(へい)大納言時忠などは、「平家にあらざる者は人ではない」とまで傲語(ごうご)した。この一門の栄耀驕奢(きょうしゃ)は日本人がかつてその歴史のなかで経験したことのないものであったろう。なぜならば、平家ほどの強力なかたちで日本が統一されたことはそれ以前にはなかったであろう。彼等は日本人として最初に経験した権勢の陶酔者だった。それだけにその酔いざまのみごとさはそれ以後にも例がない。平家以後、源氏、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏といったような統一者があらわれたが、彼等はすでに平家の例をみている。勢い、自制心がはたらいた。(46p-47p)

★(おなじ腹を切って死ぬなら、このような僧の姿で死ぬのはやり切れぬ。戦場で華々しく死にたい)正近の体のなかを流れている坂東武者の血のうめきというようなものだろう。よき死場所を得るには勝敗はべつとして挙兵をせねばならぬ。挙兵をするには源氏の御曹司牛若丸にその素性を教え、自覚させ、旗を野にすすめさせねばならぬ。(百に一つ……源氏が勝ち。源氏の世がくれば、生き場所も死に場所もうしなったおれも、この世の大路小路を安堵して歩ける)正近は身をかがめて、麻畑のなかを疾(はし)った。(78p)

★「御父の仇を討ち参らせよ」正近がくりかえすこの言は、錐のごとくするどく少年の心に揉みこんでゆく。「復讐心の資質は」と正近はいうのである。―-この濁世の栄達をのぞむな。栄華にあこがれるな。正近の言葉は、少年の心につぎつぎと滲みこんでゆく。正近は唐土の臥薪嘗胆の故事をもあげた。復讐者の一生は復讐のほかの快楽を求めてはならぬ。復讐のみが、唯一最大の目標であるべきである。つねに利剣のごとく鋭い心を砥がれよ。この世における主題はそれのみであるべきであり、そのためにのみうまれてきたと思召されよ――と正近派はその洛中洛外の群衆を魅了した口説をもって説き去り説き来たり、少年の心をほとんど掌にのせ、自在にしきった。奇妙な男というほかない。(198p)

★(なんと名乗るべきか)冠者は、義朝の九男である。……名は一字は父の名からとるのが慣例になっている。義をとり、その下に何を付けるべきかに迷った。……源氏は清和天皇からはじまっている。その子が貞純親王であり、さらにその子が経基であった。この経基から臣籍に降下し、はじめて源の姓を賜った。その経をもらい、義経というのはどうであろう。(源九郎義経か)と口ずさんでみると、調べもなだらかであるし、文字面もわるくはない。(136p)

★新興の土地で、田畑は「開発」によってたえずひろがっている。それにともなって人口が増加するため、同時に細分化も進んでいた。それに土地を長男が相続するのか、父の指名する子供が相続するのか、相続の慣習が確立していないため、兄弟間で紛争がおこりやすい。「一所懸命」という、これはやがて国語になってゆく言葉が坂東にある。自分の一所をまもるために命を懸けるという意味である。(198p) 

★(まさか、その堪増の子が)と、さすが九郎も信じかねた。熊野別当職といった名門の子が、諸国のあぶれ者が身をよせる叡山の僧兵に身を落としていようとはおもわれない。しかし、その名乗りが事実であるとすれば、よほど世をすねた変わり者なのであろう。げんに法師は、「久しく山にあって、乱を恋い、都に出ては狼藉をはたらいていたが、いまついに恋を遂げ、その兆しの舞い歩くのを見た。すなわち、足下である」と言い、「御名を、きかせ候え」と声をひくめ、しかし身を揉むようにいった。日が、暮れおちている。「この黄昏の刻限を、逢魔の刻(とき)、という。法師の様子はいかにも風狂であったが、感じようによっては、この刻限の邂逅を不可思議ともとれるであろう。感じやすい若者はついそう感じ、名を名乗った。それが、この若者と法師の生涯を、伝奇的な運命に変えた。(263p-264p)           

2026年1月8日木曜日

『城塞(下)』

 昨年末、人生2回目となるおせちをセブンで取り寄せた。1~2人前とのことで3日間かけてクリアした。年末におせちを受け取る際、何か一品材料が届かずじ欠けているという。その代わりとしてレトルト食品2品(1000円分)をくれるともいう。昨日、それを受け取りにセブンに行き、レトルト食品2パックを受け取った。レトルトは5種類あったが何を読み間違えたか骨付きのチキンのカレーを受け取る。

 年を取ってくると魚でも骨なしを選んでいる。それなのによりによって骨付きを選んだとは情けない。ましてやレトルト食品はほぼ買わない。それなのに代替品はレトルトしかなかった。朝からぼやいても仕方がない。気が向いたら食べよう。

 以下は『城塞(下)』(司馬遼太郎 新潮社、平成二十八年八十一刷)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★信長の死後、秀吉の融和政策によって救われた。秀吉は京都の六条の地をあたえ、ここに本山を移らせた。本願寺が秀吉に対して恩に着、「豊臣家の御為になることなら」と、つねにその気分でいたことは、そういういきさつによる。家康は関ケ原の先勝のあと、この大教団の存在をおそれ、別個に本願寺をつくった。ふつう東本願寺といわれる存在がそれであり、このためモトの本願寺は西本願寺と通称された。家康は日本中の末寺に対し、東本願寺に帰属をすすめたため、ちょうど半数弱が、その傘下に入った。このため東本願寺は徳川氏の与党になり、幕末のころでさえ、佐幕であった。逆に幕末、徳川氏をたおす側にかつての豊臣びいきの西本願寺がまわった。(231p)

★奇妙なことだが、塙団右衛門(ばんだんえもん)は、結局敗北する。……敗軍してもなお――というより敗軍したればこそ――後世、日本人たちはこの人物をこよなく愛しつづけてゆくのだが、その理由はかれの人柄が日本人としてその長所と短所を濃厚にもっていた典型的な人物だったからであろう。かれは、詩人であった。日本人に愛されるには、詩人もしくは詩的行動者でなければならない。大坂方の敵である徳川家康の行蔵(こうぞう)にはおよそ詩的なものがなかった。それにひきかえて大坂籠城軍諸将の人生と行動はいかにも詩的であり、団右衛門はそのなかでもきわだっている。(259p)

★私見によれば、司馬氏の小説は必要以上に読者と対話をしたがっているようである。文章の行と行の間の”間”(ま)の良さが読者を引きずり込んでいく。読者はみなかれらなりに”意識の流れ”をつくり上げるらしい。実はそれが楽しいのである。それがブルーカラーから知識層に至るまで広い読者層を獲得している秘密なのではないかと思う。私は読み方が拙いのかもしれないが、『梟の城』などの彼のごく初期の作品はそれほど好きではない。『豊臣家の人々』のころから何かしら私は、司馬氏の作品に目をひらきはじめたようである。(解説 大島正)(578p-579p)

2025年12月25日木曜日

『城塞(中)』

 『城塞(下)』を読んでいる。この本は貸出延長済みなので28日までに読み終えないといけない。図書館のHPを見ると年末年始はシステムの更新のため12月29日から新年13日まで休館とある。長い休みなので何冊か本を借りようと、昨日、図書館に出かける。とりあえず3冊借りたが、1冊はすでに読んでいた。何と借りたのはすべて司馬遼太郎の本だ。

 以前だったら長期の休館だと月刊誌の「文芸春秋」など雑誌を借りていた。が、この頃は雑誌や週刊誌などは新聞の宣伝見出しを見るだけで中身を読もうとしなくなった。それは面白い記事がないことにもある。それよりも司馬作品だと読後感がいい!これが読むものを引き付けるのかもしれない。

 以下は『城塞(中)』(司馬遼太郎 新潮社、平成二十八年八十刷)から気になる箇所をメモした。司馬遼太郎は大人になっても少年のような心を持った人を好んでいた。この本にも「家康は少年のみがもつ心の弾みを終生もちつづけた」と書いている。この気持ちは竜馬にも、また司馬作品に登場する人たちにも多くみられる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★キリストの像を踏ませるというテストによって信徒・非信徒を見分けたように、秀頼を殺す手伝いをさせることによって、諸大名をして徳川家への忠誠心を証(あか)させようとした。このために家康は、まず薩摩の島津家久をはじめ五十人の外様大名に対し、――徳川の御家に別心これなく候。という誓紙を提出させた。この提出させた日が、なんと大坂城の使者の片桐且元や大蔵卿局が、外交交渉の前途に希望をもちつつ駿府に滞在していた時期である。ということは、家康にとってかれの大坂攻めは戦争ではなかった。本質は犯罪であった。(152p)

★思えば、家康は少年のみがもつ心の弾みを終生もちつづけたからこそ、その波乱の生涯を切りぬけてこれたのであろう。(たいしたものだ)と、勘兵衛は思わざるをえない。大坂の秀頼はなるほど肉体の年齢だけは若くはあるが、家康のようないきいきした心の弾みを持っているとは、とても思えない。(201p)

★大野修理(しゅり)の戦略方針は、「籠城」であった。東アジア最大ともいうべきこの大城塞において天下の兵をひきつけ、突き砕くのである。その戦闘の惨烈にへきえきして諸大名のなかから、大坂へ内通する者が続出するであろうというのが、その方針の戦略的裏づけであった。このため野外に兵を出して無用の損害をうけてはいけない。――というような退嬰主義に対し、真田幸村ら客将たちは反対であったが、譜代の大野修理が秀頼をにぎっている以上、大野好みのその戦略に従うしか仕方がない、というのが、現状であった。(283p)

★「隼人正は」と、淀殿はこのときほど怒ったことはない。「あれは橙(だいだい)武者です」そういった。これが城内で流行語になった。ダイダイは正月の飾り物で、じっさいの役に立たないという意味である。(344p)

2025年11月23日日曜日

『城塞(上)』

 先日来から「城塞(上)」を読んでいる。この本の次の予約者がいるとわかってノルマを課して読み終えた。次に読むのはこの本の(中)である。これも次の予約者がいて期日までに最低一日5,60頁のノルマを課さないと読み終えそうにない。さてその(下)はと思っているとこれも予約者がいる。これまで司馬遼太郎の本を読んでも予約者がいることはほぼなかった。この「城塞」は秀吉と家康の攻防を描いている。来年の大河ドラマが秀吉のようなのでこの本を読む人が多いのだろうか。

 いくらドラマ化されても本で読む方がわかりやすい。そのためかどんなドラマや映画もほとんど見ない。映像を見なくても本を読むと自分なりの映像が頭に浮かんでくるから不思議だ。

 以下は『城塞(上)』(司馬遼太郎 新潮社、平成二十八年八十七刷)を読んで気になるところをメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「上野(こうずけ)、と家康は急に威を帯びた声でいった。「昨夜、考えてみた。よいか」「これにて、うかがっておりまする」「潰す」正純はとっさに平伏し、天がやぶれたような、霹靂があらわれて大地を撃ったような感じをうけた。豊臣家をつぶすというのである。その底意はかねてあったにせよ、家康の口から出た最初のこれは宣言であるといっていい。むろん、内密のことである。(156p)

★豊臣秀頼のこの時期、京でもっと殿舎や堂塔の壮麗な一角といえば、現今の方広寺の東南にあった豊国廟であった。徳川家というもののすさまじさは、秀吉のこの廟所を三代家光の寛永十四年、ことごとく打ち砕いてもとの野原にしてしまったことである。秀吉はその生存当時、徳川家に対しどういう悪害もあたえたこともなく、むしろ家康を適当なほどに優遇し、怨恨などはないはずであった。しかもそれだけでなく、この豊国廟の東の阿弥陀ヶ峰(東山三十六峰の一つ)にある秀吉の墓所へも人夫のべ三千をのぼらせて墓石をくだき、墓をあばき、骨をとりすてた。このため秀吉という人物は、墓すらもうしない、明治維新成立の年まで二百数十年間祀られざる鬼になるという、常軌はずれの運命になった。前時代の支配者の墓まであばいて捨てるという徳川氏のやりかたは、どうにも日本人ばなれがしている。明治元年、その徳川幕府がたおれ、京で維新政府が成立すると、朝廷はかつて豊国廟のあった草野原に勅使を派遣して秀吉の霊をとむらい、さらに旧方広寺大仏殿あとに一社を建立したが、これが現今もある豊国神社である。往年の方広寺をしのぶ場所といえば、現今ではせいぜいこの神社であろう。(383p)

★――父君の供養のため。などと家康がいったが、それが大うそであることは、このあと五十年後(寛文二年)に、「この像、天下無用のものなり」として、鋳つぶしてそのあと銭を鋳てしまったことでもわかる。とにかく徳川氏は、こと豊臣家に関するかぎり、秀吉の死後、一世紀をかけて悪のかぎりをつくしたといえる。(384p)

★「市正は、豊臣家の内情をつねにくわしく話してくれる。心へだてなく話してくれるから、わしは市正の言うことなら、なんでも信ずるようにしている」と家康はいったのである。露骨にいえば、――わしと且元は一ツ穴の貉(むじな)よ。という意味であった。この一言で、豊臣家としては且元という男が信用できぬということが、雷鳴のはためくような明快さであきらかになったわけである。大蔵卿局も正栄尼も、そうおもった。(つねづね油断ならぬ男と思うていたら、案のじょう、関東に魂を売っていたか)と、両女は同時におもった。家康の第一のねらいはそこにあった。……家康にとって、大坂城攻略が、この一言からはじまったといってよかった。(472p―473p)

★怒りは漢民族にあっては低劣な感情表出tいうことになっているが、日本人にあっては、弱者の不正義への一瞬清らかさの表現であり

2025年11月15日土曜日

『南蛮のみちⅡ』

  『南蛮のみちⅡ』(『街道をゆく』23 司馬遼太郎 朝日新聞社、2006年第1版ワイド版)を読んだ。ここでいう南蛮とはスペインとポルトガルである。どちらも出かけたがポルトガルはブログを始める前なのでスペインへ出かけた時ほど記憶が鮮明ではない。が、一人でツアーに参加したので印象的なことは鮮明に覚えている。とくに、ポルトガルに到着後に知り合った名古屋の女性はいわゆるバックパッカーで一人で旅をしていた。その話を聞いて世界を一人で旅する人に羨望を抱いた。

 司馬遼太郎のポルトガルの旅を読んでかなりポルトガルびいきに思えた。サワダーデ、という故国を想う人たちが歌うファドは哀愁が漂う。ファドを聞きに出かけたお店での光景はとくに鮮明だ。帰国後、ファドに魅せられて市内北部にある蔵を改造した演奏会に出かけたこともある。その時はファドの女王である月田秀子を迎えての演奏会だった。いまはその人の歌声も亡くなられて聞かれない。

 こんなことを思いだしているともう1度海外に出かけたくなる。これまでのようなハードな旅ではなくゆっくりしたツアーに。

 以下はこの本を読んでメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★日本における大航海時代の影響を源流の地で感じたいというのが、この旅の目的である。「南蛮」という言語感覚は、きらめいている。この語感の成立には、明治末年の北原白秋と木下杢太郎に多くを負い、さらにはおなじ新詩社のひとびとである与謝野鉄幹、吉井勇、平野万里もふくめていいかもしれない。(47p)

★紙はイスラム教徒によって製造され、このためトレドは、イベリア半島において圧倒的な知的活動のさかんな街になった。トレドにおけるイスラム教やユダヤ教の教学研究や法律、医学、科学の研究は、紙の豊富さによっていよいよ活発になった。それ以前、紙はオリエントのものだった。さらにそれよりも前は東アジアのものであり、ありつづけた。もっとさかのぼれば紀元一〇五年、中国人の蔡倫によって発明されたことは、たれでも知っている。……八世紀、唐の玄宗皇帝の時代、西方への遠征があった。……このとき、イスラム側の捕虜になった中国人のなかで製紙技術をもつ者がいて、アラビア人にそれを教え、その技術がサマルカンド(現在のウズベク共和国)に定着し、製紙工場がおかれた。いいかえれば紙は、八世紀においてアラビア人のものとなった。(81p-82p)  

★フランシスコ・ザヴィエルを東方に送った経済的な支援者がポルトガル国王であったことでも自明のように、戦国期の日本に影響をあたえた南蛮文化というのは、主としてポルトガル文化であった。(123p)

★列車のデッキからプラットフォームに一足降りただけで、もうトガルだった。その小さな駅舎が私にとってポルトガルで最初に見た建築であったし、タイルの絵はなまで見るはじめてのポルトガルの絵だった。すべてが、ポルトガルを圧倒的に代表していた。「ポルトガルにはもっとすばらしい建築もあれば、絵もありますよ」といわれても、承知できるものではなかった。旅とは初対面の印象を得るためにするものだし、このあとどんな素晴らしいものをみても、最初の印象のういういしさには及ばない。(150p-151p)

★一漢(いつくわん)はギタルラ(註・ギター)を弾じ、衆人がそれに合わせ唱歌した。光景は甚だ絵画的であったが、同時に亦粗野であった。葡萄牙(ポルツガル)は予の想像に於けると全く別趣の外看(註・がいかん)を呈した。(174p)

★私がポルトガルにきたのは、信じがたいほどの勇気をもって、それまでただむなしく水をたたえていた海洋というものを世界史に組み入れてしまった人々の跡を見るためであったが、この大膨張をただ一人に象徴させるとすれば、エンリケ以外にない。……また日本に南蛮文化の時代を招来し、そのうえ南蛮風の築城法が加味された大坂城が出現する契機ともなった。瀬戸内海をへてその奥座敷ともいうべき大坂湾に入ってくる南蛮船に対し、貿易家である秀吉が日本の国家的威容を見せようとしたのが、巨大建造物の造営の一目的だったことは、たれもが想像できる。……ついでながら、その秀吉が、徳川家康を東海の地から関東に移封するとき、関八州を統べる地を江戸に置くように、と教えた。江戸という海辺の小邑については、家康に知識がなく、秀吉のほうにあった。秀吉のいわば「港湾首都論」が、家康にすすめて江戸を選ばせたよいっていい。(187p-189p)

★私は、ポルトガルでは海と海事を見るつもりできた。(196p)

★イデオロギー的正義というおそろしものをこの地上で発明したのは、やっつけられる側のイスラムではなく、十字軍以来のキリスト教の側であった。(250p)

2025年11月13日木曜日

『忍者四貫目の死』

 毎週水曜日、BSよしもとの「笑い飯哲夫のおもしろ寺社めぐり」を見ている。BSはほぼTverでは見られないのでテレビのリアルタイムで見る。この番組は奈良出身の哲夫だけあって奈良県内の寺社巡りが多い。最近奈良にハマっているので見ないわけにはいかない。昨夜は高鴨神社だった。高鴨神社への交通アクセスを見るとあまり便は良くない。最寄バス停から15分歩くとか。この神社の庭園を見ると吸い込まれそうになるくらい素晴らしい。テレビを見ながら奈良のガイドブック2冊をみるといずれも掲載がない。

 公共交通機関を利用しての一人旅なので便がいい神社仏閣に限られる面がある。テレビで見て一度は出かけたいと思いながらもさてさて……。

 昨日はほかにも歯科へ行く。歯のクリーニングだが、まだまだ歯科通いは続きそうだ。

 以下は『戦国の忍び』(司馬遼太郎・傑作短編選)から『忍者四貫目の死』(司馬遼太郎 PHP研究所、2014年第1版第3刷)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★伊賀で傭うた下忍は、一人を上野ノ吐根といい、一人を名張ノ四貫目(しかんめ)といった。吐根はまだ若かったが、四貫目はひどく老いぼれた忍者だった。……四貫目というアダナは、一日にナマ米を四貫目食いだめできるという奇妙な能力から出ている。(59p-60p)

★知道軒道人は、いうまでもなく、四貫目であった。伊賀での呼び名を四貫目といい、武田家での呼び名を知道軒といった。源大夫でさえそのことを知らなかった。むろん、知道軒が祝部三左衛門などではない。三左衛門は、十年も前にすでに世から消えている。(70p)

2025年11月6日木曜日

『兜率天の巡礼』

 最近は司馬遼太郎の本でも忍者(?)に関するものが多かった。こういう類の本を読むと頭がこんがらがる。浮世離れしているためかもしれない。それでも「兜率天の巡礼」に出てくる兵庫の大避神社に出かけたい気持ちがある。何か怪しげな神社に思えるが、それをこの目で見てみたい。

 以下は『兜率天の巡礼』 (『ペルシャの幻術師』に収めてある 司馬遼太郎 文藝春秋、2001年)から気になる箇所をメモした。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★秦の都に行けば、いやでも見ねばならぬものがある。太子は、後世の仏教僧から和国の教主といわれた。仏陀の教えに帰依する太子にとって、山城の太秦は、外道の都であった。異教の廟所があるように聞いている。秦一族はその族の通称として、これを大闢(びゃく)ノ社(やしろ)と名付けていた。閼伽道竜(あかどうりゅう)が、いま赴こうとするのは、その大闢ノ社であった。大闢はのちに大避と誤記し、さらに降って今では大酒神社といわれる。比奈の裏にある大避神社と、同神のやしろである。太秦広隆寺の摂社として、いまに至るまで千数百年の社齢をけみした。(148p-149p)

★仏説によれば、天は九つの天によって出来ている。その一つを兜率天と云い、兜率天に座して下界をながめ、仏滅後五億年の思索を遂げているのが弥勒菩薩であるといわれている。弥勒の国に住む者は、弥勒ひとりではない。いま道竜がながめている兜率曼荼羅がそれをあらわしている。この国に太陽はなく、紫金魔尼(しきんまに)の光明が旋回し、光は化して四十九微妙の玉宮を現出する。……(155p)

★兵庫県赤穂郡比奈の大避神社の禰宜をしている波那の実家の本家の当主から彼女の遠い祖先がユダヤ人(安息系 ペルシャ系)の移民団の子孫であることを知らされて、衝撃を受ける。彼らは古代キリスト教の一派であった景教(ネストリウス)の信徒で、日本に渡来したさいに、秦氏(はたうじ)の一族だと称して、ダビデ(漢訳名大避)の礼拝堂(のちの大避神社)を建てたが、それは仏教の渡来以前のことだという。(358p 「解説」磯貝勝太郎)

2025年11月5日水曜日

『南蛮の道Ⅱ』

 昨日午後はプールで泳ぐ。プールでの顔なじみは何人かいるが最近は1人しか出遭わない。その人は毎日泳ぎに来るという。土、日も?と聞くと休館日の水曜日以外は毎日泳ぐそうだ。数歳下の人だがそれにしても毎日泳ぐとは恐れ入る。住んでいる場所はプールからすぐの所らしい。体つきを見るといかにもスポーツをする人という感じがする。

 その人とは違ってせいぜい週に1度しか泳いでいない。それも旅などに行く週は泳がない。疲れすぎると体に良くない、との気持ちがある。この辺はかなり気を付けている。昨日も500m泳いだ。うち1往復半(75m)はクロールで8往復半は背泳ぎで泳ぐ。昨日は久々に泳いだ後、寒さを感じた。

 最近、司馬遼太郎の『南蛮の道Ⅱ』(司馬遼太郎 朝日新聞社、2006年第1刷ワイド版)を読み始めた。久々に「街道をゆく」を復活して読み始めている。というか、「ペルシャの幻術師」の解説を読んで「南蛮の道」のくだりがあり、その「1」は読んでいるので「Ⅱ」を読もうと思った。昨夜読んでいると「マドリード周辺」の「はるかな『征服』」に以下のように書いてある。

 ★ヴァリニャーノの手紙にも、日本については「征服」ということばがつかわれている。ヴァリニャーノはすでにのべたようにイエズス会の巡察使という高位にあり、「天正少年使節団」を企画し、欧州に送った人物である。

 ポルトガル人とスペイン人の間には、征服に関して分割が行われているので……。

 まことに物騒なことばを、ヴァリニャーノも平然とつかっている。日本がたまたま国内統治が堅牢で、六十余州に武士たちがいたから、現実に、新大陸やフィリピンのように征服されなかっただけで、先方(ローマ法王と、スペイン・ポルトガルの両国王)は、征服できるようならそうしたかったにちがいない。……この両国による領域と征服の保証については、一四九三年五月三日付でスペイン国にくだされた法王の大勅書では、

 彼等(註・王たち)に使者によってこれまで発見され、そして今後発見されるすべての陸地と島々を永久に両王とその後継者達にあたえる。

 とあり、ローマ法王も、ずいぶん浮かれていたといわざるをえない。世界の実情も知らずにこんなばかな大勅書を出しているから、豊臣秀吉の禁教(一五八七年)があったとしても、仕方があるまい。次いで長崎における教徒処刑――二十六聖人殉教――(千五九七年)があり、禁教についての家康の継承があって、ついには禁教が徳川幕府の国是の第一項になり、鎖国がおこなわれることになってしまった。……「征服」という意味は、日本の実情からいって貿易権というほどのことだったろうが、いずれにせよ、一五八四年、スペイン王フェリペ二世が四人の少年をあれほどに歓待した動機には、対日貿易のことがなかったとはいいきれないようである。(44p-47p)

 引用した箇所を読んで「天正少年使節団」や、秀吉の禁教と教徒処刑、さらに徳川幕府の鎖国などの件を改めて知る。元来、歴史嫌いだったが年を経るにつれて、また司馬作品を読みだして今更ながら、という感じで歴史を学ばせてもらっている。

 来春になればJRの広報紙の西日本ナビに掲載の長崎に行こうとも思っている。この本のお陰で長崎の教徒処刑の意味も分かった。

 昨夜は他にも若一調査隊の動画を見て滋賀県の三井寺へ行きたくなった。これも来春にでかけよう。どこかへ行こうと思うと元気が湧いてくる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!