2022年11月12日土曜日

『街道をゆく』(二十六)「嵯峨散歩」

 先月、京都の大徳寺と嵐山辺りに出かけた。出かける前、『街道をゆく』の「大徳寺散歩」と「嵯峨散歩」を読んだ。せっかく京都へ行くのだから「街道をゆく」の一か所でも見てみたい気持ちが湧きおこる。今、『街道をゆく』(二十六)「嵯峨散歩」の気になる箇所を改めて読むと本の影響を受けて出かけていた。

 司馬の「街道をゆく」を読んでいる。が、まだ読み終えていない「街道をゆく」もこれから読むつもりでいる。9月まで台風や雨、そしてコロナ禍で今年はどこへも出かけていないと気づく。その時ひらめいたのが(「街道をゆく」を読んでいるんだからその一か所でも出かけてみよう)、という気になった。そこですぐに宿を探す。そしてJRの新幹線「おとなび」を予約する。その後は(さて、どこへ行く?)、となって「街道をゆく」を頼りに歩いた。

 先月、長州と京都へ出かけた。今月は土佐を予定している。少しずつでいいから自分の足で出かけたい。先月出かけた2か所に弾みがついて(まだまだ一人でも十分行ける!)との思いが募る。昨日、旅好きな友だちから電話がある。そしていろんな旅情報を知らせてくれる。行楽シーズンはまだ続く。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『街道をゆく』(二十六)「嵯峨散歩」 (司馬遼太郎 朝日新聞社、1999年第4刷)から気になる箇所を抜粋。

★樒(しきみ)は漢字だが、べつに国字があって梻(しきみ)と書く。文字にこの木の用途があらわされている。日本ではその枝を切って神にささげる木としては、木へんに神と書く榊(さかき)(国字)がある。シキミもサカキも、葉の色や形が似ているが、神と仏と用途がわかれている。シキミに漢字の樒がありながら梻という国字がつくられたのは、神と対にしたい気分があったにちがいない。(30p)

★東アジアにおいて普遍的文明というのは、中国にしかなかった。朝鮮は質のいい文化をもっていたが、文明ではない。文明とは、”たれでも参加できるもの”であり、文化とは”そのグループだけの特異なもの”と定義すれば、当時の日本に必要なのは、普遍的なもののほうだった。たとえば漢字は普遍的で、たれでも参加できる。土木技術もそうである。それらの根源は、中国にあった。(41-42p)

★角倉家と嵯峨の天竜寺との縁はふかい。天竜寺の僧たちのかかりつけ医者だったという時代もある。天竜寺はいうまでもなく臨済禅の京都五山の一つだが、寺ながらも別に対明貿易商という一面をもっていた。すでに元の時代から室町幕府によって官許されていた貿易商で、世に「天竜寺船」とよばれた。了以の父の宗桂は遣明天竜寺船に乗って入明したことがある。天竜寺船はいわば一航海きりの会社のようなものだから、角倉一族は当然、資本も出し、利潤の分配にもあずかったであろうが、宗桂自身はかの地で明の医方を学んだ。(56-57p)

★登りは、石段である。この峰の大悲閣に、了以が木像になってしずまっているというのも、ゆゆしい。かれは保津川工事の犠牲者の霊をとむらうために念持仏の千手観音を大悲閣(千光寺)にまつり、この寺で亡くなった。木像はいまでも工事現場を見おろしている。(62-63p)

★室町期の嵯峨となると、この景観と地元経済の一中心地は、天竜寺だった。開山は、よく知られているように、夢窓礎石(一二七五~一三五一)である。その著『夢中問答集』をみると、禅客にままある奇矯の風がない。夢窓は中庸を好み、長者の風をそなえ、さらには山林への退隠を好みつつも、後半生、京という市井に出た以上は、孤高を誇るをみせず、俗世の難事にも手足を汚してこれが調停や解決に当たろうとした。生前、三つの国師号をうけたというだけでも、当時の人気の高さがうかがえる。三つの国師号のうち、「夢窓国師」の号の知名度がいちばん高い。(83p)

★私どもも南門から入った。正面に向かってすすみ、放生池(ほうじょうち)や松林やらをすぎてゆくと、法堂(はっとう) (座禅堂)にゆきつく。……夢窓をさらにわかろうと思えば、大方丈の裏の庭園(曹源池)ほとりまでゆけばいい。夢窓は、庭園で禅の境地を表現しようとした人で、この庭には禅がもつ抽象性の骨格がふとく組みこまれている。そのくせ、古今・新古今の日本的美意識の世界であり、大和絵そのものといえる。(94p)

★私は天竜寺の塔頭妙智院で、湯豆腐を食っている。嵯峨には、湯豆腐の店が多い、はじまりはこの妙智院である。寺の収入を観光やあやしげな供養でまかなうよりも、湯豆腐で賄うほうが、はるかに宗教的といえる。鍋の中で煮えているのは「森嘉」の豆腐で、あれやこれや思えば、日本文化を食っている気がしてくる。(108p)

★後嵯峨天皇の子が、亀山天皇(一二四九~一三〇三)である。このひとが、嵐峡の空をわたる月をながめて、あたかも橋が天上の月を渡しているようだ、として橋に「渡月橋」の名をあたえた。(117p)

★建設省は、流量計算で橋の構造をきめるだけという単純なやり方で、風景をぶちこわすような悪い橋をかけつづけている。今後、万一、いまの渡月橋が流れることになれば法規によって高々として分厚い(しかもふしぎに赤ペンキを塗りたがる)新橋ができるおそれがある。となれば、先年の嵐峡も死ぬ。法は神よりも強い世である。願わくば渡月橋の寿命の永からんことを。(121p)

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