2022年11月29日火曜日

『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで』

 ゼロ・コロナを目指す中国。その政策について行けない中国の国民は怒りの矛先を政府に向けて連日デモを繰り広げている。が、コトは簡単ではない。そこに自由はなく、まさに「独裁国家」中国がある。以下は『独裁の中国現代史 毛沢東から習近平まで』(楊海英 文藝春秋、2019年第1刷)から気になる箇所を取り上げた。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★中国は都市部と農村部で戸籍が分かれており、激しい格差の温床となっています。大雑把に「いえば農村戸籍者六割に対して、都市戸籍者は約四割。かつて農村から都市への移住は厳しく制限されており、農民は自給自足を原則として、社会保障制度からも外されていました。それに対し、都市戸籍者は教育、経済、福祉などの面で圧倒的に優遇されているのです。……大学を卒業したあとの生活も、都市戸籍を持つ人のほうが有利です。北京の都市戸籍がなければ北京で就職することはできません。……、当然、共産党の中央幹部は、その家族ともども北京などの都市戸籍を持ち、特権を謳歌しています。(22-23p)

★一九一一年十月、清で辛亥革命が起きたとき、孫文はアメリカにいました。このとき革命運動の中心にいたのは、日本や欧米への留学経験がある漢民族の知識人たちでした。特に日本への留学生は多く、清朝末期には一万人以上に達したといわれます。彼らが辛亥革命で掲げたスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」、すなわち清朝の打倒、中華=漢民族による主権の回復、共和政の樹立、土地の平等化という意味です。このスローガンは非常に重要で、漢民族主権と土地問題はまさに中華人民共和国の時代になっても、主要なテーマであり続けるのです。(39-40p)

★中国共産党が発足した第一次全国代表大会の会場は、東京帝国大学への留学から帰国した李漢俊の自宅で、集まったのはわずか十二人という、全国代表大会というにはあまりにもささやかなものでした。この十二人のうちの一人が毛沢東でした。初期の中国共産党のありかたは、近代的な政党というよりもむしろ秘密結社に近いものが感じられます。……現在の中国共産党の秘密体質、密告による支配は、革命党の秘密主義+中国的秘密結社の伝統がミックスされたものではないでしょうか。(48-50p)

★都市部のインテリ秘密結社としてスタートした中国共産党は、一九二〇年代末から三〇年代にかけて数百万の農民を党員として獲得し、農民主体の党となります。この大変身の立役者となったのが毛沢東でした。(59-60p)

★長征とは、江西省瑞金から陝西省延安まで約一年間をかけて、約一万二千五百キロメートルを徒歩で行った大移動のことです。……ちなみにこの陝西省で毛沢東たちを迎い入れたのが、後に「満州のスターリン」とよばれる高崗であり、習近平の父習仲勲でした。(64-65p)

★中国共産党は現在も強固な等級制度を敷いています。また反腐敗闘争でも明らかなように、密告文化も健在です。今の中国の組織や、ルーツは延安時代にあるのです。(68p)

★共産党は国民党に寄生して資金と武器を調達し、麻薬を売りつけ、「抗日を戦った救国の党」という正当性さえ搾取して勢力を伸ばして行きます。……戦後、毛沢東は田中角栄首相や、日本社会党などの訪中代表団に対して、繰り返し「戦争のことを謝ることはない。おかげで私たちが政権を取れた」と発言しています。これは「日本の戦争指導者たちは敵だったが、日本の人民は味方だ」という分断戦術でもありましたが、歴史的事実でもあったのです。(75-76p)

★この「告発と粛清」の手法は、その後も中国で繰り返し登場します。一九五七年の反右派闘争、一九六六年以降の文化大革命、さらには現在の反腐敗闘争にも通じるものがあります。いずれも権力側がいわば恣意的に処分を行える「恐怖による支配」のツールなのです。……もう一つ、中国社会を大きく変えた政策が農村の改造です。その二つの柱が、「土地改革」と「農村戸籍の導入」でした。建国当時、中国の人口の八割は農村に住んでいました。それだけに、毛沢東にとって農村の改造は非常に重要な政策でした。「土地改革」の手法については、前にも触れました。地主から土地を奪い、農民に分け与えると約束する。瑞金政府時代から毛沢東が行ってきた方法を全土にひろげたものです。(90-91p)

★共産党を批判するのは「右派」であるとして、それを取り締まるから「反右派闘争」。……反右派闘争は、中国に残った知的エリートを標的としておこなわれた粛清でした。これによって毛沢東は、言論、文化のレベルでも政権に異を唱える者を許さないという完璧な独裁国家を作り上げたのです。(112p)

★毛沢東は政権奪取のために、大衆を扇動しました。その一方で、扇動された大衆たちも毛沢東を利用した面があります。毛沢東の「造反有理」の呼びかけを、党の指導部やエリートたち、地主、富裕層、知識人を攻撃するお墨付きとして、不平不満や個人的な恨みなどを晴らそうとしたのです。これは現在の習近平の反腐敗闘争にもあてはまりますし、もっと広くポピュリズム政治一般で見られる構図でもあります。その代表的な例が、アメリカの低中所得層とトランプ大統領の関係でしょう。(135p)

★文革で「反革命」「ブルジョワ」とされ、自己批判を強いられリンチの対象とされた人々と、リンチを行った人々との間に、明確な差異があったとは思われません。たまたま「政敵」だと指摘された人物がスケープゴートとされています。「敵」の定義の曖昧さ、恣意性、そして、誰もがいつでも「敵」とみなされる可能性があること。これが中国現代史で繰り返し登場する「粛清」の基本パターンです。そして「敵」が誰かを決定できるのが、現代中国の権力者なのです。(141p)

★アジアの多くの国々にとって西洋諸国からの独立・自立が大きな課題だったように、モンゴル、ウイグル、チベットは中国からの独立を目指し、一時はそれを実現してもいたのです。これは現在の民族問題を考える上でも重要な点です。もともと歴史的にも民族的にも中国に属していなかったエリアが、二十世紀になって突然、中国の一部に組み入れられたのです。(146-147p)

★新疆は「新しい彊土(土地)」を意味する言葉です。漢民族は古くからこの土地を「西域」、つまり自国に含まれる地域だと考えてきましたが、現在の新疆ウイグル自治区を含む中央アジアの広い地域はペルシャ語で「チュルク人の国」を意味する「トルキスタン」と呼ばれ、地理的にも文化的にも明らかに中国の一部ではありません。清朝の支配下に入ったあとも、圧倒的多数はチュルク系の農耕民族ウイグル人、そこに同じくチュルク系の遊牧民カザフ人、そしてモンゴル人が暮らしていました。……清朝はロシアの進出を食い止めるため、新彊に多くの漢民族を移住させ、一八八四年、新彊省を設置しました。……スターリンはヤルタ会談において新彊の中国への編入を主張しました。……スターリンが新疆を中国へ編入しようとした狙いは、チュルク系民族の分断でした。チュルク系民族がすべてソ連国内の共和国となり、民族として結集すると、コントロールが難しくなる。国内統治上の理由で、新彊は切り離されたのです。(150-152p)

★この「精神汚染」の問題もまた、ずいぶん海外からの文化の輸入が赦されるようになった現在でも、基本的には変わっていません。たとえばよく知られた話ですが、中国のインターネットには金盾(きんじゅん)という検閲システムがあり、「天安門事件」や「ダライ・ラマ」などの検索には規制がかかります。お金は入ってきてほしいが、不都合な情報や思想は排除したいというのは相当無理なことだと思いますが、中国共産党にとっては死活的な問題でもあるのです。(177p)

★父親を失脚させ、自分たちを理不尽な目に遭わせた張本人は毛沢東です。それにもかかわらず、習近平も薄熙来も毛沢東を信奉し続けているのです。それはなぜか。習近平や薄熙来などの文革世代の太子党たちを評した言葉に「オオカミの乳を飲んだ世代」があります。オオカミの乳とは毛沢東思想のことで、親を食い殺してしまったオオカミ=毛沢東に育てられ、自分の親だと思ってしまっている、という意味でしょう。(196-197p)

★これまで周縁の地であり、長い期間、中華王朝の支配とは無縁だった地域、モンゴル、ウイグル、チベットはロシアやインドなどに接しているために、国家防衛の要所とみなされるようになります。だから、これらの地域で強引な中国化が進められている、すなわち、全土を赤く塗り上げた中国は、その縁の部分をさらに濃い赤に染めようとしているのです。これを海洋に展開しようとしているのが、南シナ海であり、尖閣諸島であり、台湾なのです。(199-20p)

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