ラベル NHK・BSスペシャル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル NHK・BSスペシャル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年12月29日木曜日

「フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して」を見る

 昨夜のNHK・BSで放送された「フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して」を興味深く見た。番組HPによると「 “魂のピアニスト”フジコ・ヘミング。彼女が最も愛する作曲家・ショパンはスペイン・マヨルカ島で死を宣告されながら名曲を書き上げた。ショパンの面影を探す旅に密着!」とある。

 90歳を過ぎても精力的に活動しているフジコ・ヘミング。今年の9月に8日間の日程でスペイン・マヨルカ島を訪れている。フジコ・ヘミングは20年くらい前にNHKの特集で知った。が、その時、フジコは60代後半だった。そのころ広島でのコンサートを聞きに行ったことがある。それから月日は経ち、昨夜の放送では歩行器で歩いていた。またピアノがある舞台までは人に伴われて出ていく。そんな状態なのに一番好きなショパンが過ごしたマヨルカ島を訪れたい一身でショパンを追いかける。

 ショパンは生まれ故郷のポーランドの戦火から逃れてマヨルカ島へ移る。フジコはこの島で一度目のコンサートをし、そして2度目はショパンが以前住んでいた元教会で演奏会を開いた。どういっても90歳を過ぎている。しかしピアノに向かう姿は聞く者の胸を打つ。年が明けると広島でもフジコ・ヘミングのコンサートがあるようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年12月15日木曜日

従軍僧

 昨夜のNHKBS1スペシャル「戦禍のなかの僧侶たち〜浄土真宗本願寺派と戦争〜」を興味深く見た。この初回の放送は8月20日だそうだが見逃していたようだ。戦争といえば兵士が浮かぶ。しかし、従軍僧の存在はこの番組で初めて知った。

 番組HPによると「仏教は戦争にどう関わったのか。浄土真宗本願寺派は1万寺に調査を行った。戦場に派遣された従軍僧の日誌や戦時動員の住職の記録など新資料から僧侶たちの戦争体験を描く。 日中戦争から太平洋戦争の時代、仏教は戦争にどう関わっていたのか。浄土真宗本願寺派(西本願寺)は1万寺に調査を行った。3800の寺から回答があり写真や資料が寄せられた。中国の戦場に派遣された従軍僧の日誌や門信徒を戦場に送った住職の記録などアジアに進出した教団の姿が浮かび上がった。太平洋戦争では85%の寺が金属回収に応じ学童疎開や戦時動員に協力していた。新たな調査をもとに戦禍の中の僧侶たちの姿を描く」とある。
 
 広島は安芸門徒と言われるように浄土真宗の家が多い。従軍僧は日清戦争から始まる。昭和6年(1931年)、上海に上海別院が建設され、各宗派の従軍僧を中国に派遣した。それは傷病兵を激励するためであった。さらに南京に仏教学院をつくって中国の仏教徒を日本人を教育するように教育した。昭和15年(1940年)、宗教団体法が制定されて国は戦争協力を仏教界に求めた。これにより僧侶はそれを門徒に広めた。この協力は俗諦(ぞくたい)(注・電子辞書によると「仏語。世間の道理。浄土真宗では王法や世俗の仁義をいう」)として求めた。昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が始まり、報告団が結成される。

 戦争へと駆り立てる出兵兵士を送るとき、寺は激励会場になった。また全国の寺の9割近くは梵鐘を国に寄進した。熊本の山下少尉19歳は昭和20年(1945年)5月25日、「南無阿弥陀仏」と書いた紙を体に巻き、それを唱えながら我が家の上空を一度旋回して飛び立っていった、と弟は話す。その何年か後の同じ月日に母親が亡くなる。19歳の特攻隊員は「南無阿弥陀仏」と唱えれば仏が助けてくれると思ったようだ。見ていてこの場面が一番泣けた。

 戦争中、寺院は学童疎開を受け入れた。広島の三次のある寺院は広島市内の学童26人を受け入れた。その時、広島に原爆が投下され、疎開先で親を亡くした学童もいた。このお寺の現在の住職である小武(おたけ)氏は家を片付けている時、祖父が戦争へと送り出した当時のお寺での講話を記した日誌を見つけた。これを見た小武氏は過去を見つめなおし、もしもその当時の自分だったら、と問い直したそうだ。そのことを今の門徒さんに集まってもらって話す場面があった。

 浄土真宗大谷派は2004年、戦争協力を認めた。すべては国策として戦地に送り出したことに問題がありそうだ。

 いま、『司馬遼太郎の時代』を読んでいる。司馬は学業を繰り上げ卒業して戦争に赴いている。本を読んでいるとやるせない気持ちになる。従軍僧として戦地に赴いた人、そして、その地へと送り出した人たちはもっとやるせない気持ちになったに違いない。すべては国策!?小武氏は今、何であれ戦争はいけない、と街頭に立って人々に訴える。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年5月12日木曜日

「明治の悲しみ」

 NHKのBSで「街道をゆく」第6回「本郷界隈」を見た。番組HPによると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!明治の悲しみとは?東京・本郷で維新直後の明治国家に思いをはせ、夏目漱石の足跡を追って松山、ロンドン、そして再び本郷へ」とあり、さらに「昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』▽路地に樋口一葉、崖の上には正岡子規、多くの才能が集った街。その面影を訪ねて▽東京大学は『配電盤』!西洋文明の受容と分配を担う▽お雇い外国人の高額俸給▽明治の気分を岩崎邸に見る▽夏目漱石が背負った役割とは?道後温泉からロンドンへ▽本郷で出会った大木▽旅の終わりは三四郎池▽1998年放送の番組が鮮やかな映像でよみがえる」ともある。

 先日の西郷隆盛の歌ではないが西郷は明治10年に亡くなっている。その年に東京本郷に東京大学ができた。元は加賀藩主の前田邸だ。夏目漱石は東京大学に通い、夏目金之助として学生簿にある。コンドル設計の広大な岩崎邸も大学の一部をなしている。東京大学が近代日本の配電盤だったらしく漱石は『坊ちゃん』の主人公を通して追っている。そこには「明治の悲しみ」が漂う。明治期、ロンドンなど欧米へ日本から683人が留学した。その費用は東京大学の歳費の3分の1を占めていた。だが、必ずしも留学組の全員が順風満帆ではなく、自殺者も少なからずいた。

 留学組に漱石がいた。漱石は大学とは何か。それは国家が自分に課した義務だと思った。だが、苦しむ。漱石は自分自身の人生を通して『三四郎』を書き、近代日本を見つめた。漱石以外にも近代日本を見つめていたものがあった。それは本郷近くにある樹齢600年のクスノキである。本郷のクスノキといわれるこの樹木も近代日本を見つめていた。取材当時、この家の主は明治時代の趣になるようにクスノキを剪定した。

 番組を通して『街道をゆく』の本を読むだけでなく、自分自身が知らないこういった場所へも行きたくなる。今日は雨の予報だが今のところ雨は降っていない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 追記 ブログをアップ後、『街道をゆく』(三十七)「本郷界隈」を読んでいると「甲斐庄喜右衛門の屋敷跡に、いまも一樹で森を思わせるほどのクスノキがそびえている。……江戸時代、”本郷のクスノキ”とよばれて有名だったという。……このクスノキは、いまは区の保護指定になっている。樹齢六百年といわれる」(66p)とあるようにこのクスノキは個人所有ではないようだ。

2022年4月28日木曜日

「南蛮のみち」

 昨夜のBSで司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの「南蛮のみち」が放送された。ここでの南蛮はスペインのバスク地方をいう。バスク地方はフランスとスペインの国境を挟んで位置している。テレビで見た国境は10m幅くらいの短い橋の辺りがそうだった。この地方ではバスク人がバスク語を話す。一時はバスク国という独立した国があった。が、その時は廃れゆくバスク語の復活を目指して子供たちにバスク語を教えていた。
 
 スペインへは今から10年半前に出かけている。その時の同行者にスペイン人の神父様がいらっしゃった。キリスト教に疎いものにとっては旅行中の何もかもが驚きとともに新鮮だった。楽しかったスペイン旅行を思い出しながら放送を見る。

 番組HPによると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!日本にキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザヴィエル。彼の故郷バスク地方へ。『南蛮』とは一体何かを感じる旅が始まる」とあり、その詳細として昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』。日本に西洋の文化、宗教等を伝えた南蛮人。代表的人物ザヴィエルはバスク人だった▽パリからフランスとスペイン国境地域・バスクへ▽独特なスポーツと伝統の丸太割り競争!▽『日本人』になったカンドウ神父の生家で▽ザヴィエル城を守る修道士▽緑の大地に見た人々の営みと変わりゆく現実▽1998年放送の番組が鮮やかな映像でよみがえる」ともある。

 昨日、図書館で『街道をゆく』(二十二)の「南蛮のみち」(1)を借りる。「南蛮のみち」は(Ⅱ)もあるがバスクは(1)に収めてある。読み終えたら(Ⅱ)も借りて読もう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年3月27日日曜日

「小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~」を見る

 昨日午後のNHK・BSプレミアムで「小野田さんと、雪男を探した男~鈴木紀夫の冒険と死~」を見る。2017年制作の番組は半分ドラマ仕立てで残り半分は実在する人物が登場する。鈴木紀夫と同じような時代を生きてきたにもかかわらず、この人について何も知らなかった。鈴木紀夫はまさに男のロマンを追い求めた人だった。

 鈴木は何度目かの雪男を探索途中に雪崩に遭い、37歳の若さで亡くなる。雪崩に遭う前に奥さんあてに手紙を書いていた。いつも大事にその手紙を見て生きている奥さん、なんと幸せなことだろう。鈴木の好きな歌である「ここに幸あり」が流れる中、番組は終わる。番組HPによると「戦後29年もの間、フィリピンのジャングルに身を潜めた小野田元少尉。彼を日本に連れ戻したのは、たった一人の若者だった!その若者の名は鈴木紀夫。冒険家を目指した紀夫はその後、ヒマラヤで雪男発見に没頭し、雪崩に遭い、37歳で生涯を閉じる。70~80年代、経済成長する日本社会に背を向け、なぜこのような生き方を選んだのか。小野田や雪男捜索の初公開資料を交え、男たちの生きざまをドラマとドキュメントで描く」とある。

 小野田さん発見時の鈴木のフイルムには世間に出ていない数多くの写真が残っている。当時の政策なのか写真は2枚しか表に出ていない。

 鈴木の奥さんとなった人は作家の林房雄の娘とか。どこまでも夫を支えてついていく姿に心打たれる。鈴木が奥さんにあてた最後の手紙に「もっと幸せな生活を……」みたいな言葉がある。この言葉だけで十分に幸せを感じる、ようなことを奥さんは話していた。

 小野田氏と鈴木夫妻は鈴木が亡くなるまで常に連絡を取っていた。ロマンを探して生きて行く2人の男たちの姿を見ていると自分には到底かなわぬことと羨ましくもあった。降り続く雨の日の午後に見るテレビはなぜか気持ちが晴れる。いい番組だった。
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年3月21日月曜日

「愛と異端のシルクロード」

 昨日は補欠選挙の日。選挙を終えて会場を出ようとするとNHKの出口調査の人から選挙について聞かれる。タブレットを持った係から10項目くらいの質問に応答した。選挙期間中の世間のうるさいこと、今朝はやっと静けさを取り戻す。出口調査をされるのは初めてだった。
 
 NHKのBSで「愛と異端のシルクロード」を見た。番組HPによると「長い間、撮影がゆるされなかった中国・雲岡石窟。5世紀、東西文明を融合させた圧倒的な美の造形から、シルクロードの覇者となった謎の民の夢と若き后の愛に迫る! 中国四大石窟のひとつ雲岡石窟。東西1kmの断崖に254の洞窟が穿たれ、壁面に5万体に及ぶ仏像等が彫られている。世界的にも稀な立体造形の美の殿堂だ。これは『鮮卑』という謎の民の知られざる偉業。北方の遊牧民が、5世紀、中国を統一するため、シルクロードを行き交う東西文明を融合させながら新たな文化をつくろうとした。その美に潜む、異端の王の夢そして聖母子の愛が、中国の著名な女優・趙濤さんの案内で浮かび上がる」とある。

 気温マイナス20度の中での撮影でテレビ画面にも雪がちらつく。12回ほど中国に出かけているが雲崗石窟へは行っていない。「鮮卑」という民はオロチョン族を起源とし、理想郷をつくるために中国統一を図ろうとした。中国の最初の王朝である北魏の初代皇帝は鮮卑の拓跋珪(たくはつけい)。「皇帝即如来」(皇帝すなわち如来)として254の洞窟を穿って、その壁面に5万体の仏像を彫刻した。これは第20窟を見るとわかるとか。
 
 第21窟は座像、第18窟は第3代皇帝の立像がある。敦煌の石窟は粘土で作られているが雲崗石窟は岩を削って穿った。254の雲崗石窟は女性をモデルにしている仏像が多い。皇帝の母となる女性が子供を産むとその女性を殺した。そして殺された女性は美しい仏像となる。

 第9窟には第4代の妃である馮太后(ふうたいごう)の仏像が彫ってある。馮太后は子を毒殺し、義理の孫を養育して27歳で祖母になった。馮太后は農民に戸籍を与えており、東アジアの律令制は馮太后の影響を受けているとも言われている。
馮太后

雲崗石窟は段階的な表現があり雲崗様式と言われる

第6窟には民族的な融合(不二)が見られる
 
 第6窟には民族的な融合(不二)が見られる。馮太后は漢民族と鮮卑の結婚を認めた。その後、北魏王朝は滅亡し孝文帝が北魏から洛陽に遷都すると竜門石窟に多くの仏像群が造営された。
洛陽にある竜門石窟

 洛陽の竜門石窟へは30年余り前に出かけている。敦煌石窟へも出かけているが雲崗石窟へは出かけていない。いつかコロナ禍前のように簡単に外国旅行ができるようになれば雲崗石窟を見ることができるかもしれない。が、今の時点ではどこへ行くにも無理という気がする。

 今やコロナ禍だけでなく世界のあちこちで紛争や天災が絶えない。そんななかで悠長にテレビで見る「愛と異端のシルクロード」はなんと気持ちが落ち着くことだろう。以前ならばわけなく旅行に行けたのに、と思うといろんな面で残念としか言いようがない。せめて旅行が再開されるまで元気でいなくては、とわが身に言い聞かせよう。なお、画像はテレビ画面から写真を撮った。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年11月25日月曜日

「天皇が創った至宝」を見る

 先日のテレビで「天皇が創った至宝~正倉院宝物が伝える“日本誕生”~」を見る。あちこち遊びに出かけても未だに正倉院展を見たことがない。 番組HPによると以下のようにある。

★今年10月、新天皇即位を記念し、天皇家が守り続けてきた「正倉院宝物」が公開される。1300年という世界にもまれな悠久の時間を超えて残された宝物の数々。シルクロードを経て日本にもたらされたと考えられてきたが、最近の研究で、その多くが日本国内で作られたことが明らかになってきた。
 番組では、宝物を超高精細8Kカメラで撮影。すると、宝物に残された製作工程を示す痕跡を、初めて映像でとらえることに成功した。そこから浮かび上がってきたのは、日本で宝物を作る一大国家プロジェクトの存在。推し進めたのは、奈良の大仏を建立した聖武天皇である。当時、日本は、巨大帝国・唐に対抗すべく、新しい国づくりを進めていた混迷の時期。宝物の国産化は、日本を生まれ変わらせようとする聖武天皇にとって、乾坤一擲の秘策だったことが見えてきた。
 “ものづくり日本”の原点ともいえる1300年前のプロジェクトを、正倉院宝物から解き明かす歴史ミステリー。東京国立博物館と奈良国立博物館での特別展開催に合わせ、至宝の魅力をあますところなく伝える。

 聖武天皇の時代、宝物は権力の象徴だった。聖武天皇は唐の宝物を見て不思議な力があると気づく。日本の宝物をつくろうとした聖武天皇。日本と称する前は倭国。倭国の奈良時代、大王から天皇と称した聖武天皇は権威を強化し始める。唐のような宝物をつくるための内匠寮(たくみりょう)を組織し、宝物の力を利用して日本の国づくりを始めた。

 正倉院にある9000点の宝物のうち9割以上は日本でつくられたことが最近の調査で判明する。聖武天皇37歳の時、疫病が流行る。国を安定させるために仏教の力を借りようと思いつき、宝物として大きな仏像を東大寺に建立する。大仏完成の儀式には全国から1万人を集めて礼楽(礼儀と音楽)が催された。そのための楽器がつくられ、宝物の音色を奏でる。752年、聖武天皇は上皇になった。この儀式は天皇のつくった至宝である宝物の力で日本をまとめることができた。この時つくられた宝物が正倉院内に収められ、正倉院宝物の始まりとなる。

 正倉院展には一度も出かけたことがない。この番組を通して知らないことがわかると興味も増していく。今はまだ近代に目覚めたばかりで、遠い先の時代もこれから徐々に関心を抱くようにしよう。それには一度くらい正倉院展を見に行ってもいいかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年10月16日水曜日

明治維新150年スペシャルを見る

 昨日午後はNHK・BSの明治維新150年スペシャル「決戦!鳥羽伏見の戦い 日本の未来を決めた7日間」を見る。番組HPによると「明治維新はなかった!?もしこの戦いの経過がほんの少しでも違っていたら?ちょうど150年前の正月3日に京都・大阪間で始まった鳥羽伏見の戦い。徳川か薩摩か?実はこの激戦、どちらが勝つか全く予測不可能。わずかな判断の差や偶然の成り行きで、結果は全然違ったかもしれなかった。本格ドラマと検証ドキュメントで、知られざる内情を徹底追究!歴史ファン衝撃の裏話が続々のスペシャル!」とある。初回は2017年12月30日放送で昨日は再放送だった。

 1年近く前に大連に行き、旅の間話題に上った司馬遼太郎の本。これに目覚める。それ以来、司馬作品を読んでいる。作品は明治維新前後の小説が多い。番組欄で目にした昨日の放送は2時間と長い。興味を持って放送を見る。ドラマ仕立ての2時間番組も途中、その道の専門家が新政府側についた人が書いた絵巻物を見て話を進める。絵の中には肥桶に入った町民が戦いの様子を覗き見る絵もある。鳥羽伏見の戦いの絵だ。

 こういうテレビを見ると当時のことが再現されて、歴史嫌いも歴史好きになっていく。司馬作品を読むようになって、この時代の歴史は好きになったが、それより前の時代はほとんどわかっていない。徐々に古い時代も理解するようにしよう。

 今、読んでいる司馬作品は『翔ぶが如く』の5巻目。この作品は全10巻なので今年中には読めそうにない。小説を読む楽しさは司馬作品で教わった。司馬作品に巡り合ったおかげで小説に目覚め、歴史が好きになる。そしてそれがきっかけでさらにいろんな面へと興味が広がる。もとをただせば大連への旅がコトのはじまり。さらにいえばその時知り合ったツアーのヒトとの話から……、とモノ・コトはどんどん広がっていく。

 そう思うと楽しみは何がきっかけとなるかわからない。ざっと思い返しても旅先で知り合った人たちからいろんなことを学んでいる。やっぱり旅はいい!

 旅といえば新年早々、海外の旅が待っている。これは某交流会の旅。今年は参加者が少なくて催行ならず。来年は催行のようだが、さてさて。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年1月5日土曜日

「玉木宏 音楽サスペンス紀行」を見る

 新年のダグニーさんのblogを見ると交通事故で入院されている。一昨日からブログの入力はダグニーさんの友人たちによってアップされる。今朝のblogには安全のため入院とある。どういっても106歳、無事退院されてまた元気なダグニーさんのblogをいつまでも見続けたい。

 新年2日目の夜、「玉木宏 音楽サスペンス紀行”ショスタコーヴィチ 死の街を照らした交響曲第7番”」を見た。番組HPによると次のように書いてある。

★第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍に包囲され過酷な状況にあったレニングラードで、ある演奏会が行われた。ショスタコーヴィチが故郷・レニングラードにささげた「交響曲第7番」。飢えや寒さと闘いながら、人々はどのようにして“奇跡のコンサート”を実現したのか?一方、作品の楽譜は密かにマイクロフィルムにおさめられ、遠路アメリカまで運ばれた。ソビエトとアメリカの大国同士が音楽で手を結んだ、驚くべき政治的背景とは?

 2時間の長時間番組であってもひきつらけれて見た。玉木宏がまるでショスタコーヴィッチであるかのように丸い眼鏡をかける。これは玉木をショスタコーヴィッチに似せるための局側のやらせかもしれない。また長くなったけど、感動してしまったのでメモ書きを全部アップしよう。


 スターリンの時代、彼はオペラを見ていた。革命的であり、支離滅裂と痛烈にオペラを非難したスターリン。ショスタコーヴィッチはスターリンから尋問を受ける。だが、次の曲が気に入られてどうにか粛清を免れる。レーニングラードはドイツとの包囲戦でビスカリョフ墓地と化した。ヒトラーはレニングラードを消滅させると目論んだのである。

 今から30年前に出かけたソ連の旅でレニングラードにも出かけた。今はサンクトペテロブルグと名称も変わっている。出かけた当時のレニングラードは広場でクラシック音楽の生演奏も行われており、エルミタージュ美術館もあって美しい街だった。まさか、このレニングラードでこれほどひどいことが起こっていたとは……。

 ショスタコーヴィッチ作曲の交響曲第7番はラジオのスピーチで「巨大な悪」が存在していると放送される。レーニンはこの曲を安全な場所で書くようにとショスタコーヴィッチをレニングラードから連れだす。ラジオ・シンフォニーはドイツとの開戦で音楽を中止されて活動不能に陥いる。その代わりとしてチャイコフスキーの曲を国外向けに放送した。ところがレニングラードはヒトラー率いるドイツ軍により兵糧攻めにされる。食料に困った市民が肉を買いに行くが、いつまで経っても帰ってこない。不審に思って探しに行くと殺されて「人肉」となる寸前だった。レニングラードでは人肉を食べた人がおり、その数をヒトラーは把握していた。まさにサスペンス紀行!?ほかにも糊付けされた壁紙をはがして、糊を食料代わりにした人もいた。糊は小麦粉で出来ていた……。

 1941年末、ショスタコーヴィチは「レニングラードの街に捧げる」として曲を書き上げる。だが、街にその楽譜は届かなかった。クイビシェフの街で第7番が演奏され、プラウダはそれを評価した。だが、スターリンはこの第7番をたくらむ。どういってもスターリンは自分以外の全てを疑った男だ。しかし、彼は優れた音楽を支持したので第7番はマイクロフィルムにしてアメリカに送った。

 アメリカ大統領ルーズベルトはこれをサンタクロースのクリスマスのプレゼントのように思い、替わりにソ連に武器を援助した。民衆はアメリカで第7番を演奏するのを讃えた。楽譜をマイクロフィルムに撮影して送る、これはソ連の共感をひろげた。ナチスの目を逃れてマイクロフィルムはソ連とアメリカが共同して送ったのである。

 スターリンはスターリン賞第一号をショスタコーヴィッチに与えた。そしてスターリンもヒトラーも音楽を政治に利用した。その後、ナチスの包囲網を突破。それはラドガ湖が凍って30㎞の道となり、物資が運ばれるようになったからである。これは食料難にあえぐ人々にとっての命の道となった。こうして人々はレニングラードを脱出。しかしドイツ軍は命の道を攻撃した。

 この頃、レニングラードのラジオからはメトロノームの音が流れていた。頭にきたレニングラードの指導部は音楽を流せ、と怒鳴りこんでオーケストラを再開させようとする。しかし、レニングラードにいる生き残った音楽家は40人だけ。これではマイナス気温の寒い気候の上、衰弱した体には手が動かず、息も吹けなかった。ただ不協和音だけが出た。楽団員は市民に響く音楽を奏でたかったのである。

 1942年4月5日、指揮者であるエリアスベルクはラジオ・シンフォニーで演奏してラジオの公開放送を再開させた。この時、ラジオ・シンフォニーで第7番を演奏しようと思った。
 
 1942年5月3日、アメリカ国務省にマイクロフィルムの第7番が到着してユージン・ワイントロウプに届く。それは252頁、30ⅿもあるマイクロフィルムだった。フィルムはソ連→イラン→エジプト→アフリカ大陸→ブラジル→マイアミへと届き、ドイツを避けたルートだった。

 アメリカでの初演はイタリーの指揮者トスカニーニによる。「レニングラードに捧ぐ」としてラジオ・シンフォニーにも楽譜が届いた。ところがエリアスベルクは楽譜を見て失望した。それには100から120人の楽団員が必要だったからである。だが、エリアスベルクは80人で演奏しようとした。軍の指導部に申し出て動員の楽団員を戻すよう請願。こうしてラジオ・シンフォニーの楽団員80人が結集した。

 8月9日、演奏会は開催された。ドイツ軍はレニングラードを占領して攻撃を開始。ヒトラーもコンサートに合わせてやってくると話した。その時の”TIME”の表紙はナチスと闘う兵士の格好をしたショスタコーヴィッチの肖像画だった。

 7月19日、アメリカのマンハッタンでも演奏され、メディアの反応も良かった。アメリカ全土で62回演奏された。第7番が嫌いなアメリカ人はいなかったそうだ。人々は勝利の物語と映った。これでルーズベルトはアメリカ大統領に4選し、スターリンはドイツに勝った。

 第7番は闘争、奴隷、魂と全体主義体制すべてを描いていた。ショスタコーヴィッチはスターリンだけでなく、ヒトラーも非難した。

 1942年5月9日、レニングラード・フィルハーモニアで第7番が演奏され、1500人の聴衆が聞き入った。その模様はドイツ軍の包囲網の中、ラジオと街角のスピーカでレニングラード全体に響くように流された。スピーカーは戦場のドイツ軍兵士にも流されていた。あの曲を聞いた時、レニングラードは絶対に倒せないと思った人もいたという。演奏曲は市民の包囲された心をほぐしてくれ、砲弾は会場に届かなかったそうだ。

 演奏後、指揮者エリアスベルクに花束を持った少女が近づく。自分が育てた花だった。花束の中には「レニングラードの音楽をお守りくださりありがとうございました」とのメモが入っていた。

 1944年1月、レニングラードは開放された。ラジオ・シンフォニーは今では戦争博物館となっている。先の少女のメモも展示してある。そしてそこには「演奏することは私たち演奏家にとっても救いだった。私たちは英雄ではなくて人間だった」とも書かれている。「ショスタコーヴィッチ交響曲第7番」には「音楽の力」があった……。
 
 この曲は聞いたことがあるのだろうか。動画で聞いてみよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2018年1月21日日曜日

蓮の下絵&BS「異世界ホテル旅」

 新年になり、ひと月の生活費はいくらなのかと思ってレシートを保管している。今月もあと、10日。家計簿なるものを生まれてこれまでつけたことがない。生活用品、食料品、旅行費用など自分なりの価値基準がある。レシート集めは母が亡くなって5か月後にひと月だけ集めたことがあった。その時、スーパーでの買い物だけでかなり消費していた。それ以来、このくらいひと月にいるんだ、と思ってそのままの額でこれまで生活してきた。ところが友だちや姪に聞くと生活費が多いという。これに習い物や遊ぶお金が加わる。一番の消費は旅行費用。年間かなり消費している。

 これも行く期間に限度がある。その思いから行けるうちに行けばいい、との思いが募る。金銭を惜しんでいたら何もできない。かといって有り余るほど持ち合わせていない。ましてや収入源は国からの年金だけ。お金があるはずがない。ところが、元気であれば後はなんとかなる、との思いがそうさせるのだろうか。ともあれ、何とか生活できている。いつまでもこのままでありますようにと願って今年の新年がスタートした。

 話は変わって昨日の日本画教室。どういってもあと3回ほど教室が仮住まい。ほぼすべての日本画の材料を本来の教室に置いたままでいる。そのため、仮住まいの教室では部屋も狭くて本画の作成はできない。もっぱらデッサンしてはそれに軽く水彩で色付けする。昨日は蓮の花のデッサンをして水彩絵の具で薄く色を付ける。ところが蓮の花のピンクが水彩でどうすればよいかわからない。赤と白を混ぜてピンクにして塗っていた。すると先生曰く「赤だけを水で溶いて薄くするとピンクになる」とのこと。

 子供のころから日本画を習うまで学校で絵を描いたことがあるのだろうかと思うほど絵心がない。日本画はその点、デッサンしては下絵として色鉛筆や水彩絵の具で色付けする。これで色鉛筆画や水彩画も習える。その点で日本画を習うのは一石二鳥で自分なりに満足している。次回はこの下絵を拡大コピーして持参。これを基にしてM8の木製パネルに描くという。今年の秋の日本画展でも昨年同様に皆、M8の木製パネルに描いて展示するようだ。

 先日からネットで習い始めた外国語。耳で聞くのはいいのだが、聞いたその文字が書けない。中国語の文字を聞いても書けない。字を書く癖をつけよう。そしてスペイン語。動詞の変化を忘れている。これが気になったのか今朝は夢を見ていた。大学で科目等履修生で習ったときの先生が夢に出る。結構感受性が強い方だ。思うところがあればすぐに夢となって現れる。これもいいような悪いような…。

 そして昨夜のBSは「異世界ホテル旅」。これは良かった!「スウェーデントロールも暮らす森のホテル」に平岳大が訪れる。「ここがあなたの部屋よ」と案内されたのは木でできた小さな穴倉。木を割って薪を作り、それを暖炉で燃やす。明かりはローソクの灯。食事は自分で粉と水を混ぜて焼いて食べる。お水は水源まで出かけて必要な量を容器に入れて持ち帰る。水辺の傍にサウナがある。自分で薪をくべながらサウナの暖を取る。熱くなれば水辺に下りて水に浸かる。これを見てもしかして真似をする日本の経営者が現れるかもしれないと思った。それは例えば八ヶ岳の高原でこういうホテル暮らしを提供する経営者である。

 スウェーデンと言えばダグニーさんがいる。森の生活にあこがれる。しかし、実際となるとこのホテル暮らしは大変そうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 ブログ投稿後にダグニーさんのブログを見ると昨日から頁が新たになっている。これはもしかして蓮池!?スウェーデンは緑が多くて美しい国。もう一回行ってみたい!

2018年1月19日金曜日

再興第102回院展ギャラリートークに行く

 再興第102回院展のギャラリートークを聞きに行く。院展オープン初日の画家によるギャラリートークを聞くのは初めて。オープンセレモニーは参加せず、その1時間半後の11時から始まったギャラリトークを聞く。黒い背広姿の男性画家と初々しい大学生受賞者のカジュアルな服装が混ざって会場の雰囲気を盛り上げる。そしてギャラリートークの画家たちの左胸には赤い胸章がついている。

 広い会場であっても人で溢れかえる。初めてのことなのでどこにいればよいかさえわからない。会場入り口に立っていると見ただけで偉い人とわかる人が姿を現す。まずは入り口から2番目の作品からその画家が解説される。次々と画家と絵が変わって解説が繰り広げられる。途中から若手登場。見るからに初々しい。まだ市立大の院生らしい。広島と尾道の市立大の入賞者だろう。広島県はこの2つの大学の影響なのか、若手の日本画家が多いそうだ。どちらも院展同人の画家が教職につかれているからだろうか。

 1時間ほど10人余りの画家が作品について話される。習っている先生も途中、ギャラリートークをされる。ところが司会者が先生をスルーしてしまい、再度引き返してのトークとなった。終わりころは62歳で絵を習われ、今回初入選の画家が話される。この時、近くにいなかったのでマイクを通してのお話しかわからない。あとで知り合いに聞くと某金融機関に関わる人らしく、退職後に絵を習い始められている。その時、習っている先生とその初入選の人とについてお偉い先生から説明が入る。何歳から始めようとその人の絵への入れ込みというか感動が入ればよいようだ。そして習っている先生も15年かかって院展の院友になられたと紹介される。

 トークを聞いた後、ざっと会場の絵を見る。今回も手塚雄二の「新緑の沼」が一番気に入る。この人のクリアファイルと絵ハガキを購入。しかし、これらはどういっても本物の絵ほど感動がない。大きな絵の前に立つと吸い込まれそうになるほど素晴らしい。日本画教室の人もこの絵が一番よかったという。他にも宮廻正明の「位相空間」が良かった。モンゴルかどこかの絵かと思ったら京都だった。

 なお院展のHPを見ると全作品と解説がついてアップされている。これには驚く。以下はそのURL。
http://nihonbijutsuin.or.jp/102/index.html

 昨日は他にもNHK・BSでザ・プロファイラー「“黒い瞳の伯爵夫人”の苦悩~クーデンホーフ光子~」を見る。明治初期に外国の外交官に見初められて嫁いだ光子。実家は古物商。古物が好きだった外交官が店先で光子を見て気に入る。光子の父は放蕩癖があったらしく、嫁ぐ際、外交官側からかなりの金銭が実家に渡されたという。どういってもオーストリア・ハンガリーの領主であった外交官。地位もお金もあった。

 まるでシンデレラのような光子も夫の若死にで33歳で未亡人となる。子どもは7人。8番目の子どものようだと言われた光子。至れり尽くせりの生活が暗転する。その後ヨーロッパの社交界に出て「黒い瞳の伯爵夫人」となる。子ども7人のうち3人は博士号を取得し、さらに他の2人は作家となっている。実際にこのようなシンデレラストーリーがあったとはテレビで知ってびっくり。しかし晩年は次女を手元に置いて自分の世話を焼かせている。次女は学校も行かず自由もなかったという。

 それにしても今週から来週にかけてハードスケジュールだ。泳ぎは日曜日に変更しよう。先日聞いた古澤巌のコンサートで刺激を受けた。古澤巌はテレビイタリア語講座に出演中。イタリア語ではなく、ネットで語学講座を聴こう。最近の講座は本当に優れモノだ。今年一年、疎遠になっている中国語、スペイン語、英語、頑張ろう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2017年10月20日金曜日

エンジェルストランペット

上幟町公園付近のビル前に咲くエンジェルストランペット

 お天気が良くない日が続く。しばらく吹いていなかったフルートの練習をしていると急に外へ出たくなる。留守にしていた間に届いていた2枚の葉書。どちらも同じ展覧会の案内状だった。1枚は知っているヒト。もう1枚は去年絵を見て話をした人だと勝手に判断して見に行く。会場に着いて出迎えてくれた人が葉書を送ってくれた人だと思った。話をすると違っていた。案内葉書は主宰者から送られていた。

 話をした人は去年、「中学卒業以来の作品第一号」と絵が得意でないことを強調していた。今年は同じ調子で中学卒業以来の作品2号と3号だと笑って話す。言われてみればこちらも中学卒業以来、何十年ぶりかで描いている。絵を習い始めて4回作品展に出品。1年に2点としても今年で8点目。といっても今年は3点出した。ということで中学卒業以来第9号目の作品となる。

 2号3号目の作品の展示も一年で随分上手になっている。絵のモチーフは先生が提供してくださるらしく、敷物の上に静物を置いて描いている。この敷物の描き方がまるで本物に思えるほどだと話すと嬉しそうにされる。

 帰宅後、もらったパンフなどを見ると来月からしばらく習う場所が同じになる。というのは今習っているビルの空調設備リニューアルで会場を一時的にかわることによる。ともあれ、年老いて何かを習い始める、ということは確かに中学卒業以来となることもありうる。というよりも、自分自身は生まれて以来のこともある。自転車、水泳などがそうだ。
エンジェルストランペット



 展覧会場を後にして三越の画廊に向かう。油絵画家の辰巳隆の個展だった。この人のイメージカラーはブルー。それもスカイブルー。勝手にそう解釈してしまうほど空の青さに引き込まれる。絵を堪能した後はカフェでティータイム。

 その後、歩いていると女学院近くのバス通りにエンジェルストランペットが咲いている。携帯で写真に撮っていると数人の外国人も立ち止まって写真を取り出す。花の名前は家でネットで調べてわかった。それにしても咲き方がトランペットだ。エンジェルストランペット、いつか絵に描こう。

 花ではないが、今朝の地元紙に六患子の読者の投書がある。これはムクロジと読むそうで「役立つムクロジの実」とタイトルがある。なぜこの記事が気になったのかといえば、先日のインドネシアの旅で参加者から初めて聞いて知ったことによる。植物に疎いので話を聞いても何のことかさっぱりわからない。持っていたメモ帳にその名を書いてもらった。

 ムクロジの実は昔、お正月に羽子板で遊んでいた「♩追い羽根ついて遊びましょ♪」の羽根の下についている黒い丸い実、とのこと。他の参加者に何人か聞いても知らない様子だった。教えてくださった人は後日、会う際にこの実を持ってきてくださるという。有難い!

 話は変わって昨夜のBS1スペシャル「父を捜して~日系オランダ人 終わらない戦争~」を見る。外国に行けばその国に関係あるメディアなどの情報がやたらと目に入るようになる。昨夜もまさにそうだった。何でインドネシアの話題?と思った。ニュースを挟んで2時間の番組。プロ野球のCSでカープは負けている。野球を見ずにドキュメンタリーに釘付けとなる。

 番組紹介欄を見ると「太平洋戦争中、日本軍政下のインドネシアで日本軍兵士・軍属と蘭印系女性との間に多くの子どもが生まれた。今も日本人の父親探しを続ける『日系オランダ人』の姿を見つめる」とあり、「『日系オランダ人』たちの日本人の父親探しが、戦後72年の今も続いている。太平洋戦争中、日本軍政下のインドネシアで日本軍兵士・軍属と現地の蘭印系女性との間に多くの子どもが生まれた。しかし、終戦後、父は日本に送還され、母子はオランダへ移住した。多くは『日本人の子』であることを長く知らされずにきた。真実を告げられ、父親探しを始めた人々。自らの人生の意味を問う『戦争の落とし子』たちの姿を見つめていく」とある。

 番組の前半は姉妹が父親を捜し、後半は蘭印系オランダ人と日本の警察官との間に生まれた女性が15歳になった時、のちに継父となった人との間に子供を身ごもる話題を追う。実の父親はどちらも当時インドネシアで警察管をしていた日本人男性。1942年までインドネシアはオランダに統治されていた。ところがその後、たった1週間余りで日本がオランダ軍を追い払って1945年8月17日のインドネシア独立の日までインドネシアを統治する。その間に蘭印と日本人との間に生まれた子供がいる。

 15歳の少女に継父が子供を生ませた背景には日本軍人に対する敵意が少女に向けられた。15歳の少女の実父は日本人だ。日本に対する憎しみからそうなった経緯が番組を通して解明される。番組を見て日本軍もオランダ人を捕虜にしたりしている。今でも蘭印系のオランダ人は日本を好ましく思っていない。すべては戦争がそうさせた、といえば簡単だけど、そうとは割り切れない部分がある。短い旅であってもいろんな情報の中から出かけた国のことが何故か目に着きだす。これはこれでいいことかもしれないが、ますますわからないことが増えてくる。これもいい意味の好奇心!?

2017年8月26日土曜日

電気&元気

 BS1スペシャル「なぜ 悲劇は生まれたのか~写真家・船尾修 旧満州の旅~」を見た。中国へは辺境の地ばかり11回も行っている。だが、近くの旧満州はまだ出かけていない。ここ数年、毎年のように行きたいと思っている。先日届いた旅のカタログを見ると国内旅行よりもはるかに安く行ける。ましてやANA利用で飛行機も安全だ。とはいっても中国東北部への旅の案内はほとんどない。これもすべては日中関係の悪化が災いしているのだろう。

 テレビで映し出す満州国の時代に日本が建てた建築物。それが今もその雄姿をとどめている。それを写真家がカメラに収めて歩く。映像を見るだけでもまだ見ぬ東北部がわかってくる。ともあれ、中国東北部は是が非でも行かなくてはいけない。さてそれはいつ!?

 来月には満州に絡む講演会もある。まずはこのお話を聞こう。講演会といえば今朝の新聞にも著名人の講演会がある。これも早速申し込もう。

 それにしても講演会も演奏会もこれこれからさき、いろいろとある。購入済みのチケットも手元に数枚ある。すべて楽しみ…。

 昨日は午後からプールで泳ぐ。昨日はこの夏一番の暑さと思えるほど蒸し暑かった。エアコンは午前7時から2時間切っただけでプールにいる間もつけっ放し。そうしないと帰宅後の暑さに耐えられない。ほぼ一日中つけているエアコン。どれくらいの費用がいるのか電気料金を調べる。2,3か月前から電力会社のなんとかクラブに加入する。領収書が手元にないと思ったらネットでお知らせとなっている。夏の電気代はエアコンをつけない月よりも3千円くらい高いだけ。それほど驚く金額ではない。冬の暖房に比べれば半分くらいで済む。

 暑い中、ほんまにご苦労なことじゃ、と思いながらプールに行く。毎度のことながら泳いだ後の爽快感。これは何物にも代えがたい。こうして元気を充電して暑さに負けないようにしよう!