2022年4月30日土曜日

「日本の集団の歴史は独裁者の存在を許さないというふしぎな原理をもっている」

  「日本の集団の歴史は独裁者の存在を許さないというふしぎな原理をもっている。……気が引けるが、まあ騎虎の勢いだから――ちかごろあることで腹が立っているので――この話題をつづける。日本人が原理としていかに独裁制を好まないかということについてである」

 上記の「日本の集団の歴史は独裁者の存在を許さないというふしぎな原理をもっている」のくだりは『街道をゆく』(一)「甲州街道 長州路ほか」(288-289p)に書いてある。今、ロシアとウクライナは紛争中だ。ロシアのプーチンがまさに独裁者であり、その存在を許している。他にも国が安定していないとその国には大概、独裁者が国のかじ取りをしているように思える。司馬遼太郎の本を読んで改めてそれを知る。

 「街道をゆく」シリーズがテレビで再放送され始めてさらに司馬遼太郎の著作を読む速度が増してきた。また本を読んでいるとその本に付随する事柄にも刺激されて、さらにその本を読みたくなる。この刺激が増え続けると何歳まで元気に生きていればいいのかわからなくなりそうだ。まあ、なにかをやり終えたいと思う間は元気な証拠でもあると思うのでこれはこれでいいことかもしれない。それにしても歳を取ればとるほど本を読みたくなるとはどういうこと!?

 モンゴルのツエベクマさんのその後を知りたくて図書館のHPで本を探すと見つかった。早速、ツエベクマさんの著書を図書館に予約する。今日中にはその本を手にできそうだ。

 カープは気になる、遊びにも行きたい、本も読みたい、と気も焦るが今は世の中で言うGW真最中。毎日がGWのモノにとってはこの時季にわざわざ外へ出なくてもいいとの思いもある。家でおとなしくテレビでカープを観戦し、本を読んで過ごす。これでいい。昨夜は又も堂林選手がホームランを打った。そしてカープは勝った。さて今日は?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『街道をゆく』(一)「甲州街道 長州路ほか」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九九年第33刷)から気になる箇所を抜粋。

★日本民族はどこから来たのであろう。……「日本人はどこから来たのでしょうね」と、編集部のH氏がつぶやいたのも、どうせちゃんと答えがあるはずがないという物憂げな語調だった。しかしこの列島の谷間でボウフラのように沸いて出たのではあるまい。(23p)

★「朝鮮人などばかばかしい」という、明治後でき上った日本人のわるい癖に水を掛けてみたくて、私はこの紀行のてはじめに日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである。(25p)

★古代中国では、「倭(日本とおもっていい)には、奴(那・娜)(な)の国というのがある」といわれているが、この奴の種族が、安曇であることはほぼまちがいあるまい。(29p)

★そういう日本列島にあって、その東の辺陬に突如騎馬文化が成立するというのは、百済人入植という事実を外しては考えられない。この集団が、日本史上、われわれが誇る、もっとも典型的な日本人集団とされる坂東武者に変わってゆくことを思うと、東アジアの人間の交流や、文化の発生に限りないおもしろさを覚える。……その半島で農耕生産を発展させようとおもえば当然、灌漑などの農業土木が発展せざるをえないのだが、二千人の百済人たちはその技術をもって武蔵国の田園をふやして行ったにちがいないなく、田園がふえるにつれ、当然ながら人口もふえた。開墾地主が簇生(そうせい)した。その開墾地主が、つまりは武士である。これが荘園制度とからんでいわゆる坂東武士団がつくられてゆく。かれらは開墾地の擁護をたのむために京都朝廷への口きき役としての源家や平家などといった筋目の京都人を棟梁に押したて、みずからの家系をも源平藤橘の系譜にあわせて創ってゆき、つまりは系譜の上からいえばたれもが桓武天皇や清和天皇の子孫になりおおせて、たれもが百済人と土着人の子孫であるといわなくなるのだが、それはいわば系列下に入るための原理で、別に怪しむに足りない。(141-142p)

2022年4月29日金曜日

「人生は自分で作りあげるもの。これまでも、これからも――グランマ・モーゼス」

 東広島市の西条に新たにできた東広島市立美術館に出かける。西条は社会人大学生の頃に6年間も通ったなじみの駅だ。ひさしぶりに西条の駅に降りる。建て替わった駅は同じでも駅前に広がる光景が以前とは違って見える。美術館までの道はわかっているはずなのに駅前で人に尋ねた。前に前にと進んで行くが以前の面影がおぼろになる。大きな建物が建っていた。美術館と思って中に入ると芸術文化ホールとある。ホールロビーにいた人に聞くと美術館は目の前に見える建物だという。

 ホールは美学の講座で通っていた頃に建てられた。が、美術館はその当時はまだ建っていない。芸術文化ホールの建物内に入るのは初めてで美術館と間違えてしまったようだ。美術館の特別展は「生誕160年記念グランマ・モーゼス展」と銘打っている。この人の名は今回初めて知った。展覧会場の出口付近に「人生は自分で作りあげるもの。これまでも、これからも――グランマ・モーゼス」と大きく掲げてある。この言葉に惹かれて会場を後にした。

 今から160年前といえば坂本龍馬が生きていた時代だ。個人的には母の父で写真でしか知らない自分にとっての祖父が生まれたころだ。祖父とモーゼスは同時代を生きている。その時代、無名の農婦だったモーゼスは70代で絵を描き始める。絵を描き始める前は刺繍などをしていたが病のため細かいことができなくなり絵を描き始める。その時が70歳だった。それから亡くなる30余年間、絵を描き続けた。絵本のようなかわいい絵が多く描かれている。また、絵を通して当時のアメリカの農村風景と生活様式がわかってくる。

 この美術館のHPを見て出かけた。それによるとシニアは特別展であっても無料だ。大きな新しい展覧会が無料で見られるとはありがたい。絵を見た後は西条の駅のカフェに入る。コロナ禍で思うように遊びに行けない。この時とばかりに一人で遊ぶ癖をつけようと思い立つ。さて、次は!?

 話は変わって先日出かけた南薫造記念館の帰りに立ち寄った台湾料理店でのことだ。食事を済ませて代金を支払おうとした。消費税込みの金額かどうか知りたくて「消費税は?」と日本語で話しかけると台湾人の若い女性は「???」と分からない様子。「TAX?」とさらに言うと「タクシー?」と返答される。この時、中国語で「消費税がいるかどうか」の言葉が出てこなかった。というか、「消費税」そのものの中国語を知らずにいた。家に帰って調べると「需要销售税吗?」だ。なお消費税の読みは”xiāo shòu shuì”。覚えておこう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月28日木曜日

「南蛮のみち」

 昨夜のBSで司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの「南蛮のみち」が放送された。ここでの南蛮はスペインのバスク地方をいう。バスク地方はフランスとスペインの国境を挟んで位置している。テレビで見た国境は10m幅くらいの短い橋の辺りがそうだった。この地方ではバスク人がバスク語を話す。一時はバスク国という独立した国があった。が、その時は廃れゆくバスク語の復活を目指して子供たちにバスク語を教えていた。
 
 スペインへは今から10年半前に出かけている。その時の同行者にスペイン人の神父様がいらっしゃった。キリスト教に疎いものにとっては旅行中の何もかもが驚きとともに新鮮だった。楽しかったスペイン旅行を思い出しながら放送を見る。

 番組HPによると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!日本にキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザヴィエル。彼の故郷バスク地方へ。『南蛮』とは一体何かを感じる旅が始まる」とあり、その詳細として昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』。日本に西洋の文化、宗教等を伝えた南蛮人。代表的人物ザヴィエルはバスク人だった▽パリからフランスとスペイン国境地域・バスクへ▽独特なスポーツと伝統の丸太割り競争!▽『日本人』になったカンドウ神父の生家で▽ザヴィエル城を守る修道士▽緑の大地に見た人々の営みと変わりゆく現実▽1998年放送の番組が鮮やかな映像でよみがえる」ともある。

 昨日、図書館で『街道をゆく』(二十二)の「南蛮のみち」(1)を借りる。「南蛮のみち」は(Ⅱ)もあるがバスクは(1)に収めてある。読み終えたら(Ⅱ)も借りて読もう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月27日水曜日

「私のは、希望だけの人生です」

 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズがNHKのBSで放送されている。このシリーズを放送順に読んでいる。先日は「モンゴル紀行」だった。司馬遼太郎にとってモンゴルとの縁はツエベクマさんなしでは考えられない。ツエベクマさんを主人公にした小説といえば『草原の記』(司馬遼太郎 新潮社、1992年)がある。BSでの放送でも『街道をゆく』(五)の「モンゴル紀行」と『草原の記』を取り上げている。(ここは同時にこの2冊を読まねば)との思いから一気に読み終えた。

 『草原の記』の最後のくだりは涙なくしては読めない。先ほど、その後のツエベクマさんを知りたくなってネットで調べると以下の記事が見つかった。四国新聞社の2004年3月15日に配信のニュース記事だ。

 「B・ツェベクマさん死去/モンゴル日交流協会顧問」と見出しがあり、「バルダンギーン・ツェベクマさん(モンゴル日本文化交流促進『アリアンス』協会顧問)15日、病気のためウランバートル市内の自宅で死去、79歳。1924年ロシアのバイカル湖近くで生まれ、現在の中国・内モンゴル自治区ハイラルで育ち日本語を学ぶ。59年に中国を脱出し、娘とモンゴルに亡命。作家の故司馬遼太郎さんと親交が深く、同氏の著作『草原の記』の主人公モデルとして知られる。自らの半生を描いた『星の草原に帰らん』を日本で出版、99年に勲五等宝冠章を受章した」とある。

 以下は『草原の記』から気になる箇所を抜粋。このなかの終わり辺りに取り上げた箇所は特に涙を誘われる。テレビの放送でもこの辺りを取り上げていた。「私のは、希望だけの人生です」と。 

 ツエベクマさんが亡くなられたと知って自らが書かれた『星の草原に帰らん』を図書館で探すとあった。早速予約。なんとこの本の訳をツエベクマさんの話を聞いて嗚咽した鯉淵信一教授がされている。1つの番組から始まった私とモンゴルとの縁が司馬遼太郎の本を通してどんどん広がっていく。今夜は「南蛮のみち」。『街道をゆく』シリーズの21と22に収められている。この2冊も図書館で借りて……。本を読むのが忙しくなりそうだ。遊びにも行きたい……。
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★胡というのは、戎(じゅう)や夷(い)や蛮(ばん)、狄(てき)と同様、野蛮人をさす。(10p)

★主役は、私が草原で出会ったツエベクマさんという女性なのである。しかしいまこのように列島の一隅で彼女のことを想いだすとき、滑稽に思われるかもしれないが、このひとを載せているモンゴル高原について書かねば、私の中で彼女が鮮明になってこ来ないのである。(14p)

★ソ連は、いうまでもなく、モンゴルの隣邦である。ロシア帝国以来、古代に住んでいるのではないかと思えるほど、帝政のむかしから奴隷を必要とする帝国であった。とくに鉄道敷設や都市建設など巨大土木をおこすときは、首都など大量に政治犯をつくりあげ、奴隷に仕立てて作業場に送りこむ。スターリン時代もそうだった。第二次大戦の戦後、その忌むべき習癖が出た。いわゆる満州にいた日本の関東軍の兵士は、それによって実質上戦争奴隷としてシベリアに送られ、建設現場で労働させられたのである。その一部がモンゴル高原に拉致され、この街の建設現場で労働させられたのである。(62p)

★農耕文明は、まちを必要とした。……遊牧民は、古来、物を貯えない。不必要に多量な什器や衣類を持てば、移動が出来なくなってしまうのである。……とはいえ、歴史的モンゴル人は、金目のものとして宝石や金銀の装身具を持つことはあった。そういうものなら、移動の場合に荷重にならない。(65-66p)

★モンゴル人には、漢人がすべて高利貸しにみえる。かれらは悲鳴をあげ、ロシアの革命政権に頼らざるをえなかった。曲折のすえ、一九二四年、ソ連に次いで世界に二番目の社会主義国家をつくるはめになった。かれらが社会主義をえらんだのは、マルクスのいう歴史の発展の結果ではなく、ただ漢人から草原を守りたかっただけだった。(104-105p)

★ツエベクマさんは、その前夫を家で迎えた。二十六年ぶりの再会だった。会えばどう言おうかと考えたりもしたが、イミナの肩にすがって入ってきたその人を見たとき、それどころではなかった。すぐさま手を貸して部屋に入れ、寝台の用意をしなければならなかった。このときツエベクマさんは、夫は自分のもとで死ぬためにここまできた、と気づいた。……以後、ツエベクマさんはその女性を客としてあつかい、かつぎこまれて入ってきた老人を、イミナの父として丁寧に介抱した。……政府がみとめた招待期間は一ヶ月だったが、ツエベクマさんは再申請して四十五日まで延長してもらった。 ……ブルンサインはその後数ヶ月生きた。息をひきとったのはツエベクマさんの腕のなかだったという。(220-221p)

★「わるく生きるよりもよく死ね、という諺が、モンゴルにあります。夫の生涯をふりかえって、その諺どおりだったと思っています。ブルンサインはわるく生きましたが、よく死にました」と、ツエベクマさんがいった。わるく生きるとは、つらく生きるということだろう。よく死ぬというのは、二十六年間生きわかれしていた妻子に再会し、二人に看取られて死んだ、ということかと思われる。(222p)

★「ツエベクマさんの人生は、大きいですね」と、私がいうと、彼女は切り返すように答えた。「私のは、希望だけの人生です」急にはげしい嗚咽がおこった。男らしく乾いたその音が、同席している鯉淵信一教授の大きな体から出ていることに気づいたが、私はそのほうを見ないようにした。ツエベクマさんのいう希望が、自分自身の人生とこの草原の民族の希望と運命をかさねたものであることは、講淵教授はよくわかっている。(222-223p)

★ブルンサイン教授が、かれの生まれた草原でないにせよ、つらかった生の最後にここにもどってきたのは、帰巣であったのかもしれない。遥かにいえば、元(げん)の北帰に似ているようにおもえる。(223p)

2022年4月26日火曜日

安浦へGO~

 民放のBSでローカル路線バスの旅を放送していた。広島駅から三原駅までの呉線を巡る旅である。安浦駅で下車して、その行く先は?と思いながら番組を見ていた。が、目的地が自分が目指すところとは違っていた。安浦といえば以前から南薫造記念館へ行きたいとの思いがあった。この番組を見て(安浦へ行こう)、との思いが募って早速出かける。

 ナップサックにカメラと最小限の必需品を持っていざ出発。自宅最寄り駅からJRに乗車して安浦駅まで約1時間乗車する。途中、広駅で三原行に乗り換える。広駅を発車後、安芸阿賀駅までの乗車時間はほぼトンネルを抜けるだけのような感じだ。が、トンネル内の轟音は(どうよ!)と言わんばかりのすさまじい音だ。まだJRが電化でなかった若いころに乗れば顔中すすだらけになりそうなくらいの轟音が響く。

 安浦駅に到着。呉線の大半は駅員がいない。我が地元駅も駅員はいるがみどりの窓口がなくなった。(さて記念館へは?)と駅を出ると歩いている人がいる。その人に記念館までの道を教えてもらう。途中、ゆめタウンがあった。だが、広い敷地に建つ建物はどう見ても営業中とは思えない。(せっかくの一等地にあるのに)、と思いながら目的地を目指す。ゆめタウンは2018年の豪雨で閉店を余儀なくされていた。途中、銀行から出てきた若い男性に場所を問うとまっすぐ行けばいいとのこと。だが、道が狭いので気をつけるようにと言ってくれる。

 さらに進むが一向にそれらしき建物がない。三差路になった。ここでまた尋ねると大通りをそのまま行けばいいと教えてもらう。歩くこと20分くらだろうか。やっと目的地に到着した。南薫造の生家が記念館と安浦民俗資料館になっている。

 民俗資料館は親の代が生活していた頃の様子がうかがえる。受付の係の応対はただただ親切、としか言いようがないほどいい人だった。今回の企画展は「耳をすませばー絵の『音」を聴いてみるー」。自然を描いた作品が多い。ここ安浦に生まれた南薫造は今の東京芸大で学び、卒業後はイギリスに留学。その後、ヨーロッパ各地で描いている。

 絵を堪能後、遅いお昼を、と思って係にその場所を教えてもらう。わざわざ地図を書いて教えてくれた。(カフェか台湾料理のいずれがいいか)と思いながら歩いていると先に目についた台湾料理の福祥閣に入る。久しぶりに本格的な中華の店、と思った。店内は時間的にお客のピークを過ぎてか、ひっそりしている。やってきた係は日本語はよくわからないような若い女性だ。

 から揚げ定食を注文するがとてもじゃないが一人で食べきれそうにない。から揚げの1つがふつう食べるから揚げの3つくらいもある大きさだ。ただ、ご飯はうるち米でなくタイ米のようだった。店内の調度品の誂えは台湾から取り寄せたのかどうか知らない。が、台湾の雰囲気にあふれている。だが、食べる際のテーブルが高くておぼれそうになりながら食べた。また、食べきれなかったから揚げは持ち帰らせてくれた。

 片道1時間余りの乗車の近場の旅だった。が、知らない街を行くのはちょっとした旅気分を味わえる。GWまでにもう1か所、出かけたことがない美術館を予定している。ブログ投稿中、友だちから電話がある。遊ぶ話だ。遠くへ行かれない分、せいぜい近場をうろつこう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!?

2022年4月25日月曜日

「102歳、ありがとうの人生」

  100歳から注目され始めた石井哲代さん。今朝の地元紙に102歳の石井哲代さんが元気に登場されている。102歳になられてもひとり暮らしとは立派という言葉しか出てこない。長く生きていればいい事ばかりの人生はありえないだろう。その辺りを「人は人。自分は自分。違っていて当たり前。私は元気で生きとるだけで上等と思えるようになりました。……」と話される。

 中国語を習い始めの頃、当時の中国語の先生であった中国国費留学生から聞いた言葉がある。「それはその人の考えですから」と。人から嫌な言葉を言われたりする度、嫌な気持ちがぬぐい切れなかった。何ごとも水に流せばいいものをそれができない自分がもどかしかった。その時、留学生が話した何でもないような言葉にハッとした。

 これは哲代さんんの言葉にも当てはまりそうだ。理屈ではわかっていても、何歳になっても、結構人の言葉に左右されることがある。ところが石井哲代さんは「うれしいこと、楽しいことは存分に味わう。落ち込みそうなことはさっと流す――」、「できなくなったことを追わない、くよくよしない。できることをいとおしんで、自分を褒めて、まだまだできるという自信に変える」と。

 本当に素晴らしい102歳を生きておられる。紙面をみると元気や勇気を貰える記事が多くない。今月110歳を迎えるはずだったダグニーさんは先月109歳で亡くなられた。

 メディアに登場する元気なお年寄りを見習って、さあ、今日の行動開始!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月24日日曜日

『夏草の賦(下)』

 GWまじかとあってこの土日は人の動きがある。それもそのはず、カープの試合が地元であるのでそれによる動きかもしれない。3連戦はDeNAとの試合で昨日は見事な勝ちゲームだった。地元紙のスポーツ欄を見ると久々にホームランを放った堂林選手の写真がある。今日もデーゲーム。テレビ観戦となりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『夏草の賦(下)』(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第15刷)から気になる箇所を抜粋した。

★「心がけ次第でいかようにも取りたててゆく。功があれば恩賞は望みのままである。ふるって武士になれ」と、土佐一国に布告した。……この志願兵制度によって、土佐では武士と農民の差別観念が薄くなった。たれでもが武士になることができ、功をたてれば一城のあるじになることも夢ではない。この制度は、元親の意図とはべつな効果をもはたした。土佐人の平等思想やあえて難におもむくという敢為の精神がこの国の風土精神になった。数百年後、元親のつくった郷士階級から勤王倒幕という、国家統一の運動者がむらがり出た遠因は、他国に類のない一国志願制度にあるということがいえるであろう。(28p)

★日本から田舎が消滅したのは、秀吉の天下統一によってであった。秀吉政権が大坂におかれてから、国々も物資もいったん大坂にあつまり、そこで値が立ち、それが貨幣のかたちにかわって全国に拡散した。秀吉の統一政権が流通経済を可能にし、流通経済が地方と中央を血管でむすんだ。地方にいる者も中央の動きによって方針をきめてゆくということも、このときからはじまった。が、元親のこの時期は、まだそこまでいたっていない。(80p)

★ひとは、利に貪欲なのではない。「名誉に貪欲なのだ」と、元親はいった。戦場においてひとびとが勇敢であるのは、自分の名誉をかけているのである。名誉は、利で量られる。つまり戦場における能力と功名は、その知行地の多いすくないではかられる。他人よりも寸土でも多ければそれだけの名誉であった。男はこの名誉のためにいのちをすら捨てる。「それが、男といういきものだ」と、元親はいった。(114-15p)

★――玉と砕けても、全き瓦として生き残ることを恥じる。ということばで、後世この心情は説明されるようになった。唐人や南蛮人には理解できぬりくつであろう。なぜ日本人にこういう気質がうまれたのか、筆者もよくわからない。あるいは風土によるものか。……インドネシア、ポリネシアといった南方島嶼民族には最後には理性をこえた痛烈な行動をこのむ気質があるという。土佐ははるか南から流れてくる黒潮のあらうところであり、日本人としてはもっとも南のほうの民族の血を多くうけついでいる。(117-118p)

★もともと四国制覇が秀吉の進出によってむなしくやぶれたことが元親をして落胆させ、世を捨てた思いにさせたのであったが、その心の傾斜が、信親の死によっていっそう大きくなったらしい。「男は、夢のあるうちが花だな」……「その時期だけが、男であるらしい。それ以後は、ただの飯をくう道具さ」といった。年少のころから激しく生きすぎただけに、それだけにいったんの頓挫で人並み以上に気落ちしてしまうのであろう。元親にとって一層の不幸は、戸次川の不幸があった翌月に妻の菜々が死んだことであった。(309-310p)

★筆者は。長曾我部元親において人間の情熱というものを考えようとした。これをもってこの小説はおわるが、その主題が充足したかどうかは、筆者にはわからない。元親の晩年は、一見、自分を投げてしまったようなところがある、(311-312p)

★元親は慶長四年五月十九日、六十一歳で死んだ。翌年関ヶ原ノ役がおこり、盛親は様子もわからぬまま成りゆきに身をまかせて石田三成につき、敗亡し、土佐をとりあげられてしまっている、元親が、世に対してすべての情熱をうしなった結果がその死後に出たのであろう。さらに大坂夏の陣ノ結果、長曾我部家はあとかたもなくなり、歴史から消えた。(314p)

2022年4月23日土曜日

『夏草の賦(上)』

 最近、BSで「街道をゆく」が放送され始めて以来、もっぱら司馬作品といえば『街道をゆく』シリーズを読んでいる。司馬作品を読み始めて3年半。人よりも何十年と遅れて読み始めた司馬作品だが、いまだに色褪せることなくはまっている。元気な間にと司馬作品全読破を目指している。司馬作品といえば坂本龍馬。今夜の世界ふしぎ発見は坂本龍馬に関する番組のようだ。

 司馬遼太郎自身、坂本龍馬に魅せられている。魅せられているといえば昨日読み終えた『街道をゆく』の「モンゴル紀行」のいたるところに司馬遼太郎の「モンゴルへの愛」が感じられる。今のモンゴル国(外モンゴル)へは出かけていない。が、元気なうちに是非とも行ってみたい。

 先日、女性誌を図書館で読んでいると黒柳徹子と萩本欽一の記事があった。この2人は生き方に関心がある。元気で長生きしている人は何かしらポリシーがある。黒柳徹子は100歳で政界を目指している。欽ちゃんは暇つぶしにと3つ探して実行している。

 自分の年齢を思うといろいろと行動に制限をかけてしまう。ここは2人を見習って自分自身の行動にブレーキを掛けずいつまでもやりたいことをやっていこう、と改めて気づかされた。まだまだ外国へ行こうとの気持ちも夢で終わらせてはいけない。母は父なきあと75歳からが青春だった。88歳で怪我をするまで国内の旅を楽しんだ。

 そう思えばまだまだ元気だ。なんだってやれる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は以前に読んだ『夏草の賦(上)』(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年新装版16刷)から気になる箇所を抜粋。

★――臆病者ならば信頼しうる。というのである。聞きちがえたか、と菜々はわが耳を疑った。が、元親は、臆病者こそ智者の証拠であり、臆病者こそ智恵のもとである、といった。智恵がある者でなければ臆病にならない、とも元親はいう。……元親にいわせれば、勇気などは天性のものではない。臆病者が、自分自身を練り、言いきかせ、智恵をもってみずからを鼓舞することによってかろうじて得られるもので、いわば後天的なものである、という。(93p)

★一領具足とは、屯田兵のことである。平素は田を耕し、農耕に出るときには具足櫃を田の畔に置き、槍をつきたて、槍の先に兵糧をゆわえておく。城から陣ぶれ(動員)の貝がきこえわたってくると、クワ・スキをほうり出し、その場から出陣してゆく。具足は一領、馬は替え馬なしの一頭で戦場を走りまわるためにその呼称ができた。のちに土佐馬の獰猛さと一両具足の勇猛さが土佐人の象徴のようにいわれるようになり、後世、この階層が郷士になり、幕末この階層から土佐藩の勤王奔走の志士のほとんどが出たことを思えば、元親のこのときの発想は日本史的な事件であったといっていい。(107p)

★なぜ公家が尊いのか。菜々が察するに、それはおそらく、日本国中の血の総本家であるからであろう。六十余州に盤踞する大小の貴族は、藤原氏、源氏、平氏、橘氏などを名乗り、その遠祖はみな京の貴種から出たと称している。それらの血の総元締めが公家であった。(156p)

★茶という新興芸術は、京の武家や堺の町人を中心にもてはやされてきたが、すべて伝統のなかで生きている公家の場合は、これを積極的にやろうとする者はまれだった。公家の場合には、連歌がある。連歌も茶道と同様、雑多な階級が一堂に会して礼式にこだわらずに会話を楽しむことができるえがたい対人接触の形式だが、これは公家が得意とした。(158p)

★夫が妻と離別して後妻をもらったりするとき、前妻が、自分の一族の女どもや女中をひきいて台所用具を武器とし、後妻の家に討ち入り、台所や調度をこなぐなにくだく。むろん後妻のほうでも女どもをひきいて散々に戦う。それをうわなり討ちと言い、この時代、つまり戦国風俗のひとつとして天下に流行していた。(162p)

★柿も熟すれば落つ。事というものはときに策をもちいず自然を待つほうがいい場合がある。(198p)

★――土佐の守。と名乗った。武家の官位は、本来ならば将軍の手を経て朝廷に奏請し、朝廷で除目されてはじめて正式なものになるのだが、乱世ではそういうこともなく、諸国の豪族のほとんどが勝手にそういう官を称しており、この点では元親も変わりがない。(201p)

★兵法に、――衢地(くち)ということばがある。街道が四方からあつまってきてその場所で交差している、そういう地点をいう。(260p)

★欲のふかい人間ほど、だまされやすい。しかし、そういう男ほど、他に別な欲の刺激材料があればそちらへ鞍替えし、先約を裏切ってしまう。(思慮あさく欲深き人物ほど、信じがたいものはない)とかねがね元親はおもっているのだが、阿波の大西覚養こそそれにあてはまる人物ではあるまいか。それが事実となってあらわれた。(264p)

★元親は、権謀者である。権謀者にとって全世界の人間は利用されるために存在している。それが悪徳である、という思想は、東洋にはない。むしろ人を利用するにしても私心をわすれ、誠心誠意利用すれば薄情な善人よりも多く人を感動させる、という思想は東洋にある。(266p)

2022年4月22日金曜日

「油断は怪我の基」

 ネット記事に「できる限り自分の時間を切り売りしない」、に共感する。「多くの人は、自分の時間を切り売りして仕事をすることで、お金を稼いで生活をしています。しかし、自分の時間を切り売りすることは、基本的にもっとも避けるべきことなんです」と。

 お金を得るということは自分の時間の切り売り、とは以前からいつも思っていた。生活のために働くのは当然としても必要以上に金銭を得るために働かなくてもいい、との思いがあった。それは働き始めたころから思っていたことだ。その反動が旅に誘われる。旅はすべてが自分の時間。誰にどうこういわれることはない。まあ、この考えは人に拠りけりと思うが……。

 話は変わって「油断は怪我の基」。そう感じた一日だった。青梗菜、シイタケそしてニンジンを切っていた。これに豚肉を入れて炒めようとした。ところが油断大敵、気づいたときは左小指を切っていた。さあ、大変。血が止まらない。慌てて保険証を持参して内科へ行く。内科は20数年行っていないが、外科が思いつかず内科へ、となった。あたりはひっそりしている。それもそのはず、木曜日は大半の医療機関が午前中だけの診療か休診が多い。後でネットで調べると休みだった。

 血が止まらないことには何もできない。隣の家のいとこに電話をすると家にいるとのことで面倒を掛けてしまった。指1本のちょっとした怪我も思うように何も行動できない。幸い、痛みはないが治るまでは数日かかるかもしれない。油断大敵!気をつけよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月21日木曜日

「北のまほろば」

  BSで見た「街道をゆく」3話は「北のまほろば」。同行のカメラマンは司馬が「まほろば」のタイトルをつけている最中、何度かシャッターを押した。司馬は「まほろば」を気に入っていたという。「まほろば」を改めて辞書で引くと「すばらしい場所」とある。「街道をゆく」の取材で司馬が訪れたのは1994年。亡くなる2年前だ。三内丸山遺跡を見た司馬は「日本という国のすばらしい姿」とほめたたえる。それが「まほろば」につながった!?

 なお、番組の紹介を見ると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!江戸時代から飢餓に悩まされてきた本州最北端の土地は、実り豊かな場所だった。風土に即した暮らしとは?青森県の旅が始まる」とあり、「昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』。太宰治が悲しき国と嘆いた地が、なぜ『北のまほろば』なのか?津軽から下北半島への旅▽吉田松陰が訪ねた弘前市の屋敷▽江戸時代の稲作一辺倒の政策がもたらしたもの▽なぜ縄文人は芸術を生み出せたのか?▽マタギの暮らしに見た山の幸▽十三湊の繁栄▽三内丸山遺跡で司馬が思い描いたこと▽1997年放送の番組が鮮やかな映像でよみがえる」ともある。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月20日水曜日

今夜のテレビ

 2週間前からNHKのBSで「街道をゆく」が始まった。司馬遼太郎の『街道をゆく』シリ0ーズは43巻ある。もしかして放送も43週ある!?そうなると週に1巻ほど『街道をゆく』を読まないといけない。と言っても本を読むノルマを誰に強制されているわけでもない。が、司馬遼太郎全作品を生きている間に読み終えようと思っているモノとしては番組とともに読むのが理想とも思える。

 単行本を1巻読むのは先日、3日で2巻読んでいるので週に1巻、読むのは無理ではない。が、常に本ばかり読む生活に耐えられるだろうか。気候がよければ外へ遊びに行きたくなるに違いない。

 今夜の放送は「北のまほろば」。単行本の裏表紙を見ると『街道をゆく』の41巻だ。手もとにこのシリーズが2冊ある。1冊は読み終えたがこれをブログにアップしようとする入力が大変。これもまあ、自分の仕事と思っている。「北のまほろば」はあとで図書館へ借りに行こう。

 今朝の地元紙に80歳と79歳の2人の女性の記事掲載がある。「切磋琢磨で名誉学生」との見出しで放送大学名誉学生の称号を得たそうだ。2人の写真を見るととても80歳とは思えないほど若々しい。何かを成し遂げようとする人は生き生きしている。それが若さにつながっているのだろう。この記事を見てかなりの刺激を受ける。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月19日火曜日

「兼六園菊桜」

 JRは動くものとの思い込みがある。ところが時にその思いが外れる。昨日がまさにそうだった。昨日は母の月命日。お墓参りをした後、急遽、予定していた造幣局の桜を一日早めて見に行こうと思いつく。軽くお昼を済ませてナップサックにカメラと最低限度のものを持ってJR駅に向かう。五日市駅に降りると造幣局までのピストン輸送のバスが止まっていた。バスの中は思ったほど混んでいない。

 造幣局に入ると係の人の多さに驚く。コロナ禍での開催のためか案内や警備の人の多さが目に付く。造幣局広島支局の「花のまわりみち八重桜イン広島」の今年の花は「兼六園菊桜」だ。園内に3か所この桜が植えてあるらしくその周りは人でごった返す。今年で31回目となる桜の通り抜けは64品種216本の桜が植えてあるとか。

 どの桜も美しいが個人的に気に入った今年の桜は鬱金(ウコン)。花びらにいろんな色が入っていてとてもきれいだ。また開花が早かったのか地面一面に桜の花びらが散っている様も美しかった。

今年の花「兼六園菊桜」

桜の名は鬱金

桜の名は鬱金(ウコン)



一面に舞い散った桜の花びら
 今年の桜もこれで見納め、と思いながらバスに乗って五日市駅で降りる。久々の五日市なのでそばにあるデパートに立ち寄る。が、人はほとんどいない。地下に降りて夕飯を物色するが欲しいものが見当たらない。あきらめてJRに乗る。

 と、ここまでは何事もなく順調だった。ところがJRに乗ると車内アナウンスで自宅最寄り駅の隣の駅で落下物があり、JRは広島駅から先は不通とのこと。それでもあまり気にせずに乗っていた。広島駅に着くと行先が変更となり降ろされる。上り方面は不通、との駅アナウンスがある。30分待てば運転再開とか。20分待ったところでさらに30分運転の再開が遅れるとのアナウンスがある。
 
 広島駅は大々的な工事中でホームは日が射さず暗い。待っていると寒くなる。これは体に良くないとJRをあきらめてバス停に向かう。どの人も同じ考えなのかバス停は混んでいる。初めに来たバスは満杯で発車した。次のバスを待ってそれに乗車する。が、バスはどういってもJRほどの速さがない。自宅最寄りバス停に着くとスーパーに立ち寄る。買い物を済ませて我が家に向かう途中、列車が再開したのか通過していた。

 普通に生活しているとちょっとしたアクシデントに慌ててしまう。昨日がまさにそうだった。これから先、出かけられるところを見つけて遊びに行こうと思っている。そんな矢先のアクシデントだ。今まさに行楽シーズン。最近、目覚めたことはツアーに頼らず個人で行ける所へ行こうとの思いが募る。その手始めに県内の美術館を、と思っている。

 ヘルペスのかさぶたも取れて元気が出てきた。元気になるとじっとしておれない。昨日の携帯万歩計は10383歩だった。この勢いで……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月18日月曜日

いろんな人が……

 燃えるごみを出して家に入ろうとすると道の端を掃除する人がいる。見慣れぬ人で声をかけると小学校の校長だという。先日、小学校の周りを掃除する人から声を掛けられた。その人は山の方にある中学校の職員で小学校の掃除を手伝っていると話した。そのことを校長に話すと新しい人がまだ赴任していないらしく校長自らが掃除をしている。

 校長のように現役の人を見ると「若い」と感じる。それだけ自分が歳を取ったという証拠だろう。昨日から今朝までいろんな人に出会った。昨日はホームコンサートに出かけようと朝から忙しくしていた。その前に先日、近所の人から3種類の花の鉢植えを貰った。ネモフィラ、菫と1つの名が判らなかったが、それはゴデジアと教えてもらう。ネモフィラは綺麗な鉢に植えてあった。GW頃にはこの花の時期が終わる、と聞いていた。花も咲かなくなったので鉢を返しに行こうとした。が、手ぶらで行くわけにはいかない。その前に買い物を、と庭に出るとおっさんに声を掛けられる。

 2年位前に日帰り旅で一緒だった人らしい。人からああじゃ、こうじゃ、と指図されるのが大嫌いなものとしてはこういうおっさんが大の苦手だ。早く帰ればいいものをいろいろと我が家の周りのことを指図しだす。

 話を切り上げて花をくれた人の家に行くと外で庭仕事をされていた。もう一回来るからと言ってスーパへ。買い物したものと返却の鉢をもって再度行くと庭におられた。鉢植えのお礼を言うとまたもほかの鉢植えを下さる。丁寧に鉢に「虫取りなでしこ」と花の名前を書いた札を立ててくれた。広い庭には大きな樹木は植えてなく花壇になっている。毎日のように手入れをされているのだろう。いつ見ても花が咲いている。街路樹として植えてあるハナミズキの花壇の手入れもされているようだ。花好きの人は人まで優しい。先のおっさんとはえらい違いだ。

 2年半ぶりのホームコンサートに出かける。出かける前はコンサートに行きたい気持ちとコロナの感染が気になっていた。ところが生のハープの演奏を聞くとすべての嫌な気持ちが吹っ飛ぶ。20名あまりの聴衆だった。ゲストにクラリネット奏者が2名いた。

 演奏後、JR駅まで会場にいた人と歩いているとその人は週7日の予定が全部詰まっているという。何をしているのか聞くと興味をそそられるものがある。しかし、よく話していると嫌な気持ちがよぎる。司馬遼太郎を話題にした時だった。「誰も『街道をゆく』を借りる人はいないでしょう」という。こう言われてムッとなる。それもそうかもしれない、人それぞれ好みは違う、と思えばいいものをこういわれたことが許せない。何を言われてもすぐに反論できない自分が情けない。

 何がどうこう言っても嫌味を言う人と指図する人が一番嫌いだ。働いていれば我慢するしかないことかもしれない。が、幸い今は何を言われてもフリーの身。そう思えば何を気にする!?これもすべては自分自身が誰とも気軽に話すことに原因があるのかもしれない。気をつけよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 追記 最後の演奏曲にリムスキー・コルサコフの「シエエラザード」が演奏された。この曲はフルートでさらっている。が、曲の詳細については知らずにいた。今回、曲の意味を聞いて改めて曲を理解すると吹きたくなる。楽譜を探してフルートの練習をしよう!

2022年4月17日日曜日

TVシンポジウム「司馬遼太郎・菜の花忌 新型コロナ禍を考える」を見る

 日本画教室に出かける。入学シーズンや行楽の季節の影響なのか教室にいるのはいつもの半数だ。1人でも欠けるとやる気が失せそうになる。半数だとさらに失せてしまう。相変わらず樹齢400年の楓を描く。地面に生える楓の木が1本。これは結構まとまりがありそうでない。自分の力では難しすぎる?と思えたり。

 帰宅後、夕飯を済ませて見逃し配信のNHKプラスでTVシンポジウム「司馬遼太郎・菜の花忌 新型コロナ禍を考える」を見る。番組によると「作家司馬遼太郎さんをしのんで、今年2月開かれた菜の花忌シンポジウム。幕末の医学者を描いた『胡蝶の夢』を取り上げる。激動の時代、感染症・コレラの流行に翻弄されながら、奮闘する医師たち。新型コロナ禍のいま、司馬さんは私たちに何を訴えるのか。小説『胡蝶の夢』を通して、現代へのメッセージを読み解く。出演:澤田瞳子(作家)村上もとか(漫画家)磯田道史(歴史家)澤芳樹(大阪大学名誉教授)ほか」とある。

 『胡蝶の夢』全4巻を読んでいるはずなのに内容がすぐに思い出せない。このシンポジュームを見た後で読めばよかった、と思いながらテレビを見る。司馬遼太郎は産経新聞出身。というわけではないかもしれないが産経新聞のネット記事にシンポジュームの内容を文字に起こしていた。

 医師である澤氏の言葉に惹かれる。「50年近く前に書かれた小説ですが、テーマはコロナ禍の今とリンクしています。私たち医者は最先端の、世界でもトップの医療をやっていると思い込んでいました。ところがコロナ禍になって、医師として何もできなかった。目の前の人を助けることができない。病院に患者さんが来ても、十分に治療をすることすらできず、救急車の中で亡くなる。あってはならないことが起こってしまった。そんなことが50年後にあると司馬さんが想像されていたのかは分かりませんが、この『胡蝶の夢』に描かれた社会や人間性、医療のあり方は、全く今に通じる」と。

 これを見た後、『司馬遼太郎全仕事』から『胡蝶の夢』全4巻のくだりを読むと改めてこの本を読みたくなる。が、再度読んでいると生きている間に司馬作品全読破の夢が遠のきそうだ。ここはぐっとこらえて4月から放送が始まった『街道をゆく』シリーズを読むに限る!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月16日土曜日

もうすぐGW

 司馬遼太郎 『街道をゆく』シリーズは43巻ある。2週間前からNHKのBSで「街道をゆく」が始まった。多分、全巻すべての放送があると思われる。そうなると今年度いっぱいの放送になるかもしれない。先日まで読んでいた『夏草の賦(下)』を読み終えた。これから1年間は司馬作品といえば『街道をゆく』シリーズを主に読むことになりそうだ。といっても週に単行本1巻を読むには毎日読んだとしてもかなりのノルマになりそうだ。読めない日もあるはずだから読める日はとにかく読むようにしよう。これも司馬作品全読破につながる!?

 司馬遼太郎のテレビシンポジュームがEテレで放送される。同時間帯で見られないので後でNHKプラスで見ることにしよう。NHKプラスといえば同時間帯での放送もある。民放も最近Tverで生放送が始まった。テレビでなくパソコンを通して放送が見られるのは喜ばしい。

 暖かい日が続いたかと思えば急に寒い日になる。今朝の気温は本来のこの頃の気候らしい。もうすぐGWがやってくる。今年のGWは休暇次第で10連休になるとか。仕事をやめてもうすぐ20年。毎日がGWなので10連休と報道で聞いても何の感慨もない。が、もしも勤め人であったならば予定を組まずにいるだろうか。きっと海外に出かけたはず。と、昔を思いだしても今はコロナ禍でそれも無理というもの。

 忙しく働き、年に2,3回の休暇を海外に向けていたあの頃が懐かしい。今、その頃を振り返っても良き時代だった。それに引き換え今はどうよ、と言いたくなる。どんなに暇があってもまた、どんなに健康であっても思うように遊びに行けない。ああ、遊びたい!ぐずついた1週間だったがやっと遊びたい気持ちがよみがえる。これで本来の調子にもどった!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月15日金曜日

血管のばし

 FMで聞いた「悲しみは星影と共に」をネットで調べると映画の主題歌だった。是が非でもこの映画を見たいと思ってNHK・BSシネマを探す。そこにリクエストのコーナーがあった。ネットやメディアなどにリクエストをお願いしたことはない。が、100字でリクエストの希望を書いて送信をクリックすればOK、とのことで早速、リクエストした。BSでこの映画が見られるかどうかはわからない。が、リクエストしただけで見られる気がしてくる。

 スペイン語歌詞の「キエン・セラ」を暗唱できるように練習しようと思った。ところがその前に メルセデス・ソーサの愛唱歌「人生よありがとう」を覚えねば、と気づく。しかし、「人生よありがとう」は聞いたこともない歌なのでまずはメロディから覚えなくては歌えない。そう思ってこの歌の暗唱はひとまずお預けにしてまずは「キエン・セラ」を覚えることにした。幸いこの曲は若い頃か子供の頃に聞いたことがあるのでメロディはよくわかる。また何語の歌詞かはわからずに、ただ耳で聞いて覚えた歌詞で歌うとその一部は歌えた。スペイン語と照らし合わせると耳で覚えた歌詞とスペイン語の歌詞はほぼ同じだ。もちろん完璧に歌えるわけではない。ということでこの曲はすぐに暗唱できそうだ。

 NHKの「トリセツショー」を見ていると血管の話題だった。血管の硬軟がその人の若さと繋がるとか。面白そうな番組だった。血管が硬くなると老け顔になるらしい。歳よりも若く見える人は血管が柔らかいそうだ。硬軟は血管だけでなく木にも当てはまる。老いた枯れ木は水分がなくなりポキッと折れるが若々しい生木は折ろうとしてもなかなか折れない。血管もこれと同じことだろう。また血管と血圧は関係があるらしく、毎朝、同じ時刻に血圧を測り上下の差が45くらいであればいいらしく75とかになるとよくないそうだ。早速今朝、簡易的な血圧計で測ると上下の差は43だった。測定は2度で1度目と2度目の間は30秒間、開けるといいそうだ。他にも血管のばしが血管を柔らかくするという。ある時から腰から脚の裏側を延ばす運動をしている。これはいいようだ。が、1回延ばすごとにこれまた30秒間休むといいとか。

 泳ぎに行っていないのと旅行などもしていないのでかなりの運動不足は免れない。せめて、と思って自転車に乗らずに歩くようにしている。歩くことも血管を柔らかくするらしい。

 この1週間、ヘルペスができて今一歩、すっきりしない日々を送っていた。ところが、今朝はいつものように歌を歌う元気がある。本来の調子に戻ったようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月14日木曜日

♪悲しみは星影と共に♪


 何ヶ月ぶりかで郵便局へ行く。振り込みなどはATMを利用している。ところが振込先から振込用紙が同封されていると振込料が無料になることがある。送料に/が入っている場合だ。1年くらい前までは郵便振り込みは機械ですれば月に3回くらいまでは無料だった。この頃は有料。だが、先のように/があれば窓口の振り込みで無料になる。

 お寺の護持会費を振り込む。無料だった。他にも書類の書き替えとお年玉年賀はがきの当選の切手シート2枚を受けとる。用事を済ませる間、狭い局内を見渡していると棚があり物が置いてある。よく見るとどうも売り物のようだ。ナイロン袋に入ったミカンが4,5袋あり、他にも手作りの巾着などの小物などがある。ミカンをよく見ると「はるか」と名がある。色はレモンイエローで500円だ。これを1袋買おうと思って窓口に500円差し出す。

 はるかは高級のイメージがある。しばらくすると窓口の人が近づいてきて500円は備え付けの小さいポストに入れるのだという。久しぶりに郵便局へ出かけたので局内の変化に驚くばかり。他にもカボスの瓶入りのドリンクも窓口で売られていた。「人気がありますよ」と係はこれを宣伝する。まるでミニミニのコンビニのようだ。
 
 はるかは日向夏が種子親でミカンが花粉親のようだ。以前、スーパで売られていたのを買っている。今年は買ったはるかを初めて食べる。

 「街道をゆく」の2回目の放送である「モンゴル紀行」を見た。早速、司馬作品の『街道をゆく』(五)「モンゴル紀行」を図書館で借りる。モンゴル紀行といえばツエベクマさんがいる。この人の名はもう30年かそれ以上も前に司馬遼太郎の『草原の記』を読んで憶えていた。『街道をゆく』シリーズの一部と『草原の記』など少しだけ司馬作品を買って読んでいた。が、当時は今ほど熱が入っておらず、改めて熱を帯びて読んでいる。

 ネットラジオの音楽遊覧飛行を聴きながら投稿中。いい曲が流れた。それは「悲しみは星影と共に」。YOU TUBEを探そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月13日水曜日

次は”Quien Sera”

 ふとひらめいた曲がある。曲名はわからずネットで思いついた歌詞を入力するとそれが曲名だった。「キエン セラ~」と続く歌だがかなり昔に聞いた歌に違いない。曲名が分かったところでYOU TUBEを探すとトリオ・ロス・パンチョスの歌がある。しかし、この動画は曲が早すぎる。いろいろ探していると渡辺真知子が歌う動画があった。さらにスペイン語の歌詞を探す。

 この何か月かは「ケ・セラ・セラ」(ケ・セラ・セラだけがスペイン語で他は英語)「その名はフジヤマ」、そして「黒い瞳のNatalie」とスペイン語の曲を覚えて歌っている。他にも中国語では「夜来香」がある。が、歌っている歌詞をそのまま原語に書き記すことができるのはスペイン語の歌詞で中国語は覚えても歌詞に記せない。というのもスペイン語はほぼローマ字読みできるが中国語はピンインなど簡単に書けない。ということで新たに覚える歌は「キエン・セラ」。これも頭の体操!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

Quien Sera Trio Los Panch

Quien sera la que me quiera a mi
Quien sera, quien sera
Quien sera la que me de su amor
Quien sera, quien sera

Yo no se sila podre encontrar
Yo no se, yo no se
Yo no se si volvere a querer
Yo no se, yo no se

He quendo volver a  vivir 
la pasión y el calor de otro amor
de un amor que me hiciera sentir
que me hiciera feliz 

2022年4月12日火曜日

春の日本画展

 体の疲れからヘルペスができた、とわかっているのに少しでも調子がいいとじっとしていない。今月いっぱい開催中の春の日本画展に出かけた。展覧会は第60回記念で「文化勲章受章作家たちの作品集う、春」とのサブタイトルがついている。昭和12年受章の竹内栖鳳「冬望」から平成24年受章の松尾敏男「暖日」などの33点が展示されている。特別出品とて前田力の「憂いの街」の展示もある。

 このギャラリーは街中の八丁堀にある某金融機関所蔵の作品展である。会場に入ると厳かな雰囲気のなかにも係の丁重な案内がある。今回は記念すべき60回とあって展示作品の中の10点を絵葉書にして下さった。この金融機関に全く縁がないものとしては何だか申し訳ない気持ちでいつもこの会場に行く。いただいた絵葉書の中に前田青邨の「紅白梅」が入っていた。今、描いている絵の参考になりそうなのでありがたい。

 絵を堪能した後は駅前の福屋にバスで向かう。バスに乗車後、三越によるのをわすれていたと気づく。福屋でケトルを購入。やかんや鍋など家の近くに売っているお店がない。以前だったらサティに生活用品全般を売っていた。が、2,3年前にマックスバリューになって食料品しか売っていない。ケトルだけでなく食料品以外の日用品、例えば靴やカーテンなど地元にお店がなくなってしまった。時代に逆行して不便になっている。

 ケトルの売り場に行く。最近はティファールでお湯を沸かしていた。が、先日、壊れた。ミルクパンで代用していたがお湯を他の容器にいれる度、やけどをしそうになる。これは危ない。ティファールは2回買い替えた。今回はティファールでなくケトルを購入。さすがにデパートの売り場だ。思っていたよりもケトルは高い。新潟で作られた高級ケトルとあるがさてさて。

 今一歩の状態で外に出かけたためか家に帰って眠気が襲う。昼寝をすることはまずない。が、ここは寝ずにはおれない。アラームを1時間半かけて眠る。夜になっても眠い。昨夜は12時間も寝ていた。今朝は本来の調子に戻ったようだ。

 いくら元気といっても無理は禁物。歳を考えろ、と言われそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月11日月曜日

『ご機嫌剛爺 人生は、面白く楽しく!』

 BSで司馬遼太郎の「街道をゆく」がはじまって以降、『街道をゆく』の(一)と(二)を読んだ。単行本を3日で2冊読んだことになる。自分の中では最高に速いスピードで読んだ3日間だった。それでなくてものぼせすぎて口の周りにヘルペスが出来ている。これもだいぶ治ったようだが無理は禁物と思いながらも「沙也可」と渡来人の族名を知りたくて探しながら本を読んだ。「沙也可」は本の目次にその見出しがあったのですぐに分かった。が、渡来人の名ははっきりとせずテレビを見るときメモすればよかったと悔やまれる。

 以下は『ご機嫌剛爺 人生は、面白く楽しく!』(逢坂剛 集英社、2021年)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★世間のブームには乗りませんが、自分で見つけた鉱脈はとことん掘り続ける。小説も、映画も、野球も、ギターも一度好きになったものは、ずっとはまり続ける。知れば知るほど、新たな魅力を発見して、また好奇心が刺激され、もっと好きになる。この鉱脈は尽きることがないのです。(111p)

★長年勤めた会社を早期退職したあとも、自宅から電車に乗って毎朝九時に”出勤”し、昼食を挟んでせっせとデスクワークに取り組み、夕方の五時に”退勤”するというリズムを、なんとなく守っている。それが心地いいからです。食事は平日・休日問わず、時間を決めて正しくとる。リズムを出来るだけ一定にすることが、体に負担を与えないこつのような気がします。好きなことを、死ぬまで続けたいという貪欲さだけは、だれにも負けない自信があるから、そのためにリズムを整えるのです。(112p)

 (このくだりはよく似たことをしている。早期退職というかリストラというか、50代半ばで会社を辞めた。その際、家にいては体に良くないと思って市内の中央図書館へ勤めていないのにJRの通勤定期を買って毎日のように通った。当時は家の近くにまだ図書館が出来ていなかったので地元JR駅から広島駅までJRに乗り、そこからは中央図書館まで歩いて通っていた。これは運動にもなって体にもよかった)

★わたしも日ごろから、「人間関係をよりよく!」と気合を入れて、過ごしているわけではありません。ごくごく自然です。ただ一つ言えるのは、自分の”好き”きらいに対しては、忠実なことです。そうは見えないらしですが、実はけっこう、好ききらいがはっきりしている方なのです。基本的に、話していて心地よい、と感じられる人と会いたい。だれでも、そうですよね。気の合う人と、楽しく会話できる時間を増やしていけば、自然と人間関係で悩むことも、少なくなるわけです。(145-146p)

★どうせ生きるならご機嫌に、できることなら争いごとを避けて、日々を過ごしたい。(185p)

 (このくだりもそう思う。生きている間はもめごともなく、ただただ楽しく元気で生きていたいとの思いがある)

★これからの目標はと聞かれたら、変わらず好きなことに没頭できる人生を送りたい、と答えます。今年で七十八歳になりますが、父・中一弥は、挿絵画家として生涯仕事を続けて、百四歳まで生きました。……妻を早くに亡くしたことは、不幸だったかもしれませんが画家としてこれほど幸せな生き方はあるまい、とあこがれに似た感情が沸いてきます。……わたしの創造の泉も、いつ尽きるか分かりません。……生きるほどに、好奇心が膨らみ、やりたいことが広がっていくから、つい年齢をわすれて先ざきの楽しみまで、計画してしまいます。自分を暇にさせない、退屈させない、これからも、わが人生を味わい尽くします。(193-195p)

2022年4月10日日曜日

のぼせ

 今月いっぱい市内の某金融機関のギャラリーで文化勲章受章者の日本画展が開催されている。わざわざ葉書で開催の知らせが届いた。日本画の若い人はさっそく見に行ったそうで何度見てもいいと話していた。近いうち見に行こうと思っている。が、4月になって近場をうろつきすぎたのか口の周りにヘルペスができた。マスクでそれは隠せるがまるでマスクかぶれの感じだ。この兆候はおとなしくせよ、との天の声かもしれない。

 日本画教室では1人が欠席。先週も欠席だった。先生との電話で腰や足の調子がよくないらしい。絵を習っている人の変動はぼなく同じメンバーだ。そのうち1人でも欠席があれば和が保たれなくなりそうで淋しい。腰や膝が痛い人の話をよく聞く。幸いに今は体のどこも痛いところがない。と、言いながらも口の周りにヘルペスが出来てしまったが……。まあ、これはすぐに治りそう。

 相変わらず樹木を描いている。大きな樹齢400年の楓の木だ。それを点描写する。まだまだ描く先は長そうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月9日土曜日

『死ぬほど読書』

 『死ぬほど読書』(丹羽宇一郎 幻冬舎、二〇十七年第3刷)を読んだ。このなかに「セレンディピティ(serendipity)という言葉があります。素晴らしい偶然に出会ったり、予想外のものを発見するという意味の言葉ですが、本をよく読んでいると、このようなセレンディピティは起こりやすくなると思います。セレンディピティはいろいろな人と出会ったりして知見が高まると、起こる頻度が高まるといわれます。本を読むのも、いろいろな人(著者)と出会って付き合うことです。したがって本をよく読んでいる人は、セレンディピティを一層招きやすくなるのではないでしょうか」とある。(158p)

 セレンディピティは以前に外山滋比古の本を読んで初めて知った。それ以来、この言葉のような偶然に遭遇することがある。最近では先日のNHK・BSで放送された司馬遼太郎の「街道をゆく」である。司馬遼太郎に何も関心がなかった時代、たとえ放送があっても見向きもしなかったに違いない。ところが司馬遼太郎に目覚めて以降、テレビ欄や本で司馬に関することが目に入るようになった。何ごともアンテナを張り巡らさないと目に入ってこない。「街道のゆく」の放送は自分にとって何物にも代えがたい喜ばしいことになった。

 以下は、この本を読んで気になった箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★栄養を摂らなければ生きて行けないように、心にもまた栄養が必要です。その栄養となるのが読書です。心に栄養が足りないと、人のなかにある「動物の血」が騒ぎ出します。ねたみ、やっかみ、憎しみ、怒り、利己心、自暴自棄、暴力的な衝動など、まるでジャングルの獣のごとく次々と表出する動物の血は、負の感情を生み出します。……300万年前に猿から進化した猿人が登場し、70万年前に原人が現れ、いまの現生人類になったのが10万年前です。その間、動物の血は連綿と受け継がれてきました。その動物の血を抑制し、コントロールする「理性の血」は、人類文明が発祥した4000~5000年前に誕生したばかりです。……極限状態に追い詰められた人間は、動物の血が強くなります。……戦争はまさに「動物の血」を激しく煽るものです。……動物の血をコントロールする理性の血を濃くするには、心を鍛えるしかありません。そのためには読書を通して心に栄養をできるだけ与えたり、仕事をしたり、いろいろな人と交わったりするなかで多くのことを真摯に学ぼうとすることが不可欠だと思います。(97-100p)

★問題があるということは、懸命に生きている証です。(142p)

★「問題は人との関係であり、一人で解決するものでもない。他人への想像力と共感が、解決へと導いてくれる。問題がある限り、またそれを解決する答えも必ずどこかにある。問題があるというのは、生きている証だ。問題があることを喜べ」人間一人では生きていけない。人間一人の力はたかが知れている。これが私にとって人生最大の教訓です。(143p)

★本で出会う言葉と体験は互いにキャッチボールをしながら、その人の人生をつくっていくのだと思います。つまり本で読み、心に刻まれた内容は、必ず生き方に表れる。……肉体のシワは歳を取ると自然に増えますが、心のシワは生き方や努力によって変わるので、歳を取っても少ない人もいます。……やはりたくさんの経験を積んで、たくさんの本を読む。時間をかけてシワをたくさんつくってきた人は、シワの数だけ、より深い人生を生きられる。そうやって心のシワを増やすことは何物にも代えがたい喜びだと思います。(147-148p)

★孤独死という言葉はそんな世相を象徴していますが、そもそも死ぬときは一人ですから、死に孤独も何もあったものではありません。……最近の人は、一人で何かをしているとすぐに孤独を連想するほど、一人で何かをすることにへんな引け目を感じている節があります。一人イコール、孤独ではありません。……ですから。たとえ一人暮らしで読書に明け暮れているような人でも、内面は孤独などというものからほど遠く、じつに賑やかで楽しげなものではないでしょうか。(150-151p)

★お金があって余裕のある人ほど、ノブレス・オブリージュの精神を持って、社会や人のためになる貢献活動をする、私ならそう考えますが、そういう人は少ないようです。(156p)

★読書は心を自由にしてくれます。読書によって自分の考えが練られ、軸ができれば、空気を中心に思考したり、行動したりすることはなくなるはずです。世間の常識や空気に囚われない、真の自由を読書はもたらすのです。(181p)

★私はあと数年で傘寿になります。さすがにこの歳になると、自分の最期を想像してしまいます。やはり同じ死ぬなら楽に死にたい。好きな本を読みふけっている最中に忽然と死を迎えるのも悪くない……。(おわりに 183p)

2022年4月8日金曜日

「沙也可」

 NHK・BSで見た「湖西のみち・韓(から)のくに紀行」は1997年制作の番組のようだ。番組紹介をみると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!近江と韓国に作家の足跡を追う。日本人とは何者か?日本とはどういう国なのか?国家、文明、民族とは何か?思索の旅が始まる」とある。

 この中で秀吉の時代、加藤清正が連れて行った多くの日本人のなかに「沙也可」がいた。その子孫は韓国に帰化し、沙也可の一族として生活している。その逆で韓国から日本に連れてこられた渡来人も日本に多数いる。年に一度、その一族は集まる。この一族の名をメモせずにテレビを見た。沙也可は覚えていた。が、一族は〇〇族のような気がするがあやしい。

 地元の図書館で今回の放送に関する司馬遼太郎の『街道をゆく』の(一)と(二)を借りた。地元の図書館に『街道をゆく』がそろっているとは知らず、ネットで予約していた。が、『街道をゆく』の全シリーズは地元図書館にあった。

 分厚い単行本を借りて「沙也可」を探しながら読み始める。かなりの時間読んでいると沙也可のくだりの掲載があった。だが、渡来人の一族はまだ見つけていない。

 『夏草の賦(下)』を読んでいる。もう少しで読み終わる。その後の司馬作品は当分、『街道をゆく』になりそうだ。来週のBSでは「モンゴル紀行」の放送がある。1997年、当時はまだ司馬作品にハマっておらず、今になって必死にテレビを見たり本を読んだりする始末。

 何十か国と外国に出かけていても近くの国「韓国」へはまだ行っていない。『韓(から)の国紀行』を読んで韓国へ行こう、となった。だが、今はコロナ禍でどこへも行かれない。と、ぼやきながらも出かけたい国、韓国が見つかった。再度放送される「街道をゆく」シリーズは閉塞感ある今の私のささやかな楽しみとなった。それと同じく何十巻とある『街道をゆく』シリーズをすべて読み終えるチャンスと思うと嬉しくもある。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月7日木曜日

「人の心も世の中も希望がなければ真っ暗闇さ」

 お天気のよさに誘われて近場を歩く。旧山陽道を歩いて目的地に向かう途中、道の反対側を歩く人から声をかけられる。旧道で道は狭く、ひっきりなしに通る車を横切って何の用かを問うた。すると午前中に話しかけた人では、と勘違いされたようだ。声をかけてきた人は前日の地元紙に掲載された国の準絶滅危惧種に指定されているゲンカイツツジを見に1人で日浦山頂上付近にまで登り、降りてきたところだった。山の高さは345.4mある。この山へは10年くらい前に知人と登っている。それを1人で登った、と聞いてびっくり。ところが立ち話をしているとさらに驚く。広島駅付近の住まいからJR駅3つ目の駅がある山まで歩いてきたという。さらにさらに驚くことはこれから我が家へJRに乗らずに歩いて帰るという。歳を聞くと同時代を生きている。「2万歩くらいでしょうか」と、歩いた歩数を話していたがJRの乗車距離だけでも往復13kmもある。さらに登山を加えれば2万歩どころかその倍は歩くに違いない。

 1人での登山は怖くないのか尋ねると途中の山道で猪の糞を見たときは怖かったと話していた。登山中、誰とも会わなかったとも言っていた。その人と別れて隣町のHPで見た観光ルートを歩く。大師寺→一貫田公園→薬師寺→真福寺聖観音菩薩像→熊野神社と歩くがどこも石段の道だ。その上、お寺に隣接する狭くて薄暗い石段だらけの墓地を歩くので怖さがある。途中のお寺の石段では墓石業者なのか石段の道を発電機で動かす上り下りする手押し車を引いていた。同じ業者の人なのか水を手にして重たそうに運ぶ人もいた。この光景を見ると今どきの事とは思えない。とはいいながらも山の石段は人の手に拠るしか手段がないのもよくわかる。
               近年、建て替えられた大師寺

              墓地そばの狭い薄暗い道を歩く

一貫田公園
                   薬師寺
              後ろにあるのはひまわり観音 
        「人の心も世の中も希望がなければ真っ暗闇さ」と掲示
               本物のツバキの花だった

               真福寺聖観音菩薩像
                熊野神社の若い枝垂れ桜
 外に出歩くと気分がいい。隣町のHPには昨日のような山沿いの道だけでなく、沖の方面の掲載もある。沖までは自転車に乗って行こう。さてそれはいつ!?

 話は変わって昨日の夕方のBSで司馬遼太郎の「街道をゆく」をやっていた。1回目とあるから多分これからシリーズ化されての再放送だろう。昨夕は「湖西のみち・韓のくに紀行」だった。もう必死で見た。そしてすぐに図書館でこの2冊の街道をゆくを借りる手配をした。シリーズ化が楽しみ!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月6日水曜日

入学シーズン

 平和公園の桜がピークを迎えている。遠くへ行かれない分、近場を散策と思っていた。が、このシーズン特有の鼻水が出て止まらない。近場では比治山公園や広島城の桜もある。今年の桜は造幣局の桜で見収め、とあきらめよう。

 桜とともに春は入学シーズン真っ盛りだ。身内に大学生が2人誕生する。1人は大阪の国立大学へ入学し、もう1人は働きながらの大学編入学。大学入学といえば自分自身も遅まきながら50代半ばで社会人大学生として学んだ。あれから20年近い歳月が過ぎようとしている。今思うと50代は若かった。会社リストラのハンディを大学で学ぶことに燃えていた。が、その1年後に母が大けがをすると誰が思ったことだろう。身に降りかかった介護と学生生活。やっぱり若かったのだろう。怒涛の6年間をくぐり抜けた。忙しかった日々から13年が過ぎた。時の過ゆくスピードは本当に早い。そして、その間の歳の取り方はどうよ、というくらい老けてしまった。が、気持ちはこの春入学する姪や姪の子に負けないほどの気力はある。勝手にそう思っている。まだまだ老いぼれてはいけない、と自分に言い聞かせて……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月5日火曜日

”Impossible Nothing”

 今年は陸上自衛隊駐屯地の桜を見に行こうとした。が、何の情報も入らず今年も開放されないようだ。造幣局の桜は13日から開放されるのでこれは見に行こう。

 昨夜はNHK総合の「映像の世紀バタフライ・エフェクト [新]『モハメド・アリ 勇気の連鎖』」を見る。モハメド・アリの名は知っていてもその人がどんな素晴らしい行動をとったのかはこの番組で知った。番組HPによると「1954年、12歳だったアリが愛用の自転車を盗まれたことがすべての始まりだった。怒りに燃えたアリはボクサーを志し、無敵のチャンピオンとなる。その言動は、世界を大きく揺さぶった。ベトナム反戦運動を燃え上がらせ、オリンピックを揺るがす表彰台での黒人差別への抗議をもたらし、史上初の黒人大統領誕生へとつながる。世界を敵に回しても信念を貫いたアリの勇気は、世界を変えたのだ。貴重映像でたどる勇気の連鎖の物語」とある。

 放送中に流れた2つのキーワード、「バタフライ・エフェクト」と”Impossible Nothing”はこの番組を物語る。少年だったクレイの名は奴隷の名前、のちに最高の名であるモハメド・アリと改名する。ボクサーとしてチャンピオンに輝くもベトナム戦争への徴兵が始まる。これを拒んだためアリのチャンピオンは剥奪される。アリは全国民を敵に回すことになるが全米の大学で講演し、ベトナム反戦運動を繰り広げる。戦争は人を殺せ、殺せ、殺せ、だと演説するとこれを聞いた多くの若者は徴兵カードを焼き捨てた。これによりアメリカの戦争支持率は60%から30%に割り込み、その時、はじめてアメリカは戦争に負けた。

 当時、これを見ていた人の中にオリンピック選手たちと後に大統領となるオバマがいた。黒人のオリンピック選手であるスミスとカーロスの2人はメキシコシティでのオリンピックで1位と3位に入った。2位はオーストラリアの選手。スミスとカーロスは2つのグローブをわけあって表彰台で拳を天に突き付けた。これは黒人差別を著す行為だそうだ。2位の選手もこの考えに同意して人権プロジェクトのバッジをつけて表彰台に上がった。オーストラリアもアボリジニの問題を抱えている。その後、この3人はそれぞれ様々な迫害を受けた。

 アリは禁固7年の罪を終えてボクシング界に復帰。ブランクのあったアリは8ラウンドノックアウト勝ちを収める。アリの言葉に”Impossible Nothing”がある。「不可能など何もない」だ。この試合をハワイで見ていた13歳の少年がいた。後にアメリカ大統領となるオバマだった。少年は逆境をはねのけるアリを尊敬した。オバマもまた黒人の血を引いて育ちアイデンティティのない少年時代を送っていた。「すべての国民は生まれながらにして平等である。それが真のアメリカだ」と唱えて政治家を志す。

 政治家になる前のオバマは執務室にアリが闘う写真を掲げていた。オバマもアリが言うように「不可能なことなど何もない」と話す。大統領になるとアリからもらったというボクシングのグローブをホワイトハウスのダイニングルームに飾った。その部屋をオバマ自身がメディアに開放している。オバマは「努力を続けて信念を貫けば、なんだってできるのです」という。

 オバマが大統領になった後の2016年、あの2人の陸上選手がホワイトハウスに招待された。2人は48年の時を経て名誉を回復し、その行為を称えられた。が、オーストラリアの選手にそれはなく名誉の回復のないままに68年の生涯を閉じた。スミスとカーロスはアメリカから葬儀に駆け付けて彼の棺を担いだ。母校の大学には2人の勇気ある行動を称える碑が建てられている。そして迎えた昨年の東京オリンピックでは選手たちの抗議行動が許されるようになった。

 アリは2016年に亡くなる。葬儀の日、娘は弔辞で述べる。”Fly butterfly(蝶よ飛べ)”、”Fly butterfly”と。アリは生前、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」を好んだ。そしてアリの人生の始まりともいえる自転車紛失事件がある。今、アリの母校には自転車のモニュメントが飾られている。

 先ほどまでNHKプラスでこの番組を再度見る。いい番組だった。世界を見渡すと今も銃声は鳴りやまない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月4日月曜日

『追憶のひとびとー同時代を生きた友とわたしー』を読む

 昨日までの1週間、3日ほどは近場の桜を見て歩き、さらに1日はコンサート、もう1日は日本画教室と連日のように出歩いた。急に動き回ったので疲れたのか昨日は一日、頭が痛かった。体のどこかが痛くなることは全くと言っていいほどない。が、出歩いていたため、もしかしてコロナにかかった?と思ったりした。頭の痛さとコロナは関係ある!?

 夜になっても頭が痛い。もしかして風邪?と思いなおして昨晩はお風呂にも入らず早めに就寝。今朝はよく寝たためか頭の痛さもなく気分も爽快だ。急に遊び歩いたので草臥れたのだろう。今週から水泳を再開するつもりでいた。が、昨日までの草臥れとコロナの感染者の増加で水泳の再開はもうしばらく様子見となりそうだ。

 色川大吉の『わたしの世界辺境周遊記フーテン老人ふたたび』を読んで以降、『フーテン老人世界遊び歩き記』、『色川大吉人物論集 めぐりあったひとびと』、そして『追憶のひとびとー同時代を生きた友とわたしー』と最近、個人的に色川大吉にハマっている。しばしらくは司馬遼太郎の本と同時進行で色川や他の人の本を読むようにしよう。

 一人の著作を一気に4冊読むとその人となりが少しはわかってくる。色川は日本近代史・思想史の専門家であり、「自分史」の提唱者でもある。「わたしは今から三十七年前に『自分史』という言葉を創り、『ある昭和史―自分史の試み』(中央公論社、一九七五年)で、自分史も使い、同時代史を描いたことがあるが、こんどの本は多勢の他者を使って平成時代史を書こうというものではない。これは『追憶』の書である。あくまでも各界の知友たちを一人一話ずつ懐かしい気持ちで書いた。なかには辛辣な筆致もある」(『追憶のひとびとー同時代を生きた友とわたしー』街から舎、2012年 10p)と書いている。

 ここにある「辛辣な筆致」、でいえば司馬遼太郎に対して「もちろん司馬のものは『竜馬がゆく』から『坂の上の雲』まで読んでいる。西部劇を見るように楽しく読んだ。達者だが、歴史は書けていないなあと思いながら読んできた」(29p)とあり、続けて『燃えよ剣』を書いた司馬に対して「あなたの作品では明るい面、英雄的な面が強調されすぎ、あの時代の暗さ、深さをとらえ損ねている、と。それに対し、司馬遼太郎は『いや、それは維新に対するあなたと私の考え方のちがいによる』と反発し、認めなかった。そこで、わたしが幕末期のそうした暗さ、不信と絶望のふかさを理解しなかったら、それを生き抜いて五稜郭まで落ちのびてきた土方歳三たちの屈折した人間像を丸ごと書けないじゃあないですかと、問い詰めたら、しばらく黙っていたが、司馬は結局。わたしの批判を認めなかった。『色川さんの言うのは歴史でしょう。それと歴史小説は違う。歴史小説というのは、所詮、読者に楽しみをあたえるものであって、読んだら絶望してしまうようなものでは駄目なのですよ』と。そうだろうか。わたしは反論した」(31-32p)と書いている。

 さらに1997年3月の『プレジデント』臨時増刊号『司馬遼太郎がゆく』を引き合いに出して日本の経営者が好む司馬作品の第一位は『坂の上の雲』、第二位が『竜馬がゆく』であるのに対して、サラリーマンのほうは『竜馬がゆく』が第一位にきている。それにより司馬遼太郎が下積みの庶民などとは関係のない「国民的作家」になっていった、と批判的とも思えるような書き方をしている。

 自分ではどちらがどうこうとは言えないが、司馬作品によって歴史小説を読む楽しさを開眼させてもらったものとしては「歴史小説というのは、所詮、読者に楽しみをあたえるものであって、読んだら絶望してしまうようなものでは駄目なのですよ」という司馬を応援したい。というか、色川は民衆思想史を研究し、民衆活動家でもあるので「国民的作家」になってしまった司馬に物申すのもわかる気がする。

 いずれにしてもこれから一生をかけて司馬作品全読破を目指す気持ちに変わりはない。また、色川の本も5冊目を借りて読みはじめた。この人の自分史のような著書である。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月3日日曜日

楓を描く

 昨日午後は日本画教室の日。描いている絵は樹齢400年を誇る楓の木。この「楓」を「ふう}と読んでいた。先生に「ふう」と話すと「カエデ」、と言われる。携帯辞書で調べると「カエデ」とあり、「ふう」の掲載がない。家に帰って改めて電子辞書で調べると「楓」は「ふう」とも「カエデ」ともある。だが、その2種類の樹木は呼び名が変わるように同じものではないらしい。

 教室の人が最近描いている絵を見ると花の絵が多い。それも秋の日本画作品展で催される趣旨にちなんだ絵のようだ。F6の絵を2点出す予定でいるが、他にも先生企画の絵はまだ何もしていない。絵の教室に入って4年目の若い人はひたすら鉛筆で縮景園内にある樹木と祠の風景画を描いている。昨日、その人のデッサンを見て描く絵の丁寧さに驚く。あと2年間は鉛筆画に挑戦すると話していた。なかなか芯のある人で描く絵に信念がこもっているようだ。

 絵の習い始めは元来、描くことが好きでなかったことにもよるが楽しい、と思うことはあまりなかった。むしろ教室に行くのが苦痛だった。それなのに教室の雰囲気がいいのか、いつの間にか絵を習いだして丸8年半が過ぎた。それでも先の若い人の描く絵を見て自分の考えを通す描き方に感心する。このごろやっと自分の描きたいことが何なのか気づき始めて少しずつ絵を描く愉しみが沸いてきた。というか、半分は教室に遊びに行っているようなものかもしれない。自分の中では人とのうまい下手の競争ではなく面白く楽しく習う方が長続きする。何でも楽しければそれでいい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月2日土曜日

地元の山の桜

 今を盛りとばかりに咲く桜を見に地元の山に行く。神社の辺りから山に向かって一面桜が植えてある。他所の桜を見に行かなくてもいいほど桜の名所である。2,3のグループがお花見をしていた。小さいころは一家総出でお花見に行った。まだスーパーなどがない時代、母が子供たち一人ずつにお花見弁当を作ってくれ、それをもって山に出かけた。まるで町内の人すべてが出かけるほどの賑わいを見せていた。が、今はそんな光景は見られない。時代の移り変わりがお花見にもある。

 好天にも恵まれ、お昼前は人出が多いと予想して午後になってカメラ持参で山に行く。鳥居をくぐると桜も満開で、そこはまるで別世界のように美しい。神社から山に向かって石段が連なり、途中、鐘を突く場所がある。さらにその上を行くと「観音さん」といわれるお寺の跡がある。今、「観音さん」は山のふもとの違う場所に移転した。若いころは山に行けば必ず鐘を突いていたし、お寺の跡へも参っていた。が、この頃は鐘を突く音もたまにしか聞こえず参る人も少ないようだ。

 山を歩いていると頭がつくほどに桜が垂れている。その下に座って写真を撮っていると声を掛けられる。「黄金山が見えるよ」と。対面の山を見ると黄金山の桜が見えた。久しく黄金山へ出かけていないが頂上や車の通る山道の桜がはっきりと見える。

 声をかけてくれた人としばし話した後、帰路につくとのこと。同じ町内の人だが我が家とは真反対に住んでいる。知らない道を歩くのが好きなのでその人について行く。町内の住所標識をカメラに写しながら歩く。家に帰って住所表示の写真を参考にして町内地図を見るとどこの道を歩いて帰ったのかがよくわかる。長く同じ町に住んでいるが初めて通る道だった。

 家に着く手前で近所の人と出くわす。ここでしばし立ち話。家を一歩出ると誰かと出会う。遠い旅に出かけたわけでもないのに知らない道をキョロキョロしながら歩くとちょっとした旅気分が味わえる。

 話は変わって、2年数か月ぶりにホームコンサートを再開するとの便りが届く。4月に1回、5月に2回のコンサートの予定が記されている。しばし、外に出かける機会が減っていた。これ幸いとばかりに届く遊ぶ話は大いに歓迎。ホームコンサート、楽しみだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
鳥居をくぐった先は神社



山の上のお寺跡まで石段が続く
途中、鐘突き堂がある

石段を振り返ると桜、桜……



対面の山が黄金山

桜の木の下に真っ赤なツバキが咲いていた

2022年4月1日金曜日

『フーテン老人世界遊び歩き記』

 色川大吉の『わたしの世界辺境周遊記フーテン老人ふたたび』を読んで以降、この人に興味を持ち『フーテン老人世界遊び歩き記』(色川大吉 岩波書店、1998年第1刷)を読む。この本を読んだ後も、さらに関心が沸いて2冊読んだ。人の名前でその人を判断する癖がある。この人の名を聞いて根拠なくいいイメージを抱かなかった。ところが本のタイトルにある「世界辺境周遊」、に惹かれて本を読むと自分がイメージしていた人とは違っていい人だ。それからの1月間に色川大吉の本を4冊も読んだ。

 見も知らぬ人を名前などで判断してはいけない、ということがよくわかった。名前でその人となりを判断するのは何も作家だけではない。どんな有名なアーティストであっても名前が好みでないと全く関心を抱かない。これはよくないと思って改めようとするが、それでもなかなか悪い癖が抜けそうにない。

 以下は『フーテン老人世界遊び歩き記』からいつものごとく気になる箇所を記そう。終わ辺りに記したメルセデス・ソーサの愛唱歌「人生よありがとう」が気に入った。この本を読んで知った曲なのでメロディーも歌詞も全くわからない。この状態からこの歌を覚えるのは無理かもしれない。が、YOU TUBEを見ると半端なく再生回数が多い。誰からも愛されている歌に違いない。気長に聞いてこの曲を覚えよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★いまのフー老には介護してくれる人がいない。金もない。もとより、老衰していつまでも長生きしていたいという気持ちはないが、死ぬまぎわまで楽しく遊んだり、好きな仕事に没頭していたいのだ。そのためには最低限必要な体力を保持しておかなくてはならないぞ、そう思ってからフー老の強化体操がはじまった。自分で考案した全身の血行を良くする簡易体操、スキーに備えるための筋肉を柔軟にする運動と足腰をきたえる体操、それを一日も休まず、朝と晩かならずやる。そのうえ暇があればプールで泳ぐ。冬はスキーに行く。行けないときは日に最低二キロは速や足で歩く。階段はなるべく足で上がる。菜食と魚食をふやし、栄養のバランスを意識する。こうした試みは、アメリカ暮らしのときからはじまり、いまでもやめずに続けている。(43p)

★フー老は高校から山岳部に入って体をきたえたので基礎体力はあった。その後、それを過信して、非合理な生活をつづけ、五体をボロボロにした。それに気づいたとき、諦めないで修復に努力できたのは、楽しいことをしたいという一念があったからといえよう。人間は自分のために生まれてきたのだから、楽しく生きなくては生をうけた甲斐がない。神のためにではない、国のためにでもない、家族のためにでもない。自分のために自分を生きる。それがだれかのためになったかは、結果として出てくることだ。そう、フー老人は思うようになった。(44p)

★フー老はこの談話記事(注を参照)を読んだとき、いたく共感した。ただ、凡俗な日本人であるフー老にはしがらみが多すぎた。それからいかに自分を解放するかで悪戦苦闘しているうちに多くのエネルギーを使ってしまい、老け込んだ。そのことをフー老は悲しみ悔やんでいる。その痛覚があるからこそサイデンステッカーさんの自由に羨望の念をいだいたのだ。だが、フー老でさえ、全国に幾千万人もいる老人からは羨ましがられる存在だ。仏陀も言われるとおりだ。眼下は千仞の谷、頭上は薔薇(しょうび)の天国と。(45-46p)

注:アメリカ人の日本文学研究家であるE・G・サイデンステッカーの「私は独身を通してきました。別にポリシーでそうしているわけではなく成り行きで、その方が楽だったから。朝と昼の食事は、めん類や雑炊、豆腐料理などを自分で作ります。夜はたいてい浅草や新宿あたりに友人たちと出て歩くので、ほとんど不便を感じません。……私の場合はとにかく書くことが何より楽しみ。今も午前中は掃除や植物の世話をすませてから、必ずワープロに向かいます。私は永井荷風が一番好きなんですが……」(『AERA』一九九五・九・一五)

★フー老には、イスラムの大義のためとか、「聖戦(ジハード)」に命をささげて戦死したとかいう聖職者らの弁明の欺瞞がゆるせなかった。それはフー老が体験した、日本の「皇軍」の正義の戦いとか、天皇のための「名誉の戦士」とかいう美化とおなじであった。(100p)

★ギラギラした太陽の熱戦は冬を感じさせない。頂上に立って見ると、イラクは指呼の間だ。トーチカが見え、四連装の対空火器が備えられている。案内してくれた将校たちに感謝して基地を出る。午後はスーサの遺跡にまわる。(105p)

★フー老は夢を追い求めた。夢をなくした老いの人生なんて灰色のトンネルの中をゆくようなものだと思っていた。七十数年も使い古した体をあやしながら、メンテナンスをかさね、カリブ海の南、未知の大陸をめざす。難民列車のようなローカル線に揺られて謎の山上都市マチュピチュの廃墟をたずねたり、出稼ぎがえりの男女でごったがえすアルゼンチンの国内機でもみくちゃになりながら、憧れていたパタゴニアの大地をめざす。(150p)

★フー老が多年の仮面をぬいで、少年のころの地にもどったのは、ボケの進行のせいもあろうが、永年の勤めをやめ、家庭や運動から離れて一人になってからである。それで普通はダメな人間になるのだろうが、人生は捨てたものではない。そうしてはじめて得られる幸福もあった。チリの偉大な民衆詩人ビオレッタ・パラの名作で、アルゼンチンの”星”といわれるメルセデス・ソーサの愛唱歌「人生よありがとう」にもある。

人生よ ありがとう こんなにたくさんのものをくれて

人生はくれた 嗤いと 涙とを

それで 私は見分けられる 嘆きと幸せを

私の歌を形づくる 二つのものを

あなたたちの歌 それは私の歌

みんなの歌 それは私自身の歌

人生よ ありがとう☆!(167p)


★「幸福だなァ」とふりかえって笑う。エリコは鬼のようにはねながら行く。樹齢一〇〇〇年、一五〇〇年と札を立てた巨木もあった。注連縄でも張って祝ってやりたい。ここの先住民はおそらくこうした巨木を守護神と仰ぎながら、アンデスを自由に往来していたのであろう。……人間は自然にたいして良いことはなんにもできないくせに、ひどいことばかりしてきたものだ。いまに天罰が下って当然だろう。この先住民の小径は車が通れないために、湖沼や滝が原始のままの姿で残されている。こういうのを見ていると、自然にとって人間は存在しない方がよかったのではないかと思いたくなる。「人間にとって生まれなかった方が生まれるよりも優っている」とのギリシャ悲劇の言葉(エウリピデス)がうかんでくる。(188-189p)