2022年4月24日日曜日

『夏草の賦(下)』

 GWまじかとあってこの土日は人の動きがある。それもそのはず、カープの試合が地元であるのでそれによる動きかもしれない。3連戦はDeNAとの試合で昨日は見事な勝ちゲームだった。地元紙のスポーツ欄を見ると久々にホームランを放った堂林選手の写真がある。今日もデーゲーム。テレビ観戦となりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『夏草の賦(下)』(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第15刷)から気になる箇所を抜粋した。

★「心がけ次第でいかようにも取りたててゆく。功があれば恩賞は望みのままである。ふるって武士になれ」と、土佐一国に布告した。……この志願兵制度によって、土佐では武士と農民の差別観念が薄くなった。たれでもが武士になることができ、功をたてれば一城のあるじになることも夢ではない。この制度は、元親の意図とはべつな効果をもはたした。土佐人の平等思想やあえて難におもむくという敢為の精神がこの国の風土精神になった。数百年後、元親のつくった郷士階級から勤王倒幕という、国家統一の運動者がむらがり出た遠因は、他国に類のない一国志願制度にあるということがいえるであろう。(28p)

★日本から田舎が消滅したのは、秀吉の天下統一によってであった。秀吉政権が大坂におかれてから、国々も物資もいったん大坂にあつまり、そこで値が立ち、それが貨幣のかたちにかわって全国に拡散した。秀吉の統一政権が流通経済を可能にし、流通経済が地方と中央を血管でむすんだ。地方にいる者も中央の動きによって方針をきめてゆくということも、このときからはじまった。が、元親のこの時期は、まだそこまでいたっていない。(80p)

★ひとは、利に貪欲なのではない。「名誉に貪欲なのだ」と、元親はいった。戦場においてひとびとが勇敢であるのは、自分の名誉をかけているのである。名誉は、利で量られる。つまり戦場における能力と功名は、その知行地の多いすくないではかられる。他人よりも寸土でも多ければそれだけの名誉であった。男はこの名誉のためにいのちをすら捨てる。「それが、男といういきものだ」と、元親はいった。(114-15p)

★――玉と砕けても、全き瓦として生き残ることを恥じる。ということばで、後世この心情は説明されるようになった。唐人や南蛮人には理解できぬりくつであろう。なぜ日本人にこういう気質がうまれたのか、筆者もよくわからない。あるいは風土によるものか。……インドネシア、ポリネシアといった南方島嶼民族には最後には理性をこえた痛烈な行動をこのむ気質があるという。土佐ははるか南から流れてくる黒潮のあらうところであり、日本人としてはもっとも南のほうの民族の血を多くうけついでいる。(117-118p)

★もともと四国制覇が秀吉の進出によってむなしくやぶれたことが元親をして落胆させ、世を捨てた思いにさせたのであったが、その心の傾斜が、信親の死によっていっそう大きくなったらしい。「男は、夢のあるうちが花だな」……「その時期だけが、男であるらしい。それ以後は、ただの飯をくう道具さ」といった。年少のころから激しく生きすぎただけに、それだけにいったんの頓挫で人並み以上に気落ちしてしまうのであろう。元親にとって一層の不幸は、戸次川の不幸があった翌月に妻の菜々が死んだことであった。(309-310p)

★筆者は。長曾我部元親において人間の情熱というものを考えようとした。これをもってこの小説はおわるが、その主題が充足したかどうかは、筆者にはわからない。元親の晩年は、一見、自分を投げてしまったようなところがある、(311-312p)

★元親は慶長四年五月十九日、六十一歳で死んだ。翌年関ヶ原ノ役がおこり、盛親は様子もわからぬまま成りゆきに身をまかせて石田三成につき、敗亡し、土佐をとりあげられてしまっている、元親が、世に対してすべての情熱をうしなった結果がその死後に出たのであろう。さらに大坂夏の陣ノ結果、長曾我部家はあとかたもなくなり、歴史から消えた。(314p)

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