2022年4月23日土曜日

『夏草の賦(上)』

 最近、BSで「街道をゆく」が放送され始めて以来、もっぱら司馬作品といえば『街道をゆく』シリーズを読んでいる。司馬作品を読み始めて3年半。人よりも何十年と遅れて読み始めた司馬作品だが、いまだに色褪せることなくはまっている。元気な間にと司馬作品全読破を目指している。司馬作品といえば坂本龍馬。今夜の世界ふしぎ発見は坂本龍馬に関する番組のようだ。

 司馬遼太郎自身、坂本龍馬に魅せられている。魅せられているといえば昨日読み終えた『街道をゆく』の「モンゴル紀行」のいたるところに司馬遼太郎の「モンゴルへの愛」が感じられる。今のモンゴル国(外モンゴル)へは出かけていない。が、元気なうちに是非とも行ってみたい。

 先日、女性誌を図書館で読んでいると黒柳徹子と萩本欽一の記事があった。この2人は生き方に関心がある。元気で長生きしている人は何かしらポリシーがある。黒柳徹子は100歳で政界を目指している。欽ちゃんは暇つぶしにと3つ探して実行している。

 自分の年齢を思うといろいろと行動に制限をかけてしまう。ここは2人を見習って自分自身の行動にブレーキを掛けずいつまでもやりたいことをやっていこう、と改めて気づかされた。まだまだ外国へ行こうとの気持ちも夢で終わらせてはいけない。母は父なきあと75歳からが青春だった。88歳で怪我をするまで国内の旅を楽しんだ。

 そう思えばまだまだ元気だ。なんだってやれる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は以前に読んだ『夏草の賦(上)』(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年新装版16刷)から気になる箇所を抜粋。

★――臆病者ならば信頼しうる。というのである。聞きちがえたか、と菜々はわが耳を疑った。が、元親は、臆病者こそ智者の証拠であり、臆病者こそ智恵のもとである、といった。智恵がある者でなければ臆病にならない、とも元親はいう。……元親にいわせれば、勇気などは天性のものではない。臆病者が、自分自身を練り、言いきかせ、智恵をもってみずからを鼓舞することによってかろうじて得られるもので、いわば後天的なものである、という。(93p)

★一領具足とは、屯田兵のことである。平素は田を耕し、農耕に出るときには具足櫃を田の畔に置き、槍をつきたて、槍の先に兵糧をゆわえておく。城から陣ぶれ(動員)の貝がきこえわたってくると、クワ・スキをほうり出し、その場から出陣してゆく。具足は一領、馬は替え馬なしの一頭で戦場を走りまわるためにその呼称ができた。のちに土佐馬の獰猛さと一両具足の勇猛さが土佐人の象徴のようにいわれるようになり、後世、この階層が郷士になり、幕末この階層から土佐藩の勤王奔走の志士のほとんどが出たことを思えば、元親のこのときの発想は日本史的な事件であったといっていい。(107p)

★なぜ公家が尊いのか。菜々が察するに、それはおそらく、日本国中の血の総本家であるからであろう。六十余州に盤踞する大小の貴族は、藤原氏、源氏、平氏、橘氏などを名乗り、その遠祖はみな京の貴種から出たと称している。それらの血の総元締めが公家であった。(156p)

★茶という新興芸術は、京の武家や堺の町人を中心にもてはやされてきたが、すべて伝統のなかで生きている公家の場合は、これを積極的にやろうとする者はまれだった。公家の場合には、連歌がある。連歌も茶道と同様、雑多な階級が一堂に会して礼式にこだわらずに会話を楽しむことができるえがたい対人接触の形式だが、これは公家が得意とした。(158p)

★夫が妻と離別して後妻をもらったりするとき、前妻が、自分の一族の女どもや女中をひきいて台所用具を武器とし、後妻の家に討ち入り、台所や調度をこなぐなにくだく。むろん後妻のほうでも女どもをひきいて散々に戦う。それをうわなり討ちと言い、この時代、つまり戦国風俗のひとつとして天下に流行していた。(162p)

★柿も熟すれば落つ。事というものはときに策をもちいず自然を待つほうがいい場合がある。(198p)

★――土佐の守。と名乗った。武家の官位は、本来ならば将軍の手を経て朝廷に奏請し、朝廷で除目されてはじめて正式なものになるのだが、乱世ではそういうこともなく、諸国の豪族のほとんどが勝手にそういう官を称しており、この点では元親も変わりがない。(201p)

★兵法に、――衢地(くち)ということばがある。街道が四方からあつまってきてその場所で交差している、そういう地点をいう。(260p)

★欲のふかい人間ほど、だまされやすい。しかし、そういう男ほど、他に別な欲の刺激材料があればそちらへ鞍替えし、先約を裏切ってしまう。(思慮あさく欲深き人物ほど、信じがたいものはない)とかねがね元親はおもっているのだが、阿波の大西覚養こそそれにあてはまる人物ではあるまいか。それが事実となってあらわれた。(264p)

★元親は、権謀者である。権謀者にとって全世界の人間は利用されるために存在している。それが悪徳である、という思想は、東洋にはない。むしろ人を利用するにしても私心をわすれ、誠心誠意利用すれば薄情な善人よりも多く人を感動させる、という思想は東洋にある。(266p)

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