2019年9月30日月曜日

フルート・フェスティバルに出かける

 第40回日本フルートフェスティバル㏌ヒロシマに出かけた。出かける前、作品展に出す絵が気になる。2枚の絵は作品展当日、自分で搬入すると決めていた。ところが台風18号と搬入日がぶつかりそうだ。その時頭に浮かぶ。絵を展示する画材屋へ天気がいい今日、持ち込めばいい、と。フェスティバルに出かける途中、画材屋へ電話する。持ち込みOKだった。

 昨日、某会の人から電話で作品展について問われる。見に来てくれるというのに、当日台風で絵が間に合わなくなってはいけない。幸い今日、午後から講演を聞きに街中へ出る。その前に画材屋へ絵を持って行くことにする。持っていく、といっても公共交通機関で行くとなると簡単ではない。梱包した2つの絵をキャリーカートに繰りつけての持参だ。雨が降らないうちに画材屋まで急いでいこう。

 話はフルートフェスティバル。国際会議場のフェニックスホールに着くと長い列。ゲストに上野星矢を迎えての演奏会。さすがに勢いのある人だ。観客も多い。上野星矢の経歴を見ると華々しい。フルートに関する賞を総なめと言う感じだ。これからのフルート界を背負って立つ人かもしれない。途中、司会者との短いトークがある。当日会場で販売された上野のCDは完売らしい。しかし、演奏後のサイン会でCDがなくてもサインをする、と上野は話す。なんと優しい人だろう。こういったところにも人柄が出る。

 家に帰って上野をネットで検索。ツイッターがあった。今朝のNHKのFMの「きらクラ」にふかわのピンチヒッターとして出演している。それもツイッターにある。また、広島でのゲネプロの様子もアップしている。上野星矢のアンコール曲としてテレマンの無伴奏フルートと、モーツアルトのアンダンテが演奏された。ゲスト演奏はプログラムにある1曲かと思った。だが、あとから2曲も演奏される。この2曲はどちらも好きな曲で聞いていても心地いい。演奏後はフルートを聞いた人と紙屋町でティータイム。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月29日日曜日

消費税値上げ前


 日曜日の朝のラジオはNHKラジオ第1。朝から聞こえるピアノの優雅な響きは「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11」、ショパンの曲だ。気持ちよく聞きながらブログに向かう。パソコンの前にいると徐々に暑くなる。今日も暑くなりそうだ。

 昨日は急遽、日本画教室が休みとなる。そごうで開催中の春の院展のギャラリートークを聞くようにと先生から電話がある。だが、それには参加せず、後日市内に出た日に院展を見よう。10月に入れば院展をはじめとして県立美術館の日展、某信金の日本画展、福屋では日本の書展等等、市内は展覧会でにぎわいそうだ。

 来月から消費税が値上げされる。先日、JRから早めの通勤定期購入を、とメールが届く。以前、働いてもいないのに半年間の通勤定期を利用して市内に出ていた。「おとなび」利用の際、ネットを利用してのチケット購入なのでメールアドレスがわかるのだろう。

 リタイア後の今の生活は特別に何が欲しい、という気が起きない。また、この機会を利用して新たなものを買い替える気も起きない。どちらかと言えば今はものを減らしても増やしたくはない。1年ほど着ない服は断捨離を、とメディアで聞くことがある。持っている衣服の大半は1年以上着ないものばかり。世の中で言われている通りにすればほとんどの衣服は処分の対象になる。それでも捨てられないこともある。まあ、いつかは捨てるだろうけど……。

 アルバムを整理していると30数年前に着ていた服はさすがに処分している。それ以降の服であればティーシャツ類が残る。

 消費税が上がるからと、スーパーではポイント還元などのカード作成を図る。利用するスーパー2か所のポイントカードは持っている。だが、これは現金利用のカードでキャッシュレスのカードではない。少々の金額が還元されるからと言って新たなカードは必要ない。ただ、旅行社に支払う旅行代金はクレジットで決済する。これは利用する金額が多いので助かっている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月28日土曜日

旅の思い出(ソ連)

 まだまだ暑い日が続く。暑くて外に出ない日は2階にほったらかしているアルバムを下に持って降りて写真を取り外す。昨日も1冊、アルバムから写真を外した。旅のアルバムには日程表や旅のパンフを保管したのもある。昨日は1988年8月に出かけたソ連の旅。2回目の海外旅行から1人で参加することが多くなる。ソ連の旅も1人で参加した。31年前は今のロシアは旧ソ連の時代。ソ連の旅は大手旅行社よりもソ連専門の旅行社が旅を主催した。今はその会社ももうないだろう。

 当時はパソコンがない時代。日程表は手書きでコピーされている。その日程表に旅で感じたことをメモしていた。

★クワス(夏の飲み物)
★クラクションを鳴らしてはいけない
★革命家の胸像が多い
★レニングラードは街全体が公園のようにきれいであった
★ハバロフスク、イルクーツクのブラースカヤ(商店)は一つの窓のみ
★寒い(ハバロフスクを除く)
★バイカル湖はとてもきれいで大きい
★独特の匂いがある
★ハードスケジュール(毎日2時着、寝るのは2~4時)
★ホテルは中国のホテル以下で中国に似ている
★自転車を見なかった

 ほかにも旅の初日に名古屋空港19時出発が遅れ、ハバロフスク到着23時30分予定が翌朝2時到着。2日目はハバロフスク空港14時25分発が18時30分発と4時間遅れで初日と同じく翌朝2時着と書いている。イルクーツクの気温は15度。

 4日目イルクーツク空港発✈ブラーツク空港着は2時間遅れて到着し、気温は夏なのに10度。ブラーツクの空港売店は商品売り切れで何もない。この様子はほかの街でも同じだった。ブラーツク✈モスクワ行きに乗り換えて(途中オムスクで給油)18時半にモスクワ着。

 5日目 モスクワの気温15度。午前中はクレムリン武器庫見学。午後、赤の広場に立つ。フリータイムで5カペイカ支払って70m下にある地下鉄に乗る。ほかにも衛兵の交代式を見る。深夜23時40発✈レニングラード行きは翌朝10時発となり、11時15分着が13時着になる。

旅のパンフ
  6日目、スカンジナビアやフィンランドの観光バスを見る。レニングラードの食事はバイキング。気温14度で昼から少し高くなる。レニングラードの夜はサトコで晩餐会キャビアを食べる。この時初めてキャビアを知った。この夜の移動中のツアー専用のバス車内の後部座席に怪しきソ連の女性3人の先客がいた。こういうことってある!?この夜と次の夜は1人部屋。

 最近のツアーは1人部屋料金を取られるが、以前は1人参加であっても取られなかった。というか相部屋だった。時に、1人参加が1人とか奇数だと1人部屋にしてくれた。今はすべてとも言えるくらい1人部屋料金を取られる。

 長々と昔のことを書いている。どういっても31年前のこと。写真を見ると若いし、楽しそうに写っている。今は昔ほどの笑顔で笑うことがあるだろうか。ちょっと疑問符が残る。とはいえ今でも旅に出ると楽しいことに変わりはない。

 なぜ今年になって写真の整理を思いついたのだろう。2階の押入れがアルバムで押しつぶされる?と思った。整理し始めてある面、よかった。そのままにしていたら死ぬまで若い時の写真を見ることがなかったかもしれない。アルバムから外した写真は気にいったものだけを残す。そのはずだったのに捨てるのは外したアルバムで写真は捨てられそうにない。アルバムの整理をしている間は感慨にふけっている。若いころは楽しくなかった、と思っていたがどうも違う。旅に出かけた写真を見る限り心から楽しく映っている。若いということは本当に素晴らしい!そしてやっぱり旅はいい!先日の秋の長州路。思い悩んだけどやっぱり行こうと旅行社に申し込む。これで秋の旅は3か所行くことになる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月27日金曜日

エゴサーチ

 昨日の一般検診は初めての会場だった。午前9時半開始とある。9時過ぎに会場に着くと人でいっぱいだ。受付さえもままならず、番号札を持って待つこと40分。受付を済ませてもそれからまた30分くらい待ってやっと血圧測定が始まる。興奮状態での測定は1回目が139と81。2回目もほぼ同じ。高い、と言うと看護師は血液を採った後に再度測定するという。その時は135と85。どちらにしても高すぎる。看護師曰く「140と90の範囲内であれば正常です」。検診後の医師との対面で「血圧は正常です」。ほっとする。

 暇つぶしにパソコンに向かってエゴサーチする。なんとこれまで表示がなかった項目がある。タイトルを見ると覚えがある。クリックする。間違いなく自分で書いている。なぜネット上に……。しばらくして半年くらい前にWEB上で閲覧可能の可否の問い合わせがメールでとどいたことを思い出す。その時、確かにOKした。自分が書いたことは忘れて、人の記事の話だと思った。

 昨日、画面を表示して改めて読む。大学院で学んだ恩師は大学を定年退職された。所属する某研究会が発行した研究誌1号は恩師の退職記念号になる。そこに掲載された文だった。発行前年に親を亡くしている。それもあるのか、これを読むとかなり神経が高ぶっている。このブログにアップしようとしたが、画面からコピーできない。アップはあきらめよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月26日木曜日

「愛と哀しみのボレロ」を見る

 昨日午後はNHKのBSシネマで「愛と哀しみのボレロ」を見る。ボレロはラヴェルの作曲で有名な曲だ。映画の中で常に流れるボレロ。曲とともに上半身裸で踊る独特のダンスがある。このダンス、許可なくして勝手に踊れないらしい。「ヘルベルト・フォン・カラヤン、グレン・ミラー、ルドルフ・ヌレエフ、エディット・ピアフの四人の国籍の違う音楽家たちをモデルに彼らの1930代から現代に至る波瀾に満ちた愛とさすらいの人生を描いた」というこの映画。ヒトラーによるポーランド侵攻。収容所送りとなるユダヤの人々。せめて生まれたばかりの子供は生きながらえることを願って、わざと線路に子供を落とす。収容所で毒ガスによって命を奪われる場面がある。縦じまの服をまとった人たち。その後に残るのは着ていた縦じまの服だけ。

 姪は縦じまの服は絶対に着ない、と話していた。この毒ガスによる悲劇にあるのだろう。ラヴェルのボレロ、映画を見て聞くのが嫌になりそうだ。

 今朝は朝から一般検診に出かける。いつもの会場とは異なるためか、検診を受ける人が多い。春から夏にかけて体重を少し減らした。今のところ異常はないようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月25日水曜日

今朝のFM

 1週間ぶりにダグニーさんのブログを見る。ハンガリーの旅を終えられ、またいつもの生活に戻っておられる。相変わらずお元気そうだ。お元気なのはご自身の「歯」にありそうだ。今日見たブログから記そう。
 
★私の歯は、私は祖母のträdgårdsで大きな石に落ちたとき、私は子供の頃に交換しなければならなかったフラムタのペアを除いて、まだ私自身です。また、私は目に見える欠陥であり、頬がしわにならず、"Fnasiga"と自慢することなく、私は名誉を持って私の年を運びます。しわは私の年齢を運ぶ。24- 9 - 2019(日本語翻訳機能による)
 
 今朝のFMクラシックはライネッケ作曲の「フルート・ソナタ ホ短調 作品167 “水の精”」 が流れる。フルートの演奏はペーター・ルーカス・グラーフで有名なフルーティストだ。演奏家は異なるがフルートの神様であるゴールウェイの演奏をアップをしよう。
 
 昨日は午前中、お寺へ塔婆を受け取りに行く。お上人がおられた。塔婆は結構です、と言えずじまい。家に塔婆を置いて買い物に行く。買い物から帰ると買ったものを置いて塔婆とお花をもってお墓へ参る。お彼岸の中日が過ぎると墓地には人影はない。日差しを受けて我が家の墓地を掃除する。草がぼうぼうと生えている。隣の墓地はさらに草が生え放題だ。日を遮るものがないので暑さも半端でない。汗びっしょりになって家に着く。
 
 今朝はいかにも秋、を思わせるほど気持ちがいい。暑いといって家にくすぶってばかりいず、外に出る癖をつけないといけない。どういっても今月末から来月初旬まではハードスケジュール。泳ぎはそれ以降にして、この1,2日はのんびりを決める!?
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
 

2019年9月24日火曜日

ハマる 【嵌まる・ 塡 まる】

 昨年末に出かけた大連の旅から帰って以降、司馬作品にハマっている。この気持ちは衰えることなく、ずっと続きそうだ。昨日、旅行社からパンフが届く。春に出かけた長府界隈の日帰りバス旅がある。毛利邸や毛利博物館界隈を紅葉の時期に「おとなび」を利用して出かけよう、と思った。パンフを見ると春に出かけた旅行社とは異なるが似たような旅だ。これもいいかな、と思い始める。だが、まだ催行確定日は決まっていない。何日か旅行日が設定されているが、そのあたりの日に1泊2日で中部地方に出かける。

 今朝一番で旅を申し込もうと張り切っていた。今になって、この日近くに旅が続くのでためらいがちになる。迷いがあるのは行くな、というサイン!?ここは自分の気持ちに忠実に!

 今朝、姪からメールがある。成都のパンダ基地から無事帰国したようだ。姪のメールをまた勝手に引用しよう。

★成都基地に連日7:30から18:00まで滞在したよ。行動食持って、休憩しながら、パンダ鑑賞。しかし、中国人はうるさい。(添付した画像をさして)最後にグレーの赤ちゃんこっちをジロリ。(ほかにも画像をさして)アメリカから帰国したばかりのパンダも挨拶してくれました。

 姪はパンダにハマっている。叔母である私は司馬作品にハマっている。何かに夢中になれることもそう多くはない。ハマる自分が好きになる。多分、姪もそうだろう。

 今日はこれからお寺へ秋のお彼岸の塔婆を取りに行き、それをもってお墓に参る予定。いつか塔婆を断ろう、と思いながら、お寺に言えないままでいる。もっと、自分の意見を言えるようにならないといけない。だが、言えない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 ちなみに、ハマる、とは三省堂 大辞林 第三版(ネット)によると1から6まであり、6があてはまりそうだ。
 
ぴったり合ってはいる。
穴・・溝などの内側に物がはいる。 「網戸の-・った窓」 「ボタンが-・らない」
物の外側に収まる。 「蛇口ホースが-・らない」
川・池などに落ち込む。 「深みに-・る」 「溝に-・る」 「果は借金の淵(ふち)に-・り/浮雲 四迷
計略にかけられる。 「わなに-・る」 「思うつぼに-・る」
条件ぴったり合う適合する。あてはまる。 「役に-・っている」
(「型にはまる」の形で)行動表現などが類型的である。 「型に-・った文章」 「型に-・った教育
専念する。また,夢中になって身動きがとれなくなる。現代でも俗語的に用いる。 「今パソコンに-・っている」 「世間ノ事ニ-・ル日葡」 「粋らしき男は-・らせ/浮世草子一代男 6」 〔「はめる」に対す自動詞

2019年9月23日月曜日

展覧会etc.

 来月初めに福屋で開催される日本の書展。今年も出品者からチケットが送付される。書に関しては楷書であれば字の良しあしはわかる。しかし、崩し字は全くわからない。それでも昨年、書を見て書いてある内容で好き嫌いを判断するようにした。

 この書展、今年の春に出かけた台湾の旅で知り合ったご夫妻の奥さんも出品されるという。台湾から広島空港に到着後、家が近くでもないのに我が家まで車で送ってもらった。その時、車のナビに電話番号を入力すると我が家まで着くという。電話は電話帳に掲載していないのでナビは効果なし。住所を知らせて家に着く。こちらの情報は知らせても送ってくれた人のことは聞いていない。ただ、家までの車内で話をしていると書をされるとのこと。書展のチケットを送付してくれる人が毎年出品されて、書では偉い人らしい、と帰宅までの車中で書の話をする。その際、出品する奥さんの名を問うた。書を見に行くと告げて車を降りる。

 書展にはほかにもフルートを習っている人が出品される。油絵、日本画、水彩画、コンサート、そして書とこの秋もいろんな展覧会やコンサートがある。それに加えて去年から参加し始めた某財団の講演会もある。手元に送られてきたこれらのチケットや入場券。これに出かけるのも秋の楽しみ!?そして一昨日は修了した大学からホームカミングデーの案内も届く。今年の講演会の講師を見ると有名人だが今一歩、興味がわかない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月22日日曜日

ニュースetc.

 姪はパンダのボランティアが楽しいらしい。今朝パソコンのメールを見ると早い時刻にメールを送信している。

★今回のパンダ25歳で歯が悪いから、検査のために口を大きく開けて歯を見せたら、おやつがもらえることになっているらしく、口を大きく開けて待つからびっくりした。
それも柔らかい筍を口の中に放り込む感じであげないといけないから、ワニに餌をあげてる気分だったよ。

  おちょうだいの顔、など姪が筍をパンダにあげている画像を数枚添付してメールをよこす。先日CCTVのニュースに姪が映ったというURLの動画の添付もある。動画を見るとニュースを告げるアナウンサーも笑顔だ。

  話は変わって昨日は日本画教室の日。鳥の子紙を貼ったF6の木製パネルに地塗りする。使用する絵具は水干絵具。1セットで購入している。何十種類とあり、これから先ずっと絵を習い続けてもなくなりそうにない。それならばと使用頻度の少ない絵の具で地塗りすればいいと思いつく。まずはピンクで色を塗る。次は先生の配色で濃い緑とこげ茶を混ぜて地塗り。3度目はこれが本当の地塗りとなるので風景の色に合う緑がかった空色で色を塗る。3度の地塗りはいずれも方解沫を混ぜてざらざら感をだす。

  地塗りの後、パネルが乾くとカーボン紙を敷いて下絵をパネルに複写。昨日はここまで。教室では再来年の日本画作品展が話題になる。節目の年になるらしく、いつもの展覧会場の倍の広さを貸し切って、の作品展にするらしい。出品作も例年よりも一人が出すのを多くして、と先生の構想は広がる。ところが先生の他の教室の人は再来年まで生きてるかどうかが問題だ、と言って話が盛り上がるとか。自分がこれから2,3年でいなくなるとは想像できない。先生もそう話される。

 ただ、日本画を習い始めて知り合った10数歳上の人が今年、教室を辞められている。もともと詩を書くことが得意な人で詩集の出版をされている。また童話も趣味らしく、詩画集も自費出版された。いずれもその方からいただく。年齢的なこともあるのか絵を辞められてからは童話を描かれるそうだ。この人は旧制の女学校を卒業されている。そこは戦後、県立高校になり、自分自身の母校だ。ということでその人と同窓生になる。絵を辞められたのは年齢的なこともあるだろう。ちょっぴりさみしい報せとなった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月21日土曜日

台風シーズン

 気象庁のHPを見ると月や年ごとの台風の統計数が計上してある。これを見ると台風は6、7,8,9、10月に多くやってくる。年間としては30個前後のようだ。ところが今年は今のところ台風17号なので、まだこの先、10数個、台風がやってくる!?

 この3連休、行楽の秋を楽しむ人も多いだろう。しかし、台風が来ると行楽どころではなくなるかもしれない。近年、国内のツアーに参加するようになった。遊びに行くにはお天気の日がいい。とはいっても旅の予定の時点では先の予測などできない。

 ましてや年々歳をとっていくと気持ちはお天気に左右されやすくなる。来月末は越後方面へ3日間、再来月は香嵐渓あたりに2日間、出かける予定。紅葉を求めての秋の旅。雨が降ればぬれた落ち葉で足が滑るかもしれない。台風は例年通りだと、あと13個くらいやってくる。

 気にしても仕方ないことなのになぜか気になる。それにしても香嵐渓がどこにあるかも知らずにいた。今ネットで検索すると豊田市とある。遊びに行く前に日本の地理を知るのが先かもしれない!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月20日金曜日

灰色赤ちゃんパンダ

 起床後、姪からメールが届く。2週続く3連休を利用して四川省のパンダを見に出かけている。旅に出る話は電話で聞いていた。だが、これほど長い旅とは知らずにいた。どういっても姪はツアーでなく、個人で出かける旅。今朝届いたメールに中国の国営放送であるCCTVのニュースに自分が写った画面を数枚添付している。よほど、嬉しかったのだろう。自分自身を「〇〇ちゃん」と表現する。これは伯母である私も仲がいい人には「〇〇さん」とよく使う表現だ。あとは旅を無事に楽しんで帰ればいい!また勝手にここに記そう!

★パンダ旅も後半に入りました。明日はパンダ飼育ボランティア。
今回、灰色赤ちゃんパンダを見るのを楽しみにしてたんだけど、初お披露目とは知らず、ちょうどニュースになって映ってました。cctvデビュー。白い服のが〇〇ちゃんです。
可愛かったよ。

 昨日といえば、社会人で卒業した大学の学部から同窓会作成の情報確認を返信する旨、書類が届く。これをみると住所とメールアドレスの記載をOKしている。住所とメルアド、を不掲にして返信しよう。学部は総〇科学部地域科学プログラム。長く習っていた中国語を生かしたい、とこの学部で学んだ。その思いは叶い、それ以降の自分の生き方に自信となっているかもしれない。
 
 ここまで生きてきていつも思うのは「人生やったもの勝ち!」ということ。やりたいことはやり遂げ、気が進まないことはやらない、に尽きる。そうすれば後悔のない人生になる。今朝は気持ちいい!灰色のパンダ、いつの日か日本にもお目見えとなるのだろうか。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月19日木曜日

旅の思い出(パキスタン)

 9月下旬近くになっても日中の気温は33度と暑すぎる。ただ、湿度が37,8%でカラッとした暑さだ。本を読み、それに飽きると2階に放り出したままのアルバムのごついものから順に持って降りて写真を外す。昨日、手にしたのは1991年8月に出かけたパキスタンの旅9日間のアルバム。アルバムには旅行先から自分あてに送った絵ハガキ2枚がある。ほかにも日程表、参加した人の氏名と住所を記したメモがある。控えの日程表には旅先で気づいたことをメモしていた。
 
 アルバムから外した写真を見るとどれも最近出かけたような真新しさがある。この5年前の最初の海外の旅の写真と比べると、現像技術の進歩の著しさがわかる。ということでアルバムから外した260枚の写真から数枚を旅の思い出として28年ぶりにブログにアップしよう。

 写真をアルバムから外しながら、しばし、というか外している間、ずっと感慨にふける。このアルバムの写真はどの1枚も破棄できそうにない。といいながらも42枚ほど処分した。1時間半くらいかかって写真を外し終わる。その間ずっと気分は高揚しっぱなし。午後5時近くなって、旅で知り合った米子の友だちに電話する。すぐに通じた。勢いあまって「〇〇さん、〇〇さんよ、〇〇……」と何度も自分の名を名乗る。「楽しかったよね!」と会話も弾む。10分くらい話しただろうか。こちらが一方的にしゃべった感じになったが……。いつか米子に行ってこの話の続きをしようと言って電話を切る。自分あてに書いた絵ハガキ2枚、ここに記念に記そう。
 
★やっとパキスタンに来た!という感じ。とても遠い道のりであった。広島を朝5時に出て東京ー成田―マニラーバンコク―カラチと何度も乗り継いでやってきた。今朝は6時起床、7時出発でベシャンから8時間半バスに乗ってギルギットに着いた。セレナロッジからのラカポシ(注:高さ7787mの山)の眺めは最高。3度目でやっと雪を見た、という人もいた。今回初めてでも見えた!(1991・8・12)
 
★フンザに来ている。昨日より3日間泊まる。水道の水は氷河の雪解け水なので本当に灰色。旅行に来て5日目。お風呂がないので本当に入りたい。本当に大変な旅である。険しい道ばかり。明日は中国とパキスタンとの国境のクンジュラフ峠あたりへ行く。(1991・8・14)
 
 1枚のはがきに「本当に」を何度も書いている。これを見ても大変な旅の様子が伝わる。

カラコルムハイウェイの途中で下車 
現地の人たちと

 旅に出た1991年8月はその半年前に父を亡くしている。そういうことは気にせず、旅に出かけた。ただ、崖っぷちを走る車内から見るものすべてが仏像に見えたのは覚えている。この旅から帰った、その年の秋から母や姉妹家族、そして姪たちと国内の旅をするようになった。この思いきりの良さは母との生活にとって悔いなく過ごせた気がする。

 画像は写真をスキャンしてパソコンに取り込めばいいものを、横着してデジカメで取り直した。うまく取り込めていない。先日、姪との電話で旅の写真の風景写真は撮っていない、と話した。それは記憶違いだ。たくさん風景を撮っている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!


カラコルムハイウェイ―を行く


5000m近い高地にあるクンジュラフ峠を越えると中国になる
裏面は中国語の標識

パキスタンと中国との国境になるクンジュラフ峠で30分間の観光
この後、はしゃぎすぎて高山病になる


フンザのホテルから四六時中、雪を頂いたナンガバルバットを眺める

カラコルムハイウェイの途中下車でオンボロの橋を渡るツアーの人たち
橋の下は灰色の氷河の雪解け水が恐ろしく流れる
ちょうどセメントを混ぜる時のような色
9人のツアーのうち先頭にいる1人だけが渡って戻ってきた


仏像が彫ってある 
 
 

 

2019年9月18日水曜日

ストレスから身を守る

 全国のお天気を見る。広島と鹿児島が最高気温33度、岡山32度、松山31度そして沖縄が30度とあり、ほかは軒並み20度台。最高気温33度であっても最低気温が25度以下なので朝晩は幾分涼しい。だが、今朝は朝から扇風機が欠かせない。ただ湿度は低いようだ。一昨日の夜は久々に寝不足を体験。それなのに昨日の日中は眠たいにもかかわらず眠られなかった。さすがに昨夜はよく眠る。平常、ストレスのない生活をしている。一昨日の夜はちょっとした人の言葉づかいに気持ちが荒れに荒れ、異常なストレスになった。嫌なモノ・コト・ヒトから遠ざかる。そうすればストレスなく、よく眠れる。

 ストレスと言えばどういっても仕事をしていた時が多かった。働いて収入を得る、これは仕事に就いたときに味わった一番大きなことだった。働かなくなって17年になる。いま、収入と言えば年金だけ。それでも自分ひとりで生活ができ、ささやかながらも海外や国内旅行にも行ける。また習いものだってやろうと思えば習える。これもすべては働いたことのお陰と元気にあり、今の生活に感謝している。ただ、ストレスに関しては働いていた時よりも打たれ弱くなったかもしれない。

 ストレスに打たれ強くない身には嫌なモノ・コト・ヒトから遠ざかる、これに尽きそうだ。もはや人生の後半部分を生きている。今更ストレスまみれの人生を歩むのでなく、毎日を元気で楽しく過ごしたい!どういってもストレスが病気を引き起こす。嫌な気持ちを追い払って元気でいよう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 ブログ投降後に一言。気分がムシャクシャした時は石丸謙二郎のブログに救われる。山のブログはいいね!

2019年9月17日火曜日

自分の気持ちに忠実に!

 フルート発表会は終わった。終わった、としか言いようがない発表会。これで次に出ることはない!と、固く心する。「1年前もそう思ったじゃない?」、と自問自答。「毎日、元気で楽しく!」をモットーにして生きている。それなのに心身ともに異常に疲れた一日となった。自分の気持に忠実に!常にそう心掛けている。そうしないとストレスになる!

 気持ちが穏やかでないとコンタクトもどこかへ飛んでいく。後ろの席の人が受付で大きな懐中電灯を借りてきて座席下を照らしてくれる。見つかった!感謝感謝!またほかにも葡萄を1房いただく。今年初の葡萄でこれまた感謝!

 気持ちを変えよう。先日のネット記事から。

【見つかりました】14年前に、仙台駅でクレイマーさんを助けてくれたJR社員 「自分だと思う」とコメント
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190913-00010006-huffpost-soci&p=2 (参照)

 いいお話だ。最後まで読んでホロッ、としてしまった。

 またも話は変わる。昨日の朝刊に入っていた旅の折込チラシ。来月出かける予定の旅の催行確定日が記されている。この日はすでに申し込んでいる日ではない。行きたい旅なので今朝、営業時刻を待って旅行社に電話する。催行確定日への変更はOKだった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月16日月曜日

『翔ぶが如く』(一)

 『翔ぶが如く』(一)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第15刷)を読んだ。この本は(一)から(十)まである。今、やっと、(三)の半ばまで読み、全部を読み終えるにはまだ当分かかりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は(一)から気に入った個所を抜粋したもの。

★河野は土佐佐勤王党の出身だが、土佐人が郷士的性格としてもつ論理性を一身に凝縮したような男で、のち法官になり、明治政権に反抗するものを秋霜のようなきびしさで検断した。かれを抜擢した司法卿江藤新平を、佐賀ノ乱の首魁として捕らえて裁いたのもこの河野敏鎌であり、死刑の宣告の場で江藤をして、――河野、汝は、わが恩を忘れしか。と叫ばしめた人物である。26-27p

★川路にとって明治政府は、きわどいながらも唯一の踏み台であり、この政府があってこそ彼が帰国後樹立しようとする警察制度がありうるわけで、その政府が倒れるようでは、警察制度も何もあったものではない。53p

★大久保には厳乎とした価値観がある。富国強兵のためにのみ人間は存在する――それだけである。かれ自身がそうであるだけでなく、他の者もそうであるべきだという価値観以外にいかなる価値観も大久保は認めてない――何のために生きているのか。という、人生の主題性が大久保においてはひとことで済むほど単純であり、それだけに強烈であった。歴史はこの種の人間を強者とした。81-82p

★長州藩は三個大隊を供出した。土佐藩はやや遠慮してニ個大隊である。ただしこれに騎兵二個小隊を付けた。(騎兵は土佐藩しかもっていなかった)。維新の主役であった薩摩藩は当然ながらもっとも多くの人数を供出した。……以上三藩の東京駐屯部隊がやがては「近衛兵」と改称され、最後の士族軍として、そして最初の日本陸軍として出発した。97p

★明治初年の政界を大混乱におとしいれたこの征韓論というのは、ごく単純な事情から出た。日本だけが維新をおこし、全面的に開国したのである。朝鮮は鎖国のままであった。106p

★征韓論は、政争化しつつあった。長州勢力は、非征韓論である。一方、佐賀の江藤司法卿などは薩長の仲を割くために征韓論派にまわっている。117p

★征韓論という、この当時の血の気の多い日本の有志層を沸き立たせた問題を通じて、いまもむかしも変わらない普通の課題がひき出せはしないかということである。日本人は、孤絶した地理的環境に生きている。……孤絶した環境にある日本においては、外交は利害計算の技術よりも、多分に呪術性もしくは魔術性をもったものであった。……薩長など外様の雄藩をふくめた在野世論は、威ヲ攘(ハラ)フということで一大昂揚を発し、たかが国家の利害計算の範囲内にすぎない外交問題が、革命のエネルギーに最初から変質してしまっていた。威を攘うということが同時に王を尊ぶという国内統一の課題と矛盾なしに一致し、これによって幕府が倒れ、明治維新が成立したのである。128-130p

★西郷が東京にゆく前、久光はすでに廃藩置県の声をきいていたから西郷をよび、「あれだけはするな。よいか」と、西郷に承知させた。ところが西郷が東京へ入ると、廃藩置県に同調し、一挙に断行してしまった。「其ノ職ヲ免ズ」と、各藩主に辞令をあたえただけで、三百年の体制が一片の紙片でくずれたのである。久光の激怒はむりもなかった。188p

★明治政府は、廃藩置県のあと、島津久光の怒りを解くべく、明治五年六月、天皇みずからが鹿児島に行幸しているほどであった。「封建制を崩した」という久光の怒りのすさまじさが、この一事でも想像がつくであろう。190p

★西郷がおもった征韓による「日本の幸福」は、士族階級の元気とモラルが戦争によって復活するということであった。……「士族の気節と勇気を躍動せしめる」という点で、西郷が苦に病んでいた没落階級がすくなくとも精神の面で復活するのである。……「韓国に対してもその流儀で刺激し、開国させて世界性をもたせ、ともに列強の侵略をふせぐ」ということが、征韓論における西郷の「韓国の幸福」であった。200^-201p

★西郷が、一見人が変わったごとくに健康に気をつけはじめたのも、征韓論という一大希望を、国家と自己の人生のむこうに見出したからであった。かれにとって征韓論は単なる政権やスローガンではなかった。205p

★明治維新の目的は、国民を成立せしめて産業革命の潮流に乗った欧米の侵略に耐えうる国家をつくることであった。日本はこれによって硬質の地帯になった。228p

★この日本的に理解された禅のほかに、日本的に理解された儒教とくに朱子学が江戸期の武士をつくった。朱子学によって江戸期の武士は志というものを知った。……志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれても悔いがない、というもので、禅から得た仮宅思想と儒教から得た志の思想が、両要素ともきわめて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた。237p

★薩摩人集団は本来、頭目を欲する。西郷はそのために頭目としての人格をみずからの修養でつくりあげた。長州人集団は頭目を欲しない。本来、木戸は頭目にふさわしい性格のアイマイさをもつくせに、やむなく自己を書生であろうと規定し、長州のなかにあってせいぜい兄貴分としての位置を見出し、その位置にふさわしい自己をつくりあげてしまっている。244-245p

★「ポーランドがほろんだ原因の底の底を討(たず)ねればただ一つに帰します」と木戸はいう。「国家に憲法がなく、人民に権利がなかったからです」と、木戸は明治十年代の政治青年――自由民権論者――が流行としてそう言い騒いだ言葉を、自由民権運動のケムリも立っていないこの明治六年においてすでに言っているのである。260-261p

★木戸の大久保ぎらいはこの報告書にまで出ており、かれの生涯は大久保独裁の明治政権への消極的抵抗で終止する。西郷のような男性的反乱は木戸によれば「ポーランドの如き王国をまねく」わけであり、木戸が、西郷ノ乱において東京にも鹿児島にも応援しなかったのは、右のような思想と立場による。263p

★西郷という、この作家にとってきわめて描くことの困難な人物を理解するには、西郷にじかに会う以外になさそうにおもえる。われわれは他者を理解しようとする場合、その人に会ったほうがいいようなことは、まず必要ない。が、唯一といっていい例外は、この西郷という人物である。……西郷をわずかながらも知るためには、かれが誰を尊敬していたかということを考える必要もあるかもしれない。…西郷の世界観や、世界の中の日本というもののとらえ方をかれに影響したのは、そういう歴史上の人物ではなかった。青年期の西郷が仕えた芒主島津斉彬である。……西郷という、巨大な感情量のもちぬしは、「亡き順聖院さま(注;島津斉彬)」とその法名をきくだけでも慟哭したい思いを生涯もちつづけた。300-313p

2019年9月15日日曜日

久々の日本画教室

 3週間ぶりに日本画教室に出かける。絵を習っていても家で絵筆を持つことはなく、教室でしか絵を描かない。これでは進歩も何もない。そうとわかっていても苦手意識しかなかったモノにとっては教室に通うだけで由、となる。絵は3時間の長丁場。途中、ティータイムがあっても3時間は長い。家では絵に関することは何もしない。そう思うと教室では地道に絵を描くに限る。ところがこれも困ったことで絵よりも口が動く。とはいいながら、これもまた楽しいひと時。これがあるから教室に通えるのだが……。あと1と月もすれば日本画を習い始めて丸6年が経過して7年目に入る。何気なく過ごしていても月日のたつのが早すぎる。

 昨日、教室に入ると机の上に春の院展のチケットが置いてある。先生が下さったのだろう。教室の人からは胡粉をもらう。胡粉をくれた人は箱単位で買ったという。日本画の材料は両の単位で購入する。昨日の胡粉は何両あるのか知らないが、それにしてもかなりの量をいただく。お金で清算を、と言っても要らないとのこと。申し訳ない。それなのに、画材屋へ行く、と聞いてF6のパネルを買ってきて!と言ってしまった。

 しばらく小さいスケッチブックに写真を見てスケッチしていた。写真からのスケッチは割と慣れてきた。だが、写真の中にこれっ、といった物体がないとスケッチも難しい。スケッチブックの2枚をコピーでA3に拡大する。このコピーしたものに色を付ける。先生はパステル画で、と話されるが、ここを強引に押し切って水彩で色を施す。だが、いい具合に行かない。業を煮やされた先生はそのうちの1枚にパステルを施してくださる。これがまた、申し訳ない。

 次回は教室の人にお願いしたパネルに、コピーした2枚のうちのどちらかを本画に仕上げてゆく予定。

 それにしても今朝の起床時間が遅すぎる。日本画を習うのは草臥れるのだろう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月14日土曜日

広島交響楽団第393回定期演奏会に出かける

 相変わらず暑い日が続く。この暑さも10月になれば少しは秋らしくなるのだろうか。芸術の秋、といわれるように10月の第1週目は日本画の展覧会が目白押しにある。某信用金庫の恒例の秋の日本画展、県立美術館の日展、そごうは春の院展、ほかにも県民文化センター等等、市内のあちこちで芸術の秋がやってくる。秋はほかにも音楽がある。

 昨夜は広島交響楽団第393回定期演奏会に出かける。広響から届いたメールによるとチケットは完売、とのこと。席を確保するため早めに家を出る。会場には午後5時10分到着。席の引き換えは5時半から。列に並んでいると前後の5,6人で会話が盛り上がる。広響を応援する企業の人たちなのか、どの人も引換券を持っている。開演は6時45分。席を確保すると隣の図書館に出かける。入口を入ると浅野氏の広島城入城400年ということで、それに関する本が並ぶ。目につくのは竜馬の本。手にするが、これ、と思う本がない。どういっても竜馬に関しては司馬作品の『竜馬がゆく』の印象が強い。次は日本画関連の本を、と探すが目新しさがない。あきらめて演奏会場に引き返す。

 昨夜の定演は「日本・ポーランド国交樹立100周年」と題して以下の曲目が演奏された。

♪ショパン ピアノ協奏曲第1番ホ短調

ピアニストに清水和音を迎える。

♪矢代秋雄 交響曲

 清水和音のピアノは楽しみにしていた。席は前から5列目でも実質は2列目に相当する。ただ、ピアノを聞くには舞台に向かって左側がいい。それなのに右側の一番右端だったがピアニストの顔はよく見えた。3年前にポーランドに出かけてショパンの生家を訪れている。いろいろと思いを巡らしながら美しいピアノの音色を聞く。

 演奏後、アンコール曲として清水和音のソロでラフマニノフのヴォッカリーズが演奏された。この曲はフルートでさらった曲でよく知っている。しみじみと聞いた。

 後半に演奏された交響曲。作曲家矢代秋雄の生誕90周年を記念しての演奏らしい。いつも感じることはいわゆるクラシックの現代音楽は好きになれない。自分に聞く耳がないのかもしれない。第4楽章あり、第1楽章でもう聞くのがうんざり、といった心境になる。会場を出たくなるがそうはいかない。不幸な会場に参列したかのようなおどろおどろしい音が響く。演奏後、早く会場を出ようとするが、なんとそこでまたアンコールが始まる。曲はプーランクの平和への祈り。これを聞いて気分が収まる。

 いいのか悪いのか感受性が強い面がある。夢でうなされるのでは?と思ったらぐっすり寝ていた。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう❕、

2019年9月13日金曜日

旅の思い出(初めての中国)

 今朝は秋を感じる。だが、油断大敵。この先1週間の天気予報を見ると最高気温33,4度の日々が続く。ただ最低気温が25度以下のようで寝苦しさはないかもしれない。とはいいながら、関東の停電は何とかならないのだろうか。電気が通ったと油断していると今朝は断水の報道がある。一斉に水を使ったために水圧が下がったらしい。

 暑くて外に出たくない日は2階に出しっぱなしにしているアルバムの整理をする。デジカメが普及したのはいつの頃かは覚えていない。ただ、17年前に仕事を辞めてから8年前までの9年間、旅に出かける時間も心の余裕もない生活だった。再度、旅の写真を撮り始めたのは2011年のスペインの旅あたりからだろう。ただ、ままならない日々の間も母の記念日に母の孫から送られてきた花束を母に持たせて写真を撮っている。これはデジカメが普及後に写した写真なので紙の保存はしていない。

 アルバムはごついアルバムから手当たり次第に写真を外している。昨日は2冊処分した。今朝は右手の中指に少々違和感を感じる。写真を外すさい中指の爪を使ったのだろう。写真をアルバムから外すのもムキにならず、いい加減にしないといけない。ともあれ昨日は2冊処分した。1冊は30代の時でもう1冊は初めての海外旅行である中国に出かけた1986年8月のアルバムだ。初めての海外、ましてや中国とあってアルバムの整理が行き届いている。書き込む文は中国語。初めての海外なのに8日間の旅行中、当時習っていた中国語の龔先生(国費の留学生)と北京で合流。南京では龔先生の妹さん夫婦と合流している。旅の初日の夜、タクシーに乗って和平飯店に出かけた。途中、エンストのアクシデントでホテルに戻ったのは真夜中。この恐怖も忘れたかのようにツアー最中にいろんな人と会っていた。

 写真を見て思ったのは旅の恰好で出かけていない、ということと髪が今よりもぐっと長い。肩よりも下の長さだ。この2点に驚く。今だったら旅に出かけるときは靴はトレッキングシューズかウオーキングシューズを履き、ズボン姿。ところが初めての海外はワンピースやツーピースで足元はストッキングで、サンダル履き。これにはびっくり。今では考えられない格好だ。また、当時の中国元は1元=47円とメモしており、日本円の価値が高かったのだろう。それなのに両替を15000円している。またお土産リストも書いており、扇子など30本も買い、ほかにもお土産を買っている。旅の参加者は14名で、その時のツアーで知り合った大学の先生と今も年賀状を交わしている。これから先のアルバム整理も旅の写真が大半だから、いろいろと思いを巡らしそうだ。
 
 この夏、日本画教室が3週間なくて外出するのはフルートのレッスンだけだった。今夜は久々の広響の定演に出かける。主催者側のメールによると今夜はチケット完売だそうだ。席を確保するためにも早目に家を出よう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月12日木曜日

『アカシアの大連』etc.

 『清岡卓行大連小説全集(上)』(日本文芸社、1992年)の中から『アカシアの大連』5部作にあてはまる箇所を読む。この本を読もうとしたきっかけは昨年末、大連に行ったことによる。先日、そこで知り合った人と家の前でばったり出くわし、次に大連に行く時はアカシアが咲く時季に行きたいと話した。その時、この本を教えてもらい、さっそく読んだ。昨日のアップと1部ダブル。削除せず、このままアップしよう。

 今朝は幾分涼しい。だが日中は32度と暑くなりそうだ。ただ、最低気温がこれまでのような26,7度でなく、23,4度の予報なので徐々に秋になるのだろう。

 昨日も暑くて自転車で外に出なかった。ただ、年が明けると早々、某文化交流会から出かける海外の旅の申込書を出しにポストまで歩く。これくらいでは運動にはならない。ほかにも日本画展に出す作品を額に入れたり出したりして品定めをする。その時、気づいた。額は見た目が大事。しかし、これも歳とともにいくら見栄えが良くても重たい額はどうでもいい。ガラスのものはプラスチックと差し替えて額に入れる。こうすると額全体も軽くなる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『アカシアの大連』5部作の気になる箇所の抜粋。

★五月に入ると、一、二回の雨のあとで、空は眼を洗いたくなるほど濃い青に澄みきり(そのような鮮やかなセルイリアン・ブルーを、彼は日本の空にみたことがなかった)、風は爽やかで、気温は肌に快い暖かさになったのであった。特に、彼の心を激しく打ったのは、久しく忘れていたアカシアの花の甘く芳しい薫りである。(「アカシアの大連」103p)

★中学校の三年生のときであったか、彼は学校の博物の授業で、先生からアカシアについて教わった。それによると、大連のアカシアは、俗称でそう呼ばれているので、正確には、にせアカシア、いぬアカシア、あるいはハリエンジュと呼ばれなければならないということであった。そして、大連にも本当のアカシアが二本ほどあり、それらは中央公園の東の方の入り口に近いところに生えていて、こういう形をしているということであった。……どこの愚かな博物学者がつけた名前か知らないが、にせアカシアから「にせ」という刻印を剥ぎとって、今まで町のひとびとが呼んできた通り、彼はそこで咲き乱れている懐かしくも美しい植物を、単にアカシアと呼ぼうと思った。(「アカシアの大連」106p)

★この綺麗な都会には、日露戦争のときの日本の将軍や外交官の名前がいろいろと付けられていたと思いだした。大山通り、山県通り、乃木町、奥町、児玉町、東郷町、小村公園……。それらの通りや町や公園の名前はすぐに消えて行くだろう、と彼は考えながら、土地の名前というものがそれぞれ独自に喚起する、この場合は淡い郷愁を感じていた。(「アカシアの大連」137p)

★それは、彼にとって、生まれて何回目かに経験する、大連のアカシアの花ざかりの時節であったろう。彼は、アカシアの花が、自分の予感の世界においてずっと以前から象徴してきたものは、彼女という存在であったのだと思うようになっていた。……いわば運命の共同の中で、彼は、アカシアの花の前に佇む彼女の慕わしい姿を眺めたのであった。(「アカシアの大連」154p)

★引き上げ船により不思議な新婚旅行で、二人は無国籍の海を通過し、彼女のまだ知らない日本に行き着くはずであった。荒廃しているかもしれない戦後の日本で、どんな新しい生活が始まるか、彼はさまざまな夢を、彼女に喋ってみたかった。しかし、その勇気はなかなか出ないようであった。アカシアの花が散らないうちに、あの南山麓の山沿いの長い歩道で、遠くにかつての自由港がぼんやりと浮かぶ夕ぐれどきに、と彼は思った。(「アカシアの大連」156p)

★ある日、彼はこういうことを知った。それは、モーツアルトの「フルート協奏曲第二番」が 「オーボエ協奏曲ハ長調K三一四またはK二七一」と実は同じものであり、注文をせかれて時間がなかったが、新しいものを作る意欲が乏しくなったか、あるいはオーボエをフルートに置き換えることが面白かったか、とにかく、ハ長調とニ長調のちがいはあるが、一九二〇年になってその完全な楽譜がベルンハルト・バウムガルトナー教授によって発見されたというオーボエの作品の方が原曲で、フルートの作品の方は、悪くいえば焼き直しであるということであった。(「フルートとオーボエ」204p)

★日本は日清戦争に勝って遼東半島を得たが、独・仏・露の三国干渉ですぐ返還した。ロシアは清国と条約を結んで関東州を租借し、青泥窪(チンニーワ)をダルニーと名づけた。……ロシアはダルニーに、近代文明の花を咲かせようとした。……並木はアカシアとポプラ。(ついでに言えば、アカシアは南ロシアから持ってきた。それは十七世紀のはじめ頃、原産地の北アメリカからヨーロッパに移されたはずのもので、十九世紀が終わろうとするとき、はるばるとダルニーまで渡ってきたのであった。)(「萌黄の時間」264p)(注:ダルニー=大連)

★日本は、孜孜と努力して、大連を立派な都会につくりあげた。ロシアが残した計画はいろいろ、取り入れたが、(たとえば、先にあげた円形広場のうち、一番大きいものとして構成されていたニコライエスカヤ広場は、今の大広場となって実現されているが)、日本はそうした計画を遥かに超える産業、文化面の建設をしている。そして、その都会は今も逞しく伸びつつある。(「萌黄の時間」265p)

2019年9月11日水曜日

楽譜etc.

 台風15号は去っても数十万戸の停電はひどすぎる。朝刊を見ると親子が亡くなる記事を目にする。電気が来なければエアコンも扇風機も使えず、どうやってこの暑さを過ごせばいいのだろう。それでなくても今年の夏は暑すぎる。昨夜も一晩中、エアコンをつけて眠る。

 母を介護していた時、1,2時間の停電を電力会社から告げられた。暑い時期だったので介護中は室内の温度をきめていた。身動きできない親を短時間の停電であっても団扇で暑さを遮るだけでは済まされない。電力会社に電話して事情を話すと、停電しない場所から引き込み線をひいてくれるという。それには10分くらい工事の時間を要するとのことだった。それを聞いて何とありがたいこと、と感激したことを覚えている。それは台風などの不慮の停電ではなく、先にわかっていたことなのでそれも可能だった。だが、今回の台風はそういうわけにはいかない。

 時代が進歩してオール電化、とか生活形態も変化している。いざとなったときこれでは困るかもしれない。ガス代は月に800円台と最低料金であっても、いざという時のために契約している。ガスはともかくとして水と電気は生きる上で欠かせない。この夏、もしも停電が2,3日続けば自分だったらどうするだろう。1人であればホテルに滞在も可能だが、何十万人となるとそうもいかない。ともあれ、電気がはやく回復するといい。

 話は変わって昨日はフルート・レッスン日。先日、本を読んで気になっていたことを先生に話す。それは『清岡卓行大連小説全集(上)』(日本文芸社、1992年)の中の『アカシアの大連』5部作のうちの「フルートとオーボエ」の以下のことだ。先生はこのことを小学校時代にすでに知っていたと言われる。もしかして知らぬは私だけ?

★ある日、彼はこういうことを知った。それは、モーツアルトの「フルート協奏曲第二番」が 「オーボエ協奏曲ハ長調K三一四またはK二七一」と実は同じものであり、注文をせかれて時間がなかったが、新しいものを作る意欲が乏しくなったか、あるいはオーボエをフルートに置き換えることが面白かったか、とにかく、ハ長調とニ長調のちがいはあるが、一九二〇年になってその完全な楽譜がベルンハルト・バウムガルトナー教授によって発見されたという。オーボエの作品の方が原曲で、フルートの作品の方は、悪くいえば焼き直しであるということであった。(「フルートとオーボエ」204p)
 
 先生はこの二つの楽譜が同時に記された楽譜を見せてくださる。確かにそうだった。楽譜ついでに出演されたオペラの楽譜の総譜(スコア)なども見せてもらうと、気が変になりそうなくらいオタマジャクシが事細かに並んでいる。それも分厚い本のような楽譜だ。プロとアマの違いはこのあたりにもある。

 発表会で吹くソロの曲を先生のピアノに合わせて吹く。レッスンではうまく吹けてもこれが本番となるとさてさて……。先生曰く「この曲はロングトーンのいい練習になった!」と。出だしの「ファ」は5拍目の「ラ」まで長く吹き続ける。ほかにも音が長い箇所がある。これは昨日もソノリテの時、気を付けるようにと言われた。それは「唇を動かさないようにして吹く」。この練習が欠かせなくなった。唇を動かさないようにするにはお腹から息を出さねばならない。こうやってフルートを吹くと会場にいい音が響きわたると先生は話される。この癖をつけて吹く練習をしよう。

 昨日はほかにも月末に開催されるフルート・フェスティバルのチケットをいただく。ありがたい!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月10日火曜日

いろいろと

 台風15号は去った。今朝、ふと、台風の年間発生数は幾つ?とネットで調べる。今年の予想では27個前後のようだ。ということは、あと12個くらい台風がやってくる!?台風の進行方向は時期によって違うらしく、7,8,9月と徐々に太平洋方面に抜けている。いずれにしてもこの先1か月は台風から目が離せない。

 昨日、関西の旅行社から旅のカタログが届く。最高気温34度の日中は買い物に出るのも暑さでためらう。その時は家で静かに本を読む。本の前にまずはフルートの練習がある。飽きてくると夕飯のおかずを作る。それにも飽きて旅のカタログを見る。関西のカタログは関空発ばかり。眺めていると韓国、中国の旅が日本国内と比べても安すぎる。大連など19800円。これはどういうこと!?ヨーロッパの冬も価格が安い。1か所、行こうという気になる。だが、出かけようとする時期の現地の気温が低すぎる。3月下旬だと最低気温がマイナス20度になることもあるらしい。4月以降の設定はまだない。

 最近は関空よりも福岡発を考えてしまう。ところが広島発があるとこちらに目が行く。だが、広島発着の海外は出かけた国ばかりで新鮮味がない。躊躇していると歳ばかり取る。メキシコやアルゼンチンを、と思うが日本での移動が多すぎる。これを言うと自分の歳を感じる。もっと若い時は成田発でも名古屋発でも気にしていなかった。若さ、はこういうところにもあらわれる。歳をとった!

 今朝は某比較文化研究会と昔の国史を現代風に訳している人からの一斉メールが届く。研究会は11月初めにある。多分不参加。今、司馬作品にハマっている。この作品は歴史小説であっても時代が明治維新前後が大半で新しい。もともと、歴史は好きでなかった。ところが近代に目覚めて以降、司馬作品にハマってしまった。徐々に日本の前の時代にも関心が向くだろう。だが、パソコン上で文字を読むのは大変。その割にはブログの文が長すぎる!?
 

 

 気分直しにソロで吹く♪ブラジル風バッハ第5番アリア♪をアップしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月9日月曜日

『ひとびとの跫音(あしおと)』

 『ひとびとの跫音(あしおと)』(司馬遼太郎 中央公論社、2009年)を読んだ。「私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音(あしおと)を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった」(495p)と司馬が書いているように、この本は子規の妹、律の養子になった正岡忠三郎とその叔父である西沢隆二(タカジ)を主として、子規の周りにいたひとびとを書いている。そして「人間が生まれて死んでゆくということの情緒のようなものをそこはかとなくと書きつらねている」(309p)。

 司馬作品に登場するひとびとは得も言われぬほどいい人たちばかりだ。このあたりが読者をひきつけるのかもしれない。というか司馬自身が好む人物が読者の好みと一致するのだろう。司馬作品の読後感は清々しい!

 忠三郎のことをもっと知りたくてネットで調べていると次のHPに目が留まる。「司馬遼太郎さんのこと」として忠三郎の長男が書いている。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/sikisiba.htm(参照)

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『ひとびとの跫音(あしおと)』の抜粋。

★律が兄の死の翌年にこの女学校(注:共立女子職業学校)に入ったというのは兄の女子教育論と無縁ではなかったろうということである。86p

★子規についておどろかされることは、その精神に虚喝というものがすこしもなかったということである。虚喝といういかがわしいことばを、この場合、多少形而上的な言葉として使いたい。物事が表現される場合、多少の虚喝が混じる。それをわざと定義せずにさらにいえば、子規に観念論がないということも、そのこととじかにかかわりがあり、このため文章はつねに平明ならざるをえない。240-241p

★タカジは子規の散文のなかでも、とくに『仰臥漫録』を好んだ。死を前にして、ほとんどそれを眼中におかず、自分の志を述べつづけることによってのみ日常を送った明治の文人がタカジのなかで人間はそうあるべきだという一個の典型になった。この典型がなければ、タカジにおける非転向十二年という獄中の人生はありえなかったと言いきることができる。それはともかく、獄中のタカジにとってこの全集で得た痛烈な発見は、――あの上根岸の家が、子規の家だったのか。ということであった。滑稽なほどにあたりまえの事実の発見を、タカジは生涯おかしがった。

★書きはじめる数日前から『子規全集』を読むことにしている。とくに子規の散文を読んでいると、耳のあたりに子規の息づかいがきこえてくるような気がする。この書き物の題名を「ひとびと」として複数の人達について書きつつも、私自身、深く気づくこともなく、子規一人への思いを形をかえて書いているのではないかと思ったりする。248p

★私はこの稿で文学史的側面を書いているのでもなく、詩人とか革命家とかという肩書のある人物の評伝を書いているのでもない。人間が生まれて死んでゆくということの情緒のようなものをそこはかとなくと書きつらねている。ただ「驢馬」とその同人たちはタカジの生涯にとって一塊の根株のようなものであった。かれはこの雑誌に毎号詩を書くことによって自分のなかに詩人の芽を見つけてしまったし、さらには、同人の中野重治を知り、これに傾倒することによって革命の徒になった。309-310p

★「バカニスルナ」とびきりの大声だった。「その机の書類を読めば名前も齢もわかるんだ。人をよびつけてどうしてそんなわかりきったことをきくんだ」忠三郎さんは大急ぎで車いすを旋回させ、部屋を出てしまった。結局、この施設に昭和四十五年二月のはじめから八月三十日までいた。その後、この種の施設に近づかず、六年間、死にいたるまで自宅で療養した。……忠三郎さんにとって何にもまして幸いだったのは、患者として死ぬことなく、人間として死ぬことができたことであったかといえる。431-432p

★忠三郎さんの子規への義務感は、つよかった。保管をよりよくするために、子規の書いたものについては断簡零墨まで読んでいたし、その上、伊丹の家の柳行李のなかに詰まっている子規あての来信は、すべて解読して分類していた。……と言って、子規について、たとえば全集を自分で出そうというようなことは、性格として持っていなかった。……タカジのほうも、忠三郎さんが若くて達者ならば世間のほうから持ちこんできもしない全集の刊行など思いたつはずもなかった。タカジは、実務家でなかったが、この種のことになると、実行力があった。469-470p

★講談社は、この企画を遂行するについて、重厚な準備をしてくれた。このため部局から半ば独立したふうにして編集室がつくられた。社内だけでなく、社外からも編集と研究のためのスタッフがあつめられ、また資料写真も無数に収集された。全巻二十二巻・別巻三巻の編集がすすめられていく時期のこの編集室の内容と機能は、子規研究におうて、どの大学のそれよりも精度の高いものであったということを、いまふりかえって、言いきることができる。473p

★監修者の筆頭者は正岡忠三郎であった。475p

★タカジがもともと発願した子規全集の刊行というものは、余命がいかにも消えそうになっている忠三郎さんへの感傷が発条(バネ)になっていた。タカジにとっての対象は後世というよりも「忠三郎さんひとりであり、そのひとりに、死ぬ者に『子規全集』の配本第一冊を手にとらせてやりたい」ということであった。479p

★この稿(注:誄(るい)詩)の主題は、子規の「墓碑銘」ふうの、ごく事歴に即したリアリズムでいえば、「子規から『子規全集』まで}というべきものであったかと思っている。しかし私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音(あしおと)を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった。そのことでの気分はまだおさまってはいないのである。495p

★――この世は美しい。と、いう感動は素朴すぎることながら、タカジの詩における基調になっていた。かれは若いころから一度も厭世的になったことがなく、そういう悪液質が体に溜まりはじめると、いそいで視線を移して花を見たり、山を見たりして、バケツの底でも抜くような、粗暴なほどの簡単さで――意志力といってもいいが――自分の厭世観を自浄することができた。傍らに花もなく、窓から山も見えないときは、空を見ているだけでよかった。
 といって、タカジはその詩で自然を賛美したわけではなかった。獄中にあるときでも地上の美しさに焦がれ、同時に堪能しているという精神が、詩の奥にあるというだけのことである。
 革命家であるかれにとっても、この世が美しいという気分が、蓄電池のなかの液体のように涸れることなくたたえられていた。それをより美しくしたいというのがかれの革命への情熱の発条(バネ)になっていたし、一方、たとえ醜いものに出くわしてもたじろがなかった。それらはやがてかれの理論と野望によって本来の美しさに変わることが、かれにとって自明だったからである。
 地にあるものすべてを美しいと感じたい気分は、いつでも、伸びあがって待ちうけるようにして用意されていた。かれが、子規の詩歌についての鋭敏な鑑賞者であったのは、子規の俳句も短歌も、地上の美しさというものの本質を、路傍に小石でも置いたようなさりげなさでひきだしてくれるためであったといえる。496-497p

2019年9月8日日曜日

家の中での運動

 今年に入り、ラジオの「山カフェ」を聞いて石丸謙二郎を知った。ネットで検索すると石丸のHPがあり、ブログもある。毎日、この人のブログを見ている。ブログのアップ時刻を見るとほぼ午前5時台で早い起床なのだろう。今朝も見ると「しょうがないのでスクワット 」の投稿がある。スクワットのやり方の後の最後の文が面白い。

★今年は、特に雨が多く、外歩きができない。
 家の中で、なにがしかに励むしかない。
  しかたないので、スクワット。
  ほかにできないので、スクワット。
  テレビを見ながら、スクワット。
  本を読みながら、スクワット。
  セリフを覚えながら、スクワット。
  お菓子を食べながら、スクワット。
   (それ、ダメじゃん)
  https://ishimaruk.exblog.jp/(参照)
 
 「一眼二足」といわれるように足の衰えは健康を損なうもとになる。運動らしい運動は週に1度の水泳と自転車で外に出る。これ以外はやっていない。そこでスクワット登場となるのだが、最近は何かで知った踵をあげてつま先で立つことをやっている。1度に30回を目安に……。20回くらいまでは楽。だが、30回近くになると足が疲れてくる。これを一日に最低1度はやることをこころがけてやる。最高気温33、4度ともなると自転車で外に出ると汗びっしょりになる。そうまでして自転車に乗らなくても…、と思って始めたのがこのつま先立ち。

 山歩きが半ば本職ともいえる人が家でスクワットをされている。これを知ってどんな人もそれなりの工夫をしている、と感心してしまう。

 今日からつま先立ちに続いて久々にスクワット、始めよう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月7日土曜日

『西域をゆく』&迷惑メール

 先日の天気予報では、この先1週間は雨の日が続きそうだった。ところが、雨は降らず、真夏の暑さが戻っている。昨日の最高気温は34,5度で今日も34度と気温が上がりそうだ。昨夜は一晩中エアコンをつけて眠る。朝5時半ころ、寒くて目が覚めた。

 昨日と言えばお昼ごろから夜9時近くまで携帯電話に迷惑メールが頻繁に入る。これまでなかったことなので、はじめのうちは誰から?と気にしていた。ところが先月末頃にドコモから注意を促すSMSが入る。それを改めてみると、削除するようにとのこと。削除するのはいいが、迷惑メールが入るたびに音が鳴って耳障りになる。寝る前、ふと気づく。マナーモードにして受信時に振動音をさせなければ、安眠障害にならずにすむ、と。そうやって安心して眠る。今のところは何も入ってこない。

 こんなことで気を迷わされると携帯電話もいらない、と思ってしまう。これは、パソコンの場合にも感じる。ちょっとでもパソコンの不具合を感じると精神的なダメージが大きい。パソコンや携帯、ほかにも固定電話、電気製品等等、あらゆる機器を自分で処理しようとするから無理があるのかもしれない。

 文化や文明が進歩・進化すればするほど便利さは増していく。その反面、いざ壊れたり、アクシデントが起きれば厄介なこと、この上ない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ぎ署ましょう!

 以下は先日読んだ『西域をゆく』(井上靖 司馬遼太郎 文藝春秋、1998年)の抜粋。

★「写真なんか、何でもありませんよ」と以前の中国旅行のとき、一部玄人筋から素人名人といわれる井上靖氏から伝授された秘伝がある。箇条書きふうにいうと、同行者は写さない、自分が欲する景観のみを写す、距離を無限大に固定しておいて六メートル以内のものを写さない、夕刻、陽がかげるとさっさと写真機を蔵ってしまう、という。自己を見切っているという点でまことに担力に富んだ秘伝で、氏の思想、文学、もしくは人生への態度と重要なかかわりがある。ともかくも私はこの方法に遵(したが)うことにした。(「新疆ウイグル自治区を訪ねて」司馬遼太郎、40p)

★おっしゃる通りだと思います。朝鮮半島はゴールドの文化で、いわば貴金属といというのを大事にしますが、中国の場合は玉(ぎょく)ですね。やはり玉が最高です。漢民族というのは貴金属への感受性というか、関心は薄いですね。(「西域への夢」司馬遼太郎、66p)

★あんな塔を日本で造っても、どうしようもないと思いますが、しかし、中国にはあのようなビルみたいな塔が似合いますね。韓国には石の塔が多いし、日本では木造の塔を置くのが、どうも相応しいように思います。(「西域への夢」井上靖、69-70p)

★……(注:新疆自治区の踊り)さらに踊りを見ていて、私はハッと思ったのは、朝鮮の農民の踊りと似ているんです。みんな三拍子で踊っていましたが、朝鮮も三拍子です。日本や中国は、二拍子、四拍子でしょう。しかし、朝鮮半島だけは三拍子なんです。(「西域をゆく」司馬遼太郎、130-131p)

★旅順には家があったからです。つまり、光瑞さんは京都から放りだされて、出土品を置いていたニ楽壮を久原房之助に売るわけです。そのまえに、自分の蔵書や出土品も旅順へ持っていって、そこに住みつきそうな態勢だった。
 ぼくらが昔、聞いたところでは、日本政府が貴重品として輸入税をかけるというので、自由港の大連に持っていった、というのです。しかし、日本で長いこと研究しているんだから、どうも話として落ちつかないところがある。それは、つまり反光瑞系の人から聞いたので、どうも本当ではないようですね。
 そして、光瑞さんが旅順にいるときに、ある日突然、中央アジアというか、西域にたいする関心がなくなって、出土品をせんぶ博物館に引き渡して――はじめは寄託のつもりだったらしいけれども――上海へ行ってしまった。どういう事情があったか、よく知らないけれども、ともかく、旅順にあるのは、そんな経緯です。(「西域を語る」藤枝晃、147p)

★二回の旅に於いて、私たちは毎日のように話した。昼も夜も話した。東洋の古い歴史について、民族について、その運命について、自分ながらよく倦きないとおもうほど話した。……本書の内容は、その二回の旅の所産と言えるかも知れない。今になって思うと、話すべきであって、話してないことがたくさんある。そのことのためにも、司馬さんと三回目の旅をしたいものである。東洋なら、どこでもいい。(「あとがき」 井上靖、229p)

★ドイツの地理学者リヒトホーフェンが、「シルクロード」と名付け、以来、日本人にロマンを与えた。新中国建国後、日本人として七十年ぶりにチャンスが訪れた、両先生の千載一遇の喜びが対談に滲み出ている。(「解説」平山郁夫、242p)

★「四十年かけて、ここまで歩いてきたようなものだから、草臥れた」ホータンについた日、二人は昏々と眠った。少年のころからの憧れの地を踏んだ作家達は何を見、何を感じたのか。同行した両氏が旅の興奮さめやらぬままに語った、それぞれの「西域」。東洋の古い歴史から民族、そしてその運命へとて熱論は続く。(「解説」平山郁夫、本の裏表紙から) 

2019年9月6日金曜日

楽器&中国語etc.

 昨夜BS11を見ているとジャズ・クラリネット奏者の北村英治が出ていた。何と御年90歳。テレビを見た後、ネットで確認するとやはり90歳だ。他の出演者である菅原洋一や八代亜紀に負けず劣らず、声がはっきり出ている。そして姿勢もよく、どう見てもこの御年には見えない。背広姿で吹くクラリネットはリズム感にあふれ、見るもの、聞くものをひきつけてやまない。ネットでこの人の記事を検索すると「ジャズ・クラリネット奏者の北村英治『100歳まで吹くため、年下のクラシック奏者に基礎を習った』」とある。

 以下はその記事の一部。

★「100歳まで吹き続けるには、基礎から学ぶ必要がある」と、50代の時に年下のクラリネット奏者、村井祐児に弟子入りし、クラシック音楽を学ぶことを決意する。……最初、モーツァルトか何か教えてくれるかと思ったんですけど、それが全然違って、『蝶々(ちょうちょう)』を吹かされました(笑)。アタマの『ソミミ ファレレ』だけですよ。『発音が悪い。音が崩れている』と言われて、次のフレーズの『ドレミファソソソ』までいくのに3カ月以上掛かりました。初めは冗談じゃないと思ったんだけど、この先生を逃したら他にはいないと思ったんですよ(笑)」

 村井先生との出会いによって、クラシックの世界とも交流が生まれ、現在はクラシック音楽をプレイする機会も増えている。

 「クラシックは決められた通りに吹く必要があるので、誤魔化しがきかないんですよ。でも、その中でいかにうまく歌うか……、そこが魅力でもあるんですよね。ジャズの方は楽しみながらできるけれど、クラシックは楽しんでいる余裕がないんですよ(笑)クラシックが楽しんで吹けるようになるには100歳過ぎないとダメかなと思います(笑)」
https://dot.asahi.com/wa/2016051200125.html?page=3(参照)

 この記事、よくわかる。フルートを習う前、いろいろな楽器を習った。ギターを習ったのはクラシックだった。だが、先生は音大で学ばれていない。その後にエレクトーンを習う。これは結構長く習ったが、自分自身が大人になって習い始めたので音楽の基礎がなっていない。いくら習っても音楽の基礎がないと進歩しない。そう思ってやり始めたのがクラシック音楽のフルートだった。まさに北村英治がクラシックの先生について習い始めた時のように、楽器を持つより前に息の仕方から学んだ。ちゃんと音が出るようになるまでに何年かかっただろう。やっとこの頃、いい音が出ている、と先生に言われるとうれしさも半端ではなくなる。

 元来、肺活量が少なく、自分としては大枚をはたいて最初からいい楽器を購入して吹けるようになるのだろうか、と心配した。何事もまずは格好から、との思いがある。惜しまずにそれなりの楽器を買えば習い事も長く続く。そう思って楽器を購入した。そのフルート。27年経過してもまだ習い続け、吹き続けている。

 北村は「クラシックは決められた通りに吹く必要があるので、誤魔化しがきかないんですよ」という。これも全く同感。フルートを習うお陰でクラシックにも目覚めた。

 それにしても北村英治の音楽を生で聞いてみたい。来週もテレビに出るそうなので見るのが楽しみだ。

 話は変わって、連日の暑さは真夏に戻った感じだ。笛を吹いたり、本を読んだり、と家の中で過ごす時間が多い。その暇に、ごついアルバムを2階から1冊ずつ持って降りて写真を取り外す。昨日までに計4冊、アルバムから写真を外した。大半は覚えているけど、意外な写真もある。昨日、アルバムから外した2枚の写真がそうだ。1枚は真理アンヌとのツーショット。この人が好きで撮ったのではなく、某イベントに参加して写った。ほかの1枚は、県庁で4か月、バイトをしたことがあり、その時の御用始めに務めていた課で撮った集合写真。男性ばかりに交じって写っている。今見ると、背広姿のいかつい顔の人たちの中でよくも一緒に写っていると我ながらあきれる。

 そのうちの1人は今も現役で某市長をされている。そしてもう1人はそれから30数年後に某交流学会で会った際、声を聴いて誰だかがわかった。男性の変わりようは眼を見張るものがある。とは言いながらも人から見れば自分自身も老婆になっているのだけれど……。まあ、この際、自分のそれは忘れよう。

 ほかにも写真を見るといろんなことを思い出す。我が家へ人を連れてきては一緒に写真を撮っている。今は交流がない人たちも多い。戦後すぐの生まれなので幼児のころの写真は少ない。それも白黒写真でセピア色になり、破れそうになっているのもある。とりあえず、このうちの数枚をデジカメに撮り直す。小・中学校時代も写真が少ない。高校になると部活動で学校の文化祭に出た、はかま姿の写真がある。これも数少ない貴重写真。とはいっても高校になると写真も進歩したのか保存状態はいい。短大時代は外部の大学生と所属する部の合ハイ(今の合コン?)や専門の資格取得のために4か所で実習した際の写真がある。働き始めると俄然、旅の写真や習い事で写ったのが多い。当時は泳げなかったにも関わらずよく海に出かけている。貴重な水着姿の写真もあった。

 習い事の究極は中国語。1982年に中国語を習い始めた。中国にいた人や帰国者に交じって若者は私ともう1名の女性の2名だけ。ここから自分の人生再スタート、という感じは否めない。海外にも目覚め、知り合えないような人たちとも知り合うようになった。

 人生の岐路、ということばがある。まさに自分のそれは中国語を習い始めたころかもしれない、その1年前に水墨画を習っている。それが中国への関心へとなったのだろう。そういえば、水墨画を習っていた時の写真も1枚ある。このころからよく飲み、よく食べ、よく遊び、になっていく!

 しばらくというか、当分は何十冊かのアルバムから写真を取り外す作業が待っている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月5日木曜日

新聞の訃報記事

 今朝の地元紙で池内紀の訃報を目にする。まだそれほどの御年でもないのに、死因が書いてない。気になって検索すると毎日新聞が虚血性心不全と報じている。これはいわゆる突然死になるのだろうか。

 池内紀の講演会に2度出かけている。いずれも場所は西区の泉美術館。1度目はもうかなり前になる。NHK・FMの日曜喫茶室のコメンテータとして出演されていた時だ。池内紀を知ったのは氏が東大を55歳で退官される記事だった。その新聞記事は例の自分の気に入ったノートに切り抜いて保存している。地位や権力を好まれなかった。この記事を見て素晴らしい人間性に惹かれた。専門のドイツ語とはまったく無縁ながらも泉美術館に出かけた。講演会の後、場所を館内の喫茶室に移されて講師を囲む会が催された。全く関係ないにもかかわらず、厚かましくも隣に座り、日曜喫茶室での話を聞いたりした。そして、池内氏の本の裏表紙にサインをしていただいた。このサインは自分自身の名前を聞かれて、ご丁寧にもその4文字に挿絵も描いてサインしてくださった。それ以降、さらに、氏のファンになる。

 2度目は2年くらい前になるだろう。同じく泉美術館で開催された講演会だった。講演会場は美術館の会議室で以前の時よりも広い会場だった。盲目の人たちが美術を鑑賞する。それはもっぱら彫刻。今、自分のブログを検索すると講演タイトルは「彫刻家セカールのこと」だった。なんと以前、池内氏の話を聞いたのもセカール、とブログを検索して知る。なお、1度目の講演会は2002年で、2度目は2017年。3度目の講演会は残念ながらもう行かれない。

 ドイツ文学者であり、エッセイストでもある池内紀。エッセイには山や旅の話が多い。山も旅も好きなのでよく読んだ。今もまだ図書館で予約している本がある。それは『すごいトシヨリBOOK 』。読者が多いのか、なかなか順番が回ってこない。

 本を読んでその人となりを知り、いい人だと思う。特に、自分よりも年長者で見習いたいと思う人のエッセイをよく読む。亡くなられるとダメージが大きい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月4日水曜日

『大人の水泳』

 図書館のHPから新刊予約を検索する。最近は予約する本も司馬作品が多い。そのため、それを読む方に気を取られて新刊の予約がおろそかになる。最大20冊まで予約可能であっても今は予約12冊。司馬作品が多すぎて、読む本がなくなりそうにない。それでも先日、新刊検索で見つけた『大人の水泳』(日本文芸社、2019年)を借りる。今更水泳の本を読まなくても……と思うが、それでも少しでもうまく泳げれば、としばし借りてきた本を眺める。水泳には4泳法ある。だが、クロールと背泳ぎは泳いでも平泳ぎとバタフライでは泳げない。

 泳いでいるクロールと背泳ぎもリカバリーというかストロークというか、水を掻く手の回数が多すぎる。これを何とか少なくしようとプールに行くたび、試行錯誤する。だがうまくできない。そこで本の登場となる。いくら読んで、またたとえ頭で理解しても所詮、これは机上の空論。うまくなりそうにない。もう一度先生について習えばもっと早く、かっこよく泳げるのに……と思ったり。とは言いながら、長く泳いでいるから、このまま続ければいいじゃない、と思ってみたりする。

 水泳の長続きのポイントを読むと以下のように書いてある。

★まず、何事も「これなら自分にもやれそうだな」という前向きな気持ちを持って取り組んでいること。そして練習をつめこまず頑張りすぎずに、マイペースで練習していること。さらに、人それぞれ個別性があることを理解し、自分のレベルにあった練習に取り組めること。最後に、水泳は楽で良いんだと気づけていること。これらをしっかりと理解できている人は必ず長続きします。

 これを読んでなんとこれはすべて当てはまると思ってしまう。長続きする所以かもしれない。さらに続く。

★水泳にはストレス解消や疲労回復効果も期待できます。上手に泳ぎたいということばかりにとらわれず、ラクな気持ちで取り組んでみましょう。やがて「しばらく泳がないと気持ちが悪い」といった感覚を体験できるはず。そうなってしまえばこっちのもの!あなたも立派なスイマーの一人です。48p

 これを読んで、おお、自分も立派なスイマー!?と思ったり。どういっても長く泳がないと泳ぎたくなる。振り返えると運動音痴の水泳歴は30数年を経過した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月3日火曜日

『手掘り日本史』&プール

 雨も上がって気温も真夏並みに戻りそうだ。昨日午後はプールで泳ぐ。気温は低くても連日の雨で蒸し暑さは半端でない。自転車を降りて更衣室に入ると体中から汗が噴き出る。水着に着替えてプールに入るが水が冷たい。暑いじゃ、冷たいじゃ、と言っても何も変わらないはずなのに、つい口から出てしまう。

 泳いだ後の更衣室。しばらくは涼しさを感じる。それも10数分経過すると元の暑さに戻る。そういえば昨日、雨が上がったにもかかわらず小学校は休校になったそうだ。朝方、警報が発令されたことによるらしい。

 以下は『手掘り日本史』(司馬遼太郎 文藝春秋、2012年新装版)の抜粋。司馬遼太郎が小説を書く理由がこの本からも分かってくる。そして小説に取り上げる人は司馬が人格的にも好みで邪念がない人のようだ。読む側にもそれが伝わる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★私は、史観というのは非常に重要なものだが、ときには自分のなかで、史観というものを横に置いてみなければ、対象のすがたがわからなくなることがある、と思っています。史観は、歴史を掘り返す土木機械だと思っていますが、それ以上のものだとは思っていません。土木機械は磨きに磨かねばなりませんが、その奴隷になることはつまらない。歴史を見るとき、ときにはその便利な土木機械を停止させて、手掘りで、掘り返さなければならないことがあります。116p

★私が小説を書く人間になってほんとうによかったと思えたのは『国盗り物語』や『竜馬がゆく』『峠』を書いたときです。人間はいつかは死にますが、そのときの「遺書」のつもりで書きました。日本人とはいったい何者か、というのが一般的テーマなんですがね。自分が日本人について考えたことを小説にして残しておきたいというはっきりとした意図で書いたのが特に『竜馬がゆく』と『峠』です。日本の現状を悲憤慷慨するとか、将来を憂うといったことではなく、幕末以来の短い間にずいぶん激しい変遷をへてきたのは、いったい何事であるか、またその中の日本人とは何者であるか、ということが非常に知りたかっただけです。そして、自分でわかった部分ができ、そのわかった部分で書いたのが、先ほどの二つの作品なんです。これら、『殉死』も入れて、自分で好きだ、といえないくらい自分の気持ちがこもっているんです。212-213p

★「手掘り日本史」では、したがって、司馬氏の個々の作品を手がかりにはしながら、主としてこの作家の”歴史を見る目”について語っていただいた。司馬遼太郎の文学を読む一助になれば、ということからである。何よりも私自身がこの作家との”対話”の機会をもちたいと願い、それをこういう形で実現させたということであろうか。(江藤文夫 解説、227p)

2019年9月2日月曜日

本とアルバム

 昨日の続きになる。白木山は昭和53年に登っている。40年前ではなく41年前に訂正。今朝、ふと思い出す。先ほど2階に上がって確かめる。まさに41年前(1978年)から読んだ本の気に入った個所をノートに記している。その最初の頁は植村直己の『青春を山にかけて』。この歳くらいから自分自身、何かを感じていたのだろう。それ以降、読んだ本の抜粋をノートに書きとり、コピーが普及しだすと気に入った個所をコピーしたり、新聞などは切り抜いて保存した。それも10年前からブログにアップしての保存になった。自分が読んだ本や新聞の抜粋はまるで自分史になりそうだ。アルバムは整理して写真を捨てても読んだ本を抜粋したノートとコピーとブログはほったらかしにできそうにない。

 いつの日か、この3か所の保存を1か所にまとめたいとの気持ちは以前から持っている。だが、今は司馬遼太郎の本にはまり、そこまでの心の余裕がない。いつか、きっとまとめよう。そうなるとやっぱり150歳まで生きないと無理かも……。

 昨日、清岡卓行の『清岡卓行大連小説全集(上)』の中から「アカシアの大連」、「朝の悲しみ」、「フルートとオーボエ」を読んだ。「アカシアの大連」だけを読もうとしたら「アカシアの大連5部作」となっている。それなら5部作品を全部読もう、となった。あとの2作品は「萌黄の時間」、「鯨もいる秋の空」。今日はこの2作を読もう。

 読んだ3部作のうちで驚くことに気づいた。というか音楽好きは誰もがみな知っていることかもしれない。つぎのフルートのレッスンで先生に聞いてみよう。

 ここで余談。子供のころは近くの貸本屋に行って本を借り、近所の子供たちが本を回し読みしていた。今は、近くに図書館もできて本当にいい時代になった。それでも図書館で借り始めたのはそれほど前のことではなく、それまでは本を買って増えるのが嬉しかった。ところがそうやって集めた本も10余年前に何百冊かを古本屋に引き取ってもらった。当時の金額でそれは3000円だった。だが、ほかにもたくさん専門書などがある。これらは自分がいなくなれば誰も興味を示さないだろう。

 何もかも整理しようと思えば無理がある。すぐに亡くなるわけでもない。生きている、ということはモノがあふれて当然だ。本とアルバム。この2つの整理は多分、生きている間中かかるだろう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年9月1日日曜日

「果報は寝て待て」

 昨夜、姪に電話する。その後がいけなかった。電話機のディスプレイの文字がいつもの表示と違って、訳が分からなくなっている。さあ、これからが大変。いろいろ試すが埒が明かない。昨年の豪雨災害の後、表示が変になっている。その時はどうした?と思い出すが思い出せない。ここでネット検索。電源を外して数秒後に入れるように、とある。だが、思うようにならない。これを何回も試すが草臥れ始める。もう寝よう、と寝るが、気になる。もう一度電源を切って試す。駄目だ。

 あきらめて寝ようとするといつもは電話がかからない固定電話も旅の添乗員などからかかってくることがある。その時は……とか、新たな電話機に買い替えるときパソコンとつないだモデムはどうやる?などいろんなことが頭をかすめる。まあ、その時は…と思い直して寝ることにする。途中、トイレに行くため目を覚ますと電話機の表示が寝る前とは違っている。とりあえず、そのまま再度寝る。朝、起きると表示がまともだ。寝ている間に修正されたのだろう。

 なんでもすぐに解決しないと気が済まない。これもいいようでよくない面がある。いいのは解決しないモノ・コトがないこと。そのため心配がない。ところがいざ問題が起きるとすぐに解決を求めてしまう。これがよくない。「果報は寝て待て」と肝に銘じよう。

 話は変わって、1か月くらい前に2階の部屋に出しっぱなしにしているアルバムがある。このすべてのアルバムから写真を外して要るものだけを残して処分しようとした。ところが、連日の暑さと雨の日続きでそのままにしている。昨日、午後、雨も上がったようなので窓を開けて空気を入れかえに2階へ行く。そのうちの一番ごついアルバムを手に取って写真を外していく。これが簡単には外れない。覚悟を決めて外していく。幸い、部屋に風が入って気持ちいい。

 とりあえず、1冊ほど写真を外した。外す途中、白木山に登った写真がある。某公社でアルバイトをしていた時、データ部の人たちと登っていた。今から41年も前(昭和53年のこと)のことだ。ブスはブスなりに若い時はかわいい、と自分でそう思って写真を見る。なんと10数人くらいの集合写真の真ん中に陣取って写っている。このくらいの年代から徐々に自分らしさが出ていくのだろうか。人に誘われればどこにでも出没する自分がいる。山へ登った自信がそうさせる!?姪と昨夜そんな話をする。

 41年前のことで思うことがある。今、楽しくやっているモノ・コト・ヒトはそれ以降のことだ。中国語、自転車、水泳、フルート、日本画、そして海外旅行等等、楽しんでやっているのは36年前からのことである。41年前から37年前までのこの4年間にやることがすべて変化している。今、改めてそう感じる。何がそうさせたのかは今となってははっきりしない。徐々に自分自身が変化していったのだろう。

 17年前に会社をリストラされた。それから9年間は旅とは無関係に過ごす。その後の8年間(母が亡くなってから)は遊んでばっかりいる。遊びの中の大半は旅。この8年間の旅は写真を紙で保存しないのでアルバムはいらない。ただ、SDカードさえ持っておけばいい。というか、今は写真もブログという手段で保存している。といっても自分の写真はほとんど写さない。そういえば以前の写真は人物中心で、風景は写していない。姪曰く「ブログ用に風景を写している?」。そうかもしれない。

 アルバム整理は時間を要しそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!