2019年9月9日月曜日

『ひとびとの跫音(あしおと)』

 『ひとびとの跫音(あしおと)』(司馬遼太郎 中央公論社、2009年)を読んだ。「私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音(あしおと)を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった」(495p)と司馬が書いているように、この本は子規の妹、律の養子になった正岡忠三郎とその叔父である西沢隆二(タカジ)を主として、子規の周りにいたひとびとを書いている。そして「人間が生まれて死んでゆくということの情緒のようなものをそこはかとなくと書きつらねている」(309p)。

 司馬作品に登場するひとびとは得も言われぬほどいい人たちばかりだ。このあたりが読者をひきつけるのかもしれない。というか司馬自身が好む人物が読者の好みと一致するのだろう。司馬作品の読後感は清々しい!

 忠三郎のことをもっと知りたくてネットで調べていると次のHPに目が留まる。「司馬遼太郎さんのこと」として忠三郎の長男が書いている。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/sikisiba.htm(参照)

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『ひとびとの跫音(あしおと)』の抜粋。

★律が兄の死の翌年にこの女学校(注:共立女子職業学校)に入ったというのは兄の女子教育論と無縁ではなかったろうということである。86p

★子規についておどろかされることは、その精神に虚喝というものがすこしもなかったということである。虚喝といういかがわしいことばを、この場合、多少形而上的な言葉として使いたい。物事が表現される場合、多少の虚喝が混じる。それをわざと定義せずにさらにいえば、子規に観念論がないということも、そのこととじかにかかわりがあり、このため文章はつねに平明ならざるをえない。240-241p

★タカジは子規の散文のなかでも、とくに『仰臥漫録』を好んだ。死を前にして、ほとんどそれを眼中におかず、自分の志を述べつづけることによってのみ日常を送った明治の文人がタカジのなかで人間はそうあるべきだという一個の典型になった。この典型がなければ、タカジにおける非転向十二年という獄中の人生はありえなかったと言いきることができる。それはともかく、獄中のタカジにとってこの全集で得た痛烈な発見は、――あの上根岸の家が、子規の家だったのか。ということであった。滑稽なほどにあたりまえの事実の発見を、タカジは生涯おかしがった。

★書きはじめる数日前から『子規全集』を読むことにしている。とくに子規の散文を読んでいると、耳のあたりに子規の息づかいがきこえてくるような気がする。この書き物の題名を「ひとびと」として複数の人達について書きつつも、私自身、深く気づくこともなく、子規一人への思いを形をかえて書いているのではないかと思ったりする。248p

★私はこの稿で文学史的側面を書いているのでもなく、詩人とか革命家とかという肩書のある人物の評伝を書いているのでもない。人間が生まれて死んでゆくということの情緒のようなものをそこはかとなくと書きつらねている。ただ「驢馬」とその同人たちはタカジの生涯にとって一塊の根株のようなものであった。かれはこの雑誌に毎号詩を書くことによって自分のなかに詩人の芽を見つけてしまったし、さらには、同人の中野重治を知り、これに傾倒することによって革命の徒になった。309-310p

★「バカニスルナ」とびきりの大声だった。「その机の書類を読めば名前も齢もわかるんだ。人をよびつけてどうしてそんなわかりきったことをきくんだ」忠三郎さんは大急ぎで車いすを旋回させ、部屋を出てしまった。結局、この施設に昭和四十五年二月のはじめから八月三十日までいた。その後、この種の施設に近づかず、六年間、死にいたるまで自宅で療養した。……忠三郎さんにとって何にもまして幸いだったのは、患者として死ぬことなく、人間として死ぬことができたことであったかといえる。431-432p

★忠三郎さんの子規への義務感は、つよかった。保管をよりよくするために、子規の書いたものについては断簡零墨まで読んでいたし、その上、伊丹の家の柳行李のなかに詰まっている子規あての来信は、すべて解読して分類していた。……と言って、子規について、たとえば全集を自分で出そうというようなことは、性格として持っていなかった。……タカジのほうも、忠三郎さんが若くて達者ならば世間のほうから持ちこんできもしない全集の刊行など思いたつはずもなかった。タカジは、実務家でなかったが、この種のことになると、実行力があった。469-470p

★講談社は、この企画を遂行するについて、重厚な準備をしてくれた。このため部局から半ば独立したふうにして編集室がつくられた。社内だけでなく、社外からも編集と研究のためのスタッフがあつめられ、また資料写真も無数に収集された。全巻二十二巻・別巻三巻の編集がすすめられていく時期のこの編集室の内容と機能は、子規研究におうて、どの大学のそれよりも精度の高いものであったということを、いまふりかえって、言いきることができる。473p

★監修者の筆頭者は正岡忠三郎であった。475p

★タカジがもともと発願した子規全集の刊行というものは、余命がいかにも消えそうになっている忠三郎さんへの感傷が発条(バネ)になっていた。タカジにとっての対象は後世というよりも「忠三郎さんひとりであり、そのひとりに、死ぬ者に『子規全集』の配本第一冊を手にとらせてやりたい」ということであった。479p

★この稿(注:誄(るい)詩)の主題は、子規の「墓碑銘」ふうの、ごく事歴に即したリアリズムでいえば、「子規から『子規全集』まで}というべきものであったかと思っている。しかし私自身についていえば、すでにふれたように、忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音(あしおと)を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった。そのことでの気分はまだおさまってはいないのである。495p

★――この世は美しい。と、いう感動は素朴すぎることながら、タカジの詩における基調になっていた。かれは若いころから一度も厭世的になったことがなく、そういう悪液質が体に溜まりはじめると、いそいで視線を移して花を見たり、山を見たりして、バケツの底でも抜くような、粗暴なほどの簡単さで――意志力といってもいいが――自分の厭世観を自浄することができた。傍らに花もなく、窓から山も見えないときは、空を見ているだけでよかった。
 といって、タカジはその詩で自然を賛美したわけではなかった。獄中にあるときでも地上の美しさに焦がれ、同時に堪能しているという精神が、詩の奥にあるというだけのことである。
 革命家であるかれにとっても、この世が美しいという気分が、蓄電池のなかの液体のように涸れることなくたたえられていた。それをより美しくしたいというのがかれの革命への情熱の発条(バネ)になっていたし、一方、たとえ醜いものに出くわしてもたじろがなかった。それらはやがてかれの理論と野望によって本来の美しさに変わることが、かれにとって自明だったからである。
 地にあるものすべてを美しいと感じたい気分は、いつでも、伸びあがって待ちうけるようにして用意されていた。かれが、子規の詩歌についての鋭敏な鑑賞者であったのは、子規の俳句も短歌も、地上の美しさというものの本質を、路傍に小石でも置いたようなさりげなさでひきだしてくれるためであったといえる。496-497p

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