ラベル 司馬遼太郎 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 司馬遼太郎 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年9月2日水曜日

『この国のかたち』(三)

 今朝も生協の開店時刻の9時になると家を出る。生協の魚を買おうとするがまだ店頭に並ぶのは少ない。仕方なく肉売り場に行って生姜焼き用の肉などを買う。家を出て買い物を済ませて帰宅するだけで汗びっしょりだ。この暑さはいつまで続くのだろう。本当に世の中、くるっているとしか言いようがない。

 『この国のかたち』(三)(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年第25刷)を読んだ。以下はその中から気になる箇所を抜粋したもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★華夷は、字面でわかる。中国内部で成立する王朝は、秦、漢、隋、唐といったように一字である。それにひきかえ周辺の蛮(蕃)国は二字で表記された。前漢のころでいえば、匈奴、鮮卑、東胡、烏桓(うがん)。唐代でいえば、契丹、突厥、突蕃、回鶻、渤海、新羅、日本といったようにである。ときに、異国名が、虫偏や犭編であらわされた。蠕蠕(ぜんぜん)や猓(ろろ)といったふうにである。(57 華)(93P)

2022年1月10日月曜日

『国家・宗教・日本人』

 小寒が過ぎてもうすぐ大寒がやってくる。大寒とは名ばかりなのか新年になって暖かい日が続く。寒いより暖かい方がいいが、どういってもよくないものにコロナがある。昨日の広島県の新規感染者は619人とまたも過去最多を更新した。そのうち市内の感染者は400人余りとこれまた最多である。

 コロナの新規感染者を一喜一憂してもなにもいいことにはならないがそうとわかっていても気になるコロナ。世の中、科学がいくら発達しても、またノーベル賞を取るような偉い人たちがたくさんいても目に見えない生き物に皆、振り回されている。いつになったら世の中は落ち着くのだろう、と先を訝ってもいいことにはならない。目の前の一日を元気で楽しく過ごす以外に方法はなさそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は師走に読んだ『国家・宗教・日本人』(司馬遼太郎・井上ひさし 講談社、1999年)から初めて知ったキーワードを太字で羅列した。その意味は()で記す。

★いまはもうこの五体の内がひからびて、リビドーの支えがなくなって、カラカラ音がしている。(精神分析用語)(10p)

★室町末期から戦国時代初頭に倭寇がおこって、一時期、上海の南の舟山(しゅうざん)群島を二十年ほど……。(中国浙江省北東部、東シナ海にあるある群島)(10-11p)

俊寛僧都(そうず)のように。(平安末期の真言宗の僧)(11p)

★参謀本部の暴走を招いたということを「鬼胎」という言葉で書かれたように。(心配すること)(48p)

★天に二日ないがごとく地に二王なしという意味での絶対であって、西洋哲学やカトリックのアプソリューションではないわけです。(許し)(55p)

★たくさんの苦患(くげん)を味わう(地獄に落ちて受ける苦しみ)(61p)

練袂(れんべい)辞職(行動をともにすること)(65p)

★ああ、漢字の「谷」というのは、本来ヤトなんだと。(やと(谷))(76p)

★うちのやと(谷)にもやぐら(窟)がふたつあります。……窟というのは位の高い武士や坊さんを葬るところですが、まだ生きているうちに運ばれて、窟の中で息を引き取るんだそうですね。(77p)

マザータング (母語)(95p)

靺鞨(まっかつ)(中国、隋・唐の時代に中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名)(80p)

アウフヘーベン(ヘーゲル弁証法の基本概念の一)(100p)

俚耳(りじ)(世間の人々の耳)(108p)

没義道(もぎどう)(非人情)(109)

驥尾(きび)に付す(すぐれた人に従っていけば何かは成しとげられる)(125p)

★広島の衛戍病院(えいじゅびょういん)(陸軍病院の旧称)(126p)

萎靡沈滞(いびちんたい)(活気がなく、動きが衰え、勢いがなくなること)(130p)

然諾(ぜんだく)(引き受けること)(131p)

「乃公(だいこう)出でずんば」(他のものに何ができるのか、我が輩が出なければならないの意)(133p)

★ファナティシズム (狂信)(160p)

2020年9月11日金曜日

『菜の花の沖』(五)

 今日は最高気温29度の予想でやっと秋、になるのだろうか。 

 以下は『菜の花の沖』(五)(司馬遼太郎 文藝春秋、2012年第10刷)の気になる箇所からの抜粋。今は『菜の花の沖』の最終巻(六)を読んでいる。これを読み終えたら次は何を読む!?この1年9か月の間、かなりの司馬作品を読んできた。だが、司馬作品は読めども読めども多すぎて全作品を簡単には読み終えられない。自分の生きている間に全作品を読み終える。これが我が最大のライフワークとなった。これほど引き付けられる本と出合って本当によかった、と思う日々。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★日本には、「元和偃武(げんなえんぶ)」というものが生きつづけてきた。元和元年(一六一五年)五月、大坂夏の陣がおわって、ほどなく幕府が申請して年号をが元和とあらためた。元和とは唐の憲宗のときの年号(八〇六~八二〇)を太平の吉例として借用したものだが、ことばとしての意味は「大いに和らぐ」ということである。家康が漢学者(林道春であろう)に文字をえらばせて偃武(武を偃(や)める)という二文字をつけて諸大名のあいだに流行させた。これが、一種、非成文の憲法のようになった。

 以後、武器の進歩はその時期の段階でもってとどめられた。嘉兵衛のこの享和元年(一八〇一年~一八〇六年)までいっさいの武器の性能、数量は凍結されるという奇跡の歴史がつづいた。関船は、戦国までの戦闘用の船であった。それをもって「武官」松平忠明が、ロシアの南下圏の最前線にゆくのである。24-25p

★同書(ゴローニン『日本幽囚記』井上満訳・岩波文庫)には、ロシア海軍の艦長ゴローニン少佐の日本での運命に、決定的なかかわりをもった艦長リコルド少佐の「手記」も合わせてのせられている。リコルドが、「タカダイ・カヒ」とよんでいた、高田屋嘉兵衛は、どういう状況下でも、言葉にうそがなく、快活で度量が大きく、聡明な人物とされている。さらには、名誉を守るために「敵中」で死を覚悟しつつ、「敵」とともに自爆しようと考えたりするが、やがてロシア人の中に信義を見出すと、逆にかれらを救う立場になったとき、深い友情と信義で最後までつらぬいた人物としてえがかれている。

 私には、そういう嘉兵衛にも興味があるが、かれをつくりあげたこの当時の船と航海と商業について、それ以上に関心があった。39-40p

★「蝦夷地開拓」というのは、産業の感覚がなければできるものではなかった。結局は、かれらが、現地においてたまたま発見した嘉兵衛という船頭が、その点でみずみずしい感覚をもっているのを知り、さらにはエトロフ島の場所をみごとに成功させたのをみて、「ネモロ(根室)とホロイムズ(幌泉)の二つの場所もやってくれぬか」とたのみ、嘉兵衛ひとりにおんぶするかたちになった。45p

★一七一三年、同じ形式で、コサックの五十人長ワシリイ・コレソフという者が、はじめて千島列島の一部にはいり、原住民に毛皮税を課した。要するに、江戸期を通じ、ロシア人にとってシベリアおよびオホーツク海域での進出は、原住民をおどして毛皮を取り上げることを主目的とした。強大な勢力(例えば清国)とは対決を避け、もっぱら交易を持ち掛けた。領土所有欲が先行したわけではなかった。68-69p

★海にあこがれたピヨートルは、一七〇九年スウェーデンとの闘い(ポルタヴァの戦い)に勝って、ネヴァ川の河口の低湿地を得た。沼沢と森林だけのこのまったく無人のデルタに、首都をきずき、彼自身の名をとってペテルブルグ(のちレニングラード)と名づけた。71-72p

★べーリングは第一回の探検(一七二五~三〇)においては濃霧その他のためにアメリカ大陸を見ることができなかったが、それから十一年後、第二回目(一七三三~四三)の探検でアラスカ海岸を見た。かれの名は、ベーリング海峡という呼称のなかで残った。73p

★アトラソフは、イーチャ川の河畔までやってきて、そこで、原住民に抑留されている異邦人伝兵衛を見た。のちにアトラソフは彼をモスクワにつれていき、さらにピヨートル大帝がかれを引見するにいたる。つまりはロシア帝国が伝兵衛において「日本人」というものを見た記録として最初の事件なのである。77p

★ピヨートルは、伝兵衛に国費による日本語学校をひらかせた。その後、ロシアにおける日本語学校は、断続し、漂流民を得るごとにそれを教師とした。82p

★親切は、人間にくらしの日常のなかで、さまざまな数奇を生む要素かと思われる。ふつう日本社会にあっては軽度な親切はあっても、身を破滅させるほどにそれをつらぬく例はすくない。ラクスマンの人柄のなかには、この不思議な感情の液体が多量にたたえられており、光太夫たちは漂流者であるためにそれに応えるべく、何の力ももっていなかった。ただひたすらそれを受益しつづけたのみであった。93p

★加藤氏(加藤九祚)は、二十世紀の在日ロシア人学者で、すぐれた民俗学と言語学者であったニコライ・ネフスキーの学問と生涯を研究し(著作の題は『天の虹』)、大仏次郎賞を得たとき、そのお祝いの会に、一群の初老の人たちがいた。抑留時代の氏の「部下」であった。その人たちの代表がスピーチしたとき、私の考えている氏のやさしい人柄が、当時からのものであることを知った。捕虜たちが、絶望したり、捨てばちになったり、不穏の行動を考えたりしたとき、加藤さんは、つねに同じことばを、真心こめてくりかえした。

 「皆さん。一人残らず、元気で日本に帰りましょう。そのことだけを考えましょう」まことに、十八世紀の光太夫に似ている。105p

★津太夫らは、世界一周をした最初の日本人たちであった。……仙台藩では、かれらを江戸愛宕下の藩邸に一時住まわせたが、このとき藩命によって大槻玄沢らが、かれらの見分録をつくりあげたのである。……「環海異聞」には、ロシア帝国が、かれら素朴すぎる仙台藩領の漂流民たちに対し、対日外交のてこにつかうためとはいえ、、いかに手厚く扱ったかについて、十分に触れている。173-174p

★ロシア語では以後、この陸地のことをサハリン(Sakhalin)とよぶようになった。満州語で黒竜江のことをSaghalienというが、この両語の酷似を見れば、ロシア語のサハリンという地名のおこりがおのずからあきらかになってくる。さらにいえば、ロシア人のシベリア制服と、その地の少数民族との接触の歴史も、この地名の中に押しつまって籠められている。239-240p

★ゴローニンは、目の前にいる林蔵が、この幽囚の時期( 一八一二年)から十一年前に千島を踏査し、また四年前に高田屋嘉兵衛の持船貞宝丸(弟の嘉蔵指揮・千五百石積)で樺太にわたり、陸路北上してついに樺太が大陸から離れた離島であることを発見したことを知らない。このことについてクル―ゼンシュテルンが、後年、林蔵の業績を知って「我、日本人に敗れたり」といったといわれる。林蔵はすでに間宮海峡の発見者であった。392-393p

★嘉兵衛に欠けているものは、業欲というものであった。業欲以前に、金銭についてのごく一般的な欲望もすくなかった。……「あの男は違った男だ」と、幕府の箱館の駐在者も、松前(福山)の駐在者も、おもっていた。嘉兵衛を旋回させているのは、この男が持っている能力というものである。「能力」というものだけでは、世の中はまわらない。それは江戸、江戸封建制というものであった。399p

★嘉兵衛の本質に利という思想があったかどうか。かれの人間のさまざまな属性を洗ってその本質をみると、海と船が好きということになってしまうようであった。好きという日本語は、室町時代以後、数寄(すき・数寄)と書いた場合、マニアの意味をもつ。……しかし嘉兵衛はそういうマニアの性格はもっていなかった。「能力」だけが、嘉兵衛を旋回させているしんのようなものであった。それだけが嘉兵衛的事態でありかれが、まきおこしている状況であり、またかれの人生であった。406-407p

2020年8月27日木曜日

『菜の花の沖』(四)

  今日の最高気温の予報は34度。午前8時の気温は29度、と朝から暑い。。この先の予報ではまだしばらく34,5度の日々が続く。今朝体重を測ったら減っている。年を取って痩せるのはよくないと聞く。快眠、快食、快便と何も問題ないが、この暑さで食べる量が少ないのかもしれない。気を付けよう!

 『菜の花の沖』(四)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年新装版第11刷)を読んだ。以下は気になる箇所をメモしたもの。予約確保の本が2冊あると図書館からメールが入る。今日はこれから図書館へGO~。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「好き」ということを、商人の敵として戒めあった。「好き」は物好みのことなのである。物好みが激しくなると、精神の平衡を欠き、ついには現実に対する目をうしなう。その危険を知りながらも、あるいは十分にわきまえた上で、美的世界に遊ぶという精神現象を、述語として「数寄」(すき、数奇)とよんだ。16p

★「地頭」(じとう)という古い日本語は、「泣く子と地頭には勝てぬ」などという諺があるように、嘉兵衛の時代でも生きてつかわれている。諸大名も地頭なら、幕府もその直轄領にあっては地頭であった。地頭というのは本来、とるばかりで、出すということが、例外であるにせよ、基本思想としてあるはずがなかった。なるほど蝦夷地担当の幕臣たちは、嘉兵衛をして、かれの武士についての見方を修正させたほどの理想を持つひとびとであったが彼らの背後にある江戸幕府自体が、結局はとる機関で出す機関ではないのである。20p

★――様似へゆけば、最上徳内様にお会いできる。というのが、嘉兵衛のこの航海での張りになった。嘉兵衛には、人好きという病といっていいほどの性格があり、特に無欲人か、あるいは物に熱中している人が好きであった。……「夷人」と、幕臣たちは蝦夷人のことをいう。嘉兵衛が蝦夷人を好きなのは、かれらに欲が薄く、どこか山川草木が人の姿を籍(か)りて物をいっているようなところがあるからでった。23-24p

★船を、嘉兵衛にとって未知な様似のような陸(おか)に近づけてゆくときのふるえるような感激は、浮世でせせこましく世をおわるひとびとのわからぬところであろう。「仙吉よ、様似ぞ」と、嘉兵衛は遠眼鏡で陸地のあちこちを見ながら、炊(かしき)の少年をよびとめて言った。……海水をまぜて大釜いっぱいにめしを炊き、それで握りめしをつくってたくさんのもろぶたにならべておくのである。帰船すると、湊の子供たちが、あつまってくるが、海水まじりの握りめしはかれらにふるまう。いつごろから、どういういわれでできた慣習なのであろう。要するに、無事に湊についたという船のよろこびを、神仏に感謝する一方、土地の子供たちに施餓鬼するように白米をふるまう。江戸期は、常時、白米が食えるという土地や身分は限られていた。25-26p

★「蝦夷人も、和人のしごとを学べば、同じになる」と、嘉兵衛はごく単純に、しかし石のようなかたさで信じ込んでいた。蝦夷人が和人化かするということは、蝦夷人にとって果たして幸福かどうかなどという瑣末で晦渋な課題は、嘉兵衛やこの時代の人々の意識水準ではむずかしすぎた。63p

★――広域社会は、未開の状態のまま自然のなかに孤立している狭域社会にともすれば侵入して「領土」とする。あるいは、してもかまわない。という思想が、十六世紀もスペインの非ヨーロッパ世界への膨張以来、その文明のなかの強国群のあいだで、何の思想的抵抗もなく(ときにはそれがキリスト教の使命であるかのような正義意識のもとで)できあがった。日本は、戦国期から徳川初期にかけての南蛮船の出没によってそのことを知った。122p

★アイヌが千島列島に鮭やラッコなどを獲るべく島々に展開したのは、いつの時代であったか、よくわからない。ただ島々の名が、ことごとくアイヌ語であることはたしかである。つまりは、和人やロシア人が千島にやってきたときは、その島々やこの沿海で狩猟・漁業を営む者がアイヌであったことだけはまぎれもない。かれらは領土権を主張しなかった。129p

★嘉兵衛が上陸したエトロフ島は、のちのちまでその領有をめぐり、本来平和な隣国同士であるべき日本とロシアの間で、不穏のやりとりの絶えない島の一つになるのである。嘉兵衛が上陸する前年(寛政十年・一七九八年)に、この島にきた幕臣近藤重蔵・最上徳内らは、七月二十八日、この島の南端のベルタルべ岬のそばの岩で囲まれた小さな入江(蝦夷地名・リコップ)に上陸し、指揮権をもつ幕臣としての近藤の判断をもって一柱の木を削り、それに文字を書き入れ、領土標識を樹てた。「大日本恵登呂府」と、書いた。151p

★蝦夷人――アイヌ―ーにも。古いむかしからそういう習慣があったらしい。こういうあいさつのことを、アイヌは、「ウイマム」とよんでいた。和語の御目見得からきたことばであることは、定説である。……「ウイマム」が存在するかぎり、松前藩が、千島の島々を自分の版図であると信じていたのは当然といっていい。「版図」という漢語は、十六、七世紀以後の、西洋の概念でいう領土とはわずかに輪郭がちがう。……日本の俗語でいえば、縄張りというようなところと近いであろう。対人主義で対地主義ではない。168-170p

★幕府とロシアの間で結ばれたこの一八五四年の日露和親条約が、両国の関係の基礎になった。ロシア側が日本側に提示した条約草案が残っている。その要領は、……この条約では、樺太問題がきまらず、千島列島における両国境界がきまった。

 エトロフ島以下を日本領とし、ウルップ島以北をロシア領とする。175p

★嘉兵衛は武士ではないために観念的な理想論などあまり口にしなかったが、沼島衆をかえりみて、「せめてこの島々の人達に米をもってきて食べさせたい」と、感動のあまり、声をふるわせながらいった。「米」というものは、蝦夷人と和人をへだてている唯一の隔壁なのである。米を作り、あるいは米を租税にとりたて、または米を売買し、平均して米を食っている者が和人とすれば、蝦夷人はそうでないだけのことである。190-191p

★忠敬の身分は、百姓で、稼業は商いにすぎない。日本国の国家としての役人である幕臣からみれば地下の低い卑しい身分の者が、齢五十半ばを過ぎて、日本国の海岸線を測量じ、正確な日本地図を作ろうと思い立つなど、嘉兵衛にすればおどろくべきことであった。(――百姓・町人が)日本国の地図を書くのか、嘉兵衛は、くりかえし思った。317p

★千島列島に対するロシア人と日本人の産業上の価値意識がまったくちがっていた。たとえば、ロシア人は魚には見むきもしなかった。それよりも、ラッコその他の動物の毛皮に固執した。かれらがシベリアを欲したのもその森林に棲む貂(てん)の毛皮が直接の目的であったように、カムチャッカ半島を得てもそのことに変わりがなく、さらに千島列島に南下したのも、その欲望の延長線上にあった。ところが、日本人は、魚を欲した。食用のためというよりも、のちにゴローニンがふしぎな情景でも見るような驚きで指摘したように、木棉栽培のためであった。338-339p

2020年8月20日木曜日

『菜の花の沖』(三)

 2日くらい前の新聞にアイヌの人(コタン)の鮭漁の記事があった。今、読んでいる『菜の花の沖』(全6巻)のうち、4巻目までを読んだ。これは淡路島に生まれた高田屋嘉兵衛が蝦夷地を開拓していく話。蝦夷人と和人、さらには北方四島にちなむロシアとの関係もある。他の和人にはない蝦夷人への思いやりが嘉兵衛にはあった。蝦夷地は元来、蝦夷人の地であり、鮭の捕獲を生業としていた。コタンの漁業権云々は和人に同化させられてそれも奪われていったに違いない。外野がとやかく言える立場にない。が、ここは当時の同化政策を考慮して漁業する権利を認めてあげたい。

 『菜の花の沖』(三)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第10刷)を読んだ。以下はまたいつものように気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「北前船」といえば、船籍がどこであれ、大阪・兵庫を始発点として北海道へゆく交易船とその航路のことをさす。46p

★古今東西とも、人間は船に人格を感じてきた。このため船に名をつける。日本では奈良朝や平安朝の初期まで遣唐船という航用船をもったが、慶雲三年(七〇六年)の大使の座乗船は「佐伯」であり、天平宝字二年(七五八年)の船団の一隻は「播磨速鳥」という名をもっていた。しかも、どの船も従五位下(じょごいのげ)という位階までもらっていた。……船首の棕櫚(しゅろ)の毛だけは例外らしい。何を意味するのかわからないが、もともとは注連縄のつもりであったか、どうか。この船首装飾を舟人たちは、「下がり」という。あるいはかもじともいう。76-77p

★……松前・蝦夷地は遠かった。この地方が、「北海道」という名称にかわるのは、幕府瓦解後、明治二年、新政府によってである。
 立案者は、江戸末期における最大の探検家松浦武四郎(一八一八~八八)であった。82p

★鰊をニシンというのは、アイヌ語である。蝦夷地交易によってひろまったことばで、カドといわず、蝦夷語のニシンといったのは、そのほうが魚名でなく商品名としてよぶのにより鮮明で的確な呼称だったからであろう。ただしはらごにだけは古語のカズノコの語が残った。90p

★豊臣期、松前氏は、「蝦夷島主」であって、大名ではない。大名というのは稲作地を支配する者の謂(いい)で、一万石以上の領主をいう。91p

★「朱印」とか、朱印状とかよばれるのは、武家政権において用いられる公的文書のことである。鎌倉・室町のころは文書に花押(かきはん)が書かれたが、戦国のころから朱印が押されるようになった。91p

★蝦夷錦というのは、清帝国の官吏の官服の古着のことである。……松前藩ではこれを交易品のなかでも最高のものとし、本土に売る。本土ではすでに豊臣期のころから、とくに、「蝦夷錦」とよんで珍重し、江戸期では上等の女帯や、高僧の袈裟に用いていた。蘇州の錦がはるかに北方をまわり、海をわたり、樺太をつたい、蝦夷地に入り、ついには江戸や上方に入るという経路をとっていたのである。105-106p

★「無名の師」という漢語がある。理由もなく他国を侵略する戦争行為をいう。ロシアはその領土拡張にあたって無名の師を出さない、というのである。176p

★松前藩では、アイヌ人が和人の言葉を使えば罰を加えるという。使うという以前に、おぼえさせないようにしているのである。和語には和人社会の文化、産業技術が充填されているのだが、言葉という縄梯子をつたってそういう文化へ昇ってゆくことをふせぐ一方、外界からの隠密などが潜入したしたときに、蝦夷の惨状を訴えないようにもしているのである。……まことに獣類のごとき境界なり。と徳内はいうが、松前藩は武力を背景とした政策ををもって、蝦夷をその段階にとどめているのである。307p

★嘉兵衛は、好奇心がつよかった。あるいは好奇心が強いために町船(商船)の船頭になったともいえるし、とに蝦夷地をめざしたのも、そういえるであろう。
 「数寄(すき、数寄、好)という室町時代の堺の町人や武将のあいだで流行したことばが、好奇心ということと半分ばかり重なるようである。……右のような損得とからんだ素朴な好奇心が、その暮らしを繰りかえすうちに不意に発酵してくる部分が数寄である。
 さらに発酵した数寄が、蒸留して酒精度の強い液体になると、損得という発酵の素材の原形をとどめない本物の数寄になってしまう。……ただ、損得をやや離れた好奇心だけはうごいている。蝦夷地とはなにか、ということである。308-310p

★――なぜ、蝦夷地が好きなのだろう。と、嘉兵衛は自問したことがある。……(強いて言えば)と、嘉兵衛は考えたことがある。極北だからではないか。……そこへ身を移動させることを禁じられたこの国にあっては、ただ密かに想像するしかなく、またその一角に身を置けない以上、極楽や地獄を想像しているのとかわりがない。……「行けないからしあわせなのだ」と、そのとき嘉兵衛はいった。多少のくやしさも、むろんこの逆説の塩味になっている。
 この江戸体制の中で、嘉兵衛がゆくことが可能な極北というのは、蝦夷地だけなのである。358-360p

★松前家にとって、蝦夷地の蝦夷は人間の機能をそろえた家畜であった。働かせるばかりでいっさい庇護を与えず、さらにはかれらが進歩することを阻んでいた。その事実を知られるのが嫌だったんであろう。……この温和な民族が、塩、味噌、醤油すら用いず、真水で煮た気をしているのを見たとき、嘉兵衛は涙がこぼれた。372p

★アッケシでの蝦夷との接触は、嘉兵衛の精神に大きなふくらみや変化あるいは影響をあたえた。かれはは帰路、日本海を帆走しながら、夜も昼も蝦夷のことが脳裏から離れなかった。蝦夷の老人が笑ったときの表情が神のように澄んでいると思ったし、またかれらが自然に密着して、俗欲をもたないという点では、本土のたとえばどういう高僧でも達せられないものを、平然と身にそなえていることに嘉兵衛は驚かされた。
 さらには、いやおうなしに、大きな地球というものを思わせられた。日本の本土という社会にあくせくして、小沼の小魚のようにこれ以外に棲処(すみか)はない、と思っている矮小な心が、蝦夷人とその文化という異質なものを見るうちに、大きくなってゆくような気がした。言いかえれば、自分や本土人たちが要するに地球の上の「人」に過ぎないのだということを一挙に頓悟させられてしまった感じでもあった。大名や武士、あるいは北風家といってもなんであろう、地球の上の人にすぎないのではないか、ということであった。379-380p

★日本という言葉がはじめて文献にあらわれるのは『随書』である。つまりは元来、対外関係においてつくられ、古いころは庶民のあいだではほとんどつかわれず、ようやく豊臣政権ころからしきりに使われるようになった。江戸期に入ると、井原西鶴が勃興期の商業社会の沸騰をえがいた小説に『日本永大蔵』という題をつけたように「天下」より「日本」が庶民の世界でふつうに用いられるようになった。397-398p

★寛政十一年正月、「天下人」である将軍が東蝦夷地を直轄領にしたのは「天下」の拡大であり、劃期的な大事態といっていい。399p

2020年8月11日火曜日

『菜の花の沖』(二)

 梅雨の大雨が過ぎれば連日の真夏日が続く。きちんとした生活をしないとこの夏の暑さに負けそうになる。午前中に一度は歩いてスーパーに出かけるが午後からは暑さを避けて家で本を読むことが多い。今は『菜の花の沖』(四)を読んでいる。図書館の書架を見るとその1巻から3巻までが書架にない。この本を読む人がいると思って4巻目を借りる。とはいってもまだ3巻目も借りている。

 これからお盆の塔婆を受け取りにお寺へ向かう。お墓参りは明日!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 『菜の花の沖』(二)(司馬遼太郎 文藝春秋、2012年第10刷)もいつものごとく気になる箇所をメモしよう。

★帆の大小を何反という。千石船なら二十六反帆などというが、この反はもと端の文字をあてた。
 筵一枚の幅を――縦につないだ枚数如何にかかわらず――一端と呼ぶ。
ということを、絵画資料や文献資料のよみ方から発見したのは、和船研究家の石井謙治氏である。ムシロを縦に一列につないだものが一端で、それが横につながれた数をもって何端帆という(帆の長さは関係がない)。26p

★金毘羅さんは、本来、山なのである。象頭山ともいわれる秀麗なすがたの山で、海上を走っている航海者の側からいえば類なく素晴らしい目じるしになる。その山を見て自分の船の位置を教えてもらい、また他海域から帰ってくると、ふたたびその山を見て、こんどの航海もぶじだったことをよろこびあう。自然、山を崇敬するようになる。40p

★鰹も、干物にされた。この魚肉は干せば硬くなるため、古くは堅魚とよびやがてカツオという音に変化した。後世、生魚を鰹と言い、干したものを鰹干し(鰹節)とよんで分けたが、上代では二義が一語で済まされていて、カツオといっただけですでに干したものを指した。100p

★嘉兵衛は材木を筏にして太平洋に浮かばせるときいたとき、とっさに(死ぬような目に遭ってみよう)と、覚悟した。130p

★「わしらは、武士ではない」嘉兵衛は、嘉蔵らに口ぐせのようにいってきた。かれがいう場合、武士とは、有閑階級をさす。あるいは空論の徒をさし、賄賂(まいない)役人という意味もふくみ、また責任のがれしか考えていない身分渡世者をさす。140p

★希望といえば、頭の中では持っていた。
 この船に乗ってはるか兵庫まで帰るというだけでなく――ひとがきけば気が狂ったかと思うかもしれないが――この船によって日本海を乗り切り、蝦夷地までゆきたいということであった。207p

★船乗りは水という言葉を忌んでいる。仏事の場合、仏に供える水を閼伽(あか)というが、「水」を忌み、仏事の言葉を借用し、船底の溜まり水のことをあか、といい、ふつう淦という国字をあてる。228p

★徳というのは、本来の意味でいえば、儒教の徳目である仁儀礼智信を総称するものであろう。235p

★「トクをする」という言葉は、室町期以来の徳の誤用がそのまま生きているといっていい。トクは得の文字より徳の文字をあてるべきであろう。236p

★宇竜は『出雲風土記』に宇礼保と書かれているから、竜をリュウという俗音でよまず、リョウという漢音でよむのが正しいらしい。245p

★この時代の日本社会の上下をつらぬいている精神は、意地悪というものであった。
 上の者が新入りの下の者を陰湿にいじめるという抜きがたい文化は、たとえば人種的に似た民族である中国にはあまりなさそうで、「意地悪・いじめる・いびる」といった漢字・漢語も存在しないようである。249p

★嘉兵衛は都志新在家の若衆宿でいじめぬかれてきただけに、炊(かしき)にこの種のそぶりを見せる者に対してゆるせず、時に血相を変えて叱った。「みな、人ぞ」というのが、こういう場合の嘉兵衛の一つせりふであった。人は世にうまれて愉快に暮らしてゆくべきなのに、人が人に対して鬼になるのはゆるせぬ、というのである。250p

★……「艫を廻す」という。……――口さきばかりでは艫は廻らんぞ。という陸(おか)の言葉がうまれた。転じて、あまりうまく艫をまわすのを、悪達者、小ざかしい、という人格批評のことばになった。――あいつは艫廻しのうまいやつで、ゆだんがならぬ。などという。嘉兵衛のこの時代は、大船は櫨櫂(ろかい)をもたず、風帆のみでうごくために、艫を廻すのは附舟のしごとだった。嘉兵衛たちは、船上で見ていればいい。275p

★江戸期には浦請けとよばれる税制をもつ大名もあって、漁獲高から一定の率で納税させたりもしたが、海産物などたかが知れていた。このことで在所(農村)が浦方(漁村)を馬鹿にするふうがうまれ、いまも意識のどこかに根づよくのこっている地方もある。422p(あとがき)

★普遍性の高い文化の形成には、もっと多種類の文化――たとえば牧畜民や狩猟性の文化、さらには古代の商業に従事するひとびとの文化――が混在したほうがいいと思うが、弥生式農耕の渡来以後、日本文化にあっては、大きくわけて在と浦の二種類しかなかった。426p(あとがき)

★その都志村という村社会に、在と浦というたがいに異質な生産文化・風習・儀礼が併立つし、嵌入しあっていたということが、嘉兵衛という人間の成立のためには大きかった。427p(あとがき)

2020年8月1日土曜日

『菜の花の沖』(一)

 長い梅雨もやっとあけて本格的な夏がやってきた。8月になった。今年はコロナでなんだか気分的にも無駄な月日を過ごしている気がする。だが、75年前の日本はコロナ禍とは比べられないほど悲惨な日々であったに違いない。父母たちの生きたあの時代を思うとき、今、コロナで思い通りにならない日々を悔やんではいけない。

 『菜の花の沖』と並行して『老人と海』や半藤一利の本を読んでいる。この3冊は全く関係ない本と思える。だが、『老人と海』を読んでいると老人が大物の魚と格闘する心理描写は『菜の花の沖』の嘉兵衛の心理と重なる部分がある。『菜の花の沖』の著者である司馬遼太郎は歴史小説をたくさん書いている。半藤一利の『歴史に「何を」学ぶのか』を読んでいると司馬遼太郎の話題もある。
 
 暑い日に家でおとなしく本を読んでいる。ただ1冊だけの本よりも気分転換を兼ねて3冊を同時に読む。以下は『菜の花の沖』(一)(司馬遼太郎 文藝春秋、2012年第10刷)の気になる箇所の抜粋から。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★義叔父の喜十郎は都志本村の弥吉を訪ねて名前を相談し、菊弥(キッキャ)をやめて嘉兵衛と称することに決めた。……「これで嘉兵衛になった」
 喜十郎が、剃刀の柄で嘉兵衛の新品の月代を一つたたいていった。27p

★(海とは、こうもうつくしいものか)
 沿岸漁業しか知らない嘉兵衛が、朝を船上でむかえたのは、はじめてであった。この光景が嘉兵衛を瞬時ながら詩人にしてしまい、生涯忘れられぬものになった。70p

★(この子は村を抜ける気でいる)
 おらくならずともそのことはわかる。柄杓は「抜け参り」のしるしであり、暗に抜け参りという名目をたてて、村のたれにも言わずに掻き消えてしまうつもりであろう。193p

★南海道(紀州、淡路、四国)は、ことばがきたないことで知られている。このことは、古代以来、そのあたりは南方的無階級意識がつづき、それが土壌になって、その後どういう階級社会がその上に載っても、原文化の体質が消滅しなかったであろうことと無縁ではあるまい。東国のように、上部階級の者に畏れ入るところが薄いため、敬語が十分には発達しなかったのである。……が、嘉兵衛の父弥吉は水呑百姓のくせに、余人に対しては軽い敬語ながらつかっていて、物腰も丁寧だった。227p

★潮汐や風、船舶類の構造とおなじように、嘉兵衛は自分の心までを客観化してしまうところがあった。すくなくとも自分のすべてについて、自分の目からみても他人の目からみてもほぼ誤差がないところまで自分を鍛錬しようとしている。つまり正直ということ出会った。しかし不正直なものほど楽なものはなく、正直ほど日常の鍛錬と勇気と自律の要るものはないとおもいはじめていた。230p

★「くだり物」というのは貴重なもの、上等なものという語感で、明治後の舶来品というイメージに相応していた。これに対し関東の地のものは「くだらない」としていやしまれた。これらの「くだりもの」が、やがて菱垣線の発達とともに大いに上方から運ばれることになる。305p

★家康と徳川官僚はその政治原理において成功した。前時代のような西洋式の帆をもった大船を野放しにしておけば、徳川幕府は二百六十五年もの長い寿命をもたなかったにちがいない。310p

★嘉兵衛がこの世でなにがきらいといっても、侍ほど好かぬものはなかった。(天はなぜかれらに安逸と空威張りをゆるしているのか)ということは、嘉兵衛のこどものころから疑問であった。……戦国末は兵農未分離で、農民が武器をもてば士であり、富裕な農民は郎党を率いる騎乗の士になったし、抜きん出れば侍大将にも大名にもなれた。
 豊臣期の刀狩によって兵農は分離され、江戸期にそれが身分として固定された。……(働かずに威張ってめしを食う連中)と、嘉兵衛はおもっている。340-341p

★このため同心は、嘉兵衛の名も、生国、寄留先、職も聞かずに取り逃がしてしまった。この経験は。嘉兵衛の生涯に影響した。
 こちらが裸の人間としての尊厳をもちさえすれば、相手も身分制や立場の衣装を脱いで裸にならざるをえないという人間関係の初等力学のようなものが、嘉兵衛の腑のなかに棲みついた。――むろん、相手をも、裸の人間として頭の髪から足指の爪先まで尊重するのだ。ということは後年、嘉兵衛にわかってくる。348p

★武力を持った豊臣・徳川氏が、ひとたび天下をにぎると、非武装階級をつくり、武装階級に奉仕させた。それだけのことで、世の制度はあくまでも武装階級がこしらえた仮りもので、万古不易のものではない。すくなくとも、そう思わねば、嘉兵衛のように、内心、佶屈としたものをもっている男には、生きてゆけないのである。349p

★「真艫に帆にあたっている」と、たれもがうれしそうにいった。船乗り冥加というもので、こういう場合は口々に声を出して祝いあうのである。マトモな話ではないとか、マトモな人間とか、あるいはマトモにぶつかってしまったとかいう陸の言葉はこういう船乗り言葉からきたのであろう。380p

★船中の武者とは、船乗りのことである。384p

★いじめる、という隠微な排他感覚から出たことばは、日本独自の秩序文化に根ざしたことばというべきで、たとえば日本語が古い時代に多量に借用した漢語にもなく、現代中国語にも なさそうである。英語やフランス語にもないのではないか。400p(あとがき)

2020年7月22日水曜日

『峠』(下)

 昨日の日中から昨夜にかけて、今季一番と思えるほどの暑さだった。あと1週間もすれば梅雨も明けて本格的な暑さになるだろう。年を取るにつれてますます季節に敏感になってゆく。
地植えしたガーベラが咲いた

 以下は以前に読んだ『峠』(下)(司馬遼太郎 新潮社、平成十九年第11刷)の気になる箇所の抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「本朝の土地に住む者、ひとりとして王臣でない者はない」
 これが、この時勢に流行しているあたらしい統一思想であった。現実の日本歴史にあってはそうではない。天子はあくまでもこの国の実権的王者でなく、日本最高の神聖血液の象徴であり、神聖血液の保持者であるがゆえに尊宗され、それがゆえに戦国乱世のときでも天子を倒す者がなかった。実権者でないためにそれが必要でなかったのである。63-64p

★「ただし医者は藪医者でも医者として通るが、絵師には藪というものはないよ」112p

★――輪王寺宮を迎えたてまつる。ということも、企図に含まれていた。この企図は偶然なものでなく、徳川幕府成立当時からのいわば秘密政略のようなものであった。
 幕府の創始者家康は、三代将軍家光によって日光東照宮にまつられ、神号を東照大権現とされた。……天皇家の祖は天照大神であり、徳川将軍家の祖である家康は東照大権現であり、名称を対比させている。135p

★継之助が古今の人物のなかでたれにもまして敬慕していたのは王陽明であった。王陽明は元来が文吏であり、一国の首相でありながら、必要があれば国軍をひきい各地に転戦し、常に勝ち、とうじのいかなる武将よりもすぐれた将軍の能力を発揮した。継之助はそういう王陽明が好きであった。好きである以上、――戦はしてはならんでや。は、絶対的否定のことばではない。――政治的に損である、ということであった。193p

★この殿中の評定は、ながながとつづいた。(ちょうど小田原評定だ)と、継之助はおもった。天正の末年、小田原城にこもる北条氏の重臣たちが、秀吉に降伏すべきかどうかをながながと評定してついに結論を得なかった有名な歴史上の事件のことである。196p

★継之助の演説は、この当時の通例としてほとんど漢文のよみくだしに近い。
「瓦全(がぜん)は、意気ある男子の恥ずるところ」
 という。瓦としてのいのちを全くするというのは意気の男子のとる道ではない、と言い、「よろしく公論を百年の後に俟(ま)って玉砕せんのみ」という。いずれが正しいか、その論議がおちつくのは百年のちでなければならない。298p

★――考えてもみよ。と、継之助はおもう。いまこの大変動期にあたり、人間なる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩をわすれ、男子の道をわすれ、言うべきことを言わなかったらならば、後世はどうなるであろう。
――それが日本男子か。とおもうにちがいない。……さらにまた。人間とは何か、ということを、時勢に驕った官軍どもに知らしめてやらねばならないと考えている。驕りたかぶったあげく、相手を虫けらのように思うに至っている官軍や新政府の連中に、いじめぬかれた虫けらというものが、どのような性根をもち、どのような力を発揮するものかをとくと思い知らしめてやらねばならない。――必要なことだ。と、継之助は考えた。302p

★日本の慣習として、文章というものは漢文もしくは文語体にかぎられてきたが、これが日本の進歩を阻害しているとして「公文書は口語を用いた方がいい」という先覚的な提案をした最初のひとは、前島密である。前島は越後高田藩士で、江戸や京で医学をおさめた。のち明治政府につかえ、わが国郵便制度の創始者になったことは知られているが、かれは慶応二年、徳川慶喜に建白書を書き、右の口語採用の件を上申したが、幕政多端で容れられなかった。392p

★人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教人である。この二つが、幕末人をつくりだしている。幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にはうまれなかった。サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではなく、類型のない美的人間ということで世界がめずらしがったのであろう。また明治期のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルサに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものを生み出したことを思いなおして、かろうじて自信を回復しようとするのもそれであろう。私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。それを考えることが目的でこれを書いた。
 その典型を越後長岡藩の非門閥家老河合継之助にもとめたことは、書き終えてからもまちがっていなかったとひそかに自負している。433-434p(あとがき)

2020年7月8日水曜日

『峠』(中)

  パソコンの調子がよくない。恐る恐るパソコンに触るという感じで、起動もままならない。ブログもいつまでアップできるかそれさえ怪しい。あまりにもパソコンに振り回される生活は体に良くない。時に、パソコンから目をそらすが、なぜか気になる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は先日読んだ『峠』(中)(司馬遼太郎 新潮社、平成十九年第十二刷)からの抜粋。

★江戸時代というのは、金銀ふたつながらの本位で、いずれもを尊ぶ。……江戸では「千両役者」という。年俸で金千両をとっているスターのことをそういうのだが、これは銀本位の大坂では通用しない。……また角力(すもう)の世界でもそうである。角力の階級で「十両」という番付がある。年俸を小判で十両とっている者をいうのだが、金小判が本意でない大坂ではこれはいわない。113p

★この幕府のもっとも重要な大名統御の政策を、数年前、幕府自らが捨ててしまったのである。捨てたのは、井伊直弼のあと幕政を担当した改革好きの松平春嶽であった。理由は、「外国の侵略にそなえねばならぬときに、大名を疲弊させるこの法はよくない」というものであり、このため諸大名の家族は江戸を引きあげ、国もとへ帰り、参勤交代も事実上廃止されたのである。119-120p

★攘夷、外国をうちはらうこと。この理念は嘉永六年のペリー来航以来、天下在野の最高の正義であった。幕府当局は列強の威圧で日本の一部の港をひらき、その港を中心に外国貿易をはじめたが、この幕府の態度に対し天下の志士はこぞって反対し、攘夷の気勢をあげた。幕府の屋台骨をゆさぶるような日本史上最大のエネルギーであったといっていい。234p

★「天子は、神である」というのが、日本人の土俗信仰である。日本語でいう「神」というのは「清浄なるもの極致」という意味であり、切支丹の神や、讃岐の金毘羅さんのような仏教神や、天神さんのような、菅原道真の怨霊を祀ったような神とは、成立がちがっている。それらの神は、なんらかの力をもっている。
 日本古来の原始神は、ほとんど力をもたない。人に金もうけの運をもたらしてくれないし、人の病気をなおしてくれず、長寿をもたらしてくれるわけでもない。ただ浄げに存在し、ただ人の尊崇をうけるだけである。(そういうものだ)と継之助は理解している。281-282p

★もし戦国の世ならば慶喜とその徳川方は必ずしも負けはしなかったであろう。しかしこの時代は思想の時代であった。つまり尊王である。……であるのに慶喜は朝敵にさせられた。しかも慶喜は尊王思想の総本山ともいうべき水戸家の出身なのである。(逃げよう)と慶喜が思ったのはこのときであろう。慶喜は後世をおそれた。キリスト教ではユダが最大の悪人であるごとく、尊王思想では足利尊氏が最大の悪人であった。慶喜は後世尊氏と並べられることをもっともおそれた。331-332p

★「まあ、おすわり」と、福地は、自分の机のそばに継之助をすわらせた。たれも見たこともない顔つきの男を見とがめる者すらいないのである。
 (亡国のおそろしさだ)とおもった。人間関係の秩序などじつにむなしいもので、大政奉還と鳥羽伏見におけるたった一度の敗戦が三百年の城内の秩序を一朝にしてくずしてしまったのである。敵がくずしたのではなく、幕臣みずからがくずしてしまった。383-383p

★自由と権利というものが西洋の先進文明を成り立たせている基礎であり、政治、法律、社会をはじめ、人間の暮らしのうえでの小さなことがらにいたるまでの基礎思想であり、さらには人間を人間たらしめている大本であるkとにm日本人のたれよりも早く気づいたのは福沢諭吉であろう。416-417p

★福沢がひそかに理想としているのは、たとえば項目風にいえば、身分制の撤廃、言論の自由、信仰の自由、職業選択の自由、商工業を営む場合の自由といったものであろう。自由は権利に裏打ちされている。その権利は国家によって保護されている。それを保障し保護するような国家をつくるkとがこの幕府外交方翻訳掛福沢諭吉の理想なのである。(だから討幕も佐幕もない。福沢の眼中、徳川家も薩長もない。そういう国家をつくる政権であればよいのだ)420p

★「私は世迷いごとのほうですよ」と、継之助も福沢にいった。継之助にとってもっとも大事なのはその世迷いごとであった。福沢は乾ききった理性で世の進運をとらえているが、継之助には情緒性がつよい。情緒を、この継之助は士たる者の美しさとして見、人としてもっとも大事なものとしている。426-427p

★福沢は経済主義こそ人間を幸福にさせる道であると信じ、その経済主義を正義とするたてまえから封建制を否定し、徳川家や諸大名の存在をmう意味であるとし、資本主義こそ文明を開く原動力であるとし、資本主義の前提として自由と権利を強調している。
 継之助は、そこまでゆかない。かれは藩という荷物を背負っているがために、福沢のようにひろがりのある思想の広野に出ようとはせず、出たいともおもわなかった。継之助いとって藩という封建の遺物そのものの大荷物は、けっしてにがにがしいもnがしいものではない。
――藩、すべてが藩。
 というのが、継之助の思想であった。433p

★「射利」というkとばで、この時代の人々は投機のことをいった。継之助にすれば、西洋の会社のごとく藩そのものが投機事業を営もうとするのdえある。434p

★隊ということばを日本語に加えたのは幕末の長州人である。戦士の組織のことをあらわすふるい日本語である「組」という語をつかわず、未使用の漢語のなかから隊という語をさがしだしてきた。騎兵隊、力士隊、報国隊、なんとか隊というようなものをかというようなものを数多く作った。475p

2020年6月22日月曜日

『峠』(上)

 今、読んでいるのは司馬遼太郎の『峠』(中)。これは上・中・下の全3巻がある。この本の前は『項羽と劉邦』全3巻を読んでいた。中国の、それも古代の話で知らない漢字も多々ある。また登場人物も項羽と劉邦以外は初めて聞く名前がほとんどで読むのも大変だった。その点、『峠』は登場人物も日本人が大半なので読みやすさは『項羽と劉邦』とは比べられない。以下は『峠』(上)(司馬遼太郎 新潮社、平成19年12刷)から気になる箇所の抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★鴉は、朝は昇ってゆく朝日にむかってまっしぐらに飛び、夕は、沈んでゆく夕日にむかって目をそらさずに飛ぶ。鳥の種類は幾千幾万あるか知れないが、太陽に向かって飛びうる鳥は、鴉のほかない。
「俺は、そう心掛けている」
 継之助のいう意味は、自分の決めた生涯の大目的(おおめあて)にむかって目をそらさずに翔びつづけようということなのであろう。(112p)

★日本の攘夷思想は夷人をけものであるとし、それゆえに穢れているとするのは、もとはといえばこの牛肉である。夷人は牛の血をのみ肉を啖(くら)う。そういう穢れたる者に神州の地を踏ませぬ、という宗教的感情から出発している。(181-182p)

★継之助の知りたいことは、ただひとつであった。原理であった。……それを知りたい。知るにはさまざまの古いこと、あたらしいこと、新奇なもの、わが好みに逆(そむ)くもの、などに身を挺して触れ合わねばならぬであろう。だから、スイス人の招待を承諾した。(193p )

★「人間には、心のほかに気質というものがある。賢愚は気質によるものだ」
 わからない。
 それを、継之助は懇切に説いてくれた。気質には不正なる気質と正しき気質とがある。気質が正しからざれば物事にとらわれ、たとえば俗欲、物欲にとらわれ、心が曇り、心の適応力が弱まり、ものごとがよく見えなくなる。つまり愚者の心になる。(222p )

★上代の日本人はそのすめらみことの位置を漢訳して天皇とよんだ。日本の天子の位置には宗教性が濃く、たとえば中国の皇帝とはちがっている、と感じたところから、きわめて宗教性のつよいその呼称をえらんだのであろう。
 奈良時代までの天皇は、現実の政治家でもあった。平安時代に入ると、藤原家のような世襲の首相の家が威権を確立し、天皇の政権を代行した。この代行者の歴史が、日本の権力史であった。
 鎌倉期には、武家に移った。天皇は京にあり、日本人の血統の宗家としての神聖権をもつにすぎなかった。以来、足利、織田、豊臣、徳川と権力はつづく。かれらは法律的には天皇家が持つ政権の代務者であったとはいえ、しかしながら現実的には日本の支配者であり、中国や西欧における皇帝とかわらない。(278p)

★家康は死ぬとき――わが屍を西にむかって埋めよ。と命じた。西国大名――長州毛利家と薩摩島津家――に対して関東をまもらん、という意味であった。(281p)

★上代ではいまの北陸道だけでなく、北方の日本海岸すべてを、越とよんだ。……――越人(こしびと)の住む地帯ということであろう。越人とは蝦夷種族のことであり、皮膚の白い、目鼻だちのくっきりした、現在のアイヌ語の古代語のようなものを喋っていたらしい辺境の人種のことである。(356p)

★……河井家は勘定奉行までは昇れる家格なのであった。が、継之助の意志はそうではない。
(人の世は、自分を表現する場なのだ)とおもっていた。(380p)

★「人の一生はみじかいのだ。おのれの好まざることを我慢して下手に地を這いずりまわるよりも、おのれの好むところを磨き、のばす、そのことのほうがはるかに大事だ」(408p)

★継之助は路上に土下座した。土下座し、高梁川の急流をへだてて師匠(注:山田方谷)の小さな姿をふしおがんだ。この諸事、人を容易に尊敬することのない男が、いかに師匠とはいえ土下座したのは生涯で最初で最後であろう。(425-426p)

★「古来、諺がある」
 田舎の三年・京の昼寝――ということわざであった。田舎で三年懸命に学問するよりも京で昼寝しているほうが、はるかに進歩するという。(427p)

★「一隅ヲ照ラス者、コレ国宝」
 継之助は、言った。叡山をひらいて天台宗を創設した伝教大師のことばである。きまじめな小器量者こそ国宝である、というのである。(445p)

★この男(注:継之助)が、幕末の風雲のなかで最初にやった事業は、皮肉なことに藩主の官職をやめさせることであった。皮肉にも、その仕事で腕をみとめられた。(491p)

★日本人がずいぶんの昔から身につけている思考癖は、「真実はつねに二つ以上ある」
というものであった。これは知識人であればあるほどはなはだしい。(496p)

★……無数の矛盾を統一する思想が鎌倉時代にあらわれた。禅であった。
 禅は、それらの諸真実を色(しき、現象)として観(み)、それらの矛盾は「それはそれで存在していい」とし、すべてそれらは最終の大真理である「空(くう)」に参加するための門であるにすぎない、だから意に介する必要はない、とした。(497p)

2020年6月9日火曜日

『項羽と劉邦』(下)

 『項羽と劉邦』(下)(司馬遼太郎 新潮社、昭和63年19刷)を読んだ。以下は気になる箇所の抜粋から。文が長くなった。30数年前は途中で読むのを中断した『項羽と劉邦』全3巻。今回は何とか読み終えることができた。中国の古い言葉がそのまま現代にも息づいている。下巻では「虞美人」や「四面楚歌」など。一度読んだくらいではなかなか理解するのがむつかしい。その意味でも気になる箇所を記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★この作戦は劉邦自身が自分の肉をえさにして項羽という虎を奔命に疲れさせるというもので、餌になっている劉邦のおびえは、当人でなければわからない。劉邦の戦略は――張良ら幕僚たちが立案するとはいえ――自己を弱者であると規定し、その恐怖感情から発想されたものばかりであった。43p

★「人間はな」言ってから、劉邦は言葉をとぎらせた。人が悲しんでいるときに顔をすり寄せてきて、お悲しいことでございましょう、とおっかぶせてくる奴ほどこまった手合いはない、と言いたかった。……「唱だ」唱はこういうときのためにあるのだ、と劉邦はいった。55p

★戦国のころ、合従策(がっしょうさく)を説いた蘇秦、連衡策を説いた張儀などがあらわれ、その雄弁と奇計をもって諸国の王に説き、おもうがままにころがした。この両人以後、この種のけれんに富んだ外交技術を研究する学派を縦横家という。舌一枚で国の方針が左や右にころぶというなどとおい戦国のころの昔ばなしで、こんにちに通用するはずがない。73p

★酈生は、烹られた。斉王も田横も戦わずして逃げ、斉は韓信によって占領された。86p

★知識人のことを、「生」と尊称する。87p

★策士は、みずから王や帝になれないし、なろうともしない。この学派のひとびとは王や帝になれそうな素材をさがし出し、その者に食い入り、その者のために表裏の工作をし、権変のかぎりをつくしてその者を広大な領土の支配者に仕立てあげるという政治の魔術師ことである。88p

★他の者に対しては、「以後、虞姫(ぐき)を美人とよべ」とふれを出した。美人とはよき人という意味で男につかわれる場合もあり、この時代はまだ性別として不確定なことばで、この場合は項羽の後宮の一階級ということであったろう。ただし項羽には正室はいなかった。138p

 注・この件を読んで虞美人草という言葉を思い出す。これはヒナゲシの別名だそうだが、虞美人が自決したときの血が、この花になったとされる伝説がある、と辞書にある。虞美人草の由来が虞姫にあったと『項羽と劉邦』を読んで初めて知る。

★彭越には後日の運命がある。かれは高祖(劉邦)によって梁王になったが。高祖の妻呂公に嫌われ、謀反の疑いをうけて誅殺された。その肉は塩漬けにされ、ハムのように切りきざまれて、諸侯に洩れなく贈られた。憎しみを共にせよ、という寓意であったが、この塩漬けとそれを啖(くら)うという形式にはこの大陸に食人の習俗があったことを想像させる。151-152p

★刑余ノ罪人ヲシテ項羽ヲ撃滅セシメシ、という刑余者とは、入墨(鯨=げい)をさす。漢軍の陣中にはかつて項羽を裏切っていま劉邦の将である英布(えいふ)がいる。英布は入墨者であるため鯨布(げいふ)とよばれているのだが、このあたりの意味は「鯨布にでもやらせるわい」ということであろうか。165p

★食人之食者死人之事(人ノ食ヲ食セン者ハ人ノ事ニ死ス)。というもので、はるかな後世、日本の静岡県興津の清見寺境内にこの文句を刻んだ碑がのこっている。……記念碑の碑面に、かつての旧幕艦隊の長であった榎本武揚が、旧幕の壮士の死が義によるものであることを一言であらわすために韓信が引用した右の俚諺を刻みつけた。咸臨丸の死者たちの場合の「人」とは徳川将軍家のことである。食を分けあたえられた者はその人のために死すべきものだ、という「人」とは韓信の場合、劉邦であった。劉邦のためならば死なねばならない、と韓信はいう。この大陸の戦国時代がつくりあげた「侠」という激越な倫理はこのみじかいことばのなかで凝縮している。200p

★劉邦が項羽に抱きついてその心臓を刺しつらぬくか、項羽が一刀をもって劉邦の首を刎ね落とすか、どちらかしかない。……項羽は輿に乗って、山道を降りた。……野に降りると、急に士卒たちの様子が萎えて見えた。いままで比較すべき人間を見ないために気づかなかったが、野良で働いている農夫たとくらべても、顔は黄ばみ、足どりは弱々しかった。……項羽の最大の失敗は兵を飢えさせたことであった。かれらの多くは流民あがりであり、食をもとめて故郷を流離するうちに項羽の兵になっただけで、食が尽きれば他へ移っていく習性をもっていた。……かれ(項羽)は楚軍の士卒の中にただよいはじめている死臭に気づかない。266-268p

★敗れれば敗れるほど劉邦の兵がふえるというのは、張良などの苦心があったとはいえ、劉邦の不思議な徳をいうほかはない。277p

★項羽はあくまでの楚人であったということである。
中原からは多分に未開、異質の印象をうけている楚の地のひとびとは、古代の部族国家時代の慣習や道徳習慣、さらには古代的な閉鎖性をその気質や思考法のなかに継承しているのか、血族を尊ぶのである。……が、中原はすでに広域社会になってからの歴史がふるく、血族中心主義だけでは社会も政治もあるいは軍事もうまくゆかないことを知りすぎていた。劉邦などはむしろ血縁の者に生理的な嫌悪を感じているのではないかと思われるほどであり、心から他の才質や勇気を尊び、さらには他人の誠実を信じた。項羽はその逆であったために、かれの唯一の謀臣であった范増さえその忠誠心を猜疑されて去ったのである。289p

★義という文字は、解字からいえば羊と我を複合させて作られたとされる。羊はヒツジから転じて美しいという意味をもつ。羊・我は、「我を美しくする」ということであろう。古義では「人が美しく舞う姿」をさしたともいわれるが、要するに人情という我を殺して倫理的な美を遂げる――命がけのかっこうよさ――といということを言い、この秦末の乱世では、庶民のはしばしまでこの言葉を口にした。290p

★この「義」で結ばれたきずなは、それぞれのあるじの劉邦や項羽といえども嘴(くちばし)を容れることができないほどに、個人間の峻厳な倫理なのである。292p

★張良はその無欲のために漢帝国成立後の功臣や権臣の没落からまぬがれ、すべてのひとびとから敬愛された。そういう留侯張良の家でさえ二代はつづかなかった。張良の死後、その子、不疑が不敬罪に問われ、封地を没収された。305p

★侍女たちは彼女を「虞美人」とよんでいる。生殖する以外に人としてのなんの機能(はたらき)も禁じられている虞姫に対してこれを美人と敬称することはあまりにもその存在の本質を言い当てすぎているようではあったが、しかしこの敬称は容姿をさすのではなく、後宮の女の階級名であった。美人は正夫人をのぞいては最高の位置にあり、漢代になると地方長官の食禄であるところの二千石の冷遇をうけ、収入もその程度の実質をもつ。320p

★楚の国は言語が中原と異なっているだけでなく、音律もちがっている。その音律は悲しく、ときにむせぶようであり、ときに怨ずるようで、それを聴けばたれの耳にも楚歌であることがわかる。しかも四面のごとく楚歌であった。328p

★――天が楚王項羽を亡ぼしたのだ。……戦国末期からこの大陸の文明にあっては、ひとびとは歴史にどう語り継がれるかということで現世での言動を意識して規制する風が出てきている。項羽もまたそれを意識したのである。337p

★項羽の体が、地ひびびきをたてて地にたおれた。……項羽の死骸のかけらを獲ることによって諸侯に封じられた者の名前がのこっている。……以後、烏のほとりのひとびとは、人間の欲望のすさまじさについても物語ることになる。……晩年、かれは(司馬遷)は『史記』を書くにあたって、その諸侯たちの名をさり毉毉げなく書きとどめ、そのことによって人間の欲望という課題についての饒舌を節約した。
 さらには五人の名とかれらが栄達した職名を記すことで、漢楚の戦いというものの本質のひときれを象徴してみせたかのようでもあった。……この愚劣な五個の名前の男たちに対し、劉邦は約束どおりの恩賞をあたえた。……項羽の死は、紀元前二〇二年である。340-341p

 注:五個の名前は項羽の死骸のかけらを獲ることによって諸侯に封じられた者である。5人の諸侯は楊喜(赤泉候)、王翳(杜衍侯)、楊武(呉防侯)、呂勝(浧陽侯)、呂馬童(中水侯爵)だった。

★日本に水田稲作が入ってきた早々か、あるいはそれより少し前の時代が、項羽と劉邦の時代である。春秋・戦国という農業生産力の騰がった時代をへて、中国古代文明が、形而上的な諸思想をふくめて熟成しきったころといえる。……中国史は、ふしぎなところがある。後代のほうが文化的の均一性が高くなるのは当然であるとして知的好奇心が衰弱することである。後漢の末ころからいわゆるアジア的停頓がはじまり、その停頓が、驚嘆すべきことに、近代までのながい歴史のなかに居すわりすづける。が、いわゆる先秦時代からこの時期までの中国は、べつのひとびとによる社会であったかと思えるほどにいきいきしている。344-345p

★……その首領も五千人の食を保証しかねるとなると、首領は四方を探し、五万人の食を保証する者のもとに流民ごとなだれこみ、その麾下に入る。ついには百万人の食を保証する者が最大の勢力を持つことになるのだが、こういう種類の存在を中国では英雄という。日本ではこの定義のように正札のついた英雄はかつて存在したことがない。日本は降雨量が多く、山野に水が涸れることがまれで、たとえ飢饉があっても狭い地域にかぎられ、大陸全土が流民を載せて渦をまくような中国的現象というのはかつておこったことがない。(あとがき)347p

★あえて一息に要約するなら『項羽と劉邦』は、人望とはなにかをめぐる明晰な考察の集大成なのである。(解説 谷沢栄一)362p


2020年5月25日月曜日

桑原隲蔵(じつぞう)

 先日の『項羽と劉邦』(中)に井上靖が書いている桑原隲蔵(じつぞう)はブログに取り上げた。だが、司馬遼太郎の桑原の詳細は取り上げていない。司馬遼太郎は『項羽と劉邦』(上・中・下)3巻のどこかに桑原隲蔵の中国における人肉の風を書いている。これは本を読んだので確かだ。だが、何巻の何頁に書いてあるのか付箋を貼らずにいたためはっきりしない。それを確認すべく『項羽と劉邦』3巻から「桑原隲蔵」を探し始める。文庫本であっても1巻が350頁近くある。それを「桑原、桑原、……」、と目で追っていく。一昨日は探せずじまい。昨日もまた探すと下巻に掲載があった。これで一安心。

 下巻はまだブログにアップしていない。アップしていなくても付箋を貼っていなかったので探し出して幸いだ。その個所を記そう。

 ★彭越には後日の運命がある。かれは高祖(劉邦)によって梁王になったが、高祖の妻呂公(りょこう)に嫌われ、謀反のうたがいをうけて誅殺された。その肉は塩漬けにされ、ハムのように切りきざまれて、諸侯に洩れなく贈られた。憎しみを共にせよ、という寓意であったが、この塩漬けとそれを啖(くら)うという形式にはこの大陸に食人の習俗があったことを想像させる。大正十三年、桑原隲蔵博士が史学上の立場からこの大陸における食人習俗(カニバリズム)を論考しているが、いずれにせよ彭越の場合、その末路は食われてしまう。この滑稽とも悲痛とも言いようのない終局によって、かれの人間と人生そのものが痛烈な演劇にされてしまった。(『項羽と劉邦』下巻151-152p)

 人の作品を取り上げたり引用するにはいい加減ではいけない。桑原隲蔵は忘れられない人になった。桑原、と電子辞書で調べるとその子息は桑原武夫だった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年5月23日土曜日

『項羽と劉邦』(中)

 『項羽と劉邦』(中)(司馬遼太郎 新潮社、昭和63年19刷)を読んだ。このなかに「中国はすでに秦漢以前から比類ない大文明を築いた。しかし食人の風があった。とくに飢饉や戦乱にあっては子を易(か)えあって食い、あるいは市に商品として人肉が出た」(80p)の件がある。中国における「食人の風」だ。これは桑原隲蔵(じつぞう)の論文がもとになっている。

 以下は今、読んでいる井上靖の本から。「私は先生の論文の中で、東西交渉史関係のものばかりを拾って行くうちに、どうしたものか、『支那人の食人肉風習』という論文に小説家的な食指を動かし、それを小説の書き出しの部分に使わせていただく結果になった。その小説には長安の郊外の市場で、裸身の女を売っているところがあるが、桑原先生が知ったらさぞ苦笑されることであろうと思う。……他には『敦煌』の場合のようなことはないが、中国を舞台にした歴史小説を書く時は、いつも桑原先生の諸論文を、辞書替わりに使わせていただいている。このこともまた先生は苦笑されることことであろう」。(『厯小説の周囲』「桑原隲蔵先生と私」150-151p) 

 日本における小説の大家2人がともに桑原隲蔵の論文を参考にして小説を書いているとは驚き。『敦煌』を読んだ際、市場で女性を売っている場面がある。まさにこれが人肉になるとは……。以下は『項羽と劉邦』(中)から気になる箇所の抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
 
★「沛公(劉邦)はまれにみる長者だ」と、たれもがいう。……この大陸でいうところの徳という説明しがたいものものを人格化したのが長者であり、劉邦にはそういうものがあった。6-7p

★張良というこの若者はのちに卓越した作戦家の名をうたわれるにいたる。……この時期、始皇帝自身の側近をのぞいては、天下で張良ほど始皇帝の動静を知っていた者はいなかったかもしれない。20p

★張良が下邳(かひ)時代、かくまって命をたすけた旅のお尋ね者とはこの項伯であった。項伯はこの恩を忘れず、のち張良に恩返しすることによって、劉邦までが一命を拾うというひどく劇的な結果の因をつくる。この時代の侠の心、習慣、紐帯(じゅうたい)を考えると、侠の精神そのものが劇的な因子をもつものだといってよく、一面、張良の生涯をいろどる華やぎそのものも、侠という異常な倫理によるものであったかと思える。25p

★劉邦の人間について、「生まれたままの中国人」という含蓄に富んだ表現を、古くは内藤湖南博士がつかい、近くは貝塚茂樹博士がつかっている。……中国の長い歴史のなかで無名の農民から身をおこして王朝を建設したのは、劉邦以外にない。……劉邦という男は……、この大陸の土俗の中から生まれ、土俗という有機質を、育ちのよさや教養で損ねたり失ったりすることなく身につけ、文字どおり裸のまま乱世の世間に出た。47p

★この関中の戦場における張良ほど、非戦闘員に対しては慰撫を、軍人に対しては打撃をという両面を徹底的に使い分けた軍略家はいなかった。この方法が、後世の範になった、後世、この大陸で革命を成功させようとする多くの者が、この方法をとった。69-70p

★「小僧と(項羽)」と、すでに席にいない項羽をののしった。世は劉邦のものになるだろう、連中(項羽の血族・幹部)はやがてことごとく、劉邦の虜になる、思いかえせば、小僧は所詮は小僧に過ぎなかったのだ、といった。122p

★漢中とは、そこを流れている漢水という河の名から出た地名らしいが、その地域は単に漢ともよばれることのほうが多かった。あらたに漢中王になった劉邦に対し、ひとびとは漢王とよんだ。この故秦の流刑地の呼称が、後代、この大陸のすべてに対する呼称になり、またこの大陸で共通の文化をもつ民族に対する呼称にとして二十世紀にいたってもなおよばれるようになろうとは、この当時、韓信もその女も、あるいは劉邦自身、もしくはその謀臣の張良でさえ夢にも予想できなかった。146p

★すでに十三人が首を刎ねられ、つぎは韓信というときに、夏侯嬰はひとめ見て、(こいつは尋常の人間ではない)とおもい、劉邦のもとに駆け寄り、――主上よ。あなたは天下をお望みにならないのですか。と、ささやいた。……劉邦はあわてて処刑役人を制し、韓信の縄を解かせた。154p

★韓信は、話すうちに劉邦といういう男がひどく新鮮にみえてきた。当初、どろがあいまいに人の形らしい恰好をなしてすわっているような印象でもあったが、韓信が話おわったときどろがいきなり人になった。劉邦は右こぶしを挙げ、よろこびのあまりかたわらの小机を打った。――将軍よ、わたしはあなたを得ることが晩すぎた。と、叫んだ。劉邦はどうやら韓信によってはじめて自分を知ったようでもある。すくなくともあらたな自分をつくる方向を得、さらには明日から行動すべきすべての方針と日程まで手に入れた。171-172p

★関中は、通常、地名と秦とよばれる。
項羽が三分して亡秦の将だった三人の王(章邯、司馬欣、董翳)にあたえたためこの地域名は三秦とよばれるようになった。174p

★関中の農民がすべて劉邦に味方したということは、劉邦の戦いにとって戦略以前の大政略をなしていた。このやり方は後世のどの時代の革命軍にもひきつがれるようになった。175p

★劉邦は、国名を創った。漢と、よんだ。漢中王であったときその地域呼称にすぎなかった漢を、そのまま関中にまで持ってきたのである。177p

★伊勢神宮は古代権力が多分に人工的につくった廟所だが、まず日の神がまつられた。ついで後代、いつのほどか同格の農業神があわせてまつられた。それが、稷(しょく)やがて内宮・外宮を律令国家の社稷とした。律令日本は仏教を輸入しただけでなく、国家の社稷も輸入したといっていい。178p

★「殺されたくなければそむく(厥の厂がない文字)な」というのが、項羽の政治学に書かれているたった一行の鉄則だった。……このため、項羽の戦いは戦闘より虐殺のほうで多忙だった。185-186p

★項羽と劉邦――楚と漢――の血みどろな激闘はこの洛陽の三月からはじまったといっていい。196p

★まったくこの時期――彭城を落とすまで――の劉邦と漢軍は、奇跡という彩雲に乗って東進しているようなものであった。222p

★時代は、急湍(きゅうたん)のように流れている。日ごとに歴史が変わった。項梁の楚軍も変化してゆき、総帥の項梁が定陶で戦死したあと、楚軍のなかで多少の権力闘争があって、結局は項梁のおいの項羽が血脈相続のかたちで相続した。250p

★(張良もまた、おもしろい)と、劉邦はおもう。あの年中風邪ばかりひいている男は、欲得を離れて劉邦を補佐し、劉邦に天下をとらせることだけを楽しみにしている。私心がないために物もよく見え、さらには劉邦に直諫(ちょっかん)し、その浮きあがった足に抱きついて地につけさせてくれた。(人はさまざまだ)劉邦はおもった。337p

2020年5月12日火曜日

『項羽と劉邦』(上)

 『項羽と劉邦』は上・中・下の3巻ある。今日中には3巻目を読み終えそうだ。天下をおさめるものは人民に「食」を与えねばならない。そのために版図を広げる略奪がおこる。これが天下人の地位の奪い合いになり、これにそむくものは死へと追いやられる。死に至らしめるやり方はこの3巻の本を読んでいるとあちこちで見られる。読んでいる途中、その方法を付箋紙に張るとその残酷さがわかる。

 コロナ禍で感染者を減らすために事業を自粛する要請が出される。それに伴い、コロナ禍でなくなる人よりも自粛要請で事業不振に陥り、それによる自殺者が多く出ることも考えられると大阪の府知事は話す。自殺者は生活苦が原因、もある。生活苦はこの本の時代からすると「食」がないのと同じかもしれない。人が生きていくうえで最も大切な食べるということ。いつの時代も人民は食べ物を与えてくれる政策者についていったに違いない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『項羽と劉邦』(上)(司馬 遼太郎 新潮社、昭和63年19刷)から気になる箇所の抜粋。

★秦がもつ統制主義と生産力と兵器の優越が、この国をして六国(素、斉、燕、韓、魏、趙)を凌がせ、秦王政にいたり、やがて六国をほろぼして、奇跡としか言いようのない大陸の統一を遂げさせた。……元来、旧六国の遺民たちは秦を野蛮国と見、漢民族の血液が薄いと見て軽蔑していた。軽蔑されてきた国の王が皇帝になったところで、劉邦や項羽ならずとも神聖視しなかった。
 始皇帝にもそのことがわかっている。だからこそ人民どもの肝をとりひしぐような巨大な建造物を各地で造営し、また行列をつらねて、皇帝としての自分の顔を見せてまわる必要があった。しかし、顔をみせてまわることは、かえって効果が逆になった。劉邦や項羽のような手合いの野望を刺激し、挑発してまわるという奇妙なはめになった。13-14p

★趙高は、始皇帝とともに、宮廷の中を日夜転々とした。……
(この男のいのちは、自分だけが握っている)
……ちょうど掌の中に黄色くやわらかいひな鳥のいのちでも握っているような感覚で、そう思うようになった。……殺そうと思えばいつでも殺せる、というえたいの知れぬたかぶりが張高の身のうちで成長しはじめた。18p

★法に明るい趙高は、ひとりひとりについて罪状をつくりあげ、法に照らして処断した。36p

★秦帝国が事実上自壊するのは、咸陽の市場の乾いた土の上に李斯の首がころがったときであったといっていい。38p

★三戸といえども、秦を滅ぼすものは必ず楚ならん。項羽はその楚人である。45p

★この叔父(高梁)とおい(項羽)が最後に腰を落ちつけたのは、呉中(いまの蘇州)の町である。呉中は春秋の呉国の旧都で、呉国がほろんでからも、単に「呉」といえばこの都市のことを指した。はるかな後世、この呉の発音が漢籍や経典とともに東方の朝鮮南部や日本に伝わって呉音となり、また絹織物をつくるこの土地の方式も伝わって呉服と呼ばれたりした。52p

★中国にあっては、王朝やその出先の地方長官が人民に利益をもたらすという例は秦以後もほtんどなく。人民としては、匪賊同様、これも虎狼のたぐいと見、できるだけその害をすくなく逃れることのみを考えてきたし、でなければ暮らしも命も、保(も)ってゆかない。
 「高梁様」というのは、この虎狼の害をふせぐ守護神のようになってきた。守護神はいるも項羽という馬鹿力の大男を護衛につれている。56p

★この大陸の社会では、徳が重視される。徳ある者が人を魅(ひ)きつけ、ひとびとに推しあげられ、ときに神の代用物のように信仰されて、結局は勢力をなす。……徳者といえば簫何自身のほうがそうであろう。が、劉邦にあって簫何にないものは、可愛気だった。114-115p

★国号というのは、たとえば、夏、殷、周、あるいは趙、魏、楚、さらには秦といったように、一字であるのが普通である。二字というのは、漢民族の正統の国ではなく、周辺の蛮国が、中国に遠慮して――あるいは中国側が勝手に文字を選んで――つける場合が多かった。後代の朝鮮、吐蕃、南詔、あるいは月氏、烏桓、大食などというのもそうであろう。184p

★流民のめざすところは、理想でも思想でもなく、食であった。……親分――英雄――は流民に食を保証することによって成立し、食を保証できないものは流民に殺されるか、身一つで逃亡せざるをえない。食は略奪によって得る。197p

★阬(あなうめ)がいつごろがはじまりであるのか、よくわからない。上代は殉死者を生きながらに阬にしたということはあったが、刑罰としてこれをやったのは、すくなくとも記録の上では始皇帝が最初であった。儒教の学者四百六十余人を咸陽の郊外につれて行って、阬にした。……項羽がやった理由は、始皇帝のように刑罰ではなかった。生かしておけばせっかく襄城において獲(え)た穀物をかれらも食う、というだけが、かれにとっての理由であった。259p

★劉邦が理解した問題の本質とは、要するに何でもない。秦が強いということである。……次いでいえることは、秦の一大野戦軍を指揮している章邯(しょうかん)という男が途方もない名将だということである。292p

★項羽は、つねにありきたりの騎士のような軍装で馬上にゆられていた。それだけで十分だったのは、ひとつにかれ自身の肉体の雄偉さが、いかなる車駕や美服を用いるよりも、士卒の心を打ったからである。354p

★胡亥をたれよりも容易に殺せる位置に趙高はいる。……楚軍がなだれを打って函谷関の内側に入る日、趙高はただちにクーデタをおこして二世皇帝を殺し、その首を楚の将軍に捧げることによって新帝国の地位を得たい。この関中をめざしつつある楚の別働軍の総帥が劉邦という男であることを趙高は知っていた。383p

★殷の時代、権力者の大墓は、必要があれば入り口を開く仕掛になっていたらしい。既有の墓においても、御供物をそなえるようにつぎつぎに殉葬者を阬しては、地下をにぎやかにしていくかたちがとられた。いずれにしても、殷の墓のように人間が大量に阬されているというのは、地球上の他の古代世界には例を見ない。399p

★大虐殺(ジェノサイド)は、世界史にいくつか例がある。
一つの人種が、他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが、同人種内部で、それも二十余万人という規模でおこなわれたのは、世界史的にも類がなさそうである。さらには、項羽がやったような右の技術も例がない。ふつう大虐殺は兵器を用いるが、殺戮側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように、被殺者側に恐慌(パニック)をおこさせ、かれら自身の意志と足で走らせて死者を製造するという狡猾な方法は、世界史上、この事件以外に例がない。406-407p

★秦が亡んでのちも、関中は通称、地域呼称として秦とよばれた。関中には秦兵二十余万人の父兄が充満していた。彼らは項羽と章邯それに欣と翳(えい)を憎むこと甚だしく、そのぶんだけ項羽の対抗者である劉邦の人気を大きくしている、と韓心は説くのである。
「沛公(劉邦)は、なんとご運のよいことか」と、韓心はいった。408p

2020年5月1日金曜日

「厥」の厂がない漢字

 司馬遼太郎の『項羽と劉邦』(中)(新潮社、昭和63年19刷)を読むと「『殺されたくなければ〇(そむく)な』(注:厥の厂がない文字をここでは〇と表記する)というのが、項羽の政治学に書かれているたった一行の鉄則だった。……このため、項羽の戦いは戦闘より虐殺のほうで多忙だった(185-186p)」の件がある。この〇をパソコンで入力しようとするが手持ちのどの辞書にも掲載がない。かなり調べるうち、やっと〇を見つける。だが、パソコン上では表記できない。
 
 辞書は大修館書店の「中日大辞典」、電子辞書に収められてある「デジタル大辞泉」、「明解国語辞典」、「新漢語林」、そして学研の「漢和大辞典」 と手元にある辞書を探す。司馬遼太郎はこの〇に「そむく」とルビをつけている。ほかにも我が家に辞書があると思って探すと父が仕事で愛用していた昭和12年発行の分厚い「新選漢和大辭典」がある。さらには新華書店発行の「新華字典」も探す。いずれも〇の掲載がない。最後に探したのは中国で購入した中華書局発行の分厚い「中華大字典」上下2冊を調べると〇が載っていた。もう、半端でなく嬉しかった!久々にわからないことがわかる喜びを味わう。
                                    
                   〇に当たる文字があった ↓
中華大字典
 

 〇に当てはまる文字は部首の「欠」、「屮」、「艸」 、「」で各辞書それぞれ調べる。「欠」の部首に〇の掲載があった。〇が掲載された「中華大字典」は中国に出かけて購入したもので1985年発刊となっている。が、紙質が悪いためかボロく思える。この辞書、〇の掲載がなければ資源ごみ行きとなるところだった。しかし、〇が見つかったので大事に保管しよう、と気も変わる。

 ちなみに電子辞書の「新漢語林」で〇を探すと「解字」としての説明箇所に「形成。厂+〇音符。音符の〇(けつ)は人が大きな口をあけてせきこむの意味」として〇の記載がある。音符は音楽用語だけでなく、「音符とは漢字や仮名の文字につけて発音を示すための補助符号」として「々」などがあり、さらに「漢字の構成で、音を表わす部分」として銅の「同」などがあるようだ。厥の〇は音符の意味がやっと理解できた。

 司馬遼太郎が作品を書いていたころはパソコンもなく、手書きだったに違いない。それもむつかしい漢字を大量に書いて本にしている。文字を書くだけでも大変な作業だったと思われる。本を読むと知らない漢字が頻繁に出てくる。去年の10月くらいから読めない漢字を拾い出してノートに書き留め、その文字を辞書で確認する。今回、わかった〇は忘れられない一文字となりそうだ。なお、今回知った〇は「けつ」と読み、司馬作品には「そむく」とルビがある。コロナの影響で家にいる時間が長くなり、暇つぶしに調べる癖がつきそうだ!それにしても、『項羽と劉邦』に〇の字が印刷されている。どうやって印刷したのだろう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年4月27日月曜日

『空海の風景(下)』

 『空海の風景(下)』(司馬遼太郎 中央公論社、2006年再版)を読んだ。気になる箇所を記そう。王羲之と顔真卿の件がある。顔真卿については知らずにいた。ところが、昨年だったか某会で集ったとき、会場ロビーで顔真卿が話題になる。全く知らない人だったが、居合わせた人からスマホで顔の書を見せてもらい、名前を覚えた。『空海の風景』に顔真卿の名がある。「あの時、話題になった人だ」、と思いながら読んだ。もう忘れらない人になった。

 最後にメモった「私が密教というものの断片を見た最初は、十三詣りのときである。私は嬰児のとき虚弱だったので、身内の誰かが大和の大峰山に願をかけてしまい、十三になったらお礼参りにゆかせる、と約束してしまった。そのため中学一年生の夏休みのとき、兵隊帰りの叔父につれられて吉野の奥の大峰山上に登った」。(372p)と司馬は書いている。

 自分自身も体が弱かったために、小さいころ「願かけ」をした、と親から聞かされて育った。大きくなるにつれて病とは無縁になっているが、そのお礼参りをしたかどうか今となってはわからない。というか、願かけも覚えていない。「苦しいときの神頼み」で親がそうしたのだろう。願かけの話をするときの親はそれはもう不思議な顔をして病が治った、と話してくれた。その場所がお大師さんだったのだろうか、「お大師さんはありがたいんよ」と話していた。お大師さんこそが弘法大師空海だ。幼稚園に入る時点で人より1年遅れだった。そのまま大した病気もせずストレートに学校に進んだ。ただ、小学校に上がる時点で1年遅らす照明書が必要だったらしく、住んでいる町でなく遠くの町の医者に行って照明してもらったと聞いている。

 この話を願真卿を知った某会の人に話すと私を入れて3人が1年遅れの小学校入学だった。戦後すぐの生まれは体が弱かった人が多かったのかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下はいつものごとく気になる箇所の抜粋から。

★般若三蔵は自分が訳した経典類を空海の前に運んできて、「これをお前に贈る。帰国するとき持って帰ってくれ」といった。……経典をその訳者そのひとから貰ったというのは、空海の歴史的な幸運といってよく、かれ自身もこの種の運のよさに、おそらく、この時期あたりから、神秘的な思いを持つまでになっていたにちがいない。10p

★空海は、インド・中国をふくめた密教発達史上、きわめて得がたい機会に長安に入り、恵果に会ったということになる。……恵果の空海に対する厚遇は、異常というほかない。12p

★これが六月の灌頂のときであったが、七月の灌頂のときも、空海の花は大日如来の上に落ちた。八月の伝法灌頂では投花の儀式はなかったから、恵果はこの重なる宿縁を奇とし、空海に対し、「遍照金剛」という号をあたえた。遍照金剛とは大日如来の密号で、金剛とはその本体が永遠不壊であることを言い、遍照とは光明があまねく照らすことを指す。18p

★+天台宗を体系ごとぜんぶを仕入れに行った最澄は、沙金もずいぶん多く持たされてゆき、国家としての信物も多く持たされていた。……その点からいえば、留学生の空海は、素手で長安に入ったようなものであった。……空海は、恵果から、一個人としてゆずりうけたのである。……空海は日本国から義務を負わせられず、経費を与えられずして、「密教」を「請益」してしまったのである。……空海は、極端にいえば、私費で、そして自力で、密一条を導入した。25-26p

★青竜寺東塔で葬儀がおこなわれ、翌日、道俗の弟子千余人が恵果の棺に従い、長安の東郊孟村というところに埋葬し、どう時に碑が建てられた。……空海の撰および書である。……特に空海がえらばれたのは、かれの文章と書芸の評判が、いかにやかましいいものであったかが想像できる。41p

★この最澄の孝雄山寺における勅命灌頂が、日本の密教史上、最初の灌頂になった。……天皇は最澄こそ密教の最高者であるという証明書(伝法公験)まで、わざわざ治部省から発行させたのである。72-73p

★いかに精妙にしたとはいえ、その一つ一つが孤立していれば、それらは単なる魔術、呪文、マジナイにすぎず、それが空海の時代の密教用語でいえば雑密というものであった。……最澄の不覚は、雑密をひろってしまったことである。97p

★空海は東大寺のなかに真言院をたて、東大寺の本堂である毘盧遮那仏(大仏)の宝前で、密教の重要経典である理趣経を誦むべく規定し、こんにちにいたるまで東大寺の大仏殿で毎日あげられているお経は理趣経なのである。109-110p

★高雄山寺にいる空海は、この薬子の事件を大きく評価した。大きく評価することで、空海はこの国において密教勢力を飛躍せしめる契機にしようとした。181p

★嵯峨と空海には、すでにこういう文雅の友としての交渉がかさなってしまっている。その上、嵯峨にとっての空海は詩文という軟質なものの存在だけでなく、国家鎮護のためのエネルギーという硬質なものをもつ存在であった。そのことは薬子の乱のあとの大修法の宣言において嵯峨は十分に理解させられた。嵯峨は、そのふたつの面から空海を必要としはじめたのである。204p

★灌頂には、三つの区別がある。結縁灌頂、受明灌頂、そして伝法灌頂である。……最澄があれだけ奔走してようやくおおぜいと一緒に受けたのは、どうやらこの結縁灌頂のようであった。228p

★王義士が空海の時代にとってはるかな過去の人であるのに対し、顔真卿(七〇九―七八五)は空海が入唐する二十年前に生涯を終えたひとである。……願氏は数代にわたって能書家がつづいた家で、真卿にいたり、かれは書の姿態の美しさを追いがちな王羲之流に反撥してあたらしい書風をひらいた。その剛健な書風には北魏の影響がつよいところから、正統の王羲之流をわざわざ南帖流といい、べつに北方人でもない顔真卿の書風を北魏流とよぶほどに、両者は対蹠的である。305-306p

★嵯峨は若いながらもこの時代の貴族文化に圧倒的な影響力をもっていただけに、空海はまず嵯峨の書芸に顔法を混入させようとした――露骨な意識はなかったにせよ――と考えられなくはない。308p

★『寛平御記』によれば、嵯峨は東の三門と西の三門をうけもった。空海は南の三門と応天門をうけもち、橘の逸勢は北の三門をうけもった。この三人がのちに三筆とよばれるなったのは、この諸門の額の揮毫を三人でやったからであろう。315p

★空海の書は霊気を宿すといわれる。……空海の書にもし霊気があるとすれば、それだけは空海の本体なのであろう。319p

★空海は死んだ。しかし死んだのではなく入定したのだという事実もしくは思想が、高野山にはある。この事実は千余年このかた継承されてきて、こんにちもなお高野山の奥の院の廟所の下の石室において定にあることを続け、黙然とすわっていると信ぜられているし、すくなくとも表面立ってこれを否定する空気は、二十世紀になっても、高野山にはない。346p

★仏教によれば人間の肉体は五蘊という元素のあつまりであって、ここで仮に言うならば、薪というも同じである。われわれ人間は、薪として存在している。もえている状態が生命であり、火滅すれば灰にすぎない。空海の生身は、まことに薪尽き火滅した。370p

★私が密教というものの断片を見た最初は、十三詣りのときである。私は嬰児のとき虚弱だtったので、身内の誰かが大和の大峰山に願をかけてしまい、十三になったらお礼参りにゆかせる、と約束してしまった。そのため中学一年生の夏休みのとき、兵隊帰りの叔父につれられて吉野の奥の大峰山上に登った。372p

2020年4月12日日曜日

TVシンポジウムを見る

 フルーティストのツイッターに「夢にまでみた『毎日バカンス』」がある。これを見て、「毎日が日曜日」でなく「毎日バカンス」とは若者らしい表現と感じてしまう。どんな有名な演奏家もコロナの影響で演奏機会を奪われ、家の中で楽しみを見つける日々のようだ。
 
 NHKで「作家司馬遼太郎さんをしのんで毎年行われる菜の花忌シンポジウム」が放送された。番組欄の司馬遼太郎に目が留まり、放送を見る。番組HPによると以下のようだ。
 
★今年は、激動の時代、幕末を生きた土方歳三と河井継之助にスポットをあて、男たちの生きざまに迫る。新選組副長として、幕末の動乱の時代を生きた土方歳三。一方、長岡藩で、新政府軍に対抗し、武装中立を目指した河井継之助。作家司馬遼太郎さんは、『燃えよ剣』と『峠』の作品の中でそれぞれの人生を生き生きと描いた。いまも人々を魅了してやまない、動乱の時代のブレない男の生きざまとは?黒川博行、小泉堯史、磯田道史、星野知子が、縦横に語り合う。
 
 河井継之助は昨年秋出かけた新潟の旅で現地ガイドの話で知る。『燃えよ剣』と『峠』はまだ読んでいない。4人のゲストもそれぞれの視点で河井や土方を語る。河井と土方には司馬遼太郎が描く男の美学があるという。すぐにでも読みたくなる。だが、今は『項羽と劉邦』の2巻目を読んでいる。早く読み終えて次はこのうちのどちらかを読もう。
 
 今日は最高気温10度の予想で一日中雨。明日も気温が低く雨のようだ。乾燥した日々が続いている。広島県の三次(みよし)市ではコロナのクラスター発生で23人の感染者が出た。東京からこの市に帰省した大学生がウイルスを持ち込んだようだ。地方の感染者はほとんどがこのような大学生の帰省によって感染している。困った現象だ。
 
 雨の日曜日は「毎日バカンス」をまねて家でおとなしくする!?
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2020年4月6日月曜日

『空海の風景 上』

 広島と福岡のJ 〇Bから旅のパンフレットが送られてきた。コロナがなければすぐにパンフに飛びつくはず。だが、どこかへ行こうとしても本気になれずにいる。旅行会社も初夏になればコロナも……と当て込んでパンフを送付するのだろう。本来ならば明日と明後日は吉野の桜や高野山観光に出かけるはずだった。これもコロナでご破算となる。

 高野山と言えば空海。先日読んだ『空海の風景 上』(司馬遼太郎 中央公論社、2012年改訂32刷)。気になる箇所を記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★……都へのぼっていくこの少年には、のち歴史に巨大なものを展開するこの種の人物にありがちな年少時の苦艱というものがまったくなく、要するに「偏ニ悲ミ、字シテ、貴物ト号ス」といった波瀾のない生いたちであったことを知りたかったからである。……空海はここの中間階級出身者にふさわしい山っ気と覇気を生涯持続した。43-44p

★「佐伯の宿禰どのが」
といううわさばなしも空海はきいていたにちがいない。佐伯の宿禰とは、空海の家が勝手ながらも佐伯姓の宗家としている中央の佐伯氏のことで、このばあいは佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を指す。47p

★深刻な知的煩悶のみがあり、わざわざ演劇的構成でもって『三教指帰』を書くことによって、かれが大学で学ばされている儒教と道教と仏教の三者の優劣を比較し、結論として仏教の方ほうが他の二者よりはるかにすぐれているということをひき出すのである。ひき出しただけではなく、それへ転身してしまう。かれが仏道に入ったのはいわば学科の転科にすぎず、中世の爛熟期に日本にあらわれてくるひ弱な厭世的j情念などはこの精気のあふれた男にはなかった。58p

★空海の才華はひらくべくしてひらいたというより、それに豊饒な土を与えたのはここの期間の叔父であったにちがいなく、とくに空海がその生涯において阿刀氏以外に一人の師に入念に就いたということがなさそうなことを思えば、そういう感がふかい。65p

★かれのこの当時の名前は「真魚」(まいお)」といったらしい。その根拠は、わずかながらある。佐伯真魚である。70p

★空海――仮名乞児――はここで人間存在についての仏教の一般的解釈をいうのである。
人間というものはもともと三界に家がないものだ、あると思っているのは錯覚である。人間の住む六趣の世界をご存じであるか。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天上の六つの世界のことだが、人間はこの世界をくるくると輪廻して定まるところがない、それゆえ私はときに天堂(天国)を国とし、あるときは地獄を家とする。89-90p

★空海によって体系として大完成する密教はその時期以後を純蜜と言い、それ以前の没体系的な、かけらのかたちで伝わってきていた密教を雑蜜として区別した。ついでながらこの雑蜜はその後もこの国の山河に根づき、大和の大峰や出羽の羽黒山などの山林で土俗と習合しつつ歩き巫女、外法の徒、あるいは山伏といったふうなかたちとして生きつづけた。106p

★要するに空海は、大和国高市郡久米寺の東塔下において大日経を発見したのである。161p

★空海はこれがために入唐(にっとう)を決意した。大日経における不明の部分を解くためであった。……久米寺で見た大日経についての疑問点を明したいためというだけのものであり、遣隋・遣唐使の制度がはじまって以来、これほど鋭利で鮮明をもって海を渡ろうとした人物はいない。167p

★空海は淡泊な男ではなかった。というより並外れて執念深い性格をもっていた。そういう性格でなければ、神道的平明さを思想的風土とする倭の土地から、悪魔的なほどに複雑な論理を構築する男として歴史に登場することはできなかったであろう。220p

★「自分の体系を国家が欲しいなら、国家そのものが弟子になってわが足元にひれ伏すべきである」というべきという気持ちがあった。さらにその気持ちをささえていたのは、遣唐使船に乗るにあたってかれが自前で経費を調達し、その金で真言密教のぼう大な体系を経典、蜜具、法器もろとも持ちかえったという意識があったからに違いない。空海は私学の徒であったとさえいえる。222p

★空海は、いう。いま、使者がきて入京が許されないということを承った。……一転して、空海は閻済美の人徳の高さを湛える。……閻済美は結局、空海を入京させることにした。橘逸勢のような男は、すねを挙げ、手を搏(う)って、空海のためによろこんだであろう。
 入京する者、葛野麻呂以下、すべて二十三人である。282-282p

★空海も馬上の人になった。
十一月三日、福州を辞した。……長安城までは、唐の里程にして七千五百里である。283p

★「木妖」(もくよう)とよび、時代の衰兆をかぎとった。しかしながら空海が長安に入ったのはこの木妖時代が終了して、その成果のみが坊々に燦然とかがやいているときで、いわば長安の都市美の爛熟期であったといっていい。空海の側からみれば、外国人であるために木妖を憂える必要はなく、ひたすらにそれを讃美すればよかった。空海が長安の都市美が最高潮を保っているときに入ったというだけでも、かれについてまわる幸運がここにも息づいているということができるであろう。302p

★六朝は貴族政治であるために門閥を重んじたが、唐朝は思想として普遍性を尚び、皇帝の補佐をする人材はひろく天下にもとめ、試験でもって登用し、人種を問わなかった。唐の皇帝の原理には、皇帝は漢民族の身の皇帝であるという意識はなく、世界に住むすべての民族を綏撫(すいぶ)するという使命をもち、華夷のわけへだてをするということがない。唐朝において大きく成立したこの普遍的原理を、空海が驚嘆をもって感じなかったはずがないであろう。かれがのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安で感じた実感と無縁でないに相違ない。326-327p

★護摩というのは、火をもって供養するということで、釈迦の仏教にはこれがなく、むしろこの種のものを外道として排した。しかし、密教は釈迦が嫌悪した護摩をとり入れたがために、空海の護摩に対する関心がつよい。護摩は、インド古来の土着宗教であるバラモン教から系譜をひいているのであろう。334p

★空海が後年、護摩をも思想家してしまったのは、護摩の火に薪という具体的なもの――煩悩――が焼かれて清浄という抽象化を遂げるという内容を考えたからであった。336p

★繰かえすようだが、比較は空海のもっも好むところであり、しばしば、かれの知的作業の方法でもあった。337p

2020年3月23日月曜日

『歴史を動かす力』

 今日は予想最高気温20度の予報、そして桜も開花して朝から春を感じる。これにコロナウイルスさえなければ最高の春なのに世の中そうもいかないようだ。

 以下は先日読んだ『歴史を動かす力』(司馬遼太郎 文藝春秋、2006年)から気になる箇所を抜粋したもの。対談形式の本で会話している人を()で記した。最後に挙げた「立派な武士になるには、まず歴史をやれ、そして旅行せよ」……歴史をやって時間的に過去にさかのぼって広い世界を知り、旅行をして空間的に広い世界を知れば目が開かれるようになって人生を知る」。これはすごい言葉だ。今さら何ものにもなる気はないが旅行と歴史、今どちらもハマっている。この両方で人生を知るようになるとはすばらしい。しかし、今はコロナウイルスで自由に旅へ行かれない。残念。早くコロナが収まるといいけど……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★(観音寺)……維新運動の大効果は二つですね。一つは日本が統一国家になったということ。ヨーロッパではずっと前に封建制度を脱却して統一国家になったのだが、日本は鎖国のために大分遅れた。それが維新運動の第一目標である日本強化を追求している間に、廃藩置県にたどりつき、統一国家になった。
 もう一つは、廃藩置県によって、日本人の社会は市民社会となったこと。一君万民という形でね。ヨーロッパのそういう条件のつかない市民社会ですが。――ともあれ統一国家となり、市民社会となって、日本は初めて世界歴史の本流と合致したのですよね。(観音寺潮五郎と司馬の対談から)33p

★(司馬)きっと太平洋戦争せずにすみましたよ。日露戦争のウソ戦史にあわせて陸軍がとなえた神秘主義を文部省が採用して、小学校にまで流して国民教育をした。それが太平洋戦争のもとになっているのですからね。その責任は大きい。ところがそれを、マスコミは一切突いていないし、問いてもいない。(江藤淳と司馬の対談から)228p

★(司馬)書簡文においては、表現力というのは実にたくましいでしょう。あの時代に漢文を借りずに自分の意思なり思想なり、天下の情勢なりを、あれだけしっかりと表現できた人は、松陰以外にいない。幕末における最大の文章化の一人と思わざるを得ない。
 旅における松陰は、嬰児のごとく素直で、脅えやすく、喜びやすくできてますでしょう。そういう体質を旅のなかで存分に発揮して、見事な紀行文を書きますね。それは単に達意文章というだけでなくて、リズムがあって、芸術的な感興をわれわれにあたえますでしょう。あれはたいへんなことだと思いますね。(橋川文三と司馬の対談から)274-275p

★(橋川)そういう文章感覚と、いまおっしゃった優しさですけれども、優しさというのは器質的な思想家としての松陰を考える場合に、大きな要素になっていると思います。優しさは松陰の天賦であるといえばそれまでなんですけれども、家庭環境もあり、広くは長州藩のある種の雰囲気というものもあったんでしょうけれども、文章のうまさと異様なほどの優しさは、松陰を読んでいく時、一番最初にぶつかってくる問題ですね。これはいったいどこから来たんだろうかと考えさせられる。
 それともう一つからめていえば、その優しさが後年のラディカリズムと密着して出てくるというあの関係、これが一番松陰のおもしろいとことだと思うんですけれど、それがなかなかきれい事では説明できない。いわゆる論文風に松陰を書く時にこまるところなんです。(橋川文三と司馬の対談から)277p

★(司馬)変な表現をすると、テニヲハというにかわでつないでいく膠着語である日本語の特徴をもっとも濃厚に持ち、かつもっとも生かしえた文章は松陰と子規だと思います。
 和文の特徴というものでもないんですけれども、要するに綿々と語って、しかも少しも自分にべったりしていず、乾いたところがあるでしょう。それが素晴らしいと思うんです。自分を綿々と訴えてるわけではないんです。(橋川文三と司馬の対談から)283p

★(芳賀)荻生徂徠が『徂徠先生問答書』で「立派な武士になるには、まず歴史をやれ、そして旅行せよ」と言っていますが、ほんとうにそうで、歴史をやって時間的に過去にさかのぼって広い世界を知り、旅行をして空間的に広い世界を知れば目が開かれるようになって人生を知る。デカルトも「旅は大いなる本である」と言っています。
(司馬)ですから明治維新というのは旅行家たちの仕事でもあると言えるかもしれませんね。(芳賀徹と司馬の対談から)325p

2020年3月19日木曜日

『司馬遼太郎 幕末・明治論コレクション 幕末維新のこと』

 『空海の風景』上下巻を読み終えて、次に読むのは『項羽と劉邦』。先日、中国語の辞書を本棚から出していて、『項羽と劉邦』はだいぶ前に購入したことを思い出す。もう1か所の本棚も探すが、乱雑に棚に置いているので見つからない。暖かくなったら本棚の整理をしよう。ということで図書館で借りた『項羽と劉邦』を読み始める。

 本を探している際、井上靖の本が目に付く。司馬遼太郎の本は『街道をゆく』シリーズは持っていても若いころは井上靖のシルクロード関係の本にのぼせていた。今や司馬作品にはまって井上作品はおろそかになっている。家の本を整理するとき、もっとわかりやすく整理しよう。

 以前に読んだ『司馬遼太郎 幕末・明治論コレクション 幕末維新のこと』(司馬遼太郎 筑摩書房、2015年)から、気になる箇所をここに記そう。この本を読んだ頃は、最後にメモする『菜の花の沖』を読もうとした。このことをすっかり忘れてしまって『項羽と劉邦』を読んでいる。これを読んだ後、『菜の花の沖』を読むことにしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★龍馬が立派な字を書くということを承けていいますと、彼の字も規矩準縄というか、定規に合わないのです。習字がうまいということは真似がうまいということでもありますから、真似のできない性質の人間、真似をする訓練を受けていない人間は、自由な字を書かざるを得ない。変なたとえで恐縮ですが秀吉という人は訓練を受けてないので自由な字を書いたのでしょうが、この秀吉の字に一番似ているのが龍馬の字だと思います。龍馬の字は幕末史の中で一番芸術的です。しかし習字のお手本にはならない。21p

★荘園という私有地の成立がそうである。この公有制度の例外がどんどんひろがってついに武士の発生になる。武士とは要するに開墾地主のことで、土地の私有権の主張者のことである。
 平安中期のごろから関東にこの開墾地主団がむらがり発生し、後期にいたってそれが平氏と称し、あるいは源氏と称して、律令体制の代表者である京都朝廷に食いこんだり、対立したりして、ついには源頼朝を盟主とするこの土地私有権の主張者たちが強大な軍事力をもって鎌倉幕府という事実上の日本政府を樹立し、中国・朝鮮体制にやや似た京都の朝廷は装飾的な政権になった。85-86p

★松陰のその魅力は、弟子を動かそうとしてそれをしたのではなく、かれ自身がまっさきに動こうとし、事実動き、結局は「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」というかれの下獄の感想のように、すすんでその志操と思想に殉じたことであった。こういう師に接していては、弟子たちは尋常でいられるはずがない。97-98p

★維新後もなお、新政府の弾正台の手で下手人捜査がつづけられた。明治以前の刃傷沙汰を、新政府がその全力をあげて捜査したのは竜馬の場合しかない。235p

★ともかくも、三十二年の生涯ながら、竜馬の生涯にはあざやかな春夏秋冬がありました。日本史上、竜馬ほど素晴らしい青春を送った人はいないのではないでしょうか。304p

★高田屋嘉兵衛も、江戸期が生んだおもしろい日本人ですね。私は、『菜の花の沖』で書きました。
 当時六甲山麓から摂津平野、それに嘉兵衛がうまれた淡路島は、季節になると、菜の花畑で真黄色でした。六甲山麓にはそのころたくさんの搾油用の水車がまわっていて、圧倒的にマニュファクチュアの時代でした。その油が、酒や醤油などとともに西宮港などから四方に積み出されていました。その時代的光景を。”菜の花の沖”ということばに託したつもりです。314p6

 『司馬遼太郎 幕末・明治論コレクション 幕末維新のこと』の中の「人間の魅力」で司馬が取り上げている本をメモをしよう。このうち、読んでないのは『菜の花の沖』。

・『この国のかたち』
・『坂の上の雲』
・『竜馬がゆく』
・『世に棲む日日』
・『花神』
・『菜の花の沖』