2019年9月16日月曜日

『翔ぶが如く』(一)

 『翔ぶが如く』(一)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第15刷)を読んだ。この本は(一)から(十)まである。今、やっと、(三)の半ばまで読み、全部を読み終えるにはまだ当分かかりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は(一)から気に入った個所を抜粋したもの。

★河野は土佐佐勤王党の出身だが、土佐人が郷士的性格としてもつ論理性を一身に凝縮したような男で、のち法官になり、明治政権に反抗するものを秋霜のようなきびしさで検断した。かれを抜擢した司法卿江藤新平を、佐賀ノ乱の首魁として捕らえて裁いたのもこの河野敏鎌であり、死刑の宣告の場で江藤をして、――河野、汝は、わが恩を忘れしか。と叫ばしめた人物である。26-27p

★川路にとって明治政府は、きわどいながらも唯一の踏み台であり、この政府があってこそ彼が帰国後樹立しようとする警察制度がありうるわけで、その政府が倒れるようでは、警察制度も何もあったものではない。53p

★大久保には厳乎とした価値観がある。富国強兵のためにのみ人間は存在する――それだけである。かれ自身がそうであるだけでなく、他の者もそうであるべきだという価値観以外にいかなる価値観も大久保は認めてない――何のために生きているのか。という、人生の主題性が大久保においてはひとことで済むほど単純であり、それだけに強烈であった。歴史はこの種の人間を強者とした。81-82p

★長州藩は三個大隊を供出した。土佐藩はやや遠慮してニ個大隊である。ただしこれに騎兵二個小隊を付けた。(騎兵は土佐藩しかもっていなかった)。維新の主役であった薩摩藩は当然ながらもっとも多くの人数を供出した。……以上三藩の東京駐屯部隊がやがては「近衛兵」と改称され、最後の士族軍として、そして最初の日本陸軍として出発した。97p

★明治初年の政界を大混乱におとしいれたこの征韓論というのは、ごく単純な事情から出た。日本だけが維新をおこし、全面的に開国したのである。朝鮮は鎖国のままであった。106p

★征韓論は、政争化しつつあった。長州勢力は、非征韓論である。一方、佐賀の江藤司法卿などは薩長の仲を割くために征韓論派にまわっている。117p

★征韓論という、この当時の血の気の多い日本の有志層を沸き立たせた問題を通じて、いまもむかしも変わらない普通の課題がひき出せはしないかということである。日本人は、孤絶した地理的環境に生きている。……孤絶した環境にある日本においては、外交は利害計算の技術よりも、多分に呪術性もしくは魔術性をもったものであった。……薩長など外様の雄藩をふくめた在野世論は、威ヲ攘(ハラ)フということで一大昂揚を発し、たかが国家の利害計算の範囲内にすぎない外交問題が、革命のエネルギーに最初から変質してしまっていた。威を攘うということが同時に王を尊ぶという国内統一の課題と矛盾なしに一致し、これによって幕府が倒れ、明治維新が成立したのである。128-130p

★西郷が東京にゆく前、久光はすでに廃藩置県の声をきいていたから西郷をよび、「あれだけはするな。よいか」と、西郷に承知させた。ところが西郷が東京へ入ると、廃藩置県に同調し、一挙に断行してしまった。「其ノ職ヲ免ズ」と、各藩主に辞令をあたえただけで、三百年の体制が一片の紙片でくずれたのである。久光の激怒はむりもなかった。188p

★明治政府は、廃藩置県のあと、島津久光の怒りを解くべく、明治五年六月、天皇みずからが鹿児島に行幸しているほどであった。「封建制を崩した」という久光の怒りのすさまじさが、この一事でも想像がつくであろう。190p

★西郷がおもった征韓による「日本の幸福」は、士族階級の元気とモラルが戦争によって復活するということであった。……「士族の気節と勇気を躍動せしめる」という点で、西郷が苦に病んでいた没落階級がすくなくとも精神の面で復活するのである。……「韓国に対してもその流儀で刺激し、開国させて世界性をもたせ、ともに列強の侵略をふせぐ」ということが、征韓論における西郷の「韓国の幸福」であった。200^-201p

★西郷が、一見人が変わったごとくに健康に気をつけはじめたのも、征韓論という一大希望を、国家と自己の人生のむこうに見出したからであった。かれにとって征韓論は単なる政権やスローガンではなかった。205p

★明治維新の目的は、国民を成立せしめて産業革命の潮流に乗った欧米の侵略に耐えうる国家をつくることであった。日本はこれによって硬質の地帯になった。228p

★この日本的に理解された禅のほかに、日本的に理解された儒教とくに朱子学が江戸期の武士をつくった。朱子学によって江戸期の武士は志というものを知った。……志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれても悔いがない、というもので、禅から得た仮宅思想と儒教から得た志の思想が、両要素ともきわめて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた。237p

★薩摩人集団は本来、頭目を欲する。西郷はそのために頭目としての人格をみずからの修養でつくりあげた。長州人集団は頭目を欲しない。本来、木戸は頭目にふさわしい性格のアイマイさをもつくせに、やむなく自己を書生であろうと規定し、長州のなかにあってせいぜい兄貴分としての位置を見出し、その位置にふさわしい自己をつくりあげてしまっている。244-245p

★「ポーランドがほろんだ原因の底の底を討(たず)ねればただ一つに帰します」と木戸はいう。「国家に憲法がなく、人民に権利がなかったからです」と、木戸は明治十年代の政治青年――自由民権論者――が流行としてそう言い騒いだ言葉を、自由民権運動のケムリも立っていないこの明治六年においてすでに言っているのである。260-261p

★木戸の大久保ぎらいはこの報告書にまで出ており、かれの生涯は大久保独裁の明治政権への消極的抵抗で終止する。西郷のような男性的反乱は木戸によれば「ポーランドの如き王国をまねく」わけであり、木戸が、西郷ノ乱において東京にも鹿児島にも応援しなかったのは、右のような思想と立場による。263p

★西郷という、この作家にとってきわめて描くことの困難な人物を理解するには、西郷にじかに会う以外になさそうにおもえる。われわれは他者を理解しようとする場合、その人に会ったほうがいいようなことは、まず必要ない。が、唯一といっていい例外は、この西郷という人物である。……西郷をわずかながらも知るためには、かれが誰を尊敬していたかということを考える必要もあるかもしれない。…西郷の世界観や、世界の中の日本というもののとらえ方をかれに影響したのは、そういう歴史上の人物ではなかった。青年期の西郷が仕えた芒主島津斉彬である。……西郷という、巨大な感情量のもちぬしは、「亡き順聖院さま(注;島津斉彬)」とその法名をきくだけでも慟哭したい思いを生涯もちつづけた。300-313p

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