2019年9月12日木曜日

『アカシアの大連』etc.

 『清岡卓行大連小説全集(上)』(日本文芸社、1992年)の中から『アカシアの大連』5部作にあてはまる箇所を読む。この本を読もうとしたきっかけは昨年末、大連に行ったことによる。先日、そこで知り合った人と家の前でばったり出くわし、次に大連に行く時はアカシアが咲く時季に行きたいと話した。その時、この本を教えてもらい、さっそく読んだ。昨日のアップと1部ダブル。削除せず、このままアップしよう。

 今朝は幾分涼しい。だが日中は32度と暑くなりそうだ。ただ、最低気温がこれまでのような26,7度でなく、23,4度の予報なので徐々に秋になるのだろう。

 昨日も暑くて自転車で外に出なかった。ただ、年が明けると早々、某文化交流会から出かける海外の旅の申込書を出しにポストまで歩く。これくらいでは運動にはならない。ほかにも日本画展に出す作品を額に入れたり出したりして品定めをする。その時、気づいた。額は見た目が大事。しかし、これも歳とともにいくら見栄えが良くても重たい額はどうでもいい。ガラスのものはプラスチックと差し替えて額に入れる。こうすると額全体も軽くなる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『アカシアの大連』5部作の気になる箇所の抜粋。

★五月に入ると、一、二回の雨のあとで、空は眼を洗いたくなるほど濃い青に澄みきり(そのような鮮やかなセルイリアン・ブルーを、彼は日本の空にみたことがなかった)、風は爽やかで、気温は肌に快い暖かさになったのであった。特に、彼の心を激しく打ったのは、久しく忘れていたアカシアの花の甘く芳しい薫りである。(「アカシアの大連」103p)

★中学校の三年生のときであったか、彼は学校の博物の授業で、先生からアカシアについて教わった。それによると、大連のアカシアは、俗称でそう呼ばれているので、正確には、にせアカシア、いぬアカシア、あるいはハリエンジュと呼ばれなければならないということであった。そして、大連にも本当のアカシアが二本ほどあり、それらは中央公園の東の方の入り口に近いところに生えていて、こういう形をしているということであった。……どこの愚かな博物学者がつけた名前か知らないが、にせアカシアから「にせ」という刻印を剥ぎとって、今まで町のひとびとが呼んできた通り、彼はそこで咲き乱れている懐かしくも美しい植物を、単にアカシアと呼ぼうと思った。(「アカシアの大連」106p)

★この綺麗な都会には、日露戦争のときの日本の将軍や外交官の名前がいろいろと付けられていたと思いだした。大山通り、山県通り、乃木町、奥町、児玉町、東郷町、小村公園……。それらの通りや町や公園の名前はすぐに消えて行くだろう、と彼は考えながら、土地の名前というものがそれぞれ独自に喚起する、この場合は淡い郷愁を感じていた。(「アカシアの大連」137p)

★それは、彼にとって、生まれて何回目かに経験する、大連のアカシアの花ざかりの時節であったろう。彼は、アカシアの花が、自分の予感の世界においてずっと以前から象徴してきたものは、彼女という存在であったのだと思うようになっていた。……いわば運命の共同の中で、彼は、アカシアの花の前に佇む彼女の慕わしい姿を眺めたのであった。(「アカシアの大連」154p)

★引き上げ船により不思議な新婚旅行で、二人は無国籍の海を通過し、彼女のまだ知らない日本に行き着くはずであった。荒廃しているかもしれない戦後の日本で、どんな新しい生活が始まるか、彼はさまざまな夢を、彼女に喋ってみたかった。しかし、その勇気はなかなか出ないようであった。アカシアの花が散らないうちに、あの南山麓の山沿いの長い歩道で、遠くにかつての自由港がぼんやりと浮かぶ夕ぐれどきに、と彼は思った。(「アカシアの大連」156p)

★ある日、彼はこういうことを知った。それは、モーツアルトの「フルート協奏曲第二番」が 「オーボエ協奏曲ハ長調K三一四またはK二七一」と実は同じものであり、注文をせかれて時間がなかったが、新しいものを作る意欲が乏しくなったか、あるいはオーボエをフルートに置き換えることが面白かったか、とにかく、ハ長調とニ長調のちがいはあるが、一九二〇年になってその完全な楽譜がベルンハルト・バウムガルトナー教授によって発見されたというオーボエの作品の方が原曲で、フルートの作品の方は、悪くいえば焼き直しであるということであった。(「フルートとオーボエ」204p)

★日本は日清戦争に勝って遼東半島を得たが、独・仏・露の三国干渉ですぐ返還した。ロシアは清国と条約を結んで関東州を租借し、青泥窪(チンニーワ)をダルニーと名づけた。……ロシアはダルニーに、近代文明の花を咲かせようとした。……並木はアカシアとポプラ。(ついでに言えば、アカシアは南ロシアから持ってきた。それは十七世紀のはじめ頃、原産地の北アメリカからヨーロッパに移されたはずのもので、十九世紀が終わろうとするとき、はるばるとダルニーまで渡ってきたのであった。)(「萌黄の時間」264p)(注:ダルニー=大連)

★日本は、孜孜と努力して、大連を立派な都会につくりあげた。ロシアが残した計画はいろいろ、取り入れたが、(たとえば、先にあげた円形広場のうち、一番大きいものとして構成されていたニコライエスカヤ広場は、今の大広場となって実現されているが)、日本はそうした計画を遥かに超える産業、文化面の建設をしている。そして、その都会は今も逞しく伸びつつある。(「萌黄の時間」265p)

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