2019年3月28日木曜日

『竜馬がゆく』(3)

 桜が満開との情報が入ってくる。ところが我が家に隣接する小学校の校門の桜は咲きそうにない。南の鹿児島もまだらしい。寒い日の後、急に暖かくならないと桜は目覚めないようだ。来月になると長野や岐阜辺りの桜の名所を巡る旅に出る。この季節、桜の名所巡りに出かけたのは母たちと身延山の枝垂れ桜を見に行ったことがある。ところが満開の時期を過ぎていて散りかけた状態だった。当時は勤めていたので休日を利用して出かけたのでそれも仕方なかった。ただ、家族で身延山にお参りできで良かったことを思い出す。

 先日来から読んでいる『竜馬がゆく』(3)(司馬遼太郎 文藝春秋、2010年新装版第24刷)。昨日から5巻目に入った。司馬遼太郎は好意を持った人物を描いている。『坂の上の雲』は秋山兄弟と正岡子規。『竜馬がゆく』は坂本竜馬を描く。竜馬を取り巻く女性陣は乙女姉さん、さな子、おりょうの3人がいる。4巻目の終わりにさな子との絆が描かれている。この後どうなるのか、ネットで坂本竜馬、さな子、おりょうで検索する。竜馬はおりょうと結婚していた。さな子は一生独身と思ったらいろんな説があるようだ。ともあれ、残りの4巻を読むのが楽しみだ。

 まさか、この歳になって司馬遼太郎の作品に目覚めるとは我ながら驚き。昨年末から4か月、この熱は冷めそうにない。これはいつまで続く!?司馬作品は何億冊と売れているそうだ。生きている限り、司馬作品と付き合える。嬉しい限り!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『竜馬がゆく』(3)から気になる個所の抜粋。

★「おれは、土佐に帰る」
時勢にそむくのは、損だ。弥太郎は、その夜、下宿を去って、天保山の船宿に入った。このとき、弥太郎が、なおも下横目として活躍しておれば、明治政府はかれに三菱会社を興させなかっただろう。井上は、残った。34-35p

★井上の不幸は、酒に意地きたなかったことである。人はその弱点で死ぬ。……「ああ酔うた酔うた」と井上によろけかかり、右手をまきつけてそのまま頸を締めた。なかまの久松喜代馬が井上の脇差をぬき、脇腹を串刺しに刺しとおした。死骸は、道頓堀川に投げすてた。42p

★竜馬は三味線が弾ける。乙女姉さんに教わった秘芸だ。……寺田屋殉難の志士を弔う即興の端唄をうたいはじめた。しぶいいいのどである。

咲いた桜に
 なぜ駒つなぐ
駒が勇めば
 花が散る

 薩摩の殿様(ただし藩公の実父)島津久光への恨みと皮肉をこめた唄である。……竜馬はさらに一曲。

何をくよくよ川端柳
 水の流れを見て暮らす

 人生流転。生死(しょうじ)はもと一つで、単に形を変えたものに過ぎない。竜馬のかれらへの弔詞のつもりであった。この寺田屋への即興の二つの唄はいまでも酒席でうたわれているが、竜馬が寺田屋を血に染めて死んだ連中に捧げた唄だとは、多くは知らない。76-78p

★大名の妻子は江戸屋敷におく、というのが幕府二百年の定法であった。いわば、幕府に対する人質である。大名の国もとでの謀叛をふせぐためのものであった。さらに、大名の富力を殺ぐために参勤交代をさせる。原則として、一年は江戸、一年は国もと、というぐあいに住みわけさせる制度である。諸大名は、多勢の家来を連れて、江戸、国もとのあいだを往来するために、ばく大な経費がかかった。かれらはしだいに疲弊し、幕府に反抗できるような財力も武力ももてなくなった。だから、徳川幕府は、二百数十年もつづきえたのである。103p

★土佐藩の意味は、幕末政局のなかで他藩を圧するものになり、
薩長土
という並称は、このときからうまれた。108p

★(こいつは、天成の男だな)
万人にひとり、自然法爾で、知らず識らずそういう境地に近づく稀有な人間でありよるのかもしれなかった。
(竜馬はそれであろう)
その素質はある。120-121p

★水戸学は。この土俗思想を調味料として、中国の尊王賤覇(王家を尊しとし、武力でひらいた政府を低しとする考え)の思想を中心としたもので、思想というよりも、宗教実をおびていた。
 この宗教的攘夷思想が、幕末一般の思潮である。
これを政争の道具に切りかえ、侮幕討幕の攻め道具に仕たてあげたのが、竜馬の時期よりも数年後の長州藩、薩摩藩である。政治的攘夷思想というべきであろう。170p

★幕末で、日本人は坂本竜馬だけだったといわれる。226p

★「人間、運などあるものか」と。竜馬は「人生は一場の芝居だというが」と、かつていったことがある。……後年、伝記作者が、この時期からの竜馬を「坂竜飛騰」といった。坂本竜馬という竜が、にわかに雲を得て騰がるという意味である。286p

★竜馬艦隊を持つということが、竜馬の尽きない夢であった。……男子の志は、簡明直截であるべきだと竜馬は信じている。
 船。
 これのみが、生涯の念願である。船をもち軍艦をもち、艦隊を組み、そしてその威力を背景に、幕府を倒して日本に統一国家をつくりあげるのだ。
 独創的な討幕方式である。
 薩摩の西郷も、長州の桂も、土州の武市もこれは思い浮かばないであろう。 
 人間、好きな道によって世界を切り拓いてゆく。竜馬はそんな言葉を残している。
 船。
 ふねに托された竜馬の夢は大きい。296p

★攘夷、すなわち勤王。
 開国、すなわち佐幕。
 というのが当時の図式である。
 日本の国力で列強の軍を撃ちはらえるわけがないのだが、天皇(孝明帝)はそれができると信じ、かつ武市ら攘夷志士が、朝廷を焚きつけて日本政府である幕府にそれを強要させている。
 あわれなのは幕府だ。……その朝廷を背後であやつっているのが、長州藩と土州藩武市派である。330-331p

★「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない」
右の意味は、竜馬の持論で、かれはつねづね友人に語っていたが、これを木ノ本の宿で藤兵衛にも語った。……竜馬の眼にめずらしく鬼気がある。410p

★「日本では 戦国時代に領地をとった将軍、大名、武士が、二百数十年、無為徒食して威張りちらしてきた。政治というものは、一家一門の利益のためにやるものだということになっている。アメリカでは、大統領が下駄屋の暮らしの立つような政治をする。なぜといえば、下駄屋どもが大統領をえらぶからだ。おれはそういう日本をつくる」
 竜馬のこの思想は、かれの仲間の「勤王の志士」にはまったくなかったもので、この一事のために、竜馬は維新史上、耀ける奇蹟といわれる。430p

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