2019年3月12日火曜日

『竜馬がゆく』(1)

 5月に予定している旅の参加人員はいかに?と思い、ネットで検索する。出かけようとする旅は依然と同じ状況だ。ところがその前に出発する旅は催行確定となっている。そうと知って昨日、J〇Bに電話する。催行確定日の残席を問うとOKだった。5月は催行なるかどうかわからないらしく4月の出発に変更する。ところが4月に替えるとその前の週に泊りがけの国内旅を別の旅行社で申し込んでいる。結果、どちらとも出かけることになった。ということで今日からこれまでよりも早く起きるようにしよう。

 学校で習った歴史は大嫌いだった。ところが、司馬遼太郎の本を読んで歴史の面白さを今更ながら知る。人生は本当に何が起こるかわからない。『竜馬がゆく』は全8巻あり、今、2巻目を読んでいる。全部を読み終えるには時間がかかりそうだ。司馬作品は自分のこれからの生涯をかけて読み終えることができるかどうか、それくらい多くの作品がある。とはいえ、全作品を読み終えようと今のところ張り切って読んでいる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『竜馬がゆく』(1)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年新装版第13刷)から気になる個所の抜粋。

★黒船どもの真意は、たんに測量だけでもなかった。品川の見えるあたりまで近づき、日本人をおどすためにごう然と艦載砲をうち放ったのである。もはや、外交ではない。恫喝であった。ペリーはよほど日本人をなめていたのだろう。
 この品川沖の数発の砲声ほど、日本歴史をかえたものはない。
 幕閣がふるえあがって開国へ徐々にふみきる決意をしたのはこのときだし、全国に、猛然と志士が立ちあがって、開国反対、外国人うちはらうべし、の攘夷論が、黒煙のごとく天下をおおいはじめたのは、このときからであった。同時に、近代日本の出発もこの艦載砲が、火を吐いた瞬間からであるといってよい。132p

★この村からほど近い所に長浜村鶴田という部落があり、そこに流謫の人がいた。
 のちの藩の独裁者吉田東洋である。……
 弥太郎は、東洋の門下生に入った。
 東洋はその後許されて再び藩の行政権をにぎったとき、この長浜村で門人にとりたてた藩士の子弟をそれぞれ枢要の位置にすえた。
 もっとも弥太郎は地下浪人の出だったためにすぐには取りたてられなかったが、のちに財務官として土佐藩の金銭を握るにいたった開運は、このときだったといっていい。(弥太郎とはのちに三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎のこと)366p

★郷士の子は生涯郷士でしかなかった。いかに学問武芸に秀でようとも、上士にはなれなかった。上士でなければ、藩公に近づくことはできない。
 この土佐守豊信は、薩摩の島津斉彬、越前の松平春嶽とならんで幕末の風雲のなかで活躍した出色大名だが、それでさえ、竜馬の名をこれっきりで忘れた。
 後年、竜馬が脱藩して、西海に私設艦隊を率いて天下に臨んだとき、
「坂本龍馬とは、そうであったか。江戸の剣術試合で働いたあの男か」
と、やっと思いだしたという。420-421p

★これが竜馬の一生を通じての思想だった。武士であるとか町人であるとか、そういうものはこの世の借り着で、正真正銘なのは人間いっぴきの坂本竜馬だけである、と竜馬は思っている。425p

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