2019年3月18日月曜日

『竜馬がゆく』(2)

 『竜馬がゆく』(2)(司馬遼太郎 文藝春秋、2015年新装版第25刷)を読んだ。『竜馬がゆく』は全8巻あり、今は3巻目を読んでいる。先日まで読んでいた『坂の上の雲』もそうだが、今読んでいる本も手元に電子辞書が離せない。文字は読めても意味がつかめないとか、初めから文字が読めないことが多々ある。その都度、電子辞書の出番となる。この辞書は例えば固有名詞を検索して、有名人であれば国会図書館所蔵の写真が添付されているのが良い。そのため司馬が個人の顔の特徴を記した場面も辞書で検索してすぐにその特徴がわかる。

 かなり昔、誰かが坂本竜馬が理想のタイプ、と話したことがあった。本を読んでいくにつれてそう話した人を思い出す。話した当時は坂本竜馬の名前は知っていてもその人となりは全く分からなかった。今、2巻ほど読んで竜馬の男らしさがわかって来た。今から150年余り前の武士の生き方がよくわかる。気に入らなければすぐに首が飛ぶ。首切り、とはまさにこのことだ、と知る始末。今の世であれば刀でなく拳銃がその役目を果たすのだろう。竜馬が亡くなったころ、母の父が生まれている。写真でしか知らない祖父。150年前はまだ最近のことに思えるが、本で読む世相は今とは全く異なる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
 
 以下は『竜馬がゆく』(2)から、気になる個所を抜粋したもの。

★この時代の「学問」というのは、今日の学問、つまり人文科学とか自然科学とかといったものと、言葉の内容が違う。哲学、という意味である。というより、倫理、宗教にちかい。要するに、儒教である。教養の中心は、人間の道の探求とそれをまもることにあるのだ。孔子を教祖とし、それに中国、日本の先哲がのこした名言を学ぶ。学ぶだけでなく、踏みおこなう。……この時代の学問とは、倫理道徳、みな同じ型の人間をつくるのが、最高の理想である。「乱臣賊子」ができれば、封建体制はくずれてしまうのだ。幕府、諸藩が、その藩士にやっきになって「学問」をすすめたのは、その理由からである。169p

★「資治通鑑じゃ」
中国の史書である。……中国の史書の書きかたには、ふたとおりある。人物伝中心の「紀伝体」と、時の流れを忠実に追ってゆく「編年体」とがあるが、これは、「編年体」の最大の傑作といわれる。171p

★討幕維新の運動をやった薩長土三藩は、いずれも三百年前の関ケ原の敗戦国である。幕府には、恨みがあった。が、土佐藩のばあい敗戦者は旧長曽我部家の遺臣の子孫である軽格連中であり、藩公以下上士は、戦勝者であった。自然、佐幕主義足らざるをえない。225p

★土佐藩では、いまの参政吉田東洋が就任するまでは徹底的な倹約令が布かれ、かんざしも、金銀さんごのたぐいは売ることも使用することも禁じられていた。武市の二十ごろに起こった例の「お馬・純信」の恋愛事件も、よさこい節にあるように、たしかに播磨屋橋で純信坊主がお馬に贈るかんざしを買いはしたが、その現物たるや、馬の骨に赤い染料をぬってさんご類似の感じを出しただけの粗末なものである。242p

★勤王討幕。
そういう言葉が、史上、実際運動の政治用語として用いられたのは、この麻布の空き家での密会のときが最初であった。それまでは尊王攘夷という言葉はあったが、「討幕」という衝撃的な言葉がつかわれたのは、おそらくこのときが最初であろう。247p

★吉田東洋の頑固は、因循姑息な頑固ではなく、きわめて攻撃的な頑固であった。
十八歳、すでに芽生えがある。家僕を殺している。……むろん、罪にはならない。主人が自分の家来を無礼討することは、この時代のいわば刑法で認められていたからである。
が、この事件は東洋の一生を決定ししたらしく、以後、門を閉じてつつしみ、学問、武芸に熱中した。後悔したらしい。295-296p

★この当時の武士は、いまのわれわれの市民諸氏ではない。武士である。武士が「やる」
というのは、命を捨てる、ということだ。腹を切れといえば松木はこの場で立腹でも切るだろう。この武士どもの異常なエネルギーが、明治維新という大史劇を展開させたのである。他国の革命とは、その点、ちがっている。
さらに筆者は捕足しなければならない。このときの竜馬の役割である。当時新聞もラジオもなく、世人は時勢に想像以上に暗かったいったが、竜馬のこのときの役割はいわば新聞記者のようなものである。346-347p

★竜馬が乗り込んだ長州藩とは、そもそもどういう藩か。……幕末、この藩は極端な過激主義となり、政治的に暴走をかさねて、ついに歴史を明治維新にまで追いあげた主導的な藩だからだ。……要するに、徳川家よりも毛利家のほうが老舗なのである。……幕府も諸大名も米穀経済にたよっているときに、製紙、製鑞という軽工業方式にきりかえ、かつ新田を開発し、このため幕末ではゆうに百万石の富力をもつにいたった。幕末、他藩が農業国家として窮乏にあえいでいるとき、長州藩には十分の金があった。富で洋式軍隊にきりかえ、おなじく軽工業藩である薩摩藩とともに、幕府に対抗する二大軍事勢力になったのである。366-367p

★竜馬の脱藩後、藩庁の調べで、柴田家の陸奥守吉行の一刀をお栄からもらいうけたことがわかり、柴田義秀は激怒した。
じきじき坂本家へきて、お栄を責めた。
「なぜ、そなたはわしの形見を余の者にあたえたか」
そのあと、お栄は自殺している。
考えてみると、天が、竜馬という男を日本歴史に送りだすために、姉の一人を離縁せしめ、いま一人の姉に自害までなさしめている。異常な犠牲である。413p

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