年に一度あるメーカーのフルート・クリニック。明日からフルートを習って27年目に突入する。この間、忙しくて習えない時期もあった。それでも何とか長く続けている。アジアを学ぶ塾で塾長はナニゴトも20年続ければ何とかなる、と話された。こう聞いた時はフルートを習い始めて間もないころだった。20年、というこの言葉。かなり感銘を受ける。
そのフルートも習い始めて20年はとっくに過ぎた。モノにはなっていない。しかし、自分なりにモノになったと思えないこともない。これでいいんだ、と自分に言い聞かせてこれからも習い続けよう。
点検の予約時刻よりも早く着く。福屋八丁堀店によって開催中の関菜穂子日本画展を見る。「~”こころ”を”かたち”に~」のタイトルの個展。この人の絵は初めて見る。2番目の展示は睡蓮の絵。見始めると画家が挨拶に来られる。これ幸い、と思って「これは蓮…?」と聞くと「睡蓮です」と返答される。今、蓮の絵を描いているので関心がいく。「睡蓮の絵が多いですね」と問うと「好きですからほとんど花は睡蓮…」。また「鎌倉に住んでいます。まわりに睡蓮が多い…」とのこと。日本画というよりも油絵がかった日本画のようだった。それでも「睡蓮」の絵に興味を惹かれる。
絵を見終えてフルート・クリニックの会場へ移動する。3人のメンテをするフルート技師。毎年のことなので顔見知りになる。フルートは購入時は高いと思っても維持費はあまりかからない。しかし、タンポなどの交換時には数万円以上かかる。タンポは一度すべて交換してもらっているので今のところ大丈夫らしい。ともあれ長く使っているフルート。習い始めの頃は音が出るだろうか、すぐにやめるのでは…といろんなことが頭をかすめた。それも今となっては懐かしい。もともと肺活量が少ないということが頭にあり、それを心配していたことにもよる。
点検を終えると歩いて画材屋に向かう。次に絵を描くF6木製パネルを購入する。あらかじめ電話で鳥の子紙を貼ってもらうように依頼した。お店の人曰く「〇〇先生の生徒さん?」。そう、と答えると秋の展示会の額をよろしくとのことだった。家に額が溜まりすぎる。なるべく新たに購入しないように同じ大きさの額に入る絵を描くようにしている。
お店から広島駅まで歩く。駅前のデパートに入ると着ていた服などが同じメーカーのお店に行く。商品を見ると欲しくなる。店員さんは自社のブランド服を着ているとわかってくれた。だが、新たに買わずにティータイム。
桜の季節もフルートの点検も年に一度のことだ。あと20年生きるとしても20回しか桜も見られない。先を考えるとぞっとする。今は今だけを考えて…。駅までの道は何処もここも桜が咲いていた。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2018年3月31日土曜日
2018年3月30日金曜日
お花見&♪レッド・シンフォニー♪を聞きに行く
春の陽気に誘われて自転車に乗って桜を見に行く。今日くらいが満開だろうか。多くの人で賑わう。2級河川の両岸に咲く桜。今年の桜の咲き具合は例年ほどではないようだ。川の傍を歩きながら満潮時にはどの辺りまで海水が入るのか気になる。桜を愛でながら食べるお昼は美味!
夕方からNHK広島放送局開局90年事業の公開放送を聞きに行く。開演は午後6時半から。しかし座席券の交換は午後2時。早く行っても待機せねばならない。席は何処でもいい。午後4時くらいに家を出て会場に向かう。席は1階の後ろから2番目の席で一番右端。いい席だった。
”赤”につながる音の旅と銘打ったレッド・シンフォニー。どういっても「広島と赤」は切り離せない。”赤”と言えばまずはCarp、そして厳島神社(宮島)の大鳥居の赤。先日、厳島神社の話を聞いたばかりでよかった。もらったプログラムによると「広島を象徴する『赤色』をキーワードに、人々に勇気や希望、生きる力を与えてきた音楽の数々を豪華な出演者の演奏によりたっぷりとご紹介します」とある。
まさにその通りの素晴らしい演奏会だった。戸田菜穂とアナウンサーの司会で錦織健、正戸里佳、森麻季、山田武彦、吉松隆、それに広島交響楽団とNHK広島児童合唱団が加わる。
錦織健の歌声は一度聞いて見たかった。サービス精神旺盛な人だ。♪オーソレ・ミオ♪の途中の歌声をかなり伸ばして、さらにはバットを持つような格好で歌う。肺活量はいくら?と聞きたいほど音を伸ばし切って歌っていた。会場からは拍手喝采!他にも日本の歌を3曲歌う。いつかまたゆっくりとこの人のコンサートを聞いてみたい。正戸はバガニーニ国際コンクールで優勝した人。ヴァイオリン奏者でこれもよかった!森もオペラ歌手。知名度がある人はやはりそれなりの人だと改めて感動して聞く。良かった。ピアノの山田、作曲家の吉松とどの人も素晴らしい。パンフにあるように豪華な出演者だった。
演奏の最後は♪それゆけCarp♪を全員で歌う。今日からプロ野球が開幕する。今年も頑張れカープ。地元の演奏会は公共放送のNHKであってもすべてはカープ一色だ。大阪は阪神、福岡はホークス、その他の球団を応援するのはどの地元だろうか?そういえば広島交響楽団の前身はNHK広島放送管弦楽団だそうだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
夕方からNHK広島放送局開局90年事業の公開放送を聞きに行く。開演は午後6時半から。しかし座席券の交換は午後2時。早く行っても待機せねばならない。席は何処でもいい。午後4時くらいに家を出て会場に向かう。席は1階の後ろから2番目の席で一番右端。いい席だった。
”赤”につながる音の旅と銘打ったレッド・シンフォニー。どういっても「広島と赤」は切り離せない。”赤”と言えばまずはCarp、そして厳島神社(宮島)の大鳥居の赤。先日、厳島神社の話を聞いたばかりでよかった。もらったプログラムによると「広島を象徴する『赤色』をキーワードに、人々に勇気や希望、生きる力を与えてきた音楽の数々を豪華な出演者の演奏によりたっぷりとご紹介します」とある。
まさにその通りの素晴らしい演奏会だった。戸田菜穂とアナウンサーの司会で錦織健、正戸里佳、森麻季、山田武彦、吉松隆、それに広島交響楽団とNHK広島児童合唱団が加わる。
錦織健の歌声は一度聞いて見たかった。サービス精神旺盛な人だ。♪オーソレ・ミオ♪の途中の歌声をかなり伸ばして、さらにはバットを持つような格好で歌う。肺活量はいくら?と聞きたいほど音を伸ばし切って歌っていた。会場からは拍手喝采!他にも日本の歌を3曲歌う。いつかまたゆっくりとこの人のコンサートを聞いてみたい。正戸はバガニーニ国際コンクールで優勝した人。ヴァイオリン奏者でこれもよかった!森もオペラ歌手。知名度がある人はやはりそれなりの人だと改めて感動して聞く。良かった。ピアノの山田、作曲家の吉松とどの人も素晴らしい。パンフにあるように豪華な出演者だった。
演奏の最後は♪それゆけCarp♪を全員で歌う。今日からプロ野球が開幕する。今年も頑張れカープ。地元の演奏会は公共放送のNHKであってもすべてはカープ一色だ。大阪は阪神、福岡はホークス、その他の球団を応援するのはどの地元だろうか?そういえば広島交響楽団の前身はNHK広島放送管弦楽団だそうだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
河川敷の桜 |
2級河川の両岸は桜並木 満潮時の海の水はここまで? |
2018年3月29日木曜日
「激動の世界を行く」ポーランドを見る
暖かくなった。かなり重たい腰を上げて昨日午後から大型ゴミとして出す押入れの布団を触る。出すと言っても2階の押し入れと合わせるとかなりの枚数になる。手始めに1枚取り出すと新しく感じられる。子どもの頃、布団は家の財産のように思った。ゴミとして処分することに抵抗を感じる。しかし、思い切って3枚取り出す。大型ゴミの回収は先ほど市に電話するとやっと通じた。次の火曜日になるという。
当日8時半までに家の前に出さねばならない。それまで置く場所がない。とりあえず布団3枚と衣装ケース2個を出すことにした。また徐々にゴミとして出そう。布団以外にも毛布やシーツ類がある。毛布は使わなくなった。シーツ類ははさみで切って燃えるゴミに出そう。毛布はさてさて…。それにしても1点250円必要。全部合わせるとかなりの枚数がある。そう思えば、物を買うにも考えて買わねばならない。一件落着となった大型ゴミ。1回ずつ出すゴミの量を決めて出せばそのうちゴミもなくなるだろう。
昨日と言えば米子の友だちから久々にメールが届く。今月いっぱいで退職するという。メールには文楽に夢中になり大阪まで出かけて見ているという。他にも北海道3日間のツアーが伊丹空港から29900円であるそうだ。これに誘われて夜遅く電話する。行くのはいいのだが伊丹までのJR運賃と前泊を入れると北海道に行くくらいの費用になる。広島からだと札幌行きの直行便がある。この件は止めることにした。友だちは米子在住なので大阪までは簡単に行けるらしい。
友だちは親の介護をするまで60回くらい海外旅行に出かけている。しかし10年くらいのブランクがあり、北海道はまだ行ったことがないという。どういっても今は行かれないアフガニスタンも行った人だ。この人とはパキスタンの旅で知り合う。話をしていて辺境の地に出かけても日本の北海道は行っていないと聞いて驚いてしまった。
昨夜はBS1で「激動の世界を行く」を見る。途中から見るとポーランドだった。番組HPを見ると「終わらないEUクライシス」とのタイトルで「『自由・平等・民主主義』を掲げ世界に先駆け統合を進めてきたEUは、2018年、その存在意義を試される正念場を迎えた。震源のひとつが域内で高まる民族主義。顕著な例が独立運動に揺れるスペイン・カタルーニャだ。独立派の党首が国内不在のまま、事態収束のめどは立たない。もう1つがポーランドなどの東欧に見るEUからの遠心力。EUの基本的理念にも真っ向から対立している。EUはどこに向かうのか。2つの地域から探る」とある。
EUの原点となったアウシュビッツ・ビルケナフ収容所。悲劇を繰り返すまい、がその原点にあった。ポーランドは今、愛国心に揺れている。自国第一主義が愛国心を生む。愛国心は大事なことだが、暴走しすぎると民族主義となって元の木阿弥に陥ってしまう。
それでも望みはある。破壊されつくしたワルシャワの街の修復作業が進んでいるのだ。世界中から年間200万もの人がポーランドの悲惨な場所を訪れている。戦争当時はポーランドという国はなかった。しかし、今は国を取り戻す。過激な民族主義に走らねばいいが…。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
当日8時半までに家の前に出さねばならない。それまで置く場所がない。とりあえず布団3枚と衣装ケース2個を出すことにした。また徐々にゴミとして出そう。布団以外にも毛布やシーツ類がある。毛布は使わなくなった。シーツ類ははさみで切って燃えるゴミに出そう。毛布はさてさて…。それにしても1点250円必要。全部合わせるとかなりの枚数がある。そう思えば、物を買うにも考えて買わねばならない。一件落着となった大型ゴミ。1回ずつ出すゴミの量を決めて出せばそのうちゴミもなくなるだろう。
昨日と言えば米子の友だちから久々にメールが届く。今月いっぱいで退職するという。メールには文楽に夢中になり大阪まで出かけて見ているという。他にも北海道3日間のツアーが伊丹空港から29900円であるそうだ。これに誘われて夜遅く電話する。行くのはいいのだが伊丹までのJR運賃と前泊を入れると北海道に行くくらいの費用になる。広島からだと札幌行きの直行便がある。この件は止めることにした。友だちは米子在住なので大阪までは簡単に行けるらしい。
友だちは親の介護をするまで60回くらい海外旅行に出かけている。しかし10年くらいのブランクがあり、北海道はまだ行ったことがないという。どういっても今は行かれないアフガニスタンも行った人だ。この人とはパキスタンの旅で知り合う。話をしていて辺境の地に出かけても日本の北海道は行っていないと聞いて驚いてしまった。
昨夜はBS1で「激動の世界を行く」を見る。途中から見るとポーランドだった。番組HPを見ると「終わらないEUクライシス」とのタイトルで「『自由・平等・民主主義』を掲げ世界に先駆け統合を進めてきたEUは、2018年、その存在意義を試される正念場を迎えた。震源のひとつが域内で高まる民族主義。顕著な例が独立運動に揺れるスペイン・カタルーニャだ。独立派の党首が国内不在のまま、事態収束のめどは立たない。もう1つがポーランドなどの東欧に見るEUからの遠心力。EUの基本的理念にも真っ向から対立している。EUはどこに向かうのか。2つの地域から探る」とある。
EUの原点となったアウシュビッツ・ビルケナフ収容所。悲劇を繰り返すまい、がその原点にあった。ポーランドは今、愛国心に揺れている。自国第一主義が愛国心を生む。愛国心は大事なことだが、暴走しすぎると民族主義となって元の木阿弥に陥ってしまう。
それでも望みはある。破壊されつくしたワルシャワの街の修復作業が進んでいるのだ。世界中から年間200万もの人がポーランドの悲惨な場所を訪れている。戦争当時はポーランドという国はなかった。しかし、今は国を取り戻す。過激な民族主義に走らねばいいが…。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2018年3月28日水曜日
平清盛公生誕900年記念シンポジウムを聞きに行く
昨日、廿日市市の「さくらぴあ」小ホールで開催された平清盛公生誕900年記念シンポジウム「厳島神社と日本文化の源流」を聞きに行く。サブタイトルとして「厳島神社の信仰・景観・歴史は日本の文化とどのように関わってきたのか」とある。
「さくらぴあ」へは何度も出かけている。しかし春の季節は初めてだった。JR五日市駅から広電の電車に乗り換えて市役所前で下車。駅前は桜が満開でホールまでの道も桜並木となっている。さすが「さくらぴあ」だ。会場に着くと大小のホールがある。大ホールは入ったことがあるが小ホールは初めて入る。一番前の席に座る。しかしこの席が端っこであったためか、声が聞こえにくい。さくらぴあ、は地元の木材業者の協力で建設されたと聞いている。そのためか木材を使ったホールは音響効果抜群と評価も高い。ところがそれも音楽会であればいいが講演会では音が響きすぎて聞き取りにくい。ましてや席の近くではいびきの音も入る。
基調講演に国文学者の中西進氏を迎えての講演会。この人の話は5年くらい前にも松江まで出向いて聞いたことがある。またいつか行きたいと思っている奈良の万葉文化館の名誉館長など要職にもつかれている。中西氏は小学校時代、親の仕事の関係で3年半ほど広島に住んでおられ、広島との縁がある方だ。「厳島神社と日本文化の源流」とシンポジウムにあるように厳島神社と切っても切り離せないのが平清盛。「清盛と厳島神社」について話される。
厳島神社は海の神様を祀っている。神様には天と海の神様がおられ、海の神様は海神(わだつみ)であり、厳島神社はわだつみを祀っている①。②として海上の部分が寝殿造でできておりその巨大版だという。③は神様と仏様が一体化した神仏混合。しかし誰もこれを問題にしない。それも厳島神社とあるように神社だ。だが、『平家納経』にはお寺としてある。
この②と③は疎かにできないと中西氏は話される。いつ、だれが、どのようにしてこのような特殊な形態の厳島になったのか、と問いかける。これには平清盛の死に方にあった。
清盛は1118年に生まれて1181年に亡くなる。厳島神社は「内海」にある。この文字は中国にはないそうだ。水をたたえた集団が日本人であり、内海を通って九州がある。清盛は海から生まれてきた覇者であり覇権を確立した。また水を中心として都の拡大版を造った。京都、奈良に次ぐ第3の都として厳島神社があり西の方に向かった。これは西方浄土?
厳島神社は京都ではなく副都。清盛の心の中に厳島は心の原点としてあったのではないかという。『平家納経』は心の原点として、氏神として、政治家として清盛はもっていた。
藤原氏は春日大社の氏神として祀られている。これを真似して清盛は厳島神社に祀られる?
日本の歴史の転換点には近代化がある。今から150年前がそうだ。その700年前もそうだった。平清盛は転換期を造ったという。同時代に西行がいた。この時代は乱世で西行は満月の日に亡くなる。西行と清盛の「死に方」を比べると満月に亡くなった西行と比べて清盛は苦しんで亡くなっている。西行と清盛は同時代を生き、異質と許容する時代だったという。西行は1118年に生まれて1190年に亡くなる。清盛とは生まれた年が同じで清盛の方が2年長生きだ。西行は佐藤義清だとか。
厳島神社のある広島県に住んでいても厳島神社、清盛、西行とこの関係性を何も知っていないと改めて気づかされる。面白いお話だった。しかし、はっきㇼと聞こえない箇所もあり聞き違えているかもしれない。西行の話も面白そうなのでこの人の本を読んで見たくなった。シンポジウムはここでは割愛しよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
「さくらぴあ」へは何度も出かけている。しかし春の季節は初めてだった。JR五日市駅から広電の電車に乗り換えて市役所前で下車。駅前は桜が満開でホールまでの道も桜並木となっている。さすが「さくらぴあ」だ。会場に着くと大小のホールがある。大ホールは入ったことがあるが小ホールは初めて入る。一番前の席に座る。しかしこの席が端っこであったためか、声が聞こえにくい。さくらぴあ、は地元の木材業者の協力で建設されたと聞いている。そのためか木材を使ったホールは音響効果抜群と評価も高い。ところがそれも音楽会であればいいが講演会では音が響きすぎて聞き取りにくい。ましてや席の近くではいびきの音も入る。
基調講演に国文学者の中西進氏を迎えての講演会。この人の話は5年くらい前にも松江まで出向いて聞いたことがある。またいつか行きたいと思っている奈良の万葉文化館の名誉館長など要職にもつかれている。中西氏は小学校時代、親の仕事の関係で3年半ほど広島に住んでおられ、広島との縁がある方だ。「厳島神社と日本文化の源流」とシンポジウムにあるように厳島神社と切っても切り離せないのが平清盛。「清盛と厳島神社」について話される。
厳島神社は海の神様を祀っている。神様には天と海の神様がおられ、海の神様は海神(わだつみ)であり、厳島神社はわだつみを祀っている①。②として海上の部分が寝殿造でできておりその巨大版だという。③は神様と仏様が一体化した神仏混合。しかし誰もこれを問題にしない。それも厳島神社とあるように神社だ。だが、『平家納経』にはお寺としてある。
この②と③は疎かにできないと中西氏は話される。いつ、だれが、どのようにしてこのような特殊な形態の厳島になったのか、と問いかける。これには平清盛の死に方にあった。
清盛は1118年に生まれて1181年に亡くなる。厳島神社は「内海」にある。この文字は中国にはないそうだ。水をたたえた集団が日本人であり、内海を通って九州がある。清盛は海から生まれてきた覇者であり覇権を確立した。また水を中心として都の拡大版を造った。京都、奈良に次ぐ第3の都として厳島神社があり西の方に向かった。これは西方浄土?
厳島神社は京都ではなく副都。清盛の心の中に厳島は心の原点としてあったのではないかという。『平家納経』は心の原点として、氏神として、政治家として清盛はもっていた。
藤原氏は春日大社の氏神として祀られている。これを真似して清盛は厳島神社に祀られる?
日本の歴史の転換点には近代化がある。今から150年前がそうだ。その700年前もそうだった。平清盛は転換期を造ったという。同時代に西行がいた。この時代は乱世で西行は満月の日に亡くなる。西行と清盛の「死に方」を比べると満月に亡くなった西行と比べて清盛は苦しんで亡くなっている。西行と清盛は同時代を生き、異質と許容する時代だったという。西行は1118年に生まれて1190年に亡くなる。清盛とは生まれた年が同じで清盛の方が2年長生きだ。西行は佐藤義清だとか。
厳島神社のある広島県に住んでいても厳島神社、清盛、西行とこの関係性を何も知っていないと改めて気づかされる。面白いお話だった。しかし、はっきㇼと聞こえない箇所もあり聞き違えているかもしれない。西行の話も面白そうなのでこの人の本を読んで見たくなった。シンポジウムはここでは割愛しよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
さくらぴあへの道 |
2018年3月27日火曜日
「大学に通って学び直す楽しみ」から&プールで泳ぐ
卒業、進学、入学、入社の季節になった。ネットによるとこの頃は定年退職を卒業というらしい。ともあれ、3月は卒業シーズン。
昨夜、固定電話の電話が鳴る。どうせ変な電話、と思ってすぐに留守電に切り替える。ディスプレイを見て電話を掛けなおすと知っている人だった。話をすると3日後にタイへ旅行するという。以前、ラオスへ一緒に行った人だ。
去年夏、九州のお坊さんたちとタイへ行った。その時のブログを見られたようで注意することを聞かれる。タイは世界で一番暑いというか蒸し暑い国と感じた。そのためか一緒に行ったお坊さんたちの帰国後のダウン。これは蒸し暑さに負けたのでは…との思いが強い。その点を知らせてあげる。
今、図書館で借りて古い文藝春秋10月号を読んでいる。記事に大特集として「定年後の常識が変わった」があり、「大学に通って学び直す楽しみ」も記事にある。これを読むと社会人大学生と院生時代に学んだ大学で、今、学んでいる人が取り上げられる。広島の播磨チヅ子という69歳の女性だ。小学校の校長を定年で退職後、9年前に再度母校である今の大学に学部生で入学。フランス語を学ばれる。その後、大学院で学ばれ、現在は博士課程後期に6年かかって学ばれるという。
9年前に修了したのでこの方と入れ違いになる。自分自身は短大卒だったので学部生として入学した。入学目的の1つに大学院で学ぶことがあった。それには大学を卒業していないと入学資格がない。しかし、記事の人は教育に携わっておられた人で若い頃すでに学部を終えられている。それでもデカルトを原典で読むのが目的らしくフランス語が必要だった。
外国語が苦手だったそうだ。しかし、学部生から入ってフランス語を学び、デカルトを読むとは素晴らしい。この記事を読み始めの頃、フランス語?と思った。学部生の頃、同じく短大卒で学部に入学された英検1級の人が1年先輩にいた。その人と大学の行き帰りはJRで通っていたので市内に着くまでよく話をした。学部生になって初めてフランス語を学ばれて院生時代もフランス語を専門とされた。この方が記事の方かと思ったが違っていた。
昨夜の電話の人も同じ時期に学ばれた。その人は2つの院生時代を過ごされている。やはり、JRでの行き帰りで顔見知りになり話をするようになった。文藝春秋の記事を教えてあげる。同じ志を持った人とはどこかで通じるものがある。当時のことをブログに記していれば、と悔やまれる。いろんな人が学んでおられた。この人は国の機関で働かれ、ドイツに関することを学ばれていた。今でも放送大学で学ばれ、電話からやる気が伝わる。
もしも再度学ぶならば次はイスラムを学びたい。もともとイスラムを、と思って先生を訪ねたことがある。その時、持ちきれないほどの資料を貸してくださった。イランがご専門の先生からはまずはペルシャ語から学ばねばならない。これは到底無理と思って以前から学んでいた中国関係に矛先を変える。そのこともあってイスラムには興味を持っている。そういえば卒業論文はイスラムに関係ある「東トルキスタン共和国」の盛世才に関することだった。院生時代は中国近代だけれど…。これまで出かけた国もイスラム圏が多いのも我ながらうなづける。
話は変わって昨日は久々にプールで泳ぐ。春休みなので子供たちがいると思った。しかし、プールの中は閑散としている。皆さん、お花見に行かれたのだろうか。一気に春になった。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
昨夜、固定電話の電話が鳴る。どうせ変な電話、と思ってすぐに留守電に切り替える。ディスプレイを見て電話を掛けなおすと知っている人だった。話をすると3日後にタイへ旅行するという。以前、ラオスへ一緒に行った人だ。
去年夏、九州のお坊さんたちとタイへ行った。その時のブログを見られたようで注意することを聞かれる。タイは世界で一番暑いというか蒸し暑い国と感じた。そのためか一緒に行ったお坊さんたちの帰国後のダウン。これは蒸し暑さに負けたのでは…との思いが強い。その点を知らせてあげる。
今、図書館で借りて古い文藝春秋10月号を読んでいる。記事に大特集として「定年後の常識が変わった」があり、「大学に通って学び直す楽しみ」も記事にある。これを読むと社会人大学生と院生時代に学んだ大学で、今、学んでいる人が取り上げられる。広島の播磨チヅ子という69歳の女性だ。小学校の校長を定年で退職後、9年前に再度母校である今の大学に学部生で入学。フランス語を学ばれる。その後、大学院で学ばれ、現在は博士課程後期に6年かかって学ばれるという。
9年前に修了したのでこの方と入れ違いになる。自分自身は短大卒だったので学部生として入学した。入学目的の1つに大学院で学ぶことがあった。それには大学を卒業していないと入学資格がない。しかし、記事の人は教育に携わっておられた人で若い頃すでに学部を終えられている。それでもデカルトを原典で読むのが目的らしくフランス語が必要だった。
外国語が苦手だったそうだ。しかし、学部生から入ってフランス語を学び、デカルトを読むとは素晴らしい。この記事を読み始めの頃、フランス語?と思った。学部生の頃、同じく短大卒で学部に入学された英検1級の人が1年先輩にいた。その人と大学の行き帰りはJRで通っていたので市内に着くまでよく話をした。学部生になって初めてフランス語を学ばれて院生時代もフランス語を専門とされた。この方が記事の方かと思ったが違っていた。
昨夜の電話の人も同じ時期に学ばれた。その人は2つの院生時代を過ごされている。やはり、JRでの行き帰りで顔見知りになり話をするようになった。文藝春秋の記事を教えてあげる。同じ志を持った人とはどこかで通じるものがある。当時のことをブログに記していれば、と悔やまれる。いろんな人が学んでおられた。この人は国の機関で働かれ、ドイツに関することを学ばれていた。今でも放送大学で学ばれ、電話からやる気が伝わる。
もしも再度学ぶならば次はイスラムを学びたい。もともとイスラムを、と思って先生を訪ねたことがある。その時、持ちきれないほどの資料を貸してくださった。イランがご専門の先生からはまずはペルシャ語から学ばねばならない。これは到底無理と思って以前から学んでいた中国関係に矛先を変える。そのこともあってイスラムには興味を持っている。そういえば卒業論文はイスラムに関係ある「東トルキスタン共和国」の盛世才に関することだった。院生時代は中国近代だけれど…。これまで出かけた国もイスラム圏が多いのも我ながらうなづける。
話は変わって昨日は久々にプールで泳ぐ。春休みなので子供たちがいると思った。しかし、プールの中は閑散としている。皆さん、お花見に行かれたのだろうか。一気に春になった。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2018年3月26日月曜日
ブログetc.
昨日の内田樹のツイッターに「往復書簡第一信を送稿。『人はなぜ旅日記を書くのか』について書きました。…」とある。これを見て昨日、旅のブログをアップしたばかりなので改めて自分に問う。とはいってもナニゴトも「なぜ〇〇…のか?」と考えたことがない。では、ヒトはこれについてどう考えているのかと思い、ネットで調べる。「旅日記」に限ってないが「科学的にも証明された、日記を書き続ける実用的なメリット」のタイトルの記事がある。https://www.lifehacker.jp/2014/06/140604journal.html (参照)
これには「日記」の媒体やメリットなどが書いてある。ただ、このブログを始めたきっかけはいつも書くように勝間和代が一世を風靡していた頃読んだ本に「情報を得たければ自ら情報を発信せよ」みたいなことが書いてあった。これを読んで社会人大学生として学んだ時、「情報を制するする者は社会を制する」と教わったこともあって、「ブログ」をやろうと思い立つ。とはいっても社会を制しようと思ったのではない。あくまでこれは個人の趣味の範疇。難しく物事を考えていたら何もできなくなる。そうはいっても内田樹の「人はなぜ旅日記を書くのか」を読んでみたい。
ネット記事の最後には以下のように書いてある。
「日記をつけるによるメリットは明らかです。カート・コバーンやアイザック・ニュートン、アブラハム・リンカーン、アンディ・ウォーホル、レオナルド・ダ・ビンチのように有名なアーティスト、クリエイティブ、政治家、科学者でなくても、あなたの考えや経験には価値があるはずです。それを記録に残すことで、あなた個人としてのメリットがあるのはもちろん、あなたがそれをシェアすることを決めた相手にとっても、何かを考えるきっかけになるかもしれません」。
大それたことは考えていない。それでも「旅日記」というか旅の記録は自分にとっては大きな意味がある。先日2階を片付けていると押入れの上の部分にアルバムを納めている。小さい頃の写真はあまりない。だが、32年前に初めて海外旅行をして以来のアルバムが何十冊もある。それも、分厚いアルバムだ。時代と共にアルバムは薄くなり、CD化し、今やブログにアップ。ブログに投稿すると旅に出かけて残るのは日程表と旅の募集のパンフだけになる。
今は旅に出ても物が増えない。しかし、ブログやCD化する前のアルバムはいつの日かゴミと化す。自分自身の思い出は自分で処分せねばならない。まだ当分は元気と思うのでいつの日か整理しようとついつい後回しになる。
話は変わってダグニーさんの賞金は2万クローネらしい。これは日本円で30万円弱になる。今朝見たブログではこの税金の話題だった。昨日はまた先日お寺で受け取った塔婆をもってお墓に参る。神社に回って帰ると桜は咲いていた。お花見の季節到来!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
これには「日記」の媒体やメリットなどが書いてある。ただ、このブログを始めたきっかけはいつも書くように勝間和代が一世を風靡していた頃読んだ本に「情報を得たければ自ら情報を発信せよ」みたいなことが書いてあった。これを読んで社会人大学生として学んだ時、「情報を制するする者は社会を制する」と教わったこともあって、「ブログ」をやろうと思い立つ。とはいっても社会を制しようと思ったのではない。あくまでこれは個人の趣味の範疇。難しく物事を考えていたら何もできなくなる。そうはいっても内田樹の「人はなぜ旅日記を書くのか」を読んでみたい。
ネット記事の最後には以下のように書いてある。
「日記をつけるによるメリットは明らかです。カート・コバーンやアイザック・ニュートン、アブラハム・リンカーン、アンディ・ウォーホル、レオナルド・ダ・ビンチのように有名なアーティスト、クリエイティブ、政治家、科学者でなくても、あなたの考えや経験には価値があるはずです。それを記録に残すことで、あなた個人としてのメリットがあるのはもちろん、あなたがそれをシェアすることを決めた相手にとっても、何かを考えるきっかけになるかもしれません」。
大それたことは考えていない。それでも「旅日記」というか旅の記録は自分にとっては大きな意味がある。先日2階を片付けていると押入れの上の部分にアルバムを納めている。小さい頃の写真はあまりない。だが、32年前に初めて海外旅行をして以来のアルバムが何十冊もある。それも、分厚いアルバムだ。時代と共にアルバムは薄くなり、CD化し、今やブログにアップ。ブログに投稿すると旅に出かけて残るのは日程表と旅の募集のパンフだけになる。
今は旅に出ても物が増えない。しかし、ブログやCD化する前のアルバムはいつの日かゴミと化す。自分自身の思い出は自分で処分せねばならない。まだ当分は元気と思うのでいつの日か整理しようとついつい後回しになる。
話は変わってダグニーさんの賞金は2万クローネらしい。これは日本円で30万円弱になる。今朝見たブログではこの税金の話題だった。昨日はまた先日お寺で受け取った塔婆をもってお墓に参る。神社に回って帰ると桜は咲いていた。お花見の季節到来!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2018年3月25日日曜日
大満喫オーストラリア6日間の旅&スウェーデンのサマータイム
昨日のダグニーさんのブログによると今日(2018年3月25日2時0分)からサマータイム導入とある。なぜこんな日に、と不思議に思ってネットで確認すると、やはりそうだった。それにしても中途半端な時点でサマータイムに移行している。それなりの理由があるのだろう。日本はそういうことがないので改めてサマータイム導入とは、と思ってしまった。https://www.time-j.net/WorldTime/Country/SE (参照)
以下は先日出かけたオーストラリアの旅の記録から。下手の横好きでやたらと文が長くなってしまった。これも自分にとっての旅の思い出。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2018年2月24日(土)~2018年3月1日(木)までの6日間、オーストラリアへ旅をした。旅行社の旅の募集には「大満喫オーストラリア6日間」と銘打ってある。「大満喫」とは何とオーバーな表現、とも思えるが、それに近いほど満足する旅だった。旅の参加者は26名。このうち1人参加は私だけ。関空発のため、関西在住の参加者が大半だった。
オーストラリアは初めて出かける。参加者は若い人たちだろう、と勝手に想像した。ところが添乗員の電話で平均年齢65歳とのこと。いつもの如く参加者の年齢は高い。旅の募集案内にカンタス航空就航記念とある。どういっても関空を離陸すると直行便でシドニーに着く。これがいい。何はともあれ、ここからは楽しかった旅の話をすすめよう。
第一日目 2018年2月24日(土) 広島🚄新大阪🚃関空✈シドニー✈ブリスベン
広島駅発13時22分さくら552号🚄新大阪着14時48分。新大阪発15時特急はるか35号🚃関空着15時50分。関空集合時刻は16時55分なので1時間ほど早い到着となる。関空で集合場所を確認していると係りに声をかけられる。旅行社を告げるとすでに添乗員は待機しているとのこと。早めに手続きをする。その際、出国から現地入国までの手順やその他もろもろの注意事項のコピーをくれる。まずはこれに驚く。このコピーは旅の間中も配られた。この頃のツアーは団体であってもEチケットを受け取ると航空チケットや出国手続き、それから現地入国までを全て個人でせねばならない。もしも添乗員の言葉を聞き間違えたならばとんでもないミスにつながる。その恐れがあるからコピーを配るのだろう。関空で出国手続きを終えると添乗員と次に会うのはシドニー空港で飛行機を降りたところと教わる。その時点でツアーの参加者と初めて会う。その後、ブリスベン行きのトランジットがある。
個人でやるのは帰国便もそうなりつつある。シドニーから関空までも出国手続きが機械化になり、機械操作を個人でさせられる。タッチ画面を日本語にしたため現地の係りは途中から元に戻して再度やり始める。日本語が分からないためだ。結果、係りがやってくれた。
今回の新幹線も「おとなび」を利用。そのため、時間に余裕をもって乗車券を購入する。新大阪🚃関空のはるか乗り換えは12分ある。荷物を持っての乗り換えはぎりぎりの時間だ。これはインプットしておこう。関空で特急はるかに乗ろうとすると頭上に車両番号が点灯している。これもインプットしよう。それにしても関空は大阪の街と実感。どういっても特急はるかを待つ間のタコ焼きのにおい。これはまさに大阪ならではの香りだ。それにしても特急はるかはがら空きだ。
出国審査を済ませてカンタス航空の出国ゲートに向かう。そこに居合わせるのは3,4人。1人椅子に座っている人に声をかけると旅行社は違っていた。読〇旅行でその人も1人参加だという。感じのいい人で出国までの時間、その人と話をする。日程表を見せるとほぼ同じ日程だった。ただ1人参加料金がこちらより高く、旅行費用も高いという。ともあれ、この人とは行く先々で出会った。
18時55分 カンタス航空QF034便は関空を定刻通り離陸し、シドニーへ向かう。飛行時間9時間50分。機内に入るとすぐに入出国カードが配られる。機内食は寿司、かつ丼、パスタから選ぶ。これは日本でつくられているはずなので寿司をいただく。その前に水も配布される。水は貴重品。旅の間、水は大事にする。
20時半 機内食が配られる。機内で寝るには早すぎる。モニター画面を触ると操作が簡単で日本語表示もある。映画”The Mountain Between Us”を見る。飛行機が飛ばなくて同じ運命と思った見知らぬ2人が飛行機をチャーターする。しかし、飛行機事故となり、運命を共にした2人が、何とか山中で生き延びて…。日常、映画を見ることはほとんどない。それがこの頃は機内で映画を見ることが多くなった。自由がない機内。映画を見るのは楽しい。
第二日目 2018年2月25日(日)シドニー✈ブリスベン🚌ゴールドコースト
5時 (ここからは現地時刻表記)。シドニーは日本よりも2時間時刻が早まる。機内で軽い朝食が配られるが、ジュースだけ飲んで食べない。
6時45分 シドニー着。気温23度。日本と真反対のオーストラリアは夏の季節。飛行機を降りたところで集合する。ここでツアーの参加者と初めてのご対面となる。トランジットで迷わないようにしてブリスベン便行きの飛行機に乗る。
9時 QF512便でシドニー離陸✈ブリスベンへ飛行。
8時半 ブリスベンはシドニーと1時間の時差のため1時間前に戻す。機内食としてクッキー、珈琲、水が出る。これは食べずにシドニー間で出た小さいパンを食べる。
席の横は一般の座席とは違う。これは何? |
途中からカーテンがかけられる |
9時半 ブリスベン着陸後、バスでブリスベン市内観光。ブリスベンの予想最高気温は32度で晴れ。
セント・ジョーンズ・カテドラル(大聖堂)
10時20分 セント・ジョーンズ・カテドラル(大聖堂)を見学。カテドラルの中は信者でないため入れなかった。聖堂の前のビルにカテドラルが美しく反射(リフレクション)する。観光後、バスに乗って植物園(ブリスベン・ボタニック・ガーデン)に向かう。園内にある日本庭園は竹下首相が総理の頃、日本政府が作ったという。日本庭園の名前は遊翠園。
セント・ジョーンズ・カテドラル |
前のビルに反射するカテドラル |
カテドラル(大聖堂)の標識 |
ブリスベン・ボタニック・ガーデンの標識 |
園内に咲く花 |
園内に咲く花 |
竹下首相が総理の頃、日本政府が作ったという日本庭園の遊翠園 |
園内 |
園内 |
園内に咲く花 |
園内にある温室 時間がなくて見られなかった |
園内に咲く花 |
日本庭園の睡蓮 |
ブリスベン・ブッシュランドの標識 |
マウント・クーサ(山)
植物園を抜けるとマウント・クーサ(山)があり、展望台も備わっている。ここのトイレを借用して日本から着てきた冬服の上衣を脱いで、持参したブラウスに着替える。下着も一枚脱ぐとすっきりする。どういっても南半球に位置するオーストラリアは日本とは真反対の季節だ。標識にあるブッシュウォーキングとは山を歩き回る意らしい。暑い、と思いながら園内を見て歩く。小高いマウント・クーサに上がるとブリスベンの市街地が見える。
マウント・クーサ展望台からのブリスベン市街地の眺め |
11時40分 展望台を後にしてローンパイン・コアラ保護区へ移動する。道の両脇はユーカリの木。このユーカリは竹のように強い木らしく、電柱の代わりに立ててある。車窓から電柱となったユーカリを撮ろうとするがうまく写せない。コアラはユーカリを餌とする。ユーカリ、と言ってもその種類は数百種類もあるらしく、コアラが好むユーカリは決まっているそうだ。20分ほどバスに乗るとローンパイン・コアラ保護区に到着。
コアラ保護区は世界初として1927年にオープンし、約130頭のコアラを飼育しており、世界最大の大きさを誇る。保護区の園内ではコアラの抱っこ写真、カンガルー餌付け、オーストラリア特有の動物を見ることができる。その動物としてはウォンバットやタスマニアデビル、カモノハシなどである。しかし、ウォンバットとカモノハシはどこにいるのかわからなかった。
まずは参加者一人ずつがコアラを抱っこして写真に写る。指定された場所に立ち、足元を見ると足の形をした立ち位置が記されている。ところがその位置は顔を右にして写真を撮る。右向きで写真に写る習慣がない。反対方向に向こうとすると係りに無理やり向きを変えられる。そして右手と左手の掌を上にして重ねる。その上にコアラを置かれる。何と重い、と思った瞬間「重たい!」と声が出る。カメラマンの写真と自分のカメラでも撮ってくれるらしくカメラを係りに渡す。撮ってもらう際、コアラのお尻から「プスっ」としたかと思うと何か落ちる。さてさてそれは…。写真に収まる前に現地ガイドからコアラが粗相をしても臭いもなく、綺麗だと聞いていた。それでも、と思って写真を撮った後、手を嗅ぐと臭いも何もついていなかった。
コアラの抱っこを終えると園内にあるレストランでお昼をいただく。機内食以外では初めてのオーストラリアでの食事だ。各自、弁当をいただく。お弁当は日本の様ではなく紙のボックスの中にサンドイッチのようなものが入っていた。備え付けられているドリンクはフリーだった。食事場所は動物園の中の一角だ。ただ屋根がついているだけの建物だった。テーブルの下を見ると大きなトカゲもいる。気にしていてはどうにもならない。オーストラリア(Australia)は俗的な所有格のある”Aussie”から「オージー」というそうだ。これは現地ガイドが度々話していたので帰国後調べるとそうだった。
お昼を食べて後にこれがオージー料理と知る。食事後、先ほど写ったコアラとの写真を受け取り、約1時間半、動物園内を散策する。日本で動物園へ出かけたことがあるのだろうか。それくらい覚えがない。しかし、中国に行った際はパンダやレッサーパンダは中国国内のいろんな動物園で目にした。特にパンダは四川省のパンダ研究所で何頭も何十頭も近くで見ている。日本で1頭生まれたと言って騒動する。さすが中国はパンダの故郷。いくらでも近くで見られる。
コアラは生まれて初めて見た。それにしてもコアラが怖いからと写真を撮らない人がいるだろうか。ふと思った。コアラは本当にかわいい。コアラ保護区の園内地図のコピーをもって園内を歩く。まずはコアラ。歩いていると西洋人の男性がタスマニア・デビルを教えてくれる。広い園内の隅から隅までを歩く。次はカンガルー。北京から着ていた子ども連れの夫婦と出会う。雰囲気で中国人と思って中国語で声をかける。「どこから?」と聞くと「北京」からだった。春節を利用しての旅らしい。如何にも中国のエリート家族と見受けられる。小さな男の子がしきりにカンガルーに餌付けをしている。これを利用してカンガルーを写す。カンガルーは大きいと思った。ところが小さい。
子供が餌付けするのを利用して私も一緒に写真を、との魂胆もいい具合にいかない。自らが餌をやらないとカンガルーも逃げてしまう。それにしてもオーストラリアは夏の季節。広い園内を歩くと蒸し暑さも半端ではない。ましてや前日は機内で夜を過ごしている。早くホテルについてお風呂に入りたくなる。この日の気温は32度だったと後で知る。暑いはずである。
LONE PINE KOALA SANCTUARY(ローンパイン・コアラ保護区)図 この図のコピーをもらって園内を散策した |
コアラ |
コアラ |
タスマニア・デビル |
タスマニア・デビル標識 |
子供が小さいカンガルーに餌付けしていた |
小さいカンガルー |
14時15分 観光後バスでゴールドコーストまで移動する。
16時 ホテル着。11階のホテルの部屋から南太平洋が見える。
17時45分 皆で夕飯のレストランまで歩いて行く。小雨も降り始める。しかし傘なしでレストランへ。旅の間中、ひどく雨に降られることがなくお天気には恵まれる。夕食はレストランでステーキをいただく。これがオージーステーキとまたもや驚く。レストランは夏なのにエアコンが効いていない。そういえば、オーストラリアは暑い夏であってもレストランでの食事は西洋に見られるように部屋の中でなく外のテラス席で食べるようだ。暑い夏なのにエアコンが効かないからだろうか。これはオーストラリアの電力事情にもあるようだ。以前オーストラリアへ3週間ホームステイした旅の参加者から聞いて知る。
オージーSTYLEのAustralia。レストランのテーブルを触ると何と汚いことか。紙のナフキンがテーブルにくっついて取れないほどべたべたしている。これもステーキ屋だから!?何もかもオージーSTYLEと思えばいいのかもしれない。すべて大雑把。食べるものも大きければいい、とも思えるほど大雑把。出されたものを全部食べ切れない。
ホテルは連泊で街の中心部にある、広島でいえば八丁堀界隈にあたりそうだ。夕飯後、添乗員と歩いてホテルへ帰る。周りを見ると溢れかえる観光客だ。ゴールドコーストのホテルはマントラ オン ヴュー ホテル。前日、機中泊だったので早めに就寝。
ホテル11階から見下ろす南太平洋 |
ホテルの部屋からの光景 |
ホテルの部屋のエアコンを切らずに寝てしまい、5時15分に寒くて目が覚める。それでも8時間は熟睡する。エアコンは朝見るとどこにあるか分かった。今夜はエアコンを切って寝よう。朝食を済ませて8時にホテルを出発して1時間ほどバスに揺られて45kⅿ先にあるスプリング・ブルック国立公園に向かう。
スプリング・ブルック国立公園に向かうバスの車窓から |
バスの車窓から見えるのはユーカリの木 |
バスの車掌から見えるのはユーカリの木 |
オーストラリア大陸は太古に存在していたゴンドワナ大陸が分裂してできたと言われる。かつてゴンドワナ大陸に存在していた森林のうち、現在の形に残されたものがオーストラリア・ゴンドワナ多雨林だそうだ。オーストラリア大陸が他の大陸と切り離されたことから、この地では数億年前の動植物が原型をとどめたまま現在も生息している。
オーストラリア・ゴンドワナ多雨林は現地ガイドの言葉でメモする。これは1994年、スプリング・ブルック国立公園が世界遺産に登録された際、追加で自然遺産に登録された。スプリング・ブルック国立公園(Springbrook National Park)は道路も整備されていて、公園内の散策も楽しめる。また世界最古のシダ類や希少かつ絶滅危惧種の鳥類や哺乳類など、保護価値の極めて高い動植物が観察できる。
公園内のゴンドワナ多雨林を歩いていると昨年3月に出かけた屋久島を思い出す。整備された道路も樹木の生い茂るさまもまるで屋久島に似ている。
9時10分 ゴンドワナ多雨林のなかを歩いてパーリング・ブルック・フォールズに向かう。途中で滝も見えてくる。滝までの遊歩道は狭く、日本からの別のツアー客に出くわす。また個人の観光客もチラホラすれ違う。滝を眺めた後、さらに歩を進めると水量が多くて危険なため、立ち入り禁止だった。ここから引き返してforest dreamsへ向かう。
パーリング・ブルック・フォールズ(滝)への標識 |
ゴンドワナ多雨林 |
ゴンドワナ多雨林 |
ゴンドワナ多雨林 |
英語とアボリジニの標識(拡大) |
英語とアボリジニの言葉で説明されている |
パーリング・ブルック・フォールズ |
パーリング・ブルック・フォールズ |
パーリング・ブルック・フォールズ |
パーリング・ブルック・フォールズ |
パーリング・ブルック・フォールズの標識 |
是より先は危険なので前に進めなかった パーリング・ブルック・フォールズ |
先には行かれなくて傍からカメラで写す |
パーリング・ブルック・フォールズの帰り道(行きも帰りも同じ道) |
森の家に行く際、散策組と鳥の餌付け組に分かれて行動する。とはいっても15分間くらいのことで片方が終わればもう片方をする。先に餌付け組に入ってガイドに従って歩く。途中でひまわりの種をもらって鳥(あかくさインコ)に餌付けすると掌にとまる。左手でインコを乗せて右手でシャッターを押すとうまく撮れた。ツアーの人には他に掌で餌をついばむインコの写真を撮ってもらう。餌付けが終わると森の散策をする。途中、土ボタルがいた。カメラで写そうとするが目が悪くてどれが土ボタルかわからない。ツアーの人に頼んでアップで撮ってもらった。感謝!洞窟のようなところに白く垂れさがっているのが土ボタルだった。自分で写したのをアップにしてみると同じように撮れていた。
森の家はお土産屋も兼ねて人が住んでいる。それにしても夏だというのに森の家は寒くて暖炉もあった。冬だとどんな様子だろう。
フォレスト・ドリーム標識 |
フォレスト・ドリームへの道 |
フォレスト・ドリームへの道の途中で |
フォレスト・ドリームへの途中で土ボタルを見る 自分で撮った写真をアップにすると下の写真と同じように見えた |
ぶら下がっているのが土ボタル(人に撮ってもらった写真) |
フォレスト・ドリームの餌付け体験 餌はひまわりの種 |
10時50分 キャニオン展望台へ移動する。スプリング・ブルック国立公園は1994年に世界遺産に登録される。ブルックは現地ガイドから「小川」と聞く。公園内には樹齢2000年のナンキョクブナが有名らしく、オーストラリア最大のトカゲ、オオイワトカゲなどが生息している。展望台からは大きな滝であるGoomoolahra Fallsも見える。さらに進むとキャニオン展望台に着く。ここからの眺めも素晴らしい。ただ舗装された道であっても湿地帯のためか、クワズイモやオオシダ、ブラックボーイ(英名はグラスツリー)、生姜など日本では見ることのできないような植物を目にする。クワズイモやシダは屋久島で見かけたけど…。歩きながら湿地帯に咲くクワズイモの花を写真に撮った時だろうか。午後、南太平洋を見にホテル近くのゴールドコーストの海岸を裸足で歩こうとするとヒルに血を吸われていた。白い靴下が血に染まる。これもオーストラリアでヒルの洗礼を受けたことになるだろう。後でツアーの人に話すと3人くらいヒルに血を吸われていた。
スプリング・ブルック国立公園標識(Canyon Lookout) |
キャニオン展望台(Canyon Lookout)から滝(Goomoolahra Falls)を見る |
スプリング・ブルック国立公園 近くの民家? |
スプリング・ブルック国立公園Goomoolahra Fallsピクニックエリア |
スプリング・ブルック国立公園キャニオン展望台からの眺め |
スプリング・ブルック国立公園キャニオン展望台からの眺め |
キャニオン展望台から見る滝(Goomoolahra Falls) |
オオシダ |
クワズイモ |
生姜 |
クワズイモ |
スプリング・ブルック国立公園内に建つ家 |
11時半 バスは出発してハインズ・ダムに向かう。ダムの名は征服者の名からつけられた。ダムを見る前にここでお昼のオーストラリアン・ミートパイをいただく。お皿に盛られるフライドポテトと生野菜はオーストラリアの定番メニューだろうか。どこでも同じ盛り付け方だった。これにデザートと珈琲がつく。
お昼をいただいた後、バスの出発時刻まで下方に行ってダムを眺める。お天気も良くてここで一日ハイキングをしたくなる。行ける所まで行ったけど、集合場所近くの橋は時間がなくて渡れなかった。オーストラリアは他国からの移民の国。名所旧跡や町の通りなどすべて移住してきた人の名がついている。これもこの国独特のことかもしれない。
オーストラリアン・ミートパイ ボリュームがすごい フライドポテトと生野菜は何処でも同じパターンだった |
ハインズ・ダムの標識 |
Little Nerang ダムの標識(ハインズ・ダムの2番目の給水源) |
ハインズ・ダムの一部 |
時間がなくてこの橋を渡れなかった |
ハインズ・ダム全景標識 |
14時 大橋巨泉のお店(OK)でお土産品のデモンストレーションがある。これが終わるとここで解散。ここからホテルはすぐ近く。ホテルの部屋に荷物を置いてビーチに向かおうとするとホテルロビーで明石の3人の姫たちに遭遇する。ホテルを出るとすぐ近くはビーチとわかっていても大きなビルの前を通るとまだ先だ。
大橋巨泉のお店(ブルーのテント)
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通りには西洋でよくみられるようにお店の外の食事風景が見られる。オーストラリアは西洋ほどカラっとしていない。蒸し暑い太陽の下で食事をする。日本では考えられない。どんなレストランに入ってもエアコンはあまり効いていない。どうもオーストラリアは電力事情が良くないようだ。日本であればエアコンの効いた涼しいレストランでいただく食事は美味しい。
連泊したホテル 大きなホテルなので通りを歩いても今いる位置がよくわかる |
海に出た。南太平洋だ。なぜかこの「南太平洋」の持つ言葉の響きにロマンを感じる。ここに足をつけないとせっかくオーストラリアまで来た甲斐がない。海岸まで歩こうとするが靴を履いていると砂が入り、思うように歩けない。靴を脱ごうとすると左足の靴下が血でにじんでいる。これを見てもうびっくり。午前中、スプリング・ブルック国立公園の湿地帯を歩いた時、ヒルに血を吸われたらしい。前もって現地ガイドからこういうことはよくあるから怖れることはないと聞いていた。それでも血を見て驚く。翌日、添乗員に話すと蚊に刺されるよりも痛くないとのこと。そうはいっても夜、ホテルでお風呂に入った後もまだ血が流れている。旅には傷テープを持参する。この3枚の内2枚をヒルのために使用した。もうこれっきり血を吸われなければいいが…。
裸足になって海の傍まで歩く。海水に足をつけると気持ちがいい。前夜、大阪からのお婆さんと孫の参加者は水着を買って泳ぐとガイドに話していた。「泳ぐ」言葉に反応して水着を持ってくればよかった、と思った。しかし、まさかここまで来て海に浸かることは想像さえしていない。海の水に足をつけるだけで満足して海岸に沿って歩く。海岸にはゴミ一つない。ガイドは日本のように海ではアオサも生えないと話した。本当にそうだった。途中、若い青年とすれ違う。海辺に立つ姿を写真に撮ってもらいたかった。しかし誰彼とお願いして、もしもカメラを持っていかれると困ってしまう。安心できそうな青年に声をかけると「サウス・コリア」(南朝鮮=韓国)と言う。
ハングルは二言三言しか話せない。つたない英語での会話となった。写してもらうとうまく撮れている。3枚撮ってくれた。韓国の青年もスマホで「プタン、プタン」と話す。これは「ボタン」だと理解するのに時間がかかる。もしやツイッターなどの「いいね」を押さされる、と勝手に判断する。それはこちらの思い違いでスマホの「ボタン」を押して写真を撮ってほしいということだった。それにしても感じがいい青年だった。それなのに一度は疑ってしまって申し訳ない。
海辺には体を黄金色に塗りつけた美女たちがいる。ガイドから一緒に写真を撮るとお金を取られると聞いていた。遠くから写真を撮る。美女たちの顔を写してないのでブログにアップしよう。
この女性たちと写真に収まると金銭を要求されるらしい |
ゴールドコーストの砂浜 これをバックにして韓国の若い兄ちゃんい写真を撮ってもらった |
海岸にはゴミ一つ落ちていない ただ鳥がいる また、日本に見られるような藻の類も見られない |
靴を脱いでびっくり! |
これ以上、海の近くではは泳げない |
ああ、南太平洋!砂浜は真っ白!海辺まで歩いて写真に写った! |
海から歩いてスーパーに行こうとするとまたもや明石の3人組に遭遇する。彼女たちはこれから海に出かけるらしい。
16時半 夕食を物色しにスーパーへ行く。スーパーの名は”COLES”。道行く人に”COLES”と尋ねると”close”と聞こえる。「おかしい、スーパーが閉まっているはずがない」と何度か英語で聞くと”COLES”の看板が見える。どうも”COLES”を”close”と間違えて聞いたようだ。奥へ進むとレストランの案内をしている女性がいる。「日本人?」と日本語で聞くと台湾人だった。その女性と中国語で話す。このお店に入るにはお腹はいっぱいだし、まだ夕飯には早すぎる。感じが良い若い台湾の女性としばしの立ち話。その後、スーパーに入る。
スーパー内は広い。しかし、日本と違って夕食になりそうなものがない。ぐるっと店内を回っても惣菜類は当然ない。旅に出る前に添乗員から聞いた言葉は何だったのか、と思わず言いたくなる。「ホテルの傍にはコンビニもあり何でも売っていますから」の言葉。先にコンビニに入っていたので知っている。コンビニこそ「水」やポテトチップス、菓子類はあってもパンもない。スーパーにはパンはあっても大きすぎるし、エネルギー量も多い。サンドイッチを見つけたので手にするとズシリと重い。結果、果物に目が行く。果物類は日本と違ってバラエティーに富んでいる。日本であまり目にしない果物もたくさんあった。マンゴーを手にするとこれまた大きい。2個でAUD5ドル(500円)。2個も要らないので1個購入。AUD3ドル(300円)。ところが買うのはいいが日本でマンゴーを買って食べたことがない。すぐに皮をむいて食べられるのかどうかが気になりだす。売り場にいるお客に英語で聞くとすぐに食べられるとのこと。良かった!
朝ホテルでスモモ1個失敬した。これにバナナパンというかバナナの入ったずっしりと重いケーキみたいなものを購入。AUD1.7ドル(180円)。これに飲み物はビール。ガイドから教えてもらったホテル横のリカーショップに立ち寄る。オージービール(この時まではオージーがオーストラリアと気づかずにいた)と言わずに「オーストラリアのビール」と店主に告げる。わかってもらえたのか500mlの瓶ビールを出される。それを栓抜きで抜き始める。「ええっ、栓を抜く」と思った。「ホテルには栓抜きがないだろう」と言っている。仕方なく抜いてもらう。金額はAUD8ドル(800円)。オーストラリアはタックス10%が別に加算される。結構物価は高い!
スーパーマーケット”COLES”の看板 |
”COLES”までの通りの光景 |
”COLES”でこのマンゴーを1個購入(AUDで3ドル=300円) |
ポスト |
ゴールドコースト2日目の夕食 |
ビールとマンゴーでお腹もいっぱいになる。しばらくすると雷を伴った大雨が降る。この夜は本来ならばオプションで土ボタルを見に行く予定だった。しかし、日程表を見ると翌朝は飛行機移動で朝5時出発となっている。土ボタル鑑賞はせずに早めに寝る。翌日、ただ1組の夫婦が日本で予約していて参加されたようだ。ホテルは連泊でマントラ オン ビュー ホテル。
MANTORAホテルの前にも同じホテルを建築中 夜はネオンで輝く |
第四日目 2018年2月27日(火) ゴールドコースト🚌ブリスベン✈シドニー🚌ブルーマウンテン地区
朝早い5時にバスは出発してゴールドコースト✈ブリスベンに向かう。そのため3時50分に起床。朝食はボックスにクロワッサン2個などが入っていた。朝早いため食事はせず、水分補給をする。ブリスベン発QF513便は8時定刻通りシドニーに向けて離陸する。搭乗前、男女2名ずつの計4人で参加した人に声をかけられる。高校時代の同級生だそうだ。一組は夫婦であとの一組は幼馴染と話していた。まあ、古希まで生きてくると人生いろいろあるなあ、と思って話を聞く。1人参加に驚かれたけど…。4人組は今年古希らしい。
約1時間半のフライト後、シドニー空港に着陸。シドニーの気温は19℃~25℃で晴れ。ゴールドコーストほどの蒸し暑さは感じない。シドニー市内を観光後に向かうブルーマウンテンズ地区はさらに気温が下がって10℃~21℃らしい。
11時10分 シドニー到着後、バスで移動中、現地ガイドはオーストラリアの建物は砂岩でできていると話す。地震がないから砂岩でつくられていても大丈夫らしい。オーストラリア大陸を発見したキャプテンクックの像も街中に立っている。30分するとハーバーに到着。ここのレストランでお昼をいただく。いただくと言っても大きなハンバーガーが1個お皿にあり、フライドポテトがつく。ドリンクはレモンスカッシュとレモネードが大きなピッチャーに入れて運ばれる。大きなハンバーガーを食べようとするがかぶりつこうにも口に入らない。隣のお婆さんとお孫さん連れの祖母の方がしきりに「押しつぶすのよ」と言っている。「ええっ、本当につぶして食べる?」と思った。それでも食べにくい。ナイフとホークでハンバーガーを食べる。これも何か変な気がした。常にお皿にあるのはフライドポテト。これも食べやすそうだが、そう多くは食べられない。この日まで、というかAustralia滞在中、ご飯にありつけなかった。当然と言えば当然だけどやっぱり日本人。ここはお米と醤油が懐かしい。
バスの車窓から見るシドニーの光景 像はオーストラリア大陸を発見したキャプテンクック |
大きな船が停泊中 |
停泊中のクイーンエリザベス号は赤いカンガルーがロゴマーク |
オーストラリアではカンガルーをロゴマークとしている。クイーンエリザベス号は船なので赤いカンガルーのロゴマークがある。これは軍艦も同じで前進あるのみの意として赤いカンガルーとなっている。白いカンガルーのロゴマークは空軍や飛行機に使用される。
シドニーのハーバーでのお昼は大きなハンバーガー |
王立植物園→ミセスマッコーリーズポイント
12時40分 ミセスマッコーリーズポイントへ歩いていく。途中で白バイが止まっている。誰かが「写真OK?」と聞くと大丈夫だった。この辺りは王立植物園となっており、この先に「ミセスマッコーリーの椅子」がある。ミセスマッコーリーは1810年から1821年にかけて英国の植民地だったニューサウスウェールズ州の総督として赴任していたマッコーリー夫人であり、この場所がお気に入りだった。夫人が散歩の途中に休めるようにと1810年に砂岩を切り出して椅子が作られた。夫人はこの椅子に座ってイギリスからの船がハーバーに入る様子を毎日眺めていたという。この椅子はマッコーリーズチェアとして今でもある。
マッコーリーズポイントからは目の前にオペラハウスとハーバーブリッジがよく見える。マッコーリーの椅子に行くまでには大きな樹木が植えられている。これは無花果の木。しかし、日本でいう無花果とは異なり、実は食べられない。樹齢は何と120年から170年らしい。この辺りではお昼の休憩時間を利用してジョギングする人々の姿を目にする。今はオーストラリア人の肥満度はアメリカと1,2位を争っているらしい。運動するのもいいけど、それよりも食事量を減らせば、と思う。しかし、それは余計なお世話と言われそうだ。
説明を追加 |
無花果の木 |
無花果の木 |
無花果の木 |
ここがミセスマコーリーズポイント ハーバーブリッジとオペラハウスが目に前に見える |
無花果の木 ミセスマッコーリーズポイントからマッコーリーズチェアへ移動する |
1788年、イギリスから囚人750人を含む総勢1200人を乗せた移民船が初めてこの地に降り立つ。それから200年余りの間に世間を震撼させたオーストラリアの囚人を捉えた建物が見える。この中に入れられた流刑者たちによって岩を削り、家や倉庫を建てて町づくりを始めた。その初期は犯罪者の巣窟だった場所もその後のハーバーブリッジなどの建設により古い建物も壊されて観光客でに賑わうようになった。
海に浮かぶ建物は犯罪博物館 |
ミセスマッコーリーズチェアの表示左横には岩を彫って作られた椅子がある。この椅子に座ってマッコーリー夫人の気持ちを味わう。椅子は海に向かって眺めがよい場所にあった。
マッコーリー夫人が座ったと言われる椅子 左横にも椅子はあった |
マッコーリーズの椅子の標識 |
王立植物園から見る光景 |
シドニー市内を走るバス |
マッコーリーの椅子に座った後はバスに乗ってオペラハウスに向かう。オペラハウスはロビーを見るだけの観光でせっかくここまで来たのにと少々悔やまれる。この場所で解散して短い自由時間となる。ロビーにあるオペラハウスのグッズ売り場に行くが目ぼしいモノがない。それよりもチケットを購入する窓口の人たちを眺める。いつの日かここに来てオペラ鑑賞となれば最高だけどさてさてそれはいつのことやら!?
それにしてもこのオペラハウス、元は市電の車庫だったとか。それが10数年の歳月をかけて1973年に完成する。2007年には「人類の創造的才能を表現する傑作」として世界文化遺産に登録された。この建物の周リは広場となっている。短い自由時間を利用してキョロキョロするが、集合場所までの道のりが遠くてゆっくりもできない。
オペラハウスの前広場 |
オペラハウス入り口 |
オペラハウスへの階段 鳥もいた |
オペラハウスへの道の海側はテラスのレストランだった |
14時20分 バスは出発して今夜の宿泊地、ブルーマウンテンズ地区のカツンバへ移動する。シドニーから125km先にあり2時間で到着。途中、エコ-ーポイント展望のためカツンバの町で車を止める。現地ガイドは前日、雨のため、エコーポイントの眺めがブルーマウンテンズならぬキリマンジャロ(キリデミエンジャロ)だったと笑って話す。翌日のお天気が良くないとまたもやキリマンジャロになりかねない。それを見計らってこの日にスリーシスターズを見に行こうと配慮された。夕日に映えるエコーポイントから眺めるスリーシスターズと翌朝の朝日の眺めもお天気が良くて幸いだった。
16時20分頃、夕日に照らされるスリーシスターズ |
夕日に映えるスリーシスターズ |
1954年エリザベス女王が訪れたことから名付けられた クイーン・エリザベス展望台 |
エリザベス女王もご覧になった! |
スリーシスターズ |
エコーポイントから見るスリーシスターズはカツンバのホテルからバスで15分の所にある。17時 カツンバのホテル着。これから夕食までフリータイム。ホテルの近くはこじんまりとした町でスーパーや酒屋などもある。ホテルを出てスーパーに出かける。どういってもAUD200ドル持参してもほとんど使っていない。食事ごとの飲み物代に困ると思って現地通貨を持参した。ところが外国ではテーブルに出ないお水もこの国では出てくる。それでも何かお土産らしきものを、と思ってスーパーで探すとすべて甘そうだ。
お土産はなるべく買わないことに決めている。少しだけ購入すると重たくなった。スーパー内で数人のグループ連れと出会う。顔つきがタイ人に思えたので尋ねると台湾人だった。台湾へはトランジットや観光で出かけている。「いい国」、と話すと喜ばれた。日本と台湾のミニミニ友好タイムとなり、楽しく会話する。スーパーを出ると目の前に酒屋がある。入ろうとすると閉まっている。横にいた西洋風の女性が「向うへまわって~」と英語でいう。お店の周囲を歩くと他に入り口があった。
缶ビールを買ってレジを済ませると先の女性が係りに何やら笑って話している。「入口を教えてあげた人だ」と言ったのだろう。
19時 ホテル内で夕食。ブルーマウンテンズ地区にあるカツンバのホテル、パレ ロワイヤルはコテージのようなホテルで町の中心にある。2月のオーストラリアは夏であってもここカツンバの町は山中にあり、涼しい。暖房がしてあった。
スープ |
美味しいけど量が多すぎる |
デザート |
ホテル食堂には暖炉がある |
酒屋で買ったビールAUD4. 5ドル(=500円) |
カツンバのホテル パレ ロワイヤル |
第五日目 2018年2月28日(水) ブルーマウンテンズ地区🚌シドニー
オーストラリアは2月は夏の季節。しかし、ここブルーマウンテンズ地区は山中にあり、気温も都市と違って10℃~21℃と低いと前日に現地ガイドから聞いた。この日も快晴だが、風が強く吹いて冷たい。
再びブルーマウンテンズ
9時半 バスはホテルを出発して昨夕訪れたエコーポイント展望台に出かける。夕方見たスリーシスターズ。朝、見ると太陽の加減で違って見える。
ブルーマウンテンズは2000年に世界自然遺産として登録された。オーストラリア政府観光局によると「100万ヘクタールにおよぶ巨木の森林、砂岩の絶壁、渓谷、滝と原生林。世界遺産のブルー・マウンテンズは、青みがかったユーカリの霧に包まれ、その美しさは誰をも魅了するでしょう」とある。確かにその通りでどこを見ても美しい。
ブルーマウンテンズが世界自然遺産に登録されたのは①ユーカリの木が90種類くらいある。②1994年に生きた化石のフラマイ松(耳で聞いた言葉なので聞き間違えているかもしれない)が発見された。③スリーシスターズの岩などに拠っていた。
朝日に映えるスリーシスターズ |
エコーポイントから眺めるブルーマウンテンズ |
スリーシスターズ 歩いていろんな角度から眺めた |
シーニック・ワールド
10時 エコーポイント展望台を後にしてシーニック・ワールドへバスで移動する。ここではケーブルカーのシーニック・スカイウェイ、トロッコ列車のシーニック・レイルウェイ、ロープウェイのシーニック・ケーブルウェイに乗車する。乗り物に乗る前に乗車券の代わりになるバーコードのチケットを腕に巻く。3つの乗り物に乗る度に機械に腕をかざした。
このチケットを機械にかざして乗り物に乗る |
まずはケーブルカーのシーニック・スカイウェイに乗る。これはオーストラリアで最高度の地上270mを走っている。この乗り物の真ん中あたりは一段高くなっており、動き出すとガラス張りの床に代わる。飛行機の床が透明だったら、と想像するだけでも怖い。しかし、この乗り物は一部が透明になる。何でも経験と思ってその上に立つとガラスの床越しにジャミソン渓谷が空中散歩できる。やっぱり怖いけれども興味本位で下を眺める。スカイウェイは徐々に上に登る。下を見ると先ほどの景色と変わってもっと高さを感じ出す。これも透明効果かもしれない。
シーニック・ワールドで乗ったケーブルカーのシーニック・スカイウエイ 乗り物の一部は床が透明になっている そこに立つ |
床の一部が透明になったガラス張りの床のケーブルカーから見下ろす |
シーニック・スカイウェイを降りると次にトロッコ列車のシーニック・レイルウェイに乗る。これには前から2列目に乗る。写真を撮ると前の人の頭が写るがトロッコ列車は急こう配なので身動きできない。それでも童心に帰って乗り物に乗って楽しむ。
シニックワールドのトロッコ列車 |
トロッコ列車は迫力満点 この人たちの後ろに乗った かなり急こう配ではしゃいでしまった |
トロッコ列車から下車したところ |
シーニック・レイルウエイ(トロッコ列車) |
トロッコ列車を降りると次はシーニック・ウオークウェイ。以前、採掘した炭鉱跡や、ここにしか生息しない植物や多種のユーカリの中を歩く。10分くらい山を歩くとオゾンいっぱいで気持ちいい。
トロッコ列車を降りて炭坑跡を見て回る |
炭鉱跡 |
炭鉱跡 |
炭鉱跡 |
カツンバは炭鉱の町 カツンバの父の標識がある |
シーニック・レイルウェイ標識 |
遊歩道から見上げると砂岩が崩れ落ちている |
シーニック・ケーブルウェイ |
3つ目の乗り物はロープウェイのシーニック・ケーブルウェイ。これを降りると顔立ちが日本人らしい小学生の団体に出会う。声をかけると奈良県の高校野球で有名な智〇学園の小学生だった。何と7日間で奈良から成田経由でオーストラリアへの修学旅行だそうだ。付き添いの先生に聞くと旅費は何と30万円。この学校は中学では修学旅行に行かず、小学校と高校で行くという。「じゃ、高校はアメリカ?」と問うと行き先は韓国らしい。それにしても「今どきの小学生は…」と言いたくなるほど贅沢な小学生たちだった。
シーニック・ワールドで出会った日本の修学旅行生たち |
11時半 シーニック・ワールドで乗り物に乗って楽しんだ後はバスに乗ってお昼の中華料理(広東料理)を食べに行く。中華レストランで食べたお昼の料理の美味しかったこと。オーストラリアに来て以来、ファスト・フードのような食事だった。しかし、中華は日本の味がする。美味だった。
中華レストランの看板 |
中華レストランを出た大通りの光景 近くにはルーラ・ガーデン・ビレッジもあるそうだ |
12時半 中華レストランを出るとシドニーの街にバスで2時間かけて戻る。シドニーの日中の気温はブルーマウンテンズの涼しさとは打って変わって29度。シドニーの繁華街でフリータイム。近くにあるお土産物屋のチラシを受け取ると土産物屋へは行かず、デパートに入る。2時間のフリータイム。デパートに入り、1階から上の階までエスカレータで上がる。途中、AUDドルをほとんど使っていないので何かを買おうと見て歩くが買いたいものがない。衣服は到底日本で着れそうにない。というか大きすぎる。
もらったチラシに街中の地図が書いてある。集合場所は「ZARA」の前だ。時間までまずは教会を目指す。途中、公園がある。大きなチェスをやっている。さらに進むとストリート・ミュージシャンがいる。デパート付近の通りでも歩行者天国となっており、ストリート・ミュージシャンを多く見かけた。
公園内を抜けるとSt.Mary’s大聖堂が見えてくる。しかし、教会はバス通りを挟んで真向かいだ。ここで交通事故に遭っては大変。信号機を見つけて教会まで歩く。中に入ると信者以外は奥へは入れない。ましてや写真撮影はご法度。仕方なく少し見ただけで外に出る。外国に出かけて一人で2時間も歩く。それも教会へ入るということは初めての経験。地理に弱いと思っていた。しかし、思うほどではないと変に自信をつける。
公園で大きなチェスをする人たち |
街中の公園 |
シドニーの教会St.Mary’s大聖堂 |
教会の前に立っている像 |
ストリートミュージシャン |
公園内の大きな無花果の木? |
公衆電話 |
地下鉄駅 |
一番の繁華街のストリート・ミュージシャン |
繁華街の様子 左側にデパート、右にはブランドショップZARAがある 集合場所近くでしばし椅子に座って行く人々を観察 |
16時 ZARAに集合。ところが店内で万引きをしたのか入り口付近で捕まった人がいる。どこの国にも万引きはいると思ってしばし様子を見る。バスでハーバーに移動してディナークルーズ船に乗る。 キャプテンクック“クルーズ船 シドニー2000”は乗船後すぐにディナーとなる。乗船客が多いので食後の珈琲は注文しないようにと添乗員から言われる。珈琲が出るまでに時間がかかるというのだろう。1時間のクルーズは何とも慌ただしい。食事後、4階のデッキに行くと風が強く吹いている。そこで日本の他のツアー客と再会する。
ディナークルーズ船キャプテンクック “シドニー2000” |
ディナークルーズのメインディッシュは魚。この魚はバラマンディーというそうだ。日本では食べたことも聞いたこともない名前だ。乗船して1時間後に船を降りる。まだ、外は明るい。シドニーのホテルはリッジス ノース シドニー。
前菜とパン |
メインディッシュはバラマンディー(魚) |
デザート |
4階のデッキからの眺めは風が強い |
クルーズ船から見るオペラハウス |
クルーズ船から見るハーバーブリッジ |
4時40分 起床。朝早いためボックスになったお弁当をもらう。前日、もらった中に長期保存のできる牛乳があった。ホテルを出る前にこれを温めてミルクコーヒーにして飲む。
6時 いよいよ関空へ。シドーニーの空港で祖母と孫のペアのお孫さんがスマホをバスに忘れたとのこと。現地ガイドがまだ空港にいたのが幸いして、タクシーでバスを追いかける。後で聞くと無事にスマホは戻ったそうだ。良かった!
9時半 QF033カンタス航空は関空に向けて離陸する。来るときに気付いたフットレストを探すとあった。これは本当に便利で靴を脱いで両足を網に置くとかなりリラックスする。約10時間のフライト中、モニター画面で映画を2本見た。“Goodby Christopher Robin”と”My cosun Rachel”を見た。その内容はと聞かれると忘れている。
夕方17時半 定刻に無事関空着。広島までの移動では新大阪駅ではいつも柿の葉寿司を購入。やっぱり日本の味はいい!
何の予備知識もなく出かけたオーストラリア。自然の美しさはやはり目を見張るものがある。ブログを投稿中もそれを感じる。これにはお天気に恵まれたこともありそうだ。Australia=Aussieということさえも知らずに出かけた。「百聞は一見に如かず」のことわざ通り、旅に出ると自分の目で見て、肌で感じて、匂いを嗅いで、現地の人や旅人の話を聞いて、その地の空気に触れることに尽きそうだ。
オーストラリアは日本の21倍の面積があるという。1度くらい出かけただけではオーストラリアに行ったとは言えそうにない。またいつの日か行く機会を作ろう。食事面でぶつくさ書いたけど、他の面ではAustraliaは最高にいい!どういっても大自然が美しいし、お水が飲める。またトイレも他国に比べて綺麗。ホテルも乗り物もすべて整っていた。楽しい旅は終わった。またいつの日か、オーストラリアへ行こう!
旅の参加者の横顔
明石の英語を習っている3人の姫たち
大阪のリュック姿のご夫妻 山登りで知り合った人なのか若さがあった
津山のご夫妻
大阪の祖母と孫の2人連れ 孫はこの春大学3年になるとか
大阪の奥様が真っ赤に髪を染めたご夫妻 赤い髪は集合の際の目印になると話す
奈良の飛鳥のご夫妻 4月から新たな観光施設に勤めるらしい 感じがいいご夫妻
関西の4人組 高校の同級生らしい
西宮のご夫妻 南アフリカに行ったかを問われる 行ったと話すと最近ブームとか
残り3組のご夫妻は記憶になくて申し訳ない
いろいろと楽しい旅をありがとうございました!
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