2018年3月28日水曜日

平清盛公生誕900年記念シンポジウムを聞きに行く

 昨日、廿日市市の「さくらぴあ」小ホールで開催された平清盛公生誕900年記念シンポジウム「厳島神社と日本文化の源流」を聞きに行く。サブタイトルとして「厳島神社の信仰・景観・歴史は日本の文化とどのように関わってきたのか」とある。

 「さくらぴあ」へは何度も出かけている。しかし春の季節は初めてだった。JR五日市駅から広電の電車に乗り換えて市役所前で下車。駅前は桜が満開でホールまでの道も桜並木となっている。さすが「さくらぴあ」だ。会場に着くと大小のホールがある。大ホールは入ったことがあるが小ホールは初めて入る。一番前の席に座る。しかしこの席が端っこであったためか、声が聞こえにくい。さくらぴあ、は地元の木材業者の協力で建設されたと聞いている。そのためか木材を使ったホールは音響効果抜群と評価も高い。ところがそれも音楽会であればいいが講演会では音が響きすぎて聞き取りにくい。ましてや席の近くではいびきの音も入る。

 基調講演に国文学者の中西進氏を迎えての講演会。この人の話は5年くらい前にも松江まで出向いて聞いたことがある。またいつか行きたいと思っている奈良の万葉文化館の名誉館長など要職にもつかれている。中西氏は小学校時代、親の仕事の関係で3年半ほど広島に住んでおられ、広島との縁がある方だ。「厳島神社と日本文化の源流」とシンポジウムにあるように厳島神社と切っても切り離せないのが平清盛。「清盛と厳島神社」について話される。

 厳島神社は海の神様を祀っている。神様には天と海の神様がおられ、海の神様は海神(わだつみ)であり、厳島神社はわだつみを祀っている①。②として海上の部分が寝殿造でできておりその巨大版だという。③は神様と仏様が一体化した神仏混合。しかし誰もこれを問題にしない。それも厳島神社とあるように神社だ。だが、『平家納経』にはお寺としてある。

 この②と③は疎かにできないと中西氏は話される。いつ、だれが、どのようにしてこのような特殊な形態の厳島になったのか、と問いかける。これには平清盛の死に方にあった。

 清盛は1118年に生まれて1181年に亡くなる。厳島神社は「内海」にある。この文字は中国にはないそうだ。水をたたえた集団が日本人であり、内海を通って九州がある。清盛は海から生まれてきた覇者であり覇権を確立した。また水を中心として都の拡大版を造った。京都、奈良に次ぐ第3の都として厳島神社があり西の方に向かった。これは西方浄土?

 厳島神社は京都ではなく副都。清盛の心の中に厳島は心の原点としてあったのではないかという。『平家納経』は心の原点として、氏神として、政治家として清盛はもっていた。

 藤原氏は春日大社の氏神として祀られている。これを真似して清盛は厳島神社に祀られる?

 日本の歴史の転換点には近代化がある。今から150年前がそうだ。その700年前もそうだった。平清盛は転換期を造ったという。同時代に西行がいた。この時代は乱世で西行は満月の日に亡くなる。西行と清盛の「死に方」を比べると満月に亡くなった西行と比べて清盛は苦しんで亡くなっている。西行と清盛は同時代を生き、異質と許容する時代だったという。西行は1118年に生まれて1190年に亡くなる。清盛とは生まれた年が同じで清盛の方が2年長生きだ。西行は佐藤義清だとか。

 厳島神社のある広島県に住んでいても厳島神社、清盛、西行とこの関係性を何も知っていないと改めて気づかされる。面白いお話だった。しかし、はっきㇼと聞こえない箇所もあり聞き違えているかもしれない。西行の話も面白そうなのでこの人の本を読んで見たくなった。シンポジウムはここでは割愛しよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

さくらぴあへの道


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