2015年4月14日火曜日

『ベトナムの謎』

今日のブログは『ベトナムの謎』(片岡利明 日越貿易会、2015年)から、気になる個所をメモしたもの。ベトナムに行って気になったことがこの本を読んでやっと解決する。

ベトナムの話でなく、先日の日本画教室に行くまでのJR。広島駅から隣に座ったスペイン人女性。20日間の日本旅行で一人旅。横にはツアーガイドの女性がいる。ガイドの言葉からスペイン語とわかる。「スペイン語?」と尋ねると気安く返答される。さらには話す言葉をすべてスペイン人に通訳する。スペイン女性も話されて悪い気はしないのか、日本についていろいろと質問してくる。20日間の休みに驚くとスペインでは一年の半分くらいしか働かないとのガイドの言葉。これを聞くとやっぱり日本は働きすぎ。とはいっても、働かなくなって早13年。仕事がなければ他を頑張らねば…。

日本の定年制度も聞かれる。今は正式には何歳になるのだろうか。ともあれ、束の間の旅気分を味わう。それにしても、ああスペイン語。頑張ろう!

以下はベトナムの続き。

・何故、ハノイの北ベトナム政府が命がけのゲリラ活動を支援しベトナムへの攻勢を活発化していったか、である。それはただ一つ、国の統一なのであり、アメリカが危惧するような、共産勢力拡大というよな広大な意志はまったくなかったということである。59p

・東南アジア全域を巻き込んでも、アメリカは頑強に戦う北ベトナムを征服させることはできなかった。そして、開戦から一三年後の一九七三年三月、五万六〇〇〇余人の戦死者と無数の傷病兵と行方不明者を出して、ベトナムから手を引くこととなった。決して、負けたとは言わない、『光栄ある撤退』という言葉を残して。62-63p

・神出鬼没のゲリラ戦に疲れ果てたアメリカは、一九七三年三月、十年間は戦い続けることができる十分な戦闘機や武器弾薬をサイゴン軍に残して最後の撤兵を完了した。73p

・ゴ・ジ・ジェムの暗殺を指揮したドウーン・バン・ミン将軍は大統領職を引き継いだが、かれもクーデターでまもなくその席を追われることとなった。その後、何年間もクーデターが繰り返され、南ベトナムの政局は安定することがなかった。81p

・ベトナムにとって中国は友人のはずだが、中国はベトナム人の血を犠牲にして国益を最優先とし、両国の友好をその拡張主義のために利用したといえる。そのため、ベトナム祖国統一という
悲願の達成は二十年遅れただけでなく、二百万からに百五十万にも上る無駄な犠牲者を出すこととなった。86p

・世界最強の軍事力を持つアメリカを海のかなたに追い落としたベトナムが、その後、世界最貧国の一つに堕ちていくのだが、それはなぜか。べトナムではいったい何が起こっていたのだろうか。104p

・米国は兵の増強をはかりその結果、最大で五十四万八千五〇〇人の将兵と八万人の国連兵が南に駐屯するようになる。しかし、ベトナム人を殺すことの意味がわからない兵士は、いくら兵員を増強して最新鋭の近代的兵器で武装してもその戦意は乏しいままに終わる。…どこから攻撃されるか不安が高まるなか、若いアメリカ兵の間でマリファナが流行し、厭戦の気風が将兵全体を支配していたのである。108p

・世界最強のアメリカを海のかなたに追い落とし、千九七五年四月三十日、サイゴンは無血解放の日を迎えた。しかし、その強いはずのベトナムは戦後、世界最貧国の一つに堕ちていったのだが、それは何故か。結論からいえば、それは内政と外政の失敗である。114p

・ベトナムが犯した外交の間違いとは何か。それは、ベトナムがカンボジアに進攻したことであり、、そのため、西側諸国をはじめ中国から徹底的な経済制裁を受けることになったのである。118p

・中国に支援されたカンボジアが国境侵犯を繰り返し、住民の虐殺をとめなかったことに耐え切れず、ベトナムは反撃したのである。119p

・中国と米国を中心ととする西側諸国を敵に回して戦うこととなったベトナムは、世界の孤児の道を歩むことになる。ベトナムを支持したのは、旧ソ連とポーランド、ユーゴスラヴィアなどの元共産圏諸国と北朝鮮やカリブ海のキューバなど、はるか離れた国だけだったのである。このベトナムに対する経済制裁は想像を絶するほど徹底しており、ベトナム経済を完膚なく叩きのめした。120p

・ベトナム在住の中国人は、中越の国境悪化の時期から、その微妙な立場の危険性を敏感に感じとっていた。さらに、一九七九年二月、北部で越中国境軍事衝突がはじまると、その身の危険が迫ってきたとばかりに海外逃避を試みた。これが、ボートピープルの大量発生の引き金になったが、このような異常な民族の海外逃避発生のきざしは、その少し前からあったのである。167p

・ベトナム中部のこのホイアンはまさに「海のシルクロード」の中心的存在だったのであり、信長・秀吉から徳川幕府にかけて、この地には日本人商人が約千人駐在していたといわれている。しかし、一六四一年、徳川幕府によって突然発せられた鎖国令のため、帰国が叶わなくなりげん地に取り残されてしまった。ホイアン郊外に今も残る日本人墓地には、望郷の念に駆られながら亡くなったそのような日本人が数多く含まれているが、そのすべてが日本を向いているのはいかにも悲しい。177-178p

・この峠(ハイバイ峠)にも、二〇〇五年六月五日、遂にトンネルが完成し、当時のファン・バン・カイ首相と服部元大使のテープカットで開通した。これは、日本のODA資金、一九〇億円を利用して五年をかけてつくられたもので、六・三キロメートルもあり東南アジア最長を誇っている。185p

・中国による脅威は、ベトナムを支配下に治めようと策動していた清の軍隊を、一八七八年、上陸してきたフランス軍の支援を受けて駆逐することにより、一応の終息を見た。これでベトナムは、過去二千年の長きにわたってつながれていた鎖から、ようやく解き放されることになったといえる。しかし、これも最近の中国による領海侵犯でベトナムの悩みは尽きない。…ベトナムの歴史とは、中国との抗争の歴史そのものなのである。202p

・中国人が嫌われる理由は、このような過去の記憶と同時に、やはり彼らの相手を無視した行動や、信頼できない商習慣であり、危険な中国商品の反乱のようである。204p

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