2021年7月1日木曜日

『関ヶ原』(中)

 鉢植えのミニ薔薇が咲き始めた。梅雨のこの時期、狭い庭にいろんな草花が生えてくる。昨日、目にしたのはベゴニア。そこらじゅうに芽を出す。電子辞書で名前を確認するとベゴニアの仲間である秋海棠(しゅうかいどう)だった。何でも増えすぎるとよくない。

 『関ヶ原』全3巻をやっと読み終えた。天下分け目の関ヶ原の戦い。家康に敗れた三成。その最後に三成が家康から辱めを受ける場面は芝居好きでなくても司馬作品を通して目に映る。それは下巻の最後にあるので、後日、アップしよう。今回は『関ヶ原』(中)(司馬遼太郎 新潮社、平成二十五年101刷)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「申されよ」惺窩はいった。「古聖賢の語に、絶ヲ継ギ傾ヲ扶ク、ということがござりまする」と、山城守はいった。語の意味は絶えんとする家にあとつぎを作ったり、傾こうとする家をたすけるのは、義ある者の道であるということである。暗に豊臣秀頼を扶ける、ということをさしている。……「これを行おうとしております。先生はどう思われましょう」惺窩は沈黙した。義のために家康を討つという秘事をこうも堂々と明かされては、なにを答えてよいかわからない。ついに沈黙のままで座を去り、宿舎を出、その軒下で星を仰ぎ、「天心いまだ禍を悔いざるか。億兆の生霊再び塗炭の苦しみを受けんとす」という一語をのこして大津の宿を去った。(21-22p)

★「早々にじゃ。会津の陣にこの太刀をもってゆこう」たったいまの孟宗竹のごとく上杉景勝を斬る、という意味である。この一言は、一座の諸大名の耳に雷霆(らいてい)の走る音のように聞こえた。家康が会津上杉家を討つ、という宣言であったといっていい。やがてこの庭先からこの声は六十余州にとどろきわたるであろう。(142p)

★石田三成と大谷吉継の関係は、ひどく現代的で、ひょっとするとこの時代では稀有の例に属するであろう。西洋の概念でいう友情(フレンドシップ)というものは明治後の輸入倫理で、徳川期の儒教思想にもあまり見られないし、まして戦国、またはさかのぼって鎌倉期の武士の倫理の中では皆無といってよかった。その点でも、三成と吉継の友情は、珍奇とするに足るであろう。(212p(

★この国はじまって以来、僧侶で僧侶の形のまま大名になった者は。この人物しかない。その点、この時代でも珍奇な存在とされていた。安国寺恵瓊である。(226p)

★秀吉が死んだ。家康が政権を簒奪しようとしている。俊敏な観測者である恵瓊は、当然、――つぎの代は家康。と観測したいであろう。しかしかれはそれをしなかった。逆に家康を阻む側に立った。恵瓊にとって、彼の作品である豊臣政権を破壊しようとする者は、何者であれ、ゆるせなかった。(許さぬ男が、もう一人いる)佐和山の三成である。(232p)

★異装の人が歩いている。例の学者、藤原惺窩である。袖のひろやかな古代中国服を着ていたし、それにこの当時、「学者」という奇妙な自由職業をはじめたのは天下でこの藤原惺窩がだだひとりだったから町のひとびとはたいてい知っていた。(365-366p)

★播州を脱走し、京に入って僧となり学問に専心した。途中僧をやめて髪を貯え、道服をまとい、「儒者」と称した。儒者という倫理・政治哲学を窮める学者は徳川時代になって群がり出たがこのころは惺窩ただひとりであったといっていい。(368p)

★家康にとって上杉征伐など鷹狩り程度のスポーツにすぎない、というところをもみせる必要がった。そうなればかれらの心象に映じている家康像はますます巨きくなり、一身一家の運命を安堵して家康に託する気分が濃くなるにちがいない。いま家康にとってもっとも大事なことは、豊臣家諸侯に自分の威服をみせてかれらの心を攪ることであった。つぎに、理由がある。(天下をとる日はちかい)ということであった。(382-383p)

★人間というものは、運命の前ではこれほど珍しい動物はいないであろう。千里眼のごとく形勢を見通しているこの二人でさえ、江戸の人口が大坂どころか世界の一、二をあらそうようになろうとは、夢にも予想しなかった。かれにはただ現在のところは、上杉征伐と三成挙兵の予想、という二つの材料をどう処理するかということしかなかった。それだけでも、家康の立場からいえば、大化改新以来、日本史上の最大の規模をもつ仕事であろう。(385p)

★余談ながら秀吉のやり方、性格はすべて商人的であった。戦国中期以後の日本に成長した華やかな産業資本のやり方、気風というものを秀吉は濃厚にもっていた。かれは少年のころ、針などを売り歩いて旅をしたというそういうものが、成人後のかれを商人的な派手さ、商人的な投機好きにもって行ったのであろう。それにくらべて家康の生家松平家はもともと三河松平郷の豪農である。しかも三河は秀吉もうまれた隣国の尾張のような商業資本は存在しておらず、発生の条件もなく、純然たる農業地帯であった。家康の思想、ものの考え方、趣味にいたるまでが農業的であり、農家の大旦那ふうな地味さをもっていた。そういう家康と秀吉のちがいが、その居城のたたずまいにまであらわれていた。(386-387p)

★狡兎(こうと)死して走狗烹らる、ということばがある。すばしっこい兎が野山で取りつくされてしまうと、それまで猟師のために働いた猟犬が不用になり、殺して烹て食われてしまう、という意味である。如水はそのことばも知っている。(まだ殺されぬがましだ)とおもっていた。この男のおもしろさは、それを皮肉に思ったり拗ねたりしないところであった。……(当然の運命だ)とおもっている様子であった。如水とはそんな男だった。(411p)

★心の底からいえば、如水の敵は三成ではない。三成を家康にほろぼさせ、その家康が如水がほろぼす、というのがこの男の戦略であった。だから如水にすれば、この時期、三成をも家康をもだましておく必要があったのである。(421p)

★かれは信長や秀吉のように自分の天才性を自分自身が信じたことは一度もない。常に衆議のなかから最も良好と思われる結論をひろいとった。自分に成案のあるときも、それを隠して衆議にはかった。結局はかれ自身の案を断行するにしても、衆議にかけることによって、幕僚たちは頭脳を練ることができたし、それを平素練りつづけることによって徳川家の運命を自分の運命として感ずる習性を養った。(430p)

★「兵部、若い」と、正信が半畳を入れた。若いというのは諸大名の人情を察する上においてである。(135p)

★(なにか、上様は企んでおられる)正信はおもった。総大将というものは運命的な戦いに出るとき、多く、全軍の士気をあげるような演技をするものだ。足利尊氏も丹波篠村八幡宮でにわかに鎌倉幕府を討つ決意を表明したし、織田信長も桶狭間への出撃の途中、社頭で表裏同じの銭を投げて勝敗をうらない、勝ちの目を出し、全軍の士気を鼓舞したということもある。秀吉もそうであった。光秀を討つために播州姫路を出発するとき、髻(もとどり)を切った。信長の弔い合戦である、という悲壮感を士卒に与えたのである。(わが上様は、どうなさる)それが、正信の興味であった。……家康は、かぶりを振り、太刀をとり、手綱を操りつつ馬を路傍の竹藪により寄せて行った。「……」と、全軍が家康の挙動を見まもるうち、家康は馬上で太刀をぬき、一閃してそのうちの小竹を伐った。……家康は馬を打たせながら、蔵の前輪に紙一帖を押しあて、小柄をもって切り裂き、それを小竹のさきに結びつけて采配をつくりあげた。……この竹采配の評判はたちまち全軍にひろがり、味方を大いに頼もしがらせた。(532-533p)

0 件のコメント:

コメントを投稿