2021年7月12日月曜日

『関ヶ原』(下)

 朝のラジオで旬の野菜ならぬ、花を市場の人に聞いていた。花の名はクルクマ。聞いたこともない名前の花だ。電子辞書で探すとウコンと同じショウガ科に属する花らしい。だが、どんな花なのか画像がない。市場の人は花でなく苞と話していた。ネットで検索するととてもきれいな花だった。 

 相変わらず司馬作品を読んでいる。以下は『関ヶ原』(下)(司馬遼太郎 新潮社、平成二十五年第百三刷)からの抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★家康の経験では、欲の熾(さか)んな人物ほど理解しやすくまた御しやすいものはない。その欲のありかを当方で洞察し、利をもって釣れば簡単にころぶ。いかに正義信もあり、道理に明るい人物でも、欲心のつよい男はついには欲に負けることを、家康は知っている。(28p)

★東軍の一行池田長吉の条理をつくした開城勧告をついに容れ、行弘は弟の行継とともに肩衣に扇子一本をもった隆将のすがたで城門を出、そのまま高野山に走り、入道して道喜と号した。この行広には後日譚がある。行広は戦後なお生き、家康の秀頼に対する仕打ちをみて、「あのとき、いずれが正か邪か納得できるまで兵を動かさぬ、と申したが、今ようやく納得したわ。家康は邪である」とし、関ヶ原戦後十五年目におこった大坂ノ陣に参加し、翌元和元年の夏ノ陣に天王寺口の激戦に加わり、味方の壊滅後城中にひきあげ、秀頼に殉じて自刃している。(36p)

★前線の諸将の本心はこれでわかったし、その緒戦の勝利も確認できた。これを確認するまで立ちあがろうとしなかった点、家康の周到と慎重という性格が、遺憾なく発揮された。この冒険嫌いの老人は、戦略の冒険性をすべて消してゆき、勝利がほとんど事務化するほどの状態にまで事を運び、時を待ち、しかるのちに腰をあげようとするのである。(154-155p)

★家康はむしろ、戦国以来、諸大名がもてあましてきた本願寺の勢力を、この教如を用いることによって二つに裂こうと考えた。やがて戦後、京の本願寺の東側にいま一つの本願寺を建てることを許し、この教如を法主にしてやった。いわゆる東本願寺である。全国の本願寺の末寺は二つに割れ西本願寺のほうには一万二千カ寺が残り、家康によって創建された東本願寺のほうに九千数百が集まった。(162p)

★――自分以外に神をもたぬ。という点では、信長も秀吉もそうであったが、三成はなおその極端なほうであろう。彼のいまの場合、その戦略である。かれが想定し、その想定の上で高々と組みあげた、対家康戦の戦略に、かれ自身が信者になった。(162-163p)

★三成の不幸は、こんにちの家康や、過去の信長・秀吉のように自前の大軍をもたぬことであった。三成の立場は単に諸侯の勧進元にすぎず、それも財力の点で乏しすぎる興行師にすぎなかった。(185p)

★(頭のするどいお人だが、やはり素人だ)と左近はおもった。戦さは、頭脳と勇気と機敏さの仕事だが、その三つがそろっていてもなにもならない。三成の場合、その三つは信長、秀吉とさほど劣らぬであろう。しかし致命的にちがうのは、三つを載せている資質だった。受け身の反応なのである。左近はそう思いつつ、素人だとおもった。(208p)

★間諜の使用と敵の内部撹乱のうまさは、乱世を生きぬいてきた家康は長技であったが、乱世をさほどに知らず治世のなかで世間感覚を学んだ三成には、その能力に欠けていた。(245p)

★得手不得手というものほど、奇妙なものはない。城攻めがたれよりも得手だったのは秀吉で、気がみじかいといわれている信長でさえ不得手ではなかった。ところが家康はこれを好まず、つねに城攻めを避け、ひたすらに野外決戦を好み、これを得手としてきた。(276p)

★「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)との八文字を大書した大旆(たいはい)を霧の中にひるがえした。これは徳川軍の戦争哲学を言いあらわしたというべきであろう。現世(穢土)をきらい、死(浄土)をあこがれよ、という浄土宗の言葉である。家康の宗旨は浄土宗で、麾下の士にもこの宗旨の者が多い……四キロむこうの笹尾陣地にひるがえっている三成の大旆の「大一大万大吉」の六文字が、勝利の運を呼ぼうとする現世利益のにおいに満ちているのにくらべると、家康の八文字はひどく厭世的であった。(313-314p)

★三成は、平素、源平盛衰記を愛し、ついには暗唱するばかりになっている。源家の再興と同様、志ある者は、十たび敗れても最後の一戦でその志を遂げるべきだ、と三成はいうのである。(418p)

★(世には、ふしぎな人間もいる)と、三成は、この百姓の甲斐々々しさを見るにつけ、いま一つの人の世を知る思いがした。……(義というものは、あの社会にはない)関ヶ原の合戦のなかばにして三成はようやくそのことを知った。利があるだけである。人は利のみで動き、利がより多い場合は、豊臣家の恩義を古わらじのように捨てた。小早川秀秋などはその最たるものであろう。権力社会には、所詮は義がない。……(しかし、人間には義の情緒はある)そこに、与次郎太夫がいる。痩せた、顔色のわるい、中年の百姓である。この取り柄もなさそうな男が、死と一家の滅亡を賭けて三成をかくまい、このように看病してくれている。(460-461p)

★「人々の心の底を、この目で見て泉下の太閤殿下に報告し奉る。正則、心得ておけ」といった。要するに三成は戦いの渦中にあったがために、諸将の動きがさほどにはわからない。たれがどう裏切ったか、ということを見どけた上で死ぬ。それを泉下の秀吉に報告する。かつ糾弾する。この病的なほどの、いやむしろ病的な正義漢は、そこまで見届けた上でなければ死ぬ気にはなれなかった。三成は秀吉在世当時もその検察官的性格のために人々にきらわれたが、この期にいたっていよいよそれが露骨になり、いまや地にすわらせられながら、馬上の勝利者どもを検断する気魄だけで生きているようであった。(469p)

★――なぜ自刃されなんだか。ときくと、三成は正純を憐れむように微笑し、「ここ心事はこの大事を起こした者のみが知る。古に頼朝あり、いまに三成がある。汝らのような葉武者の知るところではない」といった。正純はおどろき、葉武者。と、あごをひいてつぶやいた。正純は家康麾下では万石の大名なのである。三成にひきつづいて、安国寺恵瓊、小西行長もとらえられ、大津に送られてきた。家康は、満足した。(474p)

★「あの男は、成功した」といった。ただ一つのことについてである。あの一挙は、故太閤への何よりもの御馳走になったであろう。豊臣政権へのほろびにあたって三成などの寵臣までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ、人はけじめをうしなう。かつは置き残して行った寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉もみじめさは救いがたい。その点からいえば、あの男は十分に成功した、と如水はいうのである。(492p)

★実際、歴史上の事件が、人間についての洞察と秀れた描写力を通じて、われわれの身近なものとなるところに、司馬文学の魅力の重要な要素がある。(496p「解説」より)

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