コロナ禍により図書館で思うように雑誌が読めず予約して借りて読んでいる。発行月でなく遅れて読む「文藝春秋」6月号。今一歩、時代に追いついていない。が、司馬作品の合間に読むにはちょうどいい。月遅れの雑誌を読むにも予約を入れてすぐに借りられるとは限らない。何十人もの順番待ちの後にやっと借りて読むことができる。
「巻頭随筆」欄に朝吹真理子の記事がある。「人間に会えない寂しさが募っているせいか、今年は特に、花に慰められている。散歩をしながら、梅も、桜も、木蓮も、みつけると嬉しくなって、眺める。……」。最初の方だけ読んで、この気持ちに同感する。
日本画の帰りに目にする教室そばの交番横の狭い庭。誰が手入れするのかコンパクトに花が咲いている。これを見て(我が家の狭い庭にも花が咲く?)と気を入れなおして毎日水やりをするようになった。時に、水で薄めた液体肥料を与えることもある。その成果があるのか、長年葉っぱだけだったカラーが今年は見事なピンクの苞をつけた。今、苞はピンクから赤紫に変わって咲き続けている。その横に置く鉢植えのミニ薔薇は2輪花をつけた。その後も新たな芽が出て花をつけそうだ。ガーベラは一度に何本も蕾をつけず1つ咲いては枯れて次が咲く。今も1輪咲いている。紫陽花は梅雨も終わって時季が過ぎたのか新たな花は咲かなくなった。
室内に置いているペペロミアの鉢植え。以前、花屋で一鉢買ったペペロミアは大きくなって3鉢に増やした。そこからまた花穂が出た。これも毎日の水やりが欠かせない。
「文藝春秋」に戻って特別寄稿「晩節における『死』との対峙」を読む。石原慎太郎の記事である。その最後に「池江さんに教えられたこと」と小見出しがある。少々長いがこれを引用させていただこう。
★となれば晩節に於ける肉体の衰弱がもたらす『死』への予感を超克し安定した晩節を維持するために人間は何を杖として自分を支え人生を全うすればよいのだろうか。それは死の到来を予感させる老化を阻止する試みを反復する以外にあり得まい。それこそが人生を全うする唯一の手立てしかあるまい。……最近私は老いくちつつある自分をふるいたたせてくれた劇的な挿話を聞き実際に目にもした。……(池江選手の映像を見て)あれはまぎれもない未だ生ある人間がその強い意思の発露によって生きながら目の前の『死』を超克した歴然たる事実に他ならない。……晩節において当然対峙を強いられる『死』という『最後の未知』に臆することなく彼女のように自ら踏み込んで迎え撃つという姿勢こそが己を失うことなく『最後の未来』を迎えるに間違いない。
自分自身、老いてはいるが今のところ至って元気。そのため今は「死」について考えることがない。が、親を介護した経験から、いつか自分自身にもままならない日が来ると思っている。その時はどんな心境になるのか、今はわからない。が、どの人も同じ道をたどるはず。そう思っている。いつの日か自分自身、この記事と同じ気持ちになるに違いない。心に留めておこう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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