『国盗り物語』(二)を読み終えて『国盗り物語』(三)を読み始めた。この本は恐れ嫌われる人のたとえにある「蝮」、と言われた斎藤道三の物語である。この(二)を読み終えてその(三)も斎藤道三の話かと思ったら織田信長の国盗りの話だ。斎藤道三の娘婿が織田信長。その(四)はまだ手にしていないのでどんな話で終わるのか楽しみである。
世の中、オリンピックが始まった。だが、全く興味がない。いつもと変わらぬ日々を過ごしている。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『国盗り物語』(一)(司馬遼太郎 新潮文庫、平成二十七年第百一刷)から気になる箇所をメモした。
ここで余談。昨日ブログに投稿した石原慎太郎は脳梗塞を患い、左手が不自由らしい。それでもパソコンのおかげで文を書けるそうだ。その、左手。カタカナの「ナ」も書けないとぼやく。自分自身、どこも悪くないといっても視力がよくない。パソコンに本などの引用を入力する際、人の何倍も時間がかかる。入力そのものは早い。が、目が悪いために本をそばに置いてそれを見ながらの入力ができない。その都度、本を見ての入力となる。その代わり自分が思いつくままの文の入力は早い。
ということで以下の入力も時間がかかった。
★現在(いま)も、山崎八幡宮(離宮八幡宮)は、東海道線京都・大阪間の山崎駅」の西浦にある。……神官は、庄九郎のころとおなじ津田氏の世襲で、当主津田定房氏は四十六代目である。むろん、ここが荏胡麻油の専売権をもっていたのは戦国時代までで、こんにち往年の盛大さをしのぶよすがもないが、ただおもしろいことに、東京油問屋市場、吉原製油、味の素、昭和産業といった全国の食用油の会社、組合が、いまなお氏子になっている。(52p)
★(日蓮上人がもっていたという数珠丸恒次はむかし身延山久遠寺が、その後転々とし、今は兵庫県尼崎市の本興寺におさまり旧国宝である。庄九郎の持っていた刀はおなじ作者の青江常次には違いないが、数珠丸であったかどうかは疑わしい)(55p)
★余談だが、庄九郎よりやや後年に出た黒田官兵衛如水の先祖は、一時、この備前福岡の市に居ついていた。黒田家が筑前一国に封ぜられ、博多の西方に築城したとき、先祖にゆかりの備前福岡の地名をとって、城下の地を福岡と名づけた。いまの福岡市がそれである。(87p)
★上古、温泉の多くは僧侶によってひらかれた。僧侶は、シナの医書を読んで、温泉の薬効あることを知っている。かれらは温泉に寺を建て、宿坊をつくり、大いに宣伝して俗人をあつめた。仏法を言葉で説くよりも、温泉の薬効で人をおどろかせ、しかるのちに「それこそ霊験である」と説いた。有馬の湯も、奈良町の僧行基がひらいたもので、温泉寺もこの行基菩薩の建立であった。(105p)
★奈良の興福寺大乗院などは、一つの寺院で、塩、漆、こうじ、すだれ、菰(こも)など、十五品種にわたる商工の権を握って、そこから得る収入はばく大なものであった。こういうばかばかしい制度をぶちこわして、楽市・楽座(自由経済)を現出させたのは、のちに庄九郎(斎藤道三)のむすめ婿になった織田信長であった。信長は単に武将というよりも、革命児だったといっていい。そういう経済制度の革命の必要を信長におしえたのは、道三である。(189p)
★庄九郎は、策略の多い人間だが、そのつどそのつど、心に濃烈な真実をこめていた。ただ濃烈な真実というものは、次の瞬間には色が変ずる、というむなしさも知っている。庄九郎の真実は、霜月に照りかがやく紅葉の美しさに似ていた。紅葉とは、翌月の師走にはもう色が褪せる。そういうはかなさがあればこそ、霜月のもみじは、より一層の美しさでひとの心を打つのであろう。(233p)
★戦国の英雄というのは奇妙な信仰を心のどこかにもっていて、自分を地上に下したのは天であると思っていた。一種の誇大妄想狂である。この「天命」があればこそ、行為はすべて正義であり、そういう強烈な正義観がなければ、誇大さがなければとうてい統一の大業は果せないものだ。……、事、成就すれば「天にもっとも近い者」であることを人にし知らしめるために天空を劃するような城をつくる。(261-262p)
★庄九郎のこの時代、茶道が社交の場として流行したのは、室町幕府がつくったうるさい小笠原礼法の反動のようなものだ。(270p)
★庄九郎は、生涯のうちで十三回姓名を変えている。変えるごとに身分があがった。後世もっとも有名になった斎藤道三という名は、その晩年のものである(筆者―-この物語ではまぎらわしため、庄九郎で通したい)。(313p)
★庄九郎はおもった。生のあるかぎり激しく生きる者のみが、この世を生きた、といえる者であろう。(生悟りの諦観主義者どもは、いつも薄暮に生きているようなものだ。わしは陽の照る下でのみ、思うさまに生きてやる)(331p)
★このため美濃平野のひとびとはこの東方の山嶺を怖れ、この一帯を、恵那郡とも明智ともいわず、ばくぜんと「遠山」と通称しているほどであった。ちなみに徳川時代の名町奉行といわれて講談などで「遠山の金さん」と親しまれている遠山左衛門慰景元(さえもんのじょうかげもと)の先祖はこの地から出ている。(493p)
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