2019年8月31日土曜日

やっと晴れた!

 久々に日が差し込む朝を迎える。今日は一日晴れのようだ。が、明日からまたしばらくは雨になりそうだ。

 毎日3,4人のブログを見ている。時に、広島在住の有名人のブログをみると知らないキーワードを目にする。セレブ感が漂うブログだ。途中、知らないキーワードをネットで検索。お店の場面では広島にこんなお店が……、とネットで調べる。自分の生活範囲では全く用がないことであっても、なぜか関心が行く。これも好奇心!?

 太陽が出ても蒸し暑さは半端ではない。特に雨の日の蒸し暑さは眠気を誘う。夜はよく寝る上に昼間でも寝ていてはもう永眠(?)になりそう。これはいけない。眠いにもかかわらず、本を読む。読むから眠くなるのかもしれないが……。

 先日図書館で借りた正岡子規に関係ある人々の『ひとびとの跫(あしおと)音』(司馬遼太郎)を読み終えた。単行本で523頁もある。昨日、『アカシアの大連』(清岡卓行)を借りている。これがまた単行本で700頁くらいある。こちらは司馬作品とは趣が異なる。大連の熱が冷めないうちに読もう、と借りてきた。ただ、700頁全部を読むには大変。というのもこの本は清岡作品全集といった感じなので、その中から「アカシアの大連」だけを読もう。これだとすぐに読めそうだ。

 話は昨日のブログに戻る。先生の吹かれた♪リベルタンゴ♪、これは自分が以前に吹いたのとは違ってかなりアレンジがバージョンアップされている。多分動画と同じアレンジだろう。フルートと言えば来月末に市内でフルーティストたちが集まるフェスティバルがある。フルートを習い始めたころ2回出たのは覚えている。1度目は音大のホールだった。その時、会場にかなり強い地震が発生した。すぐに家に電話したことで覚えている。2回目は福山まで泊りがけで出かけてフェスティバルに参加した。演奏後、誰もいなくなった会場の広い客席をバックにして大きなステージにフルートをもって立ち、フルート仲間3人で写真を撮った。それで覚えている。

 今年のフェスティバルは参加しない。ただ、ゲストに若手フルート奏者の上野星矢がやってくる。聞きに行こう!先生にチケットをお願いすると先生も出演されるという。来月末から再来月にかけて予定がつまり、忙しくなりそうだ。それが終われば自分にとっての行楽シーズンが始まり、2か所ほど旅に行く予定。そのためにも蒸し暑い、と言わず元気でいなくてはいけない!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月30日金曜日

♪リベルタンゴ♪

 発表会で吹くソロの曲をピアノ伴奏と合わせる。ICレコーダを用意してまずは音出し。2小節、ピアノの前奏がある。リズムを取らずにいるとどこから吹くのかわからなくなる。おい、おい!と自分に注意。家での練習はフルートとメトロノームだけでしている。前奏の2小節はかなり意識して聞くようにしよう。再びピアノ伴奏が付く。自分としては普段通りの感じで吹けた。ただ、途中、同じ「レ」の音がリズムを異にして何小節か吹く。この時、♪(8分音符)の連符が並ぶ。1つ、見逃して吹いていた。これも本番では注意しよう。

 ピアノとの音合わせも無事終了した。楽器をケースに収めていると、フルートの先生とピアノの先生のジョイントが始まる。ピアノの前奏が数小節あり、これに感動する。次にフルートが加わる。なんと曲はピアソラの♪リベルタンゴ♪だ。大好きなピアソラ。そっとして勝手に聞かせてもらった。私一人の聴衆のための演奏会?と思えるほどの大迫力のピアノとフルートの響き。本当に感動した。演奏後、思わず「すご~い!すご~い!」と声を出して手をたたく自分がいる。本当に素晴らしかった!

 演奏後、両先生に興奮気味に話すと「ピアソラが好きよね」「発表会で吹いたよね」と言われる。今、ピアソラ曲集を探すと♪リベルタンゴ♪は2002年に発表会で吹いていた。ほかにも2、3年前に♪天使のミロンガ♪を吹いている。今年の発表会が終わったらピアソラの曲を家で吹くことにしよう。

 身近に生で聞く音楽はいい。以前、市内在住のピアソラ5重奏団の演奏をよく聞きに行っていた。今はライブハウスの演奏で開演時刻が遅くなり、出かけなくなった。

 なぜピアソラに惹かれるのだろうか。激しい曲なのに哀愁が漂う。これがいいのかもしれない。動画で見ることにしよう。



 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月29日木曜日

『世に棲む日日』(四)

 まるで梅雨のように雨の日が続く。この先1週間も雨が降るようだ。秋はいつになったらやってくる!?

 毎日、司馬作品を読んでいる。どの作品も1作品が1冊で終わるのはほとんどなく、ほとんどが数冊単位だ。『世に棲む日日』(四)(司馬遼太郎 文藝春秋)も4冊ある。以下はその中から気になる箇所をメモしたもの。この作品の出版年をメモし忘れている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「自分は不本意ながら決起する」という気持ちを表現するために、晋作のクーデターの翌日、髪を剃って坊主になり、おれは世を捨てた、と名も変えた、と言って、「素狂」と号した。素(もと)これ狂なり、という意味をこめている。松陰は、至純至高の思想を狂と定義し、狂でなければ国が救えないとしたが、この狂の思想を伝承するため晋作もその文字を号とし、山県もそれを号とした。54p

★晋作は 時代をうごかす巨大な勢力は経済であり、具体的には富裕有識の町人階級であるということを渾身をもって知りはじめていた。晋作が師の松陰から抜きん出た点は、こういうあたりであろう。206p

★「どの人間の生にも春夏秋冬はある」と、かれの師の松陰がいったことがある。幼少で死ぬ者もそれなりに春夏秋冬があり、長寿を得て死ぬ者も同様であり、春夏秋冬があることは人生の長短とかかわりがない。ゆえに自分が短命に終わることにすこしの悔いもない、とは松陰がみずからに言いきかせた言葉だが、晋作の人生の晩秋はみじかかった。しかしいかにみじかくとも、晩秋らしい晩秋を、晋作はごく自然に送っている。303p

★おもしろき こともなき世を おもしろく
とまで書いたが、力が尽き、筆をおとしてしまった。晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた。もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないとおもい、「すみなすものは 心なりけり」と書き、晋作の顔の上にかざした。望東尼の下の句は変に道歌めいていて晋作の好みらしくはなかった。しかし晋作はいま一度目をひらいて、「……面白いのう」と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。306-307p

★人間が人間に影響をあたえるということは、人間のどういう部分によるものかを、松陰において考えてみたかった。そして後半は、影響の受け手のひとりである高杉晋作という若者について書いた。『世に棲む日日』という題は、高杉の半ばふざけたような辞世の、それも感じようによっては秋の空の下に白い河原の石が磊々(らいらい)ところがっているような印象からそれをつけた。(文庫本あとがき316p)

★この小説は、国民軍の先駆的形態ともいえる奇兵隊をつくり、幕末の征長戦争――長州側からすると四境戦争――において幕府軍を敗北させた高杉晋作を主人公にしている。当時とすれば、坂本竜馬(『竜馬がゆく』)、土方歳三(『燃えよ剣』)にならぶ風雲児である。(松本健一 文庫本巻末解説318p)

2019年8月28日水曜日

碰見了!

  夕方、人と外で話をしていた。その時、突然、人が立ち止まる。「〇〇〇です」と聞いてもうびっくり。なんと昨年暮れ、大連に出かけた時に知り合った人だ。今、自分がはまっている司馬遼太郎の本を読むように勧めてくれた人だ。町内に住んでいる人で我が家の前を歩いて最寄り駅まで行き来する、と聞いていた。会ったときは司馬遼太郎にはまっていると知らせたい気持ちがある。9か月ぶりに会ってやっと伝えることができた。話していると「水師営の観光をしなかったね」、と念を押される。その人曰く、「ツアー客の年齢が戦後生まれとなってその観光をしないのだろう」、と。

 水師営は中国の大連市旅順の北西にあり、清朝海軍の兵営があった場所。日露戦争の際、乃木大将とステッセル将軍の会見が行われた。

 乃木将軍は203高地の高台の後ろの山に自身の2人の子供を祀っている。それを祈念して203高地に立つ祈念碑を爾霊山(ニレイサン)と名付けた。この話はガイドに聞いたのではなく『坂の上の雲』の中に書いてあった。そのことを出会った人に話すと知らない、という。203高地の雪山を歩いて登った際、その人は息苦しくなってリタイアされた。私としてはあの大雪の中をよくも歩いて登った、との自負がある。それはその人も覚えてくれて「元気だ!」と言ってくれる。とはいいながら、生まれてすぐに大病をしている。それは自分自身は親から聞いて知ったことであり、全く覚えていない。そのこともあるのか、絶対無理はしない。それがいいのか、今は元気!

 司馬遼太郎の本はこの人以外のツアー客からも読むように言われた。昨日、「150歳まで生きないと司馬作品は読めそうにない」と話すとそこまでしなくても読めると言って笑われる。海外は?と問われて、大連の後に出かけた台湾の話をする。その人はウラジオストックを、と思ったらしいが取りやめたとか。秋、冬の大連でなく、アカシアの大連に行きたい、というと清岡卓行の本を読んだのかと問われる。読んではいない。ただ、中国語を習ってアカシアの大連、を知った。この本も読もう。

 本と言えば昨日は図書館で予約確保した光浦靖子のエッセイを読んだ。タイトルは『ハタからみると、凪日記』(毎日新聞出版、2018年)。エッセイはすぐに読める。ほかにも司馬遼太郎の単行本『ひとびとの跫(あしおと)音』を読みつつ、『翔ぶが如く(二)』を読む。もう目の前は本だらけ。昨日聞いた『アカシアの大連』もさっそく予約しよう。

 そういえば、昨日、ばったり出くわした人はNHKのカルチャーセンターの帰りだった。今朝の地元紙に、10月からのそのカルチャーセンターのチラシが入っている。何を習いに?と思った矢先のチラシだ。これにもびっくり!

 ここで余談。旅順の博物館で見たミイラ。これを昨日の人は見ていないという。博物館内はガイドもつかず自分で見るしかない。その人は203高地で草臥れて関心がなかったのだろう。大谷探検隊が持ちかえったミイラ、と知って自分自身は実物をしっかり見た。最近『西域をゆく』を読んで大谷光瑞が持ち帰った話が出てくる。これは後日のブログにアップしよう。

 またまた余談。今、自分のブログで確認すると旅順博物館で見た2体のミイラはやはり、203高地観光後、お昼を食べてから出かけている。その人はだいぶ疲れていて見なかったのかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月27日火曜日

1か月ぶりにプールへGO-~

 1か月ぶりにプールで泳ぐ。お昼の気温は30度くらいで曇り空。35,6度の炎天下と違って自転車に乗ってもちょっぴり秋を感じる。今日から1週間は雨の日が続く。泳ぐにはこの日しかない、と心に決めていざプールへ。中に入ると水が冷たい。少しずつ体に水をかけて、全身をプールに浸す。さあ、とばかりにクロールで泳ぎ始める。久々のプールは水を掻くリカバリーが多すぎる。25mが長く感じられた。次は背泳ぎ。これは割とリカバリー数も少なく泳げる。両腕を耳に当てる感じで交互にリカバリーした。泳ぎは500m、と決めて泳ぐ。途中、顔見知りが入ってくる。

 「元気?」と声をかけると体の一部に手を当てて「手術をした」、という。「気をつけて!」と告げると「何に気をつければいいんだろ!?」とのこと。こう返答されると困ってしまう。人にはよく考えずに「気をつけて!」と言っている。言われてみれば何に気をつけて、と言っているんだろう。

 背泳ぎで泳いでいると顔に水がパシャパシャあたりだす。何事?と思ったら小学低学年が2.3人横で泳ぎ始めていた。子供の勢いにはどういっても老婆が負ける。ここで怪我でもすれば先の人生が思いやられる。浅いプールから深いプールへ移動した。あと何往復か、泳げば500mになる。クロールはなぜかリカバリーが多すぎる。1か月のブランクがこうなるのだろうか。ともあれ泳ぐ。500mを泳ぐとこんどは水中歩行のほうへ移動して歩く。歩くといっても水圧の加減なのか、前に足が進まない。ともれ3往復歩いてプールから上がる。

 帰りの自転車ではそれほど暑くもなく、むしろ心地いい風が吹く。家に帰ってもエアコンはいらない。久々に泳ぐと心まで晴れ晴れとしてくる。この勢いで11月の紅葉の旅を申し込む。やっぱり、家にじっとしておらず外に飛び出す方が気持ちいい。

 そういえばお昼に見た徹子の部屋に山本陽子が出ていた。御年77歳とか。美人でしっかりした人だ。日本画が趣味と話していた。習い始めて17年だそうだ。花や風景を描いているのを見るといい画だ。パネルを黒くして描いていた。視力がいいのかもしれない。目が悪いとパネルの色は明るい方が描きやすい。この人、なかなかの人だ。思ったらすぐに行動する、らしい。

 会えば体の不調を訴える人よりも、この人のように張り切って毎日を生きている人の方が好きだ!見習おう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月26日月曜日

『誰かを幸せにするために』

 最低気温が22,3度となり、やっと涼しくなってきた。ただ、この気候も明日からはしばらく雨になるようだ。今、しっかりと雨が降れば秋の台風が少しは緩むかもしれないと根拠ないことを思ったりする。

 図書館で借りた伊集院静の大人の流儀シリーズ⑧を読む。「誰かを幸せに……」の誰かとは誰か?著者の誰かは若くして亡くなった妻の夏目雅子、海で遭難した実の弟、そして両親や関心を抱く画家、熊谷守一などを書いている。熊谷守一の絵は伊集院が好きな画家で、ほかのエッセイにも書いていた。日本画で熊谷守一の絵が好きな人がいる。さっそく、この記事をコピーしてその人にあげよう。

 『誰かを幸せにするために』(大人の流儀⑧)(伊集院静 講談社、2018年)の”五風十雨”はこの本で初めて知る。

★”五風十雨”という中国の言葉があるが(五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降れば農作物がよく実るという。天下が乱もなく太平の意味)、この言葉が好きだ。(122p)

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月25日日曜日

「謎の天空遺跡 マチュピチュ大中継2日目」etc.

ワイナピチュ山(テレビを写す)

ワイナピチュ山頂上の満島(テレビを写す)
   
 
BS放送開始30周年記念番組「謎の天空遺跡 マチュピチュ大中継2日目」を見た。6月のマチュピチュ2日目の再放送らしい。1日目の放送は生放送で見ている。昨日午後は地元の区民文化センターで開催されたサマーコンサートを聴きに行き、生憎、番組の終わり30分くらいしか見られなかった。マチュピチュは旅のメモを見ると1996年8月に出かけている。今から23年も前だ。その時は一番高くそびえる山の下付近の遺跡を歩いた。当然、高くそびえる山を見上げて……。ところが、昨日のテレビでは俳優の満島真之介がワイナピチュ山の登山に命綱をつけて挑戦していた。あの高い山には急な石段がてっぺんまで敷かれている。狭く急すぎて立って歩くには危険らしく、四つん這いになって登っていた。

 山のてっぺんまでの階段の途中で、当時の人が生活していたらしい遺跡がある。その場に立って見下ろす光景では思わず見ているものの足がすくみそうになる。それほど急峻な高い場所から見下ろしている。満島が登ったワイナピチュ山は標高2700mくらいの高度がある。山のてっぺんにも遺跡があり、そこから見下ろす光景は人が立っているだけでも見る側をはらはらさせる。多分、観光客の誰もそこまではいかないだろう。というか、許可なくして登れないかもしれない。以下は番組HPからの引用。

★「人生で一度は行って見たい」と旅人があこがれる世界遺産、マチュピチュ。早朝、日の出の大絶景、精緻な石組み、太陽の観測装置などインカ文明の不思議さを伝える。ペルーのマチュピチュ遺跡は世界遺産の中でも屈指の人気を誇る。アンデス山脈、断崖の上にあるマチュピチュは誰がいつ、何の目的で築いたのか?どのように精緻な石組みを作ったのか?謎に満ちている。天空遺跡から、世界で初めて高精細映像の4Kによる生中継を2日間にわたって行った。2日目は俳優の満島真之介さんがワイナピチュ山の登山に挑戦。不思議な形をした太陽の観測装置など、インカ文明の奥深さに迫る。

 この再々放送を期待しよう。夜は同じくNHKのBSで「ヒマラヤ大縦走・遥かなる天空の道」を見る。ヒマラヤ写真家2人が標高6190mの峠越えをして世界最難関トレイルを試みる。途中、高度のため高山病に苦しむ2人。自分が経験した高山病は高度2000m余りを過ぎてなる。ところがこの人たちは5000m級の山からだ。当然、誰もが高山病になる高度にある。それでもヒマラヤの山々を時にはドローンを飛ばして人がいけない世界を映し出す。この番組HPは以下のようだ。

★世界で最も高い所に刻まれた一本の道「グレートヒマラヤトレイル」8000mを超える山々を望み1700kmにわたってネパールを横断する世界でも最難関の縦走路。標高8463mのマカルーを望み、エベレスト山群の展望台までのトレッキングに2人の山岳カメラマンが挑む。酸素の少ない6000mの峠を3つ越え、強風が吹き荒れる40kmもの氷河地帯を進み、数々の困難を乗り越えて目にしたヒマラヤの巨峰の圧倒的な光景!

 この放送は、昨日の朝ラジオで聞いた「山カフェ」出演者の石丸謙二郎のナレーションがある。朝のラジオでそれを知ってテレビを見ようと思い立つ。その後は六角精児の「呑み鉄本線・日本旅」を見る。北海道の鉄道旅だ。テレビを見る時間が長くなり、途中で睡魔に襲われる。半分見て寝てしまった。

 どういっても午後はコンサートに出かけている。草臥れたのだろう。コンサートは弦楽器の合奏にゲストのオーボエや歌が加わる。最後は会場の聴衆も加わって♪瀬戸の花嫁♪を歌う。楽しいうちにコンサートは終わった。ただ、いつも感じるのはじっとして聞けない子供を連れてくる親がいる。携帯やスマホの電源云々の前にそのほうが先では……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月24日土曜日

『長生きにこだわらない』

 暑さは和らいでも雨が降って蒸し暑さが増す。これからは一雨ごとに秋らしくなっていく。昨日はご無沙汰気味のプールへ、と気は焦る。しかし、蒸し暑い日中に行くのはやめよう、と決める。もうすこしすれば夏休みも終わる。子供たちのいなくなったプールで泳げばいい。そういえば昨年の夏は豪雨災害の影響でプールが避難所と化し、2か月くらい利用できなかった。

 暑い中、もっぱら家で本を読む。『長生きにこだわらない』(矢作直樹 文響社、2019年第2刷)、サブタイトルは「最後の日まで幸福に生きたいあなたへ」を読んだ。以下は気になる箇所を抜粋したもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★腸腰筋というのは腰椎と大腿骨を結ぶ筋肉で、背骨、骨盤、股関節という、私たちが転ばないために働く主要な部位に影響する筋肉です。加齢や運動不足でこの筋肉が弱くなると歩行に障害が出ます。したがって、毎日ある程度の距離を歩き、そこに階段の昇降も入れながら、たまに自転車に乗っているような人は、着実に腸腰筋が鍛えられます。無意識のうちに体が活性化されます。よって転びにくくなるでしょう。94-95p

★自分を知るということは「閾値」をしるということ。閾値は、限界値、境界値と解釈してください。すると無理しなくなるのでストレスも溜まりません。131p

★大半の人は死ぬ少し前から食事を受け付けなくなりますが、これが他界のサイン。慢性期病院で見てきました。この世界はもういい、ってことです。食欲があるうちは、まだこの世界にいたいというサインです。173p

★ピンピンコロリするには、適度な食事、適度な運動、適度な休息、です。それに加えて重要なのは、心身一如、身土不二、という考え方。いずれも「切り離せないもの」という意味が含まれています。心と体は切り離せない、体と土(大地)も切り離せない、ということです。体を大事にするには、まず心を変えることが先決です。180p

★私が「今を楽しみましょう」と何度も口にするのは、先がどうなるかわからないからです。今まで元気だったのに救急外来に担ぎ込まれ、あっという間に亡くなる人を大勢見ました。未来は不確実性に満ちているのです。187p

2019年8月23日金曜日

『酔って候』&ネット検索

 母の愛用品を探していて、目的物でないニコンの双眼鏡が目に入る。双眼鏡は欲しくて買ったものではない。8年余り前、長く使用していなかったコンタクトレンズを使い始めた。その日は4月の土曜日。一度、市内に出て用事を済ませて夕方帰宅。コンタクトを外そうとしたら外せない。ネットで検索していろいろと外し方を試す。だが埒が明かない。いつもの眼科に電話するが土曜日なので午前中の診察終了。困った、と思ったとき気づいたのが、眼鏡店。家の近くにはお店が思い浮かばない。市内の本通りにある老舗眼鏡店に電話すると夜8時までOKとのこと。またも市内に出かける。はやる気持ちを抑えてお店に到着。すぐに事情を話すと係はスポイトでコンタクトを取ってくれた。料金を問うといらないとのこと。これでは気が済まない。どういってもこの時は取ってくれた人が神様に思えた。その場でスポイト購入。

 だがこれだけでは申し訳ないし、タダではその場を離れられない。ふと浮かんだのが双眼鏡。1万円くらいのものを買ってお礼に代えようと決める。それが昨日のニコンの双眼鏡。ずっと使わずに収めていた。昨日、再度、目にして本体を触ってみるとベタベタして触れたものではない。ここでネット検索、となる。湿気が何かの作用でベタベタ感を出すようだ。ネットによると以下のように書いてある。

★プラスチックやゴムのベタベタは湿気が原因!簡単な対処法を5つ紹介
 プラスチックとゴムのベタベタの原因は水!夏場は特にベタベタに…!
https://yourmystar.jp/relivers/plastics-rubber-sticky/(sanshou (参照)

 早速、試してみる。5つの対処法のうちの1つで試す。ハンドクリームを塗ってベタベタ感を取った。今一歩、完全にはぬぐえていないので再度試そう!それにしてもネット検索は素晴らしい。

 以下は先日読んだ『酔って候』(司馬遼太郎 文藝春秋、2012年第16刷)の気になる箇所の抜粋から。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★――土州の御隠居は、共に語るに足る。痛快淋漓たる豪傑におわす。という評判がぱっと立った。長州の過激志士なども、しきりと拝謁を申し出た。容堂は気軽にゆるし、顔をみると早々に、「面をあげい。これへ、近こうに。まず、この大杯で飲め。議論はそれからじゃ」といって杯をさげわたした。飲むとさらに注がせ、「酔わぬ者は予がために悪客であるぞ」と言い、みずから号して、「鯨海酔候」と名乗った。土佐ノ海は鯨が泳いでいる。だから鯨海。つねにその鯨が酔っている、ゆえに酔候――という意味である。諸般の志士はますます、――土州侯は話せる。として喜んだ。酔えば詩を作り、その署名をときに、「酔擁美人楼主人」とした。酔って美人を擁する家の主人、という意味である。76p

★容堂は大いに歓待し、大いに国事を論じた。勝は攘夷主義者ではない。開国主義に立った富国強兵論者である。容堂は大いに共鳴した。……(名論卓説ならなんでもいい)という教養主義である。攘夷論もよく開国論もよく、その背景にかがやくような教養さえあれば、詩人容堂にとって「語るに足る友」である。要するに、議論は酒のサカナでさえあればよい。89-90p

★容堂は藩邸の庭に集結している藩兵に酒をあたえ、「天なお寒し、自愛せよ」という言葉を。そえた。風邪をひくな、という意味である。将士は、退助に率いられ、勇躍、出発した。そのあと、数日、容堂は日に一升の酒を飲み、詩もつくらなかった。
なんのためにおれは存在したのか)疑問だったに違いない。容堂は暴虎のごとく
幕末の時勢の中で荒れまわったが、それは佐幕にも役だたず、倒幕にも役だたなかった。……この酒徒の生涯は、明治五年、四十六歳でおわっている。多年の飲酒による脳溢血だった。144-145p

2019年8月22日木曜日

NHK・BS「イッピン」から

 一昨日のNHK・BS「イッピン」を見ているとなめし皮職人の話題だった。なめし皮と言えば、すぐに思い出すのがモロッコのフェズだ。皮をなめす、という言葉は知っていても実際にどんなものかは知らずにいた。モロッコで見たのはとてもこの世の光景とは思えなかった。フェズの街に入るとどこからともなく漂ってくる独特の匂い。まるでドブ川や汚物まみれの中にいるような錯覚さえ覚える。各自、現地で配られたミントを鼻に詰めて、なめし皮の工場を見学する。もしもここで足を滑らせて転べば糞尿まみれになるに違いない。その場面を思い出しながらテレビのイッピンを見る。余談だが、もらったミントは鼻に詰めす、バッグにつけて匂い消しとした。これはミント効果なし、だった。

 イッピンの場所は姫路の工場だ。日本に皮をなめす工場があると知って驚く。そしてあの嫌なにおいがよみがえる。ただ姫路の工場はモロッコと違って皮をなめす際、大きな樽に皮を入れてなめす。その際、樽の中に水や塩など皮をなめす材料などを一緒に入れて樽に栓をしてぐるぐる回していた。こうすればモロッコのような広い洗濯場のような場所での大人数の作業をしなくて済みそうだ。

 日本に皮のなめし工場がどれくらいあるのか先ほどネットで検索した。国内の皮革産地、として3か所ある。https://www.kawa-ichi.jp/locality/(参照) モロッコではこの仕事は世襲制と聞いた。日本ではどうなんだろう。

 いずれにしてもモロッコの皮なめし工場を見て以降、革製品は買うまい、と心に決めた。今でもあの強烈なにおいが鼻に染みついている。画像3枚は3年半前のモロッコの旅から。

タンネリ地区の革なめし場
新しい方は清掃中でこちらの古い方を見学
周囲が見学コースとなっている


王様の清掃命令により現在使用禁止中
 

 

タンネリ見学でミントを鼻に詰めるところ、バッグに挿す


 イッピンでは皮革製品を買わないどころか、今、姫路の皮製品がブームらしい。確かに、イッピン、と言うだけあって一品一品は芸術作品と言えそうなほどの逸品だ。革製品を買わないのでなく、こういったイッピンは買えないというほうがあっているかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月21日水曜日

♪ブラジル風バッハ第5番アリア♪

 午前4時、隣町の町内放送で目が覚める。はっきりとは聞き取れなかった。携帯のワンセグを見ると広島市と廿日市市で大雨警報発令中とある。もしかして隣町の放送もそれだったのかもしれない。そんなことは何もなかったかのように今の時刻、太陽がぎらぎら照り続く。暑くなりそうだ。


 昨日はフルートのレッスン日。発表会が近づいてきた。先生のピアノ伴奏でソロの曲を吹く。練習の時のように本番で吹ければいうことはない。だが、それが問題。次回はピアノの先生との音合わせ。フルートを習い始めて27年。途中、何年かさらわない時期があった。それでも20回以上は発表会で吹いている。これまで一度も満足する吹き方ができなかった。せめて1回くらい気持ちよく皆の前で吹きたいもの、と思ったりする。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月20日火曜日

『語り継ぐこの国のかたち』

 今朝の地元紙をみると多くの紙面を「拝謁記」が占めている。ドラマ仕立てで天皇と側近の会話を先日、テレビで見ている。今更、という感じで新聞を読む。以下は先日読んだ『語り継ぐこの国のかたち』(半藤一利 大和書房、2018年)の抜粋。最初に取り上げた宿直の制度が奉安殿を守る制度であるとこの本で知る。この8,9か月間、司馬作品を読んでいる。読み進むうち、それに関連する本に興味がわく。半藤一利や井上靖の著書も目に付く。昨日、井上靖と司馬遼太郎の紀行文と対談集である『西域をゆく』を読み終えた。もう頭のなかは幕末から先の戦争までのことでいっぱいになる。いつも思うのはこのような時代は自分が生まれる前のこと。今、平和な時代を生きている。そこには近い過去の先人たちの暗い歴史があった、と改めて知る。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★わたくしが子供のころ、学校には必ず奉安殿というものがありました。そこに天皇・皇后両陛下の御真影と、教育に関し賜りたる勅語(教育勅語)というものが、しまわれていたのです。宿直はその奉安殿を守る制度だったのです。019p

★いまわたくしたちはよく万歳をやります。あの万歳は何かというと、もともとはバンゼイといって長寿を祝う言葉なんです。021p

★司馬さんというのは、どちらかというと、坂本龍馬にしろ、河合継之助にしろ、土方歳三にしろ、司馬さんが小説でお書きになったいる主人公というのは、みんな颯爽たる心根といいますか、清潔な精神の持ち主でありまして、それこそ、先見性があり、しかも世の荒波にも決して屈することなく、自分の信ずるところに対してまっすぐに進んでいくような方ばかりが小説の主人公であるわけであります。068p

★しかしこの軍司令官と参謀長は、旅順攻略戦で一体どういうことをやったのか、どれだけの死者を出したのか。それはきちっとした記録、歴史として残してある。戦争での事実は否定しないのですが、一般的には隠すのです。すなわち軍極秘とする。そして戦争というものを華々しい美談で発表し、「神話」をつくりあげ、勝利につぐ勝利の恰好いいものだけにして、世の中に出す。そのひとつが爵位を授けること(叙爵)なんです。そういうことを決めたのが明治四十年。そのころからわたくしたちの日本は大日本主義を選択して、肩肘を張って外へ外へと出るわけです。180-181p

2019年8月19日月曜日

1981年シルクロードの再放送

 今朝のnewsで折りたたみ傘と、キャスター、そして折りたたみ式キーボードピアノを紹介していた。この3点の共通するところは折りたためることだ。折りたたみ傘はその名の通り折りたたみ傘。傘を入れる袋がそのままでも、折りたたんでもいいような作りになっている。キャスターは荷物を運ぶ際、4辺を真四角にして四隅にコロをつける。折りたたみ式キーボードピアノはキーボード部分が樹脂でできており折りたたんで運んだり収納できる。今年春に買った折り畳み傘はまさに今朝紹介されたような傘だ。キャスターは自分には関係なさそう。最後の折りたたみ式キーボードピアノに関心を抱く。

 ネットで検索すると61鍵で5000円前後と安い。数年前、若いころから愛用していたエレクトーンを市の大型ごみに引き取ってもらった。フルートを習い始めて全く使わなくなったエレクトーン。大きくて重たいため処分した。この後悔はない。とはいいつつも、キーボードを弾いてみたいときもある。

 昨日のお昼、テレビをつけるとBSで1981年のシルクロードを放送していた。1時間半の番組。見始めたその時、なんと司馬遼太郎がシルクロードを訪れた場面だった。バザールで現地の人に「満州語は話せる?」と聞いていた。すぐにそれは終わり、次のシルクロードになった。3,40分見ていると睡魔に襲われる。昼寝の習慣はないが、眠くて仕方がない。1時間のアラームでお昼寝タイム。ところが2時間も眠ってしまった。目覚めは気分爽快!連日の暑さで寝不足気味だったのかもしれない。

 その後は、午前中、図書館で借りてきた『西域をゆく』を読む。井上靖と司馬遼太郎が西域へ出かけた際の紀行文や対談集だ。さっきまでシルクロードのテレビを見ていた、とそのタイミングの良さに驚いてしまう。

 1981年と言えば今から38年前のこと。喜多郎がシンセサイザーで作曲したシルクロードのメロディー。その全盛時代だ。自分自身、この翌年の1982年に中国語を習い始めた。それがきっかけで中国にのぼせ、海外にも目覚める。何がどう人生を狂わすかわからない。もしかしたらシルクロードブームで中国語を習い始めたのかもしれない。その前年、水墨画を習っている。これが1981年になる。昨日のシルクロードのテレビ再放送で当時を思い出してしまった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
 
 

2019年8月18日日曜日

日本画教室&夜はテレビ三昧



テレビを映す


ブルーポピー(青いケシ)

テレビを映す
  
 昨夜はNHK・BSのグレートネイチャー「ヒマラヤの秘境!ブータン幸福の大絶景名峰チョモラリ まぼろしの青いケシ」を見る。25年かそれ以上前にブータンに出かけた。その時、青いケシを見た。この青いケシ、番組によると数種類あるという。ブータンで見たのは2番目の画像のケシだった。3枚は昨夜のテレビを映した画像。

 ブータンの名峰チョモラリは女神の意らしく、日本から撮影に同行した学者はこの女神を見て大興奮し、感動を隠せないようだった。「自然はいつ見ても幸せを感じます」とブータンの通訳は話す。だから人は自然に惹かれるのかもしれない。https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/1872/2551110/index.html (参照)

 これが終わるとチャンネルを変えてNHK総合の昭和天皇 拝謁記「国民が退位希望するなら躊躇せぬ」を見る。今、NHKのnews web を見ると下記のURLに番組内容の詳細がある。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190817/k10012038711000.html(参照)

 今朝、ラジオを聞くと昭和天皇に関するほかのニュースだった。これから先も、新たな事実が判明するかもしれない。

 話は変わって昨日の日本画教室。先週まで数枚ほど写真を見てスケッチした。それに水彩絵の具で色を施すのだが、これがうまくできない。この水彩をもとにして本画に仕上げる。今は、本画にするのを急ぐより、スケッチや下絵を頑張って描こう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月17日土曜日

拝謁記のニュースetc.

 昨夜のNHKニュースで天皇の側近が記した拝謁記がある。一昨日の2・26事件の全貌が明かされ、それに続く昭和天皇に関する報道だ。昭和天皇は昭和時代が長く、その時代とともに生きてきたようなものなので親しみがある。現天皇の祖父、と昭和天皇を表現するが、一瞬、祖父?と思ってしまう。今でもしっかり脳裏に焼き付いているので時代が3代前の話とは思えない。今夜のNHKスペシャルはこの拝謁記を放送する。是非とも見なくてはいけない。それにしても昭和の時代は自分自身が生まれた時代だし、遠い過去のお話とは思えない。同時代を生きてきても、戦後の混乱の時代のいろいろなことが今になって明かされてくる。

 台風が去り、一気に秋、とはなりそうにない。今日も最高気温は34度と暑さも半端でない。先日北海道に行ったとき、バス車内でガイドから皆に広島の夏の平均気温は?と聞かれて大概の人は30度と答えた。その時は釧路にいた。釧路は夏でも25度以上になることはなく、ホエールウオッチングの船長は「熱中症になってみたいものよ」とマイクで話していた。それくらい涼しい夏、というのだろう。確かに、7月中旬であっても日中の気温は20度以下で寒かった印象がある。

 今日午後は日本画教室。一番暑い時間帯に家を出る。先週の午前の教室の人はお盆のせいか、暑さのせいか知らないけど大半がお休みだったそうだ。暑い中、出かけても教室はビルの中で涼しく天国になる。じゃ、絵が描ける?と聞かれるとそれがそうとも言えない。手よりも皆、口が動く。特に、3時間の半ばのティータイムになると率先して珈琲を買いに行く。これが絵を習う際のささやかな至福のひと時。これじゃ、何のために絵を習う?と思われそう。それくらいの気持ちでないと何事も長続きしない。こうしてあと1と月も過ぎれば絵を習い始めてまる6年が経過する。よくも続いたと我ながら感心してしまう。これで納得している自分がいる。これじゃ、駄目じゃ、と思われようとこれでいい!モノを見て絵が描けるようになった!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月16日金曜日

「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~」

 昨夜のNHKスペシャル「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~」を興味をもって見た。番組HPを見ると以下のようにある。

★私たちが知っていたのは、“真相”の一断面に過ぎなかった―。
今回NHKは、あの歴史的事件の一部始終を記録した「極秘文書」を発掘した。1936年2月26日、首都・東京の中枢で首相や大臣が襲撃された、近代日本最大の軍事クーデター「二・二六事件」。これまで、事件に関する主な公的記録は、完全非公開で“暗黒裁判”と言われた陸軍の軍事裁判資料とされ、事件をリアルタイムで記録した1次資料はなく、多くが謎とされてきた。事件から83年がたった今、見つかった「極秘文書」によって、青年将校たちの反乱と、その鎮圧にいたる「4日間」の詳細が明らかとなったのだ。
文書を密かに記録していたのは海軍。事件発生直後から現場に解き放った「調査部隊」や、密かに設置された「見張所」からまさに分単位で緊迫の状況を記録していた。陸軍の幹部が事件の裏で行っていた知られざる会談や、海軍が、反乱を超えた大規模な内戦まで想定して備えていたことなど、文書に残されていた「新事実」の数々に、解析に当たった専門家も息を呑んだ。二・二六事件後、軍国主義を強め戦争に突入していった日本。首都東京を大混乱に陥れ、国家の運命を分ける転換点となった歴史的事件の全容に迫る。

 海軍に所属する人物が持っていた極秘文書。その人の名を挙げたけどメモしなくて覚えていない。極秘文書は赤い表紙で6,7冊あった。天皇は事件を起こした青年将校とこれを取り締まろうとする陸軍の衝突を恐れた。それを防ぐため天皇は勅書を陸軍に出すが、当事者はそれをうその報告をして実行しなかった。そのことが海軍の機密文書に克明に記されていた。陸軍と青年将校の衝突に海軍も加わりそうになる。そうなれば海軍は海から攻撃する予定だった。ところが陸軍の一人(安藤だったと思う)が青年将校との話し合いで日本人が日本人を殺しあう……と言って拳銃を自分の首にあてる。それにより陸軍、海軍、そして青年将校の国内における戦争状態を免れた。うやむやのうちに収まった感じの事件の実態が今回明かされた。その後、陸軍は先の戦争へと歩を進めていった。

 番組最後のナレーションで「事実とは何か」を問いかける。私たちが知らないところでモノ、コトが運ぶ。これではいけないと警鐘を鳴らす。

 そういえば青年将校や陸軍に関係する人々が今も生き残っていた。当時19歳から20歳で現在は103歳になっている。頭もしっかりしていて当時の様子を話していた。

 異常な暑さと台風10号の影響でこの数日が長かった。外にも出られず家の中でじっとする。これには参った。今日は外に出よう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月15日木曜日

『70歳のたしなみ』

 新聞を見ると新潟で40.3度、となっている。一昨日の広島が37.5度で3度近くも高い。人が生きていくうえで何度までが限界だろう。今朝は台風10号の影響で終日JR、バス、市内電車、アストラムラインや空の便が動かない。ほかにも広島駅構内のお店や市内のデパートなど臨時休業となる。今は嵐の前の静けさなのか、晴れている。

 連日暑さが続き、家にいる時間が長い。そんな時に読んだのが先日借りたエッセイの『70歳のたしなみ』(坂東真理子 小学館、2019年)。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は気になる箇所をメモしたもの。

「はじめに」で筆者の考えるたしなみを以下の10点あげている。

1 機嫌よく過ごすよう努める。
2 年齢を言い訳にしない。「今さら」「どうせ」「もう遅い」と言わないでまだまだ成長の余地があると考える。
3 今まで受けた恩を思い出し、感謝を忘れない。
4 できる時にできる範囲で人の世話をする。
5 周囲の人、若い人の良いところを見つけて褒める。
6 キョウヨウとキョウイクは自分でつくる。
7 人は人、自分の人生を否定しない。つらい経験があったから今がある。
8 今こそおしゃれ。
9 健康第一もほどほどに。
10 孤独をを楽しむ。

★何事も面倒くさがらず、少し無理して生活するのは、老け込まないためにはとても重要な心構えである。のんびり過ごそうと高齢者施設に入ると、生活能力もだが気力までガタッと落ちてしまう。自分でトイレに行ける間はギリギリまで自宅で暮らし、自分で動けなくなったら、はじめて施設か病院に入ると決めて、それまでは人の助けを借りながらでも一人暮らしを続ける。そして刀折れ矢尽きた時に入院・入居する施設をあらかじめ決めておくのが、私の最高齢期へのビジョンである。072-073p

★歳をとり自分の言葉がどれほど相手を傷つけるかは想像できなくなっても、他人の言葉で傷つく柔らかい急所はどれだけ歳をとろうとそのままであることを忘れてはいけない。言葉は鋭い剣であり、人の心をグサッと傷つける。103p

★70歳にもなれば、他人を気にするより自分で考え責任を持って行動すれば良い。その境地に入ると自由になる。これを達観と言う。過去やいきがかりにこだわらず、とらわれず、広く自由に考えることである。……気にすべきは過去でなく、これからの日々で有言実行し約束を守ることである。197-108p

★一人を恐れず嫌がらず楽しめるたしなみを持った高齢者が品格ある高齢期、品格ある人生を生きるのではなかろうか。203p

2019年8月14日水曜日

『酔って候』

 連日の暑さに台風10号接近が重なって一歩も外に出たくなくなる。あれほど出ていたのにこう暑いと自転車にさえ乗りたくない。昨日は仕方なく家の前のドラッグストアに出かけて牛乳を購入。毎日定番の食べ物、飲み物は欠かすわけにいかない。ともあれ、今朝も暑い。朝6時に目が覚めると、いったんエアコンを切る。しかし、2,3時間経過すると室温が高くなり、すぐにエアコンを作動する。せめて1,2時間くらい、使わないようにしないと思って切るのだが……。とはいっても母を介護していた時は24時間つけっぱなしで、5年もしないうちに室外機が故障してしまった経緯がある。この暑さの中、エアコンがダウンすれば人間まで即ダウンとなりかねない。

 外へも出ず、家の中でもっぱら本を読む。司馬遼太郎の『世に棲む日日』全4冊を読み終え、次は『菜の花の沖』全6冊を読もうとした。しかし、それはやめて『翔ぶが如く』全10冊を読むことにする。その前に『酔って候』を図書館で借りる。これは全1冊で、本の終わりにある吉賀徹の「解説」を読むと面白いことに気づく。

 先日、所属する研究会から『史〇研究』が送付された。その中に薩長の論文がある。司馬作品を読んで「薩長」に目が行く。そして司馬作品を若いころから読んでいれば日本の近代史が分かったはずなのに、と悔やまれる。吉賀は徳富蘇峰の『近世日本国民史』をほめたたえるとともに次のようにも書いている。ここを読んでも司馬作品の素晴らしさが改めてわかる。その割には司馬作品を読むのが遅すぎた。遅きにあっても司馬作品にかなりはまっている。

★司馬遼太郎氏の幕末維新、そして明治の日本を舞台とする歴史小説の大群が、史論と小説とのジャンルの違いこそあれ、この蘇峰の大事業を継ぎ、それを発展させた「近代日本国民史」となるであろうことは今日ではもはや動かないところである。いや、すでにそれが「近代日本国民史」として、近来の他のどんな通史や叢書や研究書や、文部省の検定合格あるいは不合格の教科書にもまさる強い迫力とさからいがたい魅力とをもって、日本国民に臨み、おとな(傍点がつく)の読者層の圧倒的な支持を得ていることは、読者諸氏御自身がすでによく心得ておられる事柄であろう。……「最近人物研究が再び盛んになってきたのは、戦後ようやく社会科学として進歩を固めた日本の歴史科学の正道に逆らい、それをねじまげようとする反動攻勢の一環である」――数年前のことにせよ、こういった身ぶるいするほど勇ましい議論が中心的な専門雑誌(『史学雑誌』)の「学会展望」特集号に掲載されたりするような実に保守自閉的な日本の歴史学会なのであった。正気で、マジメでそのようなことを書いていたらしい人が、この『酔って候』をはじめ、『最後の将軍』や『坂の上の雲』や『世に棲む日日』や『花神』など、司馬氏の雄大豊麗な人物史論の世界に触れたら、いったいどんな顔をするのか。汽車賃を払ってでも見にゆきたいほどだ。(司馬遼太郎 文藝春秋、2012年第16刷332-333p)

 今日午前中はブログのアップ中にWindows10のプログラム更新があり、長時間を要した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月13日火曜日

お墓参り

 こう暑くては一日にナニゴトも済まそうと思うのは無理というもの。一昨日、お寺に行って受け取った塔婆。昨日の朝、それをもってお墓に参る。大きな帽子と長い塔婆、それに墓に活けるお花をもって日傘をさして、いざお墓へ。お墓までは自宅から携帯万歩計で1137歩。たったこれだけの歩数なのに途中暑さで3度も立ち止まる。緩い坂道のせいもあるが、朝から日差しが強烈すぎる。お墓につくと日傘を置いて帽子をかぶる。共同水くみ場が墓地内にある。そこまでは数10歩の近さでも急な坂道だ。

 お盆のこの時季、参る人は多い。昨日初めて我が家の墓地を通り抜ける夫婦連れに遭遇する。なぜ?と思って周りを見るとその先にもお墓があった。

 親がいなくなるとお墓参りの後は涙を流して帰っていた。ところが今は涙でなく顔から頭から、そして体中から汗が噴き出る。10数歩下に降りると車道がある。そこで声を掛けられる。近所の人だ。車で送ってくれるという。話を聞くと暑すぎて墓参りをやめて翌日出直すという。まるで私のために迎えに来たようだと笑ってその人は言う。感謝、感謝!

 この人とは顔は知っていても話したことはなかった。ところが互いに親を車いすで介護していたことから話すようになった。100歳の誕生日を迎えた新年過ぎにソファで座っていた親が息をしていないことに気づく。そして亡くなられたという。その後、1年過ぎて母が亡くなった。母を車いすに座らせそびれたり、尻もちをついたりするとその人に電話して助けてもらっていた。

 我が家の周りは昔からの一軒家が多い。ところが近年、30年借り上げ住宅が建ち、見知らぬ人々が増えてきた。新しい住人はたとえ隣に住んでいても誰だかわからない。しかし昔から住んでいる人はどこの人かよくわかる。それも次第に世代が変わり、いつの日か誰が住んでいるのかわからなくなるだろう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月12日月曜日

『世に住む日日』(三)

 お寺へお盆の塔婆を取りに行く。行きは自転車に乗っても、持ち帰り時は塔婆が長すぎて自転車に乗るのは危ない。わずか数分歩く距離でも家につけば汗びっしょりになる。塔婆を家においてついでに用を済ませようと自転車に乗って図書館へ行く。予約確保の本3冊を借りる。うち2冊はかなり長く予約待ちした本で坂東真理子と矢作直樹のエッセイだ。この頃は司馬作品の長編を読んでいるのでエッセイはすぐに読める。今日はこれを図書館に返して、次に読む司馬作品『翔ぶが如く』を借りる予定。1作品が10冊あるので読み終えるまでにはかなりの月日を要しそうだ。

 以下は先日読み終えた『世に住む日日』(三)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年14刷)からの抜粋。司馬作品のおかげで先日送付された『史〇研究』の薩長の論文にも目が釘付けとなりすぐに読んだ。しばらくというか、これから先もずっと司馬作品にはまりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★久坂の戦略からすれば、将軍が京へのぼることによって天下の者が天子のほうが上位であるということを知るにいたる。石清水八幡宮へ将軍がお伴をするという予定がすでにできている。石清水八幡宮に参詣することによって将軍は神と天子と天下に対し、「即時攘夷」を誓うことになるのである。……それはいい。加茂行幸である。その日がきた。50-51p

★かれ(晋作)の悲痛さは、数多い長州人という人間集団を、どのように検し、どのように見ても、この男ほど毛利家に対して忠誠心のはげしい男はまずないということであった。まるで鎌倉武士が自分の御主(おしゆう)に対して犬のように忠実であったように、あるいはそれ以上に古風な忠誠心をもっており、さらにかれの忠誠心というのはものしずかなものでなく、かれの性根のなかでたえず息づいている矯激な詩人気質によってつねに湯のように沸(たぎ)りたち、つねに爆発する契機を欲しているという激情的なものであった。59-60p

★わずか二十四の若僧に、対外戦争の指揮権をさずけねばならぬほど、藩はこまっている。そこまで事態が窮迫せねば、あらたな物事というものは興せないものであった。97p

★武士の世がおわることを早くから予言していたのは、のち幕府方につくはめになった越後長岡藩総督の河井継之助や土佐の坂本竜馬、長州では晋作よりのちにあらわれてくる大村益次郎らであった。晋作がかれらとちがっているのは、無言でそれを実行したことであった。徳川封建制という巨大な石垣のすき間に無階級戦士団という爆薬を挿しこみ、それを爆発させることによって自分の属する長州の藩秩序をゆるがせ、ついに天下をも崩してしまったのである。102p

★「尊王攘夷」と大書され、いまひとつは「討薩賊会奸」と書かれていた。会津と薩摩を討つというのである。この乱入軍が思想的軍隊であるという点で、日本史上めずらしかった。……思想が戦争までひきおこした例は、日本の歴史のなかではじめてのことであった。148p

★われわれは日本人――ことにその奇妙さと聡明さとその情念――を知ろうとおもえば、幕末における長州藩をこまかく知ることが必要であろう。この藩――つまり一藩をあげて思想団体になってしまったようなこの藩――が、髪も大童の狂気と活動を示してくれたおかげで、日本人とは何ものであるかということを知るための歴史的大実験をおこなうことができた。日本史における長州藩の役割は、その大実験であったといっていい(かれらは維新政府ををつくる主役になりえたが、それはかれらの功績ではなく、歴史のひろい場からみれば後日談にすぎず、それだけにすぎず、あるいはまぐれあたりかもしれず、要するにかれらはひどく活動的であったために歴史の実験台のひとびとたる運命をになったにすぎない。かれらの壮烈さもおかしさも、そこにあるであろう)。158p

★どうせ敵が勝つ。長州の沿岸砲台は占領されるにちがいないが、藩全体の目をさまさせるには敗戦以外にない、と井上聞多はいう。この大混乱のなかで、この井上がこの路傍で吐いた理論のすさまじさは、幕末史を通じて比類がない。晋作はよほど気に入ったらしく声をあげて笑い、「聞多、そのとりだ」と、大きくうなずいた。砲弾の洗礼なくして藩意識を大転換させることはできない。192p

★このまわりを海でとざされた閉鎖国家のなかで、この三人だけが外界を見てしまったのである。晋作は上海で西洋文明を見、他の二人は本場で西洋文明を見た。「外国を見た」というだけで、いままでの幻想も思想も一変するという日本人の一つの典型を、この三人はみずからの身で実験した。「藩と日本こそだいじである。攘夷という原理はすてた。すてるほうが藩と日本を救う道だ」というのが、三人党の孤独な政見だった。が、攘夷原理はすでに一般化していて、藩をうごかす凶暴な力として大成長を遂げてしまっている。(注:三人とは井上聞多、伊藤俊輔、高杉晋作)197-198p

★雄藩というのは、この歴史段階のなかで強烈な問題意識をもち、藩をあげて救国活動に参加した藩に対する世間の美称で、長州藩はたしかに雄藩であった。……「長州をほろぼしてしまえ」という気分が、幕府の上下にみなぎった。この気分がもっともつよかったのがは、京における幕府の治安機関である会津藩(藩主は京都守護職)であり、その先鋒ともいうべき浪士結社新選組である。……長州と対立する雄藩である薩摩藩も、幕府と一緒になって長州処分を考えた。247-248p

2019年8月11日日曜日

山の日

 今日は山の日、らしい。仕事をやめると、祭日であろうと平日だろうと気にならない。ただ、祭日がゴミ出しと重なると慌てて市の情報を確認する。今は、習いものやゴミ出し、そして年に10回開催の広響の定演でおおよそのスケジュールを管理する。その合間に講演会や旅行、そして飛び入りの行事などで年月日を確かめる。もしも、これらがなくなれば愈々認知?になりかねない。そうならないためにも祭日くらいは把握しないといけないかもしれない。

 日本画教室に出かけた。先生に会うなり、先日の画材屋での話をする。日本画を習い始める時、先生から道具一式を購入してもらった。そのなかに胡粉もある。画材屋で以前に買った、と思ったのは胡粉でなく方解沫だった。どちらも白い粉なので勘違いしていた。先生にそろえてもらった胡粉はやはりいろんな種類があるようだ。先生曰く「一番高いのを買うように!」。教室で少なくなった胡粉を見ると「寿」とある。これが高い胡粉らしい。胡粉の話をしていると教室の人が箱入りを購入しているという。一生かかっても使いきれないらしく、分けてもらうことにした。

 一生使いきれないのは水干絵具。3箱に入った数十種類の絵具。岩絵の具でなく水干を使用している。これも習う前に先生にお願いして購入したもの。大作を描けばなくなるかもしれないが、描くのはもっぱらF6サイズ。これ以上、大きな絵を描こうとは思わない。何を習ってもまずは格好から入るので道具が増える。これも仕方がない。

 写真を見てのスケッチもだいぶ慣れてきた。スケッチはできても、色付けがむつかしい。次週は数枚のスケッチに色を施す予定。

 話は戻って、年間行事にお寺関係がある。今朝はこれからお盆の塔婆を受け取りにお寺へ行こう。
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月10日土曜日

第107回日本水彩展に出かける

インドの象のお土産

インドのフクロウのお土産

 朝から福屋八丁堀店で開催中の第107回日本水彩展に出かける。会場に着くと後ろ姿に見覚えがある。声をかけると驚かれる。チケットが送付されて来た人の名を告げるとさらに驚かれる。なぜその人を知っているかを知りたいらしい。出会った人は今回の応募で選に漏れたという。秋の水彩画選抜展に名前がある、と告げると嬉しそうな顔をされる。その時、チケットを3枚もらう。既に手元には3枚ある。計6枚のチケットをどうやってさばけばいい!?

 その人と別れて絵を見に会場に入る。しばらくするとさっきの人の声がする。何事?と思った。年の初めにインドに行ったという。そしてお土産をくれるという。1個、受け取ると2個とるようにせかされる。2個もらった。そしてインドはいい、文化がいいと興奮気味に話される。25年以上前になるだろうか。今ではもう行かれないインドとパキスタンの紛争地帯カシミールに出かけたことがある。イギリスの避暑地でスリナガルがある。

 会場内でインドの話になる。だが、ここは展覧会場、話を早めに切り上げる。午後1時からギャラリートークがあるという。そのときまた会場に来るともいう。その場で再度分かれる。

 チケットを送付してくれた人と昨年、水彩展で話した人の作品を見る。どちらも会友だった。ほかにも気に入った絵がある。それは有益人良竹「里の祈り」、茅野吉孝「冬枯れ」、そして高橋憲彦「吾人生」が特にいい。さきほど出会った人は日本画の奥が深いところが好き、と話していた。日本画を習っているのでひいき目に見ても日本画の描き方が繊細に思える。

 絵を見た後は近くのカフェで軽いお昼を食べる。カフェ2階から金座街を歩く人を眺める。この2階席が気に入った。午後1時、チケットがたくさんある。ギャラリートークの会場に再度入る。人が多くて気に入った3点を見てすぐに会場を出た。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月9日金曜日

『老いる勇気』

 立秋も過ぎたというのに暑い日が続いている。無理して外出することもないとあきらめて、もっぱら家の中で図書館で借りた本を読む。この数日、特によく本を読んだ。家にある『敦煌』も読んだ。30年間、家に置いたままの本をひょんなきっかけで読み始めた。司馬作品と同じく井上作品も1冊を読み終えるには日数を要する。この両者の作品すべてを読破しようと思うと150歳くらいまで生きないと無理かもしれない。

 ほかにも『老いる勇気』(岸見一郎 PHP研究所、2018年)を読む。以下は気になる箇所の抜粋から。今日も暑い。思い切って絵を見に行こう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★これまでの人生で、自分が学び、経験し、蓄積してきたものすべてを集約して何かを表現できる。評価を気にすることなく、学ぶことの喜びを満喫できる。しかも、若いころよりも物事を深く理解できるーー。これは、老いることのポジティブな側面であり、強みといってもいいでしょう。020-021p

★先々のことを案じるのは、「今、ここ」をなおざりにしている、ということでもあります。「今、ここ」を大事に生きていないから、先々のことが気になるのです。061-062p

★余命は誰にもわかりません。この事実は変えられない。変えられるのは、私たち自身の意識です。老いる勇気――老いた「今」を幸せに生きる勇気とは、人生の見方をほんの少し変える勇気なのかもしれません。066p

★齢を重ねたからといって、立派な人間になれるわけでも、尊敬される老人になれるわけでもありません。そうなるには不断の努力が必要です。歳老いてこそ様々なことを学んでいかなければいけないし、本を読んで考えることをし続けなければ、人間としての成長は望めません。173p

★「哲学」とは知を愛するという意味です。哲学者は「愛知者」であって、「知者」ではありません。これからの生き方や幸福を考えるのであれば、ぜひ哲学の本を読まれたらいいと思います。177p

★私がいつも思い出すのは、サン=テグジュベリの次の言葉です。
「自分にいってきかせるのだ。他人がやりとげたことは、自分にも必ずできるはずだ」
さらに歳を重ねたら何が起こるか、ついには老いの先に望見される死がどういうことなのかはわかりいませんが、死は前人未到ではないのです。188p

2019年8月8日木曜日

暑い日に読む本

 図書館で予約確保の本を2冊受け取る。ついでにと、橋田寿賀子の『安楽死で死なせて下さい』も借りる。今、『敦煌』と『世に棲む日日』を同時に読んでいる。その合間に3冊も借りてしまった。とりあえず、予約待ちの本は早めに読んで返却しなくてはいけない。この8か月、司馬作品にハマって4作品を読破中。1作品は文庫本で全8冊~全3冊の長編だ。その合間にエッセイ本を読むのは大変。ところが昨日借りた2冊を読み終えた。それは橋田の本と『老いる勇気』(岸見一郎 PUP研究所、2018年)。橋田の『安楽死で死なせて下さい』(文藝春秋、2017年)の最後に構成として石井謙一郎とある。ということはこの人が文を構成して本としてまとめたのだろう。

 これは一時、話題となった本。昨日、図書館の書架で目にして借りた。安楽死で……と願いながらも生きることに必死となっている。読んでいて矛盾を感じる。とは言っても90歳を過ぎてもお元気だ。元気だからこそ、死ぬときのことをあれこれ思うのかもしれない。そう思えば安楽死もわからないではない。

 岸見の本はまたの機会にアップしよう。予約したもう1冊は半藤一利の『語り継ぐこの国のかたち』(大和書房、2018年)。1頁も読んでいないがいきなり次のように書いてある。「日清戦争でも日露戦争でも、リーダーであった人たちを見ますとほとんど長州と薩摩です。……」(13p)。

 これまで読んだ司馬作品を見ても長州と薩摩が取り上げられる。今の時代でも首相は山口で長州出身だ。この本は簡単には読めそうにない。興味があるので早く読み終えよう。

 それにしても暑い。今日から八丁堀の福屋で日本水彩展が始まる。先日2枚、チケットが送付されてきた。ほかにも日本画の先生からチケットをいただく。計3枚、チケットがある。チケットの裏を見ると番号がある。渡した人を把握するのだろうか。展覧会は一度行けばいい。3枚のチケット、どれを優先して会場で渡そうか、迷ってしまう。こう暑くては絵を見に行くのも大変。出品者には顔見知りの人の名もある。近いうち見に行こう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
 

2019年8月7日水曜日

いろいろとあった日

 家の玄関を開けると塀のドアを開けて目の前に人がいる。手に持っているのは冊子だろうか。「お出かけですか」と女性。不機嫌に返事をする。「郵便受けに入れないでください」。道に面した家のため、ドアホンを鳴らされる。その大半は用がないばかりか、宗教やセールス関係だ。これに応えまいと思ってドアホンの電源を切っている。使用しなくなって1年以上になるだろうか。別に困ることもないのでそのままにしている。ところが、それでも塀のドアを開けて玄関前まで来るとは……。

 昨日はフルートのレッスン日。台風8号を気にしながら家を出る。ひどいこともなく台風は過ぎ去ったようだ。先生のピアノに合わせて笛を吹く。何とかピアノの音もわかってきた。あとはうまく吹くのみ。練習するしかない。

 レッスン後、八丁堀まで歩いて向かう。旅行社に行く前に画材屋に立ち寄る。ここでは子供のお使いよりもダメだった。胡粉を、とお店の人に告げると種類がたくさんあるという。「普通の……」と告げるが全く話が合わない。胡粉の前まで行くといろいろと種類がある。以前に「胡粉」と言って購入した、と告げても埒が明かない。仕方がないので膠だけ買ってお店を出る。次にお店に行くときは使用中の胡粉を持参しよう。

 次に向かうは旅行社。ビル8階に行ってカウンターのベルを押す。昨日はベルがカウンター近くになく遠くだった。押しても反応がない。2度ほど押す。やはりダメだ。遠くにある電話機を見ると何か書いてある。用がある人は受話器を取ればいいらしい。受話器を取ると係がカウンターに出てきた。ここは通販の旅行を取り扱っている旅行社だ。店舗販売でないため、このような応対になるのだろう。ともあれ、10月の旅の旅費をクレジット決済する。帰り際、係にベルを探して押したことを詫びる。もしも録画されていれば怪しい行動と思われるかもしれない。

 八丁堀での用事を済ませ、バスで広島駅に移動する。夜はナイターがあるので駅前はカープのユニホームで染まる。紀伊国屋によって音楽のノートを購入。いつもはヤマハで買っていた。ふと本屋にノートがあるはず、と思って行くとあった。だが、ノートの種類が多すぎる。ここでも係に聞いて音楽ノートを教えてもらう。

 そういえば昨日のレッスン後、フルートの先生と司馬作品で話が弾む。自分がはまっているモノ、コト、ヒトに関して話が合うともう我を忘れて話し込む。先生は以前に司馬作品を読まれたという。そう聞くとさらに話が弾む。話し相手は迷惑かもしれないが、自分にとっては至福のひと時……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月6日火曜日

原爆の日に

 昨夜の蒸し暑さはこの夏一番だった。台風8号の影響だろう。今朝、隣町の町内放送がある。台風の注意を促す放送だろう、と思った。今日は原爆の日。74年前の今日、原爆が投下された。8時15分、黙とうをささげるサイレンだ。元気だった頃の母はこの日、毎年式典に出かけていた。そして原爆で亡くなった母の姉一家のお墓がある寺町に参っていた。だが、一度も母とこの日に出かけたことはない。

 初めて務めた会社は某企業の広島営業所で8月6日を地方祭とし、休日だった。今はどうか知らない。市の関係機関は今も休日となっている。

 原爆資料館へは小学校低学年の頃、学校から連れて行ってもらった。戦後10年後頃のことで原爆資料館の階段付近には乞食がいた。これは鮮明に覚えているが館内のことは記憶がない。だからといって、改めて見学しようとの気持ちは起きない。感情移入が激しく、嫌なモノ、コト、ヒトには触れたくないし、避けたい気持ちが強い。

 今日はこれからフルートのレッスンへ。その後は旅行社によって旅費の決済。台風の影響はさてさて。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月5日月曜日

レクイエム イン ヒロシマ を聞く

 日曜日の昼下がり、第19回レクイエム イン ヒロシマを聞きに行く。家にいても暑い。ましてや外はさらに暑い。持ち物を少なく、水分補給を用意して身軽に出かける。この年になると夜はなるべく外に出たくない。とはいってもこの暑さ、日中に出かけるのも考えてしまう。ところが、一歩、ホールに入れば、暑さとは逆に冷やしすぎ。プログラムを見ると合唱団も管弦楽団も見覚えのある名が並ぶ。

 開場前、列に並んでいると後ろの人が誰かに声をかける。出演者、と教えてくれる。その人は昨日の指揮者の合唱団に所属しているという。聴衆は出演者と関連ある人たちのようだ。という私も知り合いにもらったチケットで聞いた。素晴らしい演奏会だった。なかでも男性のソロの歌声は会場せましとばかりに響き渡る。演奏曲目は下記のとおり。

♪モーツアルト ピアノ協奏曲第17番ト長調 KV453
♪ブラームス ドイツ・レクイエム 作品45

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月4日日曜日

地元紙オピニオン&日本画

 昨日の地元紙オピニオンに萩博物館特別学芸員の一坂太郎は書いている。「明治維新150年という空気」のタイトルで「賛美一辺倒の世相に違和感」の大見出しがある。萩博物館があるのをこの記事で知る。記事によると「近代日本とは、軍人が政治を行う国であり、それをリードしたのが山口県出身者だった」という。筆者は「今の政府は明治維新を『建国神話』仕立てたいらしい。視界が悪く、不安定な国の人心をまとめる目的で、政治がナショナリズムを高揚させようとした例は古今東西、枚挙にいとまがない」としたうえで「『尊王攘夷派の志士』の松陰を『工学教育』『産業立国』の先駆者、松下村塾を『工学教育』の場とし、祭り上げようとの動きがある」ことに首をかしげる。

 今、吉田松陰と高杉晋作を取り上げた司馬遼太郎の『世に棲む日日』(全4冊)を読んでいる。司馬遼太郎は松陰を取り上げたものの松陰を嫌っていた。それは以下の文からわかる。

★思想とは本来、人間が考え出した最大の虚構——大うそ――であろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはきだすように、日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を論理化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。それほどの思想家は、日本歴史のなかで二人といない。(『世に棲む日日』(二)99p)

 このことを松本健一は『世に棲む日日』(四)の「解説」で次のように書いている。

★松陰がつくりあげた「虚構」は、日本国家論というより、幕末にあっては革命的な思想、つまり天皇=国家という国体イデオロギーだった。そのイデオローグ(思想家)としての松陰を、司馬は嫌ったのである。321p

 この辺りを一坂は懸念したのだろう。行政関係者が一坂に「尻尾を振らねば食えなくなると忠告」してくれる人もいたとか。しかし一坂はそれよりも「歴史の人物評すら統一され、理屈が通らない社会に向かう空気の方がよほど怖い」として文を締めくくる。

 萩博物館へも行きたくなった!

 気分を変えて、昨日は日本が教室の日。風景を写真を見てスケッチする。前回、スケッチして水彩で色付けした。これをA3に拡大して、F6のパネルで日本画にしようと思った。だが、今年の日本画展の作品はすでに3点あり、うち2点を出品する。日本画は木製パネルに描いて完成させる。どんどん描いていくと絵がたまってしまう。なるべく物を増やししたくない。そう思って本画に仕上げるのはやめて、しばらくは写真をスケッチする。北海道で写した写真から釧路湿原の1枚をスケッチ。鉛筆でのスケッチは慣れてきた。問題はこの後の色付けが大変だ。これはまとめてすることにして余った時間は野付半島のトドワラをスケッチする。だが、途中で時間切れで来週に持ち越しとなった。

釧路湿原 これをスケッチした

野付半島のトドワラ  次回にスケッチしよう

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
 

2019年8月3日土曜日

またも『敦煌』

 映画の「敦煌」はもしかしてテレビで見た?と思って自分のブログ内を検索する。2015年4月のブログにNHK・BSで放送された映画のアップがある。昨日ネットで探したのと同じだ。4年前の記憶も怪しい限り。再度、ネットで見ることにして……。

 図書館で『世に棲む日日」(四)を借りる。松陰と晋作、そして『敦煌』の趙行徳。この3人の主役が読む者の頭を混乱させる。本を読むと勝手な想像が膨らむ。映像を見なくても主人公の姿が浮かぶ。これも作品の良さだろう。

 暑さも半端でない。今朝はこの夏一番とも思える暑さだ。朝4時前、寒くて目が覚める。すぐにエアコンを消してしまった。それが今朝の起床後の暑さになった。朝からシャワーを浴びる。

 熱中症で連日、多くの人が救急搬送される。命を落とす人もいる。逆に普通に生活していて寒さで命を失くすことはあまり聞いたことがない。若い頃は暑さよりも寒さが苦手だった。この頃は暑さに参りそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月2日金曜日

嗚呼!「敦煌」

 暑い日が続いている。無理して泳ぎに行くこともないと覚悟を決めて泳ぎを諦める。とはいっても行くか行かざるべきか逡巡する。絵の材料にしようとデジカメから紙の写真に依頼した。一歩家を出るならばついでに図書館へ本を取りに行きたいし、写真も受け取りたい。昨日の午後は暑さに負けて、一歩も家から出なかった。今朝は泳ぎに行かなくても自転車に乗って行動開始!

 昨日、北海道の知床峠で写したツアーの全体写真が添乗員から送付される。利用した会社からは7年前にも中国九寨溝・黄龍の写真が送付されてきた。見知らぬ人たちとの団体写真。申し訳ないけど、もらっても嬉しくない。というか、今、自分の全人生の写真の処理をしようとアルバムを投げ出している。

 他にも所属する某研究会から刊行物が送られてきた。これは簡単には読めない論文集。ゆっくり読むことにして……。そして次に出かける予定の旅の旅費請求書が送付される。先の話でも請求書の到着は早い。来週、旅行社に出かけてクレジット決済しよう。

 暇になると『敦煌』を読む。文庫本で300頁あるうち60頁をを読んだ。ここまで読んで読んだことがある、と気付く。今朝、ネットで「敦煌」の動画を探すとある、ある。西田敏行主演の映画のようだ。映画をみることはほとんど皆無。暇を見てネットで「敦煌」を見よう。ネットによると他にもNHK特集の敦煌のアップがある。これも楽しみ!ロマンがある!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2019年8月1日木曜日

『世に棲む日日』(二)

 今日の全国の天気を見ると沖縄32度、広島35度、札幌33度とある。これから1週間先の予報を見ても気温は変わらない。北海道の十勝は35度、北見33度と南の沖縄よりも気温が高い。沖縄のこれから1週間は32度で曇り。広島の1週間先までは35~36度となっている。暑いはずだ。

 昨日で『世に棲む日日』(三)を読み終える。ぞの(四)は図書館で予約済みだが昨日は月末の休刊日。近いうち借りられそうだ。手にするまでは『敦煌』を読もう。外に出ても暑いだけ。家でゆっくり本を読むに限る!?

 以前に読んだ、その(二)。発行年をメモせずに返却してしまった。以下は『世に棲む日日』(二)(司馬遼太郎 文藝春秋)からの抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★象山の目的は、黒船に乗り移ろうということではなく、黒船に接近し、それを見上げ、装備その他を十分に見ておきたいという、そういうことだった。ついでながら、象山の新事物へのこれほどの行動的な肉薄心というものは、どの時代のどの先駆者にもない。23-24p

★松陰の母親のお滝が、彼女の内孫たちをさとして、
――松陰叔父のようにおなり。
といったというが、その松陰は天下の囚人であった。囚人を少年や少女たちの模範とするのは異様なことだが、この藩ではすこしも異様ではなさそうで、そのあたりの異様さに幕末の長州藩の天地をとどろかすような震動の素地があるのであろう。62-63p

★「久坂玄瑞はわが藩の少年第一流」
と、松陰はのち他藩の友人に書いた。……「久坂玄瑞は防長年少第一流の人物にして、もとより天下の英才なり」とも書いた。
松陰はそれだけでは済まず、十四歳になる妹のお文を久坂に娶(めあわ)せ、ついには自分の義弟にしてしまったが、その縁談を松陰が言いだすのは、いま高杉晋作が松本村へゆこうとしているこの時期から数日前のことである。106p

★縁談が、きまった。
きまってからの晋作は松陰の刑死を知り、目のさきが急に冬の荒れ海になったような、なんとも名状しがたい衝撃を受けた。この日、晋作は松本村に走り、松陰が閉居しいた三畳の室へあがり、お滝があいさつにきてもろくに答礼せず、半日ぼう然として暮らした。
(この人の志を継ぐ者は、自分しかいない)
と、晋作はおもった。なるほど久坂という者がいる。しかし晋作は久坂という者を乱世の雄とはおもえず、治世にあって廟堂のぬしになる男だとおもっていた。いまの世に必要なのは廟堂の才ではなく、馬上天下を斬り従える才であろう。晋作はひそかに自分こそそれであるとおもっている。181p

★晋作は、思想家ではない。
思想とは本来、人間が考え出した最大の虚構——大うそ――であろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはきだすように、日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を論理化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。それほどの思想家は、日本歴史のなかで二人といない。
晋作は。現実家であるらしい。199p

★晋作ほどその生涯において、「狂」という言葉と世界にあこがれた男もまれであろう。かれ以外の人物では、かれの師匠の松陰がいるくらいのものであった。松陰はその晩年、ついに狂というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」といったが、そういう松陰思想のなかでの「狂」の要素を体質的にうけついだのは、晋作であった。晋作には、固有の狂気がある。229p

★桂は晩年――といっても四十代だが――、明治政府のうるさい連中と話をしたりするとき、自分の経歴を語る時は口ぐせのように、
「癸丑(きちゅう)以来」という言葉から語った。癸丑(みずのとうし)の年とはぺリーがきた嘉永六年のことである。このペリー来航から幕末の風雲がおこり、攘夷論が流行思想になり、自称他称の志士どもが出てくるのだが、要するに志士経歴としてはこの「癸丑以来」の連中が古いことになる。275-276p

★文久二(一八六二)年の初夏、高杉晋作は海を渡って上海へ「洋行」した。
当時の日本人にとって、驚天動地といっていいほどの重大事件である。
日本人にとって、遣唐使の上古から二十世紀にいたるまで、洋行というのはそれ自体が異変でありつづけている。個人がそれによって大衝撃をうけ、思想が一変し、ときには一国の文化までが変化した。遠く最澄と空海が唐へ行ったがために日本の文化状況が一変したことでもわかるであろう。これほど洋行ということが重大な意味をもった国・民族は、おそらく地球上のどこにもない。285p

★国内にいるときには徳川幕府というのは天地そのものであり、とてもそそれを倒すことなど不可能におもえていたが、上海にきてふりかえると、幕府など単に大名の最大なるものにすぎず、その兵(旗本)は弱兵ぞろいで、二つ三つの大名があつまっても押し倒せば朽木のようにたおせるということを、みずみずしい実感でおもった。このことが、晋作の上海ゆきの最大の収穫であったであろう。晋作の「洋行」はそういういみで奇妙であった。かれは、上海に行ってから革命をもって生涯の事業にしようと決意したらしい。……
「攘夷、あくまでも攘夷だ」
といったのは、攘夷というこの狂気をもって国民的元気を盛りあげ、沸騰させ、それをもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。294p

★——長州藩はほろんでもいい。
という覚悟がよこたわっており、むしろ長州一藩をほろぼすことによって日本革命を樹立し、死中に活を得ようというのが晋作のひそかな戦略構想であった。結局、事態は晋作のおもうように進行し、やがて覚悟の前の自滅寸前の現象がおこり、ほどなくして維新が成立した。長州藩でこれだけの構想力をもっていたのは、高杉晋作以外にはない。やはり、歴史に残る人物であるらしい。300-301p

★通商条約によって指定港が開港されて対外貿易をおこなうことになるが、その収入はぜんぶ「徳川家」に入る。じつに奇妙なものであった。このこっけいな形態は、諸外国が、
――徳川家が、日本政府にちがいない。
と、かんちがいしたことからおこった。かれらは日本政府と条約を結んだつもりだが、じつは徳川家と結んだにすぎない……
当然、上海での晋作の実感は、
——日本に公的政府をつくるべきだ。
ということであった。303p

★晋作が議論家から革命家になるのは上海から帰国後であるといっていい。この時季からの彼の行動は、後年、伊藤博文が晋作の碑に碑銘をきざんだように、
――動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し
というようになる。308p