2019年8月1日木曜日

『世に棲む日日』(二)

 今日の全国の天気を見ると沖縄32度、広島35度、札幌33度とある。これから1週間先の予報を見ても気温は変わらない。北海道の十勝は35度、北見33度と南の沖縄よりも気温が高い。沖縄のこれから1週間は32度で曇り。広島の1週間先までは35~36度となっている。暑いはずだ。

 昨日で『世に棲む日日』(三)を読み終える。ぞの(四)は図書館で予約済みだが昨日は月末の休刊日。近いうち借りられそうだ。手にするまでは『敦煌』を読もう。外に出ても暑いだけ。家でゆっくり本を読むに限る!?

 以前に読んだ、その(二)。発行年をメモせずに返却してしまった。以下は『世に棲む日日』(二)(司馬遼太郎 文藝春秋)からの抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★象山の目的は、黒船に乗り移ろうということではなく、黒船に接近し、それを見上げ、装備その他を十分に見ておきたいという、そういうことだった。ついでながら、象山の新事物へのこれほどの行動的な肉薄心というものは、どの時代のどの先駆者にもない。23-24p

★松陰の母親のお滝が、彼女の内孫たちをさとして、
――松陰叔父のようにおなり。
といったというが、その松陰は天下の囚人であった。囚人を少年や少女たちの模範とするのは異様なことだが、この藩ではすこしも異様ではなさそうで、そのあたりの異様さに幕末の長州藩の天地をとどろかすような震動の素地があるのであろう。62-63p

★「久坂玄瑞はわが藩の少年第一流」
と、松陰はのち他藩の友人に書いた。……「久坂玄瑞は防長年少第一流の人物にして、もとより天下の英才なり」とも書いた。
松陰はそれだけでは済まず、十四歳になる妹のお文を久坂に娶(めあわ)せ、ついには自分の義弟にしてしまったが、その縁談を松陰が言いだすのは、いま高杉晋作が松本村へゆこうとしているこの時期から数日前のことである。106p

★縁談が、きまった。
きまってからの晋作は松陰の刑死を知り、目のさきが急に冬の荒れ海になったような、なんとも名状しがたい衝撃を受けた。この日、晋作は松本村に走り、松陰が閉居しいた三畳の室へあがり、お滝があいさつにきてもろくに答礼せず、半日ぼう然として暮らした。
(この人の志を継ぐ者は、自分しかいない)
と、晋作はおもった。なるほど久坂という者がいる。しかし晋作は久坂という者を乱世の雄とはおもえず、治世にあって廟堂のぬしになる男だとおもっていた。いまの世に必要なのは廟堂の才ではなく、馬上天下を斬り従える才であろう。晋作はひそかに自分こそそれであるとおもっている。181p

★晋作は、思想家ではない。
思想とは本来、人間が考え出した最大の虚構——大うそ――であろう。松陰は思想家であった。かれはかれ自身の頭から、蚕が糸をはきだすように、日本国家論という奇妙な虚構をつくりだし、その虚構を論理化し、それを結晶体のようにきらきらと完成させ、かれ自身もその「虚構」のために死に、死ぬことによって自分自身の虚構を後世にむかって実在化させた。それほどの思想家は、日本歴史のなかで二人といない。
晋作は。現実家であるらしい。199p

★晋作ほどその生涯において、「狂」という言葉と世界にあこがれた男もまれであろう。かれ以外の人物では、かれの師匠の松陰がいるくらいのものであった。松陰はその晩年、ついに狂というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」といったが、そういう松陰思想のなかでの「狂」の要素を体質的にうけついだのは、晋作であった。晋作には、固有の狂気がある。229p

★桂は晩年――といっても四十代だが――、明治政府のうるさい連中と話をしたりするとき、自分の経歴を語る時は口ぐせのように、
「癸丑(きちゅう)以来」という言葉から語った。癸丑(みずのとうし)の年とはぺリーがきた嘉永六年のことである。このペリー来航から幕末の風雲がおこり、攘夷論が流行思想になり、自称他称の志士どもが出てくるのだが、要するに志士経歴としてはこの「癸丑以来」の連中が古いことになる。275-276p

★文久二(一八六二)年の初夏、高杉晋作は海を渡って上海へ「洋行」した。
当時の日本人にとって、驚天動地といっていいほどの重大事件である。
日本人にとって、遣唐使の上古から二十世紀にいたるまで、洋行というのはそれ自体が異変でありつづけている。個人がそれによって大衝撃をうけ、思想が一変し、ときには一国の文化までが変化した。遠く最澄と空海が唐へ行ったがために日本の文化状況が一変したことでもわかるであろう。これほど洋行ということが重大な意味をもった国・民族は、おそらく地球上のどこにもない。285p

★国内にいるときには徳川幕府というのは天地そのものであり、とてもそそれを倒すことなど不可能におもえていたが、上海にきてふりかえると、幕府など単に大名の最大なるものにすぎず、その兵(旗本)は弱兵ぞろいで、二つ三つの大名があつまっても押し倒せば朽木のようにたおせるということを、みずみずしい実感でおもった。このことが、晋作の上海ゆきの最大の収穫であったであろう。晋作の「洋行」はそういういみで奇妙であった。かれは、上海に行ってから革命をもって生涯の事業にしようと決意したらしい。……
「攘夷、あくまでも攘夷だ」
といったのは、攘夷というこの狂気をもって国民的元気を盛りあげ、沸騰させ、それをもって大名を連合させ、その勢いで幕府を倒すしか方法がないと知ったのである。294p

★——長州藩はほろんでもいい。
という覚悟がよこたわっており、むしろ長州一藩をほろぼすことによって日本革命を樹立し、死中に活を得ようというのが晋作のひそかな戦略構想であった。結局、事態は晋作のおもうように進行し、やがて覚悟の前の自滅寸前の現象がおこり、ほどなくして維新が成立した。長州藩でこれだけの構想力をもっていたのは、高杉晋作以外にはない。やはり、歴史に残る人物であるらしい。300-301p

★通商条約によって指定港が開港されて対外貿易をおこなうことになるが、その収入はぜんぶ「徳川家」に入る。じつに奇妙なものであった。このこっけいな形態は、諸外国が、
――徳川家が、日本政府にちがいない。
と、かんちがいしたことからおこった。かれらは日本政府と条約を結んだつもりだが、じつは徳川家と結んだにすぎない……
当然、上海での晋作の実感は、
——日本に公的政府をつくるべきだ。
ということであった。303p

★晋作が議論家から革命家になるのは上海から帰国後であるといっていい。この時季からの彼の行動は、後年、伊藤博文が晋作の碑に碑銘をきざんだように、
――動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し
というようになる。308p

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