2019年8月12日月曜日

『世に住む日日』(三)

 お寺へお盆の塔婆を取りに行く。行きは自転車に乗っても、持ち帰り時は塔婆が長すぎて自転車に乗るのは危ない。わずか数分歩く距離でも家につけば汗びっしょりになる。塔婆を家においてついでに用を済ませようと自転車に乗って図書館へ行く。予約確保の本3冊を借りる。うち2冊はかなり長く予約待ちした本で坂東真理子と矢作直樹のエッセイだ。この頃は司馬作品の長編を読んでいるのでエッセイはすぐに読める。今日はこれを図書館に返して、次に読む司馬作品『翔ぶが如く』を借りる予定。1作品が10冊あるので読み終えるまでにはかなりの月日を要しそうだ。

 以下は先日読み終えた『世に住む日日』(三)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年14刷)からの抜粋。司馬作品のおかげで先日送付された『史〇研究』の薩長の論文にも目が釘付けとなりすぐに読んだ。しばらくというか、これから先もずっと司馬作品にはまりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★久坂の戦略からすれば、将軍が京へのぼることによって天下の者が天子のほうが上位であるということを知るにいたる。石清水八幡宮へ将軍がお伴をするという予定がすでにできている。石清水八幡宮に参詣することによって将軍は神と天子と天下に対し、「即時攘夷」を誓うことになるのである。……それはいい。加茂行幸である。その日がきた。50-51p

★かれ(晋作)の悲痛さは、数多い長州人という人間集団を、どのように検し、どのように見ても、この男ほど毛利家に対して忠誠心のはげしい男はまずないということであった。まるで鎌倉武士が自分の御主(おしゆう)に対して犬のように忠実であったように、あるいはそれ以上に古風な忠誠心をもっており、さらにかれの忠誠心というのはものしずかなものでなく、かれの性根のなかでたえず息づいている矯激な詩人気質によってつねに湯のように沸(たぎ)りたち、つねに爆発する契機を欲しているという激情的なものであった。59-60p

★わずか二十四の若僧に、対外戦争の指揮権をさずけねばならぬほど、藩はこまっている。そこまで事態が窮迫せねば、あらたな物事というものは興せないものであった。97p

★武士の世がおわることを早くから予言していたのは、のち幕府方につくはめになった越後長岡藩総督の河井継之助や土佐の坂本竜馬、長州では晋作よりのちにあらわれてくる大村益次郎らであった。晋作がかれらとちがっているのは、無言でそれを実行したことであった。徳川封建制という巨大な石垣のすき間に無階級戦士団という爆薬を挿しこみ、それを爆発させることによって自分の属する長州の藩秩序をゆるがせ、ついに天下をも崩してしまったのである。102p

★「尊王攘夷」と大書され、いまひとつは「討薩賊会奸」と書かれていた。会津と薩摩を討つというのである。この乱入軍が思想的軍隊であるという点で、日本史上めずらしかった。……思想が戦争までひきおこした例は、日本の歴史のなかではじめてのことであった。148p

★われわれは日本人――ことにその奇妙さと聡明さとその情念――を知ろうとおもえば、幕末における長州藩をこまかく知ることが必要であろう。この藩――つまり一藩をあげて思想団体になってしまったようなこの藩――が、髪も大童の狂気と活動を示してくれたおかげで、日本人とは何ものであるかということを知るための歴史的大実験をおこなうことができた。日本史における長州藩の役割は、その大実験であったといっていい(かれらは維新政府ををつくる主役になりえたが、それはかれらの功績ではなく、歴史のひろい場からみれば後日談にすぎず、それだけにすぎず、あるいはまぐれあたりかもしれず、要するにかれらはひどく活動的であったために歴史の実験台のひとびとたる運命をになったにすぎない。かれらの壮烈さもおかしさも、そこにあるであろう)。158p

★どうせ敵が勝つ。長州の沿岸砲台は占領されるにちがいないが、藩全体の目をさまさせるには敗戦以外にない、と井上聞多はいう。この大混乱のなかで、この井上がこの路傍で吐いた理論のすさまじさは、幕末史を通じて比類がない。晋作はよほど気に入ったらしく声をあげて笑い、「聞多、そのとりだ」と、大きくうなずいた。砲弾の洗礼なくして藩意識を大転換させることはできない。192p

★このまわりを海でとざされた閉鎖国家のなかで、この三人だけが外界を見てしまったのである。晋作は上海で西洋文明を見、他の二人は本場で西洋文明を見た。「外国を見た」というだけで、いままでの幻想も思想も一変するという日本人の一つの典型を、この三人はみずからの身で実験した。「藩と日本こそだいじである。攘夷という原理はすてた。すてるほうが藩と日本を救う道だ」というのが、三人党の孤独な政見だった。が、攘夷原理はすでに一般化していて、藩をうごかす凶暴な力として大成長を遂げてしまっている。(注:三人とは井上聞多、伊藤俊輔、高杉晋作)197-198p

★雄藩というのは、この歴史段階のなかで強烈な問題意識をもち、藩をあげて救国活動に参加した藩に対する世間の美称で、長州藩はたしかに雄藩であった。……「長州をほろぼしてしまえ」という気分が、幕府の上下にみなぎった。この気分がもっともつよかったのがは、京における幕府の治安機関である会津藩(藩主は京都守護職)であり、その先鋒ともいうべき浪士結社新選組である。……長州と対立する雄藩である薩摩藩も、幕府と一緒になって長州処分を考えた。247-248p

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