2014年4月28日月曜日

日本画の講演&映画「ナンガバルバット」を見る

気温の変化が激しい。今日は昨日よりもかなり下がりそう。体調管理に気をつけよう。

昨日は県立美術館で開催された日本画家であり、日本美術院代表理事でもある田淵俊夫氏の講演を聞きに行く。日本画の先生に誘われての講演会。知らない世界を垣間見たようで楽しかった。

まずは日本画の材料から話は始まる。席は前から2列目。だが、慌てて家を出たため筆記用具を忘れる。せめてキーワードは覚えようと思って聞いていく。だが、覚え切れない。ひとつ隣の知らない人に鉛筆を借りる。

 日本画の材料である岩絵の具。黄色や紫はない。少ない数の材料。これを混ぜていろんな色を出していく。ところが次第に外国からの影響を受け、絵の具の材料も「天然の材料」から「合成のもの」が入る。それはいつの間にか「人工の材料」に取って代わる。しかし、昨日の先生は「天然の材料」にこだわり続けて絵を描かれている。

 日本画に興味を抱いたアメリカのフェノロサが来日。日本画の一回目のコンクールの審査員として来日したフェノロサは狩野派のリーダー狩野芳崖の絵に見とれ、彼を支持する。

日本画の廃れていく様子を見てショックを受けたフェノロサは日本画の復興を決意する。 当時の日本では日本画は「第二芸術」だった。それをフェノロサは危惧した。芳崖亡き後、欧州を視察した岡倉天心は国立美術学校の必要性を痛感し、フェノロサと共に1888年日本美術学校(現、東京芸大)を設立。

田淵氏が学ばれた頃の芸大は志望者の1位はグラフィックデザイナー、2位は油絵、3位が日本画だった。ところが最近はそれが逆転して日本画ブームが起きているという。

ここでまた私のエゴがでる。何でも自分が習っているモノ、コトは流行っているとの錯覚がある。まさに今、その日本画がブームにあるとは…。

現在の東京芸大の日本画の入学試験の倍率も油絵とは雲泥の差があると聞く。 これからの日本画として、自らアンテナを張り巡らせて情報を収集し、自分の世界を築いていけばいいらしい。この言葉は大いに励まされる。そして、先生は講演の最後に「感動する絵」を描いていけばよいと話される。

日本画を習って半年。まだまだひよこ。昨日の講演は本当によかった。講師の人柄もあるだろう。会場は聴衆で超満員。館長も講師紹介の時、久々に会場を満たしたと話される。

講演後、日本画の先生と合流。6月に長野へ行くメンバーの一部の人を紹介される。まだまだ日本画はヨチヨチ歩き。この人は誰?と先生に質問する人もいる。それも当然。 

講演後、他のギャラリーの絵を見る。果物や筍のデッサンを見ると、自分で描いた筍も満更でもない、とまたここで自己満足の世界。こうでなくちゃ、絵も描ききれない。

昨日は他にも夜はBSで映画「ナンガバルバット」を見る。今から23年前のお盆頃、ナンガバルバットのふもとにあるギルギット、フンザへ出かけた。これまで出かけた海外では私にとってはいちばんの秘境。今でもツアーはあるのだろうか。

23年前ということは当然今よりも23歳若い。たった7人のツアー。どの人の顔も今でも鮮明に覚えている。 イスラマバードからフンザまでの断崖絶壁をラウンドクルーザーは走る。中国とパキスタンとの国境のクンジュラフ峠のふもとの世界の桃源郷、フンザへ向かう道。その前年、父がなくなったこともあり、断崖に仏像が刻まれているような錯覚を覚えた。とはいっても旅は最高に楽しかった!

映画はまるで旅のシーンと同じ。来る日も来る日もホテルの椅子に座って8000メートル級のナンガバルバットの雪山の頂きを眺めた。時には皆で寝そべって夜空の星を眺めた。この雪山を見るために何度かフンザへ来るという山男もいた。

ナンガバルバットを目指す人たちはギルギットに滞在する。ここにはバザールもある。パキスタンの人の顔つきにもなれず、日本のツアーの人について歩いた。しかし実際のパキスタン人はとてもやさしい。

この時の模様をビデオに編集して送ってもらっている。いつかDVDにしよう。昨夜、旅で一緒だった米子の友だちに電話すると通じない。今夜もまた電話しよう。

それにしても、若かった。一人で成田まで行き、辺境のツアーへ参加したと思うと感慨深いモノがある。今はもう当時ほどの気力や冒険心?はないのでは、と思ったりする。

平凡な毎日に見る昨夜のような映画。雄大な景色に心も洗われる。昨日は日本画と映画で本当にいい一日となった。今日もいい日にしよう!

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