昨日から今日にかけて春の嵐になるとの天気予報も広島辺りではそうでもない。だが、今日は最高気温12度、最低気温10度の予報で冬に舞い戻った感がある。
昨日のブログで一つ書き忘れている。一昨日、プールで泳いできたこと。最近、元気がない人が多いのでそのほうに気がとられてしまい、つい書き忘れる。一昨日も元気を出して1キロ泳いだ。1年半くらい前から泳ぐことも習慣になる。いつまでも続けられるよう泳ぐ習慣を維持しよう。
さて話は昨日のこと。よく動いた一日だった。友だちに誘われて講演会に出かける。待ち合わせの時間まで15分ある。次の火曜日からフルートの教室が移転する。友だちと会う前、新たになった教室へ行って見る。総ガラス張りの教室でレッスン室が丸見えだ。慣れるまで落ち着いてレッスンを受けられないかもしれない。頑張ろう。
友だちと合流後は、講演会の入場券があるにもかかわらず、さらに他の入場整理券を渡すという。それを受取るとお昼を食べに行く。
講演会の講演者は哲学者の鷲田清一氏。演題は「命の世話~ひとりを生きること・人とともに生きること~」。サブタイトルは「『人生100年』時代を生き抜く哲学」。主催者は有る女性団体。現代の社会を2分類することから話が始まる。
一つは競争社会で人を能力によって選別する社会。もう一つは存在を承認する社会。すなわち人間をケアする社会。
このケアは講師によると人間のみにあるとか。このケアにちなんで“campany”「会社」を例に挙げ、“com”は「一緒に」、“pan”は「パン」で一緒にパンを食べる意味だとか。日本語では「同じ窯の飯を食う」になる。
「会社」はセイフティネットで発足し、介護も「ケア」するという本質的な意味があったらしい。それも現代では失われている。コミュニティも消えた。
このコミュニティは労働がないという。代表的なものとしてのコミュニティはニュータウンのマンション。これは、そこから仕事に通う消費する社会である。
明治以降、日本は「知力」と「体力」を充実させた。その結果、命の世話は国が引き受け、すべては「プロ」がする。教育は「教師」、医療は「医師」、薬は「薬剤師」、火事になると「消防士」、揉め事が起きれば「弁護士」や「裁判官」が出るなど、すべてはその道のプロに任せる。それにより世界一の長寿社会、安全な社会、清潔な社会となる。
だがこの結果、地域社会の営みは薄れる。冠婚葬祭もすべてその道の業者が請け負い、地域での活動はなくなる。
講演者はプロの仕事をプラスとしながらも、地域社会の営みの希薄をマイナスと捉える。
そしてこのマイナスの人はクレーマーに成り下がる。お役所でもどこでも問題を提起する。このクレーマーは“c”で始まる。市民は“citizen”。この“c”で始まるコンシュマー、クライアントなど、これらはコミュニティの力をなくす。それは市民の力の消失ともなる。
そのためか、朝ドラは拡大家族を描き、失われたコミュニティの力を訴える。だがそれもファンタジーの世界であり、難しい時代となっている。それには中央に対する地域の力が必要だ。地方でもいいらしい。
そのためにはインターディペンデンス(自立)のネットワークである相互扶助を利用しようという。だがこれが弱くなり、すべてをプロに預けている。そうではなくインターディペンデンスを回復させてリーダーが持つ資質をフォロワーが持つ。そして全体を「ケア」する「しんがり」が必要だと説く。
これを聞いて地域に余り貢献していないものとして耳が痛い。ともあれ、自立の精神を失わないようにして元気に楽しく毎日を過ごし、最後はその道のプロにお願いする、これに限る。
講演を聞いた後、友だちと本通りの宝石店へ行く。友だちはクロスのダイアのついたネックレスを1年前に紛失。その代わりを昨日購入する。余り宝石類に関心がない。そうはいってもきれいなものはやはりきれいだ。
その後は、友だちと三越でティータイム。ケーキセットでホット一息する。友だちから映画の話が出る。最近はTVで映画を少しは見る。だが、映画館では何年も見ていない。韓国から帰ったら一緒に見ることにする。
友だちと三越でわかれ、スペイン語の講座へ出かける。昨日は春の嵐の予報で生徒は少ない。先週休んでいる。昨日は映画の話をスペイン語で紹介する日だったようだ。
皆、スペイン語で話し始める。先生から聞かれても何もいえない。仕方なく映画の話は話せない、とスペイン語で話す。来週は旅行の話。来週、韓国へ出かけるので休むと話すと、その話を次回スペイン語でするようにと先生は話される。そう話される言葉もすべてスペイン語。隣の人に聞いてその意味を理解する。
教室の始まる前、生徒の一人は言う。何と10ヶ国語を話すらしい。その習得のやり方を偉そうに話す。
講座も終わり、3人で広島駅まで歩いていると、先ほど話した人でない人がきつくその人に向かって言い出す。その意味は内容が伴わなければいくら外国語で話してもその価値がないといいたいらしい。
鋭い指摘だ。指摘された人は教室での映画の話でも同じ言葉である「私は~が好きだ」を20回くら言って文を羅列する。いくらスペイン語がわからなくてもその言葉だけが聞こえてくる。「内容が伴わないで話す人は魅力がない」、ともう一人の人はその人と分かれた後もしきりに話す。本当にそう思う。
そしてその人はいつも話の終わりになると大学で学んだことを褒めてくれる。底力はある、と。スペイン語をやめると勘違いされているのか「頑張るんよ」と慰めてくれる。
今はスペイン語を自由に話せない。だから人から何を言われてもかまわない。とはいっても10ヶ国語が話せるという人にそこまで偉そうに言われる?と思ってしまった。そういう意味でも早く話せるようになろう。頑張れ!スペイン語。
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