外山滋比古『文章力 かくチカラ』(展望社、2010年)を読んだ。著者の外山は英文学者でエッセイストでもある。
以前読んだ著者のエッセイで気に入ったコトがあった。何の本であったかは覚えてない。その中で筆者は年老いた現在でも散歩のために定期券を買って散歩コースまで出かけ、毎朝一定距離を歩いているという。散歩の後はティータイムをしたり…。
この中の「定期券」に同感した。リストラ後、毎日定期券を使って街中の図書館に出かけていた。同じようなヒトがいるのだと思った。それ以降、筆者に親近感を抱きエッセイを読んでいる。
この本は文章を書くことについて述べている。「文章は料理のように、おいしく、つまり、おもしろくなくては話にならない」(10p)という。
筆者のいう「おもしろさ」とは「相手の関心をひくもの、といったほどの意味。読まずにはいられない、放ってはおれないという気持を読む人に与えるもの――それがおもしろさである。興味深いもの、知的な狭い刺戟を感じさせるものは、すべて、おもしろいものになる。どんなに固い学術論文でも、こういう意味ではきわめておもしろい。興味津々の文章でありうる。」(10p)と。
それには「毎日、朝、食事の前に、すこしずつでも文章の練習をすれば、必ず上達する」という(24p)。
そういっても朝食前から文章は書けそうにない。たとえどんな文章であってもそれは今のところブログの投稿になる。
その文章の主題としてあるイギリスの学者の言葉を引用して「ひとつのセンテンス(文)で表現できるものでなくてはならない」といい、「この主題、テーマが書きたいこと」だという(26p)。それには「一口で言えてはじめて、テーマができたとなる」と述べる(27p)。
この「一口で言う」で思い出すことがある。修論の最終試験で5人の審査官からはじめに質問された言葉がこれだった。書いたことに対する何件かの注意を受けたあとの言葉であった。その質問に文章にして2行くらいで回答した。すると「今質問したとき一言で…といいましたね。今のは一言ではありません。一言でいってください」と再度きつい調子でいわれた。
審査する教官の「一言」はキーワードで答えよという意味らしかった。修論の言いたいことを…。直前に審査を受けた現役の若い男子学生は就職が決まっていた。だがその審査で「ダメだ…」とがっかりしていた様子を思い出す。泣き出すヒトもいるという。そうかもしれない。厳しい質問を浴びせられるのだから…。
それでも一人1時間くらいの最終試験の終わり頃はいくらか和んだ雰囲気になった。主の指導教官は気の毒に思われたのかその最後にねぎらいの言葉をかけて下さった。その言葉をきくと、すぐ、論文を書いた疲れで顔の半分がはれている旨、正直に告げた。その場はさらに和んだ。
話がそれた。筆者はフランスの文豪バルザックの「熟したテーマは向こうからやってくる」を引用し、「そういう主題があれば、書くのはむしろ楽しみとなる」という(28p)。
文章を書く勉強方法として筆者は「自分の感心した文章があったら、一度だけでやめないで、何度も何度も読んでみる。こういう文章が書きたいと思いながら読んでみる。こういう文章が書きたいと思いながら、読む。何度も読んでいれば、意味などどうでもよくなってくる。気にしなくても、なんとなくわかったという気がする。まさに『読書百遍、意自ら通ず』である。…一人、二人の文章家の文章を集中的に読み込んで、その骨法を学ぶ。これが文章上達の遠いようでいちばんの近道のように思われる。」という(36-37p)。
文の終わりとして「文の終わりが『た』とか『る』とかで終わらないように気をつけるだけでも文章は目立って読みやすくなる。ところがそこに注意している人は案外少ない。」と述べている。繰り返し使う言葉も「そのままの形にはしないで似たような言葉で言い換える工夫をする。」のがよく、バリエイションを大事にせよという(46-47p)。
文と文つなぎについて「が」で結ぶのはなるべく避け、接続詞を使わないで短文にせよという(48p)。
センテンスを短くは知ってた。それには「が」抜きにすればよいとは…。参考になった。
さらに「形容詞や副詞を乱用しない。これが文章の心得で、飾りたくなるのは幼いのだと思ってよい」(56p)。「飾りをすくなくすることは、言葉の生地の美しさを見せることにもなる」という(57p)。
「である」調、「ですます」調について述べている。
我がブログは「である」調である。「きりりと締めるにはよい」らしい。とはいっても「これからはいよいよ『ですます』調の文章が多くなるに違いない」と。それには「である」調、「ですます」調のどちらでも書けるようにする必要があるともいう(71p)。
「方胆文」について筆者は述べている。このキーワード、はじめて聞いた。それは宋の謝枋得(一二二六-一二八九)が編纂した『文章軌範』の中で文章道の作法を説いている(82p)。
第七巻からなるその第一巻と第二巻に「方胆文」がある。筆者はそれは「妙に技巧的になったりしないで、存分に思っていることを書く、方胆文は文章を書こうとする人のまず目標とすべきものであろう。」という。「とにかく書いてみよ」と(85-86p)。
もう一つ知らない言葉が出てきた。「擬古文」である。「文章を書くときに、もし新しい流行のことばと古くからの耳なれたことばのどちらかを使おうかということがあったら、迷うことなく、古いほうのことばを使うようにすべきであろう」と(94p)。
ごく短い文章で表現する場合について「“話は中途から”というのも、その円をどこから描き始めるかということでしかない。ただ、これが思いのほか大きく効果に影響するからバカにならない。」らしい(100p)。
結論から書くことは聞くけど中途から…は参考になった。あとで試してみたい。
さらに知らないキーワードが出てきた。「絶句」である。東洋にある文章の構造について、漢詩の五言絶句、七言絶句の作法にいう起承転結があるという。この「絶句」とは四行詞のことらしい。その各行に起承転結をあてるという。(101p)
文章を確認する作業に「声を出す読み返しをしていて、もし、ひっかかるところ、読み違えするようなところがあれば、それは文章に何か欠点のあるしるしであるという。二度、三度読んでみて、おかしいところを発見し、書きなおさなくてはいけない。自分の書いた文章がなだらかに読めないようでは、他人が読んでわかりやすいわけがない」という(109p)。
「他人が読んでわかる文章を書きなさい」、この言葉、なんど指導教官からいわれたことだろう。厳しく注意された。特に中国近代の文語文には…。それを日本語に置き換えるとき日本語の文章として成り立つか指導された。文語文は、「、」も「。」もほとんどなく、段落もない。まして書物もマイクロフィルムからの複製本で持ち出し禁止。印刷不鮮明とあって解読にはくたびれ果てた。それがなんと17年間分もあり、一生翻訳し続けても仕切れない…とため息も出て…。さらにその字は繁体字であり、今の口語文の文字ではない。また、どこまでが一つの文章かまるでわからない。ただ漢字が連ねられているだけ。思い出しても仕方のないコトかもしれない。それなのに思い出してしまった…。でもそれも懐かしく、楽しい思い出だ!
欧陽修は「文章の着想を得るのに最もよい場所は三上だというのである。三上とは鞍上、枕上、厠上。」だと(119p)。いわれてみれば寝ているときなどいいアイデアが浮かんでくる…。
「書くのはすぐ書く。読み返すのは、なるべく時間が経ってから――これが文章の心得。」らしい(125p)。
さらにもう一つ「ピグマリオン効果」も知らなかった。願えばかなうという意味だとか。(158p)
筆者の結論として「文章に上達するには、平凡なようだが、とにかく書いてみる。そして上手になりたいと願いながら、努力を続けることである。そうすればいつのまにかうまくなっている。ピグマリオン効果は単なる空頼みではない。」という(160-161p)。
筆者のいうようにこれからもせっせとブログに投稿しよう。文章上達をピグマリオン効果に託して…。
それにしても入力に長く時間がかかってしまった。先週遅刻したので今日は何が何でも時間までに行かなくては・・・。フルートのレッスンが待っている…。
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