2011年10月12日水曜日

『日本の活路』

渡辺利夫、三浦朱門『日本の活路』(海竜社、2009年)を読んだ。これは先日広島で開催された拓殖大学のオープンカレッジでもらったものである。読んでみると先日の渡辺氏の講演内容が更によく理解できた。

『日本の活路』と題されている本だが、その頭には「どうする気鋭対論どうなる」がついている。さらに本の帯の「活路」の周りには「政治力、軍事力、外交力、経済力、教育力」が書いてある。その「五つの国力」から日本の進むべき路とは何かを三浦朱門と渡辺利夫が解き明かし、論じたのが本書である。

まず日本の政治力については三浦の奥さんである曽野綾子は前ペルー大統領フジモリ氏を日本でかくまったことから話し始める。そのときフジモリについて相談した人が渡辺氏という。だが結果的にフジモリは日本を離れペルーに住む。彼は日本人ではなくペルー人だと…。「家」よりも「国」が大事な日本人だというのである。

三浦は渡辺にフジモリについて相談した理由を「日本では外国語を勉強する人は、外交官からはじまって、往々にしてその国のファンになってしまいます。…中国語をやると中国が一番いい国となってしまう。しかし、渡辺先生だけは、国際関係論を学んでも、いつでも基軸が日本にある。朝鮮半島でも中国大陸でも、日本という基軸でものを考えることができる。」という(14-15p)。

30年近く前、初めて中国語を学んだ。三浦のいうように当時は相当中国にのめりこんだ。短波のラジオを買って北京放送を聞いたり、便りを出したり…。その果ては初めての海外である中国旅行から続けて4度も中国ばかり行った。それくらい中国にのぼせていた。だが今では中国を知れば知るほど…。

渡辺は日本の歴史を特徴付ける用語法として「多様性」をあげている(24p)。それは「地方分権的で、多様な、あるいは『多中心的な』社会であったがゆえに、日本の力は非常に強く、しなやかなものになった」と考え、「日本はヨーロッパにも対抗できるような力になり得た」という(25p)。それには明治維新と廃藩置県があった。その辺りは韓国の「ソウルへの一極集中」と違うという。

だが日本が多様な存在から成り立っているという見方も表向きであって、「日本全体を他国と比較してみた場合の決定的に重要な特徴は、それが『同類社会』であったこと」という(36p)。

戦後アメリカが持ち込んだとする日本の民主主義についてそうではないと両者はいう。渡辺は幕末の「公儀輿論」が民主主義の出発点であり、五箇条のご誓文の「万機公論に決すべし」につながるという。この「『万機公論に決すべし』というのは、民主主義、立憲政治の根本ですし、それがさらに枢密院や貴族院の廃止に伴う普通選挙へ、という流れになって日本の近現代史を貫いていきます」(41-42p)と述べ、こうして日本が民主主義化していくプロセスのベースは既に江戸時代にあったという。

冷戦が崩壊後、世界各地で他を抹殺して自分のみが生き延びようという姿がある。旧ユーゴスラビアの7つの国への分裂などがあり、中国も同じく分裂の可能性は大だという(49-50p)。

今の大きさにまで中国の版図を築いたのは大清帝国であり、それをそのまま中華人民共和国が引き継ぎ国家(nation)の観念を導入した(51p)。

その中国は世界の屋根といわれるチベット高原を人民解放軍は完全に制圧しようとするがそれは容易ではないという。すなわち「帝国維持コスト」が掛かりすぎ、それに中国は耐えられなくなるというのである(52p)。

台湾についても「小なりといえども、あれほどの成熟した国、技術力を持った国を同質化しようとする場合のエネルギーには、膨大なものがあります。」と述べている(53p)。だから、中国の分裂という厄介な問題が日本の周辺にはあるという(53p)。

軍事力については今の中国の取っている覇権的行動が政治でいう「フィンランド化」現象であり、東南アジアで起こり始めているという(88p)。

この現象についてはよく知らないので後で調べよう。

その東南アジアは1600年代、世界の物産が行き交う世界的物流の海洋であった。それを上手く表現する言葉として「物を作るのはイギリスと日本、作ったものを売りさばくのはアラビア商人と中国商人」がある(119p)。

その東南アジアを日本は戦後賠償をODAや留学生受け入れで援助した。だから東南アジアの対日好感度は高いらしい(121p)。

そんな日本は政策と思想が貧弱となりポピュリズム(大衆迎合主義)に陥った。そして安全保障という学界は人気がなく、あらまほしき秩序を描きたいという国際関係論とか国際政治学や国際経済学は「東アジア共同体」を中国と一緒にやろうと秀才たちが呼びかけることに警告を促す。それよりもむしろ安全保障の問題を論じて日本は東アジア共同体に飲み込まれるなと警告する(130-131p)。

さらに渡辺は「ポストモダニズム」に対してもその幻想から脱却せよと呼びかける。「アジアの国々に対する日本人の理解を妨げているのは、じつはそういうポストモダニズムの感覚です。アジアというと何となく親近感を覚える。お互いに理解し尊重し合えば日本とアジアの関係はうまくいくと、はなからそう思ってしまう。これこそ異文化理解を妨げる最大の要素です。」と(140p)。

それを表現して渡辺は「『アジアは一つ』(岡倉天心)に対して、『アジアは一つひとつ』、あるいは『アジアは一つずつ』」だと氏の造語で述べている(141p)。

経済力からは中国人のもつものの考え方に対して「権威に対して従順であろうとする傾向がある」という(148p)。それを三浦は何でも他の国のモノをコピーする加工貿易の国だと(149p)。だから渡辺は中国経済脅威論に根拠はないとする(146p)。

教育力からは教育について渡辺は「文章の磨き方」という講座を学部開設以来持っているという。それには「すべての学問は、数学であれ、物理であれ、その元にあるのは表現したり読み取ったりする言語能力だろうと思います。」と言語能力に対する危機意識をもっている(195p)。

渡辺氏は言語能力云々がいえるだろうと思う。これまでも著作物に対していろいろと受賞している人だ。

教育については学界・官界に今も根を張るマルクス主義を非難する(201p)。それについては『新脱亜論』(文藝春秋)で書いたようで早速読みたいと思っている。マルクス主義の発信源は東大らしく、文科省に対しても地方を監督・指導する強い権限を与えよという(208p)。

この本を読んで日本のことを知っていないと改めてよくわかった。それも仕方がない。何といっても体育に次いで歴史が嫌いだったから…。嫌いな歴史でも興味がある時代は近代である。歴史を理解するにはその辺りから読んでいくしかないのかも…と思う。それにしても遅まきながら嫌いだった運動と歴史に目覚め、水泳と中国近代について張り切っている。そう考えるとこれからどんなことに関心が向いていくのかヒトゴトのようにワガコトが楽しみだ。

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