2020年9月11日金曜日

『菜の花の沖』(五)

 今日は最高気温29度の予想でやっと秋、になるのだろうか。 

 以下は『菜の花の沖』(五)(司馬遼太郎 文藝春秋、2012年第10刷)の気になる箇所からの抜粋。今は『菜の花の沖』の最終巻(六)を読んでいる。これを読み終えたら次は何を読む!?この1年9か月の間、かなりの司馬作品を読んできた。だが、司馬作品は読めども読めども多すぎて全作品を簡単には読み終えられない。自分の生きている間に全作品を読み終える。これが我が最大のライフワークとなった。これほど引き付けられる本と出合って本当によかった、と思う日々。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★日本には、「元和偃武(げんなえんぶ)」というものが生きつづけてきた。元和元年(一六一五年)五月、大坂夏の陣がおわって、ほどなく幕府が申請して年号をが元和とあらためた。元和とは唐の憲宗のときの年号(八〇六~八二〇)を太平の吉例として借用したものだが、ことばとしての意味は「大いに和らぐ」ということである。家康が漢学者(林道春であろう)に文字をえらばせて偃武(武を偃(や)める)という二文字をつけて諸大名のあいだに流行させた。これが、一種、非成文の憲法のようになった。

 以後、武器の進歩はその時期の段階でもってとどめられた。嘉兵衛のこの享和元年(一八〇一年~一八〇六年)までいっさいの武器の性能、数量は凍結されるという奇跡の歴史がつづいた。関船は、戦国までの戦闘用の船であった。それをもって「武官」松平忠明が、ロシアの南下圏の最前線にゆくのである。24-25p

★同書(ゴローニン『日本幽囚記』井上満訳・岩波文庫)には、ロシア海軍の艦長ゴローニン少佐の日本での運命に、決定的なかかわりをもった艦長リコルド少佐の「手記」も合わせてのせられている。リコルドが、「タカダイ・カヒ」とよんでいた、高田屋嘉兵衛は、どういう状況下でも、言葉にうそがなく、快活で度量が大きく、聡明な人物とされている。さらには、名誉を守るために「敵中」で死を覚悟しつつ、「敵」とともに自爆しようと考えたりするが、やがてロシア人の中に信義を見出すと、逆にかれらを救う立場になったとき、深い友情と信義で最後までつらぬいた人物としてえがかれている。

 私には、そういう嘉兵衛にも興味があるが、かれをつくりあげたこの当時の船と航海と商業について、それ以上に関心があった。39-40p

★「蝦夷地開拓」というのは、産業の感覚がなければできるものではなかった。結局は、かれらが、現地においてたまたま発見した嘉兵衛という船頭が、その点でみずみずしい感覚をもっているのを知り、さらにはエトロフ島の場所をみごとに成功させたのをみて、「ネモロ(根室)とホロイムズ(幌泉)の二つの場所もやってくれぬか」とたのみ、嘉兵衛ひとりにおんぶするかたちになった。45p

★一七一三年、同じ形式で、コサックの五十人長ワシリイ・コレソフという者が、はじめて千島列島の一部にはいり、原住民に毛皮税を課した。要するに、江戸期を通じ、ロシア人にとってシベリアおよびオホーツク海域での進出は、原住民をおどして毛皮を取り上げることを主目的とした。強大な勢力(例えば清国)とは対決を避け、もっぱら交易を持ち掛けた。領土所有欲が先行したわけではなかった。68-69p

★海にあこがれたピヨートルは、一七〇九年スウェーデンとの闘い(ポルタヴァの戦い)に勝って、ネヴァ川の河口の低湿地を得た。沼沢と森林だけのこのまったく無人のデルタに、首都をきずき、彼自身の名をとってペテルブルグ(のちレニングラード)と名づけた。71-72p

★べーリングは第一回の探検(一七二五~三〇)においては濃霧その他のためにアメリカ大陸を見ることができなかったが、それから十一年後、第二回目(一七三三~四三)の探検でアラスカ海岸を見た。かれの名は、ベーリング海峡という呼称のなかで残った。73p

★アトラソフは、イーチャ川の河畔までやってきて、そこで、原住民に抑留されている異邦人伝兵衛を見た。のちにアトラソフは彼をモスクワにつれていき、さらにピヨートル大帝がかれを引見するにいたる。つまりはロシア帝国が伝兵衛において「日本人」というものを見た記録として最初の事件なのである。77p

★ピヨートルは、伝兵衛に国費による日本語学校をひらかせた。その後、ロシアにおける日本語学校は、断続し、漂流民を得るごとにそれを教師とした。82p

★親切は、人間にくらしの日常のなかで、さまざまな数奇を生む要素かと思われる。ふつう日本社会にあっては軽度な親切はあっても、身を破滅させるほどにそれをつらぬく例はすくない。ラクスマンの人柄のなかには、この不思議な感情の液体が多量にたたえられており、光太夫たちは漂流者であるためにそれに応えるべく、何の力ももっていなかった。ただひたすらそれを受益しつづけたのみであった。93p

★加藤氏(加藤九祚)は、二十世紀の在日ロシア人学者で、すぐれた民俗学と言語学者であったニコライ・ネフスキーの学問と生涯を研究し(著作の題は『天の虹』)、大仏次郎賞を得たとき、そのお祝いの会に、一群の初老の人たちがいた。抑留時代の氏の「部下」であった。その人たちの代表がスピーチしたとき、私の考えている氏のやさしい人柄が、当時からのものであることを知った。捕虜たちが、絶望したり、捨てばちになったり、不穏の行動を考えたりしたとき、加藤さんは、つねに同じことばを、真心こめてくりかえした。

 「皆さん。一人残らず、元気で日本に帰りましょう。そのことだけを考えましょう」まことに、十八世紀の光太夫に似ている。105p

★津太夫らは、世界一周をした最初の日本人たちであった。……仙台藩では、かれらを江戸愛宕下の藩邸に一時住まわせたが、このとき藩命によって大槻玄沢らが、かれらの見分録をつくりあげたのである。……「環海異聞」には、ロシア帝国が、かれら素朴すぎる仙台藩領の漂流民たちに対し、対日外交のてこにつかうためとはいえ、、いかに手厚く扱ったかについて、十分に触れている。173-174p

★ロシア語では以後、この陸地のことをサハリン(Sakhalin)とよぶようになった。満州語で黒竜江のことをSaghalienというが、この両語の酷似を見れば、ロシア語のサハリンという地名のおこりがおのずからあきらかになってくる。さらにいえば、ロシア人のシベリア制服と、その地の少数民族との接触の歴史も、この地名の中に押しつまって籠められている。239-240p

★ゴローニンは、目の前にいる林蔵が、この幽囚の時期( 一八一二年)から十一年前に千島を踏査し、また四年前に高田屋嘉兵衛の持船貞宝丸(弟の嘉蔵指揮・千五百石積)で樺太にわたり、陸路北上してついに樺太が大陸から離れた離島であることを発見したことを知らない。このことについてクル―ゼンシュテルンが、後年、林蔵の業績を知って「我、日本人に敗れたり」といったといわれる。林蔵はすでに間宮海峡の発見者であった。392-393p

★嘉兵衛に欠けているものは、業欲というものであった。業欲以前に、金銭についてのごく一般的な欲望もすくなかった。……「あの男は違った男だ」と、幕府の箱館の駐在者も、松前(福山)の駐在者も、おもっていた。嘉兵衛を旋回させているのは、この男が持っている能力というものである。「能力」というものだけでは、世の中はまわらない。それは江戸、江戸封建制というものであった。399p

★嘉兵衛の本質に利という思想があったかどうか。かれの人間のさまざまな属性を洗ってその本質をみると、海と船が好きということになってしまうようであった。好きという日本語は、室町時代以後、数寄(すき・数寄)と書いた場合、マニアの意味をもつ。……しかし嘉兵衛はそういうマニアの性格はもっていなかった。「能力」だけが、嘉兵衛を旋回させているしんのようなものであった。それだけが嘉兵衛的事態でありかれが、まきおこしている状況であり、またかれの人生であった。406-407p

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